33年ネット諸兄姉どの(2025.11.24)
原書名 The Crime and Punishment of I.G.Farben.
出版社 The Free Press,A Division of Macmillan Publishing Co.,Inc 1978
訳書名 巨悪の同盟― ヒットラーとドイツ巨大企業の罪と罰 384page
原著者 Joseph Borkin(元米国上院軍需産業調査委員会の調査・研究員、40年年間にわたってI.G社の活動を追求し、本書を執筆した。本書は1982.3.10旭化成工業とダウ・ケミカル社とは、長年(1952年)にわたる合弁事業の解消を発表して化学業界を驚愕させた。本書の訳者佐藤正弥氏は、ダウ・ケミカル社の技術的支援を失って代替会社を求めて渡米中に紹介された上記書籍の同氏の翻訳(2001年5月28日原書房)である。
わたしは、安田信託銀行の銀座支店長時代、取引先旭化成ダウ・ケミカルの財務管理本部長として知遇を得、
同学先輩であることもあり、その後親しくお付き合いさせていただいた。同書を如水会報にも紹介したことがあるが字数の制限で満足のいく紹介ではなかった。今年、5月にみまかられた。惜別の心を込めて紹介する。
日本が石油を求めて南進したのに、ドイツは人造石油(石炭液化)製造により戦った。戦争の質が全く異なった。
第二次世界大戦末期にアイゼンハウアー将軍が、ナチの戦争遂行努力に対するIG社の寄与について徹底的調査のため任命した民間・軍事専門家集団は、同社の生産設備、研究、技術蓄禎,経済力の全面的集中化がなければ、ドイツは侵略戦争に踏み切れなかったとの結論を下した。著者は、6大染料企業の合同にIG社よる染料の形成にまで翻りつつ、英国による大陸封鎖で近代戦遂行に必須の戦略的物資を欠いたドイツの第一次大戦における敗戦を教訓として、同社がヒトラーへの戦争協力のためアウシュヴィッツ強制労柵計画へと踏み込み、敗戦後のニュルンベルク裁判へと歩んだ経緯を概観する。
・ドイツにおける染料工業の誕生
1856年になるまで、衣服、家屋、さらに美術品に色彩をもたらす染料は、総て昆虫、樹皮、草花、漿果 (トマト 、ブドウ、イチゴのようなぎ果実)、動物の 臓器、卵類といった天然物に依存していた。1856年、ロンドン・ ロイヤル・カレッジ ( the Royal College in London )の18歳の化学専攻学生ウィリアム・ヘンリー・パーキン (William Henry Perkin)が、合成キニーネ研究のためコールタ―ルで実験中に取り分け 貴重なある物質を発見した。キニーネではなく、鮮やかな紫色の液体でバーキンの試験菅に満ち溢れていた。このアニリン染料の発見で、新しい産業が誕生したのである。(中略)
・ドイツにおける染料工業の誕生
パーキンのこの注日すべき発見は、単なる偶然によるものであったかもしれないが、彼はその発見に秘められた限りなき可能性を読み取る非凡な才能に恵まれていた。特許出願の後、彼は工業化への途を拓くため工場を開設した。しかし、彼は先駆者の宿命ともいうべき苦難を運命づけられていた。この発見がもつ独創性と産業上の可能性のいずれをも、同じ英国の人々は十分に理解しなかったからである。 しかしながら、ドイツ人は合成染料がもつ大きな将来性を認めていた。ドイツから渡英した科学研究者で実業家の人々は、長期間滞在して存分に新技術を学び、それを身につけて母国に戻ったのである。
これらの人々が身につけて持ち帰った知識は、まさに産業上の奇跡に他ならなかった。ドイツ人は廃棄物を宝に変える巧みなこつをもっていて、新しい技術を取り入れて、ル—ル ( R u h r )地方の鉄鋼生産から生ずる巨額の処理費を要する廃棄物のコールタールの山を新たに活気溢れる染料工業の原料として、非常に高価な製品に甦らせたのである。
・巨大企業帝国への歩み
20世紀の初めまでに、ドイツの六社が 頭角を現して 世界の合成染料の生産と販売を支配し、ドイツ国内と海外において、これらの各社は「六大企業」と認められていた 。そのうち次の3社が取り分け企業規模が大きかった。BASF,バイエル、ヘキストである。
第1章第一次大戦
1914年8月に勃発した大戦は、ドイツ軍のシュリーフェン(伯爵、旧ドイツ帝国陸軍参謀総長、シュリーフェン・プランについては「ドイツ参謀本部、渡部昇一著中公新書、S49(1974)年」に詳しい。)短期決戦計画が挫折し、西部戦線(映画しか見ていないが「西部戦線異状なし」レマルク(1928)が描く)は、膠着状態におちいり長期戦の様相を呈するに至っただけでなく英国海軍に制海権を握られて、火薬や肥料に不可欠の原料チリ硝石欠乏という事態に直面する。こうした事態打開のため、ドイツは毒ガスと合成硝石製造に化学工業を動員した.しかし、第一次大戰前には世界市場で圧倒的地位を占めていたドイツの化学企業も、戰時中の連合諸国における化学工業振興により戰後予期される国際競争への対処策として、デュースベルクの主導で1916年にドイツ染料製造業利益共同体を形成した。また、石油資源を欠くドイツの弱点克服のため、ハーパーのアンモニア合成法の共同開発者であるボッシュを頂点として石炭液化の研究が進められていた。1918年ドイツの敗戦で大戦が終わり、ヴェノレサイユ和平会叢で連合諸国、とりわけフランスがドイツの染料と窒素工場の破壊を強く要求したが、ボッシュがあらゆる手だてをもって、これを阻止するまでの動きが詳述されている。ボッシュが直面した難題は、ハーパーが必要とする高温と高圧に耐えられる工業生産規模の設計と建設であった。このよう こう高温と高圧を利用可能とするには反応促進触媒の発見と巨大装置が損なわれない合金の創出が必要であった。
ここで原著に触れておきたい。
「1909年に、 B A S F社の助成金に交えられて、カルルスルーエ 工科大学教授フリッツ・ハーバーが、科学的研究面で画期的成功を遂げていた。非常な高温と高圧を駆使して、ハーバーは大気中の水素と水からの 水素を結合してアンモニアの合成に成功したのである。現役生活が晩年に近づいていたブルンクは、目をかけていた春秋に富む34歳の冶金技帥カール・ボッシュに工業化の仕事を委ねた。彼が、ハーバーの研究成果に秘められた桁外れに重要な意味を真っ先に理解した一人であったからである。技術面でボッシュはこの任務を立派に成し遂げると、ブルンクは 信じて能わなかった・だが、 B A S F社の取締役会は、技術的に未知数の分野への投資案に対して 疑問を投かけていた。 34歳で実地 経験の少ない一介の技術者にこの重要な責任を委ねるのは、決して事業上の賢明な 意思決定と は見ていなかったからである。しかし、ブルンクの提案は否決されることはなかった。彼は今回の新規事業をかっての合成インジゴ 開発の賭けに匹敵するものとしていた。取締役陣は黙してブルンクにしたがい、 投資案は決定されて実施に移されたのである。ボッシュが直面した難題は、ハーパーが必要とする高温と高圧に耐えられる工業生産規模の設計と建設であった。このよう こう高温と高圧を利用可能とするには反応促進触媒の発見と巨大装置が損なわれない合金の創出が必要であった。
ボッシュは新工場の立地として、ルートヴィッヒスハーフエンの B A S F本社近傍のオバウ (Oppau)を選定した。 ブルンクの健廉が次第に 衰えてえていくだけでなく、 重役陣の支持を かろうじて得ているに過ぎない状況を十分に 意識して、ボッシュは使命感に燃え重責を担う人物にふさわしく研究に没頭した。技術的に困難な 諸々の課題が山積して研究費が嵩むとともに、取締役会は 益々苛立ちの態度を示した。1912年にブルンクが他界したので、ポッシュの抱える 問題は困難の度を加えたが、1913年の秋に予定より 早く目的を 達成した。オバウ工場が完成して操業に入り、合成アンモニアの大量生産を開始した。工学マクロ力学に関するボッシュの偉業は、第一級の工学技術上の業績として全世界に認められたのである。 やがて、科学界では「ハーバー・ポツシュ法」 (” Haber・Bosch process” )と呼んで、ボナシュにハーバーとほぼ対等な地位を与えた。一人の技術者にとって、これは純枠料学分野からの並々ならぬ賞賛とも言えることであった。その結果20年後には、 この業績でボッシュにノーベル賞が授与されたが、これは技術者としては初めての受賞であった。
B A S F社にとって巨額の収益実現を確実にするものと見られていたので、ボッシュは同社の 職階組織幹部のなかで手腕家の人として 頭角を現し取締役に選任されて、同社における将來の指導者たる地位を間違いなく約束されたのである。」
余談になるが 戦争犯罪人裁判の問題についてふれる。
1919年の秋、(中略)ヴェルサイユ条約調印後初めて戦争犯罪人の問題が、新聞の第一面記事なっていた。この問題は、 たまたまストックホルムのノーべル賞委員会 ( the Nobel Prize committee)が火種となっていた。同委貝会は、フリッツ・ハーバーがアンモ二ア合成法によってノーベル化学賞を受賞した旨を発表した。 世界の科学界は激しい怒りをもって反発した。
英国でのネイチャー (Nature) 評論が代表である。この 評論は、「イーブル会戰に先立って、枢密顕問官ハーバ—が毒ガス実験を行ったのは、科学振興のためのカイゼル・ヴィルヘルム研究所であり、イーブル会戦で一つの戦闘方式が初めて採用されたが、この戦闘方式が永久にドイツ軍の名誉を失墜させる事件であることは忘れられないであろう」と、述べている。(この問題は戦争犯罪人とはだれかという問題に発展し、連合国側から900人の名簿がだされた。ドイツ国皇帝、ヒンデンブルグら、ハーパーも入っていた。結局45人に絞られたときにはハーパーの名前は消えていた。)
第2章 大戦後のドイツとボッシュの夢
連合国側が戦時中没収したドイツの工業所有権は、ヴェルサイユ条約で返還の必要なしとされた。しかし化学工業の生産では特許に加えてノウハウが重要であり、デュポン社によるドイツ人化学者の引き抜きが行なわれた。こうしたなかで大戦後の賠償問題、大戦後激化する国際競争への対応策として利益共同体をさらに進めて、1925年12月にI.G.染料工業株式会社が設立され也 こうして発足した同社は人造石油(石炭液化)事業へと進出し、石油資源枯渴を懸念するスタンダード石油と水素添加法について提携を進め、石油化学分野での共同研究開発を目的として、1930年に折半所有合弁会社ジャスコ社を設立した。なお、これに先立ち、「I.G.社は石油事業に進出せず、スタンダード石油は化学事業にかかわらない」との契約条項実施のため、スタンダード=LG.社を設立し、スタンダード石油のティーグル社長が、アメリカンI.G.化学会社(後に、ジェネラル・アニリン・アンド・フィルム社(戦後、この会社をめぐって15年間の訴訟が行われる。)に改称)の取締役に就任した,この章ではこうした動きについて詳述している。
第3章 IG社の動きでヒトラー開戦を決意
水素添加法による人造石油事業は、IG社内で反対はあったが、ボッシュの主導の下で推進されていたIG社は多国籍企業であり、ユダヤ系の役員や科学者が多いだけでなく、1933年にヒトラーの政権掌握当時、同社社長のボッシュが産業界で代表的反ナチ主義者であったため、IG社は非アーリア系企業とされていた。しかし、自給自足計画に基づく軍事強国を目指すナチ政権と人造石油事業を推進するI.G.社は次第に相互依存関係を深め、IG社がトラックや航空機のタイヤに必要な合成ゴム製造へと事業を展開する軍産一体化へと進む動きについて、著者は詳述している。
ここで、原著のユダヤ人をめぐるヒットラーとボッシュのやり取りを紹介しておきたい。
IG社のヒトラー支持は、今や公然の事実となったのである。
(1933)3月5日の選挙で,ナチ党は前回の選挙に比べて善戦した。同党は550万票を獲得した。この得票数はドイツ国会で過半数の議席を占めるには足りなかったが、連立政権において、ヒットラーが首相の地位を維持するには 十分であった。 選挙後間もなく、ヒットラーとボッシュは初めて会談した。この会談は 順調に運ぶものと初めは思われていた。政府が人造石油事業を全面的に支援する旨の揺るぎない保証を、ヒットラーに与えたので、ボッシュはロイナ工場の拡張に同意した。ドイツにとってガソリンの自給自足は、ヒトラーとボッシュの二人の共通目標であった。それからボツシュは、 IG社の同僚が触れないようにと強く注意を促していた話題に移ってしまった。万一、ユダヤ系の科学者が国外退去を余儀なくされるならば、ドイツの物理学と化学は100年の後退をするであろうと、ボツシュはヒトラーに警告した。ボッシュにその先を 言わせずに、「それならわれわれは物理学や化学なしで100年間 努力しょう。」と、ヒトラーは大声を上げた。ポッシュが話しを続けようとすると、ヒトラ—はベルを鳴らして副官を呼び、故意に無礼な 言葉でで、「枢密顧問官はお帰りだ」と告げた。
第4章 ヒトラー政権下でのIG社とスタンダード石油の提携
1930年代半ば、IG社は、提携関係にあるスタンダード石油とG.M.との合弁企業エチル・ガソリン社から航空用ガソリン添加剤として不可欠の四エチル鉛製造技術を導入して工場建設を進めていた。しかし、工場建設の進捗状況から見て、ドイツはヒトラーの東欧侵攻を目前にして、航空ガソリン添加剤として不可欠である四エチル鉛の不足問題に直面する。この問題を理解したIG社の経営陣は、カルテル形成の相手企業スタンダード石油の斡旋でその系列会社であるエチル輸出会社からの輸入交渉に成功する。これがミュンヘン会談で、ヒトラーの立場を著しく強めた。
39年9月、第二次大戦が勃発する。その前後からIG社は在米資産や特許権などの没収回避策を講じつつあったが、41年12月日本海軍の真珠湾攻撃で第二次大戦が世界中の全面戦争へとエスカレートするに至って、米国司法省独占禁止局は、同年初頭から進めていたIG=スタンダード石油間の協定について、独占禁止法違反行為として追求を強化していった経緯について、著者は詳述している。
第5章 欧州化学工業の乗っ取り
ナチ政権との軍産一体化に踏み切ったIG社は、ヒトラーの近隣諸国侵攻に合わせて、勢力拡張のため近隣諸国において化学企業の乗っ取りを行なった。オーストリアのスコダ・ヴェルケ・ヴェツラ一社、チェコスロヴァキアのアウシッヒ連合、ポーランドではボルータ、ヴォラ、ヴィニカの染料企業3社である。乗つ取り後は、ユダヤ系の経営者や技術者を追放し、ポーランドのアウシュヴィッツでは強制労働体制への第一歩を踏み出していた。
1940年6月、ヒトラーはフランス総攻撃を開始、同月22日にフランスは無条件降服し、休戦協定成立後、フランスの染料企業を統合するフランコロ社が設立された。同社の持分をめぐって、フランス染料業界とIG社は、互いに51%を主張して譲らなかった。しかし41年の夏に至り、フランコロ社監査役会は仏独双方同人数とし、社長はフランス人、持分はIG社が51%、その代わりにIG社が自社株の1%をフランス側に譲渡することで決着をみた。それまでの経緯が詳述されている。なお、ボッシュは、フランスの敗北は近い、しかし、これも束の間の勝利の喜びに過ぎないとの予言を残し、ドイツ軍のフランスへの侵攻開始2週間前に他界したと、著者は言及する。ボッシュは1940年4月26日、満66歳を待たず死去した。
第6章 奴款的強制労働と大量殺截
フランス降服の1年後、ヒトラーは対ソ戦争を敢行、東西両面作戦の展開に踏み切った。これにより既に着手されていたIG社のアウシュヴィッツ計画推進が、同社の東方への勢力拡張だけでなく、ドイツの戦争遂行上不可欠のプロジェクトとなった。この章では、著者はナチのユダヤ人絶滅計画の一環として進められたアウシュヴィッツ建設作業の実態を詳述している。IG社アウシュヴィッツ事業プロジェクトは、9億ライヒスマルクを投資し、幾多の人命を犠牲にしたにもかかわらず、僅かな量の人造燃料を製造したにとどまり、ブナゴムは全く生産されなかったので、無惨な失敗に終わったと、著者は指摘する。
IG社のアウシュヴィッツ計画で最大の失策は労働力確保のために強制収容所を設置したことである。
I G社による 強制収容所の設置の原文
「在監労働者が、I G社アウシュヴィッツ設備建設で最も厄介な間題となっていた。在監 労働者の各分団は、酷暑の夏と厳寒の冬を 通じてずっとアウシュヴィッツ 中央収容所から I G社の建設現場まで四マイル以上も追い立ててられるように連れて行かれた。監視官が足りないので「在監労働者の脱走防止が問題であり、在監労働者を連れ出せるのは日中に限られ、したがって日没 後に収容所へ戻らなければならない。 朝霧の深い時は収容所から出るのも許されない」という結果になっていた。
病気、栄養失調、作業の速さ、加えて親衛隊監視 だけでなく監督囚人の残忍性が多数の死者をもたらす原因となっていた。I G社の強制収容所として選ばれた場所はモノヴィッツ(Monowitz)と呼ばれていた。この独自の施設運営に当たっては、在監労働者の住居、給食、健康については I G社の責任とされ、親衛隊には在監労働者の脱走防止と処罰、それに補充が託されていた。
モノヴィッツは1942年の夏に完成した。この旅設は I G社に所属していたが、探照燈付き監視塔、警報サイレン、射撃準備された機関銃、武装監視官、さらに良く訓練された警察犬といった典型的なナチの強制収容所の全装備を備えていた。収容所全体は通電した有刺鉄線で取り囲まれていた。「たち姿勢独」といわれるものがあり、そこでは在監者は 跪くことも横になることも出来なかった。絞首台もあり、多くの場合一、二の死体が吊り下げられていて他の在監者への冷酷な 見せしめとされていた。アーチ型の正門の端からの端までにアウシュヴィフツ強制収容所の「労働は自由をもたらす」という標語が掲げられていた。」
第7章 敗戦を迎えたIG社
1944年5月に始まる連合国空軍のIG社ロイナ工場爆撃により、人造石油工場は次第に麻痺状態を余儀なくされて行く。戦局がドイツにとって絶望的事態に立ち至ると、ナチ党員の中から、IG社の開発した神経ガス(タブン)による敵の拠点や各都市の攻撃をヒトラーに強く迫る声が上がり始めた。しかし連合国側からの報復を懸念して、ヒトラーは思いとどまった。こうした情勢下で、ドイツ敗北を予感していたIG社の経営幹部は、アウシュヴィッツ計画に関する記録文書の大部分を含めて保存書類の焼却と裁断を行った。しかし、残されて連合国側が手に入れたものだけでも、残酷極まりない状況を示すものだったと、著者は記述している。
連合国軍の I G社工場空爆の原文を紹介する。
「1944年5月12日はドイツと I G社の運命を決する 日となった。その日、合衆国陸軍第八航空部隊の爆撃機935機がドイツ上空に飛来して人造石油 工場を爆擊した。 そのうちの200機は I G社ロイナ工場だけを目標としていた。
空爆の翌日、ドイツ政府の兵器・戦時生産相アルペルト・シュペ—アはビューテフィッシュ(ボッシュの部下、親衛隊の大佐)とともに 被爆破壊されたロイナ工場を視察し、現場を目にして同生産相は「科学技術戰争は決着がついた……ドイツにおける兵器生産の終わりを意味する」と、自ら悟ったのである。シュベーアから見れば、それは大戰の命運を決する分岐点であった。」
第8章 IG社のニュルンベルク裁判
大戰終結後の1945年10月、ドイツの戦争犯罪人を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が開始された。ヒトラーに協力したドイツを代表する実業家も別の国際軍事法廷で裁かれる予定であったが、連合国4ケ国間の足並みが乱れ、実業家の裁判は各連合国の占領地域に委ねられた。連合国のなかで米国が最も積極的であり、1947年5月にIG社訴追検察団は、同社監査役会長カール・クラウフを含む24人の経営幹部を起訴した。主要な訴因は、「侵略戦争の計画、準備、先制開始と他国への侵攻」、「略奪と破壊」、「奴糠的扱いと大量殺裁であったが、奴識的扱いと大量殺裁の告発に最も重点が置かれていた。この種の栽判は勝者側の正義を意味すると強く主張する多くの法学者や政治家によって疑念が持たれていただけでなく、米ソの関係が冷戦状熊に陥っていくと、米国議会ではこの裁判を非難する声もあったが、47年8月に至りニュルンベルク大法廷で裁判が開始された。この裁判に関しては、尋問、反対尋問、答弁をまじえ、さらに各被告人の有罪の論理構成について詳述されている。
第9章 平和を手にするIG社
緒論で既に述べられているように、大戦末期にアイゼンハウアー将軍が任命した民間・軍事専門家の調査団は、人造石油と合成ゴムの発明と生産に始まり、IG社の国際カルテルに至るまでの事業活動のあらゆる面を詳細に分析し、同社がドイツの戦争遂行努力にとって不可欠の存在であったとの結論を下した。当初米国占領軍政府は、米国占領地域内のIG社諸施設を47の独立事業体に分割を進めていたが、東西冷戦という事態に直面して、IG社の解体は一時延期された。
49年6月に連合4ヶ国による軍政が終わり、米、英、仏の文官で構成された西側連合国高等弁務官府が設置されると、旧I.G.社株主は株主擁護委員会を組織して、IG社の各工場は、バイエル、BASF、ヘキストの3社に統合すべきであると要求した。東西冷戦下では、ドイツの産業復興を重要視して、過度経済力集中排除と非武装化を重要視すべきではないとの西側連合国の意向から、51年に至り西側連合国占領地域内の159工場は、バイエル、BASF、ヘキストを含む9社に分割された。なお、その後の3大企業体制への歩みについても言及している。
第10章 企業組織の隠蔽工作
IG社の歴史で、敵国政府から在外資産を隠蔽するための企業組織隠蔽偽装は、大戦中の大量殺戮や奴謙的労働への関与とは違って大戦前まで遡る。IG社企業組織隠蔽工作が、秘密裡に計画、実行されたので、その詳細の大部分はニュルンベルク裁判で検察団の追及を免れ、起訴状の記述は十分な検察側の調査を反映したものかどうか問題が残ると著者は指摘する。その上で、1944年ボッシュの没後、その後任としてIG社の最高責任者に就任したヘルマン・シュミッツについて、彼の出自、彼が第一次大戦中にメタル・ゲゼルシャフトの在外資産隠蔽で発揮しただけでなく、IG社に移って同社の在外資産隠蔽に発揮した手腕に言及し、スイスの持株会社IGへミー社を利用して実行に移した最も重要な在米資産であるジェネラル・アニリン・アンド・フィルム社隠蔽偽装工作を辿り、米国のハーディング大統領、ドゥハティー司法長官など政治家や政府高官、スタンダード石油を巻き込んだ裁判係争について、著者は詳述する。
第11章 ジェネラル・アニリン・アンド・フィルム社の奇妙な訴訟事件
第二次大戦の末期、IGへミー社は顧問弁護士の助言にしたがい、接収されたジェネラル・アニリン・アンド・フィルム社株式について、事態静観を続けた。これに対し,IG =スタンダード石油間協定のもう一方の当事者スタンダード石油側では、社内に時代の潮流が好転するまで「敵国」企業との関係を弁談すべきではないとの声もあったが、スタンダード=IG社およびジャスコ社の特許権と株式が敵国財産管理官により不当に押収されたとして、ニューヨーク州南部地区連邦地方裁判所に提訴した。1942年3月に敵国財産管理官が上記株式特眸権を押収したとき、スタンダード石油がこれらの正当かつ合法的所有者であったかどうか、スタンダード石油へのこれらの譲渡はIG社の隠蔽偽装工作であったかどうかというニ点が、裁判の争点であったパットン将軍麾下の第3軍の捕虜となっていたIG社最高法律顧問クニーリエムが米国政府側の証人として法廷で行った証言などを経て、48年4月、連邦最高裁判所が上告受理申し立てを全て却下し、IG社=スタンダード石油間提携の終焉をみた。
IG社側はこの判決に不満であったが、それ以上にインターハンデル社と改称していた IGへミー社では、45年12月の賠償会議で決定された各連合国内の接収ドイツ資産処分の動きを懸念していた。中立国スイスの賠償庁はインターハンデル社がスイス関係者により所有し運営されるスイス法人であるとの結論を下していた。このインターハンデル社の果たしてきた役割をめぐって連合国、とりわけ米国とスイスが対立した。その後、インターハンデル社がIG社の隠れ蓑であるかどうかについて、ダークセン上院議員、ダレス国務長官などの政治家や政府高官を巻き込んで各段階の連邦裁判所を行きつ戻りつする法的論争が15年間にわたりなされた。しかし、1960年初頭にケネディが大統領に就任すると、大統領の義理の兄弟ラジウィル公(ポーランド貴族)がインターハンデル社側の仲介役として登場して、議会、報道界、司法省事務当局のなかからの反対にも阻まれずに、63年12月、ジェネラル・アニリン・アンド・フィルム社の一般人への売却並びにその正味収入金を合意比率により米国政府とインターハンデル社間で配分する旨を定めた訴訟和解案に、米国司法省とインターハンデル社が署名し、64年4月、連邦地方裁判所のこの和解案承認により、この訴訟に終止符が打たれた。著者はここに至るまでの動きを詳述するとともに、その後の展開と反響にも言及している。
イチハタ