33年ネット諸兄姉(2025.10.13)
現在、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」(2004.1.30岩波書店上下)を読んでいる。ダワーは1938年生まれ。この本の時代は、「1945.8.15正午前から始まり、非軍事化と民主主義化という目標は捨て去られようとしている。敗北の教訓と遺産は多く、また多様である。そしてそれらの終焉はまだ視界に入っていない。」で終わっている。だいたいわたしが見た風景と一致する。
★以下は、NHK人間講座2002・6月~7月期、船曳建夫(1948生、人類学者、東大名誉教授)の解説にー天皇制存続に関する解説による。
「「抱きしめた」のは ?
『敗北を抱きしめて』は、そのラジオ放送を聞いた後の日本人が、敗北をどう受け止め、民主主義をどのように受け入れていったかを描きます。ダワーは、日本人は、敗北に絶望することも逆上することもなく、「平和と民主主義という理想は、日本に根をおろした」。しかし、その理想は「しばしば不協和音を奏でる様々な声となって現れ出た」 (上巻 6ページ )と書きます このことは日本人を臣民というモデルでとらえるときにはよく分かります 。s u b j e a (臣民 )という存在が持っている、王から何かしてもらうことで自分たちの安全と繁栄を図る、という、受け身的な態度がこの言葉の内容です Cその点では、その受け身的なところが、「平和と民主主義的な理想」が根付いた理由だということになります。しかし、 s u b j e c t (臣民 )とは、絶対王政下の人々のことで「民主主義下の臣民」というあり方には、原理的に不協和音が生まれざるを得ません ではなぜ、民主主義が現実というよりは理想のかたちで、上からおろされてきたときに、この不協和音が亀裂とならなかつたのでしょうか。ここには天皇のなりふり構わぬ 獅子奮迅の働きがあります。 具体的には八月 十五日のラジオ放送から始まる、一連の、天皇からの臣民へのアプローチです。
まず、 一九四六年一月一日に、天皇は俗に「人間宣言」といわれる紹書を発します。それはすぐに新聞に載り、天皇は現人神にあらず、と知らされます。天皇は、彼と臣民の結びつきは「単ナル神話卜伝説トニ依」るもの ではない、信傾と敬愛に基づく、と人々に迫ってきます。こうした詔書の 起草かどんなな人々 の組織の思感から出て来たとしても、非常事態に直接日本人にアプローチしようとした天皇の意図と、彼の政治に関する勘の鋭さがうかがえます。この詔書の最後は「朕の信頼する国民」と締めくくられています。まだ民主憲法の以前の明治憲法下なのに!
そして、天皇による巡行が日本中―といっても沖縄は除かれていますーで行われます。じつはこれは彼にとって 二度目の全国ツアーの体験です 。最初大正天皇の摂政の時代に、このときは沖縄をふくむ全国の道府県、台湾、樺太まで回っています。彼の心の中で、英国訪問のときに見た英国王室と国民との距離がモデルとなっていたに違いありません 。むしろ天皇になってからそうしたことは気軽には出来ず、与えられる「神格化」された役割は彼自身不満であったかも知れません。ラジオ放送から、人問宣言、全国巡幸、これは昭和天皇にとっては自らの思想的活動であり、それによって、臣民民主主義の本質的不協和音は亀裂とはならずに来たのです。
こうしたことは何も、新たに臣民となることが出来た「民」だけでなく、戦後になっても「臣 茂」、「臣 葵」と署名した一級臣民である吉田茂や重光葵(マモル)たちも、臣であり続けながら民主主義を受け止める側に役割を見出すことが出来たのです (重光に関して、下卷 18 ・20ベ ―ジ )。また全く逆の立場の指導者であった共産党の野坂参三も、―九四六年の五月のある集会で、人々の「要求を直接天皇に持っていく以外にないと、驚くべき発言を行った」 (上卷 355ページ )のです。
この戦後の臣民の誕生についてはもう一つのことだけを述べておきましよう。『敗北を抱きしめて』で見事に活写されている、マッカーサー元帥の役割です。彼がパーソナリティとして、また振るまいとして「帝王」であったこと、また 日本人が 彼を「われらの父」 (上卷 09ページ )のように遇したと言えましょう。
かくして、「菊と刀』で描かれた、臣と民は、天皇のラジオ放送により、「臣民」となり、「民主主義を約束する権威主義的な支配という逆説」 (上卷 302ページ )、すなわちマッカーサーと天皇という権威によって平和憲法を与えられました。ダワーは、そのとき、 日本人は、ただそれを載くのではなく、「抱きしめて」、 自らの民主主義とした、と考えます。しかし、その新しい憲法のもと、人々は、 p e o p l eの訳語、「国民」と呼ばれたのです。ですから、ここにある構図を、国民と臣民という 言葉で考えれば、マッカ—サ— =天皇が人々に国民と呼びかけたとき、人々の方は、マッカーサーには彼の郵便受けを何十万もの手紙で満たすことで、天皇には巡幸の沿道を歓迎の人波で埋めることで、臣民として応答したと いえるでしょう。」
・天皇制と民主主義とは、まったく相いれない概念ですが、マッカ—サ— =天皇は、この矛盾した政治体制を
結び付けてしまって、以来80年に亘りこの国を動かしてきた。そして1945.12.15日に国家神道は廃止されているものの、伊勢神宮へ天皇家が行くのはまだしも、総理大臣迄行くと云うのが分からない。
★2025.9.29-30「太平洋戦争はなぜ始まったか」(日本史七つの謎、1996.3.15講談社文庫)お送りしたが、
その中に外国人、ヨーロッパ系の人から見た日本国という一節がある。
6.外国人、ヨーロッパ系の人から見た日本国
森本 これは哲学の問題だろうと思うんです。ファーレフェルト(1928年生、西ドイツのジャーナリスト)という「一億人のアウトサイダ ー』(1969年、東洋経済新社、ベストセラー)という本を書いたドイツ人の友人がいるんですが、彼はこう言います。憲法9条というのがある。ここじゃ戦力の保有を禁止している。しか自衛隊はあきらかに戦カだ。ドイツ人としての観点から言えば、 憲法を改正するか、それとも 自衛隊を解散するか、どっちかだ。日本人はその両方をやらないで、なんとなくやってきている。これはドイツ人には、まつたく理解の範疇を越えると。
井上 昭和の初期から見ていると、いろいろな意見が出た場合、必ず併用というのが起きるでしょう。
大江 そうなんです。両論併記。
井上 これが自衛隊とつながるんじゃないでしょうかね。なんだか甲乙がきめられない。
森本 そういうときは必ず両論併記ですね。
政府の地震調査委員会は26日、南海トラフ地震の発生確率について、算出法を見直し発表した。複数の計算方法を採用し、今年1月の時点で30年以内に「80%程度」としてきた数値を、今後は「60~90%程度以上」または「20~50%」と併記する。一つの地震の発生確率を併記することは異例。
これに対して、非難が殺到しているという、しかしいくら考えてもわからにことに併記するというのも日本文化の一つだろう。
われわれ日本人は、「一億人のアウトサイダ ー」なぞと云われている。
★似たような例は、如水会報 2018.10 第97期一橋フォーラム21
明治維新150年 時代の開拓者たち 第3回渋沢栄一「論語と算盤で」未来を拓く 渋沢健
「と」のカと S D G S皆さんに、覚えていただきたい一文字があります。それは「と」で、渋沢栄一の思想を表現 していると思います。渋沢栄一が唱えているのは『論語と算盤』で『論語か算盤』ではありません。つまり「と ( a n d )」 です。「か ( o r )」も大切です。選別して進めることは効率性を高め、組織運営のためには不可欠な力です。しかし、「か」だけだと、既に存在しているものから選別して進めるというイメージです。それだけだと、新しい事は創り出せないイメージがあります。
一方「と」だと、一見、矛盾です。どうやって論語と算盤を一緖にするのでしょうか。人間は、順番をつけたがりますが、「と」は並立で、両方とも必要だと言っています。この「と」のカとは、人間しか持っていない想像力を使って、試行錯誤を繰り返し、新しい事を創り出すことではないかと思います 。私が思う「と」の力は、矛盾していることから、新しい物事を探し当てる想像力だと思います。
★最後に、船曳の意見は~
問題はこうした法外の法(及び理外の理)、が、ユダヤ人のように、「神」という人間を超えた存在としてあるのではなく、ましてや「律法」として書かれていないという点にあります。日本では、神ではなく自分たち「人間」が最上の価値なのです。そして、その「人間」は、観念として抽象化されてはおらず、常に現実の全てを取り払った、生身の裸の人間という 具体のレベルに立ち戻って 解釈されますので、予め言葉で書かれたりしていません。しかし、「人間らしさ」や「常識」は人によって違いますし、「読ま」なければならないその場の「空気」は、個人によって読み万が違ってきてもおかしくありません。ですから、 私たちはこのあいまいさゆえに、始終、ふだんの生活で、「それは常識でしょう」、「人問ってそんなもんじゃない」とたがいの常識と人間らしさをめぐって言い合いをすることになります。
とはいうものの、それでも、 日本社会は壊滅することなく動いていますし、むしろその安定さを指摘されることが多いのです。つまり、人問と常識と空気を正しく認識するために、 日本人は多くの時間を常識のすり 合わせのために費やし、かなりの程度まで、共通理解を獲得することに成功しているということです。逆に言えば、そうしたことの理解をこころの内に会得しなければ、「日本人になれない」、ということなのです。
船曳建夫は、山本七平がいう日本教(前述の空気、和の精神)などが日本の神道、教典の無い自然宗教から生まれたと云っているが、
わたしは、これまでの天皇と民主主義、両論併記、論語と算盤も、人間が最上の価値観も、それらを仲介する和の精神も日本の神道、教典の無い自然宗教から生まれたたと思っている。宗教的・政治的・歴史的イデオロギーに左右されない日本文化こそ、宗教的・政治的・歴史的イデオロギーに疲れた人々に迎えられるだろう。
イチハタ