33年ネット諸兄姉どの(2025.12.07)
漢詩解説(S26年平野彦次郎著、合名会社武蔵野書院)を読む。高校1年生、漢文の先生が担任になった。
記憶の底にある漢詩を拾ってみると以下のごとくである。なお、旧かな使いや、旧字はできるだけ温存した。
★五言絶句
①勧学 陶 潜(陶淵明)晋宋隋時代(365-427) 「帰去来辞」で有名であるが、わたしのように故郷がなくなった人間にはピンと来ない。
盛年不重来。一日難晨再。及時営勉勵₀歳月不待人。
我々の世代に叩き込まれた詩である。
②春暁 孟浩然(689年 - 740年)は、中国唐代(盛唐)の代表的な詩人。
春眠不覚暁。處處聞啼烏。夜來風雨声。花落知多少。
漢詩を学んだ人は誰でも知っている。
★七言絶句
③黄鶴楼送孟浩然之廣陵 李白(701年(長安元年) - 762年)盛唐時代の詩人杜甫と並び称される。
故人西辞黄鶴楼。烟火三月下揚州。孤帆遠影碧空尽。 惟見長江天際流。
④楓橋夜泊 張継(生年月日不詳、唐代の官僚・詩人)
月落烏啼霜満天。江楓漁火對愁眠。姑蘇城外寒山寺。夜半鍾声至客船。
秦の始皇帝のつくった万里の長城と並び称される、煬帝(隋の第2代皇帝(在位:604年 - 618年)の拓いた大運河を旅する途中、蘇州郊外での旅愁をうたった「楓橋夜泊」は優れた漢詩として知られる。
これも知らいない人はいないだろう。あちこちに掛け軸で見る。
★五言律詩
⑤春 望 杜甫(712年 - 770年)盛唐の詩人
国破山河在。城春草木深。感時花濺涙 。恨別鳥驚心。烽火連三月。家書抵萬金。白頭掻更短。渾欲不勝簪 。
安禄山の反乱時に詠った。敗戦時によく歌った。
通釈;国は攻め破られて滅びたが、山や河だけは昔の儘になつて居る。城中は春になつたので、見る人もないが、草木は時を得て生い茂つて居る。目分は此の哀れな時事に感じて花を見ても楽まず、 却て涙を流し、又故郷の人との別れを恨んで、鳥の聲を聞きても、慰むことはなく、却て心を驚かして居る。戦乱の総めに敵襲を報ずる蜂火は三ケ月にわたり、家人からの書面も、戦乱中で容易に来ない。偶と来れば萬金の値があるやうに、貴く思ふ.我が頭髪は白くなつて、掻いて見れば一段と短くなり、 全く簪をさして冠をかぶるにはたへられまいとして居る。 (簪は官途に仕へて冠をかぶるに用る)。
★七言律詩
黄鶴楼 崔顥(さい こう、? - 754年は、中国唐の詩人)。
⑥昔人己乗黄鶴去。此地空黄鶴楼。黄鶴一去不復返。白雲千載空悠悠。晴川歴歴漢陽樹。芳草萋萋鸚鵡洲。日暮郷関何処是。煙波江上使人愁。
通釈; 昔時仙人が黄鶴に乗ってこの楼に遊んだが其の仙人は己に去つて、此の地には塞しく黄鶴楼を留むるのみ。黄鶴はーたび飛び去って、再び帰り来ること はないが、 白雲のみは千年の長い聞、悠悠(長き形容) としこともない。我れは今此の楼に登って眺望して見れぱ、晴れた川(揚子江のこと)は、対岸の漢陽の樹木まで分明に見え、春の芳草は翻鵡洲に盛んに茂って居る。さて此くも広く見渡すことが出来るに就いて、我が郷関(故郷のこと)は何れの処かと、望んで見るが、日暮れのこととで,煙や波が江上に漲って却て人を愁へしめる。
代表作の「黄鶴楼」は唐代七言律詩の最高峰として評価されている。後に李白が黄鶴楼に登ったとき、楼壁に書かれたこの詩を読み、「これ以上の詩は作れない」と言ったと伝わる。Wikipedia
⑦香炉峰下新ト(ボクシ、占うこと)山居草堂初成、偶題東壁 白居易(772年-846年)は、唐代中期の漢詩人。代表作に「長恨歌」「琵琶行(中国語版)」「新楽府」[1]。選集に『白氏文集』[1]。白楽天(はくらくてん)の呼び名でも知られる[2]。Wikipedia
⑦香炉峰下新ト(ボクシ、占うこと)山居草堂初成、偶題東壁 白居易(772年-846年)は、唐代中期の漢詩人。代表作に「長恨歌」「琵琶行(中国語版)」「新楽府」[1]。選集に『白氏文集』[1]。白楽天(はくらくてん)の呼び名でも知られる[2]。Wikipedia
日高睡足慵起。小閣重衾不寒。 遺愛寺鐘枕聴。香炉峰雪撥簾看。匡慮便是逃名地。司馬仍併爲送老官。心泰身寧是帰處。故郷何獨在長安。
枕の草紙、清少納言の機知で有名
(通釈) 朝日は高く上り、睡も十分にしたが、 猶ほ起きるにはものうい。小閣の中で衾(フスマ。夜着のこと)・を重ねで寒さも恐れることはない。 (心も身も安らかな状をいう)。遺愛寺の晩の鐘は枕を斜にして聴き、 香櫨峰に雪が積れば簾を拳げてそれを見る。此の匡盧の山は、世間の名譽を逃るに都合のよい地である、司馬はの貶謫の官(左遷の官)といふが、なほ老後を送るには適した官である。此の如き次第で、心は泰く身も寧いといふのが、帰處(處はオチツクこと)即ち我が落ちつくべき慮で、故郷(落ちつくべき庭)、は長安の都にだけあるのではない。 (此の地も故郷と同様である)。
注;司馬は軍事の官であるが、唐の時代は左遷の官とされている。白居易は、左遷されて江州の司馬になっていた。
★五言古詩
➇去者日以疎。来者日以親。出郭門直視。但見丘典墳。古墓犂為田。松柏批薪為。白楊多悲風殺人。故里欲帰道無因。
通釈; 人の愛情は、別れ去って居れほ自ら日に疎遠になる。 相近づいて居れば自ら親しくなる。
さて郭(クルワー城外を郭と云う)の門を出て視みると、墓場が見える、その墓場も去る者には日に疎しで、人から 顧みられず、耕されて田と変じ、墓に植えた松や柏も伐りさかれて薪となり、白楊は残って居るが、悲風がそれを吹き動かして、粛粛と淋しき響きを立て、人を愁へしめる。此の如き次第であるから、我れは故郷に帰って人々と親しみたいと思ふが、帰らうと思うてもどんな道に因つて帰ったらよいか分らぬ。
★七言古詩
⑨垓下歌 項籍(項羽)
カ抜山気蓋世。時不利今騅不逝。雅不逝今可奈何。虞今虞今奈若何。
共に秦を倒した項羽は劉邦とは、雌雄を決せんと、BC202年、戰ひ、 楚軍敗れて垓下 ( 安徽省霊壁県の東南) 囲まれた。漢軍が 四面皆楚歌するのを聞いて,漢は皆 己に楚を得たか嘆息し、訣別の宴を開き、美人虞氏に対して此の詩を作った。「四面楚歌」は、今でも使われる。
⑩代悲白頭翁 劉希夷(りゅう きい、651年 - 679年)唐の詩人、琵琶の名手であったという。
洛陽城東桃李吃。飛末飛去落誰。洛陽女見措顔色。行逢落花長歎息。(略)年年歳歳花相似。歳歳年年人不同。(略)此翁白頭宜可憐。(略)
この詩は、「和泉式部日記」で触れた。再掲しておきます。
「昨年の大河ドラマ「光る君へ」では、「つながる言葉」という第30回で「あかね」(和泉式部、女優泉里香が演ずる)が藤原公任の自宅四条宮で北の方の主宰し、まひろ(この名前は創作である。籐式部、紫式部)が漢詩・和歌を教える「学びの会」に登場する。まひろが、和歌を歌う心構えとして紀貫之の有名な「人はいざ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」を読み上げ、この詩が劉延芝(唐代の詩人)「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 」(唐詩選)をベースにしたものという解説をしている。(この劉延芝の詩は「代悲白頭翁」と題する七言古詩である。わたしは高校一年の担任が漢文の先生だったので漢詩解説で、この全文を読んでみた。人の老いやすいことを詠じた詩である。」
⑪長恨歌 白居易
漢皇重色思傾国。御宇多年求不得。楊家有女初長成。養在深閨人未識。天生麗質難自棄。一朝在選君側。廻瞳一笑自媚生。六宮粉黛無顔色。春寒賜浴華清池。温泉水滑洗凝脂。(以下略)
大河ドラマ「光る君へ」を見ていても、源氏物語の解説を読んでいても、これは、長恨歌を根源としているのではないかと、うすうす感じていた。
白居易の新楽府(しんがふ→ドラマでも「しんがふ」と云っているように聞こえる。)を紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、清少納言は『枕草子』にて「文は文集[23]、文選、はかせ(李白のこと)の申文(白氏文集)」と述べ、紫式部は『源氏物語』「桐壺」のほとんど全般にわたり、白居易の「長恨歌」から材を仰いでいることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる[24]。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。Wikipedia
だからと言って、枕の草紙や源氏物語の価値が損なわれると云うことはない。
イチハタ