我らが学生時代(昭和29-33)、アルバイトはあまり一般的ではなかった。ピア前身の学生アルバイト通信はなかったし、アルバイトといえば家庭教師のことであった。
夏休みのある日、大学の学務科を覗いてみたら、伊勢丹の配送係の求人ビラが貼ってあった。夏休みに学校に来る学生は稀びとであった。
伊勢丹の○○会計課長の所へ行けという。
行くと地下の配送の手伝いだという。伝票を書いたり、商品を揃えたり。地下室は喧騒を極めていた。
当時客は買い物をすると、そのまま「届けておいてね」と言って帰って行くのであった。無料配送が常態であった。客の顔だけで名前、住所を割り出し配送手配をするのであった。
かの三越ー大和運輸事件がおきたのはこの頃である。配送車の駐車場さえ認めない三越のやり方に腹を立て、小倉昌男が三越の配送から全面的に手を引いた。大事件であった。その後の成り行きは諸兄もご存じであろう。
さて次の休みに課長の所に行くと「上に行け」と言う。
行った先は紳士服誂え売場であった。天国であった。客は少ない、女性店員のみ、男性店員は自分のみ。そして次の休みからそこが自分の定位置になった。
働きに行くだか何だかわからない。女護が島であった。
ある時、先生(紳士服デザイナー)から「服のモデルをしてくれ」と言われた。
自分はそれを断った。当時はモデルの位置もまだ低かったし、自分の中の一橋生の矜持がそれを断らせた。
道を隔てた向かい側、新宿末広の辺りも縄張りであった。玉突き屋でGIとゴロ巻いたり、今は亡き土井の女絡みを解いてやったり、わが伊勢丹物語は尽きない。
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