33年ネット諸兄姉どの(2050.05.18)
新聞の切り抜きも終活で整理している。中でも、ここに紹介する福島申二の
「斜影の森から」( 福島申二 -30- 2023.10.27(金)朝日夕刊)は、御用ジャーナリストについて語っているが、何もジャーナリストだけでなく、「スターリンの代弁者」は、あちこちにいた。
★メディアの沈黙と御用ジャーナリスト
「 スタニスワフ・レッというポーランドの詩人を知る人は日本ではまれだろう。ごく短い警句詩を得意とした。ユダヤ人の家庭に生まれ、第2次大戦中にナチスに捕まって自分の死体を埋める穴を掘らされているとき、シャベルで看守を殴って逃走したという。歴史の辛酸をなめてきた人の詩句は鋭い。その一つをスラブ文学者、沼野充義さんのエッセーから拝借する。 <世界への窓は新聞で閉ざすことができる > ー。その通りだろう。権力と結んだメディアは民衆の耳目をふさぐ。不都合な情報は伝わってこないし、逆に国内でどんな悲惨なことが起きていても世界に伝わらない。それはロシアをはじめとする、独裁的な国々の今日の実情でもある。しかし真実に命をかけるジャーナリストもいる。かって紹介した、今でも持っているDVD「赤い闇スターリンの冷たい大地で」 ( 2 0 1 9年、ポーランド、ウクライナ、英 )は、恐ろしい人道危機を世界に伝えようとした実在の英国人の苦闘を描いている。映画にはもう一人重要なジャーナリストが登場してくる。その人物について私はかって記事を書いたことがあった。ニューヨーク・タイムズの大物特派員だったその人は、独裁者を称揚して、のちに「スターリンの代弁者」と呼ばれることになる御用記者だった。その記者ウォルター・デュランティは、 1 9 3 2年にピユリツアー賞を受けている。しかしスターリン政権のプロパガンダを垂れ流し、当時のウクライナで数百万もの人が餓死した大飢饉を、知っていながら否定する記事を送り続けたとして、 20年前、賞の取り消しを求める動きが高まった。米駐在だった私が取材したとき、二ューヨーク・タイムズ社から 2 0 0に及ぶ彼の記事の検証を委託されていたコロンビア大の教授はこう評した。「他の記者が検閲に苦しみながら恐怖政治や飢餓の報道を試みても、それを否定するなど、恐ろしくバランスを欠き、モラルへの疑問さえ生じる」
映画では、モスクワ駐在のセレブ記者として、評のような人物像に描かれている。片や無名の英国人ジャーナリスト、ガレス・ジョーンズは「私は口を閉ざさない」とウクライナに潜入して命がけで飢餓の真実を追う。映画の原題が「 M r . J o n e s」というのは、信念の人への敬意ゆえだろう。
映画はロシアのウクライナ侵略より前に作られ、公開された。映画パンフレットをめくると、ポーランド生まれのアグニエシュカ・ホランド監督の洞察の鋭さに驚かされる。
「この (映画の )ストーリーは現代に直「ロシア人を獣にしたのはテレビだと思います」とノーベル賞作家のアレクシェービッチ氏が語っていたのを思い出す。ここ何年ものあいだウクライナへの憎しみを刷り込んで戦争の準備に加担してきたという意味だ(古関裕而の露営の歌「東洋平和のためならばなんで命が 惜しかろう」を思い出してしまう。言論や表現の自由は「最も大切な自由」とも言われる。告発も批判も異議申 し立ても言葉や映像によってなされるからだ。だから独裁者はまず言論の首を絞めて、意に沿わせようとする。冒頭の詩人レツに立ち戻れば、こんな短句にもはっとさせられる <猿ぐつわの跡は、舌に残る >言論弾圧の苦い記憶であろう。「メディアの沈黙」が難じられている日本だが、自分で自分に猿ぐつわをかませる愚を繰り返してはなるまい。より大きな災いを招かないためにも。結していると感じました。マスコミの腐敗、政府への権力の集中、人々の無関心さを描いています。この三つが合わさったら非常に恐ろしい」歴史上の多くの悲劇はこの「 3点セット」によってもたらされてきた。ロシアにも「みごとな三角形」が作られていたようだ。そして同様の危うさは世界のいたるところに現存している。
ところで、本日の課題は、何年ものあいだウクライナへの憎しみを刷り込んで戦争の準備をしてきたロシア、ウクライナ戦争は本当に終わるのかと云うことである。
以下朝日新聞2025.05.14(水)オピニオン&フーラム ウクライナ交渉の行方から二人の学者の意見を聞く。
★政治学者 松里公孝
1960年生まれ。旧ソ連圏の政治。の政治」など。
上海外国語大学教授。専門はロシア帝国史、著書に「ウクライナ動乱」「ポスト社会主義」
—ロシアは、クリミアとドンバスをずっとほしがっていたのでは。
「いえ、クリミア併合直後までのロシアは、ドンバスはウクライナのままにしておきたかったのです。ドンバスを構成するドネツク州とルハンスク州で 7 0 0万人近い住民がいました。クリミアに続いてドンバスもロシアに編入してしまうと、ウクライナ国内の親口シアの有権者数が激減し、ウクライナの民族主義が強まります。これは、ロシアにとって望ましいことではなかった」
「しかし、クリミアを併合したことで、分離運動がドンバスにも飛び火し、ロシアは厄介な問題を抱え込むことになったのです」
—今後の交渉の行方をどう見ますか。
「いまロシアが占領している地域も一様ではありません。クリミア、ドンバスはもともと分離運動があった地域ですが、ヘルソン州とザポリージャ州は完全な占領です。将来の和平交渉では、クリミア、ドンバスと、ヘルソン、ザポリージヤは別に扱われるべきなのですが、トランプ政権はそのような具体的事情には関心がないようです」
―ロシアだけが得をする恐れはありませんか
「ウクライナ東部の 4州は、戦争でインフラがほとんど破壊されており、その復興はロシアにとって大変な重荷になるはずです」
「ウクライナは、米国の意向に沿って停戦すれば、米国からそれなりの投資が入ってくるかもしれません。他方、ロシアから安いエネルギーを調達できなくなり、経済が減速している欧州諸国が、どれだけウクライナの復興を支援できるかは不透明です」
—停戦した場合のウクライナ政治の課題は何でしようか。
「 13〜 14年のマイダン革命前のヤヌコビッチ政権時に与党だった政治家の多くは、今は亡命していますが、この人たちが帰ってくるかもしれません。これらの野党政治家を弾圧するようなことがあると、ロシアに再侵攻の口実に使われる恐れもあります。戦時の非常政治から、いかに平時の政党政治に戻していくかが試金石になるでしょう」 (聞き手シニアエディタ ・尾沢智史)
説明が不十分で補足すると「マイダン革命」とはマイダン革命とは 2014年 2月中下旬に ウクライナ で起こった政変。きっかけは政府がEUとの連合協定を見送りロシアとの関係強化を決定したことだった 。デモ参加者はまたたくまに数十万に達した。人々はプーチンの操り人形と化したヤヌコービッチ大統領の退陣を要求し、治安部隊と激しく衝突、流血の事態となった広場の名前をとってマイダン革命と呼ばれた。結果、ヤヌコービッチ大統領はロシアに亡命した。
治安部隊の武器使用はプーチンが指示したともいわれている。
この連中が戻ってくるとは考えられない。
★もう一人、東京大学名誉教授 田中明彦
1954年生まれ。国際政治学者°東京大学教授、副学長、政策研究大学院大学学長などを経て、現在は国際協力機構理事長。著吉に「新しい中世」「ワード・ポリティクス」など
「国民からの要求や世界経済に対応するというよりも、権威主義体制を維持するために復古主義を利用している側面があります」「プーチン大統領の発想は、 1 9 8 9年から 91年の冷戦終結はロシアにとって決定的な不利益をもたらしたのだというものです。ウクライナ問題は切り離せません。中国の発想はアヘン戦争以来の 1 0 0年以上にわたる屈辱の歴史を取り戻さなければ、というものです」
—世界は 19世紀に戻ってしまうのでしょうか。「確かに、ロシアや中国の政治体制の根幹に復古主義があり、民主主義国でも復古主義的な指導者が選ばれると世界が 19世紀のようになてしまうおそれがあります。しかし、カと力ではこの複雑な世界システムでの問題を解決することはできません。結果として、失望をもたらすことになるでしょう」
「世界が 19世紀的なパワ—ポリティクスに戻るのは必然ではないと思います。幸いなことに、主要民主主義国で復古主義を訴える指導者を持っているのは米国だけです。そこに希望があります」
——米国は当面、変わらないでしょうか。
トランプ政権の政策も、これから振り子のように元に戻る可能性もあると思います。実際、 2月の段階では、ウクライナの主張をほぼ無視してプーチン氏の言う通りにまとめるのではと心配していましたが、その後、第 2次世界大戦後の国際秩序の基本である国際法の精神から著しく乖離するような言動はなくなりつつあります」
「関税政策にしても、唐突に 90日間の猶予を打ち出しましたね。 19世紀と同じことを今やったら、多くの 人が困るわけですから。修正する可能性は十分あると思っています」
—日本を含めた国々に求められていることは何でしよう。
「 G 7やその他の民主主義諸国が、様々な問題の解決策として 19世紀的な単純な方法でなく、問題の複雑性をしっかり見据えて、協調的な解決策を探ることでしよう。ウクライナの戦争の行方は、本当にわかりません。必ずしもウクライナの勝利を意味しないかもしれませんが、仮に何らかの停戦が成立した場合、侵略を受けた側が復興していくように後押しをしていくことが大事です。侵略した側が結局は損をするんだという形をつくる必要があると思います」
「現代世界の複雑性の根源は、国境を超える人、物、カネの動きの増大です。主権国家に制御できることは相対的に低下しました。気候変動、環境、パンデミックなど、一国では対応できない問題が山積しているのです」
聞き手池田伸 )
侵略した側が結局は損をするんだという形をつくる必要があると思います」、こんなことできるのか?
机上の空論だろう。
★この記事には、ウクライナ側の話が全くない。
ウクライナの独立がいかに大変なことだったかをここで思いだしておきたい。
黒川祐次著作「物語 ウクライナの歴史、ヨーロッパ最後の大国」(中公新書 1655)からウクライナ側の話を覗いてみる。
(黒川祐次;1944年(昭和19年), 愛知県に生まれる.東京大学教養学部卒業. 外務省入省後, 在モントリオール総領事, 駐ウクライナ大使・駐モルドバ大使(兼務), 衆議院外務調査室長, 駐コートジボワール大使, 駐ベナン・ブルギナファソ・ニジュール・トーゴー大使(兼任)などを経て, 現在, 日本大学国際関係学部教授.)
★フルシチョフ時代のウクライナ
経済の状況はフルシチョフ時代にはまだアメリカを追い越すことを目標とするような意気軒昂なところがあったが、それでも経済成長率は徐々に下がり始め、ブレジネフ時代には誰もが認めるような停滞に陥った。第五次五カ年計画 (1951〜55年 )の間のウクライナ工業の年間成長率は13.5 %であったが、30年後の第一次五カ年計画 (1981〜85年 )のときには3.5 %に落ちていた。工業化と都市化のため深刻なエネルギー不足が起こり、1950年代から70年代にかけドニエプル川に巨大なダムが次々と建設され、
ドニエプル川は連続した人造湖のようになってしまった。それでも電力は足らず、1970年代にチェルノブイリなど数カ所に原子力発電所が建設された。ウクライナではいまや工業が主要産業となったが、ウクライナがソ連の穀倉であることに変わりはなかった。ただウクライナを含めソ連の農業全体が停滞していた。ブレジネフ時代の後期にはソ連の穀物輸入が常態化するほどにまでなった。これには官僚統制による不効率、利潤動機・競争がないための勤労意欲の減退などがその原因となっていた。そのことは、利潤動機のある住宅付属の自営菜園がきわめて生産性が高かったことからも逆に証明される。すなわち1970年、ウクライナで全農地の数パーセントにすぎない自営菜園が農家収入の36 %を生んでいるのである。
★ロシア人のウクライナへの流入
ウクライナへの流入はますます加速された。1926年には300万人だったウクライナのロシア人は1979年に1000万人となり、人口の20%を超えた。今までロシア人のほとんど住んでいなかった西ウクライナにロシア人が入ってきた。ロシア人は非ロシア人地域では割のいいポストにありつけるし、ウクライナは気候も良く、文化状況も似ているので喜んでウクライナに住みたがった。ただ何世代も住んだロシア人にはウクライナ化する者も増えてきた。ブレジネフの時代に強まってきたのは反体制派 (ディシデント )の動きである。1975年7月、欧米35カ国がヘルシンキに集まってヨーロツパ安全保障協力会議 ( C S C E )が開かれ、現存の国境尊重、信頼醸成措置、人権擁護等を約束したヘルシンキ宣言に署名した。ソ連政府は国境の尊重などの安全保障問題にメリットを見出してこの宣言に参加した。人権擁護条項はお題目にすぎず、ごまかせると、たかを括っていた。しかし予想に反してこの人権擁護条項こそがソ連体制を内部から突き崩す大きな原動力になった。翌年にはモスクワの反体制運動家たちにより「ヘルシンキ条約履行監視グループ」が生まれた。同年キエフでもウクライナのヘルシンキ・グループが作家ミコラ・ルデンコ、ペトロ・フリホレンコ将軍 (ロシア語名グリゴレンコ )、法律家レフコ・ルキアネンコ、ジャーナリストのヴィアチェスラフ・チョルノヴィルらによって結成された。この団体は、従来の秘密主義的なものと違ってオープンな市民団体を志向し、ソ連の他のグループとも連携して問題の国際化をめざした。しかし西側の大使館や報道機関を通じて主張を全世界に訴えうるモスクワの運動と違い、キエフの運動には世界の目が届きにくかった。彼らの大部分は逮捕されてしまった。
★ゴルバチョフ下でのグラスノスチ
1985年ソ連共産党の書記長に就任したゴルバチョフ (1931〜 )は、抜本的な改革を行えば、共産党の支配するソ連というシステムは存続しうると信じていた。そしてグラスノスチ (情報公開、ウクライナ語ではフラスニスティ )とペレストロイカ (再建、ウクライナ語ではペレブドーヴァ )を両輪とする政策を開始した。しかしともに進むべきはずであった二つの政策はグラスノスチのみが先行し、ペレストロイカは既得権益の抵抗にあって遅々として進まなかった。グラスノスチは、ゴルバチョフの意図に反して、国民の働くインセンティヴには向かわず、むしろ批判するインセンティヴとなり、また何よりも危険なことに民族主義に火をつけた。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフら歴代の指導者は細心の注意をもって各地の民族主義をコントロールし、それによっ
て帝国としてのソ連を維持してきたグラスノスチによる民族主義抑圧のたがが外れ、ソ連の解体を招くことになった。ウクライナでソ連体制に対する不信が最初に高まったのは、チェルノブイリ (ウクライナ語チョルノビリ )原子力発電所の爆発事故によってであった。1986年4月26日、キエフ北方約100キ口にあるチェルノブイリ原発第4号炉が爆発した。192トンの核燃料のうち4 %が大気中に放出され、広島型原爆500発分の放射能が広がった。事故それ自体も史上空前であったが、事態を一層悪くしたのは、ソ連の隠蔽体質であった。ゴルバチョフの政権獲得から一年あまり、グラスノスチもまだ浸透していない時期だったこともあり、事故は28日まで伏せられた。そのためもっと早く公表されて必要な措置がとられていれば助かったであろう多くの命が失われ、何万という人々がいまだに後遺症に悩むことになった。またこの事故は他の環境問題にもウクライナ人の注意を向けた。ソ連はこれまで生産至上主義で、環境問題にはほとんど無関心であった。問題が起こったとしても隠すのみであった。
グラスノスチが浸透してくると、これまで抑えられてきた不満が吹き出てきた。長い間タブーであった歴史の「空白」を明らかにしようとする動きも出てきた。1923〜33年の大飢饉が公けに議論され、1930〜40年代に保安警察によって虐殺された人々の大規模な墓場が発見された。第四章で触れたマゼツパの行動は裏切りではなく、 ロシアから分離しようとする試みであるとの論文も現れた。そしてこれまで批判の対象だった第一次世界大戦時の「ウクライナ国民共和国」も正当な民族の渇望の現れと解釈されるようになった。またコストマーロフ、フルシェフスキー、ヴィンニチェンコなど過去の大物の名誉も 回復された 。
ウクライナ語復権の動きも高まり、1989年には「ウクライナ言語法」ができ、ウクライナ語が国語となつた。また長い間禁止されてきた青と黄のウクライナ民族国旗が現れ、ウクライナ国歌「ウクライナはいまだ死なず」を歌い、ヴォロディーミル聖公の三叉の鐘の章を胸につけるようになった。
ソ連では離散傾向にある各共和国を何とか連邦の枠内にとどめようとゴルバチョフが必死の努力を試みていた。しかし同年三月リトアニアは独立してソ連から離脱するとの宣言を発し、ソ連の解体傾向に弾みをつけることになつた。それでもゴルバチョフ大統領 (1990年3月以来大統領 )は1990年1月新しい連邦条約の草案を発表し、翌1991年3月その賛否を問う国民投票を全ソ連で行った。ウクライナでは、ゴルバチョフ提案の連邦維持に70 %が賛成したが、他方ウクライナのみで用意された「主権国家ウクライナが主権国家連邦に加わるとの前年最高会議の決議に賛成か」との質問には80%が賛成した(P277)。
ソ連保守派のクーデター失敗の勢いもあり、8月24日ウクライナ最高会議はほとんど全会一致で独立宣言を採択した。後にこの日は独立記念日となる。国名は単純に「ウクライナ」となつた。また最高会議は共産党をクーデターに加担した廉で禁止した。クラフチュークは共産党を離党した。9月には最高会議は民族主義の伝統にもとづく国旗、国歌、国章を法制化した。国旗は上が大空を表す青、下が大地 (麦畑 )を表す黄の二色旗、国歌は1865年ヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」、国章はヴォロディーミル聖公の国章であった「三叉の鐘」である。いずれも中央ラーダ政府が制定したものの復活であった。またソ連を構成していた多くの共和国がウクライナにならって独立宣言をした。12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票と初代の大統領を決める選挙が行われた。国民投票では90.2 %が独立に賛成した。ロシア人の多いハルキフ、ドネツク、ザポリッジァ、ドニプロペトロフスクの各州でも80 %以上が賛成であった。ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成は54 %と過半数を上回った。大統領選挙ではクラフチュークが62 %の得票率でルーフの候補であるチョルノヴィル・リヴィウ州議会議長 (得票率23 % )を破って当選し、初代大統領に就任した。
(イチハタ注;ルーフとは人権•少数民族の権利・宗教の保護、ウクライナ語の復権を求めるゆるやかな組織で、独立まで求めていない団体)
ウクライナの独立をポーランド、ハンガリーはただちに承認した。ウクライナ移民を多く抱えるカナダも早期に承認している。アメリカは12月24日承認した。日本は12月28日ウクライナを国家として承認し、翌1992年1月26日外交関係を樹立した。
このウクライナの独立宣言は、20世紀になって6回目のものであった。すなわち1918年1月、キエフでの中央ラーダの「ウクライナ国民共和国」、同年11月、リヴィウでの「西ウクライナ国民共和国」、1919年1月、キエフでのディレクトリア政府と西ウクライナ政府が合併した「ウクライナ国民共和国」、1939年3月、フストでの「カルパト・ウクライナ共和国」、そして1941年6月、リヴィウでの O U Nによるウクライナ独立宣言に続くものである。しかしこれら以前の独立宣言はいずれも長続きしないか、または最初から長続きする見込みのないことを知りつつ象徴的になされた行為にすぎなかった。それに対して今回の独立は、統治能力をもつ政府を有し、ウクライナ人が居住するほぼ全地域をカバーし、国際的にも承認された上での独立であり 、永続する蓋然性をもつ独立である。その意味では壮途半ばに潰えたフメリニッキーのウクライナ独立への夢が三五〇年を経てようやく現実のものとなったわけである。
イチハタ