小将町コートの思い出
21 期 荒木 雄一
私は1975年(昭和50年)金沢大学に入学し、硬式テニス部に入った。練習場所は小将町コートでクレーコートが5面あり、1番コートは水はけが悪かったので主に2から5番コートを使っていた。自分たちで石灰を溶かしロープを張って白線を引いた。トンボやローラーを使ってコート整備をし、雨上がりにはスポンジで水を吸い取った。練習は今のようにショートテニスはせず、いきなりベースラインから打ち合った。ストローク、ネットプレー、サービスのほか2:1やペアボレー、振り回しなどを行った。コーチがいなかったので先輩方が先生だった。先輩方のいうことは正しい?と信じてやっていた。ランニングは短いほうから兼六園一周、城外、卯辰山、健民公園で城外を走ることが多かった。公式戦の前には朝練習があり朝7時から8時半ごろまで練習をした。7月下旬には夏合宿があり、寺町のお寺に泊まり朝はコートまでランニングをした。当時は暑かったが気温は32度ぐらいで今よりは気温が低かったと思う。しかし、午前中の練習が終わると食欲がなく昼飯は卵かけご飯を流し込んでいた。水を飲むなという時代は過ぎていたが、まだスポーツドリンクがない時代でボールの空き缶に水を入れて飲んでいた。ようやくスポーツドリンクのはしりであるゲータレードが出始めたころだった。兼六元町に店があり HI-C オレンジをよく買って飲んでいたのを覚えている。その店の近くにえびすという中華料理店がありそこのえびすラーメンはうまかった。冬場(12~3月)はコートに雪が積もるため、外で練習は出来ず城内のトレーニングセンターでトレーニングをした。室内大会の前にはバレーやバスケットが終わった夜8時頃から体育館で練習をした。練習後は昔小立野にあった第7ギョーザでよくギョーザを食べたものである。
王座や春・秋の大会で遠征するときはだいたいお寺か公民館に泊まった。富山大学のコートはアンツーカーで新潟の五十嵐コートは風が強かったイメージがある。個人的には松本のコートが好みだった。コンパも多かった。入部したときは新歓コンパ、卒業するときは追い出しコンパ、大会の後は祝勝コンパ等々。いずれにしても小将町コートでの4年間は私のテニスの基盤になっている。
今年は2025年、入部してから50年 半世紀が経ち18歳だった私は68歳になる。仏教の言葉に末通るという言葉があり生まれてから死ぬまで一貫して寄り添うものという意味らしい。私にとってのそれはテニスなのだと思う。これは人から聞いた話であるが、国体の場でバレーの川合俊一さんがテニスの佐藤直子さんに「テニスはいいね。二人そろえば試合ができるんだから」と言ったとか。すべてのスポーツは尊重すべきであるが二人そろえばできるところにテニスの続けやすさがあるのかもしれない。小将町コートは今どうなっているのであろうか。階段上にあった「ばろん」という喫茶店はまだあるのだろうか。あそこの冷コ―はうまかった。
以上