テニスの昔話
17期 栗田 孝義
金沢に居たのは4年、秋田には30年。なのに雪が降って炬燵に入っていると、何故か石引の下宿の部屋に居る風景が蘇ります。
高校時代は軟式庭球部に入っていました。隣のコートが硬式庭球部でした。硬式庭球、もう死語なのでしょうね。高校の時に、日本で初めてテニスの世界ツアーが開催されたのをテレビで観て、大学では絶対に硬式テニスをやるのだと決心しました。司法試験を受ける決意もありましたが、こちらは入学一年で消え去りましたね。このツアー開催に尽力されたのが、日本人初のプロテニスプレーヤーとなった石黒修氏です。息子の賢さんは俳優です。
この日本の試合で初めて見た外国のテニス選手は、アーサー・アッシュ(全米オープンの会場に命名スタジアムがあります)、ケン・ローズウオール達で、グランドスラムを達成したロッド・レーバーは来てなくて残念に思いました。余談ですが、金大テニス部の和製R・レーバーの方とは今でも付き合いがあります。
OB戦に何時行ったのか、後輩諸氏の記憶に助けられて、昭和53年(1978年)と判明しました。当時はゲーターレードも出始めでまだ普及しておらず、小将町の試合ではダンロップ白球4個入りの空缶に、水とレモンの輪切りを入れて給水していました。まさかこの伝統は受け継がれてないと思いますが。
ゲーターレードはスポーツドリンクの草分け的存在と言われていますが、草分け=先駆者と考えると、テニス界には先駆者となった名選手がいろいろいます。ただ、先駆者は必ずしも発案者ではなく、広く世に知らしめ、多くの人に影響を与えた人ということになります。ですからテニスにおける先駆者は、必然的に一流選手に繋がっていきます。
今やプロの過半数を超えたのではと思われる両手打ちバック(今風に言うなら、Wバックハンド)。最初にお目にかかったのは、クリフ・ドライスデール(南アフリカ)でした。彼は来日していないようなので、テレビで見たのでしょう。Aⅰの回答では、4大大会でかなり活躍しています。ビヨン・ボルグやジミー・コナーズはずっと後の世代です。
次にテニス帽子ですが、昔はハットやツバ広の丸い帽子しか使われませんでしたが、いつの間にかキャップ(野球帽)一色になりました。これも先駆者がいます。ジム・クーリエ(アメリカ)です。ネット検索では四大大会で4回も優勝してました。野球帽をかぶった理由は、単に野球が好きだからだそうですが、ただツバは前を向いていました。誰の頃からツバを後ろ向きにかぶるようになったかは判明しません。でも帽子本来の日除け目的にはなりませんよね。
帽子だけではなく、テニスウエアも様変わりしました。白楊庭球会のHPに載るOBや学生のウエアも本当にカラフルです。昔はプロもアマチュアも白一色でした。維持されているのはウインブルドンだけですか。色変の先駆者は何といってもアンドレ・アガシ(アメリカ)でしょう。全米オープンのテレビ中継で、黒色のシューズに黒色のソックスを見た時は吃驚仰天でした。アメリカは何という自由な国だろうと思いました。その時はもうスキンヘッドだったように記憶しています。
先駆者ではないですが、シュテフィ・グラフ(旧西ドイツ)のスライスバックは華麗でした。東レ・パンパシフィックで目の前で観ました。流れるようなフォームで滑っていくラケットは、爆発みたいなフォアハンドとは好対照で、芸術品を観ている感覚でした。グラフは引退後にアガシと結婚しています。
グラフのライバルだったモニカ・セレシュ(ユーゴスラヴィア)はバックもフォアも両手打ちで、特にドライブボレーが強力でした。1973年生とのことです。私は78年のOB戦で現役女子部員にストローク練習の相手をしてもらったのですが、その人が両手フォアでした。その年セレシュは5歳なので、彼女よりも早く採り入れていたとは驚きです。当然私よりも遥かに上手でしたが、練習後にネットに来て『先輩、アドバイスをお願いします』と言われたのには吃驚しました。まあ体裁を繕って、技術的でないことを適当に言ったような覚えがありますが、遠藤・小川両キャプテンの指導と教育の素晴らしさを感じました。
先輩が後輩に伝えるテニス部の伝統は、やはりコンパで歌う「北の都に秋たけて」に尽きる、と言ったら批判されそうです。歌詞の6番をじっくり見ると、四高寮歌だから当たり前なのですが、これは男子学生の歌になっております。女子部員の方々に違和感はなかったのかと思ってしまいました。まさか今の時代はもう歌えない、という事はないでしょうか。
第四高等学校から連綿と続く金沢大学テニス部の伝統は、もちろん寮歌だけでなく、これからも次世代へと引き継がれていくでしょう。それは偏に先輩後輩諸氏と現役部員の方々の努力あってこそだと思いつつ、一方で自らの心の誇りにもなっております。この会報を読まれる大多数の会員・現役部員の皆様にとっては、顔を見たこともない、名前を聞いたこともない私ですが、金沢大学テニス部の活躍を大変うれしく想い続ける一〔いち〕OBに変わりはありません。
今後の皆様のいっそうのご活躍・ご発展をお祈りします。
※作稿にあたり、18期浅野忠司さんにネット検索・Ai回答等の作業に大変なご助力をいただきました。ご報告とともに感謝の意を表します。
写真中央筆者 ラケットをSaxに持ち替えて22年たちました