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随想 技術の散歩道 ― 第7編 ― (No.31~No.34)
技術の散歩道 No.31
郵便処理の革新
郵政省が「21世紀の郵便自動化」を考える委員会を設置したのは平成4年のことである。私もその技術委員として、議論に参画した一人であった。当時の郵便の取扱量は年間240億通で、電子メールや携帯電話の普及などで減少するだろうとの大方の予測に反し、年間3%程度で伸びていた。とくにダイレクトメールと年賀状の伸びが際立ち、このままではその取扱いが限界に達し、仕分けや配達のための人の確保が大問題に発展することが予測されていた。
そのため、従来にない抜本的な自動化方策が必要とされた。従来の郵便番号は、市町村にほぼ対応する形で3~5桁の数値が割り当てられていて、旧来の郵便区分機は、この数値を読むことで、「差し立て」と呼ばれている局から局への区分の自動化を可能としたものであった。これによって郵便物の局間の仕分けや移送作業は効率化されてきたが、最大の難関は集まった郵便物の家庭への配達であり、その自動化方策が中心的な検討課題となった。
そのためこの技術委員会では、大学と企業の研究者・技術者が協力し、新しい自動化方策の模索と、その技術的可能性についての検討が行われた。同時にその上部委員会では、各種の民間団体などの責任者も含め、利用者の立場での幅広い議論が行われた。
この新しい自動化を可能とする唯一の解決策は、郵便番号の桁数を増やし、市町村単位よりもさらに小さな町域名にまで番号を割り当てることであった。これができれば、局から家庭へと配るときの自動化にも可能性が出てくることになる。すなわち、配達の際のいつもの道順に沿うように、あらかじめ郵便物を自動的に並べ替えることが出来るのである。この並べ替え作業は「道順組立」と呼ばれ、従来は配達前に、配達する人自身が自らの手で行っていた煩雑な作業であった。
議論の初期段階では、桁数増加を最小限にとどめるために、当時の郵便番号を一旦リセットしてでも新たな番号を整理して付け直そう、という案も出された。しかしこれは、利用者への負担をあまりにも強いるというので、従来番号に追加する形で改革していく方向が決定された。そのため例えば岐阜市のように、町域名が数百個もあるような都市に対応するためには、将来への余裕も含めてどうしても7桁の郵便番号が必須となった。欧米の例とも比較した結果、決して多過ぎるというわけでもないので、利用者である国民の同意と協力も得られるのではないか、との結論に達した。このように、平成10年2月から施行された郵便番号7桁化は、事実上このときの会議で決定されたものである。
委員会での議論の結果、新しく開発すべき新型の郵便区分機としては、郵便番号に加え、手書きや活字で書かれた住所や、必要に応じて氏名までも自動的に読み取り、その結果を組み合わせてインクジェットプリンタを用いて郵便物の上にバーコードで印字し、以後の取扱いはすべてこのバーコードで行おうとする方式に落ち着いた。どうしても読めない郵便物については仮の番号をバーコードで印字し、その宛名画像を蓄積記憶して、専用のワークステーションに送って人間が読むようにし、読んだ結果を再度その郵便物に印字する方式となった。
このように町域名までがコード化されると、郵便番号認識結果に、さらに住所認識から抽出される〇丁目〇番〇号という数値と、必要に応じてアパートなどの〇棟〇号という記号数値をハイフンで区切って加えるだけで、原理的に住所コードが完成する。このようにして完成した住所コードは、最大20桁の数値として表現されるが、これをできるだけ小さい面積で郵便物に印字する必要がある。そのため、長いバー、中間のバー2種、短いバーの計4種のバーのうちの3本を用いて一つの数値を表す「4ステート3バー方式」のバーコードが採用されることとなった。配達局に集まった郵便は、このバーコードを再び自動的に読み取って、配達人の歩く道順通りに自動的に並べ替えることになる。
このバーコードを印字するインクとしては、郵便物の表面を汚さないよう、人には見えにくい特殊インクが望ましい。そのため当初、水性のステルスインクが提案されたが、さらにビニール系の封筒にも印字できるよう、のちにアルコール系の蛍光インクへと転換された。
開発当初は、手書きと活字の混在する郵便物に対して、認識率(20桁の完全読み取り率)は60%程度もあれば実用化可能と算定されていたが、最近では実力が80%程度に上昇した。今後もさらに改良され続けていくことになろう。ただ気になるのは郵便物を出す側の問題で、とくに日本の郵便物では、宛名の表書きがあまりに自由奔放過ぎることである。なかには本当に届けて欲しいのかどうか疑いたくなるようなものもある。とくにダイレクトメールでは広告が幅を利かせ、それに埋もれたように宛名がひっそりと書かれている例も多く、どこが宛名かを判定するのにかなりの処理コストが掛かる。もう少し表書きの書き方に節度があれば、装置を作る側も楽になり、その分、認識率の更なる向上へとつながって行く筈である。
この郵便番号7桁化に対して、東京都のある市では、国の押し付けだとこれを拒否する記事が新聞に載ったことがあった。テレビでも、ひと頃7桁化に対する批判が相次ぎ、その積極的な意味が完全には理解されていなかったようである。その昔、蒸気機関車の通行を嫌ったために迂回して鉄道が敷設され、結果としてその町の発展が阻害されたという歴史を思い出す。情報化の新しい波には、避けるのではなく真正面から付き合った方が、長い目で見て必ず効果が出てくるものと思う。制度導入からちょうど2年が経ち、幸い私たちの日常生活にも定着してきたように思われるし、新型区分機の配備もかなり進み、21世紀に向けた郵便自動化の基盤が出来上がりつつあるようで、改革に関与した技術者の一人として感慨深いものがある。
(平成12年2月)
技術の散歩道 No.32
大学での講義体験
長い間企業の研究所で先端技術の研究開発に従事していると、実践的な経験が必然的に多くなるものである。私もその経験を買われて、ときには大学からの依頼で授業に赴くことがある。若い学生に接するいい機会でもあるし、企業での実用的な技術開発の成果や研究活動の様子、とくに新製品開発・新産業創造での経験談は、学生にとっても新鮮らしく、皆が結構期待してくれているようである。
企業人によるこのような講義は、昔の記憶をたどってみても思い当たらず、私の学生時代にはまったく存在しなかったようである。当時は、専任教授の口述される文章を、一言も漏らすまいと必死でノートに取る毎日だった。とくに時間に厳格なある教授は、教室の入口ドアの把手に手を掛けながら、ポケットから取り出した懐中時計を眺めて授業開始時刻が来るのを待っておられた。開始時刻と同時にサッと教室に入られ、そのあとに教室に入ろうとする学生はすべて授業から締め出されたものである。今のようにコピー機も普及していない時代であったために、締め出されるとあとが大変で、授業に出るよりもさらに多くの時間を掛けて学友のノートを書き写す羽目となった。しかも、聞いて書く方が、見て書くよりも理解度は一段上のように実感されたため、授業の出席率は高く、かつ授業中の私語もまったくなく、学生の熱心さはまた格別であったように思う。
しかしこの口述筆記という古い講義形態は、今の時代からみると効率も悪く、もう皆無と思われる。口述筆記したノートが唯一の教科書だった昔と違って、参考書は選ぶのに困るくらいたくさん出版されているし、学生が学ぶべき事柄も、時代の進展で多様化している。したがって現在の授業では、知識を逐一教えるというよりも、知識の体系や考え方を教えることが主となり、自分でさらに勉強してもっと詳細を知りたいと思わせるように、学生の意欲を掻き立てることの方が重要となっているようだ。私の講義でも、このような考え方を基本にしてきたが、果たしてうまくいったかどうかは今一つ定かでない。
ところで大学から講義を依頼される場合、大抵は非常勤講師とか客員教授という身分で赴くことになる。私の過去の例では、年に一、二回だけ2時間ほどの講義に出かける場合もあったし、まる一日、朝から夕方まで集中講義をしたこともあった。あるいは期を通して毎週一回ずつ連続した講義を持ったこともあった。多くの場合、OHPやビデオなどのビジュアルな教材を用いて魅力的な講義を心掛けてきたので、学生の反応も良かったように思う。とくに、ある国立大学での講義では、講義終了の際、自然発生的に学生から大きな拍手を貰ったことがあった。大学の講義では珍しいということを後で知ったが、要は、授業をする側の誠意がいかに伝わるかがポイントであったように思う。
ただしこれは、非常勤講師であるがゆえに、授業の正当性やその結果にはあまり責任がないという気安さもあって、私のような者には授業がやり易かったせいなのかも知れない。とくに長期間にわたる講義の場合には、途中で種々の話題を織り込むことを心掛けた。たとえば、企業が期待する人間像だとか、研究者・技術者のプロ意識だとか、研究開発の裏話だとか、特許取得での成功談・失敗談などが受けたようである。
授業を締めくくるテストも、通常は実施しないこととし、その代わり幾つかの課題を与えて、その中から選択させてレポートを書かせたりした。ただ単にレポートを課すだけだと、長々とくだらないことを書いて頁数を稼ぎ、努力の跡だけを訴えようとする学生も中にはいるとの話も前以って聞いていたので、学生にはA4サイズ一枚だけのレポートを課すことを試みた。学会発表の予稿集のような形を想定し、いかに簡潔にまとめるかの訓練も兼ねたわけである。手書きは禁止したので、学生は必然的にワープロやコンピュータを使うことになり、まだ今ほどには普及していなかった当時としては、時代を先取りしてこれらの電子機器を活用する良い訓練ともなったようである。
このレポートの執筆に際しては、日本語のほか、英語・独語・仏語・スペイン語・中国語・韓国語のいずれで書いてもよいとした。レポートの課題は毎年変えたが、この書き方については数年間同じ方式で課してみた。しかし残念ながらこの間、一人も外国語で書いた者はいなかった。これも時代を先取りしたつもりであったが見事に失敗したようである。レポートを読む私としても、こんなに多言語を理解出来るわけではなく、ただそれらしく書いてさえあれば良い点数をあげようと思っていたわけである。ただ一人だけ、一生懸命の日本語でレポートしてきた南米からの留学生には、かなり高い点数を与えたことを記憶している。
ある年の春、私の研究所で恒例の入社式があり、そのあとの歓迎懇親会で私に「先生!」と呼び掛けてきた若者があった。この新入社員は大学時代に私の授業を受けたらしいが、私にとっては大勢の学生との瞬時的な出会いに過ぎなかったので見覚えのある筈がない。とっさに気になったのが、当時私が彼に付けた成績のことであったが、「良い点数を貰いました」とのことで安心した。このことがあって以来、あまり厳しい採点はしないよう、密かに心に決めた。
このような講義経験を通じて、教えることの難しさも味わったし、どのようにすれば分かってもらえるかという貴重な教訓も得た。授業のための教材資料も整ったために、それらをもとに何冊かの本を執筆・出版することにもつながった。これらの本は、幸いにも、その後幾つかの大学で実際に教科書として採用されたりした。最近では、さらに一歩進めて、計算機を使った最新の電子プレゼンテーションに凝りだし、ビデオ映像も計算機画面の中に嵌め込んだマルチメディア型の先端的授業を心掛けるようになってきた。
(平成12年3月)
技術の散歩道 No.33
国際組織での活動経験から
国際パターン認識連盟(IAPR)という学会の連合組織がある。先進30数ヶ国が加盟する国際組織であり、アメリカからはIEEEが、また日本からは情報処理学会が会員として加盟している。この組織では2年ごとに大きな国際会議(ICPR)を開催していて、私にとっては若い頃からの研究活動の「舞台」の一つであった。初めは論文発表で、ついで委員会活動で、また後には組織の中枢として、その発展に深く関わってきた。
一般に国際組織の運営は、その時々の世界情勢にも影響を受け易く、なかなか難しいものである。このIAPRでも、私が知っているだけで今までに三つの危機があった。
第一の危機は天安門事件の前年、昭和63年に発生した。この年に北京で予定された国際会議で、中国政府がある国からの入国人数を制限するらしいという噂が事前に広まったのである。そのため、自由な入出国を建前とする西側諸国が怒り出し、急遽北京開催を取り止め、ローマに場所を移すという事態が生じたわけである。国のイデオロギーの差が、その後暫く、この学術社会にも少なからぬ緊張をもたらしたものである。
2年後の平成2年には、この国際会議が米国のアトランティック・シティで開催されたが、この時に私は指名を受け、この国際組織の副会長に就任することになった。目まぐるしく動く複雑な国際情勢の中、身の引き締まる思いであったが、案の定、私の任期中に第二、第三の危機が発生したのである。
すなわち第二の危機は、平成3年初頭の中東湾岸戦争の勃発であった。すでに次回の会議はオランダのハーグ、次々回の会議はイスラエルのエルサレムと決めていたが、このイスラエルでの会議開催が危うくなり、開催地の再検討を余儀なくされたのである。また第三の危機は、平成3年末のソビエト連邦の消滅であった。その少し前よりソビエト連邦からの会費滞納が続き、連絡さえうまく取れず、その結果この国際組織の運営にも支障を来たすようになったのである。
そのため平成4年初頭、私を含めて幹部5人が急遽スイスのローザンヌに集まった。中東情勢はまだ混沌のさなかではあったが、多少見え隠れしはじめた沈静化の兆しと、開催に向けたイスラエル代表理事の変わらぬ熱意とに賭けることとし、私たちはエルサレムでの開催を最終決断したのである。一方、ソビエト連邦に対しては、規約では即時退会となるところだが、激論の末、休眠扱いという特別措置を取ることを決めた。幸いにもこの決断は正しかったようで、後年、ロシア、ベラルーシ、ウクライナが復活再加盟した。
このような難しい決断の合間には、この国際組織にとってうれしい話題も多かった。例えば韓国は、すでに工業国として立派な地歩を固めてはいたが、この組織には未加盟だった。そのため韓国の知人に連絡し、韓国内での組織化を呼び掛けた。これが発端となり、また既加盟諸国の圧倒的支持も得て、遂に加盟が実現した。さらに、規約改正やフェロー制度の整備など、運営上の幾つかの懸案事項も精力的に解決してきた。平成4年夏のハーグでの国際会議は副会長としての締めくくりの会議となり、各国の代表理事からねぎらいの言葉を頂戴した。
その年の暮れになって、突然、台湾から電子メールが入って来た。台湾での国内会議に毎年一人ずつ海外から招待講演を依頼する慣習があり、今度は私に是非という話であった。日本からは初めての招待とのことで、平成5年夏、私は初めて台湾に飛んだ。前年までIAPRの副会長を務めていたこともあって、この会議の期間中、この国際組織に未加盟の台湾に対して正式に加盟するように、学会の有力者への根回しを行った。この橋渡しが端緒となり、翌年、台湾の正式加盟が承認された。これにより、この「中華民國影像處理與圖形識別學會」が、組織の正式な一員として国際舞台に登場することとなり、のちに台湾の人たちから大変感謝された。また、これが縁で、私はこの台湾の学会の終身会員になっている。
そして平成6年秋、私はイスラエルへと飛んだ。開催を最終決断した責任者の一人としてエルサレムでの国際会議の成功をこの目で確かめたかった。この会議の晩餐会は、荒野の中にある遊牧民「ベドウィン」の大きなテントの中で行われた。前日にテロ事件が発生したというので、バスはエリコの街の近くを通る当初の予定を変更し、少し遠まわりをしてこの地に到着した。道中、兵士が銃をもって警備にあたっているのを見たり、ガザ地区まで15キロという交通標識を見たりすると、世界の紛争地の真っ只中に来たという実感が湧いてきたりした。ベドウィン料理と余興の踊りを楽しんだあと、学会の公式行事として表彰式があった。私は当時、産業リエィゾン委員長としても活動していたので、産業発展に寄与する最優秀論文を選定し、その賞のプレゼンターの役を務めたりした。
中東湾岸戦争の勃発とその後遺症で、一時はどうなるかと心配した会議も、一応平穏のうちに終了でき、ようやく胸を撫で下ろすことができた。しかし帰国した途端に、バスが焼き討ちされて10数名の死者が出たというニュースを聞かされ、結構危ない綱渡りであったことを再認識させられた。
幸いにしてその後は、平成8年のウィーン、平成10年のブリスベーンと会議も成功裡に続き、組織の運営も平穏を保ってきた。この間、私もこの組織の日本代表理事として参画し、幾つかの重責を果たすことができた。私の提案した諸制度も定着し、ブリスベーンの会議では、この2年間従事してきたフェロー委員長としての活動に対して特別に感謝状を頂戴したりした。いずれ近いうちに私は引退して後進に道を譲ることになろうが、次回のバロセロナ、次々回のケベックシティ、さらにはその先へと、諸困難を乗り越え、この会議と組織が永続的に発展・継承されていくことを祈念したい。
(平成12年4月)
技術の散歩道 No.34
我が文筆活動の精算
研究生活の合間に綴ってきたこの「技術の散歩道」も、いよいよ終局を迎え、今月号で予定通り終了とさせていただくことになった。編集者からの「何でもいいから」という言葉につい乗せられて、軽い気持ちで引き受けたのが3年前。以来、計34回にわたって多様な話題を取り上げ、一研究者、一技術者としての技術論・信念・疑問・提案・興味・経験なども散りばめ、順不同で私見を紹介してきた。私の通い慣れたいつもの散歩道のご紹介という腹積りが、ときには私自身なじみの薄い横道にも逸れたりした。1回当り約2300字だから全体で8万字の道程であった。まずは、長い間のお付き合い、ご愛読に心からの感謝の意を申し述べたい。
終幕にあたってこの8万字は、私が今までの生涯で書き残してきた全文字数に対し、一体どのくらいの比率になるのだろうか、という疑問が沸いてきた。執筆そのものが仕事である小説家や新聞記者と比較しても、研究者・技術者は結構遜色のない量の文章を書いているのではないだろうか。思えば、執筆なしでは研究は他人から理解されないし、発明は権利化されない。執筆なしの研究活動はあり得ないのである。書くことで自分の考え方が纏まり、その後の研究課題が顕在化し、次の一手が鮮明になることもある。開発した技術も、書くことで初めてその人の技術として定着するのである。文章がうまければ、それだけ周りから理解され易いので成果も認められ易い。書く速度が早ければ、それだけ研究そのものに没頭できる時間も多く取れる。したがって文筆能力は研究者・技術者にとっても重要な要素と言える。幸いこの能力は、多少の個人差はあるものの誰にも備わっているものであり、磨けばどんどん良くなるものである。面倒がらずに場数を踏むことが肝要である。
私の場合は、幸いにも、今までの約40年の研究生活で執筆した文字数の総量を推し量る有力な記録がある。研究生活10年目頃から、それまでに執筆した学術・技術論文、解説記事、講演予稿など、自分の名前が活字となったあらゆる書類の別刷りを一部ずつ集めて製本してきたのである。最初の10年分で厚さ4cmほどの立派な本が出来上がり、そこに金文字で「我が研究の歩み」というタイトルを付けた。10年に1冊なら今後もあまり増えないだろうとの見込みでやり始めた製本が、それから3年後にまた1冊できた。迷ったあげくタイトルを単純に「続 我が研究の歩み」とした。ところがまた3年後にもう1冊分増えたとき「続続」とせざるを得ず、それが後々尾を引いて、今では「続続続続続続続 我が研究の歩み」となっている。この計8冊の「我が研究の歩み」の総文字数が720万字である。
この製本された記録の中には特許の別刷りが含まれていないし、社内の研究報告も含まれていない。今までの200件を越える特許で約310万字、さらに100冊を超える研究報告で300万字が加算される。また、私のキャビネットの中には、思い出一杯のために未だに捨て切れずに残っている約50冊の研究ファイルがあり、約250万字分の研究企画書、提案書などの研究資料が詰まっている。捨てたものも同じ位の量はあったから、約500万字は書いていることになる。
さらに著書・監修書8冊が加わるから、それで60万字。ただし英文著書も単語数ではなく文字数で計算している。さらに、若い頃の学位論文の約20万字が加わる。もっと若い頃のラブレターも決して無視できない量とは思うが、もう証拠はないし、研究に直接関係はないのでこれは省略。この他に満杯の計算機フロッピーが約50枚あるが、何がどう入っているのか調べる余裕もないので、これも省略。さらにここ10数年にわたる電子メールの通信量も、莫大とは思うが証拠がないためこれも省略。
以上を総計すると約2000万字となる。まさに驚きである。これはベストセラー作家の文庫本100冊の小説に相当する。もしも米粒に1字ずつ書いて縦に並べるとしたら、東京~箱根間くらいにはなりそうである。今までの40年間の日数で割ると1日当り1500字くらいを書いていたことになるが、ひょっとしてこの数字は、並みの新聞記者よりは多いのではないかとさえ思われる。こう考えるとまさに驚異的ではあるが、実は、現在の64メガビットの半導体メモリだと5個分を満杯にしただけであり、近い将来の1ギガビットのメモリでは、ようやくその1/3を満たせる量にしか過ぎないのである。
これまでのこの2000万字と比較すると、この「技術の散歩道」の総字数8万字は、私にとって0.4%に過ぎないものであった。とは言え、話題の選定から始め、決められた字数で執筆するという作業は、結構大変なことでもあった。しかし、それなりに自分の考え方が整理でき、読者にどの程度役に立ったかは別にしても、私なりの満足感は得られた。編集者からは、記事が真面目過ぎるという意見を途中でいただいて、少し不真面目な要素も取り入れようと努力はしたが、これは徒労に終わったようである。
この長い散歩道に同行いただいた読者諸氏も、私個人がいったい何者かについては、おそらくご存知なかったことと思う。自分の仕事を通じた随想が多かったので、散歩の途中で少しは想像していただけたとは思うが、もしご興味がおありなら、最近掲載された「私の研究遍歴」(信号処理研究会誌:Journal of Signal Processing, Vol.3, No.4~6, 1999)を参照いただきたい。
では皆さん、ごきげんよう。研究という長旅、人生という長旅のどこかでまたお会いして、この「散歩道」の風景を思い出しながら親しく語り合える日の来ることを念じつつ。
私の心のふるさと、隠岐島への船旅の途上で記す。
(平成12年5月)