Welcome to
my homepage
著作物
茨城の魅力の根源
関東平野の北東部に位置するここ茨城県は、とても魅力的なところです。筆者は現役退任後につくばエクスプレス沿線の新開地に転入しましたが、以来ここを起点に今日まで、この茨城の魅力の根源を探ろうと、県内各地への「小さな放浪の旅」を続け、その際の紀行文を前項のような「近隣ぶらり探訪記」として纏めてきました。
今回、これらの探訪の経験を総括し、「茨城の魅力の背景」を考察してみました。そして、このような6項目へと要約してみましたので、どうぞご高覧下さい。
1 穏やかな地勢と豊かな自然
2 往時の勇者・猛者らの足跡
3 水戸徳川家と尊皇攘夷の思想
4 芸術界・文学界の俊英たち
5 茨城人の心を育んだ神社仏閣
6 科学技術と産業発展の礎
― 穏やかな地勢と豊かな自然 ―
関東平野の北東部に位置するここ茨城県は、太平洋に面して長い海岸線を持ち、とくに親潮と黒潮の合流域でもある鹿島灘の沖合は、魚介類の豊富な漁場となっています。気候も比較的温暖で、県央・県西・県南を中心に豊かな農作地が広がっています。
県の北西部は緩やかな山岳地で、最高峰は、福島・栃木・茨城3県の県境にある標高1022㍍の八溝山です。また、県内で最も著名な山は、飛鳥・奈良時代の昔から「西の富士、東の筑波」と対比されてきた標高877㍍の紫峰 筑波山で、雪に閉ざされる富士に対し、若い男女が集って和歌を詠み合う歌垣の名所として、奈良時代に編纂された常陸国風土記にも紹介されています。山頂近くの御幸ヶ原のすぐ下には、「つくばねの峰より落つる男女川(みなのがわ)恋ぞ積りて淵となりぬる」(陽成院、百人一首・後撰和歌集)と詠まれた男女川の源流があります。
この男女川の水が桜川を経て流れていく先は、琵琶湖に次ぐ我が国第2の湖 霞ヶ浦です。昔は小さな谷に過ぎなかったのが、縄文海進などで何度か海と陸を繰り返して現在の霞ヶ浦ができました。沿岸には、海であったころに牡蠣が何層にも累積し、高さ5㍍もの断層として露出している「カキ化石床」の崎浜史跡があります。霞ヶ浦は、昔ながらの帆引き船がよく似合う風光明媚な湖ですが、ほかにも涸沼や牛久沼などがあり、さらには昔の河川の氾濫でできた三日月湖や切れ所沼を由来とする池や沼もかなりあります。これらの周りには、太古より人々の平和な暮らしがあったようで、貝塚や古墳の数が多いのも特徴の一つです。とくに陸平貝塚は、日本人の手で初めて発掘調査され、日本の考古学の原点ともなった貝塚とのことです。
県内には、県西部を流れ、県南部では主に千葉県との県境を流れる利根川があるほか、鬼怒川(衣川、絹川)や小貝川(蚕飼川)など、養蚕に纏わる名称の川があります。さらに那珂川・久慈川などの清流や、花貫川・花園川などの紅葉で名高い渓流や滝があります。とくに日本三名瀑の一つでもある袋田の滝や、かつて土地の女性たちが滝の裏側で二十三夜の月を待って講を催したという月待の滝は、今も人々の心のふるさととして、人気の的となっています。
また桜の名所も数多く、とくに「西の吉野、東の桜川」と呼ばれた高峰の山桜が有名で、世阿弥の謡曲「桜川」の舞台にもなりました。季節には、高峰山の斜面一杯に広がる淡い新緑と、そこに点在する仄かな山桜のピンクが見事に映え、典型的な山里の春の情景を醸し出します。
また最近は、国営のひたち海浜公園が整備され、春のネモフィラ、秋のコキアで丘一面が彩られる風景が、訪れる人々を魅了しています。
一方、自然が生み出す「食文化」も多様です。茨城を含む北関東には冬の家庭料理の定番「すみつかれ」があります。また、水戸と言えば納豆、霞ヶ浦と言えばレンコンを思い起こす人も多いようですが、これら以外にも数多くの名産品・郷土料理があります。その中でも筆者にとって思い出深い料理は、毎年の年末~年始の旅で、北茨城市や大洗町の宿で食した「あんこう鍋」と、大子町や常陸大宮市山方の割烹旅館で食した「奥久慈シャモ鍋」です。まさに冬の味覚、他では味わえない茨城の絶品料理と言えます。
なお、常陸国風土記の総記(序文)にある当地自慢の一節を、参考までに以下に紹介します。
「海山の幸に恵まれ、人々は心安らかで、家々は豊かで賑わっている。田を耕し、糸を紡ぐ者には、貧しい者はいない。塩や魚が欲しければ左は山、右は海であり、桑を植え、麻を蒔くなら、後ろは野で前は原である。海山の幸の豊かなところで、昔の人が《常世の国》と呼んだのは、もしやこの地のことではなかろうか」。
― 往時の勇者・猛者らの足跡 ―
その昔、常陸国と呼ばれたこの地は、都の勢力が及ぶ最北の地でもあり、さらに北へと国土の統一を狙う足がかりの地でもありました。古くは倭武(ヤマトタケル)がこの地を訪れ、そのときの逸話が常陸国風土記に数多く描かれています。往時の日常生活はもちろん、旅先でも、やはり水の確保は最重要な課題だったようで、風土記には、玉井の泉、蜜筑の泉、椎井の池など、泉の話が数多く出てきます。その遺称地は今も数多く残っていて、昔の様子を偲ぶ縁(よすが)ともなっています。常陸の名も、直通(ひたみち)に由来し、都から陸路にて行けることから名付けられたという説と、倭武が泉の水を愛でて手を洗った際に、衣の袖が水に浸った(ひたった)ことからこの国の名としたという2説が書かれています。
後世になって平将門が出現し、新皇を名乗ったため都から疎んじられ、幾度となく激戦が展開されました。北山古戦場(坂東市)で流れ矢を額に受けて絶命した将門の霊は、国王神社(坂東市)に祀られています。都へと運ばれて晒し首となった将門の首は、大声をあげて関東に飛び戻ったという話もあり、その落ちた先という武蔵国柴崎村(東京神田)には神田明神が護持する首塚があります。また延命院(坂東市)には胴塚があり、将門の愛妾の桔梗御前が住んでいたという朝日御殿やその墓という桔梗塚(ともに取手市)もあります。東国の独立を標榜した関東の暴れ者とはいえ、往時の民衆の支持は大きく、死後もまた民衆の信仰は厚かったようで、多くの逸話とともに、居館跡や記念碑などの史跡もかなり残されています。
平安後期には、源義清がこの常陸国への進出を図って武田郷(ひたちなか市)に土着し、武田姓を名乗って武田氏の始祖となり、武田冠者と呼ばれましたが、その後、土地の豪族との間で問題を起こし、甲斐国に配流になりました。そして、その第18代目として武田信玄が輩出されました。このように茨城は、甲斐武田氏のルーツの地とも言えるようです。
また、筑西市中館にあった伊佐城の第5代当主 伊佐朝宗は、源頼朝の奥州征伐の際に参戦してその功により頼朝から奥羽伊達郡(福島県)を拝領し、以後、そこに移って伊達氏の始祖となりました。独眼竜の異名を持ち、のちに仙台藩を樹立した伊達政宗は、伊達家の第17代目の当主に相当します。このように茨城は、伊達氏のルーツの地でもあったようです。
戦国時代には、当地の豪族間にも争いが増え、それぞれが城館を構えて戦った凄まじい歴史があります。県南には多賀谷氏、結城氏、岡見氏、小田氏などが群雄割拠し、県北の佐竹氏、大掾氏などとも勢力争いが続きました。とくに南朝に味方した者が多く、吉野からやってきた南朝の重臣北畠親房の軍勢と協力して善戦したものの、北朝方の軍勢さらには豊臣秀吉の軍勢に敗れて落城し、地方に移封されたり、非業の死を遂げた者も数多く出たようです。県内には、往時の城址・城跡が数多く存在しています。
こういう戦乱の中で、大掾氏の流れを汲む鹿島神宮神官の子として塚原卜伝が生まれました。生涯不敗の剣豪で剣聖と呼ばれ、鹿島新当流の開祖として「戦わずして勝つ」の無手勝流を標榜した人物でした。梅香寺跡(鹿嶋市)には墓が、鹿島神宮駅近くの鹿詰公園には、その功績を記した碑と銅像が建っています。一方、大掾氏の流れを汲む小栗城(筑西市)の城主 小栗氏の悲劇は、小栗判官物語として説経節(中世に興った語りもの芸能)の代表作となりました。餓鬼姿で恋人の照手姫に付き添われて熊野詣でをし、湯の峰温泉の壺湯で快癒する話は、史実半分・創作半分の物語ながら涙を誘うものです。今も熊野街道の一部に、小栗街道という名を残しているようです。
また、火薬を用いる集団を率いた軍勢がその戦勝記念にと、村の鎮守などでからくり人形を操った火祭りの歴史が、無形民俗文化財「綱火」(つなび、つくばみらい市)として今に伝承されている例もあります。総じて茨城は、強者どもの夢の跡だったように思われます。
― 水戸徳川家と尊皇攘夷の思想 ―
江戸時代、水戸藩は善政を敷き、数多くの施策で地域の安定と発展に力を注いできたようです。とくに第2代藩主の徳川光圀は、藩内各地を整備し、多くの寺社に寄進して再興を図り、また久慈川などに堰を設けたり、山寺水道を拓いたりして、民衆の生活の安定に大きな貢献をしました。さらに、懸案の「大日本史」の編纂に向け、御岩神社の奥宮「かびれ神宮」(日立市)で筆初めの儀を行い、その資料集めに助さん・格さんなど多くの学者を雇ってその執筆に取りかかりました。後の明治維新での中心的思想となった「尊皇攘夷」は、この光圀による大日本史の編纂を通じて次第に形作られてきたもので、編纂に携わった儒学者 藤田幽谷により、「水戸学」としてその基礎が整いました。
江戸後期、第9代藩主徳川斉昭は、藤田東湖(幽谷の子)を藩士に登用し、水戸学の実践として藩政改革を実施しました。斉昭は文化的素養も高く、日本三公園の一つである偕楽園(水戸市)を造ったり、中国湖南省の瀟湘八景に倣って水戸八景を選定したりしました。また、近辺に異国の船が出没するようになった当時の情勢を踏まえ、海防のための砲台を設置したり、そのための反射炉型溶解炉(ひたちなか市)を造ったりしました。
斉昭は、ペリー提督浦賀来航の際には幕府の海防参与を務め、水戸学の立場から攘夷論を主張して当時の幕府大老 井伊直弼の弾圧に対抗しました。緊迫した政局下で、家臣の高橋多一郎らは脱藩し、決意の証として断髪して土に埋め、江戸へと出立して「桜田門外の変」を起こし、直弼を殺害しました。この断髪した髪の毛を祀った「水戸浪士の毛塚」(茨城町)が、史跡として今も残っています。
その後、藤田小四郎(東湖の子)を中心に「天狗党」が結成され、攘夷の実行を幕府に促すため筑波山で挙兵しました。一部が暴徒化して「天狗党の乱」を引き起こしたりしましたが、その後、京都にいた徳川慶喜(斉昭の子)を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えようと、800余名の大部隊を編成して京都を目指しました。しかし幕府追討軍に行く手を阻まれ、越前経由へと大幅な迂回を余儀なくされました。
暫くして、頼みの慶喜が幕府追討軍の指揮を執っていたことを知るに及び、天狗党はついに降伏し、越前敦賀で鰊蔵に幽閉された後、計352名が斬首により処刑された歴史があります。往時の鰊蔵は回天神社(水戸市)に移築され、また天狗党烈士の墓もここに建てられています。
その後、江戸幕府第15代将軍となった徳川慶喜は、二条城での藩議を経て大政奉還し、長い幕府政治が終焉しました。水戸藩は、水戸学の発展で多くの学者を輩出し、尊王攘夷運動の中心ではあったものの、内乱などで多くの有能な人材を失い、大政奉還後の明治新政府で要職についた者は皆無だったということです。
ついでながら、当時の人材の一人、赤浜村(高萩市)の農民の出の長久保赤水についてもここに記載しておきます。のちに地理学者・儒学者として水戸藩に仕えた人で、20年以上を掛けてそれまでの日本地図を精査し、「赤水図」と呼ばれる正確な日本地図を作り上げました。
その42年後の1821年には伊能忠敬(千葉県九十九里町出身)が大規模な測地を経て「伊能図」を完成しました。また間宮林蔵(つくばみらい市出身)は、蝦夷地(北海道)に渡って函館で忠敬と会い、師弟の約を結んで測量学を学んでいます。2度にわたるサハリン(樺太)探検で間宮海峡を発見し、サハリンが島であることを証明したのは1809年のことでした。その後も、蝦夷地に10年ほど滞在して地図作成に携わり、蝦夷全図を完成させました。
当時幕府は、「伊能図」はもちろん、林蔵の蝦夷全図も、国家機密として厳重に管理したため外部には出ず、上述の「赤水図」が広く一般に流布して明治初期までの100年間に5版を重ねたと言います。赤水は日本の地理学者として近世史に不滅の足跡を残したものの、残念ながらその後の知名度は、忠敬や林蔵ほどには大きくはないようです。
― 芸術界・文学界の俊英たち ―
茨城では、数多くの分野で多彩な人材が輩出されてきました。戦国期には、佐竹氏一族の出自ながら武家を継がず、画僧となった雪村がいます。彼は、雪舟の画法を独学で習得し、人物画・花鳥画・山水画などで独自の画風を確立して、我が国の水墨画史に特異な地位を築きました。雪舟を超えるといわれる多くの名画を残していて、今も、ゆかりの地に、雪村筆洗いの池(常陸大宮市)が残っています。
明治期には、日本美術院の主宰者の岡倉天心が五浦海岸(北茨城市)に邸宅を構え、敷地内の岩場の一画に六角堂を造り、以後この地を本拠地として日本画創作活動を本格化しました。多くの俊英を集めて日本画の創作活動の中枢となった歴史があります。その弟子に、水戸藩士の子として水戸に生まれた横山大観がいます。東洋の伝統に基づく近代日本画の創成を目ざした画家で、日本美術院の再興に尽くしてその統率者となりました。代表作には「生々流転」「瀟湘八景」や、富士山を題材とした多くの絵があります。
また、洋画家としては、下館町(現、筑西市)に生まれた森田茂がいます。原色を多用し、色を塗るというより絵具を擦り付けるという感じの力強い筆致、重厚な画風が特徴です。初期の作品には人形や人物の絵が多く、のちに風景画も多く描くようになり、その後、偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることがライフワークになりました。そのシリーズ作の1つで日本芸術院賞を受賞しています。
また、北茨城市生まれの詩人 野口雨情は、「船頭小唄」「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」など、童謡を中心に日本人の心を揺さぶる数多くの作品を残しました。さらに後世には、作詞家 高野公男が歌謡曲の世界を開拓し、親友の作曲家 船村徹とコンビを組んで「別れの一本杉」「男の友情」「早く帰ってコ」「ご機嫌さんよ達者かね」など、多くの歌謡曲の名作を残しました。郷里の笠間市にはその一本杉の碑があります。また、作曲の巨匠 吉田正は、もとは日立製作所が創設した工業専修学校を卒業した技術系の人だったようですが、のちに音楽で身を立て、「いつでも夢を」「潮来笠」「有楽町で遭いましょう」など、生涯で2400曲を作曲したといいます。その記念館がかみね公園(日立市)にあります。
一方、江戸後期に利根町で生まれた医師 赤松宗旦は、利根川沿いの各地についてその歴史・風土・風習・民話などを調査し、「利根川図志」を著しました。挿絵には、本人以外に葛飾北斎、歌川広重らも協力しているとのことです。今も宗旦の旧居跡が利根町に残り、また彼の墓も近くの来見寺にあります。また、幼少時代を利根町で過ごした柳田國男は、この宗旦に心酔し、さらに徳満寺(利根町)の絵馬(間引きの悪習を描いたもの)にも触発されて学問の道に進み、民俗学の開拓者として活躍しました。
日本文壇では、農民文学の不朽の名作「土」を著した歌人 長塚節や、「草燃える」などで著名な歴史作家 永井路子がいます。一方、我が国マンガ界の重鎮である手塚治虫は、そのルーツが茨城にもあるようで、府中藩医をしていた先祖の墓が清凉寺(石岡市)にあります。
最近ではアニメ「ガルパン」やゲーム「艦これ」により、その物語の舞台となった大洗町がアニメ愛好家・ゲーム愛好家の聖地となっています。日本三大民謡の磯節で有名な大洗磯前神社(大洗町)の境内には、これらのアニメやゲームに因んだ萌えキャラクターや戦車が描かれた数多くの絵馬(通称、痛絵馬)が奉納されています。
他にも、この芸術・文化の分野での有名人は数多いようです。例えば都々逸節で名声を轟かせた都々逸坊扇歌は、江戸で一世を風靡した人気芸人でしたが、世相風刺が幕府批判とも取られて江戸を追われ、郷里の茨城に戻りました。彼の記念堂が常陸国分寺(石岡市)にあります。また、筑波山から名を取った板谷波山は陶芸の重鎮として「葆光彩磁」の技法を確立し、その伝統は今も、笠間焼き陶器の里の発展を陰で支えているようです。また篆刻では、古河出身の篆刻作家 生井子華の遺作が、全国でも例をみない篆刻美術館(古河市)の一角に展示されています。
― 茨城人の心を育んだ神社仏閣 ―
県内には神社が2492社あり(全国10位)、寺院は1294寺ある(全国29位)と言われています。古くから民衆の心の拠りどころとして親しまれ、茨城県人特有の実直で誠実な精神を育んできた中心的存在だったと思われます。
その神社の頂点にあるのは、常陸一宮の鹿島神宮(鹿嶋市)、二宮の静神社(那珂市)です。千葉県香取市の香取神宮とともに、古くは東国三守護神とも呼ばれてきました。
また鹿島・香取神宮とともに東国三社の1つに数えられた息栖神社(神栖市)もあります。江戸時代中期には篤い信仰を集め、舟運を利用した三社詣での客で賑わったようです。利根川の支流である常陸利根川沿いの息栖河岸には、「木下茶船」(きおろしちゃぶね)と呼ばれた乗合遊覧船が、一日平均12艘も発着したといいます。
他にも歴史的な神社は多く、常陸国風土記に出てくる普都神話の聖地、楯縫神社(美浦村)・阿彌神社(阿見町)や、地主神の香々背男の荒魂を宿魂石に閉じ込めたという大甕神社(日立市)などがあります。また大生郷天満宮(常総市)は、菅原道真の三男景行が、太宰府に没した父の遺骨を手に常陸国に赴任した際にここに祀ったという神社で、実際に遺骨が納められた神社としては太宰府天満宮とここしかありません。京都の北野天満宮と併せ、日本三天神と呼ばれることもあるようです。
一方、航海の神として大杉信仰が発展し、のちに天狗信仰で全国に広がった大杉神社の総本宮(稲敷市)もあります。他にも、昔の各集落には大小様々な神社が祀られ、その中には、河童から手接ぎの秘法を教わったという伝承のある手接神社や、耳の不自由だった千代姫の逸話のある耳守神社(ともに小美玉市)などがあります。このような、手や耳に特化した神社は、我が国ではあまり例を見ないようです。手接神社では手の形をした手作りの板や手袋を絵馬とし、耳守神社では願い事を書いた素朴な竹筒を絵馬として、それぞれ奉納されています。
また、花園渓谷にある花園神社(北茨城市)は、昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に創建したという伝承のある紅葉の美しい神社です。さらに、栃木・茨城の県境には、参道も山門も拝殿もすべて両県に跨がる形で創られた鷲子山上神社(常陸大宮市と栃木県那珂川町)があります。社務所も参道の両側に相対して二つある特異な神社です。宮司も両県から一人ずつ、計二人という状況だったようですが、近年は茨城県側が栃木県側に業務を委託して一本化して管理運営されているようです。
一方、寺院に関しては、越後に流された親鸞聖人がその後常陸国に来て、小島草庵で3年、続いて稲田草庵で約20年の布教を行ったという歴史があり、稲田草庵跡には西念寺(笠間市)が建っています。ここで有名な「教行信證」を執筆したという歴史的な場所です。また、幽霊の噂で荒廃していた寺を親鸞が再興したという無量寿寺(鉾田市)や、荒くれ者だった唯円を改心させた「身代わり名号」の逸話のある報佛寺(水戸市)もあります。親鸞の弟子となった唯円は、後にあの有名な「歎異抄」を著し、深淵なために誤解されがちだった親鸞の教えを、正しくかつ平易に民衆に説きました。
他にも、天台宗の檀林(僧侶の学問所・養成機関)で、関東八檀林の一つとして隆盛を誇った逢善寺(稲敷市)や、浄土宗の檀林で、家康の孫 千姫の墓がある弘経寺(常総市)、真言宗の檀林で見事な枝垂れ桜の古木で著名な六地蔵寺(水戸市)などがあります。また江戸時代に芭蕉が招かれて滞在したという根本寺(鹿嶋市)や大儀寺(鉾田市)のように、鄙びた古寺も数多く存在しています。
近年では、浄土真宗本山の東本願寺が管理・運営する牛久大仏(牛久市)が建立され、人々の参詣・見物の波が絶えません。全高120㍍(身丈100㍍、台座20㍍)もあり、青銅製立像としては世界最大とのことです。自由の女神像(身丈34㍍)の3倍近くもあり、奈良の大仏が掌に乗るほどの大きさで、圧倒されるほどの偉容を誇っています。
― 科学技術と産業発展の礎 ―
耕作面積比率が27.2%と全国第1位の茨城県は、もともと農業が盛んで、今も農業産出額が北海道、鹿児島に次ぐ日本第3位の農業県としての地位を保っています。県の特異な農産物としては、霞ヶ浦周辺でのレンコン、笠間市やかすみがうら市の栗、ひたちなか市のサツマイモ、行方市のメロンなどがあります。常陸三蚕神社と呼ばれる蚕影・蚕養・蚕霊神社(それぞれ、つくば市・日立市・神栖市)には、蚕に変身した金色姫の伝承があり、以来、養蚕業が盛んとなって絹川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)などの河川に名を残し、また、結城紬(結城市)などの伝統工芸の誕生と発展にも繋がりました。
しかし、とくに県西・県南では、年間降雨量が少なく降雨分布が不均一で、河川の水源が不安定でした。農業を初めとする広範な産業を発展させるためには水不足の問題を解消する必要があり、そのため、昭和末期~平成初期に霞ヶ浦用水の建設が企画されました。その結果、霞ヶ浦の水を汲み上げて筑波山の下をトンネルで抜け、いったん、つくし湖(桜川市)に蓄えたあと、県西の東山田調整池(古河市)までの道のりを自然流下で搬送する約70㌔㍍の壮大な設備が完成しました。その後この用水は、地域の発展に大きく貢献し、現在も農業用水・工業用水として広く活用されています。
一方、稲田の石切山脈(笠間市)や筑波山山塊の加波山(桜川市)では、今も良質の花崗岩を算出し、とくに稲田石は日本橋、日本銀行、国会議事堂などの歴史的建造物にも広範に利用されてきました。
また、日立鉱山での銅・硫化鉄の算出を契機に、日本一の高さを誇った大煙突で有名な日本鉱業が創設され、その修理工場として発足した日立製作所は、その後、国産技術を標榜する我が国有数の大企業となりました。第2次世界大戦後には、神栖市に鹿島港が掘削され、そこを基盤にして鹿島臨海工業地帯が建設され、日本の重工業の中枢の一つとして発展してきました。
また、東海村には日本原子力研究所が設置され、我が国最初の原子の火が灯りました。現在は日本原子力研究開発機構へと発展し、東日本大震災の際の福島原子力発電所事故を契機とした原子力に対する風当たりの強い世評の中ながらも、その事故処理技術の開発とともに、将来のエネルギー資源確保に向け、科学者・技術者らが継続して研究開発に精力を注いでいます。
この原子力についての基礎が学べる施設の1つに、茨城原子力協議会が運営する「原子力科学館」(東海村)があります。原子力発電の仕組みなどが簡明に解説されていて、とくに、自然に降り注いでいる放射線の通過軌跡が目に見える大型の霧箱(クラウドチェンバー)の展示は、来館者の注目の的となっています。
さらに、我が国最初の衛星通信基地が高萩市の山中に設置され、昭和38年には日米間でのテレビ中継が初めて行われました。その際、米国のモハベ砂漠にあるNASA地球局から衛星経由で最初に送られてきた映像は、奇しくもケネディ大統領の非業の死を伝えるものでした。この基地は、現在ではその役目を終了し、衛星通信記念公園(高萩市)として整備されています。
さらに、つくば研究学園都市が建設され、数多くの大学や研究機関が集まる頭脳都市として進展し、今では約300におよぶ国や企業の研究機関があります。そこには計2万人ほどの研究者が在籍し、学位(博士号)取得者も7000人超と言われていて、我が国の科学技術と産業発展の原動力としての基盤を担っています。
各研究機関では、重要課題への斬新なアプローチで卓越した成果が次々と世界に発信されていますが、その一方で、数多くの科学館も併設されていて、これらには、食と農の科学館・地図と測量の科学館・地質標本館・つくばサイエンスセンター・筑波実験植物園(いずれも、つくば市)などがあります。市民・県民が最先端科学技術と身近に触れ合える場所であり、とくに若い世代に対しては、科学技術への知的興味を呼び起こす貴重な情報発信基地ともなっています。