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随想 技術の散歩道 ― 第3編 ― (No.11~No.15)
技術の散歩道 No.11
知能ロボットの夢と現実
ロボットという言葉が学界・産業界で真剣に取り沙汰されるようになってから、もう四半世紀以上が経った。私のロボット技術についての紹介記事が計測自動制御学会誌に掲載されたのは、たしか1963年のことであった。その5年後にはアメリカからバーサトランとユニメートという初期の工業用ロボットが初めて日本に輸入され、さらにその2年後の1970年には、本邦初の人工知能ロボットが実現され公開されたのである。これを契機に日本でもロボットの開発機運が高まり、その後、世界を先導するまでに技術が大きく進展し、生産の自動化と産業の発展に多大な貢献をした。
ところで1970年代の研究の黎明期には、このロボットの工学的な研究活動を表現するいい言葉が存在しなかった。バイオロジーとの類推でロボットロジーという言葉を宛てようという提案があったが、私にはどうもしっくり来ず、むしろエレクトロニクスからの類推で「ロボティックス」という言葉を勝手に作り、「ロボット工学」という意味で使っていた。この言葉は、当時、辞書にもなく、あまり自分でも自信が持てなかったので、世の中にそれほど強い提案をしては来なかった。そうこうしているうちにアメリカでこの言葉が使い始められ、あれよあれよという間に世の中に定着してしまったのである。
このロボティックスという響きのいい言葉に比べて、ロボットという言葉には、未だに何か胡散臭いものを感じさせる何かがあるようだ。人類は紀元前のギリシャ神話の時代から、下僕として働く自動機械を夢見てきた。20世紀になってからも、ロボットという言葉の発端となったカレルチャペックの「ロッサム万能ロボット会社」という戯曲で代表されるように、意識を持つようになったロボットが人間に反逆するという非現実的世界が数多く描かれている。こういう歴史がどうやら胡散臭さの原因のようである。現在でもロボットの研究者が夢を語ると、理想のロボットとして鉄腕アトムが登場するし、理想社会として、自律型の移動ロボットが街を闊歩する未来社会が描かれるようである。
しかしこのような夢に対して、現実はそう甘くない。2足歩行などの制御技術は最近大きく進歩してきたし、視覚や知的判断技術にも長足の進歩が見られるとはいえ、電源をどうするかという基本的な課題があり、これについてはまだ解決の糸口すら見えていないようである。研究者の興味は、パワー系よりも情報系に集中しがちであり、未だに長い尻尾(電源コード)を引きずったロボットしか作れないのが現実である。電池を搭載すると途端に体重が重くなり、自分の体を動かすことだけでかなりの体力を消耗し、1、2時間で動けなくなる。その後はその数倍の時間の静養と栄養補給(再充電)を必要とするのである。しかもこの電池の進歩は10年に2倍程度であり、もしこの傾向が続けば、ようやく移動ロボット用として使える電池が出来るまでにあと60年は掛かる計算になる。残念ながら私には、そのようなロボット社会の到来を見届けるほどの余寿命はないのである。
また、たとえ将来自律型の移動ロボットが出来たとしても、街を闊歩させるのには問題が多い。やはり人間に対する危害が心配である。完全な機械は存在しないので、完全なロボットも存在しない。とくにロボットと車と人とが共存する社会は、考えられないという以前に、考えたくないのである。どうしても街に出したければ、体重を人間の1/3、速度を人間の1/4程度にして、運動のエネルギーを人間より二桁小さくする必要があろう。
ところで、街を闊歩させて一体ロボットに何をさせられるだろうか。人間にとって有用なことをこれらのロボットはやれるのだろうか。ロボット研究者の間にも、まだ、きちんとした回答を持っている人は少ないようである。物を運ぶには遅過ぎることになろうし、人間への情報伝達の役目を担わせるだけなら、何も動き回るロボットでなくても、固定の情報ポストでいい筈である。多分、電子技術がもっと発達し、ポケットに入れた電子カードや手首にはめた新型電子ウォッチで十分に対応できるようになると思われる。
自律型移動ロボットは技術的には確かに面白い。しかも他に応用可能ないろんな波及効果も期待できないわけではない。また、人間の機能や行動の理解にも役立つ。とくに大学教育では、学生に夢を与え、メカニズムの面白さを教え、物を作る喜びを味わわせるのに好適であろう。けれどもこの夢は、例によって鉄腕アトムになりがちで、非現実と現実の混同が起こり兼ねないのが心配である。しかも悪いことに、試作されたロボットは、一回だけ動いてビデオテープにでも撮れば、あとは二度と動かなくてもいいわけで、学生が社会に出たときに最も重要な筈の「信頼性」についてはほとんど考慮されない場合が多いようである。
自律型移動ロボットの典型的な応用例として、センターラインや路肩を視覚で認識しつつ自動走行する知能自動車の研究も活発になされてきた。ここではパワーの問題は比較的少ないが、どうも研究の先行きが暗いように思う。私の個人的な趣味で言えば、すいすいと走れるような道路では自分で運転をしたい。本当に自動運転に委ねたいと思うのは、にっちもさっちも行かない渋滞時なのである。渋滞時に自動運転モードに切り替えておけば、直前の自動車が少し動けばそれに追従して自車も少し移動し、その間運転者は新聞でも読んでいられるような機能なら興味がある。一般に自動車の高速自動走行は、製造物責任上からも問題含みであり、もっと人間の運転を安全の面から支援するような運転支援システムの研究の方が、社会的意味が大きいように思うのである。
(平成10年6月)
技術の散歩道 No.12
論文博士制度の意義
欧米では博士号の学位を持っていると、人々から受ける尊敬が一段と大きいようである。日本でもまだ博士の数が少なかった時代には、「末は博士か大臣か」と一部の民謡で唄われたように、世の中からも大きな期待があり、また尊敬されたようである。今でも世間から一目置かれていることに変わりはないが、人数が増えるにつれて多少の地位低下があるのかも知れない。この唄の文句から見て、昔は大臣も大きな尊敬を集めていたようだが、最近では、並び称されている博士よりもさらに激しく地位が低下してしまっているのではないかと危惧される。今の世だと、末は何を望むことになるのだろうか。
最近の小学生を対象としたある調査では、将来なりたいものの男子の一位が野球選手で、女子の一位は保母さんとのことである。わずかに学者というのが男子の六位に顔を出している。大臣や政治家というのは十位までには入っていないもようである。対象が小学生だけに無理もないが、学者にしても政治家にしても、もう少し若い世代にアッピールできるような職種であって欲しいものである。若者の理科離れがもう長い間問題となってきているが、小学生はまだ大丈夫で、彼らの興味をいかに継続させるかが課題、というのが通説であった。短絡的過ぎるのを承知で言えば、この調査結果からみてどうやら小学生にも理科離れが始まったようである。
ところでこの博士号は、昔は、学術上の立派な成果を上げた人々に対して、大学に学位論文を提出することで授与されるのが慣わしであった。最近では、大学院の誕生とともに少し考え方が変わり、将来の可能性に対して与えられるようになった。博士課程を終了して一人前の研究者として認定されたときに与えられるもので、アメリカなどの Ph.D.制度に倣ったわけである。現在はこの課程博士と、従来の論文博士とが両立し、絶妙な調和が保たれているように思う。
この学位を持つということは、大学ではかなり絶対的なもののようで、とくに工学系・理学系の教授の公募の公告には必ず学位所持者であることが条件となっている。もちろん学問分野によっては、必ずしも絶対条件ではないところもあるらしい。ところが企業では、学位は別に何の条件でもない。学位を持っていようがいまいが、そのことだけでは何ら差別はないのが普通である。もちろん企業でも、従業員が学位を取ることについて、陰ながら奨励をしている例は多い。その人の意欲をかき立てるし、その分野での技術の深みが増すし、取得後はその人の自信になって現れ、結果的に企業にとっても効果が大きくかつ名誉でもあるからである。
私の所属する企業でも、すでに博士号を取得した者の間で「返仁会」という組織がある。エンジニアはすべからく変人(ヘンジニア)と呼ばれるほどまでに技術の道を極めて欲しいという願いから、当初「変人会」として発足したが、多少世間体が悪いこともあり、その後文字だけを変更したわけである。しかし今も内部では変人というのが博士号を持つ者の呼称として定着し、会員は自ら変人と号することで心の増長を戒めつつ、自己研鑽と後進育成に努めているのである。このような組織があるせいもあり、とくに博士数の多い私の研究所では、研究者の間にいずれは博士号を取るのが当然という暗黙の雰囲気があり、若い研究者もその日を目指して日夜頑張ってくれているようである。このような雰囲気の中だと、誰が言い出したのかは知らないが「博士号は足の裏の米粒」と冗談を言われるようにもなる。「取らないと気持ちが悪いが、取っても食えない」ということらしい。
ところで数年前、大学の考え方が少し変化し、論文博士をあまり歓迎しないような風潮が出て来たことがあった。企業での研究で学位が取れるので、優秀な学生が早い時点で企業に就職してしまうため、大学での後継者不足が心配であったとのことである。そのため、論文博士制度を廃止しようとの議論もなされたもようである。しかし最近では、大学院大学が充実されてきたので、この後継者不足の問題は解決されるように思う。また企業人が大学院の学生として登録し、何年か大学院に通って学位を取れる社会人コースもでき、かなり一般化してきたようである。
ひと頃議論されたように、もし企業からの論文博士の門を完全に閉ざしてしまうとなると、日本は確実に滅びていくのではないかと思う。戦後の復興とその後現在に至る産業の発展には、先陣を切った企業技術者の大きな努力がその底力となった。彼らには技術上の目標以外に、それぞれに個人的な別の目標があり、その一つがこの学位であった。この論文博士の道がなくなると、今までのような企業の研究者の頑張りは期待できなくなるのではないかと思われる。企業を中核とした産業あっての日本であり、大学だけでは日本は成り立たないのである。だから、企業の状況を無視した論文博士制度の廃止論だけは再燃させて欲しくないのである。
このような論文博士の制度はアメリカにはないが、私が知っている例ではオランダにあるようである。だからオランダの底力は強いのかも知れない。私の知人も今、そこの企業の研究所で学位をとるために頑張っている。また数年前に訪れたブルガリアでは、友人が既に学位を持ちながら次の学位を目指しているのを見た。この第二の学位の取得には国外からの推薦状をも必要とし、その口頭試問審査は大変厳格らしい。大学教授でもこの第二の学位を持っているものは二割程度という。私も彼のために、技術的にかなり詳細な推薦状を書いた。どうやらこのような制度は、ロシアをはじめ旧共産圏に共通な制度らしい。論文博士のほうが上位に位置付けられているということのようである。
(平成10年7月)
技術の散歩道 No.13
プレゼンテーションの進化
研究成果の発表や製品のプロモーションでは、いかにして人に理解してもらうかが重要である。そのための基本は、簡潔で正確な話し方であり、加えて視覚に訴える何かがあるとさらに理解が容易となる。現物を見せるのも一方法だが、いつも持ち運べるとは限らないし、内部の詳細構造までは判らない。そのために、写真や図を用いて説明することになる。この種の説明のことを一般にプレゼンテーションというが、そこでは視覚に訴える道具として各種のビジュアルエイドが使われてきた。
私が学生であった1950年代後半はスライドプロジェクターが唯一のビジュアルエイドであった。しかしスライドを作る手間と費用がばかにならないため、多くの研究発表は「模造紙」を用いた掛け図によって行われていた。この模造紙というのは、もともと三椏を原料とした日本の優良紙がオーストリアで亜硫酸パルプを用いて模造され、それがまた日本で模造されたことから付いた名前らしい。何枚かの大きな模造紙に要点を書き、丸めて発表会場へと持参し、竹製の指し棒を使って説明したものである。
1960年代半ばになると、日本の学会発表でもスライドプロジェクターの利用が一般化し、竹の指し棒もいつしか伸縮自在の金属製指し棒に替わった。また映画カメラと映写機も、まだ高価ではあったが研究室で購入出来る時代になり、実験での現象記録や成果の記録保存に16ミリ映画フィルムが使われるようになった。私が初めて英語による研究発表をしたのは1971年のロンドンでの人工知能国際会議であったが、このときには人工知能ロボットの研究成果をスライドと16ミリ映画を用いて説明した。動く映像がビジュアルエイドとして大きな効果を挙げることが認められてきた時代であり、私の発表したセッションでは、発表者が皆映画を使うらしいということが事前に聴衆に伝わっていたようで、会場が満杯になったりした。
この人工知能国際会議は、1975年にはソ連のツビリシ市で開催された。現在はグルジア共和国の首都であり、スターリンの出身地として知られている。当時はまだ東西の緊張下で我々会議参加者に対する監視も厳しく、会場やホテルの周辺には秘密警察らしき人影がかなりうろうろしていた時代であった。現地人との私的な接触を極端に嫌っていた様子があり、そのためかソ連人学者らも我々との会話は必要最小限に留めていたもようであった。とくに橋や駅の写真でも撮ろうものならすぐ密告され、フィルムを没収されるという話が囁かれていた。そういう暗い雰囲気であったせいか、この会議でのソ連の学者の発表には最初驚かされた。どのスライドも、30秒ほどたってその説明が終わるころになるとトロトロと溶け、字が消えていくのである。さすが秘密の国、研究発表も証拠を残さないために工夫されている、と一瞬錯覚したが、何のことはない、ただスライドの質が悪く、また黒色背景に白抜き文字で作られたために熱の吸収が大きく、そのために表面被膜がプロジェクターの熱で溶けてしまっただけのことであった。
1980年代になるとスライドに替わってOHP(オーバヘッドプロジェクタ)の全盛時代が来て、指し棒もOHPのガラステーブル上にペンを置くことで代用出来るようになった。さらに後半になると、ビデオテープを利用した発表も頻繁に行われるようになり、また半導体レーザを用いたレーザポインタが使われるようにもなった。私も1984年モントリオールでのパターン認識国際会議を最後に、OHPとビデオテープを用いた発表へと切り替えた。
しかしながら、ご婦人方も集まるバンケット(晩餐会)でのキーノートスピーチ(基調講演)ともなると、やはりスライドを用いた講演の方が雰囲気的にもよく似合うし、また色彩的にも優雅であった。そのため1994年ラスベガスでの米国電気電子学会の国際会議に招待されたときには、スライドを準備することとした。とはいえ発表のし易さの点からはOHPも捨てがたく、これも併せて準備することとした。
なごやかな晩餐が進み、食後のコーヒーが運ばれ、いよいよ私のスピーチが始まろうとした矢先、あらかじめセットされていたスライドが手違いでプロジェクターからバラバラと床に落ちてしまった。これを並べ直して再度セットするには時間も掛かるため、とっさの判断でOHPへと切り替え、何気無い顔でスピーチを開始した。幸い結果は上々で、両方を準備していた用意周到さに聴衆は感心していたようだが、実を言うと決心の鈍さがその裏にあったわけである。
ところでこのOHPも、以前はまず白紙に描いた原稿を転写して作ったが、図形処理のソフトウェアの充実につれ次第に計算機による作図が増え、またOHP用紙の改良で直接計算機からカラーで出力出来るようになった。また計算機の小型化につれて、その画面出力を直接にスクリーンに投影するために、OHP上に置く形式の液晶盤も一時利用されたが、精細度不足のためあまり普及しなかった。
その後、比較的精細度の高い小型液晶盤を用いた液晶プロジェクターが開発され、最近ではマイクロミラーによる反射型プロジェクターも実現された。プレゼンテーション用の簡易な図形作成ソフトウェアの普及と相俟って、これらの新型プロジェクターを用いた電子プレゼンテーションが普及の兆しを見せている。またディジタルカメラや最新のMPEGカメラで撮った静止画や動画を画面にはめこむことも容易となり、従来にない効果的なプレゼンテーションが可能となった。さらに、このようにして作ったプレゼンテーション用のコンテンツを電子メールで先に送り、会場には手ぶらで行ける時代にもなってきた。今後、さらに便利なプレゼンテーション方式へと進化し、世界共通の方式として国際理解と知識の交流に役立っていくことになるのであろう。
(平成10年8月)
技術の散歩道 No.14
匂いと臭い
人間の鼻の中には、約2万5千個の嗅細胞があり、これらからの感覚情報を処理して約10万種の「におい」を嗅ぎ分けられると言われている。私個人にはそれだけの能力があるとはとても思えないが、少なくともいい「匂い」と悪い「臭い」の2種への分類は可能である。今までに経験した最悪の臭いは、高校時代に理科教室で嗅いだメルカプタンの臭いであり、これが私の化学嫌いの発端になった。
嗅覚は、揮発性物質の分子が鼻腔の水性の粘膜に吸着され、それが嗅細胞の内部に溶け込むという化学的な反応を基本原理とする感覚機能のようで、物理化学的な基本原理に基づく視覚や聴覚とはかなり趣を異にする。とはいってもまだ正確な原理がわからず、この微粒子説のほかに、分子の振動エネルギーに基づくとする波動説もあるようである。
嗅覚は、心理的な要素によってもかなり影響されるようであり、同じ「におい」でも状況によって快かったり不快であったりする。良い匂いの代表である香水も、徒然草に出てくる宮中の女性の「追い風用意」のように、ほのかな香りであるうちは風情もあろうというものだが、暑い夏の日の満員電車の中などでは耐えられないことがある。今までに遭遇した最悪の場所はパリの空港の国際線待合室近傍で、免税品売場から漂う臭いが、狭くて混雑した通路に四六時中充満し、そこを通るのはまさに地獄であった。しかも悪いことに、売る側も買う側も、いい匂いを嗅がせてやっているのだから文句はあるまい、という態度のようであった。その後改善されたかどうか、暫く訪れていないのでわからない。抽出し、濃縮し、ブレンドしたものから感動を味わうにはどうやら無理がある。香りは自然にあってこそ好ましい。
食品にも各種の香料が使われるが、伝統の日本料理では食材そのものの味を大切にするから、せいぜい自然の香料でのおだやかな香り付けに留まっている。嗜好品にも香料は不可欠であり、中でも香料が最も重要な地位を占めているのは、おそらくチューインガムであろう。これはもともと日本にはなく、大戦後の昭和20年代にようやく国産化されたもので、甘味と香料がすべてであるような製品といえよう。ところがこれも、電車の中で噛まれると最悪なのである。しかも、日本ではまだ歴史が浅いせいか、あるいは日本人の口の構造が多少違うのか、まだガムの噛み方が下手で、音をたてながら噛む人が多い。口を開けずに静かに噛んでいるのなら、臭いも口中に閉じ込められて他人に迷惑とはならないと思うのだが、どうも喫煙者よりもガム愛好者の方が一段とマナーの悪い人種のように思えてくるのである。
最近の喫煙者は結構マナーがよくなっているようで、禁煙場所での喫煙は極端に少なくなった。もちろん電車の中で吸うような人はいない。ところがガム愛好者は、喫煙と同じようなことを満員電車の中でやっていることに気付いていない。肺に直結したところから吐き出される乾性の煙草の煙よりも、胃に直結されたところから出てくる湿性のガムの臭いの方が、心理的にも気持が悪いのである。だから電車の中では禁ガムにするか、あるいは香料添加を少なくして臭いを発散しないガムを開発すべきなのである。
ところで鼻の中に飛び込む異物は、においのあるものばかりとは限らない。においは、あればあったで始末が悪いが、ないともっと悪い。最近ではダイオキシンや、花粉によるアレルギーが問題となっている。花粉の大きさは樹木によっても異なるが、大抵は30から50ミクロン程度であり、においを引き起こす揮発性物質の分子の1ナノメータほどの微粒子と比べると4桁ほど大きく、煙草の煙の粒子0.1~1ミクロンに比べても2桁ほど大きい。鼻の粘膜の嗅細胞を刺激する以前に、どうやら粘膜そのものを物理的に刺激してしまうようだ。
私がはじめて花粉症の存在を知ったのは、約20年前、カリフォルニアに滞在していたときのことである。ホームドクターを依頼していた医師のオフィスの壁に、注意を促す色刷りのポスターが貼られていた。きれいな花の20種ほどの植物が刷り込まれ、病名としてHay fever とあった。直訳すれば干し草熱ではあったが、辞書を引いて初めて花粉症という言葉を知り、英和辞書にあるくらいだから日本にもあるのだろうと思ったわけである。それまでは日本で話題になることは少なかったようだし、既に患者もいたのかも知れないが、いたとしても皆が皆、花粉症として自覚していたとは思えない。
その後日本に帰ってきて、杉の花粉が大騒動を起こし、花粉症の記事が新聞雑誌に氾濫しているのを知った。ここ数年、春先の年中行事と化したが、これも人間が自然に逆らったことに対する自然からの報復と考えられなくもない。現在ではこの花粉症に掛からないのは文明人ではないかのごとく見られるほどの蔓延ぶりであり、まだ何とか大丈夫な私は、どうやら時代に遅れていると見做されるのである。
最近の世の中の嫌煙ぶりも、この花粉症とは無縁ではないようで、健康志向の高まりだけではなく、全体的にかなり鼻の感覚に異常を来たしている可能性もある。煙草自体も、昔は「紫煙」と称して香しく感じたものだが、最近では、煙草好きの私でさえ最悪と感じるようになっている。タールやニコチンの量を減らそうとする改良研究には熱心にならざるを得なかったが、どうも匂いまでは気がまわらなかったのではないかと思われる。
従来以上に空気中にいろんな分子や粒子が漂う時代にあって、もう少し広い見地から「におい」全般についてのあり方を見直すことも重要に思う。それぞれに良かれと思っている「匂い」も、状況によっては他の人にとって耐えられない「臭い」となり得るのである。
(平成10年9月)
技術の散歩道 No.15
ブルガリアの旅
娘が独身最後の思い出に、家族みんなで音楽会に行こうとブルガリア民族合唱団のチケットを買ってきたことがあった。農民の地声が響くような特異な歌唱に圧倒され、以来、いつの日かこの国を訪れてみたいと思うようになった。
その後数年たったある年の春、私はスウェーデンからの招待を受け、ウプサラの町にいた。そこでスカンジナビア国際会議が開かれることになり、特別講演を依頼されていたのである。スカンジナビア諸国からの参加者に加え、他のヨーロッパ各地からの参加者も多く、その中にブルガリアのある教授がいた。開会初日の冒頭に予定された私の講演が無事終わったあと、彼が話しかけてきて、秋にブルガリアにも招待したいという話が持ち込まれたのである。半分は外交辞令と思っていたが、それから数ヶ月のうちに具体化してブルガリア科学アカデミーからの正式な招待状が届き、首都ソフィアへと旅立つことになった。
この教授とはとくに深い付合いというわけではなかったが、数年前からの顔見知りではあった。その最初のきっかけを作ったのは実は私の妻で、アメリカのアトランティック・シティで開催された国際会議のときに、学会主催の観光プログラムに参加して知り合ったという。そのため妻も一緒に招待を受けたのである。
同じく招待を受けてやってきたポルトガルの大学教授らとともに、到着の翌休日、ソフィア郊外のヴィトシャ山へのピクニックに誘われた。次々とケーブルカーを乗り継いで登った海抜2300mの山頂で、心地良い秋風のもと、遠くにバルカン山脈を望みながら、教授の持参したブルガリアの秋の味覚の数々を味わった。山頂の山小屋で振舞われたハーブ紅茶の甘い味は、当地の名物の一つらしく、今では忘れられない味となっている。
翌日、ブルガリア科学アカデミーで一回目の講演を行い、そのあと晩餐会が持たれた。その席上の挨拶の中で、私が以前に日本でブルガリア民族合唱団の歌を聞いたことがあることと、それ以来一度は是非来て見たいと思っていたことを話した。かつて日本に行ったことがあるという科学アカデミーの中年の女史が隣に座り、にこやかに頷いてくれていたが、この時は彼女のこの頷きの意味がわからなかった。
私たちは、あまり奇麗とは言えないブルガリア科学アカデミーの専用宿舎に滞在しつつ、この女史とその女子大生の娘さんの案内でソフィアの街を見物し、この国が共産圏から自由圏へと脱皮しようとする苦悩を垣間見ることになった。物価は驚くほど安く、コーヒー一杯が十数円というところもあったが、当地の民衆の収入レベルもかなり低いようで、それなりに生活は厳しい様子であった。共産時代の象徴であった銅像はすでに取り払われ、ブルガリア人民共和国の父と呼ばれた初代大統領ディミトロフの廟は取壊しが決定し、その遺体はすでに火葬されたという。変わりに自由圏の象徴として、マクドナルドとKFC(ケンタッキーフライドチキン)が賑わいを見せ始めていた。国全体が豊かな自然に恵まれてはいるものの、基本的には農業国で、これ以外に主要な産業がないために財政状態は悪く、建物の補修も街頭の清掃もままならない様子が散見された。
黒海沿岸の都市バルナでの講演のために、小さな車でバルカン山脈に沿って西から東へと国土を横断することになり、途中、コプリフシュティツァの町に宿泊することになった。この町は歴史的に古く、町全体が建築記念物といった風情であり、ブルガリア精神の古里といった趣の美しい町であった。この別荘の町は、夜ともなるともう冬の訪れの気配が感じられ、吐く息も白く、人影もまばらであった。町一番のレストランでは、訪れる人もなく、私たちが唯一の客であった。強い地酒で何度もナズドラヴェ(貴方の健康のために)と乾杯を繰り返しながら、話が弾んで大騒ぎした夕食だった。
翌日は、見渡す限りの見事な紅葉の中をさらに東へと車を走らせ、黒海沿岸の都市バルナに着いた。初めて見た黒海は、その名からの印象とは全く異なり、青く澄んだ奇麗な海だった。バルナ工科大学で二度目の講演を行ったあと、学長主催のレセプションに招かれたが、その席上でも、何人かの大学教授から学問の現状やこの国の窮状をいろいろと知らされ、逸早い経済の再建と民衆の幸福とを願わずにはいられない気持ちに駆られたりした。
私が大学などを訪問している間に、妻は、道端で店を開く主婦たちの手作りの刺繍織物に興味を持ち、土産用も含めてかなりの量を買い込んでいた。いつもの海外旅行の習慣で、かなり値切って買ったらしい。滞在が慣れるに従い、この国の民衆の生活困窮振りが次第に実感出来るようになり、どうせ大した金額ではなかったのに何故あのとき値切ったのかと、妻は今でも自責の念に駆られているという。
夜の山中の幹線道路で、跳びだした大イノシシに一撃を喰らいそうにはなったものの、無事ソフィアに戻り、いよいよ帰国の途につくこととなった。見送りに来てくれた例の女史がそっと手渡してくれた紙袋の中には、彼女の論文とともに、ブルガリアンポリフォニーと呼ばれているあの民族合唱団の音楽テープが添えられていた。歓迎晩餐会のときの私の話を聞いて、帰国の日までにわざわざ自身の手でダビングしてくれたらしい。また、海に潜るのが趣味という科学アカデミーの学部長からは、自ら黒海で採取したという貝の殻を土産に頂いた。この貝には、30年ほど前に日本人が黒海に持ち込んだといううわさ話があるらしいが、真偽のほどは判らないという。日本では見たことのない、内側がピンク色の奇麗な貝で、今、我が家の応接間の棚に新たな装いを加えてくれている。
(平成10年10月)