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回顧録 私の研究遍歴
これは、私の技術者人生・研究者人生の記録です。私の自叙伝であると同時に、私個人の備忘録でもあります。信号処理学会誌(Journal of Signal Processing)からの要請で平成11年(1999年)に3回にわたって連載した「私の研究遍歴」を母体としています。この連載記事は、その後平成15年(2003年)にコロナ社より刊行された同名の単行本「私の研究遍歴」(谷萩隆嗣編)の第1巻にも収録されています。今回、これに少しばかりの改訂を加えて第1・第2・第3篇とし、また、その後の経緯を第4・第5・第6篇として追加しました。掲載した図・写真はいずれも小さくて不鮮明ですが、悪しからずご了承下さい。
ここでの計6編の記事の概要は下記に示す通りです。閲覧には、ページ最上段の プルダウン目次から編を選択してお進み下さい。
第1編 少壮期 (1937~1977)(0歳~40歳)
郷里での少年時代から高校・大学時代を経て日立に入社し、研究員時代のサーボ機構の研究で工学博士の学位を取り、その後アメリカに留学してイリノイ大学で生体視覚の研究に従事。帰国後の主任研究員時代には本邦初の人工知能ロボットを開発し、視覚情報処理の研究分野を開拓。その応用として半導体自動組立装置を世界に先駆けて開発し、社内外から多様な賞を受賞した。
第2編 発展期 (1977~1989)(40歳~52歳)
アメリカの日立サンノゼ研究所に赴任し、情報機器の研究を開拓し、日立最初のワードプロセッサを開発。のちにその売り上げで本邦最高を記録し事業に貢献。帰国後の主管研究員時代には、視覚技術のオフィス応用として図面処理、地図情報処理などの多様な研究に注力し、とくに紙幣鑑別の新技術開拓でATM装置を実現し、事業に貢献。またこの時代には日本ロボット学会の設立にも関与。引続く主管研究長時代には特許文書処理やその端末装置の開発にも注力。なお、これまでのこれらの果敢な研究開発努力に対し、アメリカ電気電子学会(IEEE)から、フェローの称号を頂戴した。
第3編 熟年期 (1989~1999)(52歳~62歳)
その後の技師長時代には、中央研究所と機械研究所を兼務し、若い研究員との議論や、研究所の国際化に向けた活動にも注力。このころは必殺研究仕掛人を標榜して、折から問題となってきた新型郵便区分機の開発に向けて活動。また研究の軸足を社内から次第に社外へと移し、大学・研究所・政府機関など、各種の外部機関での講演活動や技術啓蒙活動にも注力。その後、この新型郵便区分機については製品化が達成され、次々と全国各地の中枢郵便局に納入された。
第4編 終盤期 (1999~2003)(62歳~66歳)
日本ロボット学会の副会長、ついで会長の要職を担い、学会の運営と新規事業に注力するとともに、学会が重責を担う国際会議IROSへの積極参加などの職責も果たした。また、21世紀の到来とともに、我が国の44学会が連携する横断型基幹科学技術研究団体連合会(略称:横幹連合)の設立に関与した。60歳の正規定年以降、嘱託として2度の定年延長のあと、66歳で正式に日立を退任した。
第5編 現役退任後 (2003~2006)(66歳~69歳)
日立を退任した後も、とくに学会関連で多くの残務があり、とくに横幹連合の副会長就任やそこでの横幹型技術の研究開発のためのロードマップの作成などに深く関与した。また、大学での講義活動にも次第に終止符を打ち、郷里の母校での講演なども済ませた。その後、米国のロボット工業会から連絡が入り、ロボット界の最高の栄誉の一つであるエンゲルバーガー賞の受賞が決定し、国際会議の席上、表彰されるに到った。
第6編 茨城転居後 (2006~2023)(69歳~87歳)
茨城の新興地に移住し、自治会役員を務めたり自治会新聞を創刊したり、また郷里の越前市での「継体天皇1500年祭ものづくり討論会」にパネリストとして参加したりした。日本ロボット学会からはその名誉会員に推挙され、フロリダ州タンパでのICPR国際会議では、私の技術者人生の最後の花道という位置付けで、そのゼネラル・チェアマンを務めた。この期間に訪問した茨城県内の名所旧跡の探訪記を書籍に纏め、市や県に贈呈し、これを最後にこの研究遍歴の執筆を完結させた。