Welcome to
my homepage
回顧録 私の研究遍歴 ― 第4編 終盤期 ―
日本ロボット学会
開かれた活動に向けて
平成11年(1999年)3月、会員の推挙を受けて社団法人日本ロボット学会の副会長に就任することになった。このときには、2年後の会長就任を前提とした推薦でもあったので、これから4年間にわたる学会の中枢としての活動のために、基本的な勉強を開始するとともに、論文賞、実用化技術賞などの学会賞表彰委員会の委員長としての活動も開始した。
同じ年の4月からは、日本大学大学院(郡山市)での講義が開始された。その2年前に特別講義を行なったのが縁となり、その後、日立返仁会の社会活動の一つとして講座を開設することにしたものである。日立返仁会講座と銘打った最先端情報・通信工学特論という講義であり、中研・機研・シ研(システム開発研究所)からの計12名の講師が毎週順番に講義をした。それから4年間、平成14年度(2002年度)の終了まで、私は毎年、その最初の講師として4月の初めに講義を受け持ち、毎年、日大郡山キャンパスの見事な桜を拝見するのが楽しみの一つであった。
この年には、千葉大学教授の谷萩隆嗣先生から、信号処理研究会(のちに信号処理学会)の雑誌である Journal of Signal Processing に、「私の研究遍歴」ということで研究経歴を紹介して欲しいとの依頼があった。数名の錚々たる先輩研究者の掲載例が送られてきて逡巡の思いがしたが、企業研究者の例はまだほとんどないとのことだったので意を決し、執筆することにした。これが前3篇に掲載したものである。この第4篇からは、それ以降の経緯を記載しようとしている。
この年はこれら以外にも、通商産業省機械技術研究所からの依頼で、外部評価委員として同所を訪問し、所長はじめ幹部から現況について説明を受け、今後の同所の進むべき方向について意見を申し述べる機会があった。また秋には、東京大学大学院工学系研究科(機械系3研究科)の合同会議が持たれ、私も外部評価委員のひとりとして参画して、東大改革のための意見を述べたりする機会があった。また、日本ロボット学会が米国のIEEEとともに共催する国際会議IROSのために、韓国の慶州を訪れる機会もあった。
平成12年(2000年)には、それまで務めてきた日立返仁会の総務理事を4月に退任し、あらたに日立返仁会副会長に就任した。同時に4月からは、郷里の福井大学から客員教授への就任依頼が寄せられ、そこの共同研究センターの客員教授としてその後3年間活動することとなった。父が他界して以来、母はほとんど寝たきりのひとり暮らしを余儀なくされていたが、私としても母を郷里に見舞う機会が増えるということで、喜んで引き受けることとした。
バルセロナへの旅
この年、2年ぶりの国際会議ICPR-2000がスペインのバルセロナで開催されることになった。まずはポルトガルに入り、リスボンの公園脇の瀟洒なホテルを基地に、リスボン西部の世界遺産シントラの街や、ユーラシア大陸最西端のロカ岬を訪ね、「ここに地尽き、海始まる」と記された記念碑の前に立ち、快晴のロカ岬の風景をしばし楽しんだ。
リスボンでの滞在を終え、空路、マドリード経由でグラナダに着いた。ここでは有名なアルハンブラ宮殿などを見学し、夜はナイトクラブでフラメンコを楽しんだりした。その後バルセロナに向かい、とくに異才ガウディの異彩溢れる建築物を堪能したり、ストリート・パーフォーマーたちの愉快なパーフォーマンスを楽しんだりした。
三つ目のフェロー
秋には電子情報通信学会の講演会が名古屋工業大学で開催され、その席上でこの学会のフェローに選出され、「視覚情報処理技術の先駆的研究とその産業応用への貢献」という功績で表彰を受けた。国内の学会からは初めてのフェロー選任であり、これでIEEEおよびIAPRについで、三つ目のフェロー称号を頂戴することとなった。
MVA-2000で招待講演
この年の暮れ、東京大学の安田講堂を会場に、MVA-2000が開催された。私もこのMVAシリーズの国際会議では継続して委員を務めてきたが、この回は特別な役割として、招待講演を引き受けることになった。いつも北米から1名、欧州から1名、日本から1名の計3名を招待してきたが、今回は私の順番というわけである。
ともあれ、約1時間の招待講演を成功裡に終えた。ただ、会場の安田講堂の音響環境がどういうわけか劣悪で、会場からの質問が往々にして聞き取れず、満足な講演とは行かなかったのが残念だった。なお、この講演を引き受けるのに際して、もうかなりの年齢に達していることもあり、またこれからは若い人たちが活躍すべきであるとの理由から、関係者にはこれが私の「英語による最終の講演」であることを宣言し、以後の講演依頼は一切引き受けないことを申し渡していた。しかしこれは、翌年になって、すぐ破られることになった。また英語による招待講演の依頼が来て、断りきれずにとうとう引き受けてしまったのである。これについては後にまた述べる。
ロカ岬とそこの記念碑、ユーラシア大陸最西端への到達証明書
ICPR2000の晩餐会風景、アルハンブラ宮殿、サクラダ・ファミリア
21世紀の到来
21世紀の初めに
2001年(平成13年)、新世紀がスタートした。若かりし頃には、21世紀というのは、それまで生きていられるかどうかさえ判らないような遠い将来のことと思っていた。かなり近くなってからも、21世紀までにはこういう技術を開発したいとか、21世紀の社会はこうあるべきだ、などと大いに議論してきたものであり、何か大きな節目という感じがして、技術の大きな躍進といったように、何かが不連続に起こるような(あるいは、起こって欲しいような)印象もあった。現実にそのときがやってくると、当然ながら時間は連続であり、ただ静かにやってきただけである。ただ、我が家にとっての特筆すべき出来事は、息子が良縁を得て、この新世紀スタートの1月1日に婚姻届を役所に提出したことであった。この年は役所の粋な計らいで、休日にもかかわらず開所していた。そしてその年の4月には、ハワイのマウイ島で2人だけの結婚式を挙げた。
この21世紀の初頭に、宇宙飛行士の若田光一さんと歓談する機会があった。日本ロボット学会の論文賞メダルが、NASAの公式飛行品(OFK: Official Flight Kit)として、日本ロボット学会の正会員でもある若田さんとともに、地球を202周、850万キロの宇宙の旅を終えた。そのため1月22日の返還式で、若田さんから直接、このメダルが日本ロボット学会に返還されたのである。これは、前年度に担当官庁から学会に声が掛かった際に、副会長としての私の発案で、学会論文賞のメダルを1個宇宙に持っていってもらうことにしたことによる。
NASA公式飛行品認定書、および
若田光一飛行士との記念写真
ロボット学会会長に就任
この2001年、社団法人日本ロボット学会の会員全員による役員選挙があり、さらに3月の通常総会における承認により、私は第10代会長に選出され、以後2年間の任期を務めることになった。会員数約4,000名のこの学会は中堅クラスの学会として活動してきており、ロボティクスに関する専門学会としては世界的にも類がないものであった。ただ、大きな学会と違って、理事会で決定したらそれを事務局が実行するといったような単純なやり方では運営が成り立たないため、最初の理事会で理事の方々に、汗を流す理事、実行する理事としての活躍を要請した。翌年には学会が創立20周年を迎えるので、その準備委員会を発足させるとともに、20周年を記念してスタートする新制度として「フェロー制度」を制定し、第1回の受賞者を選任したりした。
AIM-2001
会長としての役目柄、他学会との協調も重要であるが、そんな折にイタリアで7月に開催されるAIM-2001(Advanced Intelligent Mechatronics)という会議の招待講演を頼まれた。先のMVA-2000 の際に、英語による講演はもうしないと決心していたにも拘らず、この会議の責任者であるシシリアノ教授(Prof. Bruno Siciliano)や日本側責任者である早稲田大学教授 菅野重樹先生からの丁重な挨拶があるとどうしても断り難く、結局はこれを最後ということでまた引き受けることにしたのである。
イタリアは確か4度目の訪問となるが、まだ北部地帯は行ったことがなかったため、折角の機会だからとミラノを中心にゆったりした旅行計画を立てた。ミラノでは市内見物でいろんな場所を歩き回ったが、中でも圧巻は壁画「最後の晩餐」であった。修復されたとはいえ、淡い感じを与える忠実な修復のようで、古さもそのままに残っていて素晴らしい。朝一番に訪問したら予約制ということで、夕方の入場切符しかないとのことだった。すぐ購入して夕方に再度足を運び、長年の懸案をようやく果たすことができた。
AIM2001への招待講演で
イタリア・コモ湖を訪問
学会はミラノから1時間ほど北の、コモ湖のほとりにある古い劇場(Teatro Sociale)で開催された。この建物は天井画のあるオペラ劇場の建物で、400年以上の歴史を誇り、両脇と後部は5階の個別観客席が鳩巣のように配置されている。このような場所での講演は初めてであったが、音響効果は素晴らしく、たとえマイクなしでも声がよく通るようであった。前年の東大安田講堂のときと比べると雲泥の差で、先人の歴史的な遺産の素晴らしさに感じ入ったものである。
学術講演会
秋には日本ロボット学会の学術講演会が東京大学で開催された。会長としての最初の学術講演会でもあり、その成否を気にしていたが、全国からの参加者は1,000名を越え、極めて盛況であった。3日間の会期の中日には全体会議がまたまた安田講堂で開催されたが、音響効果は多少改善されたようにも見受けられたがまだまだ満足にはほど遠いようであった。この講堂の壇上に再び立ち、今度は会長としての挨拶をし、さらに論文賞、実用化技術賞、奨励賞を受賞者一人ひとりに授与する役目を果たした。
マウイ島への旅
日本ロボット学会会長としての重要な仕事の一つに国際会議IROSへの参加があった。この会議は正式名称をIEEE/RSJ International Conference on Intelligent Robots and Systems といい、日本ロボット学会が米国のIEEEと共催するもので、そのタイトルにRSJ(Robotics Society of Japan)が入っている唯一の国際会議でもある。
この回の会議開催地はハワイのマウイ島であったが、会議開催の1ヶ月半前の9月11日、同時多発テロが発生し、ニューヨークの貿易センタービルが破壊されるという事件が起こった。その結果、とくに米国向けの旅行に対する危険性から、計画を延期したり、旅行を控えたりという状況が発生した。そのためにこのIROSも大きな影響を受け、参加の取り消しが相次ぎ、発表者でさえも不参加となるケースが増えた。参加者が少ないと、35%の収益配分はおろか、下手をすると学会としての持ち出しが増えることにもなりかねない状況であった。しかし申し込みをしていなかった一般参加者が結構あって、前日になって思いのほか多数の参加者があることがわかり、結果として成功裡に終了でき、胸をなでおろすことができた。
なお、会議の会場であるOutrigger Wailea Resort というホテルは、その半年前に息子たち夫婦が2人だけで結婚式を挙げたホテルの隣にあって、当時いろいろな事情で参加できなかった私にとっては、息子たちの撮ってきた写真で見た式場の風景をこの目で確認でき、感慨一入であった。会議では全参加者に配られたアロハシャツを着て、ホテルの庭で開催されたハワイアン風の晩餐会を楽しんだ。いつも一緒に参加する妻は、このときは娘のお産の手伝いで参加できなかった。
2度目の定年
その息子夫婦は、2002年(平成14年)3月、ニューヨークに転勤していき、マンハッタンの真っ只中に居を構えることとなった。テロ事件の影響で赴任時期を伸ばしてきたのだが、それでもまだ事件から半年ということで安心できない状況であった。しかしその後とくに大きな問題もなく、新しい生活を順調に開始したもようであった。
そして私は、この3月で65歳となり、規定により日立製作所を退社することとなった。とは言っても60歳のときに第1次の定年を迎えているから、今回は第2次ということになる。しかし日本ロボット学会の会長という要職をまだあと1年残していることを考慮し、その任期が切れる翌年まで、今度は中央研究所に替わって機械研究所の粋な計らいで勤務を継続することとなった。身分としては中央研究所技師長 兼 機械研究所技師長ということで変更はなかったが、1日幾らというアルバイト的な形態にしてもらって、週1回ずつの割合でそれぞれの研究所に出勤することとし、あとは学会など、外部向けの仕事を優先した。
また、この機会に日立返仁会の副会長としての役目も辞任したが、請われて新しく顧問に就任し、少しばかりのお手伝いを継続することになった。また、それまで務めてきた福井大学の客員教授の職務も、任期満了で退任した。
日本代表理事を終了
この年の8月、恒例のICPR-2002が、カナダのケベックシティで開催されることになり、オタワ経由で現地に飛んだ。この会議を主催するIAPR(国際パターン認識連盟)の日本代表理事を長年務めてきたが、この会議を最後にこの要職を辞任し、後進に道を譲ることとした。したがって私が参加する最後の理事会ということで、解決しておきたい課題が幾つかあった。中でも重要なものに、ICPRの日本誘致の件があった。
この会議の少し前から国内での議論があり、2006年(平成18年)の会議をつくばに誘致することにして、筑波大学教授の大田友一先生と東京大学教授の池内克史先生が誘致のためのプレゼンテーションをすることとなった。長らくアジア地区で開催されていないという理由もあって、欧米からの立候補はなく、つくば(日本)とデリー(インド)と香港(中国)の争いとなった。最終投票では、前回一度立候補してケンブリッジ(2004年開催地)に負けた香港が同情票を集め、2006年度(平成18年)の開催地に決定した。つくばはプレゼンテーションも良く、開催前年の2005年(平成17年)にはつくば直行の鉄道「つくばエクスプレス」が完成することも大きな魅力ではあったが、今一つ票が伸びなかった。
実は日本からのこの国際会議への貢献は、ここ数年絶大なものであったが、一方でこのような状態が続くと、日本は自分のところでの開催に不熱心と指摘されるかも知れないという懸念さえあった。また若い研究者層には、それとは別に、純粋な気持ちで日本誘致を嘱望する動きもあった。それで今回の立候補となったわけだが、最大限の努力をした結果としての落選は、開催に不熱心という批判を封じる効果も出てくるはずで、結果としては失敗でもかなりの成功という感じがしたものである。いずれ日本開催の機会は、また必ず巡ってくるものと思われた。
以上で私の10年にわたる日本代表理事としての仕事に終止符を打ち、新進気鋭の田島譲二先生(当時NEC、のちに名市大)と大田友一先生(筑波大学)とにバトンタッチすることとした。
帰途、ニューヨークの息子夫婦宅に立ち寄った。タイムズスクェアまで徒歩10分足らずのところにある高級アパートに住み、異国で立派に生活している2人を見て安心した。そこからさらにサンフランシスコに飛び、昔住んでいた地を訪れ、知人のドール夫妻をロス・アルトス市に訪ねることができた。奥さんのマリアンヌさんは妻の英語の先生でもあったし、彼女の父親を私たちがスウェーデンの自宅に訪ねたこともあった。ハワイに設立されて今や世界最大のフルーツ会社となったバナナのドール・フード・カンパニィとも、ドールのスペルは少し違うが何か縁のある家柄らしかった。久しぶりの再会で昔話に花が咲き、半分実業、半分趣味のハープシコード工房を見せてもらったりした。
ドール夫妻のハープシコード工房
ローザンヌへの旅
平成14年(2002年)秋にはスイスのローザンヌを訪問し、IROS国際会議に日本ロボット学会会長として参加した。大きなアイスアリーナを会場に約1,000名の晩餐会があり、主催学会の会長として挨拶し、日本ロボット学会の英文論文誌や学会賞などについて紹介した。
学会会期中のある日、ローザンヌから少し離れたモントルーという町から、さらに登山電車で1時間ほど登ったところにあるロッシェ・ド・ネーを訪れた。ここは、レマン湖を眼下に、スイスの連峰を一望する素晴らしいところで、妻と一緒に大きな感動を味わった。
ただこの旅行には大きな不安が一つあった。岳母(妻の実母)の容態である。94歳という高齢により入院を余儀なくされ、この旅行のころは危ないかも知れないという話が伝わってきていた。そのため、カナダのときもそうだったが、日本から海外用携帯電話を持参し、いつでも連絡が取れるよう万全の準備をしていたのである。常に義姉と連絡をとりつつの危ない綱渡りの旅であったが、その旅の終わりの1日前になって、病状悪化が伝わってきた。急遽予定変更して帰国しようにも飛行機の関係で無理なことが判ったので、1日待って当初予定の飛行機に乗ることにした。その飛行機がまた数時間遅れるなどで全くついていなかったが、飛行機の中からフライトアテンダントに頼んで電信で翌日の羽田発米子行きを予約し、成田に夕方着いてからも、すぐその便の予約を再確認してから家に帰った。
翌日、妻は朝早く羽田へ行ったが、飛行機が予約されていないことが判明した。航空会社の手配に大きな不信を持ったが、いずれにせよ空席があったというのでまずは安心した。妻はスイスからの連続の旅で、大変だったとは思うが、ひとまずは実家に落ち着き、母を病院に見舞っては一言、二言話が出来たらしい。
岳母逝く
折しも、私が会長を務める日本ロボット学会が創立20周年を迎え、大阪大学を会場とした記念の学術講演会が迫っていた。まだ先週末のスイスからの帰国の旅の疲れも取れない中で、岳母の病状悪化が刻々と妻から伝えられていた。この時点でもし何かあっても、学会会長としての責任上、妻の実家(島根県隠岐島)に帰るのは絶望的であった。学会が終了するまで何とか命を保って欲しいとの願いも虚しく、大阪へと出発する前日に逝去の報に接した。
その翌日から3日間の予定で学術講演会が開かれたが、その最初の日に葬式が設定され、とうとう参列は諦めざるを得なくなった。こういう私的な状況の中での創立20周年記念ということで、中日にはその創立記念式典が近くのホテルで開催されたが、何食わぬ顔で会長としての挨拶をし、また論文賞、実用化技術賞、学術奨励賞の表彰や、名誉会員の顕彰、そしてこの日のために制定した新フェロー制度に基づいて、新しく選定されたフェロー12名の顕彰を行ったりした。
引き続く特別講演では、評論家の立花 隆さん、作家の瀬名秀明さんを迎え、この2人も交えて日本のロボット学の未来についてのパネル討論会を開催した。また記念行事として、子供絵画コンクールやロボット競技会なども併催し、好評であった。
この学術講演会が滞りなく終了した翌日、同じく葬式を無事終えて帰ってきた妻と大阪駅構内で待ち合わせ、今度は私の母を見舞いに私の郷里の福井へ向かうというような状況で、スイスの旅から引き続いての何とも多忙な半月間だった。
また11月には、北陸先端科学技術大学院大学と徳島大学工学部で、毎年恒例となっている講義を行い、また1ヵ月後の12月には、再び徳島を訪れることになった。徳島大学工学部の外部評価委員を委嘱され、その会議に出席するためである。当日は、大学側の説明に真剣に耳を傾けるとともに、大学運営の改革のため、誠心誠意、議論したり提言を行ったりした。
異分野交流フォーラム
このころ私は、日本ロボット学会の会長として、学会が主体的にロボット学の未来像を描き、これにより世の中の進む方向を学会が先導していけないか、という漠然とした望みを抱いていた。前年に計測自動制御学会が創立40周年を迎えていて、その祝賀会に招待され、日本ロボット学会会長としてご挨拶する機会があった。それが縁で、その後計測自動制御学会の会長に就任された東京大学教授の木村英紀先生と出会い、後に日立本社の逍遥クラブで会食する機会があった。木村先生も現在の機械工学、電気工学といった縦型の技術社会の問題点を痛切に感じておられたようで、横断型科学技術を今後の日本の基幹技術にしたいという意気込みを持っておられた。私も意気投合し、日本ロボット学会も計測自動制御学会に協力して、この新しい概念を磨き上げ、政府にその重要性を働きかけることを決意した。
その年の暮れには、両学会を含め13の学会会長が署名した提言書を携え、私を含む4学会の会長が代表して国の総合科学技術会議を訪れ、桑原 洋議員に説明し、提言を手交した。その結果、文部科学省からの支援が得られるようになり、その後、横断型とは何か、どういう科学技術が今後の日本にとって重要かなど、幅広い研究を開始するような予算的裏付けも出来た。
そして科学技術振興事業団(JST、のちに科学技術振興機構と改称)が主催する形で異分野交流フォーラムが大磯で開催されることになり、横断型を志向する28の学会から、関係者約50名が初めて一堂に会し、議論した。私もそのひとりとして、「生産・設計における横断型科学技術の役割」について話をした。参加者の間で、横断型科学技術についての共通の認識がほぼ成立し、今後の学会連合の組織化についても基本的な合意が得られ、以後さらに内容を詰めていくことになった。
3度目の最終定年
平成15年(2003年)3月、過去2年間にわたり務めてきた社団法人日本ロボット学会の会長を、任期満了に伴い退任することとなった。とは言っても、まだ要請があって、今度は閑職ながら日本ロボット学会監事として選挙で選出されていたので、あと2年間継続してこの学会に関与していくことになった。
この会長職の辞任に伴い、これまで特別な形で継続してきた日立製作所の技師長職も、今度こそ完全に辞することになった。入社以来44年もの歳月が流れていた。
今まで技師長として種々の仕事をこなしてきたが、研究所の重要来客への応対も、重要な仕事の一つであった。そのため、研究所を代表していろんな著名人とお会いする機会も多かった。この年の3月10日、私の辞任の直前に、日立返仁会京浜地区の行事として、その前年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生を迎え、講演会が開催された。このときは、会場である中研の技師長としての立場のほか、日立返仁会顧問としての立場もあって、先生と親しく懇談する機会があり、これが私の日立における最後の公式の仕事となった。
この日立の辞任に際して、二つの研究所から退任記念講演の依頼がきた。まず3月14日に中央研究所で講演会が開催されることになり、私はそのタイトルとして「拝啓 同志技術者諸君!」を選んだ。そのサブタイトルは「我が半生を振り返って」とし、この44年間を2時間掛けて振り返り、折々の仕事を紹介しつつ、そのときに考えたことや得られた教訓などを織り交ぜて話をした。この講演会の準備をし、また当日司会を買って出てくれたのは元部下の酒匂 裕さんであり、彼の呼び掛けで、所外からも多くの聴講者が来られ、会場の講堂は満杯状態となった。
小柴昌俊先生(2002年ノーベル
物理学賞受賞者)と中研にて
講演が終ったとき、あと10分ほど時間を貰いたいという話が出て、私は最前列の席に座らされた。酒匂さんの説明が始まり、前方のスクリーンに私の海外や国内の友人たちの写真とメッセージが次々と映し出された。中にはすでに音信不通になっていた老恩師スターク教授の姿もあったりして、現在病床にあるとの話で思わず涙が出そうになった。酒匂さんらの粋な計らいで、思いがけずも旧友らのメッセージを聞くに及び、世界の仲間たちが私の引退を惜しみつつも、心から祝ってくれていることを知った。
その後の懇親会では、いろんな参加者からのねぎらいの言葉を受け、また、郵便区分機開発で共に苦労した情報機器事業部の方々からということで、桐箱に入れた日立郵便区分機初号機(1997年6月製)の区分口ゲートを記念品として頂戴した。また営業関係者からは郵便区分機の納入マップを頂戴し、北は北海道千歳郵便局から南は鹿児島県鹿屋郵便局に至る約100台が順調に稼動していることをあらためて知った。
一方、機械研究所での退任記念講演は、私の勤務最終日3月20日に設定され、44年間の研究者生活の最後をここで過ごすことになった。3時からの講演では、同じく「拝啓 同志技術者諸君!」というタイトルとし、サブタイトルは「自称 理系文人からの提言」とした。1年ほど前の所内講義で、「自称 必殺仕掛人からの提言」というサブタイトルで技術や研究の話を中心にすでに話していたので、今度は目先を変えて、おそらく所員は知らないであろう私の別の側面をおもてに出し、「言葉の重要性」を中心に話をした。新鮮な話題をふんだんに入れたので、皆興味を持って聞いてくれたようであった。ちょうど終業の鐘の音の放送が講堂の中にもかすかに聞こえてきたので、まさに今が、私の44年にわたる研究者生活の最後の瞬間であるということを述べ、鐘の音と同時に2時間の講演を終了した。
引き続く懇親会では、やはりいろんな方々からの感謝の言葉が述べられ、心温まる時間を過ごすことができた。正式に日立との縁が切れたことを実感したときでもあった。
(第5編につづく)