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回顧録 私の研究遍歴 ― 第3編 熟年期 ―
技師長時代
国際会議
平成元年春、東京大学の生産技術研究所が主催して、マシンインテリジェンスに関するIEEEの国際会議が開催された。私は1時間半の招待講演を依頼され、事前の綿密な準備によってつつがなく大任を果たすことが出来た。この時の講演の一部始終を収録したVTRテープは、私自身の英語による講演の唯一の記録ともなり、大変記念になるものとなった。このテープは、その年の東京大学生産技術研究所の公開日に、終日連続して放映されることとなり、当日知らずに訪問した私は、流されている自分の英語の講演を見て、何か面映ゆい気分がしたものである。ところでこの年、私は技師長を拝命した。
国際会議の経験は、これ以後にもいくつかあった。平成2年のアトランティック・シティでのパターン認識国際会議では、アメリカ人の中にただ一人混じってパネリストを務めたり、同じ年、機研で開催されたロボット関係の国際会議では、予定した招待講演者が病気で来られなくなったということで、開会式直後の特別講演を急遽依頼され、約1時間の講演を機研の講堂で行なったりした。このときには、まさか翌年に機研への赴任が要請されようとは夢想だにしていなかった。
この年は、さらに日米生産研究会議に日本側委員として参加したり、暮れには中研で、私が委員長としてマシンビジョンに関する国際ワークショップMVA’90を主催したりした。
IAPR
ところで前述のアトランティック・シティでのパターン認識国際会議で、私の身に大変な大役が廻ってきた。2年に一度のこの大きな国際会議は、IAPR(パターン認識国際連盟)が主催するものであるが、この伝統あるIAPRの副会長 (Vice- president) をやれということになったのである。IAPRは、当時、先進20数ヶ国(現在では50ヶ国)が加盟する大きな組織で、アメリカではIEEEが、また日本では情報処理学会が会員として加盟している(その後、電子情報通信学会に引き継がれている)。千名近い出席者の集まった晩餐会で正式に私の副会長就任が紹介されるという晴れがましい機会を得た。
中研でのMVAワークショップは、このIAPR副会長としての私が誘致したものである。季節外れの台風の影響で、3日間の会期中どしゃ降りだった。折角の紅葉の庭園散策が台無しとなったが、結果的には参加者を講演会場に足止めすることになり、白熱した会議となった。台風情報は、お手のものの画像処理技術で刻々と会場のTVに流したため、台風経験のない外国人参加者の不安を取り除くことができた。私は、台風一過という言葉を引用し、翌日からのウィークエンドには、日立から素晴らしい天候をプレゼントする積もりだと説明した。事実そうなったため、後日ある雑誌に参加者の一人から、「日立は天候までもコントロールしていたようだ」という、絶賛の会議報告記事が掲載されたりした。
IAPR副会長に就任以来、幾つかの懸案事項を解決してきた。韓国はすでに工業国として立派な地歩を固めていたが、IAPRには未加盟だった。すぐ韓国の友人に手紙を書き、韓国内での組織化を呼び掛けた。既加盟諸国の圧倒的支持で遂に加盟が実現した。一方、ソビエト連邦が崩壊し、会費の滞納が続き、連絡さえうまく行かなくなった。規約では即時退会となるところだが、休眠扱いという特別措置を取り、その復活を待つことにした(幸い、その後、ロシア、ベラルーシ、ウクライナなどが復活再加盟した)。また、すでにエルサレムと決まっていた次々回の本会議の開催場所は、中東湾岸戦争の勃発で再検討を余儀なくされた。しかし種々の理由で私たちはエルサレムでの強行を最終決断した。
東大生研での国際会議で
招待講演する筆者
(平成元年)
アトランティックシティでの
パネル討論風景、
向かって左から2人目が筆者
(平成2年)
中研でのMVAで
開会の挨拶をする筆者
(平成2年)
作並温泉にて
MVA組織委員一同と
(平成5年)
機械研究所への赴任
平成3年の初め、私は機研へ赴任することとなった。もともと機械屋とはいえ、長い間機械工学とは縁遠い仕事ばかりやってきていたので、機研のために何ができるか一抹の不安はあった。しかしもともと未知の世界、暗闇の世界を好む性格からか、あるいはまたアメリカ滞在時に実感した「人間到処有青山」の心境からか、勇躍して土浦の地へと赴くこととなった。正式には機研兼中研という兼務の立場ではあったが、中研のことは暫く忘れて、この機研のために全力投球することにした。
機研では、研究所全般にわたる研究の活性化と若手研究者の技術力向上に責任を持つとともに、おもにメカトロニクス分野の研究と、研究者が自らの発想で推進する自発研究とを管掌することになった。とくにこの自発研究では、熱、流体、振動、音響など、いわゆる機械系基盤技術の育成、強化、高度化が最大の関心事であった。そのため、若い研究者と議論を重ねつつ、いろいろな制度を改革していった。社外との共同研究や委託研究の仕組の整備、研究の国際化に向けた基盤の充実、研究会組織や研究討論会の改革なども私の主な仕事となった。
当時の日立製作所機械研究所
(土浦市)
いろいろな背景の研究者が集う中研に比べて、機械系が圧倒的な機研では、おのずと文化も違うようであった。立場上、各種の会議で発言する機会が多かったが、今思うと、私の言動は一種の旋風を巻き起こしてきたようである。もとは同じ機械屋でも、私自身が異質な機械屋になってしまったからであろう。それがまた、純粋な機械屋には新鮮な魅力に感じたのかもしれない。皆が良く協力・支援してくれた。その結果、研究所の改革が大きく進展していった。自らやるべきことを陰日向なくやり、出すまいとしても自然ににじみ出る何かがあるような、そういう風格ある研究所を目指そうというのが、当時の私の機研への思いであった。風格とは、にじみ出る品格のことであろうか。
平成4年、郵政省から、21世紀の郵便処理システムを考える調査委員会への参加の要請があり、私はその技術委員を務めることとなった。過去の郵便自動化の黎明期に、日立はその立ち上げに中心的な役割を果たしながらも、他の事業との関連から郵便処理システムの事業化を辞退した経緯がある。しかしながらこのシステムは、技術的にも事業的にも社会的にもやはり重要な分野なので、この私の活動を通して、将来のために何か新しい研究の芽を機研内に根付かせたいと考えた。
ところで海外への出張は、機研に移ってからも意外と多く、ソウルでの日韓コンピュータビジョン会議ではパネル討論の司会をやったり、パームスプリングでのある会社との宇宙プロジェクト会議に参画したり、スイスのローザンヌでのIAPRの幹部会議に出席したりした。平成4年のオランダのハーグでのパターン認識国際会議は、IAPR副会長としての締めくくりの会議となり、併催された理事会で各国委員からねぎらいの言葉とともに、2年後に予定されたエルサレムでの会議への特別な協力が要請されたりした。
一方国内での活動に関しては、長年務めてきた早稲田大学での講義を、機研赴任と同時に部下に引継いだ。その後、一時心配された体調上の理由から、東京工業大学の非常勤講師も辞任した。しかしのちに問題のないことがわかったため、今度は、先方からの要請に応じ、徳島大学の非常勤講師として集中講義に出掛けたり、また電気通信大学の客員教授に就任したりした。
台湾への旅
その年の暮れになって、台湾から私を招待したいとの連絡が突然電子メールで入って来た。新竹市にある国立交通大学の李錫堅教授からである。台湾での国内会議に毎年一人ずつ海外から招待講演を依頼する習慣があり、今度は私に是非という話であった。日本からは初めての招待とのことであり、とくに画像処理の産業応用についての話をというので、平成5年夏、私は初めて台湾に飛んだ。
学会は台湾の中部山岳地帯の保養地「泰雅渡假村」で開催された。開会前日の夕食前に少し時間があったので、裏山に大きくそそり立つ奇妙な像を見ようと、一人で山へ登っていった。そこで見たのは、銃を持つ現地タイヤル族の痩せた兵士の巨大な像であり、その下の洞窟には、太平洋戦争時代に旧日本軍がタイヤル族に対して行った数々の悪行が人形模型で展示されていて、初めてここが太平洋戦争中の激戦地の1つであることを知った。
翌日の開会式は、台湾の国内会議だけに国歌斉唱で開始された。来賓としてただ一人、めでたいとされる赤色台紙に「貴賓」と書かれた名札を胸に着け、主催者とともに壇上に並んだ。開会の宣言、主催者の挨拶のあと、来賓としての挨拶を依頼された私は、英語で、招待へのお礼とともに昨夕裏山に登ったことを話し、戦争の犠牲者への鎮魂の言葉と、同じ日本人として過去に対する素直な詫びの言葉を述べた。参加者の多くは、この地がそういう土地であったことを初めて思い起こした模様で、私の挨拶にかえって恐縮し、総じて好感を持ってくれたようであった。開会式終了後の引き続く全体会議で、英語による約2時間の講演を誠心誠意で行った。
台湾のタイヤル博物館
会議場前にて
(平成5年)
永久会員
この会議は、台湾の国内会議であるため、私以外の講演はすべて中国語で行われた。私には山小屋風のキャビンが一棟、宿泊用に用意され、食事時には参加者一同が食堂棟に集まって家庭的な雰囲気で会食した。私の周りにはつねに、英語を話す人々が入れ替わり集まり、台湾伝統の賑やかな食事となった。
私は、この招待講演のお礼にと何がしかの金銭を頂戴した。しかしどう見てもそれほど裕福な学会とは思えず、また私に対する最大級のもてなしを感じていたので、このお金で何か学会の役に立ちそうなことはできないかと考えた。一番確実なのは、そっくりそのまま返すことではあろうが、多分先方のプライドもあろうし、変に誤解されても困る。
私は、会場で入手した中国語の学会案内パンフレットから、この学会の永久会員の入会費が6000台湾圓であることを知り、会員になりたいということを申し出た。海外からの会員は過去に例がないということで、早速会場で役員による協議が持たれた。その結果、全員一致で「歓迎する」という結論となり、初めての外国人会員として登録されることとなった。これで、もらった金額のかなりの部分を再びこの学会へと還元することができたわけである。私は現在、国内外10個ほどの学会の会員ではあるが、終身の会員となっているのはこの「中華民國影像處理與圖形識別學會」だけである(注:現在はすでに会員リストから外されているようである)。
さらに私は、前年までIAPRの副会長を務めていたこともあって、まだこの国際組織に未加盟の台湾に正式に加盟するようにと勧誘し、この会議の期間中、学会の有力者に対して根回しを行った。後日談ではあるが、この私の橋渡しが端緒となり、翌年、台湾の正式加盟が承認された。これによりこの学会が、IAPRの正式な一員として国際舞台に登場することとなり、のちに台湾の人たちから大変感謝された。
大学からの誘い
ところで私のこれまでの研究者としての活動は、有り難いことに、大学からもかなり高い評価を受けていたもようであった。今までにかなりの数の大学から教授として転身しないかとの誘いを受けたが、やはり企業での「生きるか死ぬか」の命懸けの研究の醍醐味は、大学ではとても味わえそうにないという勝手な判断から、ずっと断わり続けてきた。
しかしこの年の東京大学からの誘いは、極めて魅力的でずいぶんと迷ったが、これも結局は断わることにした。当時の私の年齢では、大学に移っても定年までに3年しかなく、最初と最後の年は実質的な活動が難しいだろうから、結局実働研究期間が1年しかないことが最大の理由であった。
当時、郷里の老父にこの件を話したら、東大教授は大勢いるが、日立の技師長はそんなにいないのではないか、という反応だった。妻はどちらでもどうぞ、という基本姿勢を崩さなかったが、断ったあとで「一度、東大教授夫人と呼ばれてみたかった」という感想が返ってきたのには苦笑させられた。また、のちに、ある大学教授にこの話をしたら、「天下の東大教授の椅子を蹴った男」というのは格好いいですね、などと冷やかされたりしたものである。
郵便処理自動化への参入
さて、以前にも触れた郵政省の21世紀の郵便処理システムの調査委員会は、郵便番号の7桁化と、道順組立てという高度な自動化方針を提言して1年の検討を終えた。私はこの委員会で、郵便番号そのものの改革を含むかなり大胆な案を幾つか提言し、また、この自動化に役立つ要素技術として、日立の持つ産業用インクジェットプリンタや目に見えないステルスインクなどを紹介した。また機研の研究者に郵便処理用の新しいバーコードを体系的に検討してもらうとともに、小型道順組立機を先行開発する計画を練り、その試作に取りかかってもらうことにした。
幸いこの委員会でのこのような積極的言動が切り札となったのであろうか、日立の「やる気」が顧客である郵政省にも伝わり、その興味を引くところとなった。20数年振りに郵便処理自動化の分野への参入の可能性が出てきたのである。そのため、さっそく社内関連部署とも協議し、積極的に事業化を目指して活動を開始することとした。
暫くして、機研で計画した小型道順組立機も完成に近づいてきたので、早速郵政省の方々に見てもらった。短期間の試作ながら完成度が高いと好評で、日立の技術のポテンシャルの高さを認めていただいた。私たちは当初、この小型道順組立機を武器にこの分野に参入し、従来にはない自動化でビジネスを起こすつもりであった。しかしながら顧客との直接の会話から、この小型の道順組立専用機の分野は、将来有望ではあるものの、当面、具体計画には登りそうにないという感触を掴んだ。
そのため、小型機については社内の自発研究でさらに磨きを掛けることとし、まずはこの大型郵便区分機の分野に参入することを決心した。そして、この新しい事業を早期に立上げるために、私たちは、ドイツのある会社と共同して対処することを決断した。当時、我が国の市場開放問題で苦慮していた郵政省にとっても、この提案はその解決策の一つとして好感をもって受け入れられた。
この会社は、当時、世界市場の70%のシェアを持つと言われていたが、漢字認識の壁から日本への参入は諦めていた。日立からのこの話で大変乗り気となり、一挙に話し合いが進むこととなった。このまま行けば、誰の目にもこの共同事業は円滑に進むかに見えた。しかしそうは問屋が卸さなかった。これについてはもう少し後に再度触れることにする。
中央研究所への帰任
平成6年、私は中研に戻ることになった。とは言っても機研との兼務で、主務が中研という形である。研究での「必殺仕掛け人」を自称してきた私には、一旦やり始めることになった研究はもう実行部隊に委せて、もっと別の研究の仕掛け作りや種蒔きに力を注ぎたいという気持ちがあった。しかし何と言っても、先にやり始めた郵便処理システムの仕事が気に掛かる。とくにこのシステムの実現には、中研担当の宛名認識技術がその成否の鍵を握っている。かくして、私はますますこのシステムに傾注していくことになる。
ところで、技師長という職務には、当該分野の日立技術の最高責任者という基本的立場以外には、とくに決まった行動規定があるわけではなく、個人の力量に任されている部分が多い。通常は、新規事業の創造、基幹製品の永続的発展、基盤技術の革新的伝承の3つを目標に、全社的な研究ならびに研究管理活動を展開する。技術の潮流を見極めつつ、その水先案内人としての役目も期待されているし、ときには日立を代表し、あるいは研究所を代表しての多少の経営管理的責任も担う。事業に絡む重要顧客への対応や、研究所幹部としての所内外での講演はもちろん、若手研究者への技術教育や講話などもこなすことになる。私の発言は立場上重みも大きいし、そのためにまた細心の注意も必要となる。
一方、研究所で発行される研究報告書には、精粗様々ではあるが一応すべてに目を通し、月に一度は何人かの執筆者と議論する。また研究所と事業部との研究連絡会議にも顔を出し、意見を言う。ときには若い研究者の投稿論文に朱を入れ、執筆の指導もする。依頼された原稿は必ず一晩で読み、翌日には返す。過去の経験が幸いしてか、私のところを通った原稿は百発百中で学会を通る。それがまた噂となって、事前に私に見て欲しいという若い研究者が現れる。そういうわけで、結構忙しいのである。
日立製作所 中央研究所
(国分寺市)
中東への旅
平成6年の秋、私はアメリカのラスベガス経由で、イスラエルのエルサレムへと出掛けることになった。ラスベガスでは、センサ融合に関する「第一回」の国際会議が開かれるということで、晩餐会での基調講演が依頼されていたし、エルサレムではパターン認識国際会議で、産業リエイゾン委員長、論文賞審査委員長、および日本代表理事としての役目があった。
このエルサレムの会議での晩餐会は、バスで2時間ほどの荒野のなかにあるベドウィンのテントの中で行われた。ベドウィンとは、中東アジアにまたがって生活する遊牧民のことで、聖書にも出てくる古くからの民らしい。前日にテロ事件が発生したというので、エリコの街の近くを通る当初の予定を変更し、少し遠まわりをしてこのベドウィンの地に到着した。道中、兵士が銃をもって警備にあたっているのを見たり、ガザ地区まで15キロという交通標識を見たりすると、世界の紛争地の真っ只中に来たという実感が湧いてきたりした。
このベドウインの大きなテントの中で、羊のシシカバブ(串焼き)を主体とするベドウィン料理と余興の踊りを楽しんだあと、学会の公式行事として表彰式があり、学会論文賞の審査委員長をしていた私は、そのプレゼンターの役を務めたりした。
中東戦争勃発とその後遺症で、一時はどうなるかと心配された会議も、平穏のうちに無事終了でき、エルサレムを開催地に決めた責任者の一人としてようやく胸を撫で下ろすことができた。帰国した直後に、バスが焼き討ちされて10数名の死者が出たというニュースを聞き、結構危ない綱渡りであったことを再認識させられた。
大学交流会議
中東の旅から帰ったその年の暮、私が客員教授をしていた電気通信大学からのたっての依頼で、大阪で開催のアジア太平洋大学交流会議に参加することとなった。国・公・私立の各大学協会などが共催したもので、私は数少ない企業代表の一人としてパネル討論にパネリストとして出演し、とくに先方依頼の課題である大学の国際化について、私の今までの国際活動の経験をもとに幾つかの提言を行った。
このような会議参加の要請は、他にも幾つかあった。翌年には多摩地区の大学が共催し、当番大学である東京工業大学を会場にして開催された多摩ルネサンスシンポジウムに招かれ、地域社会と国際化というセッションで企業研究所の国際研究交流の現況について話をする機会があった。
ロボット研究への警鐘
平成7年春にも、アメリカのバンダービルト大学の日米技術交流センターが主催するバイオロボティクス国際会議がつくば市で開催され、請われて基調講演をする機会があった。
開会式直後の全体会議で、私は最近のロボット研究の方向に批判的な基調講演を行い、「我々は正しい道を歩んでいるか」という疑問を投げかけた。単に面白いからという理由だけの研究が目立ち、それが未来社会にどう貢献するかといった展望に欠けているのではないかということを指摘し、ロボットを試作してビデオに撮ったらそれでその研究が終わるようなアプローチでは意味がないことを主張した。
とくに若い研究者から大きな反論があったが、ともあれこの講演は、ロボットの未来を考えようというこの会議にとって、まさに格好の話題を提供したものであり、主催者から大変喜ばれた。この種の主張は、誰もがうすうす感じていることではあろうが、正面切って主張するのは勇気のいることでもあり、今まで誰も警鐘を鳴らさなかった。私のあとに壇上に登ったマサチューセッツ工科大学のレイバート教授は、「今私は頭が大変混乱している。江尻博士が言ったように、確かに私は、ロボットを作ってビデオに撮ったらそれでその研究は終わっていた」と述懐した。
この講演要旨は、その後、ロボット関係のある国際研究誌の冒頭にも掲載されたので、世界的にも広く読まれた筈であり、これからのロボット研究の方向に少しは変化が現れてくるのではないかと思われた。
ブルガリアへの旅
この年の初夏、私はスエーデンのパターン認識学会から招待を受け、ストックホルムを訪問した。私にとっては3度目の訪問である。近郊のウプサラという町で開催されたスカンジナビア画像処理会議の冒頭での講演を依頼されたわけである。
講演終了の直後、出席していたブルガリアのバレブ教授から、秋に夫婦同伴でブルガリアに招待したいという話が持ち込まれた。半分外交辞令と思っていたが、それから数ヶ月のうちに具体化し、首都ソフィアへと旅立つことになった。
私たちはブルガリア科学アカデミーの、あまり綺麗とは言えない宿舎に滞在しつつ、この国が共産圏から自由圏へと脱皮しようとする苦悩をかいま見ることになった。豊かな自然に囲まれてはいるものの、基本的には農業国で、これ以外に主要な産業がないために財政状態は悪く、建物の補修も街頭の清掃もままならない様子が散見された。
車で国土を西から東へと横断して黒海沿岸の都市バルナに行き、バルナ工科大学でも講義をした。学長主催のパーティでの会話から、いろいろとこの国の窮状を知るに及び、いち早い経済の再建と民の幸福とを祈りたい気持ちに駆られたりした。
私が大学を訪問している間などに、妻は、道端で店を開く主婦たちの手作りの刺繍織物に興味を持ち、土産用にかなりの量を買い込んでいた。いつもの海外旅行時の習慣で、かなり値切って買ったらしい。滞在が慣れるにつれ、この国の民衆の生活困窮ぶりが次第に私たちにもわかり、どうせ大した金額ではなかったのに何故あのときに値切ったのかと、妻は今でも自責の念に駆られているという。
ブルガリア科学アカデミーの人たちから、黒海に自ら潜って採取したという綺麗な貝殻や、私がかつて日本で娘に連れられて聴きにいったことのあるブルガリア民族合唱団の特異な歌唱のテープを土産にもらい、思い出深い旅を終えた。
ブルガリア中部の
ある町のレストランにて。
バレブ教授らと。
(平成7年)
首都ソフィアの散策。
イリエバ博士とそのお嬢さん。
(平成7年)
黒海の貝
郵便処理自動化のその後
この頃、私たちの郵便処理システムのプロジェクトは、ドイツの会社と分担して作った新郵便処理システムの調整に全力を挙げていた。しかしその会社の担当した制御部が不安定な上、前処理部の認識率がどうしても向上せず、時間ばかりが無意味に過ぎていくという状態だった。契約上、これらの部分は私たちにとってはまったくのブラックボックスであり、私たちが応援しようにも出来ない状態だった。
このままではこれからの郵便処理システムの共同受注に大きな障害となり、ひいては顧客である郵政省に多大な迷惑をかけることになりかねないとの判断から、契約を切り替え、日立単独で製品開発を行うことにした。
先行2社が30年近くも掛けて培ってきた技術分野をこれから1年で追い掛けようというわけだから、それなりに無理のあることは承知だが、今回を除くと今後参入の機会が再び訪れるかどうかは判らない。事業部、工場、研究所が一体となって開発を進めることにし、中研でも宛名認識技術の開発で、皆必死で頑張ることとした。
もう1つのフェロー
平成8年春、私は、3年半務めた電気通信大学の客員教授を任期満了で辞任し、併せて、2年間の名古屋大学の非常勤講師の職務も辞任した。そしてその年の夏、私はウィーンへと旅立った。2年振りのパターン認識国際会議に日本代表理事として出席するためである。開会式は、ウィーンフィルハーモニーの本拠地であるムジークフェラインという金色の荘厳なホールで挙行され、四重奏の調べの中、開会が厳かに宣言された。
会期の中日には、市庁舎の大広間で約千人の参会者による晩餐会が開催された。その席上、私は、主催団体であるIAPRから表彰され、フェローの称号を頂戴した。このフェローの受賞は、8年ほど前にIEEEから貰ったのに次いで2つ目の栄誉となった。
新型郵便区分機の成功
平成9年の夏近くになって、私たちの自主開発による郵便区分機がようやく形を成し、川越西郵便局での実験にこぎつけた。しかし開発日数の不足は否めず、初期の性能は惨澹たるありさまだった。そのため、引き続く実郵便物での大量実験を通じて、認識アルゴリズムの改良を次々と行なっていった。この努力が功を奏し、宛名読み取りの認識性能が日に日に向上し、懸案だった先行2社の性能にも追いつき、また顧客の最終テストにも合格することができた。かくしてその年の年末の年賀状時期に間に合い、一日最大100万通、総計1000万通以上の年賀状を処理して、その効果を確認できた。
この新型郵便区分機は、郵便番号に加え、複雑な広告類に埋もれた活字や手書きの住所・氏名を1秒間に10通以上の速度で自動認識し、その結果を透明バーコードで印字するとともに、各配達局へと自動区分を行うものである。また、配達局に集まった郵便物に対しては、この透明バーコードによる区分作業を2度行うことで、配達の際の歩く道順通りに郵便物を並べ替えるという新機能も併せ持っている。
平成10年初め、名古屋の瑞穂郵便局向けに待望の1号機を受注し、日立にとって歴史的な一歩を歩み始めた。またこの年の春の入札では10台の区分機を受注し、それぞれの局への納入が順調に進み、幸い好評を博している。
父の他界
そしてこの年の春には、請われて北陸先端科学技術大学院大学の客員教授を併任することになった。7月には、大津市で開催された日米フレキシブル・オートメーション会議での招待講演をこなし、8月にはオーストラリアのブリスベーンで開催された国際パターン認識会議に日本代表理事として出席し、幾つかの重責を果たした。この間、6月から病気入院していた父を見舞いに、毎週のように帰郷していたが、薬石効無く、この二つの国際会議のちょうど合間を縫うように他界した。病状悪化で、二者択一のつらい選択を覚悟していた私には、まるで父が、これらの国際会議での私の役割の重要性を理解してくれていたかのように感じられた。お蔭で私は、どちらの会議にも不義理をせずに済んだし、父の葬儀も立派に済ませることが出来た。
ただ残念なことに、この2年間、私はIAPRのフェロー委員会の委員長としても活動してきて、ブリスベーンの会議ではIAPRから特別な感謝状を頂戴したが、その賞状を父に見せることはとうとう叶わなかった。
ウイーンでのパターン
認識国際会議で
IAPRフェローを受賞
(平成8年)
IAPRからの
フェローの認定証
(平成8年)
日立新型郵便区分機
(区分に加え、配達の際の道順組立も行える)
(平成10年)
IAPRからの感謝状
(平成10年)
研究遍歴の総括
思い起こせば、何もわからない暗闇からの出発だった私の研究人生も、自ら創り出した「工業用視覚情報処理」という研究分野がそれなりに隆盛を見て、「生産自動化」だけでなく「オフィス自動化」の面でも世の中にある程度のインパクトを与え、かつ社会の発展に何がしかの貢献をすることができた。なかでも、10年の執念で世界に先駆けて実現した半導体の組立技術は、私にとって最も思い出深い研究となった。
ある程度の齢を重ね、主に研究管理を生業とするようになってからも、つねに研究の必殺仕掛け人を自称し、率先して新しい研究の種を蒔いてきた。一方、研究を通じての国際的な活動も幅広く経験し、日本を代表して情報を発信したり意見を述べたりする貴重な機会にも恵まれた。幸いにもその中には、「私が世界を動かしている」と素直に実感出来る局面も幾つか含まれていた。このような数々の思い出が今胸をよぎる。
研究生活の折々に発表した論文、解説、論説などの別刷りは、4cmほどの厚さに達するたびにこれらを綴り、「我が研究の歩み」という金文字のタイトルを入れて製本してきた。最初はこんなに増えるとは思わなかったため、1つ重ねるたびに単純に「続」の字を加えてきたので、これ以上、背表紙に字を入れる余地がなくなり、長年の馴染みの製本屋から、「もう次は駄目ですよ」と引導を渡されていた。しかし最近、7個の「続」の字がつく8冊目の「続続続続続続続 我が研究の歩み」が、当初の懸念をよそに無事製本でき、本棚が一層賑やかになった。
私が昭和44年に人工知能ロボットで種を蒔いた研究が緒となって、これまでに多くの優秀な技術者が巣立ち、また多くの工学博士が誕生した。彼らは、言わば、縁あって人生の一時期私と歩みを共にした旅人である。技術の進展、時代の進展とともに今ではまた別々の旅路を歩むことになり、それぞれがそれぞれの分野で、技術開発の中核として活躍中である。
その昔私の創始した研究室は、その後大きく変貌しながらも、今では動画像処理やマルチメディア処理の研究の中枢として、ユニークな研究を展開している。ビデオ映像の実時間高速処理を特徴に、種々の有用なアルゴリズム開発を手がけ、その中には、世界で最初に実現したシーンの自動カット分割技術や、サブリミナル映像検出技術、自動コマーシャル認識技術、映像の自動接続によるパノラマ画像の創生技術などが含まれている。これらの一部は、パソコン用ソフトウェアパッケージとして製品化されるとともに、一部、放送の現場でも実用化されるに至っている。
本棚に並ぶ「我が研究の歩み」の続編 の幾つか
おわりに
ところでこの私の研究人生を多彩に彩り、また苦難にあっては陰に陽に私を支えてくれたのは、他ならぬ妻と子供たち、それに両親である。喜怒哀楽のそれぞれの局面で、ともに喜び、慰め、また励ましてくれた。心から感謝の言葉を申し述べたい。その父も昨年他界した。また、子供たちも独立し、それぞれに家庭を持った。
技術の道へと導き、さらに学位へと導いてくれた大学の恩師、長い期間にわたり温かく見守ってくれた中学・高校・大学時代の恩師と級友にも厚くお礼申し上げる。会社での上司・同僚・後輩や、学会や社外団体でご一緒した大学・官庁・企業の数多くの先達・友人、留学や赴任や出張を通じて知り会った海外の多くの知己にも心からの感謝の念を表したい。
この研究遍歴の執筆を節目に、これからは研究という名の旅の目標を少し修正し、「素敵に生きる、知的に生きる」を新たな目標に加えたい。生臭い人間として、研ぎ澄ました嗅覚で獲物を狙う旅は実に面白いものであったが、今後は、できれば円熟した一人の人間として、旅そのものを楽しむことも心掛けたいと思っている。
(完)。