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随想 技術の散歩道 ― 第1編 ― (No.1~No.5)
技術の散歩道 No.1
重油流出とロボット技術
中国の李白の詩に「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」という一節がある。かの有名な芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文章「月日は百代の過客にして……」にも大きな影響を与えたものと言われている。これらはともに、歳月を旅人になぞらえている。人生はまさに長旅というわけであろう。
とくに研究者の研究人生は、まさに「旅」と表現するのに相応しい。しかも、辺境の地への孤独な旅である。そこは常に未知の世界であり、未知は往々にして渾沌である。私も永年、そのような未知の分野の開拓に携わってきた研究者の一人であり、未だに、渾沌の世界を好んでさまよう放浪の旅人である。縁あって今回から暫くの間、この欄を担当することとなった。
私の出身地は北陸の福井県である。風光明媚で人情味に厚く、住み易さでは屈指の土地である。ところがその美しい郷里の海が、この一月、ロシア船ナホトカ号の海難事故で油まみれとなった。流出の当初は、もうこれで海は完全に死に、二度と甦らないのではないかという絶望感に苛まれたものである。幸い全国から集まってくれた多くのボランティアたちが、過酷な状況の中、手作業で油除去に従事してくれた。
当時流出した重油の量は、2800キロリットルだという。一人が1回の柄杓の操作で汲み上げる量を1リットルとして、約300万回の操作をボランティアたちがやった勘定になる。人間の定常的な作業量としては、一日にせいぜい1000回程度が限度だろうから、汲み上げるだけの操作でさえ3000人・日を要する作業量である。しかしこれだけではない。総作業量は多分その100倍の30万人・日を越えたのではあるまいか。そして数ヶ月後、再び海が甦ったのである。
この時のボランティアたちの活躍には、凄まじいほどの迫力があった。不可能を可能にしようとするひたむきさと、その力の偉大さを実感できたのである。私も既に、「最近の若いものは……」と不平不満を言いがちな世代の一人になってはいるが、この若者たちの活躍には爽やかな潤いを感じ、明日の日本に一縷の光明を見た思いであった。できれば私も馳せ参じたいと気持だけは焦っても、もうそれほど若くない体力への不安から何もできず、ただ陰ながら、全国から私の郷里に集まってくれた若者に感謝していた次第である。
ところでこの事故に関して、永年技術の道を歩んできた者の一人として、一つだけ残念に思うことがある。彼らの活躍を支援して、一層大きな効果を発揮できるような技術が何ら存在しなかったことである。ここ四半世紀の間、わが国のロボット技術は世界のトップに君臨し、世界からロボット王国とまで呼ばれてきた。けれども油をすくうロボットは実在しないのである。荒れ狂う海辺で、雪の中を多くのボランティアたちが手汲みで油を処置している姿が、TV網やインタネット網を通じて全世界に発信された。技術立国を標榜するこの日本からは、出来ればこのボランティアたちの活躍と併せて、もっと画期的な技術が活躍する情景もまた発信したかったものである。
さて、ロボット研究の現状はといえば、当面、このような悲劇的な事故に対処するだけの術がない。工場の中で、溶接、塗装、組立、箱詰めなどの諸作業を立派にこなしてはいるものの、原理的には形のあるものを対象としており、流動的で、しかも粘度が時間的に変わっていくものを取り扱う研究は皆無に近い。ましてや、荒れ狂う波に漂う対象をすくい上げたり、こびり付いた岩から油を拭いとる作業は極めて難しい。ではどうすればいいのか。ありきたりではあるが、このような事故を起こさないような手立てをあらゆる面で講じることと、事故が起こった際には早期出動して早い段階で処置することが、他の事故の場合にも共通して、やはり一番重要のようである。まだ油が海上にある段階での対策の方が結局は効率的で、被害も最小限に留められるのである。外洋型の大型回収船の配備と、冬の日本海の激浪にも負けないオイルフェンス技術が当面の課題となろう。
今回の事故でとくに気を揉ませたのは、船首からの油の抜取りの際、船に積んだ機械は陸に近付けなかったし、陸の上からは、揺れ動く海面に近付けなかったことである。海と陸の接点での技術がないのである。研究者・技術者に新たな渾沌の世界が提示されたわけである。この現実を直視して、世界に先駆けて実践的な技術開発に挑戦することが重要となろう。このような「いざという時の技術」は一朝一夕では難しいし、定常的な産業とはなりにくいのもまた事実であるが、そのような技術がどの程度蓄積されているかが、どうやら「国力」となる時代が来るような気がしてならないのである。
神戸の地震の際にも「いざという時の技術」が足らないことをさらけ出した。とくに災害時にも堅牢な情報通信網が欠如し、それを使った救急と二次災害防止を優先する緊急支援手法も未開発のままだった。人の手に頼るのは致し方ないとしても、そういうボランティアたちが組織だって効率的に作業できるように、まずは通信手段の確保が重要であることが指摘された。
幸い私の近辺で、最近、バイクで持ち運べる衛星利用の緊急通信装置が開発された。地図情報を利用した災害状況把握と復旧計画支援のための地理情報処理システムも進展をみせている。災害もまた技術の発展を促す好機と捕らえ、異常時の対処と環境劣化の防止に興味を抱く研究者が増えてきたことは実に喜ばしい。
このような新しい技術開発を通して、この地球が永遠に「万物の逆旅」であり続けられるようにしたいものである。ちなみに逆旅とは、やすらぎの「宿」のことである。
(平成9年8月)
技術の散歩道 No.2
マイクロマシンの憂欝
最近の技術の潮流の一つに「小型化」がある。ダウンサイジングという言葉が流行し、大型の計算機からワークステーションへ、さらに小型のパーソナルコンピュータへと計算機の重心が移ってきた。これは、情報処理技術の進展もさることながら、より以上に電子技術とりわけ半導体技術の進歩に拠るところが大きい。
私が初めて電子計算機を使ったのは、まだタイガー計算機という手回しの計算機が隆盛だった昭和35年であるから、もう37年も前のことである。当時、国産のパラメトロン型電子計算機 HIPAC-101 や 103 が私の研究所にも導入されたが、まだ黎明期のことでもあり、数値のオーバーフローやアンダーフローを気にしながらプログラミングする必要があった。そのため、浮動小数点演算を実行する関数のサブルーチンを、機械語を使って数多く作った。これが私と電子計算機との付合いの始まりである。お蔭で多くの技術計算が、タイガー計算機よりははるかに効率よく実行できるようになり、当時、研究所で一、二を争う大口利用者となった。
それから10年がたった昭和45年には、私の研究室でも単独で自前の計算機が持てるようになった。部屋一杯を占める大きさではあったが、主メモリはたったの32K語のコアメモリで、性能も今のパーソナルコンピュータに比べれば何桁も小さいものであった。それでも、誰への気兼ねもなく独占して計算機を使えることの便利さを十二分に味わうことができた。
それからさらに四半世紀がたち、今や一人一台以上の計算機を保有し、電子メールでの通信が常識の時代となった。私の机の上にも二台のパソコンが並び、インタネットへのアクセスや世界各地の友人との電子メールに利用している。最近私も個人用ホームページを開設するようになった。まさに隔世の感がある。
あまりに周りが電子的になると機械式の時代が懐かしくなり、その昔格闘した手回しのタイガー計算機を何としても手に入れたくなった。研究所内を隈なく捜したがもう影も形もなく、八方手を尽くしてようやくある大学の知人に捜し出してもらい、それを譲り受けた。今この骨董品のタイガー計算機も、最新のパソコンと並んで私の机の上に置いてある。時折ハンドルを廻しては、あのチーンという懐かしい音色を楽しんでいる。若い研究者が私の部屋にやってきて、この一見不思議な機械に目を留めるが、これが何なのかわかる人はほとんどいない。
さて、この電子技術の進歩は、最近では機械工学にも影響が及び、機械自身をマイクロ化することにもつながりつつある。半導体技術を用いてシリコン材料上に3次元の構造を作るもので、歯車、モータ、流体回路、ポンプ、微小容器などが実現されている。またこれに刺激されて、他の一般の材料に対するマイクロ加工の技術も進展し、指先ほどの自動車やロボットなどが実現されている。しかし未だおもちゃの域を出ず、とくに企業の研究者は、どのような社会的インパクトのある製品として世に出すかで悪戦苦闘しているのが現状のようである。
このようなマイクロマシンが難しい理由の一つは、機械が小型化すれば、それに見合った形で精度も多少は高くならなければならないのに、それが困難な点にある。例えば今の機械を、寸法を比例的に保ったまま千分の一の大きさにしようとしても、軸受部のような隙間は千分の一にはできないのである。それどころか、同じリソグラフィ技術に頼って作るわけだから、機械要素の寸法も隙間の寸法も同じオーダーとなる。要は、相対的にガタの大きい機械とならざるを得ないのである。
このように、機械そのものよりも、それを構成する要素間のインタフェース部分に課題が大きいというわけである。要素間のインタフェースには、必ずトライボロジーの問題が付きまとう。面積で効く摩擦力と体積で効く重量から、小型になると摩擦力が慣性力より優位となり、従来の相似設計だけではずいぶんと様子の異なる機械になってしまうのである。
もう一つの憂欝は、せっかくモータや歯車が出来ても、そこでの動力や運動を外部に取り出す術がない点である。したがって、すべての要素をマイクロ化して、必要なものすべてを一体化した「閉じた機械」として実現しないかぎり、なかなか実用化が難しい。要素だけが出来ても意味がないのである。
では考えられる要素をすべて実現して、あとはそれらをうまく組み合わせて任意の機械が出来るのでは、という期待もありうる。だけどそれがまた難しい。材料には加工容易な方向とそうでない方向があり、しかも化学反応を基本とする加工方法であるから、任意の3次元形状ができるとは限らないのである。
このような理由で、一見華やかな話題に見えるマイクロマシンも、憂欝だらけで、実用化をねらう実践的な研究者にとっては頭痛の種が多いのである。今までの典型的な成功例は、自動車の衝突検知用に用いられる加速度計くらいであろう。これは、シリコンの片持ち梁の振動を利用するもので、内部に入れるのも外部に取り出すのも電気信号だけだから、マイクロマシンとしては理想的な用途の一つと言えよう。
同じく機械の内部状態変化を、光を用いて信号化して取り出すような用途も可能性がある。2次元的に多数の可動鏡を配列し、これらに光を当ててディスプレィ装置として実現した例も出てきている。また、血液検査や尿検査など、各種の分析検査装置の中で、その心臓部である微細流路の形成なども可能性がある。このように、どちらかというと静的かつ2次元的な機械部品が当面の応用となろう。難しい分野だが、研究者の努力でいずれは革新的な製品が世に出ることになるのであろう。
(平成9年9月)
技術の散歩道 No.3
情報社会とは何か
情報化社会と言われ始めて、もう二十年以上たったようである。初めの頃は、ペーパレスの社会が到来するだの、流通の中間機能が滅亡するだの、一極集中が緩和するだのと、いろいろその功罪が喧伝されたものである。少なくとも今の時点ではすべて外れていると言わざるを得ないが、実は、当初言われたほどにはその進行が速くなかっただけのことで、むしろその幾つかは着実に進行しているように思われる。
私の研究所でも、ネットワーク社会を迎えて一人一台以上のパソコンが普及し、主な通信はすべて電子メールでのやり取りとなった。研究者への連絡、研究者から管理部門への書類もほとんどすべて電子化され、メールや電子掲示板で済むようになり、紙の書類が激減した。あとは会議の電子化と計算機支援型共同作業がもっと簡便な形でできるようにでもなれば、さらにペーパレスへと向かうことになる。
計算機で裏付けされたタイミングのよい物流機構の進展で、コンビニエンスストアを始めとする全国チェインの小売業者が伸び、流通の中間機能も着実に減っているように見える。宅配便も通信販売も、さらにはサラ金さえも、情報化時代だからこそ新たに発生した業種であり、その裏では、鉄道貨物(チッキ)やチンドン屋や質屋が廃れたり無くなったりしていくのである。医者の往診が無くなったのも母親の繕いが無くなったのも、情報化と無縁ではない。
しかし一極集中の緩和だけは、まだその動きが鈍く、人々の心もまだ地方分散へと大きく変化してはいないようだ。私の周りにも、積極的に東京を去ろうという人はまだいない。これはどうやら、情報化社会だから集中緩和するのではなく、情報化社会であれば一極集中でなくても何とかやっていけるという程度のことに過ぎないようである。したがって余程のことがないかぎり、緩和は進まないのではないだろうか。
ではこの余程のこととは何か。多分、地方からの情報発信であろうと思う。地方の時代を旗印に、地方が元気を出して頑張ることである。地方がそれぞれに特色を出した産業基盤、文化基盤を作り、魅力的な環境作りをすることである。ただ、ミニ東京化と、開発という美名に隠れた環境破壊だけは避けて欲しいものである。
ところで21世紀に日本が向かう社会は「高度情報通信社会」である。国の計画では、高度情報通信社会は生活と文化、産業と経済、自然と環境がうまく調和した社会であり、国土の均衡ある発展と、ゆとりと豊かさを実感出来る国民生活が目指されている。そのためには、人間の知的活動の所産として情報・知識を自由に創造し、それらを流通し、共有化出来ることが必須になるというわけである。そのためには、規制の緩和もまた重要となる。
規制があると技術が進歩しないことは往々にしてありうる。規制が研究者に二の足を踏ませ、結果として社会の進展が他の国々よりも遅くなるのである。一方、過度な保護もまた、規制と同様に技術の進展には悪影響が出るのである。幸い通信分野では、それらが漸次解消されて今のネットワーク時代を迎えることになったが、規制や保護が比較的穏やかだったアメリカとは、かなり大きな差となってしまったようである。
ところでこの「ネットワーク」こそが高度情報通信社会の中核となる。そこでは情報が日本中、世界中を駈けめぐることになる。消費者が正しい判断力を持たないと、情報だけに踊らされる。売れるものはますます売れ、売れないものはますます売れない時代となる。各商品ジャンルごとに「一人勝ちの時代」が到来してしまう。そうなるといわゆる正帰還による発振状態となり、企業の浮き沈みが激しくなり、社会経済としては芳しくない事態も予想される。
一方、ネットワーク社会では、情報の操作や偏重は許されず、また過多も遅延も問題である。例えば台風シーズンになると、台風情報がTVネットワークで放映される。どこかの波止場にニュース報道員が出て、「大変なうねりです」「すごい風雨です」「とても立ってはおれません」と、防波堤内のうねりの少ない海面を映して、立ってはおれないはずなのに立って喋っているのである。立ち木もほとんど動いていないのである。そう言わないとどうやらニュースらしくないと思っているようなふしも見受けられる。衛星画像も2時間前のものが平気で映し出されていることがあるが、台風はもうとっくに別のところに行ってしまっている筈である。もっと広範囲の場所の実写映像を次々と切り替えて、余計な解説なしに生で映してくれるだけのほうが、自分なりに台風進路の判断と避難対策が考えられると思うのである。
要は「信頼度の高い情報を、タイミング良く、必要な人へ」というのが高度情報通信社会の基本であるべきである。そういう社会に向けて技術者のやるべきことは極めて多い。春秋に富む若い研究者にぜひ頑張ってほしいものである。
後世の歴史学者は、今の時代を多分「情報革命の時代」と呼ぶことになると思われる。電子技術、計算機技術、ネットワーク技術の飛躍的な進歩で生活様式も大きく変化してきたし、これからもしようとしている。現在の生活様式は、たとえば「衣」ではブランド志向と無頓着服装とが併存しているし、「食」ではグルメ志向とファーストフードが共存し、「住」では電化品氾濫とアウトドアライフが共存しているというように、二極化・一点豪華主義の時代であると考えられる。今後はいよいよ個性化・感性化の時代へと突入するのかも知れない。私の専門の画像処理になぞらえれば、濃淡画像解析の黎明期から、効率と速度を重んじる2値画像処理の時代を経て、いよいよ多様なカラー画像や動画像を取り扱う時代へと入っていくようなものであろうか。
(平成9年10月)
技術の散歩道 No.4
ウィット社会の構築
アメリカのサンノゼという街に住んでいたころの話である。近くの山間の小道をドライブしていて、奇妙な道路標識を見つけた。丸の中に19とか23とか書いてある。制限速度が19マイル、23マイルというわけである。車のスピードメータの目盛は5マイル刻みだから指定された速度で走るのは容易ではないが、幸い瞬時にこの標識の持つ意味を理解でき、これらを設置した役所のユーモアに喝采を贈りたくなった。と同時に、これが日本だったらどういうことになるのかと考えさせられたものである。
日本で例えば49キロという制限速度の標識を見たら、多分「不可能なことを書くな」という反応となり「役所は何を考えているのか」といった投書が新聞に載りそうな気がしたのである。これを、50キロは絶対に出すなというメッセージとして正しく読み取る力が、平均的な日本人に果たしてあるのだろうか。もし、ないとすれば、ウィットに慣れていない人種の悲しい性というものかも知れない。
アメリカは、この例が示すように、ウィットとユーモアに富んだ社会であるように思う。ハロウィンの行事で「トリックかトリートか」と子供たちが家々をまわってお菓子を集めるのも、宗教に由来するとはいえ、ウィット社会の典型的な行事のように思われる。
私がサンノゼに移り住んで最初のハロウィンのときのことである。住む家もようやく決まり、あとは家族の到着を待つばかりという状態での一人暮らしのときだった。ハロウィン当日は仕事の都合でお菓子も準備できず、また残業で帰宅が深夜になった。そのため近所の子供たちをトリートできなかったのである。
それから一週間ほど立ち、いよいよ家族が到着する日を迎えた。空港に出迎えるために朝早く起きて外を見たら、何とトイレットペーパーで家がぐるぐる巻きにされていた。家の前の高い街路樹の頂上までトイレットペーパーが投げ上げられ、そこから幾重にも垂れ下がっていたのである。そう簡単には取り外すこともできず、そのまま空港へと急ぐ破目となった。
空港からの帰途、初めて見るカリフォルニアの青い空と広々とした風景に感激していた子供たちに、「ここが君達の新しい家だよ」と言って見せたのがこのトイレットペーパーで飾られた家だったのである。近所の子供たちの歓迎の印だと当座はごまかしたが、その後本当の理由を言うのにかなりてこずったことを懐かしく思い出す。もちろん、子供たちが来てからの近隣の人々の親切さは、また格別であったことを付記して置かねばなるまい。
小・中・高と三人の子供たちをそれぞれの学校に通わせたので、授業参観などの行事のたびに先生方ともよく話をする機会があった。アメリカの教育の理念は何かという私の問いかけに対して、誰からも即座に返ってくる答えは「良い市民(citizen)を作ること」であった。日本にも、何か尊い、基本的なものがあるのだろうとは思うが、少し心配になったものである。
学校では子供たちに、機会あるごとにサービスとレスポンシビリティという言葉が教え込まれていた。これがどうやら「よい市民を作る」という教育理念を実現するための神髄のようである。サービスは他人に対する思い遣りであり、社会に対する奉仕の心である。しかしレスポンシビリティという言葉は少し意味が難しい。とくに日本では誤解されているようだ。例えば、危険な空き地に入らないようにと柵を設けるのは、空き地の所有者のレスポンシビリティだと思いがちだが、実はそうではない。むしろ所有者のサービスであって、そういう危険な空き地に入らないことが、住民のレスポンシビリティなのである。レスポンシビリティの訳語として「責任」は適切ではなく、むしろ「義務履行能力」の方が適切のようである。
というわけで日本の社会を見てみると、過去にこんな事件があったことを思い出す。A県の県道をB県の住民団体が小型貸切り観光バスで走っていた。折しも豪雨で崖崩れが起こり、バスは埋まり全員が死亡した。その遺族から道路管理者であるA県に対して補償の訴えが出た。A県の県民にすれば、何も頼んでもいないのに、よりにもよって豪雨のさなかに勝手に走られた上に、自分等の税金から何がしか支出されるのである。要は、道路を管理することはA県のレスポンシビリティだと主張されたわけである。
これは、とんでもないことである。そういう道路を、危険を犯してまで通らないことがB県のレスポンシビリティなのである。道路を管理するのはA県のサービスである、とB県は考えるべきなのである。もしA県のレスポンシビリティなら、他県人を通行禁止にしてもよかったのである。レスポンシビリティは「責任」として他人に強要するものではなく、自らの義務をきちんと果たす能力なのである。その意味では、A県が危険を予知出来ていたとしたら、事故の起こる前にそれを修復することは今度はA県のレスポンシビリティとなる。レスポンシビリティとサービスは、このように裏腹の関係にあると言える。
さてこの狭い日本を、他人に責任をなすりあう窮屈な社会から、もっとウィットとユーモアに富んだ心豊かな社会へと変革できないものだろうか。そのためには、このレスポンシビリティとサービスを正しく理解することが重要のようである。ただし、一見良さそうに見えるアメリカも、実は矛盾だらけの社会であるのも事実である。一方では他人の責任を問う訴訟社会でもあるわけである。だからこそ、サービスとレスポンシビリティが教えられているとも取れるのである。また、徹底して教えられているにも拘らず、延々と訴訟社会が継続していることにもまた矛盾を感じるのである。
(平成9年11月)
技術の散歩道 No.5
センサーフュージョン
人間には視覚・触覚・聴覚などの五感を脳でうまく融合して、外界の状況を総合的に判断する素晴らしい能力がある。例えば目だけではうまく状況が判断出来なくても、耳が加わるとそれらの相乗的な効果で途端に認識や判断が容易になるのである。これと同じようなことが工学的に実現出来ないかというのが、センサーフュージョンと呼ばれる技術である。機械に幾つかのセンサーを取付けて、その相乗効果で機械を知的なものに仕上げようとする技術であり、最近いろんな分野で重要になってきた。
さてこの複数のセンサーを使うということには工学的にどういう意味があるのだろうか。まず簡単な例としてゲートを通過する人数を計測することを考えてみたい。最も簡単には、ゲートに赤外線ビームを設置し、人間がこのビームを横切るようにすれば、ビームに対向して配置したセンサーでの光の断続から人数が検知できる。もしこのようなビームとセンサーの組合せを水平に2個配置すると、センサー出力の時間ずれから人の通過する向きも検出できる。また、2個ともに検出されたときに初めて一人として計数するようにすれば、舞い散る木の葉を感知せず、人数のより確実な検出が可能となる。また、たとえ1個が故障してもなお検出が可能である。
すなわち複数のセンサーを用いると、冗長性が付加され、システムとしての信頼度が増す。また、複数のセンサーを用いることで新しい機能が付加できることになる。これがセンサーフュージョンの狙いでもある。2個のセンサーだけでなく、これを縦横に数多く並べたのが画像センサーに相当する。したがって画像処理は、それだけでもうセンサーフュージョンの好例と考えても良いのである。センサーが多いのでそれだけ演算が複雑になる。そのため認識アルゴリズムの研究が必要とされるのである。
さてこの画像処理を用いて広い遊園地内の人数を測ろうとすると、カメラをあちこちに隈なく配備し、その画像の中の人間を画像処理で認識するというようなことになり、極めて困難なことになってしまう。ところが、上述のような光ビームのセンサーを入口と出口のゲートに設けるだけで、その差から中にいる人数が簡単にわかるのである。同じセンサーを複数個使うことで、単独では測定できなかった混雑度という量が検出できることになる。センサーフュージョンの簡単な例である。
家庭で使う電力の量を計測するには、単純に言えば電圧計と電流計を用いてそれらの出力を掛け合わせればよい。これを磁界による渦電流で巧みに実行しているのが家庭にある積算電力計である。ミクロに見れば、電圧と電流という異種のセンサーがうまく一体化され、電力という別の量を測定している例であり、センサーフュージョンの一例と考えても良いように思う。
このように同種、異種を問わず幾つかのセンサーが組み合わされて新たな量が判断されている例は、他にも数多く存在する。自動車用ナビゲータでは、衛星情報(GPS)により位置を求めるのが基本であり、さらにジャイロによる方位、操舵角、および車輪の回転数から位置を求める慣性航法を組み合わせて地図マッチングを行い、地図上での自車位置を判断している。
自動車のエンジンやガスタービンでは、燃費を最小にしたり排気中の窒素酸化物などを極小化する目的で種々の研究が行われている。これらには、少しの燃料を効率的に燃やすリーンバーン技術や、排気の一部を吸気側に戻すEGR(Exhaust Gas Recirculation)という技術がある。EGRでは、排気の戻し流量を計測する術がない。そのため、エンジンに入ってくる空気の温度と圧力とエンジンの回転数から、マイクロコンピュータで計算する方法が取られている。異なったセンサーの出力を組み合わせて別の量を割り出す一例である。
原子炉には約2万個のセンサーが装備されている。そのかなりの部分は燃料棒や制御棒などの位置センサーと、各部の温度・圧力センサーである。いま、炉にある変化が起こると、それが原因となって別の変化を誘起する。そのため、短時間に多くのアラーム情報が発生しうる。運転者の適切な判断のために、センサー情報の組合せから知識ベースとの連動で不急のアラームをまず抑圧し、本質的なアラームだけを優先して提示するような運転技法の研究も行われている。これもセンサーフュージョンの一例と言える。
自動洗濯機には5個程度のセンサーしかないが、これだけで多様な仕事をやってのけている。まずモータを回してみて、モータの逆起電力の計測結果から布量を推定する。さらに水を少し入れて再度モータを回してみることで布質を判定し、同時に電導度センサーから汚れ具合を判定する。そして最適な水量と水流の型を選び、最適な洗濯時間を決めるわけである。コスト的に見合う範囲内での数少ないセンサーを、多様な用途で活用し、ファジー論理とニューロ演算でフュージョンしている例と言えよう。
ビデオカメラにも30個程度の各種のセンサーがあるが、その中でも、手振れセンサーの結果で画像センサーの読み出し位置を制御するという、センサーの従属型フュージョンの例がある。
銀行の現金自動取引装置には約250個のセンサーがあるが、その多くは紙幣の通路に配置された紙幣の存在確認用センサーである。とくに紙幣の鑑別では、位置、大きさ、磁気パターン、光パターンがたくみに融合されて券種、真贋を判断している。また、以後の流通には不向きな汚れた紙幣の判断も行っているのである。
こういうわけで、最先端といわれるセンサーフュージョン技術も、まだ単純な形態ではあるものの既に産業応用が始まっていると見ることができるし、また昔からの技術と見ることも出来るのである。
(平成9年12月)