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回顧録 私の研究遍歴 ― 第1編 少壮期 ―
は じ め に
何の因果か、この研究遍歴の執筆依頼が私のところに巡ってきた。錚々たる諸先輩の前例を拝見すると逡巡の思いが先に立つが、一企業研究者の生き様を理解してもらうのも悪くはないと意を決し、執筆を開始することにした。私自身、他の方々とは異なる経歴を辿っているに違いないし、その中には多少とも読者の参考となるようなことがあるかも知れないという気がすることも、執筆を決心した理由である。
郷里での少年時代
私の郷里は、今はさほどでもないが往時は雪深かった北陸の地、福井県の武生市(その後、越前市と改称)である。その昔、国分寺が建立され、越前の国府が置かれたところであり、国司に任官された父藤原為時に伴なわれ、紫式部が幼少時代を過ごした土地という。歴史が古く、とくに仏教が栄えたようで、今でも寺の数がやたらと多い。私の家のすぐ近くにも大きな寺があり、その境内が私の格好の遊び場であった。
空襲に脅えて逃げ惑う日々も過ぎ、小学校3年生で終戦を迎えた。その後追い討ちを掛けたように福井大地震が襲ったが、幸いにも私の街は被害もなく、ようやく人心が安定しはじめた時代となった。
武生の街並(昭和25年頃)
このような環境の中、冬には寺の裏庭で、自製のスキーを履いてよく遊んだ。夏には竹のバットとゴムボールで毎日のように野球をやり、打球が寺の本堂の障子を突き破って中に入るホームランを競ったりした。障子の桟が曲者で、すっぽりと入る確率は低かったが、入るとまさに悲劇で、そっと堂内に忍び込んでボールを回収する必要があった。
中学(武生市立第一中学校)時代は校舎横の野川で手掴みで魚を追い、昼休みには時間内にどこまで堤防を駆けて行けるかを競い、よく午後の授業時間に遅れて叱られもした。台風直後の濁流の中を好んで泳ぐという無茶をやったのも、たしかこの頃だった。勉強は好きだったし、かなり良い成績も取ってはいたが、今考えてみると結構腕白な側面もあったように思う。
高 校 時 代
そのような私も、高校(福井県立武生高等学校)に入ると少し様子が変わってきたようである。当時の状況は、担任の斉藤敏男先生の書かれた回顧録がよく物語っているようなので、その一部を引用しよう。ただし私自身には、あまり実感としての記憶はない。
「……その後、あれほど多彩なクラスは見たことがない。各人は自己の天性に随って高校生時代を良く生きた。一同は江尻君をクラス代表に選出。(中略)彼は所謂ガリ勉型ではなく、また豪傑肌でもなかった。しかし卓越した包容力、指導力を備えていた。我が1年4組はすべての面で優秀だったがガサツのきらいがあった。それを看取して百人一首をクラスに普及させるなど、彼の配慮は高校生の域を脱していた。そして一同は良く彼を助け、彼のもとに団結した。クラスは常に生き生きとしており、あらゆる面で抜群だった。……」
どうやらこの高校時代は、詰め襟制服姿に朴の高下駄を引っ掛け、大人への転換期として精一杯背伸びしていた時代だったようである。
この頃は、まだ貧乏はどこも共通で、我が家でも父の乏しい給料を少しでも補なおうと、母と祖母が差入れ(ハタ織りの初期作業)の内職をしていたのを覚えている。ただ困ったのは、3年生後期の受験勉強のさなかに、過労がもとで母が長期入院せざるを得なくなり、しかもこのとき弟が事故で他界したことだった。二重の苦難の中で長男としての責任を強く感じたが、そうはいっても勉学の志は固く、都会に出て勉強したいという思いはつのるばかりだった。当時の私には、都会といえば東京と大阪であり、遠い東京は避けて大阪に出る決心をした。大阪とはいえ、当時の北陸線にはスイッチバックで登る難所があり、たしか蒸気機関車で6時間程掛かっていた。今はここを北陸トンネルで一気に抜け、2時間足らずの距離となっている。
高校時代 (昭和27年頃)
大 学 時 代
大阪大学工学部に入学した私は、その後学生寮に入るまでは、当初2畳間という小さな下宿部屋からスタートした。家からの仕送りはさして期待できないので、家庭教師のアルバイトで生活費を補い、日本育英会の奨学資金を学資に当てた。
学生寮での生活は、結構多彩であった。仲間が集まり、技術の議論も闘わせたし、天下国家を論じたりもした。大学では機械工学を専攻していたので、これにちなんで「奇怪座」という素人劇団を作り、寮祭で演劇を上演したりもした。最近、当時発行されていたガリ版刷りの寮誌「なぎさ」が見付かったが、そこには私の寄稿で「我国工業界の現状と若き我々の使命」というのがあり、生意気にも「……我々は新しき日本の次代の担い手として……」だとか、「……生産技術の向上を図り、もって優秀な製品を市場に供給し、我国工業界に対する国際的信頼をかちとり、『安かろう悪かろう』の汚名を返上するよう努力しなければならない……」などと表現されている。学生時代から生産技術には随分と興味を持っていたようで、それが潜在意識となって今の私があるようにも思う。
3年生の夏には長崎の三菱造船に実習生として厄介になった。蒸気タービン船の巨大な歯車ケースの複雑なタワミを、手廻しの計算機で解析して実設計に何がしか貢献することができ、このことが、将来に向けた設計者としての生活に夢を膨らませてくれた。諏訪神社のおくんちや精霊流しの特異な行事にも触れ、また、タンカーの進水式を見学したり、試運転の計測要員として船に乗り組んだりもした。
4年生の夏には北海道に渡った。当時の富士製鉄の室蘭製鉄所の研究所で、今度は研究者としての実習活動に入った。鋼棒の冷間絞り加工に関する実験的研究であった。鋼棒も急に絞ると中に三日月状の空洞亀裂が生じ、場合によっては破断する。その限界を確かめるものであった。当時研究所にはすでに一応のデータがあったが、私の結果はこれらを覆す程のデータとなり、私の立てた理屈の方がどう見ても正しかった。私の書いた研究報告書を、当時の指導研究員の津田さんという方が、真剣に時間を掛けて読んでくれていた情景を鮮やかに思い出す。今もお元気だろうか。
このような多彩な学生生活も終盤を迎えていたある日、参考書を探しに出掛けた駅前の書店で、偶然、ポンプ工学の本を見つけた。豊富な図面と写真で分かり易く書かれた実践的なもので、著者は日立の技術者であった。早速購入してみて、大学の講義にはない新鮮さを覚えた。当時、理工学図書といえば著者はおおむね大学教授で、企業人の著書は稀有だった。日立という会社では技術者が本を書けるらしい、きっと技術を大切にする会社に違いない。これが、私が日立に興味を持った理由であった。私の属していた水力学講座の教授である恩師の植松時雄先生が、そういう私の意図を理解してくれたのだろうか、すぐ大学推薦の手続きをとってくれた。試験と面接のあと、早々と内定通知を頂いた。
大学時代(昭和32年頃)
工場見学の帰途、紀三井寺にて
機械工学科の学友と
(昭和33年)
日立入社の頃
自動制御屋への転身
昭和34年春、日立に入った約300名の新人社員は、2ヶ月の集合教育を経てぞれぞれの任地に散った。私も希望通り、東京都下、国分寺市の中央研究所(以後、中研と略称)に赴任し、いよいよ夢にまでみた研究生活が始まった。当時の私には、機械工学というような、既に多くの先輩が活躍されている歴史の古い学問分野では、過去の遺産に少し継ぎ足す程度の仕事しか出来ないのではないかという不安があった。何かもっと新鮮な仕事、根本から世の中を変えられるような仕事がある筈だと漠然と考えていた。職場配属の面接で自動制御をやってみないかと言われた時には、自動制御の何たるかも知らないくせに、即座に「やってみます」と答えていた。
それからの3ヶ月、大学時代にはない苦闘の時が続いた。自動制御の入門書を買ってきて、研究室の先輩に教えを請いつつ、当時ではまだ目新しかった制御理論を勉強した。ある日、先輩に投げ掛けた質問に、この分野では著名なその先輩も答えられず、この時初めて「しめた」と思った。どうやらこの先輩の域に達したのではないか、私も自動制御屋と名乗れる礎が出来たのではないか、と素直に喜ぶことにした。
最初の仕事は原子炉制御の問題であった。中研の技術陣が川崎市王禅寺地区に国産初の小型実験用原子炉を計画していた。私も制御棒の位置を0.1㎜単位で遠隔計測できる装置を作り上げて、臨界試験に臨んだ。官庁の監督官や報道陣も詰め掛けた中、1本づつ燃料棒を増やしていく緊張の中で、計算通りの本数で臨界に達した瞬間、参観者から嵐のような拍手が沸き上がった興奮を今でもよく覚えている。その間、私のちっぽけな、全体から見ればまさに泡沫のような装置が、それでも大きな役割を果たしたことを実感し、完成の喜び、勝ち戦の喜びというのを初めて味わった。昭和37年秋のことであった。
位置計測装置の構成部品
(昭和37年)
ロボット技術の源流
この頃情熱を燃やしたもう1つの仕事に、サーボマニピュレータの開発があった。放射性物質のような危険な物質を、遠隔地から操作するための装置である。これは現在のロボット技術の源流でもあった。
この装置は、主動側の腕と従動側の腕とを、バイラテラルサーボという方式で、電線だけで結ぼうとするものである。主動側を動かすと、それに追従して従動側が忠実に動くとともに、その時の従動側での力が主動側を操作する人に感覚としてフィードバックされるというしろものである。力を感じつつ操作しないと掴んだものを押しつぶしてしまうため、力の伝達というのは極めて重要であった。
装置がある程度動き始めた頃、研究室の連中が私を冷やかした。従動側にカミソリを持たせ、主動側を動かして、自分で自分のひげをそってみろ、というのである。私はこれだけは自信がなく、とうとうこの実験はやらなかった。
実はこの研究の過程で、私は奇妙なことに気がついていた。主動側を操つる手に、微妙な振動が感じられたのである。これが私にひげそりを躊躇させた理由でもあった。電源を切れば振動はないのだから、モータおよびその制御系に原因があることは明らかであった。
サーボマニピュレータ
(昭和39年)
左:従動側 右:主動側
振動の研究
その頃、私は英語に熱を上げ始めた。上長の見事な英語に刺激され、何とか私もと考えたわけであるが、田舎育ちの私には、過去、生きた英語を聞く機会は皆無だったし、大学時代もあまり好きではなかった。私はある友人と、中央線中野駅近くにあった英会話スクールに、週に2度ほどだったか、通い始めたのである。月1万5千円程の当時の乏しい給料の中から、授業料を払うのはかなり痛かったことを覚えている。昼は会社で仕事をし、退勤後、中野へ通い、帰ってからは寮で夜遅くまで振動の解析をするという生活がかなりの間続いた。
振動の解析は、やればやる程次々と疑問が出て来た。解決よりも問題はどんどん複雑化していった。私は当時の新鋭ディジタル電子計算機HIPAC-103(日立製、パラメトロン型)を駆使し、徹底した研究を行なった。そしてこの頃、私は縁あって結婚することになり、ほどなく長女が誕生した。
婚約時代 隠岐島にて
(昭和36年)
研究員時代
密かな決心
サーボマニピュレータが完成し、原子炉制御の研究が一段落した昭和39年、私は研究員に昇格し、請われて別の研究室へと移っていった。当時ここでは、トランジスタ組立の研究を開始しようとしていた。
私はまだ、サーボ系の振動を全部解決していたわけではなかった。というよりも、一番面白い時期にあった。モータのパラメトリック共振という新しい現象を発見しかけていたのである。私はトランジスタ組立機のシステム検討に加わる一方、夜の部で引続き振動解析を行っていた。そして周期変動ダンピングを持った2次系としてモータの特性をとらえ、拡張ヒル方程式を導いてその存在を理論的に予言したのである。
この振動様式は極めて特異なものであるので、なかなかその存在に気付かなかったが、理論解析から得られたパラメータ通りに実験装置を組立ててみると、見事に振動を始めたのである。しかも実験は理論と完全に一致した。かくして私の夜の仕事は一応終結したのである。
入社後の5年間、私は論文を書くことを知らなかった。というよりも、能力的に書けるとは思っていなかった、と言った方が実情をよく表わしている。新しい研究室に移った途端、私は説教を食らった。「今まで何をぼやぼやしてたのか」というわけである。私はこの5年間にたまった成果を一気に吐き出すことにした。一年の間に、振動問題を中心に、サーボ機構についての7つの論文を投稿した。「自分の名前が活字になる」という単純なことが、私にとって無上の喜びとなったのはこの時からである。そして、何とかして30才までに学位を取ろうと密かに決心していた。まだ2年程あった。
このとき投稿した最初の2篇の論文に対し、計測自動制御学会から学術論文賞を頂くことになった。社外から頂く初めての表彰であり、私は有頂天になった。
周期変動ダンピング
2次系の安定性
(昭和41年)
計測自動制御学会からの論文賞
(昭和41年)
トランジスタ組立機の失敗
トランジスタ組立機の研究は、その頃極めて難しい局面を迎えていた。供給されるトランジスタの位置をたったの2条の光で検出する方法では信頼性が今1つ足りない、温度制御が難しく金線がうまく着かない、等々。私たちは分担してこれらを解決し、何とか形を整えて実用試験へと持ち込んだ。
ところが、当初の計画では人間よりも6倍程早く組立てられる予定だったのが、この2年の開発期間は生産の変革期でもあって、人間のスピードも6倍に上ってしまった。機械と人間とは同等になってしまったのである。しかも、作られるトランジスタの歩留りは人間には叶わなかった。人間はたとえ失敗しても、もう一度やり直して良品にしてしまう。機械はそれが出来ない。
私たちは失敗を認めざるを得なかった。一敗地にまみれたのである。結果として、人間の目の機能がいかに精巧であるか、これを機械的に実現することがいかに難しいかを痛感させられた。そして痛切に思ったものである。もし今度作るようなことがあれば、人間より少なくとも一桁上の性能を狙おう、そして今度こそ半年で作ろう、でないとまた人間にしてやられる……。ところでこの頃、我が家に次女が誕生した。
当時のトランジスタ組立の様子
(昭和40年頃)
初めてへの挑戦
この研究と並行して、私は記録計の研究も行なっていた。サーボ機構の振動解析を知った工場の人たちが、当時問題となっていた記録計の指示振れという振動問題を持ってきたのである。私は既に基本的な解析を終えていたので、比較的簡単に振動原因もわかったし、新しくグラニュラリティに起因する非線型振動の解析も行った。そしてこれが、計測自動制御学会誌の第一回会誌論文(のちの総合論文)として掲載されたのである。
私はこれ以来、「第一回」というのが好きになった。以後、何でも第一回目に挑戦することになる。そして誰れもやらないことを、少くとも中研で、出来れば日立で、そしてさらにうまく行けば日本で、最初に挑戦しよう。あわよくば世界最初に……などと考えるようになったのである。あの仕事は、あいつが創始した、とあとで言われるような歴史を作ってみたい……。
記録計はうまくいったが、トランジスタ組立機がいかにも残念だった。人間の機能、とりわけ目の機能を工学的に実現するのは、いかに大変なことか。私は何とかしてこの目の研究を、いつの日かやり直したかった。そして、いろいろ考えていた私に、留学試験を受けるチャンスが巡ってきた。
厳しい試験だった。とくに、1枚の生命保険の広告を見せられて5分間何でもしゃべれ、というのには正直言ってまいった。試験官は、のちに研修所で本格的に英語を習うことになった恩師のクディラ先生だった。何をしゃべったか覚えていないが何とか合格することができ、かつて中野につぎ込んだ薄給時代の投資が今戻ってきた、という感じがしたものである。
私は張切った。そして学位論文を一気に書き上げた。学会で私の発表に注目して下さり、いろいろと励ましていただいていた西村正太郎先生に主査をお願いした。機械屋ながら電気工学科へ提出したので、大学にも前例がなく、私は両方の教授会で審査を受けた。ドイツ語の試験にも合格した。そして昭和42年3月18日、私は学位記を手にした。入社して8年目、目標としていた30才の誕生日を、残念ながら9日間だけ過ぎていた。
アメリカ留学
初めての船旅
アメリカへの留学では生体工学を専攻することとし、当時、目の研究で大活躍していたイリノイ大学のスターク教授に手紙を出した。そして昭和42年秋、妻と二人の娘を残し、単身で横浜からノールウェイの貨客船に乗り込んだのである。船による社費留学の、私の好きな「第一号」であった。
この貨客船トレアドール号には、私を含めて6人の乗客がいた。このうちの3人は、カリフォルニア大学のオットー・スミス教授一家で、オーストラリアからの帰途であった。研究室で以前にこの人の著書を輪講していたので一層の親しみが湧き、夕食の時、これを話のきっかけにした。横から奥さんが「ああ、あの赤い表紙の本ですか」と笑顔で答えてきたが、たしか私の記憶では黒い表紙だった。それを言おうとしてはっと口をつぐんだ。私の読んだ本は海賊版だったのである。原本は赤い表紙に違いない。私はとっさに「はい、あの赤い表紙の本です」と答えていた。
最近の若い人は、海賊版といってもわかるまい。当時、洋書は極めて高価だった。海賊本屋が私たちの需要を満たしていた時代だったのである。
猫の目の研究
生まれて初めてアメリカの土を踏んだ私には、見るもの聞くものすべてが新鮮だった。シカゴの北部に居を構え、地下鉄で大学に通う日々が続いた。私のいた情報工学科生体工学グループは、イリノイ大学のメディカルセンタの中にあって、聖ロカ病院の9階を占有していた。私はここで、猫を使った目の研究に没頭したのである。
学位をすでに持っていたので、実験室兼用の個室と、助教授という肩書きも貰った。2人の大学院学生が通ってきて、彼らと毎日、実験用に配達される猫を用いてその頭に穴をあけ、電極を差し込んでは視覚応答の実験を繰り返したりした。
この奇妙で、かつ貴重な体験へと私を駆りたてたのは、自動制御のときと同様にまさに好奇心であったろうし、やれば何とかなるという自信でもあったと思う。しかし、それらにも増して、いつも心の奥底に引っ掛かっていたトランジスタ組立機の失敗のことが、1つの大きな要因となっていたのは間違いない。
この研究の結果、目の機能の本質はあくまで神秘のベールに包まれたままではあったが、現象論としての目の機能は、いろんな実験や勉強を通して次第に明らかになっていった。そしてその成果の一部を国際誌に論文として投稿し、帰国したのである。昭和43年夏のことであった。
ロスアンジェルスへ
太平洋の船旅
(昭和42年)
シカゴ留学時代(昭和42年)
主任研究員時代
知能ロボット
アメリカから帰国後、生体視覚の研究で得た知見をもとに、もう少し工学に近い立場で視覚の問題に挑戦することにした。そして、視覚によって外界を感知し、外界に適応的に働らきかけることのできる人工知能ロボットの基礎研究を企画し、まず計算機に目を付けることから始めた。
この頃、私は主任研究員を拝命し、研究室が独立してその室長を務めることになった。我が家では長男も誕生した。そして昭和45年秋、私たちは初めての人工知能ロボットと銘打って、「図面を見て物体を組立てるロボット」を「第一回」日立技術展で初公開したのである。
ゲスト・エフェクトという言葉がある。来客があると、決って動かなくなる現象をいうが、私たちのロボットは余程心臓が強かったに違いない。研究室で実験中の頃とは打って変って、会期中休みなし故障なしで動き続けたのである。お蔭で日立技術展の目玉として、週刊誌にまで紹介された。
ところでこの知能ロボットは、簡単な組立図を見せることでやるべき作業の「目的」を理解し、その目的を実行する「手順」を判断し、机上にばらまかれた積み木を認識してこれらを組立図通りに組立てていくというものである。高価なだけで役に立ちそうにもないしろものだった。しかしそこには、それより10数年後話題となったFMS(フレキシブル生産システム)の概念がすでに縮図として入っていたし、目的を人間がマクロに指令し、細かな作業手順はロボット自身が考えるという、ロボットの理想像が組込まれていた。
当時、人工知能研究のメッカの1つ、スタンフォード大学のマッカーシィ教授が、雑誌フォーチュンで、「日本では日立という会社が知能ロボットの研究をやっているが、アメリカにはまだそのような企業が現われていないのは実に残念だ」と語っていたことを思い出す。
日立技術展で人工知能ロボットを実演展示する筆者
(昭和45年)
人工知能ロボットの構成
(昭和45年)
新しい苦悩
この人工知能ロボットを、展示に先立って新聞発表するため、私は経団連の記者クラブに出掛けた。一通りの構成と機能について説明したとき、記者から矢つぎばやの質問責めにあった。
その一つは「これは世界最初ですか」であり、また「何年後に実用化しますか」であった。当時若かった私は、それでもはやる心を押さえて、「図面でマクロに指令するという機能を持ったロボットは、世界に類がないと思います」と答え、また「3~5年後には実用化したいと思います」と答えていた。
翌日の新聞は「日立が世界最初の人工知能ロボットを完成」と大見出しで伝え、「3~5年後に実用化する構えである」と表現していた。以来、この記事のことが私の胸に重くのしかかることになった。新しい苦悩がまた始まったのである。「実用化」という約束を、果たして「有言実行」可能だろうか。目にも手にも問題は山積しており、なかんずく目の高速化が課題だった。
実用化に向けて
私たちは、高速化の可能性の見極めのため、実用化指向の練習問題を解いてみて、早く実用上の問題点を探り当てようとした。そして、当時、工場で問題となっていたプリント基板の傷検査問題を取り上げた。傷のような捕えどころのないものを対象とする目視検査の自動化の研究は、前例もなく、大きな困難が予想された。
紆余曲折ののち、私たちは「標準パターン自己創成法」と称する奇抜な方式を開発した。この方式は、傷があるかも知れないパターンから、傷がないとしたらこのようになる筈だ、というパターンを自動的に作り出して比較する方法である。この方式を工場でのテレビ用プリント基板の検査に実用したところ、潜在的な不良をすべて排除して日立カラーテレビの品質向上に大いに貢献できた。
おそらくこの装置は、画像処理技術の生産工程への世界最初の導入例であったと思われ、当時、この成果を日米画像処理会議で発表するとともに、ある国際学術雑誌にも発表した。それ以来、この論文は、傷認識の原典として世界各国から数多く引用されるに至った。
これらの研究が終盤を迎えていた昭和47年夏、私は密かに、以前に失敗したトランジスタ組立への再挑戦の夢をふくらませていた。昔、一緒に失敗した工場側の仲間の一人が、私の所へひょっこりと顔を出し、「再度やらないか」と熱っぽく弁じていったのもこの時である。
微小な傷パターンの認識原理
- 標準パターン自己創成法 -
(昭和47年)
トランジスタ組立機への再挑戦
その年の秋、私たちは方式の検討に取り掛かった。そして半年後には殆どの可能性検討を終え、基本方式が固まった。今度は私から工場へ電話を掛けた。
早速研究プロジェクトが結成され、「特別研究」としての本社の認定も受け、私はその主任研究者としてシステム作りに入った。以前に得た教訓通り、開始してから半年後の昭和48年秋の中研の研究発表会には、私たちは3台のトランジスタ組立機を運転し、百発百中の見事なトランジスタ自動組立を展示披露した。
この装置は、ビデオカメラの信号を2次元局部メモリーと呼ぶ遅延回路に導き、そこから並列に読み出される画素群を、あらかじめ記憶してあるトランジスタ上の特徴的な部分パターンと実時間で照合し、最も良く合う座標位置を求めるものであった。カメラの1垂直走査期間ごとに1個ずつ、この標準パターンを次々と切り替えて各部分パターンの位置を認識し、その組合わせから配線すべき電極位置を計算で求めるものである。この方式は複合型部分パターン照合法と呼ばれ、高速で信頼性の極めて高い点に特徴があった。
パターン認識による
全自動トランジスタ組立機
(昭和48年)
約束を果たす
私たちの組立システムでの自動生産が軌道に乗り、技術的な評価もすべて終了したある日、私は再び記者の方々に会った。そして「これが、あの時お約束した知能ロボット技術の集大成です」と説明した。約束してから4年が過ぎていた。長い間胸につかえていたものが、ようやく降りた感じがした。失敗に終わった最初の挑戦から数えると、実に10年の歳月が流れていた。
この発表のニュースは、海を越え、マサチューセッツ工科大学(MIT)人工知能研究所のホーン教授の目にもとまった。彼から早速手紙が来た。「素晴しい研究だ。道理であの時、君が笑っていたその理由が、今はっきり解った。おめでとう。」というものであった。実はこの発表の1~2ヶ月前、彼は中研を訪れ、半導体自動組立の可能性に関する彼の検討結果を私に説明していったのである。このときには、すでに工場でトランジスタが続々自動生産されていたが、私はまだ、発表を目前にして沈黙を守っていた時期であった。どうやらこの時、説明を聞きながら私はにやにやしていたらしい。
私たちは、この成功を基盤にして、引き続きIC、LSI、ハイブリッドIC、パワー・トランジスタなどへの応用展開を精力的に進めていった。その結果、半導体組立工程は完全に自動化された。
ところで私たちが先鞭をつけたこのような技術開発を契機として、日本全体の半導体生産の速度が上がり始めた。品質はどんどん向上し、大きな産業へと成長していった。まさしくこの技術が、当時の日本の半導体産業を世界のひのき舞台へと押し上げる原動力になったのである。私たちは、このトランジスタ組立システムで昭和50年度機械振興協会賞を受賞し、その後のLSI組立システムの開発では、昭和53年度日本産業技術大賞・内閣総理大臣賞を受賞した。また私個人は、昭和50年に科学技術庁から「第一回」研究功績者顕彰を受けることができた。
機械振興協会賞を土光敏夫会長から受賞する筆者
(昭和50年)
研究功績者顕彰のメダル
(昭和50年)
最初のIR-100
この頃行ったボルト締緩ロボットの研究は、ある会社から特別に依頼されたプロジェクトの1つであった。私たちは初めてここで、移動する物体の実時間認識という問題に挑戦し、コンクリートポール用型枠の奥まった位置に並んでいるボルトを、型枠の移動につれて次々と締めたり緩めたりするロボットを作り上げたのである。
この装置は、視覚と触覚を備えた初の工業用知能ロボットということで、昭和49年にIR-100賞を受賞した。これは「日立で最初」の受賞例となり、例の私の奇妙な習癖を満足させるに足る大きな出来事だった。この賞は、世界で開発された新製品・新技術を毎年100個ずつ選定して表彰する国際的な賞であり、現在ではR&D100と改称されている。この私たちの受賞を契機に日立はほぼ毎年受賞できるようになり、今では日立が国内最多の累積受賞記録を持つに至っている。
私たちは、このロボット技術を研究論文としても公表した。その結果、アメリカパターン認識学会から最優秀論文賞を頂戴することになったのである。またこの技術は「ロボティックビジョン」の名称で、のちにアメリカの生産工学会の創立50周年記念行事の際、「過去半世紀における傑出技術」の一つに選定された。世界最初の電子計算機エニアックや、マサチューセッツ工科大学の世界最初の数値制御技術、一世を風靡したIBMの360計算機シリーズなどと肩を並べての受賞だった。
ボルト締緩ロボット
(昭和48年)
ひまわり
この頃、もう1つのエポックメーキングな仕事があった。それは昭和47年暮に突然始まった。事業部から気象衛星画像処理の話が持ち込まれたのである。気象研究所からの4ヵ月間の委託研究であった。私たちは早速これを引受けて事業部を応援する体制をとり、私がプロジェクトリーダを務めることになった。
静止衛星はまだアメリカでの例を除いては皆無であったし、衛星画像のような大規模な画像の処理は、勿論私たちにとっても初めての経験であった。早速、徹底した勉強を開始するとともに、広範なシミュレーション実験や概念設計を繰返した。そして4ヵ月後には、画像間の雲の動きから風向・風速を自動解析する技術を中心に、分厚い研究報告書にまとめて気象研究所に報告した。私たちの開発したこの純国産の風解析アルゴリズムは、その何年か後に打ち上げられた初の国産静止衛星「ひまわり」のための画像処理による気象観測の基礎として、大いに役立つこととなった。
新記録
このような事業支援のための研究は、その後も幾つか行なわれた。昭和51年だったか、南極観測で有名な国立極地研究所からのオーロラ画像解析システムの受注の際にも、私たちは単に研究者としてだけでなく、営業マンとしても振舞った。当時の私の研究室には、このときに極地研の永田武所長から戴いた感謝状と、南極のペンギンの写真とが大事に飾ってあったことを懐かしく思い出す。
また同じく昭和51年には、紙幣鑑別の研究も開始し、翌年には、衛星画像処理による海象の研究にも着手した。この海象の研究では、赤外線衛星画像を用いて海水温度分布図を作成するアルゴリズムを確立し、のちにある漁業関係機関からの計算機受注に大きく貢献した。また紙幣鑑別の研究は、のちに銀行向けの現金自動取引装置(ATM)として立派に製品化された。
図面組立ロボットに始まった知能ロボット技術は、これら以外にも、ポンプ水圧試験用ホース接続ロボット、コンテナ荷役システム、エレベータ用混雑度検出装置、工場内の物流自動化システム、捺印検査、基板組立検査など、多くの分野に実用された。これらの研究で私たちは、昭和48年からの5年間で、社内の最高の栄誉である社長技術賞を5件(うち特賞3件)もいただくという新記録を作ることができた。この記録は、今もって破られてはいない。
子供たちと一緒に日立のイメージ広告に登場。数ヶ国語で世界中にロボット技術についての意見を発信
(昭和48年頃)
裾野の開拓
このような応用研究の一方、つねに原点に立戻って、技術の裾野を拡げる努力も行なってきた。昭和48年からは通産省の大型プロジェクト「パターン情報処理システムの研究開発」に参画し、物体認識の研究を担当して、複雑背景下での3次元物体認識手法の研究を行なった。
そこでは方向コード法という新しい処理手法を開発するとともに、画像処理を高速化するための並列アレイプロセッサ型画像処理装置を開発し、この分野でのわが国の基礎・基盤技術の向上に大きく貢献してきた。そして後年、これらの成果によって、私たちの研究室は他のプロジェクト参加会社とともに、私たちにとっては2度目の日本産業技術大賞・内閣総理大臣賞をいただくという幸運に恵まれたのである。
(第2編につづく)