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回顧録 私の研究遍歴 ― 第5編 現役退任後 ―
退役後の残務
鉄腕アトムの生誕日
この3月に完全に日立を退職したとはいえ、すべての仕事を同期して終了できるとは限らない。とくに学界関連での幾つかの仕事は、まだまだ継続する必要がありそうな気配が見え、従来の縦型の科学技術に対して横型の科学技術をこれからの日本の中核科学技術に育てようと活動してきた仕事もその一つであった。
この活動に対しては、それまでに30の学会が賛同し、その後、正式に「横断型基幹科学技術研究団体連合(略称:横幹連合)」を設立することになった。その設立総会が、手塚治虫の物語の中で設定されている鉄腕アトムの生誕日2003年(平成15年)4月7日に決定し、東京大学山上会館で開催されることとなった。参加する学会の全会員数は40,000人を超える規模となり、これまでに幾度かの準備会議を経て、設立の運びとなったものである。私はその設立準備委員として活動してきて、準備会議での議長を務めたりしていたが、この設立総会でも、正式に会長を決定するまでの間の仮議長という要職を務め、元東大総長で産総研理事長の吉川弘之先生を会長に選出して議長をバトンタッチした。
一方、この4月7日の鉄腕アトム生誕日を記念して、朝日新聞社が子供たちから「アトム宣言」を募集したところ、3877通もの応募があった。私は朝日新聞社からの依頼でその審査員を務めてきて、ロボット部門での優秀作品を選定した。計7つの部門の優秀作品とその選評は、アトム生誕日に寄せた審査員のメッセージとともに、生誕日4月7日の朝日新聞に掲載された。
軟着陸に向けて
北陸先端科学技術大学院大学の客員教授もこの3月には辞任して、かなり肩の荷が降りた感じでいたが、急激な生活の変化はやはり好ましくないし、今後も少しは社会とのつながり、技術とのつながりを持ったほうがいいと思われた。そういうところへ、相次いで幾つかの依頼が来た。
まず東工大教授の奥富正敏先生の依頼で、財団法人日本画像情報教育振興協会から、画像処理の標準教科書向けに「画像処理の歴史」の章を執筆して欲しいという話が来た。さっそく構想を練り、全体を一気に書き下ろした。
一方、作家の瀬名秀明さんからは、今度本を出版するよう計画しているので、そこに「ロボット学会のこれまでと未来」という小文を専門家の意見として挿入したいという話があった。実は瀬名さんからは、私の会長時代に日本ロボット学会へご著書の印税の一部を寄贈して頂いたことがあった。ロボット学会会員数十名へのインタビューなどを通じて本が仕上がったということで、そのお礼という意味合いもあるとのことだった。瀬名さんは1995年の日本ホラー小説大賞を受賞された推理作家であるが、もともとは薬学部の出身で技術にも強く、とくにロボットについては造詣が深い。そのため前年の学会創立20周年のときには、特別講演者のひとりとして講演をお願いしたこともあった。そういう瀬名さんからの特別の依頼だったため、これも喜んで引き受けることにし、早速原稿を仕上げた。
これらの本は、翌平成16年(2004年)に、それぞれ「ディジタル画像処理」、「ロボット・オペラ」という題名の本として出版された。
横幹連合の設立準備会(左下)と設立総会(左上)で議長を務める。右は設立総会での吉川会長の就任挨拶風景。
朝日新聞のアトム宣言での
審査員メッセージ
(アトム生誕日2003.4.7号)
情報処理の教科書と
ロボット・オペラ
文部科学省で講演
また、文部科学省の科学技術政策研究所からは、「ロボティクス推進のための課題と展望」と題して約2時間の講演を行って欲しいとの依頼が来た。すでに引退している身だからと最初は辞退したが、引退したからこそ今まで言えなかったようなことまで言えるのではないかと説得され、結局引き受けることにした。今までの先駆的なロボティクス技術の研究開発の経験と、日本ロボット学会会長を務めた経験を踏まえ、日本のロボティクスの進むべき基本事項について説明し、今後の科学技術政策に生かしていただくようお願いした。
審査委員への就任
また、今まで数年継続してきた新エネルギー・産業技術総合開発機構(略称NEDO)の産業技術助成事業の審査委員としての仕事も、もう暫く継続することとした。大学などの若手研究者から提案された約20件の書類がどっさりと送られてきて、その書類審査を終え、また最終審査会議にも出席して、幾つかの重要な研究提案を承認したりした。
さらに、ずいぶん昔に国のパターン認識大型プロジェクトでご一緒だった渡辺貞一さん(当時 東芝)からメールが来た。渡辺さんも就任されている科学技術振興事業団(この直後、科学技術振興機構と改称)の知的財産委員会の専門委員に、私を推薦していいかという了解取得のメールだった。ちょうど「機構・ロボット」部門での特許評価の専門家がいなくて困っているという話であった。月1回の会合ということなので喜んで引き受けることとし、平成15年(2003年)9月の会合から参画した。
秋には、すでに10年を越えるお付合いとなった徳島大学教授大恵俊一郎先生からのたっての依頼で、徳島に向かった。すでに辞退の申し出をしていた徳島大学の非常勤講師を、この年も継続することとなった。また、つい先ごろまで客員教授をしていた北陸先端科学技術大学院大学からは、ある大学院生の博士学位授与審査のために学外審査委員を引き受けて欲しいとの連絡があり、これも引き受けることとした。その後この大学院生は、見事に学位を取得された。
この年の暮れには、文部科学省研究開発局の防災科学技術推進室からの依頼を受け、大都市大震災軽減化特別プロジェクトにおけるレスキューロボット研究の外部評価委員を引き受けることとなった。全5年間の研究での前期2年終了時の中間評価として、今後の方針を決める重要な役目であった。内部評価の結果を踏まえて、研究責任者からの状況説明を受け、今後の方針を議論した。47件の研究を今後集約し、一丸となって実践的な研究を推進し、実際に防災現場に配備できるような幾つかのロボットを開発するように要請した。今後の研究開発において、さらに実用的な技術が開発されるよう要望し、外部評価委員としての役目を全うした。
中学校での記念講演
そのころ、倉田記念日立科学技術財団から連絡があり、文部科学省の創意工夫功労学校に選定された長崎県東彼杵町の千綿中学校が、その受賞記念の式典で記念講演をしてくれる人を探しているので、是非私にやって欲しいとの依頼があった。文部科学省とも協議して私に依頼がきたわけである。
過去に私は、母校で高校生を前に講演したことは一度だけあったが、中学生相手の講演ははじめての経験でもあり、どういう話をどのような語り口で話せばいいのか、皆目見当がつかなかったが、いい経験にもなることだし、引き受けることにした。若い世代の理科離れが問題化している昨今でもあり、技術者を志してくれる人が少しでも輩出できるきっかけにでもなればという思いで、「日本のロボット技術 ― 先端科学技術への挑戦 ―」という講演タイトルにした。
長崎県 東彼杵町立 千綿中学校と
創意工夫功労学校認定の記念碑
この学校は、大村湾を一望する高台にある立派な学校であり、人数は全校で140名ほどという小規模ながら、理科教育以外にも、体育系、文科系のクラブ活動が活発な、素晴らしい学校と見受けられた。平成15年(2003年)12月11日、学校の玄関には歓迎の表示が出ていて、校長先生に直接出迎えていただいた。早速学校の概要を拝聴し、学校の中をいろいろと案内していただいた。授業中の特殊学級や数学教室を覗いたが、異端者が突然入っていったというのに、先生にも生徒にも私を暖かく迎え入れてくれるまなざしを感じた。生徒たちの真摯な態度に感動しつつ、以前に中学校に足を踏み入れたのはいつだったか、などと考えたりした。そして、娘の中学時代の学校参観日以来、約20年振りということに気付いたりしたものである。
記念式典は体育館で開催され、全校生徒と先生方のほかに父兄の方々30名ほどが集まった。まず校長先生の挨拶に始まり、PTA会長の挨拶と、生徒の研究発表があり、そのあと私の講演に移った。もちろん言葉は日本語だが、計算機と液晶プロジェクタによって国際会議と同じ形式で講演することをあらかじめ宣言した。そして、私の小学校、中学校時代の話から始めて、技術者になるまでの過程や、技術者としての今までに至る足跡を、写真や動画を使って紹介した。とくに論文については、話には聞いてはいても実際には知らないと思われたので、話の途中過程で私自身の英語による論文も画面に表示して興味を持たせたりした。実際にロボット技術が実用されている身近な機械として、ATM、郵便区分機、自動洗濯機なども例示し、その動作を紹介した。大学時代の三菱造船長崎造船所での体験が、私の技術者としての起点になったことや、そのときに経験した諫早の豪雨被害、その後の雲仙普賢岳の噴火での地理情報システムによる復興支援、後に開発した郵便区分機が隣の諫早市の諫早郵便局で稼動中であることなど、私と長崎とのかかわりも話した。
講演終了後、生徒を代表して生徒会長からのお礼の言葉と、女子生徒からの花束とを頂戴し、さらに私への感謝ということで校歌の斉唱があった。その心地よい歌詞と素晴らしい歌声を壇上でひとりじっと聞かせていただき、46年振りに訪れることができた第2の故郷を実感し、満足した。
46年振りの長崎は、大きく変貌していた。その昔、対岸の造船所まで小船で通った船着場は近代的に大きく衣替えし、昔の面影を感じとることは出来なかった。当時1ヶ月間も宿泊した「丸金旅館」は、この辺らしいという大体の場所は同定できても、はっきりとは判らなかった。グラバー邸は周辺を含めて大きな公園になり、海を挟んだ対岸の造船所との距離が、何だか近くなったように錯覚したりした。
四つ目のフェロー
平成16年(2004年)秋、私は1ヶ月半の単身生活をすることとなった。妻が息子夫婦の出産の手伝いで、ニューヨークに旅立ったのである。当初一緒に出席することを考えていた岐阜大学での日本ロボット学会学術講演会には、結局は私ひとりで参加せざるを得なくなった。実はこの席上で、私はこの学会からフェローの称号を戴くことになっていたので、妻にもその状況を見せたかった。
この日本ロボット学会からのフェロー受賞は、IEEE、IAPR、電子情報通信学会からのフェロー受賞に次いで4度目のことであった。とくにこの学会は、発起人のひとりとして学会創設の際に記念講演をし、またその後、学会会長として創立20周年記念式典を挙行した想い出の学会でもあった。しかもこのフェロー制度は、20周年を記念して会長であった私が率先して企画立案し、制定した制度でもあったので、会長退任後も監事として引き続き出席していた学会理事会の会合で、私の受賞の話が最初に出てきたときには、これを固く辞退した。しかし私が受賞しないと、後続の受賞者の選定が難しくなるとの説得を受け、結局は喜んで受賞することにしたものである。もらった記念楯はもともと私の基本デザインによるもの、まさかこのように自分でもらうことになろうとは思ってもみなかった。技術者人生でのいい記念がまた一つ増えたことになる。嬉しい限りである。
そしてまもなく、女児誕生のニュースがニューヨークから飛び込んできた。私にとっては6人目の孫、はじめての内孫というわけである。これもまた嬉しい限りである。
ところで私の研究者・技術者人生は、晩年を迎えたとは言え、まだまだ落ち着かせてはもらえず、平成16年(2004年)暮近くになるといろいろとまた話が出てきた。たとえばIAPRからは、2年後に予定された香港でのICPR-2006の準備状況が思わしくないので、Task Force on ICPRの委員になって欲しいと言ってきたし、電子情報通信学会では昔の仲間が集まって長老だけの研究会を組織するから、その副委員長をやって欲しいとも言ってきた。また電気学会からは会誌への記事執筆を依頼してきた。中学時代の同窓生が集まって古稀記念の文集を作る話が出て、私がその編集長を引き受けることにもなった。
古稀記念文集
この古稀記念の文集制作は、もともと、NHKの人気番組であった「プロジェクトX」の制作チームから話が持ち込まれたものであった。北陸の、片田舎の中学校の、しかも同じ学年から結構多彩な人間が出て、それぞれが各方面で活躍してきた理由は何だろうかということで、結構注目されていたようであった。文集の編集の過程をNHKがTVカメラで追いかけるという話であったが、番組自体が何度か不祥事を起こしたことなども影響して、結局この話は流れた。私たちはそういうこととは無関係に、折角の発案を無にしないよう、文集制作は継続することにした。そして若い後輩たちに読んでもらうことを主眼に、文集のタイトルを「無邪気な田舎の挑戦者たち」とし、その副題を「われら同窓生の奮戦の記録と後輩たちへの提言」とした。
私たちの同窓会組織である「武生26会」関東支部の私を含む有志数人がまずは発起人となり、この構想を武生の26会本部に持ち込んで、本部から会員全員に連絡して原稿執筆と寄金募集を依頼することになった。母校である武生第一中学校にも出かけて主旨を説明し、中島和則校長先生に祝辞執筆も依頼して快諾を得た。またこれが縁で、一度母校で講演して欲しいという話が出て、平成17年(2005年)3月、特別講演会が実現した。発起人である岩井 仁さん、廣田 昭さんと私とが、それぞれに歩んできた技術の道を話し、幸い先生方や父兄、および若い後輩たちから好評だったようである。
その後、執筆原稿が続々と集まり、資金も必要十分な額に達したので、故郷で印刷業を営む同窓生で26会役員でもある平野敬之さんに印刷製本を依頼した。平成17年(2005年)7月、予定通り立派な本が完成し、早速執筆者を初め、同窓生の希望者に配布し、大変喜ばれた。また母校や武生市の幾つかの機関にも寄贈されたが、そのことが地元の新聞にも取り上げられるなど、評判となった。なお武生市はこの年の10月に改称し、越前市として新発足した。
中学時代の同窓生で制作した古希記念文集「無邪気な田舎の挑戦者たち」とその電子版CD
横幹連合副会長
2年前に設立に深く関与した「横断型基幹科学技術研究団体連合」(略称:横幹連合)からのたっての依頼で、平成17年(2005年)4月、その副会長に就任することとなった。この連合は、設立以後、43の学会からなる組織へと発展してきて、秋には特定非営利活動法人(NPO法人)としての認可も得て、長野市で第1回コンファレンスを開催することができた。自動制御連合講演会の開催に合わせ、相乗りの形で開催させてもらった訳である。
その際、各会員学会の会長にも集まって貰って会長会議を実施し、鷲沢長野市長の参加も得て「コトつくり長野宣言」を採択・発表した。この宣言を読上げる役目を私が担当したが、会議にはNHK長野や現地の民放などが取材に訪れ、会議の様子が地方のニュース番組で放映され、紹介された。
横見連合の会長会議と、「コト作り」長野宣言のテレビ放映
特別講演
この平成17年(2005年)には、すでに引退した身ながら幾つかの重要な講演を依頼された。その一つは7月に淡路島国際会議場で開催されたMIRU-2005(画像の認識・理解シンポジウム)という会議であった。画像の認識・理解の分野は、誰でも比較的容易に研究に着手でき、ちょっとした努力でそれなりに成果は出せるが、その成果の実用化が極めて難しい分野であって、とくに大学の研究者にはその経験が殆どない。昨今の大学法人化・自立化に向けた改革時代に対応するため、実用化こそが我が命とばかり、実用化重点で研究開発を進めてきた私の経験を是非話して欲しい、との依頼であった。そのため、現在の研究姿勢では何が問題で、何が欠けているかを中心に、辻 三郎先生と私とがそれぞれ1時間講演し、日頃感じている我が国の研究の現状について意見を述べた。若い大学人からは、初めて聞く刺激的な話という評判で、大好評だった。これを機に新しい視点での研究が、あちこちで展開されそうな気配が感じられた。
また、暮れにはPRMU(電子情報通信学会のパターン認識・理解研究会)が新潟大学で開催され、先に組織化した電子情報通信学会の長老だけの研究会「フェロー&マスターズ未来技術時限研究専門委員会」が協賛して、白井良明先生と2人で講演を行った。私の講演タイトルは「越えよ・燃えよ・嵐の中に出でよ」という刺激的なもので、私の経験をもとに世界で活躍できるためのノウハウについて話をした。
母の他界
これまでの私の研究者人生を多彩に彩ってくれたのも、また苦難にあっては陰に陽に私を支えてくれたのも、他ならぬ妻と子供たち、それに両親であった。喜怒哀楽のそれぞれの局面で、ともに喜び、慰め、また励ましてくれた。その父はすでに平成10年(1998年)に他界しているが、幸いにも母は、その後ひとり暮らしの不便な生活を経て、ここ2年ほどは武生市内のグループホームで、暖かい介護のもと平穏な生活を続けていた。父の生前に、父母を一度、所沢市の我が家に引き取ったことがあったが、8ヶ月が限度で、とうとう郷里へ帰りたいと言い出し、それ以降はもう我が家で一緒に住もうとは決してしなかったし、私としてもやはり郷里から引き離すのには忍びがたいものがあった。時折私が帰郷しては昔話を語ろうとしても、残念ながら母は耳が不自由な上に、昔のことは忘れたといってあまり多くを語りたがらなかった。それでもあの笑顔だけはずっと健在で、会うといつも心が休まるのであった。
その母が、平成17年(2005年)9月中旬、自室の入口で転倒して大腿骨を骨折し、急遽入院した。2週間で歩けるようになるとの医師の所見で、郷里の妹と電話で連絡しつつすぐ手術を決断したが、93歳の高齢者にはやはり耐え難かったようで、とうとう麻酔から覚めることなくそのまま他界してしまった。私自身も、駆けつけるのが間に合わず、とうとう死期には立ち会えなかった。私の手術の決断が、ある意味で過酷過ぎたという反省はあるが、骨折のままでの苦難な生活を想像するとき、これで良かったのだと自ら納得せざるを得なかった。
葬儀と母の部屋の後片付けを終えて所沢の我が家に戻ったとき、裏庭の、普段は目の届かないところにある老木(蔦)に、たわわに実ったアケビを発見したときは実に感動ものであった。もう15年も前から生えている木で、長い間アケビと信じて見守ってきてはいたが、一向に実をつけず、その後、真偽のほどは不明ながらアケビには雌雄の木が必要だと聞いて、結実は無理と諦めていた。
実は葬儀の際に郷里の級友から、西洋に「千の風になって(a thousand winds)」という作者不詳の有名な詩があることを教えてもらっていた。平成13年(2001年)の世界同時テロのあと、ニューヨークの貿易センタービルでの慰霊祭にもこの詩が朗読されたという。それが心にあったためか、母が千の風になって、どこからか花粉を運んできてくれて、一瞬のうちにアケビを実らせてくれたのではないかなどと、およそ科学者・技術者らしからぬ想いを持ったりしたものである。
母は元来旅行好きであった。その昔、私たち家族がアメリカに滞在していたときにやってきて、言葉もわからない状況の中で街中を独り散策して私たちを驚かせたときと同じように、おそらく今も千の風となって、私たちの近辺のどこかを飛び回ってくれているというふうに考えることにした。後日談だがこの千の風、翌平成18年(2006年)暮れのNHK紅白歌合戦で歌われて以来、日本国中に広く知れわたることとなった。
母・妹・妻と東尋坊へドライブ、
右下は初収穫のアケビ
エンゲルバーガー賞
ある日、米国のロボット工業会から電子メールが舞い込んだ。私のホームページを探し出し、そのeditor宛てのメールであった。このホームページでは、特別にeditor用アドレスを準備し、本来の私のメールアドレスに転送されるよう設定していた。いわく「今、江尻博士を探している。数年前までは日立中研に在籍していたが、連絡を取りたいので知っていたら是非知らせて欲しい。」というものだった。多分何か原稿でも書けというような用事だろうと考え、「私が江尻です。すでに産業界を引退しているので、あなたのお役に立てるとはとても思えないが、必要なら私の知己へと橋渡ししてお役に立てる可能性もあるので、用件を知らせて欲しい。」と返事をした。すぐに返事が来て、「八方手を尽して探していた。おめでとう。今年のエンゲルバーガー賞の受賞者に決定した。」とあった。あい前後して日立中研のホームページ担当者にも同じようなメールが入り、その担当者からは、私のメールアドレスを勝手に先方に知らせていいかどうか判断できないと私に連絡してきた。またその直後に、日本ロボット工業会からも連絡が入り、米国ロボット工業会が私を探していたことと、私が受賞者に決定したということの連絡を受けた。
そしてこの年の暮れ、東京の経団連会館で開催された国際ロボットシンポジウム(ISR 2005)の最終日の授賞式で、エンゲルバーガーさんから直接に表彰楯と副賞を頂戴した。この年80歳になる彼は、昭和36年(1961年)に産業用ロボットを製造するユニメーション社を設立し、以来「ロボットの父」とも呼ばれてきた人で、私も旧知ではあったが、ここ30年以上も会っていなかった。それでもよく私のことを覚えてくれていて、授賞式で彼から「まだ引退するのは早い」と言われてしまった。私も受賞挨拶で「この受賞を機会に、また若い人たちと技術の議論を始める予定」と述べたところ、会場から大きな拍手を頂戴した。
このエンゲルバーガー賞は、昭和52年(1977年)の創設以来、それまでに28年の歴史を持ったロボット界では最も著名な賞であった。リーダシップ・教育・応用・技術開発の4部門に対してひとりずつ受賞者が選ばれるが、私はその中でも最も歴史の長い技術開発部門での受賞だった。その表彰楯を母に見せることが出来ていたら、あの笑顔できっと喜んでくれたに違いない。
(第6編につづく)
エンンゲルバーガー賞を受賞
(2006年)