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随想 技術の散歩道 ― 第4編 ― (No.16~No.20)
技術の散歩道 No.16
メカトロニクスの値段
風車や水車が11世紀以降の西欧で動力源として使われ、製粉や排水に広範に利用された。16世紀にはゼンマイ仕掛けの時計が発明され、日本でも江戸時代にはゼンマイバネを用いたからくり人形が作られた。これらの古典的な機械はいずれも純粋に機械的な装置であって、動力を歯車やカムなどの「機構」で伝達し、別の動きへと変換しているだけに過ぎなかった。
その後、18世紀後半のワットの蒸気機関の発明を契機に「自動調節」の概念が生まれ、さらに20世紀になってその理論が幅広く展開され「自動制御」の技術として確立された。この自動制御が仲人となって、それまでは異質に発展してきた電気工学と機械工学とが緊密な親戚付合いを始めるようになり、電気的な機械装置が作られるようになった。複雑な動きを作るために複雑な機構を用いるよりも、機構は簡単にしてこれを電気的に制御することで複雑な動きを実現するようになったのである。その後さらに電子技術(計算機や半導体技術など)が進展し、1970年代にはこの境界分野の重要性が広く認識されるようになり、メカニクスとエレクトロニクスの合成語としてメカトロニクスという言葉が出来上がった。これは日本で作られた言葉として世界に定着し、最近では電子技術、制御技術、情報技術、機械技術を融合した電子制御情報機械(電子的に制御されて情報を取扱う機械)一般を指すようになった。
メカトロニクスの代表的製品は、最初の頃は工業用ロボット程度であったが、今ではファクシミリ、プリンタ、磁気ディスク装置、光ディスク装置、自動現金取引装置、自動発券機、自動改札機などがこの範疇に入る製品として認識されるようになった。これらの製品にほぼ共通して言えることは、その中のかなりのものが紙、シート、ディスクなどを扱う装置であるという点である。薄くて弱い対象物の取扱いは機械にとって苦手であり、電子装置による高度な制御なしでは実現が困難であったという背景があるのであろう。もう一つの共通点は、何らかの意味で情報を取り扱っている点である。送られてきた大量の情報を正確に記憶したり、文字や絵として再現したり、読み取った情報をもとに分類するなど、電子装置(計算機など)との情報の密接なやり取りが背景にあるのである。このようにメカトロニクスの誕生と発展の底流には、機械工学だけでも電気・電子工学だけでも実現できないという必然性があったわけである。
このような電子的な制御技術の発展は、今までの伝統的な機械にも大きな改革を促し、今では純粋に機械的な機械は皆無となっている。純粋に機械的と言えるものは、せいぜいスパナとかペンチのような工具の類だけと言っても過言ではないようである。
現在実存する製品がどの程度まで電子的であるか、どの程度まで機械的であるかという差を理解する単純な方法として、使用されている電子部品の数と機械部品の数の比を考えて見る。例えばワークステーションやパーソナル計算機のような電子的な装置でも多少の機構部品は使われているので、比は約10~50程度のようである。例えばガスタービンや自動車のような機械的な装置でも、最近は電子的な制御が主流となって、その比は約0.02~0.1程度となっているようである。これに対していわゆるメカトロニクス製品は、この電子部品と機械部品の数がほぼ拮抗し、その比は約0.5~2程度になっている。例えば工業用ロボットでは0.8~1.2程度、銀行の現金自動取引装置では0.5~1程度と考えられる。
電子部品の数は半導体の高集積化とともにますます少なくなる方向なので、この部品数比が必ずしも電子化の尺度とはならないが、機械部品の小型化よりは電子部品の小型化の方が一般論としては易しいし、付加価値も付けやすいから、メカトロニクス製品といえども次第にエレクトロニクスの方へと比重が移っていくことになるのであろう。
ところでこのようなメカトロニクス製品の価格は、それぞれに千差万別ではあるものの、実は価格を製品の重量で割って1グラムあたりの値段を計算して見ると、思ったほどばらつくものでもないようである。たとえば工業用ロボットは1グラム当り60円、現金自動取引装置は40円、プリンタは大型のレーザプリンタも小型のインクジェットプリンタも20円程度と考えて良いようである。メカトロニクス製品よりはもっと機械的なガスタービンは、1グラム当り25円、自動車は2円程度ではなかろうか。もっと電子的なワークステーションは200円、パーソナル計算機では10円程度なのである。もちろん、歴史の古い製品ほど、また世の中に数多く出回るほど、グラムあたりの単価が安くなる傾向は歴然のようである。
このように見てくると、メカトロニクス製品だけに限らず、今までに人間が造りだした工業製品は皆、単位重量当りの値段でみるとどうやら「米」の値段と「金」の値段の間に分布するようである。大きな原子力発電所や超並列計算機システムも、あるいはジャンボ航空機や新幹線車両も、さらには小さな携帯端末や腕時計も、グラム当り1円から1000円の範囲にあるようだ。すなわち人間の工業活動では、貴金属製品、芸術品、骨董的稀少価値製品などを除けば、グラム当りで金以上の価値を生み出すことは困難だったようである。
ところが最近は、ソフトウェアや情報にも正当な価値を認める社会となり、コンテンツビジネスやサービス業が増えて第3次産業の比重が増してきた。このインフォメカトロニクスとでも言うべき時代では、グラムあたりの値段だけではもはや比較すら出来ない製品が増え、ビット当り、秒当りの価値も併せて考慮する必要性が大きくなっているのである。
(平成10年11月)
技術の散歩道 No.17
プロとは何か
プロフェッショナルという言葉には心地よい響きがある。日本語の玄人とはまた少し違った趣である。同じことを何年もやっていれば玄人にはなれるが、プロフェッショナルになれるとは限らない。受け身的な玄人でなく、プロにはもっと積極的な雰囲気を感じるのである。
これらはアマチュアとか素人に対比した言葉であるが、あることに秀でていてそれで生活が出来る人、というような単純なことではない。スポーツでのプロも、プロ宣言するだけで昨日までのアマチュアが今日からはプロになれるわけで、本来のプロという言葉とは少し意味合いが違う。プロには、もっと人から尊敬される精神的な何かが必要のようだ。
そこで、ここでは技術者のプロフェッショナルについて考えてみたい。私の考えるプロの技術者の要件とは以下のようなものである。
まず第一に、プロとは定量的にものが言える人である。自分の技術分野の現状や動向を数値的にしっかりと掴み、未来に向かっての確かな指針を持つ人である。その定量的な指針は、時と共に変わってもいい。世の中で良く言われる頑固さはプロの要件ではなく、むしろ時代を先読みして対応しようとする柔軟さが重要である。耳学問だけでは、知識は豊富になっても定量性に欠け、それを役立てることが出来ない。したがって技術者としてのプロとは見做せない。
第二に、プロとは任せなさいと言える人である。周りからの要請を断ったり、周りの期待を裏切るような人は、その理由が何であれ迫力はなく、プロとは言えない。難しい仕事でも「よし俺に任せろ」と言えるような人はまずプロに間違いない。たまたま予期せぬ事態が生じて期待にそえないこともあり得よう。しかしプロなら言い訳はしない。いつか必ずやってのける。安心して任せられる人のことである。
第三に、プロとは正しく前を向いて歩く人である。上を向いて他人に媚びを売るようなことはしない。他人にへつらわず、他人を馬鹿にもせず、自ら正しいと信じる道をまっすぐ進む人である。自分のしていることに何らやましいことはなく、組織の中にあっては、決められたことはたとえそれに不服があってもきちんと守った上で文句を言える人である。決められたことが自分の性に合わないからといって、守らずに文句だけをいう人は決してプロではない。
第四に、プロとは匂いを嗅ぎ分ける人である。自分の進むべき方向を、持ち前の鋭い嗅覚で感じ取れる人である。周りの声や雑音に悩まされ、悩み苦しむことはプロにもあろう。しかし自らの道を見失うようではプロではない。自らの道が間違ったとあとで分かっても、すぐ軌道修正のための的確な判断が出来る人である。
第五に、プロとは何にでも興味を持ち、かつ、感動する人である。これ一つという道だけを歩んでいて、他の道には何の興味も示さない人はプロではない。他人の話に耳を傾け、感動し、少しでも良いところがあれば自分の歩む道に取り入れようとする人はプロと言える。
第六に、プロとは次に何を知るべきかがわかる人である。技術の道を歩むかぎり、判らないことが実に多い。とくにシステムの開発では多くの技術の統合となるので、むしろ知らないことの方が多いはずである。そのようなとき、プロは次に何を知るべきかを知っている。自分の知識として何が欠けているかを知らない人は、仕事の計画も悪く、効率も良くない。何を知らないかを知っている人は、効率的に知らないことを知ることができるのである。
第七に、プロとは自らが燃え、また周りを燃えさせる人である。自ら燃えても周りが燃えるとは限らないが、自ら燃えなければ、周りは確実に燃えない。情熱をもって周りに夢と重要性を語りかけ、周りの人にも自分の仕事と思わせることが出来ないと、良い仕事は出来ない。もし周りが、さらに周りに働きかけるようであれば、まさに燃えてきたという証拠である。
第八に、プロとは夢を持ち、仕事を楽しむ人である。実現出来そうにない夢よりも、努力すれば実現できるかも知れないと思える夢が望ましい。単なる理想ではなく、熱くなれる夢である。しかもそれが実現されるとしたら、さらにその先の夢が待っているというように、手順を踏んだ一連の夢が望ましい。夢に向かって歩む道筋は、本来は苦しい。しかしそれを楽しさに転嫁できれば、足取りも軽くなる。実現する過程も楽しめるようならまさにプロである。
第九に、プロとは10年の執念が持てる人である。たとえ仕事がうまく行かなくても、それが真に重要なものなら、たとえ10年掛かろうともやり抜こうとする執念が重要である。途中で失敗して一休みすることになっても、いつもその失敗を心に留めて、「いつか見ておれ」と再挑戦の機会を伺う執念が重要である。
第十に、プロとは未知の分野に跳び込める人である。自分の今までの専門に大きなこだわりを持たず、何にでも挑戦しようとする気力を持った人である。今やろうとしていることを自分の専門に加え、その分野でも短期間で一流を目指す人である。ただし、未知の分野に跳び込んでばかりいて、一つも自分の専門がないというのでは困る。
以上の十項目を要約すると、プロの技術者とは、自分の学術・技術分野をきちんと把握し、その分野の発展に尽きない興味を持ち、常に改革を目指して努力する人のことであろう。現状に安住しないで歩み続ける人のことのようだ。歩み続けるには自信と謙虚さの二面が必要である。自信がなければ前に進めないし、謙虚さがなければ正しい道を歩めない。その歩む姿や生活信条の中に、他人にはない精神的な逞しさと風格が隠されていて、そこに人は真のプロらしさを感じるもののようである。
(平成10年12月)
技術の散歩道 No.18
旅とアウトドアライフ
趣味は何かとよく聞かれることがある。若い頃にはテニスだのスキーだの釣りだのと、あまり得意ではないにせよ、いろいろと答えることができた。最近はこれらがすべて立ち消えとなり「旅」だけが残った。この旅という言葉には、旅行というのとは少し違った情緒があり、いつも心を揺り動かす何かがある。とくに難しい研究開発の仕事をしていると、忙しさの谷間を見付けて旅に出るのが、疲れを癒すには一番のようである。
仕事で海外に出掛けた経験も多いので、若い人から海外旅行の楽しみ方を聞かれることもある。楽しむコツはたったの二つしかなく、これさえ守れば楽しいことは請け合える、と決まって答えることにしているが、その一つは良い宿に泊まることである。宿が悪いと旅の楽しみは半減する。二つ目は、土産を買わないことである。親戚知人への土産が心にのしかかり、あれやこれやと迷いつつショッピングに精を出すようでは、旅を楽しむどころではない。絶対に土産は買わないと心に決め、周りにもそう宣言することである。そうすればゆったりとした心で旅を楽しめるようになる。これらの二つのコツは、海外旅行だけでなく、国内の旅の場合にも同じように重要であろうと思う。
ところでこの旅の面白さは、「出会い」にある。人との出会いはつねに楽しいものであるが、私にとっては、ゆったりとした時間との出会いが最もうれしい。この他にも、美しい風景との出会い、美味しい食べ物との出会い、珍しい風習との出会いなど、新しい出会いは数多い。これらは出来れば鄙びていて、あまり有名でないものの方が好ましい。身勝手かも知れないが、旅先では、訪れる客も少ない方が望ましい。多過ぎると折角の感動の舞台が台なしになる。
日向国は高千穂の里(宮崎県)で、冬の風物詩「夜神楽」を拝見したことがある。毎冬、民家の持ち回りで開かれる夜を徹しての素朴な踊りは、私の旅の思い出の中でも最も感動的なものの一つであった。夕刻から神話を数十幕にわたって延々と演じる踊りは、夜が明けてもまだ終幕を迎えず、天の岩屋の戸を開けて天照大神が出てくるのは昼近くであった。民家の座敷の畳の上に、四方を笹竹で囲っただけの簡素な舞台を作り、その中で笛と鐘と太鼓に合わせて四人の踊り手が白装束でゆったりと踊る様には、何か気品が漂い、とくに畳を摺るようにして動く足裁きには神々しささえ感じたものである。この伝統的な夜神楽の風習は、若い里人の熱意で受け継がれてきているもののようで、ぜひ根を絶やさずに続けていって欲しいものである。
永年の間、一度は訪れようとして果たせないでいた妻籠の宿(長野県)にも感動の旅があった。ある夏の夜、往時の木曽路を偲ぼうと、妻を伴い、とある民家に宿を求めた。古希を迎えたという宿の主人が、山奥の岩山に自生するのを自らロープに身を委ねて採取したという岩茸や、年に数頭だけ許可されて捕獲したという珍しい鹿の料理を馳走になった。たまたま同宿した京都の一家とも親しくなり、宿の主人を囲んで男三人が、木曽の名酒の一升瓶を傾けつつ、それぞれのお国自慢で夜の更けるのを忘れるほどだった。冬の妻籠の厳しさに話が及び、今度は厳冬に訪れ、囲炉裏の火を囲んで一献傾けたいという想いに駆られたりした。
この時の素敵な京都の一家とは、仕事で関西へ出張した翌休日に、落ち合った妻と共に秋深い京都の紅葉を堪能しての帰途、石清水八幡宮に程近いお宅を訪問し、再会の喜びを分かちあうことができた。また、その年の暮れから正月にかけて再度木曽路を訪れ、妻籠の同じ宿で念願の木曽の名酒に再会し、深々と積もる雪の中で、300年続いたという伝統の囲炉裏を囲んで宿の主人と一献傾けることができた。厳冬には訪れる人もいない名勝寝覚めの床の雪景色は、喩えようもなく美しく、振り返ると新雪のなかに自分の足跡だけが延々と続いていて、誰もいない静けさとの出会いをしみじみと味わった。
このように何らかの「出会い」を心がけて旅をすると、漫然とした旅では感じ取れない多様な感動に出会うものである。その究極は多分ゆったりとした時間との出会いであろう。忙しい日常の生活から離れ、できれば一個所に長く腰を落ち着け、その土地の良さをその土地の人の気持になって味わうのもまた楽しい。
一方、自然の中でのアウトドアライフにも、ゆったりとした時間の流れを実感できる楽しさがある。私のこのアウトドアライフの趣味は、実はアメリカ滞在中に始まったもので、もう歴史は相当古い。当時、家族そろって旅に出るときは、いつもは行き着いた町で宿を探していたが、旅を重ねるにつれ、次第にテントを積んで旅に出るようになった。野外では眠れないと文句を言っていた妻でさえ、次第にキャンピングの魅力の虜になっていった。
このキャンピングには、もう一つの重要な効用がある。実は私には、子供のころ福井大地震に遭遇し、引き続く余震でまんじりともせず屋外で夜を明かした経験がある。屋外でも生活できることの重要性を実感したわけで、キャンピングはこのような非常時の訓練ともなる筈である。我が家の子供たちも、火をおこしてうまい飯を炊く技術を修得し、野外で眠る術を体得した。この子供たちがすべて巣立った今、今度は夫婦二人だけで、年甲斐もなくまたアウトドアライフを楽しもうと計画している。テントなどのキャンプ用品は、たとえ家が潰れてもすぐ取り出せるようにと、何がしかの食べ物と一緒に庭の倉庫に収納し、ときたま庭にテントを張ってはバーベキューを楽しみ、今度は遊びに来た孫たちに早々とサーバイビング・テクノロジーを教えているのである。
(平成11年1月)
技術の散歩道 No.19
半導体と信頼性
産業の米と言われた半導体は、すでに家庭の中にも深く浸透し、人間生活に大きな恩恵を与えている。とくにマイクロプロセッサとメモリ素子は、パソコン、ワープロをはじめ、洗濯機、炊飯器、テレビ、冷暖房機、電話器、ファックスなど、家庭用・個人用のほぼすべての電気製品で、その制御に幅広く使われるようになった。
ところで私とこの半導体との関わりは、今から約35年前にさかのぼる。当時は真空管に替わるものとしてトランジスタが全盛期を迎えようとしていた。確実な需要が見込まれるものの、その組立はまだ顕微鏡下での手作業に頼っていた時代であった。この手作業の主力は、当時、トランジスタガールとも呼ばれた若い女性たちであったが、時代の進展と共に次第に作業者の確保が難しくなる傾向にあった。
そのため、作業者なしでこれを自動的に組立てる方策を考える必要が生じた。自動組立が可能となるには、どうしてもトランジスタの電極位置を自動的に見つける人工の視覚が必要となる。見つけた電極位置に金線を配線することによって組立が完成するわけである。そのため、まず、回転ドラムを用いて筋状の光をトランジスタに照射し、その反射のタイミングから位置を検出しようとした。しかし検出の確実さが不足し、見事失敗に終わった。
この研究を通じて人工の視覚の実現がいかに難しいかを思い知り、結果として、同じことをいとも簡単にやってのける人間の目のパターン認識機能の偉大さに深い感銘を受けた。そのため米国に渡り、シカゴでまずはこの視覚の勉強を行うことにした。猫や犬を使った生体工学の実験で、何度かの殺生を繰返しながら生体視覚について研究した。
帰国後、その知見をもとに、今度はテレビカメラを計算機につなぐことで、目を持った人工知能ロボットを作った。1970年のことである。これを用いて人工視覚の工学的な可能性をいろいろな角度から探り、この経験をもとに再度トランジスタの組立に挑戦した。幸い今度は成功し、パターン認識技術による世界最初のトランジスタ組立装置が実現した。最初の挑戦から数えて10年の歳月が流れていた。
この人工の目によるトランジスタ組立技術は、その後ICやLSIの組立にも次々と適用されるようになり、日本の半導体産業全体に広がった。その結果すべての半導体製品で生産速度が大きく向上した。人手による組立にありがちな不確定さが一掃されたため、製品の品質が上がり、性能ばらつきの少ない均質な製品が実現した。
このような生産技術の革新がもとで、その後半導体の輸出が急増し、その結果、日米半導体摩擦が起こり、とくにシリコンバレーでは日本企業を誹謗する記事が毎日のように新聞に載る事態となった。そのような状況の中で、ある米国の有力ユーザー会社が、日米3社ずつの半導体メモリの受入れ検査結果を学会で発表し、日本製品の信頼性が米国製に比べて一桁優れていることを公表した。私はこの時、米国での二度目の研究生活をシリコンバレーで送っていたが、米国製半導体メモリの中には、耳のそばで振るとコロコロと音がするものもあったことを鮮明に記憶している。この勇気あるデータ公表を機に日本に対する見方が多少変化し、良いものを作る社会への尊敬の念とともに、日本に学ぼうとする心が再度芽生えてきた。久しぶりに米国の良心が感じられ、良いものを良いとする勇気に心打たれる思いがしたものである。ところでこの視覚による組立技術は、その後請われて米国にも技術輸出され、今では当たり前の技術として世界各国で広範に利用されるようになっている。
半導体に限らず、その後もいろいろな日本製品が世界市場で高い評価を得たが、その最大の要因は製品の高い信頼性にあった。ではその信頼性の因って来たるところは何か、と当時いろいろと考えてみた。もちろん日本の生産技術者たちのたゆまぬ努力があってこそではあろうが、その底辺にどうやら「箸」と「四季」があるからではないかと思うようになった。日本人は皆、幼少から二本の箸を巧みに操る。これが我々の手先を器用にした原因ではあるまいか。さらに日本には四季がある。暑い夏、寒い冬、湿度の高い梅雨の存在が、さびを防ぎ、かびを防ぐことの重要性を自然に教えてくれてきた。たとえば当時の外国製バッグなどは、日本に持ち帰ってくると金具部分がよく錆びたものである。このように日本の風土が、信頼性を重視せざるを得ない土壌を作りだしたと思えるのである。
ところで日本の半導体産業は、その後の米国の10年にわたる戦略的巻き返しと、メモリの過当競争に端を発する不況とで、今現在は疲弊のさなかにある。しかし産業の米としての需要は将来も確実にあり、技術者の夢も、幸いまだ無限にある。そのため、いずれはまた大きく伸びていくはずである。たとえば研究の最前線では、1テラビットのメモリの基礎研究も始まっており、電子1個の有無でメモリ作用をさせる単一電子メモリの研究も進展している。現状のメモリ素子では、1ビットの記憶に1万個程度の電子が関与するが、これを極限の電子1個の有無で行わせようとするものである。マイクロプロセッサも、さらに低電圧化、低電力化、高速化が可能となるであろう。
最近までは、メモリが半導体技術の牽引車の役割を果たし、ここで開発されたプロセス技術が他の半導体素子にも波及する形で全体の技術が進展してきた。これからは、プロセッサとメモリとを一体化したシステムLSIが主力となり、ユーザーにソリューションを提供しようというビジネスが展開されていくことになろう。とくにこれからの電子機器では、それを利用する人間との親和性が極めて重要であり、そのため画像や音声などのメディア処理とそのシステムLSI化がますます注目されていくことになりそうである。
(平成11年2月)
技術の散歩道 No.20
知的所有権
大学を中心とした学術社会での「一番乗り」という評価は、研究論文の早さで決まる。世界最初という栄誉を求めて、世界中の研究者が論文化でしのぎを削り、大袈裟に言えば血みどろの闘いを演じているわけである。競争相手からの論文の発表に一喜一憂しつつ、自らに鞭打ってこの熾烈な競争社会を生き抜こうとする。論文こそが主役の世界である。
一方、企業を中心とした技術社会での一番乗りは、新製品の開発や新技術の実用化での早さであろう。新製品・新技術の開発競争は経済を刺激し社会を活性化するし、一番乗り企業は他社が追従するまでは利益を独占享受できる。ここでも世界最初という名誉を求めて、これまた世界中の企業研究者がしのぎを削っている。ただしそこでは、特許による裏打ちが必須となる。すなわち特許こそが主役の世界なのである。
特許は最も重要な知的所有権であり、特許なくしての新製品開発は意味がない。特許さえ事前にきちんと提出されていれば、たとえ製品開発で多少遅れをとってもまだ救われる。しかし特許の遅れは致命的である。一日遅れで権利がとれなかった事例も世の中には数多い。とくに1990年12月からは電子出願方式となったため、まだ実際に運用されているというわけではないが原理的には秒単位で勝敗を決めることも可能となった。
実はこの私にも、特許申請や商標登録の際、数日遅れで他人に権利を取られてしまった苦い経験が幾つかある。このような「負け戦」においては、どういう相手とどのような接戦を演じてきたかがあとでわかる。しかし勝ち戦だと、対戦相手が誰だったかすら一般には分からない。おそらく私にも、数日の差で勝った例は数多くあったろうと思う。
この幾つかの負け戦の経験を通して、痛切に実感したことが一つある。それは、同じような時期に同じようなことを考える者が、世界のどこかに少なくとももう一人はいる、ということである。以来、私の最大の敵は、この「どこにいるのかわからないもう一人の自分」と考えるようになった。自分と同じ頭の構造を持った者が実在し、しかも、彼の方が自分よりは少し頭がいい、と考えた方が妥当らしいのである。だからなおさら始末が悪い。彼に勝つのは容易なことではないのである。どうやら私の今までの技術開発は、この「もう一人の自分」に勝つための闘いの積み重ねであったように思われる。
ところで闘いと言えば、ここ数年、米国の個人発明家や企業から特許で日本の企業が攻められ、多額の使用料を払わされるという事例が相次いだ。当初は、訴訟慣れしない日本企業の実態から、なるべく穏便にという基本姿勢のところも多く、そこを逆につけ込まれたようである。しかし最近では、言われっぱなしの状況から一転して闘う企業へと変身し、謂われのない横槍には敢然と闘おうとする企業が増えてきた。甘い汁ばかり吸わせるわけにはいかず、日本企業もますます特許で武装し、従来の守る特許から攻める特許へと姿勢を転換してきている。
一般に企業同士の闘いは、相互に入り組んだ製品構造を持つ場合にはとくに複雑であり、ときには相討ちの事態も発生する。闘争に費やすコストやエネルギーが莫大となるので、事前の話合いによって特許の相互使用を認める協定が結ばれる場合も多い。しかし一番事が面倒なのは、相手が個人の発明家の場合である。彼らには、自分では生産していないために失うものがない。そのため相互利用の交渉が成立たず、法外な特許料を要求しかねない。
しかもこの種の個人発明家の中には、企業からの搾取だけを目的に、長い間、特許を意識的に潜伏させ、世の中の情勢に併せて巧みに請求範囲を変えてくる、いわゆるサブマリン特許の戦術にたけた者がいた。このサブマリン特許は、米国だけが持っていた不当な制度であったために各国からの非難の的となり、最近ようやくその制度が廃止された。本来ならとっくの昔に消えていた特許が、幽霊のように形を変えて現れ、もともとの発明とはまったく違う形で現在の企業に付きまとっていたのである。企業は発明に敬意を表して特許料を払うのではなく、亡霊の鎮魂のために払うようなものであった。
特許制度のそもそもの目的は、発明の保護と利用を通じて、科学技術の進歩や産業の発展に寄与することにある。その背景にある基本的な精神は、発明をした個人の偉業を称え、その個人がその発明を事業化するために、ある一定期間、独占的な権利と時間的猶予を与えることであった。もしも個人の発明家が自分で事業化できない場合には、他の事業家や企業に権利を譲渡することができる。一方、企業に所属する研究者の場合には、その業務上での発明に対して、特許を受ける権利とともに事業化する権利を所属企業に譲渡するのが一般的である。
米国でもこの辺の事情はあまり変わりないが、ただ、産業構造上、企業が消滅することがよくあり、いつの間にか特許がとんでもない無関係の会社に譲渡されていることがある。なかには特許をかき集めてそれで商売をする特許管理会社もある。そのような会社は、その特許で製品を作ろうという意志はまったくなく、ただ権利だけを行使し、それで金を儲けようとする。もとの発明者がまったく関知しないところで、権利だけが動くようである。当然、特許制度の高邁な趣旨とは大きくずれてきていると言わざるを得ないのである。
情報化が進み、メガコンペティションの時代となり、知的所有権がより大きな意味を持つ時代を迎えた。特許制度が最近国際的に見直されたとはいえ、手続きや運用上の改正が主で、高邁な発明の精神の原点にまで立ち戻った議論ではなかったようである。もう一度、世界の英知で制度を再構築する必要がありそうに思う。
(平成11年3月)