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回顧録 私の研究遍歴 ― 第6編 茨城転居後 ―
みらい平での生活
みらい平へ
平成18年(2006年)1月、思い掛けないことが起こった。妻が突然、茨城に行こうと言い出したのである。何でも早朝6時頃に寝床で何となくTVを見ていたら、茨城県知事が出てきて、つくばエクスプレス沿線の宅地開発状況を宣伝していたとのことであった。私には内緒で守谷市在住の次女と連絡を取り、すぐに自分で高速道路を飛ばして見に行ってきた。そして私に是非一度見て欲しいと言い出し、数日後、私も駆り出される羽目になった。もう所沢を終焉の地と決めていたのだが、実際に現地を見てみると、家もモダンで住みやすそうだし、街並も地中配線によって電柱が全くなくすっきりしており、場所も「みらい平」駅まで徒歩3分というので大変気に入り、とうとう転居することを決心した。
それからの1ヶ月は、新居の購入手続き、今までの家の売却手続きなどで多忙を極めた。溜まりに溜まった家財道具は清掃工場に日参して廃棄処分にした。
そして4月には、それまで4年ほどニューヨークに滞在していた息子夫婦が、初内孫の娘を連れて帰国し、あらためて東京での会社生活に復帰した。時折孫娘を連れて遊びに来てくれるようになり、そのたびごとに何がしかの変化に気付かされ、その成長が楽しみでもあった。
プロジェクト
初夏になって経済産業省から連絡があり、同省が進めようとしている提案型ロボット実用化プロジェクトについて、審査委員長を務めることとなった。提案された10数件のプロジェクトを2日に分けてヒアリングし、採否を決定した。
さらに知人の慶応大学教授 小沢慎治先生、斎藤英雄先生からは、慶応大学でプロジェクトとして進めてきたソフトウェア教育での新しい試みについて、その学外評価委員として参加して欲しいとの連絡を受けた。これも、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)の萩田紀博さん、名市大の田島譲二先生とともに最大限の協力をして大変喜ばれた。
夏には孫たちのカブト虫捕獲プロジェクトを応援し、近隣の林に出掛けてカブト虫採りに熱中した。私も妻も、カブト虫が実際に空中を飛んでいる姿を見るのは初めてであり、まさに重戦車が空を行くような印象で大いに感動した。
後日談だが、あれほど虫類を嫌がっていた妻も、それ以来どういう風の吹き回しか、庭で見つけた何かの幼虫を捕獲し、容器と土を買ってきて飼い始めた。幼虫はその中で冬眠中であったが、春になってどういう虫が出てくるのか、そのとき妻はまた悲鳴をあげるのか、楽しみでもあった。さらに後日談だがこの幼虫は、昆虫大好きの隣家の幼稚園児により、カナブンの幼虫らしいことが判明した。水分のやり過ぎが祟ったのか、翌春、成虫になることなくこの世を去った。
ICPR香港会議
夏も終わり近くになって、第18回のICPR会議が香港で開催され、妻も一緒に出席することになった。2年後のタンパ会議では議長を務めることも決まっているので、理事会にも久し振りに参加した。多くの旧友たちとも再会し、2年後の会議での協力を要請したりしたが、今回はこれ以外にはとくに大きな義務があるわけでもなかったし、日本からは結構近いのにまだ一度も訪れたことがなかったので、妻と2人で街の散策を重点的に楽しんだ。晩餐会の席上、近くに座ったIAPR新会長のDr. Tombre から、Advisory committee(諮問委員会)の委員長就任を要請され、引き受けることにした。
管理組合
帰国した翌日、新住居地である「みらい平陽光台」の管理組合の設立総会が開催され、その副理事長に就任することになった。比較的若い人たちの多い新興の街だけに、時間がかなり自由に取れそうな人はまだ少なく、私もそろそろ地域社会に貢献すべきときが来たかなという思いもあって引き受けることにした。ただ、2年後のICPRや現在の横幹連合の仕事などを考えると、理事長だけは辞退したいと思っていたので一応好都合な結果となった。今までの仕事や学会活動での経験を通して、この新居住地でも何がしかお役に立てるように感じ、手始めに手作りの会報の発行を行った。今後この会報は、定常的な活動の一つとして定着していきそうな予感もしたし、またこの管理組合の創立に引き続き、自治会の発足が大きな仕事とも予見された。
陽光台自治会
平成19年(2007年)3月、70歳の誕生日を迎えた。今まであまり考えてもみなかった齢に達し、ここまで無事来られたことに感謝の念一入であった。まだまだ生身の人間としての迷いはあったが、これを機に、今後、少しは世の中への「報恩」も考えて生きていくべきものと思われた。
この3月にはみらい平陽光台の自治会が発足し、それまでに設立していた管理組合の理事がそのまま自治会役員も併任することとなった。私は管理組合副理事長 兼 自治会副会長ということで、新しい会則を作ったり、会費なども制定したりと、この新住宅地の順調な船出に一役買うことができた。前年の管理組合発足時から、住居地を11班に分けて各班には班長を置くことにしたが、これが奏功して、各戸持ち回りでのゴミ集積所の清掃や、重要事項の住民への伝達が、いっそう効率的にできる組織となった。住民総出での共有地・空き地・周辺公道の一斉清掃も、年4回の実施が定例化し(注:現在は冬の過酷な時期を省略し、年3回)、自分たちの居住地の美化は自分たちの手で、というのが一般化した。
管理組合発足時から、この自治会発足を想定して「みらい平陽光台ニュース」という小さな新聞の自主発行を始めていたが、いつでも止められるようにと、当初は不定期発行を前提としていた。しかし、かなり伝えるべき情報も多く、いつの間にか月1回の定期発行になった。幸いにしてこの新聞は意外と好評であり、待ち侘びているとお世辞を言ってくれる近隣の人たちに乗せられて、自治会発足後も、楽しみながらこれを継続して発行してきた。
香港訪問。
上はICPRの晩餐会風景、
下は繁華街とビクトリア・ピーク
管理組合・自治会による一斉清掃と、子ども会によるハロウィン祭
こしの都千五百年祭
この年の秋、郷里の越前市が、この地ゆかりの継体天皇の即位1500年を記念して、「こしの都千五百年祭」を開催することになり、そのメインイベントとして「ものづくりシンポジウム」が開催されることになった。この地は古くから、和紙・焼物・織物・刃物など、ものづくりの集積地として栄え、そのルーツは継体天皇時代からの渡来人を含むものづくり奨励の伝統にあったという。シンポジウムではその第一部が、この地で出土した王冠や刀剣を現代技術で再現した成果の報告会となり、第二部では現代のものづくりということで、私と、岩井 仁、廣田 昭、藤井二三雄さんの計4名が出演した。
この4名はともに郷里の武生第一中学校の同級生でもあり、先に著した文集「無邪気な田舎の挑戦者たち」の発起人でもあった。実はこの文集がきっかけでこの企画がなされたもので、司会は元NHK解説委員を務めた武生高校時代の同級生 小田貞夫さんが担当した。市の文化会館で催されたこのシンポジウムには、後輩である武生第一中学校の現役の生徒のほか、私たちの武生第一中学校・武生高校時代の同窓生や、私の妹や姪たち、さらには私の少年時代をよく知っている近隣の人たちも大勢参加してくれ、私にとっては一種の晴舞台ともなった。郷里では、私が技術者としてがんばってきたらしいということは皆うすうす知ってはいても、実際に私のやってきた技術内容については、知らない人たちが大半であった。今回初めて、一般の方々をも対象に私の仕事の真髄を話させていただいた。少年時代の郷里での体験が技術者としての道を歩むきっかけとなったこと、努力する才能が技術者としての飛躍を支えてくれたこと、結果として世界に通じる技術者として今も活躍できていること、などを話した。とくに若い人たち向けに、取り立てて才能はなくても努力する才能だけは誰にでも備わっていて、磨けばますます光るもの、したがって、才能がないからといって悲観してはいけないということを強調した。
「こしの都 千五百年祭」での
シンポジウム
当日のシンポジウムのあと、主催者の一つである武生ロータリークラブから一席ご馳走になり、そのあと引き続いて、武生第一中学校の同期生の会である武生26会が準備してくれた懇親会にも出席し、歓待を受けた。とくに同期生たちは、私たちの出演でこしの都千五百年祭が大きく盛り上がったことを大変誇りに思ってくれたようである。このシンポジウムの一部始終は、年が明けてから当地方の丹南ケーブルテレビで放映されたらしく、妹の知人がDVDに収めたとのことでわざわざ送ってくれたりした。私の少年時代を知っている近所の人たちからも、後に絶賛の言葉を頂戴し、故郷に錦を飾るということの一つはこういうことなのかな、との思いがした。
アジア会議で講演
このシンポジウム終了の翌日には東京に取って返し、今度はACCV(アジア・コンピュータビジョン会議)での特別講演を行った。これは私が委員長を務めるフェロー&マスターズ未来技術時限研究専門委員会とACCV会議との共催事業でもあり、ビジョン関連分野での日本の今までの先導的な貢献を、アジアの人たちにもよく知ってもらおうということで企画されたものである。私の講演タイトルを「Machine Vision in Early Days - Japan's Pioneering Contributions」とし、久しぶりの英語による1時間の講演ではあったが無事終了し、何とかわかってもらえたように思う。
その翌日には、今度はテキサス大学の盟友アガワル教授(Prof. Jake Aggarwal)の大川賞授賞式典があり、私も妻と一緒に出席した。この賞は大川財団が選定する賞で、私がアガワル教授を受賞候補者として推薦していたものである。式典の2日後にはみらい平の我が家にアガワル夫妻を招待し、歓談のひとときを持つことができた。
武生高校で講義
先に「こしの都千五百年祭ものづくりシンポジウム」を主催した武生ロータリークラブから、再度話があり、平成20年(2008年)の2月に、今度は武生高校での講義を依頼された。毎年、1年生を対象に進路決定の参考にと、この時期に社会人の先輩を招いた講義を行っているとのことであった。文系の先輩は県内にも結構多いので問題はないが、理系の先輩は県内には少なく、なかなか手配もままならないということで、千五百年祭での実績をもとに私が選ばれたようである。遠方からの折角の参加なので是非全体講演も、ということになり、約400名の生徒を前に講演し、そのあと各クラスに分かれ、私を含む約10名の先輩たちがそれぞれ講義をおこなった。
全体講演では、いきなり英語で喋り始め、生徒の度肝を抜いた。理科系の私は学生時代英語が苦手だったこと、しかし社会に出てその重要性を知ったこと、苦労して一流の喋り手になり、国際会議などで活躍してきたことなどを話し、努力する才能が重要であることを話した。20年以上も前の武生高校85周年記念の際に一度招待講演を行ったことがあったが、そのときと同じように、国語の時間に習って空で覚えている名作の数々の冒頭部を紹介し、国語の重要性も語った。技術者といえども、自分のやった仕事の成果を世の中に理解してもらうためには、論文を書いたり、学会で講演したり、特許を書いたり、ということが重要であり、そのときに国語の力が表に出る。理系だから国語は不要とは決して思うな、と力説した。
一方、その後の講義では、私が昔経験して有意義だったように、難しい内容を話題にして「何か知らない世界がある」ということを実感させることを主眼に、最先端科学技術入門として人工知能の理論を話し、ロボティクスの世界を紹介した。みな真剣に耳を傾けてくれ、総じて成功だったようである。のちに生徒のひとりが代表して私に礼状を送ってくれたが、その内容を読むと、かなり理解してくれていたようであった。私もすぐ返事を出したが、この私の返事が、その生徒たちの将来にとって、何がしか良い影響を与えてくれているとすれば大変嬉しいことである。
アカデミック・ロードマップ
この頃、それまで経済産業省から受注して実施してきた学会横断型アカデミック・ロードマップの策定作業が終盤を迎え、最終報告書をまとめる時期を迎えた。開始以来数ヶ月という短い期間ではあったが、この間に四つのワーキンググループを設置し、それぞれに将来技術についての議論をしてもらった。延べ50名ほどの委員が参加して行ったこの事業は、横幹連合始まって以来の大規模なもので、その成果を約200頁の最終報告書にまとめて経済産業省に納入した。わが国でははじめての学会横断型アカデミック・ロードマップとなり、のちに経済産業省から印刷発行され、世の中から高い評価を得ることになった。またこの成果は、その後、私が創刊を先導した横幹連合の機関誌「横幹」2008年秋号にも、特集として掲載された。
横幹連合の機関誌「横幹」と、ロードマップ統括委員会のメンバー
横幹連合からの引退
5月には横幹連合の総会が開催された。それまで私は、次期役員推薦委員会委員長として活動してきたが、そこでの検討結果を提案して、新しく木村英紀先生の会長就任が決定した。これまでの会長の吉川弘之先生には名誉会長への就任をお願いし、新しい副会長には鈴木久敏先生と舘 暲先生にお願いし、これで私は後顧の憂いなく辞任できることになった。やるべきことの大半は実行し、とくに横断型アカデミック・ロードマップが締めくくりの仕事として私の横幹連合での花道となった。
6月の後半には、立命館大学(草津市)で日本シミュレーション学会の大会が開催された。この学会は横幹連合の会員学会として、アカデミック・ロードマップを策定する際に中心的な役割を果たされたが、その成果の発表も兼ね、また今後の人文社会科学分野へのアカデミック・ロードマップの展開も兼ねて、パネルディスカッションを行うことになり、その総括・司会を委任された。ここでの議論は、横幹連合がこの年度に新規に計画しているアカデミック・ロードマップ「人文社会科学分野のシミュレーション技術」の策定のための前哨戦でもあり、そのための先導的な議論が展開できた。
この新しいアカデミック・ロードマップについては、経済産業省とも非公式な議論を重ねてきていたが、9月初旬になってようやく横幹連合として経済産業省から正式に業務を受注できた。これによって、退任後も続けてきた私の横幹連合への支援は一応決着し、今後はアドバイザとして少し関わりを持つだけとなった。また、これで12月のフロリダでのパターン認識国際会議に向けた準備が本格化できることになった。
日本ロボット学会名誉会員
6月のはじめ、大阪科学技術センターを会場に、フェロー&マスターズ未来技術時限研究専門委員会のシンポジウムが開催され、委員長として聴衆にご挨拶をする機会があった。この研究会はディジタル映像革命にスポットを当てたもので、約100名の聴衆の参加があり、大成功であった。
これに続き、情報処理学会と電子情報通信学会が共催するFIT(情報科学技術フォーラム)と称する会合で、第15回フェロー&マスターズ研究会が開催された。若手研究者の奨励を目的に、過去の学術奨励賞受賞者に再度講演を依頼し、それについてフェロー陣が討論を行い、今後に向けた指導を行うというもので、この種の催しとしては2年前の企画に続き、今回が2度目であった。若手からは嫌われるのではないかという当初の懸念が先回の試行で吹っ飛び、今回もまた大変喜ばれる結果となったようである。(実は私自身は、この7月に腰痛になり、足腰に自信が持てず、委員長でありながらこの会合にはとうとう欠席する羽目となってしまった。)
日本ロボット学会名誉会員
に推挙される
9月には、日本ロボット学会の学術講演会が神戸大学で開催された。その2日目の全体会議の席上、多くの聴衆の中で私が名誉会員として推挙・紹介され、記念の楯を頂戴した。永年のこの学術分野での活動と日本ロボット学会への貢献、とくに第10代会長としてのリーダシップが高く評価されたもので、大変名誉な出来事であった。実はこのときもまだ足腰に問題を抱えていたため、長距離旅行が不安となり、妻を付添い人として同伴した。
なお、この楯は、これより6年前の私の学会会長時代に、また楯の中にある日本ロボット学会のロゴは、会長を退任したあとの私の監事時代に自らデザインしたものであり、そのときには私自身がこれを頂戴するとは夢想もしていなかった。実際に貰ってみて、何だか昔の懐かしい友人に再会したような感じがしたものである。
また10月になってアメリカのIEEEから、所定の年齢に達したのでライフフェロー(終身フェロー)に推挙するという連絡を貰った。今後は会費が免除されるという特典もあるらしく、有難く受諾することとした。
さらに、居住地であるみらい平陽光台での管理組合副理事長・自治会副会長としての業務でも、会則制定、班組織の確立、月刊の陽光台ニュースの発行などを通じて住民の交流・融和を進め、新興住宅地として順調な滑り出しを見せた。共同アンテナによる集団TV受信も、将来の設備の更新費用を考えると、ケーブルTVに切り替え契約した方が有利との判断から、住民への説明とケーブルTV会社との交渉を積極的に行い、切り替えを完了した。このようにして、2年間の任期を無事終了することとなった。
パターン認識国際会議ICPR-2008
12月早々、久しぶりの海外ということで、妻と2人、アメリカに飛んだ。フロリダ州タンパ市で開催されるパターン認識国際会議ICPR-2008にジェネラル・チェアマンとして参加するためである。この会議は、約1,200名の参加者と、約900件の論文発表で構成される2年に一度の大きな国際会議であり、そのジェネラル・チェアマンを務めることは大変に名誉なことでもあった。とくに今回のICPR-2008は、私の技術者人生の最後を飾る花道と自ら位置付け、この5年間、入念に企画・準備を進めてきたものであった。
会場は、タンパ市のConvention Centerで開催された。開会前夜には近くのフロリダ水族館でレセプションが開催され、ワイングラス片手に夜の魚類の生態を見物する機会があった。開会初日の夕刻には、会議を協賛してくれた南フロリダ大学から学長主催のレセプションに招待され、ジュディ・ゲンシャフト学長(Mrs. Judy Genshaft)からICPR-2008のジェネラル・チェアマンとしての功績に対して表彰楯を頂戴した。また3日目の夕刻には恒例の晩餐会が行われ、47ヵ国約1,200名の参会者を前に、開会宣言と歓迎の挨拶を行った。ちなみにこの会議での国別参加者数では、トップの米国276名に次いで日本は161名の2位を占め、以下、中国、フランス、ドイツ、カナダ、イタリー、スウェーデンという順であった。
パターン認識国際会議ICPRでの歓迎挨拶、枠内はUSF大学学長からの記念盾の受領。
(Tampa, Florida, USA, 2008)
なお、次回の第20回ICPR(2010年)はイスタンブール(トルコ)に既に決定しているが、次々回の第21回ICPR(2012年)の開催が、今回開催された理事会でつくば市(日本)に決定した。日本開催は昭和53年(1978年)の第4回京都会議以来2回目、実に34年ぶりということになる。つくばの会場は、我が家からはかなり近い場所でもあるので、参加できることを一応楽しみにして待つことにした。それまで、果たしてどの程度の健康を保ち得るかが大きな課題ではあった。
諮問委員会委員長を退任
予定した日程がつつがなく終了し、ジェネラル・チェアマンとしての役目を無事果たしたICPR-2008を最後に、ICPR主催母体である国際パターン認識連盟IAPRのAdvisory committee(諮問委員会)委員長としての役割も終了した。先のICPR-2006 (香港)でIAPR会長のDr. Tombre から依頼され、この2年間IAPRが直面する重要課題の解決に向けた提言を主たる役割として活動してきた。この期間中に発生した難題の一つは、この国際組織の倫理綱領をどうするか、であった。
最近の新興国台頭によって顕在化してきた論文等の不正盗用や会議への無断欠席問題をどう防ぐかが、IAPRだけでなく他の学術社会でも大きな課題となっていた。そのため、IAPR Advisory committee(諮問委員会)では、世界の会員の行動規範となる倫理綱領を策定すべく議論を続け、その原案を取りまとめてIAPR会長に答申した。その後この綱領案は、理事会等での賛同を経て正式に決定され、IAPRのウェブサイトでも公開されている。
郵便処理事業の終焉
平成23年(2011年)2月のある日、日立高輪和彊館で、夕刻からある会合が催されることとなった。日立の郵便事業の終了パーティである。私が平成4年(1992年)に、郵政省の技術委員として新型郵便区分機の企画に参画したのを出発点として、以来、約20年間継続してきた日立の郵便事業が、このたび終了することになったのである。この間、事業の相手が郵政省から日本郵政グループの郵便事業株式会社(JP)へと変わるなど、市場状況の変化や経済状況の悪化なども災いした。この2月には、最後まで残っていた愛知県のJP岩倉支店からの郵便区分機の撤去が終了し、これを以ってこの事業からの撤退が完了したわけである。この20年間、開発と事業に情熱を傾けてきた多数の関係者にとっては、事業の終焉で一抹の寂しさは拭えない。そのため急遽、「事業終了式」とでもいえるようなパーティを華々しく挙行することが決定され、往時の関係者が一堂に会したのである。
もう10数年も会っていなかった懐かしい面々が集結し、私も乾杯の音頭を執らせていただいた。事業が終了したとはいえ、この開発過程で育った人材は極めて豊富であり、その後も多様な技術開発に携わって、それぞれの分野で多彩に活躍してくれていることを知り、大変頼もしく、また嬉しく思った。思い出話に花が咲き、歓談の時間はあっという間に過ぎていった。
東日本大震災
この年もまた、幾つか講演依頼が舞い込んできた。一つは財団法人とくしま産業技術振興機構が主催し、徳島県立工業技術センターを会場に開催された地域企業立地促進事業のセミナーであった。続いて、 (株)日立インフォメーションアカデミー(略称:日立IA)からの依頼で、横浜市の同社で講演を行った。
この日立IAでの講演の1週間後、平成23年(2011年)3月11日の午後3時前、とんでもない事態が発生した。東北地方を襲った未曾有の地震と、それに伴う津波である。地震の規模はマグニチュード9.0という、とてつもなく大きなもので、津波によって福島第一原子力発電所が破壊され、放射能が撒き散らされた。その被害は東北だけにとどまらず、私の住むところにもかなり大きな影響が出た。
地震当日、私は、2階の書斎で書き物をしていた。突然大きな揺れを感じて、階下にいた妻に声を掛け、一緒に急いで外に出た。揺れが長く継続しているのに、まだ外には誰も出てこない。大きな声で近所に声を掛けたところ、すぐ隣家の家族が青い顔をして飛び出してきた。感心したことに、小学生の子供2人はリュックを背負っていた。中には当面の食糧(チョコ、蜜柑など)を入れていたようである。続いて別の家からも飛び出してきた。テーブルの下で暫く震えていたらしい。ちょうど車で帰ってきた人も、道路に凹凸が出来ていて怖かったという。娘が学校から帰ってこないと、あわてて学校に向かった人もいた。我が家はゆさゆさと揺れ、車庫の屋根は波打ち、そこの2台の車が左右に同期して揺れていた。近隣の人々を、この程度なら大丈夫と励ましつつも、自分自身はかなりの恐怖を覚えていた。
暫くして家に入ったら、私の部屋の本箱が30センチも横滑りして壁から離れ、本やCDが床に散乱して、足の踏み場もなかった。床置きの空気清浄機は倒れ、壁の額は斜めにぶら下がり、棚の上に飾ってあった日本ロボット学会フェローの楯は、手摺りを乗り越えて2階から1階に落下していた。居間の植木鉢は倒れて土が床にばら撒かれ、戸棚の茶碗類は幸い自動ロックされて無事であったが、そのロックの外し方が分からず、説明書を仕舞っていた納戸を開けようとしたら、中の荷物がドアの開閉を阻害して開かない。隙間からドアのうしろのものを少しずつ取り除いてようやく開け、説明書を見つけて、やっと自動ロックを解除できた。
東日本大震災での我が家の惨状
(2011.3.11)
地震発生当時、近隣では、かなりの老体とはいえ成年男子は私ひとりであったために、随分と心強く思われたようであった。近隣の人達には、この日の夜は服のまま休むよう指示し、また風呂は沸かさないよう指示した。また、近隣の家々からの要請で、自動遮断された電力系統やガス系統の復旧作業にも従事した。
当日は、交通遮断で帰宅できない人が多く、心細がっていた隣家一家を招いて、夕食を作り、夜10時頃まで我が家に滞在させた。次々と襲ってくる余震の大きさを、その昔、福井地震で味わった感覚で判断しながら、いつでも外に出られる体制で過ごした。父親を恋しがる隣家の子供たちを連れて、少し余震が落ちついてきた夜9時頃に、散歩を兼ねて駅員に現状を聞こうとみらい平駅まで行ったが、この時間にはもう駅のシャッターが降り、本日は動きませんとの張り紙があった。これを見て、子供たちも諦めたようであった。
この日以来、余震はひっきりなしに襲い、数日後には雨も降り、風向きも悪く、当地にもある程度の放射性粒子が降ったらしい。余震の頻度があまりにも多かったので、地震酔いの症状が出て、平時でもいつも揺れているような感覚に囚われた。そのため、少し安心して眠れるよう、急遽、数時間掛けて郷里の越前市に車で移動し、空き家の実家で2週間ほど過ごすことができた。近くに住んでいる姪の三つ子の娘たちの、幼く純真な笑顔に癒された日々であった。
東北の状況が報道され、次第にその悲惨な実情が明らかになってきたが、実は私の住む市でも、古い家屋を中心にかなり屋根や瓦が崩壊したようで、青色防水シートで覆われた家々が数多く見られた。その後、被災地も次第に落ち着きを取り戻したとはいえ、まだ当地も含め、完全復興への道筋は見えてきていない。4月に予定されていた幾つかの学会行事は、東北からの参加者のことも考えて軒並み中止に追い込まれ、また中研での毎年恒例の園遊会も、この悲惨な時期に浮かれている場合でもあるまいと、中止が決定された。
そして5月末には、再び日工専(日立工業専門学院)での講義のため、日立市を訪れた。日立グループ各社から選抜された人材に対し、さらに高度な知識を身につけたグローバルな人材を養成しようとするもので、1年前に続く第2弾の講義である。その時と同様、「視覚認識技術の開拓」というタイトルではあったが、新しい視点を取り入れて内容を大幅に刷新した。中でも今回特に、この日工専の卒業生で、私にとっても忘れられない身近な3名の方々の業績と活躍ぶりを紹介し、若い学生たちへの奮起のメッセージとした。その一人は、私の研究室で長年一緒に研究に携わってくれ、その後中研の主管研究長に昇進された指静脈認証の宮武孝文さん、さらにもう二人は、ボルト締緩ロボットやワードプロセッサの開発でご一緒し、のちに多賀工場の副工場長・工場長さらには系列会社の社長や役員を歴任された徳永さんと松岡さんである。お蔭でこの回も大変好評を博したようであった。
この日工専のある日立市は、私の住む市よりも地震の被害が大きく、また海沿いでは津波の被害も凄かったらしい。学院内の壁には大きな亀裂が入り、道路には陥没した箇所があるなど、構内にはあちこちに震災の傷跡が残っていたが、危険度の高いところを優先に、鋭意復旧中であった。学生も元気で勉学に励んでいる様子が伺われ、安堵した。
パターン認識国際会議
いよいよつくばでのICPR会議が、長年にわたる準備期間を経て現実になった。2012年11月11日、つくば国際会議場を会場に、5日間にわたる会議の幕が切って落とされた。
この会議の日本での開催は、日本のパターン認識分野の研究者にとって長年の悲願でもあった。1978年の京都での第4回会議以来、実に34年振り2回目の第21回会議であり、最近のこの分野の著しい発展を反映して、参加者は世界40数ヶ国から1100名を越えた。
会議の初日には、この国際会議の前座として、パターン認識についての市民公開講座が開催された。つくば市に加え、私の住んでいるつくばみらい市と市の教育委員会にも、この市民公開講座への後援をお願いし、市内各中学校の校長先生に連絡して生徒全員に会議案内のチラシを配ってもらった。
初日には、この市民公開講座のほかに、各種のワークショップ、コンテスト、チュートリアル講演が開催され、また夕刻からは歓迎レセプションが開催され、世界の友人たちと旧交を温めることができた。2日目からが本会議で、開会式ではK.S.Fu賞などの表彰式と特別講演が続き、さらに一般セッション、ポスターセッションが続いて、数多くの論文が発表された。夕刻からは、この会議の開催に際して大きな貢献をされた方々を招待しての夕食会(Organizing Committee Reception)が、近くの料亭「山水亭」で開催された。海外からの賓客にとっては珍しい日本料理のフルコースを一緒に楽しみ、最後の締めの挨拶は私が担当した。さらに4日目の夕刻は、ホテル東雲を会場に、ICPR恒例のバンケットが持たれ、各賞の授与式、フェローの授与式とともに余興の琴や太鼓の演奏などもあり、賑やかで楽しいひとときとなった。
この会議期間中、会場ではボランティアによる書道・着付け・算盤・折り紙など、日本文化の紹介行事もあり、また、街歩きや筑波山へのミニ旅行も行われ、海外からの参加者に大変喜ばれたようである。また、会議後のツアーとして、筑波大学と産総研を巡るテクニカルツアー、日光への日帰りバスツアーも実施された。
パターン認識国際会議ICPR-2012を開催。ポスター(左上)、開会式(右上)、17年振りに再会したブルガリア科学アカデミーのバレブ教授と(右下)。
開催が決定してから今日に至るほぼ4年間、私もこの会議のAdvisory Committee委員として活動し、若い方々と一緒に議論してきた。また最近の2年間は、会議の主催元である国際パターン認識連盟(IAPR)のAdvisory Committee委員、Nominating Committee委員としても活動して来たが、今回のこの会議を以ってこれらのすべての任務を終了することにした。思えば1978年の京都での第4回会議に初めて参加して以来、再度日本で開催されたこの第21回会議まで、IAPRならびにICPRとの34年間という長いお付き合いが、とうとう終了することになったわけである。
その後、フリーマン・コードという線分表現法の発案者として名高い米国のフリーマン教授(Prof. Herbert Freeman)が、私の後任として、ICPR-2008~2010の期間、IAPR Advisory Committee(諮問委員会)のチェアマンを務めることになり、私にも引き続き委員になって欲しいとの連絡があった。そして、彼に協力してIAPRの歴史編纂の作業を手伝った。IAPR発足以来40年も経つと、記録を残しておかない限り歴史の詳細は失われ、あとで取り返しのつかない事態となる。すでにこの私の個人ホームページ(ここの英文欄)で、分かる範囲でIAPRの歴史を私なりに記載していたので、彼にもこれを見てもらい、参考にしてもらった。彼の手で程なく歴史が纏まり、IAPRのホームページに掲載され、以後、大変貴重な資料として関係者に喜ばれている。そこには協力者として、私の名も書かれている。
MVA国際会議
MVA会議はその後も2年ごとに順調に開催が継続され、第15回マシンビジョン国際会議MVA-2017は5月の連休明けに名古屋大学(東山キャンパス、豊田講堂)を会場に開催されることになった。私も名ばかりながらこの会議のアドバイザリー委員を務めていたので、この会議にまた参加してみたくなった。
過去にMVAの委員として参画し、すでにシニアの域に達している方々数名から、一度皆で集まりたいねという話も出ていたので、これを機に、「MVAシニアの集い」を開催することにした。MVA会議のバンケットの前に久しぶりに集まって、昔話に花を咲かせ、お互いの現況を報告しあい、その後バンケットに合流して若い人たちや外国からの参加者との会話を楽しんだ。
そして2年後の令和新時代の5月の最初の仕事も、東京でのMVA-2019への参加だった。2年ごとに開催されるこの日本発の会議で、これまでの30余年の間にその開催に役員などとして関与されたシニアの方々17名に集まってもらい、懇親と情報交換の場を提供することができた。会議には国内外から220名ほどが参加され、久しぶりにまた国際会議を楽しむことができた。昔、ブルガリアの旅で一緒だった旧友のポルト大学カンピルホ教授がポルトガルから参加してくれた。
MVA晩餐会(東京湾クルーズ)で、感謝状の楯(右)を頂戴し、挨拶(左)。(2005年)
探訪記を県・市に寄贈
自治会の陽光台ニュースでの掲載を目的に、県内各地を探訪して執筆してきた「近隣ぶらり探訪記」は、2020年5月には計365箇所を数えた。この年に始まったコロナ禍で、特別交付金が国から支給されたが、そのまま懐にため込むよりも市場にまわそうと、その製本を企画した。9月に入って、武生の(株)平野印刷から、製本が完了した旨の連絡があり、暫くして50冊の綺麗な表装の本が送られてきた。表紙には筑波山山頂で撮った写真を配し、なかなかの出来ばえに大いに満足した。
この本をある日、今では私の唯一のスポーツとして週一で楽しんでいる総合運動公園での健康吹き矢の会の仲間に配ったところ、そのうちの一人の鈴木樹広さんが友人の県会議員 山野井浩さんに見せたとのことで、その後県議から市長の小田川浩さんにも話が伝わり、10月のある日、市役所に呼ばれて市長と歓談する機会があった。このとき、市図書館用にと5冊を贈呈し、また山野井議員にも10冊を託して、県立図書館、県議会図書館、日立市立記念図書館、県営業戦略部、県政策企画部などに配布していただいた。
茨城新聞に記事掲載
市に寄贈していたこれらの本が、その後、市の図書館とその分館で閲覧可能になったとの記事が、市の広報誌2021年1月号に掲載されて全戸に配布された。今後、市民の方々が愛読してくれて、ふるさと再発見の契機にでもなるとすれば大変嬉しく思う。
なお、この市の広報誌を見たということで、茨城新聞社からも詳細を知りたいとの話があり、1月18日に自宅で取材を受けた。その結果が1月28日号に大きく掲載されたりした。(詳細については本ホームページ上部の自己紹介タブで、近況・トピックス欄を参照)
IAPR Newsletter
2月上旬に、国際パターン認識連盟から、ニュースレターの最新版(IAPR Newsletter, Vol.43, No.1, Jan. 2021)が送られてきた。前述の旧友のHerbert Freeman さんが逝去したことに対する追悼特集であり、そこに、Freeman さんらと会話する私たち夫婦のICPR-2008(Tampa)での幾つかの写真が思いがけずも掲載されていた。旧友のJake Aggarwal さんが一文を寄せた中で紹介されたもので、Herbertさんが亡くなったことを知ったのもこの記事が最初だった。
Herbertさんとその夫人Joanさんとは、長年、ICPR国際会議で顔を合わせ、とくに妻は、Joanさんとともに学会主催のLady’s Program などで随分と親しくさせていただいた仲である。残念なニュースに、早速Jakeさんに連絡を取り、Joanさんに深甚なる哀悼の意を伝えてくれるよう依頼した。
IAPR Newsletter に昔の写真が
掲載される。(2021年)
市の委員を委嘱される
そして3月には市の都市建設部 都市計画課から来訪を受け、新しく市の景観審議会の委員を引き受けることになった。今回の近隣ぶらり探訪記の献本で市長と話をする機会があり、それが契機となって今回の推薦となったようである。数年前の市の政治倫理審査会の委員に次いで、2度目のご奉公ということになる。任期は2年間、コロナ禍中でもあり何が出来るか未知数だが、精一杯、市に協力したいと思っている。
選ばれた理由の一つに、今までの近隣ぶらり探訪の旅や海外経験で、各地の景観について見識があるはず、というのがあった。こうなると、またまた探訪の旅への気力が高揚し、それまでに探訪先リストに挙げてはいたものの訪問できなかった場所を立て続けに探訪して、その数がとうとう400箇所に到達した。しかし今回は、本の形での出版は見送り、その代わりに電子版CDとして完成させた。今後、欲しいという方が現れれば進呈しようかと考えている。
おわりに
私の技術者人生・研究者人生をここに長々と紹介してきた。過去を振り返ってみると、全般にわたって決して平穏というわけではなく、むしろかなり波瀾万丈の人生であったように思われるが、逆に、それだからこそ面白く、私にとっては悔いのない人生であったように思う。
私の人生を貫いてきた研究という名の生業は、基本的には辺境への孤独な旅に似ていて、自分のアイデイアを密かに温める段階はもちろん、何人かの協力者を得て研究を遂行する場合も、またどんなに大勢の研究者を指揮する立場になっても、その成否の責任はつねに自分自身にあるという意味で、孤独な旅であることに変わりはない。これは、その孤独な旅の記録でもある。まだ文章が洗練されていない部分もあるかとは思うが、今後、さらに改訂する機会も来るものと思っている。
この技術者人生・研究者人生の歩みの中で、今までに多くの人たちとの出会いがあり、数多くの助言や支援を頂いた。とくに、私を技術の道へと導き、さらに学位取得へと導いてくれた高校・大学時代の恩師や、長い期間にわたり温かく見守ってくれた中学・高校・大学時代の学友からの影響は極めて大きいものだった。また、会社時代の上司・先輩・同僚・後輩や、学会や社外団体でご一緒した大学・官庁・企業の数多くの先達・友人たち、さらには海外留学・滞在・出張を通じて知り会った海外の多くの知己からも、研究活動に際して深い刺激を受けたり、大きな協力を得たり、多くの便宜を図っていただいたりした。ここに記して、これらすべての方々に、心からの感謝の念を表したい。
さてこの私の人生、これからは少し形を変えてまた新しい旅を続けることになる。子供たちや孫たちの幸せな行く末を見てみたいという自然な欲求も含め、まだまだ先の長い目標もある。私の開拓してきたロボット工学、視覚情報処理、人工知能の技術分野が、これから先、どう発展していくのか、今住んでいる街が、さらに住みよい街に向けて将来どう変貌していくのか、日本が全世界から尊敬を集める素晴らしい国として発展していけるのかなど、心配と興味と期待はともに尽きない。
ここ茨城に転居して以来、毎月発行してきた自治会の小さな新聞「みらい平陽光台ニュース」は、幸い健康にも恵まれて約18年も続き、2023年末には第226号を迎えることとなった。しかし、私自身の高齢化など、幾つかの理由もあって、この年末でこの新聞を廃刊とすることに決意した。そこに掲載する目的で県内を取材してきた「近隣ぶらり探訪記」での探訪地も、計500箇所に到達して一段落してはいるが、出来れば今後も事情が許す限り、各地の探訪だけは頑張ってみたいと思っている。
(完)
2021年(令和3年) 9月10日 記
2023年(令和5年)11月10日 一部改訂。
みらい平の自宅にて。