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著作物
近隣ぶらり探訪記 ( 小さな旅 茨城編 )
私の編集による「みらい平陽光台ニュース」という月刊の小さな自治会新聞に、最近まで、県内各地の探訪記事「近隣ぶらり探訪記」を連載してきました。この新聞は約18年間続きましたが、高齢化もあり、2023年末の第226号をもって廃刊としました。ここでは、廃刊直前1年間の新聞に掲載した探訪記事12篇を紹介しています。なお、今までに探訪した県内の名所旧跡の数は計550箇所を数えましたが、実際に新聞に掲載出来たのは、このうちの175篇に留まりました。 そのため最近、今までの全550箇所を網羅した書籍(右図)を完成させ、これで長年の私の道楽であった「小さな旅」を完了する予定です。
原子力科学館 (東海村)
我が国の原子力研究の発祥地であり、またその中枢でもある東海村村松に、茨城原子力協議会が運営する「原子力科学館」がある。昭和52年に開館した原子力の総合展示館である。
19世紀末の放射線発見以来、今日に到るまでの科学者らの足跡の紹介を通じて、原子力の基礎が学べる施設となっていて、とくに、原子核が変化する際に熱エネルギーと放射線が出ることや、化学反応である燃焼との違い、原子力発電の仕組みなどが簡明に解説されている。
さらに、放射線の医療・工業・農業分野への応用技術についても紹介し、陽子線治療装置の模型、放射線で滅菌した医療器具、放射線処理で強化された工業製品などが展示されている。また、同村にある核燃料加工施設(JCO)で平成11年(1999)に発生した臨界事故についても、以後の推移なども含め詳細に展示している。
とくに興味深いのは、自然に降り注ぐ放射線の通過軌跡が目で見られる大型の霧箱(クラウドチェンバー)や、自身で荷物の透過実験ができるX線検査装置の展示であり、来館者の注目の的となっている。
ダイダラ坊の背負い石 (桜川市)
桜川市平沢は山桜で名高い高峯山南麓にあり、大神台遺跡や大神駅家跡があった場所という。今は耕作地と化したが、縄文土器や土師器・須恵器の破片が多数採取されたらしい。
この地区から高峯展望台へと通じる平沢林道の途中に、周囲風景とは似合わない異様な巨石があり、「ダイダラ坊の背負い石」と呼ばれている。ダイダラ坊は日本各地で伝承される巨人伝説の大太法師のことで、大太郎法師・大太郎坊とも表記される。
現地説明板には、「ダイダラ坊が背負ってきた巨石の縄がここで切れ、足で蹴って動かそうとしたが動かないので、そのまま置いて立ち去った」とある。巨石には、そのときの縄目と、蹴ったときにできたという足跡らしき窪みが、今もかなりくっきりと確認できる。説明板にはさらに、「大神台遺跡付近に住んでいた往時の人々も、この巨石には神が宿るものとして畏敬の念を抱いていたのではないか」、と記している。
林道の先には展望台が2箇所あり、そこからは、筑波山や加波山などを背景に、長閑な田園風景、美しい里山風景が一望できる。
神宮寺城址と阿波崎城址 (稲敷市)
稲敷市神宮寺に神宮寺城址があり、そこから東に直線距離で4.5㌔㍍離れた同市阿波崎に、阿波崎城址がある。ともに南北朝時代の城跡で、土塁や堀割などが比較的良く残されている。南北朝の争乱期に、南朝方(吉野)の雄である北畠親房が転戦した古城跡で、県指定史跡となっている。
親房は、東国で新たな南朝方の軍勢を組織するため、延元3年(1338)9月、伊勢国大湊を出帆したが、途中で暴風雨に遭い船団は四散した。親房の船は常陸国東条ケ浦(稲敷の湖岸、当時は海)に漂着し、親房はこの神宮寺城に入城した。
しかし20日後には常陸国佐竹氏・大掾氏らの北朝方軍勢が押し寄せ、神宮寺城はあえなく落城。親房は阿波崎城に逃れたが、ここもほどなく落城し、さらに小田城(つくば市)へと逃れた。小田城では暫しの安寧の刻があったようで、ここで有名な「神皇正統記」を執筆したらしい。
その後、関宗祐の関城(筑西市)に入り、下妻政泰の大宝城(下妻市)とともに北朝方に対抗するも、興国4年(1343)に両城が陥落。その後、吉野に帰還したという。
諏訪の水穴 (日立市)
日立市諏訪町の大平田というところに、「諏訪の水穴」という鍾乳洞がある。緑豊かな自然に囲まれ、洞からは滔々と水が流れ出ている。洞の入口は、底辺2.5㍍、高さ1.8㍍で、15㍍奥までは立ったままで進むことができるらしい。内部には鍾乳石や石筍なども確認できるという。
現地の案内板などによると、建長年間(1249~55)に信州諏訪大社(長野県諏訪市)から分霊し、この地に諏訪神社を勧請して神官となった万年大夫(藤原高利)夫妻が、自らの木像を彫って神社に納めたあと、信州諏訪湖に通じるとされるこの水穴に入った。しかし再び戻ることはなかったという。後年、この水穴には水戸藩第2代藩主徳川光圀も入り、奥の「三の戸」の石壁に、「ここより入るまじ」と記したと伝えられている。
光圀は、この木像の腐朽で新像を造らせ、その胎内に旧像を祀った。今は新旧両夫婦像とも、日立市郷土博物館で常設展示されている。
また水穴の水が流れ込む鮎川沿いには、第9代藩主徳川斉昭が造営した「諏訪梅林」があり、季節には約300本の紅梅・白梅が咲き誇るという。
青蓮寺 (常陸太田市)
常陸太田市東連地町の「青蓮寺」は、親鸞聖人直弟の性証が再興した浄土真宗の寺で、古くは皇子時代の天武天皇が、天智9年(670)から2年ほど逗留したという歴史ある寺という。
この寺には「二孝女物語」が伝わっている。文化元年(1804)、豊後国川登郷泊村(現、大分県臼杵市)の川野初衛門が親鸞の旧跡を巡る旅に出て青蓮寺まで来たが、病で動けなくなり、寺で世話になっていた。
7年後、京都で親鸞聖人の遠忌が行われた際、青蓮寺住職が偶然にも初衛門の菩提寺の住職と出会い、初衛門の様子を伝えた。話を聞いた娘たち(つゆ22歳、とき19歳)は300里を2ヶ月掛けて旅し、青蓮寺で7年ぶりに再会を果たした。水戸藩も姉妹を支援し、翌年春には親娘揃って故郷臼杵に帰ることが出来たという。
平成16年(2004)に臼杵市の郷土史家が青蓮寺に照会したのをきっかけに、青蓮寺で臼杵藩江戸屋敷からの青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状など17通の書簡が発見され、実話であることが判明したという。これに因み、常陸太田市と臼杵市は、平成27年(2015)に姉妹都市を締結した。
別れの一本杉 (笠間市)
昭和の著名な歌謡曲の一つに、「別れの一本杉」がある。高野公男作詩、船村徹作曲で、歌唱した春日八郎はこの曲で演歌歌手としての地位を不動のものとした。これに伴い、高野と船村の音楽活動も本格化したが、この曲がヒットした矢先に高野は結核に罹り、曲の発表の翌年の昭和31年(1956年)、26歳で早逝した。
この「別れの一本杉」記念碑と高野公男墓標が、高野の生まれ故郷の笠間市大郷戸(往時の北山内村)の村はずれにある。道路脇の小さな一画ながら、歌詞にある情景と同様に一本杉と地蔵像が立ち、横の歌碑には船村の筆で、「公男の歌魂よ、とこしえにふる里の山海にねむる。平成15年秋 船村徹」と追記されている。高野の若過ぎる死を悼み、命日には毎年ここに供養に訪れていたという。
高野と船村は大学在学中に知り合い、コンビを組んで、「別れの一本杉」をはじめ、「男の友情」「早く帰ってコ」「ご機嫌さんよ達者かね」など、多くの名作を残した。実家近くの山際の墓地には、高野の墓に並んで船村の追悼石碑があり、その碑文からも二人の熱い友情が伝わってくる。
勝福寺 (河内町)
河内町羽子騎(はねき)にある勝福寺は、寛文年間(1661~1672)の新利根川開削に伴う新田開発の際、祐圓上人により開山された寺という。本堂前の庭には、家族愛の象徴として、異色のライオン像が飾られている。
今回、幸いにも住職にお会いでき、本堂内を案内いただいた。金魚を寺のシンボルとし、手水舎や本堂前には金魚をモチーフにした可愛い石像があり、本堂の天井や梁からは、赤い金魚型の提灯が多数吊されている。
真言宗智山派の寺で、本尊は「両部大日如来」の坐像2体である。さらに秘仏の千手観音像があるが、普段は厨子の中で姿を拝することはできない。そのため「まっくら観音」と呼ばれてきた。いずれも室町時代の作で、町指定文化財という。
このまっくら観音は、年に一度だけ縁日に開帳され、境内にも300個ほどの金魚型提灯が飾られるらしい。夏の夜空に浮かぶ金魚の姿は幻想的で、魔除け・災厄除け祈願に多くの参拝者で賑わうという。また本堂には、水墨画の岩崎巴人画伯による天井絵や龍の襖絵、三聖渡河の衝立絵など、迫力ある作品がある。
耳守神社 (小美玉市)
小美玉市の栗又四ケ(くりまたしか)という一風変わった名称の地に、「耳守神社」という、これまた変わった名前の小さな神社がある。耳の病に霊験あらたかという。おそらく全国でも唯一の珍しい神社と思われる。
境内の石碑に刻まれた神社の縁起によれば、平安時代末期、平繁盛の孫娘の千代姫が7歳になっても耳が聞こえなかったため、両親が熊野神社に願を懸けたところ、満願の日に千代姫の耳が人一倍優れて聞こえるようになったという。村人は親しみを込めて耳千代様と呼んだらしい。
ところが33歳のとき、些細なことから不治の病となり、死期を悟った千代姫は「自分が死んだらこの地に神社を建てて欲しい。そこで里の人々を耳の病から守りたい」と両親に伝え、息を引き取った。
その後、遺言どおりに耳守神社が建てられた。祭神は耳千代姫こと千代姫命で、地元では「みみっちょ神社」とも呼ばれているという。社殿には、竹筒に願い事を書いただけの手作りの珍しい絵馬が幾つか掛かり、備え付けの記帳簿は、耳が治ったという参拝者の喜びの声で溢れていた。
玉簾の滝 (日立市)
国道349号線を常陸太田市側から里川沿いに北上し、玉簾大橋の手前で旧道へと入った先の日立市東河内町の道路脇に、「玉簾の滝」(たまだれのたき)という優美な滝がある。高さ18㍍、幅8㍍ほどの規模で、岩肌を流れ落ちる軽快な水音が清々しい。
滝の名は、滝を詠んだ水戸藩第2代藩主・徳川光圀の詩に由来し、光圀の命名といわれている。周囲は楓の林になっていて、とくに新緑と紅葉の時期は見事な眺めとなり、写真撮影の絶景ポイントという。
この滝、実は臨済宗の玉簾寺(ぎょくれんじ)の境内にある。延宝6年(1678)に光圀が建立した寺で、当時、光圀が滝の中に観音菩薩を霊感したという逸話が残り、玉簾観音とも呼ばれている。その後、安産守護の祈願所として篤く信仰されるようになり、「北の玉簾・南の雨引」といわれて多くの参拝者があるらしい。
ただこの寺、観光での拝観はできず、駐車場も利用できない。見学や写真撮影で境内へ入るには許可が必要という。でも、観音堂の外観の見物や滝の撮影だけなら、路上駐車して道路側からだけでも十分楽しめる。
羽成観音堂 (つくば市)
県道143号線を進み、つくば市羽成の普賢院脇の小道に入ると、その先の鬱蒼とした森の中に、ひっそりと佇む「羽成(はなれ)観音堂」がある。
この観音堂、実は戦国末期の混乱の中、新たに牛久城主となった由良国繁が、この地域で戦死した前城主岡見氏などの霊を弔うために建立した7観音・8薬師の一つという。開山は文禄元年(1592)、本尊は馬頭観音で、今では常陸西国三十三札所の一つとして知られ、普段は見られないが天女の天井画で有名らしい。
往時この地は谷田部と呼ばれ、ここの天井画は「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と謳われた谷田部藩藩医・広瀬周度の16歳のときの作という。ただし本堂自体は、昭和55年(1980)に建て直されているらしい。
境内は比較的広く、境内社の鹿島神社や、無造作に置かれた感じの幾つかの石仏がある。全体的に老朽化の気配はあるが、木漏れ日の中の静謐な雰囲気は実に素晴らしい。車だと本堂裏の駐車場へ直接に通じるが、本堂に正対している登りの細い山道の方が、どうやら正式な参道らしい。
仏島山古墳 (取手市)
取手市岡にある岡台地の麓に、田圃の中に突き出たような形で、樹木の茂る円状の小さな丘がある。高さは1㍍ほどに過ぎず、丘というよりも塚という印象だが、もとは直径30㍍ほどの円墳だったと見られている。名を仏島山古墳(ぶっとうさんこふん)といい、6世紀頃のものらしい。
田圃の手前には用水路があって正面からは近付けないが、東側の小橋を渡り、地蔵大菩薩像の右を抜け、集会所前広場を左に回り込むと古墳の西側に到達でき、そこに市の文化財指定史跡の説明板がある。
それによると、明治期の学校建設と昭和初期の岡堰の改修でここから土砂を採取したらしく、形状は破壊されたが石槨・骨片・刀剣・曲玉などが出土したという。出土状況から、墳周・墳頂に埴輪を巡らした整然たる古墳であったと推定されるという。
中世になり、この島状の墳丘に仏像や石塔が建立されて以来、仏島と呼ばれてきたらしい。地元では昔から平将門の墓とされてきて、墳頂の小さな石の祠の中には「将門神社」と刻まれているというが、樹木が邪魔し、風化もあって確認できなかった。
浄蓮寺 (北茨城市)
北茨城市華川町の花園川の畔に、浄蓮寺という天台宗の古刹がある。第三代比叡山座主となった慈覚大師円仁が立石寺(通称山寺、山形市)創立の帰途この地に立ち寄り、天安2年(858)に開山したと伝えられる。
本堂は、兵火などで今までに何度か焼失したらしい。現本堂は安政4年(1857)に再建されたもので、本尊の阿弥陀如来像は延宝9年(1681)の作という。本堂の重厚な茅葺きの屋根とその向拝(前方への張り出し部)の形が、圧倒されるほど見事であり、市指定文化財にもなっている。
仁王門にある木造仁王像は、天和3年(1683)の作で、神仏分離により、上流にある花園神社(当時は満願寺)から移されたものという。また、境内にある愛染堂には、インド伝来といわれる愛染明王が安置されているが、これも神仏混淆廃止により花園神社から移されたものらしい。
寺の裏山の花園川渓谷は、浄蓮寺渓谷とも呼ばれ、森閑とした自然林の中に散策路が整備されている。路傍の斜面に露出した花崗岩には、修行僧が彫ったという平安後期の33体の観音像がひっそりと佇んでいる。
諏訪の水穴 (日立市)