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随想 技術の散歩道 ― 第5編 ― (No.21~No.25)
技術の散歩道 No.21
視覚の神秘
ロバート・ケネディやキング牧師が暗殺された時期、まだ暴動で騒然としていたシカゴの街に住んでいたことがある。当時私は、生体視覚の研究でイリノイ大学に滞在し、近くの聖ロカ病院の一室を借りて猫を使った視覚の実験に没頭していた。いずれは人間の目を機能的に模倣して、人工の目を造ろうというのが究極の目的であった。その後この人工視覚は、私の生涯にわたる研究の基本テーマとなり、幸いにも一応の成功を見て、生産自動化などの局面で新しい応用を開拓することができた。今では、マシンビジョンと呼ばれる各種の人工視覚装置があちこちで活躍するようになっている。とは言ってもまだこれらの装置は、人間の目とはまったく異質なものと言わざるを得ない状況であり、いずれはもっと実際の目に近い視覚装置を実現したいものである。
ところでこの人間の目には、知れば知るほど、圧倒されるような神秘さ・深遠さがある。一見単純に見えるその構造にさえ、人工的にはとても模倣できない迫力がある。たとえば目のレンズ一つをとっても、その構造はカメラ用レンズとは似ても似つかないのである。
目のレンズの内部は、玉ねぎのような多層構造を持ち、内部に行くほど屈折率の高い層が順次積層されている。人は物を見る時、その遠近に応じてこのレンズの厚さを変え、焦点を合わせる。カメラのようにレンズの位置を変えるのではなく、レンズそのものを変形する。しかもその変形には、レンズを包み込んでいる厚さ数10ミクロンの薄い膜を周りから引っ張ったり緩めたりする。この薄い膜こそがレンズの弾力の源であり、これが破れるとレンズが剥き出しになって弾力がなくなる。レンズ調節は、まさにこの薄い膜に頼っているのである。
このレンズを通した光は網膜に結像するが、光を感知する視細胞は網膜内でも一番奥まったところに配置されている。光は網膜内のいろんな細胞の間をかきわけて一番深いところへと到達し、そこで初めて感知されるわけである。そして双極細胞や神経節細胞などでの処理を経て網膜の一番浅いところに電気信号として戻され、盲点経由で視神経となって脳へと運ばれる。一般の感覚細胞は表皮部に存在し、奥へ奥へと処理結果が伝達されるようだが、視覚ではどうも逆のようで、何か不思議な構造である。
人が物を見る時には必ず目を動かす。これは網膜上で一番感度の高い「中心窩」を物のある方向に向けようとする動作であり、上下、左右、回転の計6本の拮抗筋が関与した連携動作である。物が移動している場合には、目をそれに追従して滑らかに動かすことが出来るが、止まっている物を見る時は動きが不連続となり、あちこちへと視線が跳ぶことになる。すなわち、自分の意志では連続的に目を動かすことは出来ないのである。たとえば暗闇で小さなランプを左右に正弦波状に揺らしたとき、ランプを灯している間は人間の目も追従してきれいな正弦波状に動くが、ランプを消した途端、どんなにその正弦波状態を継続維持しようとしても、階段状のガタガタした波形になってしまう。
一般に静止した物を見る場合には、その物のあちこちの部分を次々と見て、全体を認識する。行っては止まり、止まっては移るという動作の連続である。このとき、次の位置に跳ぶ直前にフラッシュを焚いても、それに気付く確率は極めて小さくなるという実験結果がある。すなわち目が移る直前は、視力が落ちて見えなくなるのである。もしこの移動期間も視力が抑制されないとすると、船酔い状態となって脳が混乱する可能性がある。ともあれ、あまりに目をきょろきょろさせている人は、その分だけ外界から取り入れている情報量が少ない筈だから、そのような学生は成績が悪くて当然なのである。
脳には、目から接続された視覚野と呼ばれる領域がある。そこでは縦線、横線、斜め線などといった基本的な図形の認識を司る細胞が確認されている。ところが脳には、もっと高位の事象に対応する細胞もあるらしい。例えば猿の側頭葉には、飼い主の顔には反応するがそれ以外の人には反応しない細胞があるという。上側頭溝には、人間の正常な歩行には反応するが後退り歩行には反応しない細胞もあるらしい。このような一般化された高位の事象の一つ一つに対応して認識細胞が出来上がるとすれば、とても実際の脳の細胞数では足りない筈である。最近、より上位の基本図形が見出され、脳での認識処理が階層的に実行されていることが示唆されている。
人間の瞳は、目に入る光量を調節する絞り機構である。明るい物を見たり近いところを見る時には瞳孔は小さくなり、暗い中で物を見たり遠いところを見る時には大きくなる。焦点深度と感度の調節に関連しているのであろう。ところがこの瞳孔は、もっと上位の心理的な要素でも開閉されるという実験結果がある。魅惑的な物を見ると瞳孔が開くのである。光学的な常識からいうと、魅惑的な物はもっと絞りを絞って分解能を上げたいように思うのだが、どうやら逆らしい。「もっと光を」ということのようである。
逆に魅惑的でない物に対しては、瞳孔は閉じることになる。この現象を利用すれば、たとえば恋人同士が、お互いに自分を好いてくれているかどうかを目の瞳孔の開閉から確かめることが出来るのかも知れない。「目は口ほどに物を言い」という言葉が、何か重要な意味を持っているようにも感じられる。一方この現象を応用し、同じ絵を見たときに男女間で目の動きにどのような差があるかを調べた例も報告されたことがある。差は歴然で、男性は絵の中の女性に、女性は絵の中の男性に興味が行き、そこで瞳孔は開くようである。
このように目にはまだまだ神秘が多く、そう単純ではない。それを真似して造ろうというのは、どうやら創造主への冒涜なのかも知れない、と考え込んでしまう程の迫力を秘めている。
(平成11年4月)
技術の散歩道 No.22
ふるさとの山
ここに一つの短歌がある。ある中学生の力作であり、国語の授業の宿題として創作された。
暁の日野の峰より流れくる
清き川面に金色の矢射す
早朝の川辺をそぞろ歩きつつ、ふと心に浮かんだ、ということになってはいるが実は嘘である。本当は用語、表現上での少しばかりの盗作を含み、かつ四苦八苦して作られた。もちろん彼にとっては最初で最後の作品であり、苦労したせいか45年後の今もまだ彼の心の片隅に残っている。古今の歌人の数々の名歌と伍して、これだけ長い年月にわたり彼の心に住み着いていたのだから、駄作といっては可哀想である。その彼とは、言うまでもなくこの私である。
ここに詠まれている「日野の峰」は正式名を日野山というが、別名、越前富士とも呼ばれている。私の郷里の山であり、標高はたったの795mに過ぎない。新幹線を米原で北陸線に乗り換えると、敦賀を過ぎた直後に列車は北陸トンネルに入る。その長いトンネルを抜け出てまもなく、右手に日野の秀峰がその姿を表わす。「ああ帰ってきたな」と実感する郷里の山、私にとっての父なる山であり「兎追いし彼の山」なのである。
その山麓を周り込むように一筋の川が流れている。夜叉ヶ池という、おどろおどろしくもまた神秘的な名の小沼に端を発すると言い伝えられているが、真偽のほどは知らない。名を日野川といい、私にとっての母なる川である。その昔、鮎を追った川であり「小鮒釣りし彼の川」でもある。普段は「清き」流れではあるが、今と違ってこのころは良く荒れた。今でもこの川を見ると、好んで濁流の中を泳いだ無謀な少年時代のことが甦る。この山と川とを詠んだのが、上記の歌というわけである。
私の郷里は武生と言い、その昔、紫式部が、父、藤原為時の国司任官とともに訪れて一年余を過ごしたという土地柄である。当時府中と呼ばれ、国府が置かれていた。そこには彼女が詠んだという歌も幾つか残されており、これが中学で短歌教育に熱心だった理由の一つかと思われる。最近は私の家の近くに式部公園が作られ、どの程度本人に似ているかは定かでないが、そこそこ美人の紫式部の像が建てられている。
さて、この日野山の麓の村で、夏のある夜、祭が催される。近隣から人々が集まり、笛や太鼓で賑わったあと、真夜中過ぎたころから三々五々山に登り始める。手に松明を掲げ、暗闇の山頂を目指す。数時間の苦闘の後頂上に辿り着き、そこで日の出を迎えることになる。夜明けの白みの中、一面の雲海を突き破って立ち昇る民のかまどの煙が、万葉の世に詠まれた舒明天皇の和歌の情景「……登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ……」と(煙の解釈に異論があるとは言え)そっくりであることに気付いたりする。このような山登りが昔日の夏の夜の慣わしであり、私の強烈な思い出でもある。
武生の街並みを挟んで、反対の方角に鬼ヶ嶽という山がある。日野の陽に比べて陰の印象は免れないし、子供のころはその恐ろしい名前が災いして、未だに一度も登った経験がない。その昔、山腹の岩屋に住みついていた鬼が、南麓を川沿いに都へと上る旅人を襲い、ときには府中の町(武生市)まで荒らしに出かけたという伝説がある。珍しくも女の鬼で、今でも日野川に白鬼女橋という名の橋がある。このあたりで首尾よく退治されたと言い伝えられている。
さてこの標高533mの山にも、昔、松明登山の行事があったらしい。その復活を記念して、地元の登山愛好者で山頂に碑を建てる話が出た。その中に私の幼友達がいて、彼から手紙が届いた。地元の中学に英語教師として赴任していた英国の若い女性を一度この山に案内したとのことで、その時に山頂の祠の登山者名簿に残していった彼女の感動の手記を碑に刻みたいので翻訳して欲しい、というわけである。送られてきた英語の手記は普通の散文ではあったが、未だ登ったことのない私にも、山頂での印象が心地良く描かれているのが分かった。私も一緒に登った気分になり、遊び心も手伝って何とかこれを詩にしたいと考え、中学時代の短歌のときと同じように悪戦苦闘して意訳したのが次の文語定型詩である。所詮は工学屋の作品だから、翻訳には自信があっても日本語表現には自信がない。でも、郷里の山の様子が少しは伝わってくれるものと思う。
悪魔の山と人の呼ぶ その頂きに佇みて
微かにそよぐ松が枝の 穏やかな影目にすれば
似つかぬ名ぞと思わるる
登る山路の道すがら ふと出会いたる老人の
千度に亘る山行きは 妻を亡くせし残り日の
生き甲斐とぞや知らさるる
日がな一日我も又 尽きぬ景色に酔いしれむ
右に横たう日本海 左に秀峰日野の山
霞むは福井の街並みか
頭上の雲はまだ消えず 僅かばかりの雨足も
あれど眼下の武生市は 秋光浴びて大いなる
陽だまりのごと輝けり
綾と織りなす田園に 藁焼く煙緩やかに
立ち昇るさま美わしき 我をここへと誘いし
友の情けぞ偲ばるる
ところでこの英国女性の紀行文が、詩となって山頂に刻まれたという話はその後聞いていない。しかし、私の知らなかった郷里の山に再度愛着を持たせてくれた貴重な手記であったし、またこの意訳詩も、駄作とは言え、工学屋の私にとっては大事な作品となった。
(平成11年5月)
技術の散歩道 No.23
生産技術の高度化
資源の乏しい我が国が、世界に伍して繁栄していく数少ない方策の一つとして、生産技術の高度化があった。原材料を他国に依存しながらも、生産技術で頂点を極め、他国にはないような信頼性の高い製品を実現し、これを輸出して生計をつないできたのが今までの我が国の姿と言えよう。いわば「生産技術」とその結果としての「信頼性」で勝負をしてきたわけである。
今後も、資源は減りこそすれ増えることはないので、科学技術による立国を通じて世界に類のない省資源型の高付加価値製品を創造し、それをより高度な生産技術で実現することで繁栄を目指す以外に、あまりいい方法はないようである。とくに資源の乏しい我が国では、資源と呼べる可能性があるのは、唯一「人」であろう。従来以上に人々の英知を基盤として繁栄を築き、世界へ貢献していくことが重要となる。ただし、過去の一時期のような一見華々しい繁栄はもういい。浮かれた繁栄でなく、持続可能な節度ある繁栄でいいのではないか。
しかしこれも、最近の若者の技術離れ、製造業離れや、フリーターと自称する安易な生活態度の若者の台頭により、資源とはなり得ない人々がますます増加しているように思え、「節度ある繁栄」でさえ心配になってくる。我が国としてはどうしても、国民の総意として科学技術を大事にする心を養い、高度な教育を身に付けた実践的かつ洗練された技術者集団を作り、先端的な技術の開拓とその革新的な伝承とを計っていくことが不可欠であるように思う。とくに生産技術では、過去の効率一辺倒の考え方から脱却し、新たな考え方での高度化が必要になって来る。
従来、生産技術と言えば、一般に製品の「製造工程」の自動化・省力化を中心としたものであった。その中核が各種の自動加工機械、組立機械、検査機械であり、そこにロボットが加わった。またこれらの機械の幾つかには、視覚を初めとする各種のセンサーが付属され、従来よりもはるかに精度のいい仕事ができるように改良されたし、また、お互いの機能が複合化された多能な機械としても実現された。さらにこれらの機械は、計算機技術の進展でネットワークにつながれ、計算機の管理のもとでそれぞれが協調して仕事をするようにもなり、全体として最適な生産プロセスが構成できるようになった。最近ではさらにCIMやCALSなどの概念が浸透し、単に製造だけでなく、製品の受注から販売にいたる全企業活動を計算機でうまく処理しようとの考え方が発生し、進展を見せている。そこでは、需要データ、受注データ、設計データなどが共有され、企業全体として円滑な生産が目指されている。
このように計算機を主軸とした企業活動のシステム化においては、単に製造工程での諸技術だけにとどまらせず、その前段階の製品の企画や、その実現の工程での諸技術も含めて生産技術と呼ぼうとする気運も生じている。すなわち、新製品の模索工程、模索された製品企画案の実現工程、実現された製品の製造工程のそれぞれを計算機技術で知的に支援することが、新しい生産技術というわけである。
とくに製品の模索工程では、通常、企画者のひらめきから出発して、綿密な市場調査結果を加味しつつ、今までに企業内に蓄積された技術力、その時点で利用可能な技術や部品、足らない技術とその実現可能性など、多くの背景知識のもとで企画を進めていく。このような産みの苦しみの工程を計算機で支援する技術は、難題ではあるがいずれは必要となる。
次いで製品の実現工程では、企画案から最適な製品へと仕上げるためのクイックプロトタイピングの技術が重要となる。またこのプロトタイピングを極力減らすための機能・性能に関わる計算機シミュレーションがますます重要となり、生産技術での一つの中核的な技術として完成していくはずである。さらに製品の製造工程では、計算機による知的な生産制御の実現が期待されている。そこでは、センサーを適切に配備してその出力をフュージョンする的確な判断技術、仕掛りの個々の中間製品を逐次追跡して物の流れと情報の流れを同期化する制御技術、不良の可能性を事前検知してフィードフォワードで修正を加え、結果として不良を皆無とする適応技術、などが重要と思われる。このように生産技術は、企画から設計、試作、製造にいたる活動のすべてを包含する技術として将来体系化されるべきものであろう。
ところで製造業を取り巻く状勢は、今大きく変化しようとしている。とくに資源リサイクルに向けて製品設計段階から十分に配慮するとともに、製造される製品の環境適応性をあらゆる角度から検討することが期待されている。すなわち、開発される製品のもたらす利便性だけに目を向けるのではなく、逆に、それがもたらすマイナス影響も考慮するよう、製造者と利用者の両方に価値観の変更を求めている。
そのため、ライフサイクルアセスメント(LCA)のような考え方がいずれは深く浸透して、すべての製品の優劣が、その環境に対する優しさの尺度で表現されるようになろう。使う材料や部品についても然りである。従来の機能本位、性能本位の開発競争から、環境を重視した優しさ本位の開発競争へと移行し、この優しさが数値としてカタログにも製品にも明示される時代がいずれはやってくるのではなかろうか。人々は性能・機能を多少我慢してでも、優しさをより優先する時代となる筈である。したがって生産技術も大きく変わらざるを得ず、とくにエネルギーミニマム、熱排出ミニマム、有害物質排出ミニマムなど、新たな目標指標による最適化が必須となると思われる。生産技術にも新しい思考が求められているのである。
(平成11年6月)
技術の散歩道 No.24
安心社会と安心工学
かつて世界一の「安全社会」と呼ばれたこの日本にも、いつの間にか拳銃、麻薬、犯罪、不正、悪徳などが住みつき、ときには世間を惑わせ、人心に恐怖感を抱かせている。このような安全社会から不安社会への変貌を食い止め、さらに人智で「安心社会」へと転換させることは果たして可能なのだろうか。
現在の社会においては、不安の最大のものとして環境問題があり、人間活動の負の遺産としてもたらされる環境悪化社会の到来が懸念されている。地球の温暖化、オゾン層の破壊、異常気象、酸性雨、産業廃棄物の蓄積、資源の枯渇等々、いずれも結局は人間が存在したからこそ生じたものである。他の動植物の目から見れば、人間こそが異常発生して生態系のバランスを崩した元凶であり、彼らにとっては迷惑千万な筈である。人類のこれまでの長い歴史に比べると、20世紀の科学技術の発展はあまりにも急激であった。その大きな正の効果に目を奪われて、影に隠れて見落としていた負の効果が蓄積して、最近このような問題点として顕在化してきたわけである。そのためか、人々の心の中に、科学技術に対する不信もまた大きく芽生えてきているように思われる。
しかしながら科学技術だけにこぶしを挙げるのは間違っている。本来科学技術は、人類の幸福を究極の目的としたものであって、今日まで人間生活に数多くの「利便」を提供してきた。すでに我々人類は、科学技術を根底とした社会から多くの利益を享受し、生活を楽しんできたのである。その結果、「人類とは、エネルギーを浪費し、ゴミを生産する動物である」と定義せざるを得ない状況にまでなってしまったようである。このように、科学技術の進歩が環境悪化の直接の犯人というわけではなく、その背後にいる人間の身勝手な欲望の方がはるかに罪深いのである。いわばすべての人間がその共犯者なのである。我々が一旦手にした利便性はなかなか捨てがたいのも事実であり、いまさら太古の生活へと戻るわけにはいくまい。しかし将来、多少の不便は我慢するコンセンサスが得られ、生活の減速がなされる可能性はある。
このような人間の身勝手さをどう修復するかは社会的な大きな課題である。多分、教育と自覚しかないのかも知れない。一方、科学技術のいたらなさについては、いずれまた科学技術で解決する以外に手はなさそうである。そのためここらで科学技術の役割についての我々の視点を、「利便」から「安心」へと移すべきときではないか。すなわち「安心」を提供するのが科学技術であって欲しいのである。その具体化には多分「安心工学」とでも呼べるような工学が必要となるのであろう。
安心を科学技術のキーワードに据えれば、新たな可能性が見えて来る。安心機械、安心ネットワーク、安心情報処理、安心ビジネスなど、安心という言葉を冠にかぶせることで、いろんなアイディアが湧いて来る筈である。そこからは地球レベル、国家レベル、都市レベル、家庭レベル、個人レベルなどのいろんな形態が考察でき、夢が広がって来る。例えば国家レベルでは、麻薬監視の超微量分析センサーの必要性が、その実現の可能性はまださておくとしても、容易に発想される。また、パスポートのICカード化は、安心という観点からも大きな効力を発揮する筈であり、インタネットを活用した効率的な入出国管理が可能となる。
環境関連で言えば、各地の銘水や浄化器具の販売も、水道水に不安を感じる人々を中心に幅広く普及している安心ビジネスの一つと言える。空気浄化では、すでに各種の燃焼ガス無害化装置、排気ガス浄化装置などが実現され、引き続き改良研究が行われている。水浄化では、湖沼の深いところに滞留した水を強制対流させて自然浄化させる噴水型の湖沼浄化装置も実用化され、また、発生したあおこを微生物に食べさせて除去する流動床式のあおこ除去装置や、あおこに鉄分を混ぜてフロック化し、超伝導磁石で一挙に吸い付けて除去する装置なども実現されている。
安心は、医療、福祉にも大きく関連して重要である。とくに医療関係ではすでに各種の医療機器や健康機器が開発されているが、今後、高度メカトロニクス技術を用いた手術支援装置や、高度情報通信技術と画像診断技術を駆使した在宅医療支援装置などが必要となる。すでにその試作品も出来上がり、研究が着々と進展しつつある。
福祉ではとくに高齢者の寝たきりを防ぎ、自立化を目指すための歩行訓練装置が開発され、その効果が確認されつつある。聴覚障害者のための手話の認識技術の研究も始まり、いずれは計算機を介在させた自動手話翻訳も可能になるかも知れない。安心社会に向けた強力な道具になるはずである。
とくにこれからの高齢化社会では、家庭レベルの安心ビジネスとして、生涯保証の商品が欲しい。例えば冷蔵庫や洗濯機を買うときに、廃棄費用や保険費用を少し上乗せした値段でもいいから、例えば60歳以上の人には、その人の生涯に渡り、その修理や交換を引き受けてほしいものである。保証期間がその人の生涯にわたった商品販売となると、技術的にも大きな課題を提供し、従来に倍加する寿命設計が必要となってきて、製品の形態が変わってくる筈である。「使い捨て」の時代から「使い込み」の時代への転換の足掛かりにならないだろうか。
このように安心という見地から科学技術を見直し、安心工学の体系化に向けて技術開発を展開し、それによって安心社会を構築していく、といった考え方が今後重要に思う。この安心社会は、一方では、ウィットに富み、優しい心に満ちた助け合いの社会であり、ボランティアとは自らは呼ばないボランティアに満ちあふれた社会であろうと思われる。
(平成11年7月)
技術の散歩道 No.25
個性の源と独創性
「改造が要望せられるか、而してそれがあなたによってなされるのか。改造が宏大なものであればあるほど、それを成就するためのあなたの個性も宏大でなければならない。」 これは永年私が好んで口にしてきた米国の不遇の詩人ホイットマンの、詩集「草の葉」(有島武郎訳、岩波文庫)の中の「一人の弟子に」という詩の一節である。ただし時には自分好みに多少変造し、「改造」を「創造」と読み替えることもある。創造もまた、その原点は個性にあると考えるからである。
かなり前のことだが、個性のある人がとみに少なくなったと新聞などで議論されたことがあった。以来、事態が改善されたという話は聞かないし、実感としてもまだまだ少ないように思う。社会の情報化が進展すると、ますます個性が均質化する危険性もある。この個性の均質化は、確実に創造の芽を摘み取ってしまうのではないかと危惧される。
個性は、新しいものの創造には必要不可欠であり、そのためには、他の人とは質的に異なった自分自身の「意見」を持つ努力が必要となろう。そうしないと個性も発揮されないし、創造へもつながらない。個性は知恵のある意見を作り出すし、知恵のある意見からまた新たな個性が形成されるものと思う。
とくに研究開発の面で欧米の研究者としのぎを削っている者にとっては、日本人の持っている創造力の根源すなわち独創性がつねに気になるものである。狩猟民族を祖先とする欧米人に比べ、四季の移り替わりに逆らっては収穫が得られない農耕民族を祖先とした日本人は、もともと独創的ではあり得ないのだとする説も世の中にはあるようだ。しかし私は、この独創性はむしろ後天的であり、教育などの社会環境に大きく支配されるという考え方を実感として持っている。
ある事件が起き、ニュースレポーターが街に出て通行人にマイクを向けて意見を聞くとする。予想だにしない意見を、きちんとした筋道で堂々と喋る人は、米国のテレビでは何度も目にしたが日本のテレビではあまりお目に掛かれない。彼らは事実を捕らえる目も、それを加工して自らの意見として表現する方法も、すべて我々とは違っているように思われる。どうやらその根本には、教育の差があるようだ。
日本では、教育の原点は昔から「読み・書き・算盤」と相場が決まっていた。今でも大差はない。問題は「話す」が欠けていることである。私の娘が通っていた米国のある高校では、「読み・書き・話し・演じる」(reading, writing, speech, drama)という4つの独立した科目で国語(すなわち英語)が教えられていた。このスピーチの授業では、一人10分ずつの宿題が課され、週に一度ずつ自分の順番が来る。試験では、先生の机の上に2組に分けて積み重ねられた紙片群からそれぞれ1枚ずつ取って、まず廊下に出て2分間考える。そのあと教室に入って2分間皆の前で喋る。この間に次の人がまた紙片を取って廊下に出る。これを繰り返す。
もちろん喋るテーマは、2枚の紙片に書かれたそれぞれの言葉を組み合わせて、この2分間の間に自ら考え、しかもその内容は、問題提起から始まって3つの主張を入れ、それらをまとめた結論、という形に構成されることが要求される。もちろん、先生の予測しなかったような話をする生徒に高い点が付く。否応でも自分で考え、かつ独創的に話す基本が身に付くようになっている。そしてこの訓練が、強烈な個性を形作る源のように思えてならないのである。
個性は一様性を貴ぶ社会からは生まれにくい。例外をよしとする社会への変革が重要である。義務教育での競争が撤廃され、「優等生」という言葉も死語になってしまったが、これは差別化を嫌ってのことらしい。ところが、人一倍努力した優秀な人を優等生として評価しないのは、その人にとっては逆差別ではないだろうか。努力した人と努力しない人とが同じというのはよくないのである。どうやら日本の社会では、正しい評価と、何も評価をしないこととが混同されているように思えるのである。
米国の社会では、学業成績以外に、もっと多様な評価が日常行われているようだ。昔、日本から転校した小学生の息子が、転校して1週間目くらいに学校から紙切れを貰ってきた。読んで見ると「今週の生徒 (The Student of the Week)」と書いてある。校庭の石拾いをしたことを称賛しての先生の手作りの賞状であった。このような些細なことでも、これを取上げて皆の前で盛んにエンカレッジするのがどうやら米国の教育の極意らしい。他人とは異なったことを率先してやることに称賛を惜しまない社会のようである。
高校では飛び級が認められ、1年早く大学へ進学する者もいる。公立高校に通う生徒が、夏休みに別の私立高校の夏期講座を受けて単位を取得したり、放課後に学校の事務を手伝って「ビジネス」の経験をしたということで単位を取得し、卒業に必要な所定の単位を早めに取得できるような融通性がある。
日本でももっと柔軟な教育制度へと変革できないだろうか。4~5才くらいから就学させるなど、思い切って教育を早めるとともに、融通性を高めることで大学教育を20歳までに終えるような制度に改革し、これにより社会人として自覚する時期を早め、早い時期から社会に参画させて能力を発揮させるのが望ましいのではないか。個性を持った独創性豊かな若い力で多くの「創造」が生まれ、40歳代の若い指導者が一杯出て来る社会にしたいものである。また競争も遠慮なくやった方がいい。でないと国際競争には初めから勝てない。ただし、倫理・道徳・哲学・宗教などといった精神的基盤の希薄な我が国では、能力のある者の心の奢りが心配となる。したがって「心の教育」にも重点を置く必要があるように思う。
(平成11年8月)