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回顧録 私の研究遍歴 ― 第2編 発展期 ―
アメリカ赴任
新たな使命
昭和52年秋、私は中研サンフランシスコ支所へと赴任することになった。当時の私の使命は、これまでの仕事のすべてを忘れて何か新しいことをやってみる、ということだった。何をやるかは、むしろ向こうへ行ってから、新鮮な頭で考えて欲しいとの周りの期待もあった。
やるからには新事業を誘発するものをと当然考えたが、日本の中にいてさえ工場への技術移管は相当に難しい。ましてや私の前には太平洋が横たわっている。
私は中研から2名の若い研究者を呼び、彼らとともに、オフィス・オートメーションを指向した情報機器の研究を開始することとした。現地技術者の協力も得て、まず日本語ワードプロセッサを取り上げた。
日本語ワードプロセッサ
この研究を取り上げた動機の1つは、当時の日本のこの分野の技術が極めて断片的なものでしかなかったこと、もう1つは中研での日本語情報処理の研究が弱体化したこと、であった。これからが正念場という時期に、これでは将来に禍根を残す。私はとっさに、この技術をアメリカで育てることに決意したのである。
やるからには従来のようなアプローチでは駄目で、徹底してやる必要がある。考えられるすべての機能を網羅して、たとえ細くてもいい、最初から最後まで一本筋を通そう……。私たちは装置設計に取りかかった。
昭和54年春、私たちに1つの転機が訪れた。私は副社長兼財務担当として株券にサインし、私たちの支所は、HISL Inc.というアメリカの会社として独立したのである。そして数ヶ月して私たちの装置は完成した。日立にとって、日本語ワードプロセッサと呼べる初めての装置であった。
この装置開発では、変換された候補文字をテンキーイメージで2次元状に配置して表示するという、表示選択方式の巧妙なエディタを作った。ワンチップ・マイコンによる音声合成を完成し、ワードプロセッサに世界最初の読み合せ機能を実現した。当時、それぞれ現地の小・中・高校に転入していた息子と娘二人の応援を得て、日立で初めての電子辞書を作った。これは、日本語を忘れかけた子供たちにとっても、漢字に接するよい機会となった。
私たちはさらに、ベタ書き入力の自動かな漢字変換という、この分野では最高に難しい技術にも挑戦し、まがりなりにも実現したのである。もうワードプロセッサで研究的にやることはなくなった、やるべきことは全部やった、というのが当時の私たちの実感だった。
太平洋は広かった
この研究の過程で私たちはいろんな手段でこの技術を日本に紹介した。しかし、なかなか手応えはなかった。太平洋はやはり広かった。そのため、その年の秋、私たちは、別途開発していた音声合成装置、音楽作曲装置などとともに持ち帰って、中研での研究発表会で展示したのである。
この技術は社内のあちこちに大きな反響を呼んだ。そして、その後、中研で発足したプロジェクトに引継がれ、この技術にさらに磨きが掛けられた。担当工場も決まり、関係者の努力でとうとう製品化へとこぎつけることができた。
アメリカでの研究には、日本にはない幾つかの利点があった。そこは常に「実業」家が尊敬される社会であり、口先だけの「虚業」家はもともと不要であった。私たちの着想や新概念の案出は、アメリカ人には常に興味を持って迎えられたし、一たん迎え入れられると大きな協力が得られた。敬語のない英語での議論は、ときどき脱線しつつもよく深夜にまで及んだ。そして常に実り多い議論となり、仕事もはかどった。その後も私たちは「実業」家として、知識処理の研究、個人識別の研究、カラー図形エディタの研究などを完成していったのである。
アメリカ滞在中の思い出は数多い。なかでも新しい人との出会いは、私たちの家族にとって常にドラマチックであった。土砂降りの雨の中、困惑した子供たちに手を差しのべてくれた人、気持よく子供たちへの英語教育を申し出てくれた婦人、ハープシコードの家庭音楽会に招待してくれた夫婦、キャンプ地で動かなくなった車の修理を手伝ってくれた人、休日にもかかわらず駆けつけてくれた医者、等々……。これらの出会いを、私たちは決して忘れない。
そして昭和56年初夏、私は帰国の途についた。ほぼ4年近い月日が流れていた。留学時代も含めると、それまでの人生の1割、会社生活の2割以上をアメリカで過ごしたことになる。この間に子供たちも大きく成長した。
HISL Inc.のパーティでの挨拶
(昭和54年)
ワードプロセッサを
中研研究発表会で展示説明
(昭和54年)
アメリカ生活での一こま:
隣家のガテリン夫妻らと。
(昭和56年)
主管研究員時代
新たな課題への挑戦
アメリカ滞在を終えて帰国した私は、再び中研の地で、主管研究員として、また画像処理を専門とする元の研究室の室長として、研究活動を再開することとなった。この頃の研究室には、次のような3つの大きな課題があった。
第一は、工業用画像処理の研究である。この分野は私たちが世界に先駆けて開拓してきた分野ではあったが、さらに広範な普及を目指すには、低コストで高性能な工業用画像処理装置を実現する必要があった。そのためには、主要回路部のLSI化が必須となる。そこで画像処理用LSIの設計と、それを用いた工業用画像処理装置の開発を開始した。
第二は、図面認識の研究である。これは、設計者が描いた設計図を計算機に自動的に入力しようとするもので、オートディジタイザと呼ぶ装置の開発とその応用を目指すこととした。
第三は、傷認識の研究である。画像処理の応用としては、おそらくこれ以上に難しい課題はないのではないかと思われるものとして、半導体ウェハの外観検査の問題があった。これは、私たちにとって長年心の奥底に染み付いていた懸案の技術であった。そのため、いよいよ手法の検討に挑戦することとした。
画像処理LSI
工業用画像処理の研究では、4種類の画像処理LSIの開発を行うことになった。そのうちの1つは、日立の日立研究所(以後、日研と略称)との共同プロジェクトとして計画したもので、いわゆる局所並列型積和演算回路であった。ISPと略称されたこのLSIは、世界最初の画像処理専用LSIという評判をとり、のちにIR-100賞と社長技術賞とに輝いた。
また、このLSIを用いた汎用の画像処理装置 HIDIC-IP シリーズが、日研の仲間たちの手で工場より製品化され、社内外の生産自動化の用途で大きな効果を発揮した。このように、共同プロジェクトを通して長年にわたる私たちの経験を吸収した日研の仲間たちは、その後、社内でのもう1つの画像処理研究の中枢として、大活躍することとなったのである。
私たちは引続き、さらに新しい超高速の信号処理LSIの開発にも挑戦し、これを64個並べた並列型画像処理装置を試作した。これは当時としては世界最高速の画像処理装置であり、この時のLSIは、その後、日立の信号処理ビジネスを展開する上での基本アーキテクチャの1つとして、大きな貢献をすることとなった。
名誉ビジタ
この頃メキシコから、IFIP(国際情報処理連合)主催の国際会議への招待状が届いた。工業用画像処理についての講演依頼である。妻も久しぶりの海外旅行というわけで、一緒にメキシコシティへと旅立つことにした。学会はメキシコ2番目の都市グアダラハラで行われたが、当時は通貨事情の激変期でもあったため、ホテル代は驚くほど安く、快適な旅を味わえた。
会議の晩餐会では、遥かな東洋の、神秘の国からの訪問者ということと、夫婦連れという理由で、まさに私たち夫婦が日本を代表する形になった。アトラクションとして出演した民族衣装のモデルたちと一緒に、新聞社の写真に収まったりしたものである。しかし、その後、実際に新聞に掲載されたかどうかは定かでない。
ところが帰国後のある日、思いがけずもグアダラハラ市から大きな封書が届き、中に賞状らしきものが入っていた。そこには、私の苦手なスペイン語で、市の名誉ビジタに認定するというようなことが書いてあり、市長のサインがあった。近所に住むメキシコ人に見せて話を聞いたところ、大変名誉なことらしく、次の訪問時には多分歓待してくれる筈だという。しかしまだそのチャンスは残念ながら巡ってきていない。
オートディジタイザ
図面認識の研究では、LSIセル図と称する手書き図面を対象として、これを自動認識する装置の開発を進めていった。そして、初めてのカラー・オートディジタイザとして完成した。このような図面認識の研究も、わが国が世界に先駆けて開拓した分野であり、この装置の開発でもIR-100賞を受賞することができた。しかしながらセル図への応用は、その問題の難しさから、残念ながら断念せざるを得なかった。また一敗地にまみれたわけである。
私たちは図面認識の次の応用として地図に着目し、この新しい技術の展開を図ることを考えた。折りしも、ある地図会社に、手書きで作図した地図原図を計算機に入力するニーズがあった。私たちは、製品化したオートディジタイザを、紆余曲折の後、ようやくここに納入することができた。
メキシコから届いた
名誉ビジター認定証
(昭和58年)
100大 新製品・新技術賞
「IR-100」の楯
(昭和49,59,60年)
伏兵現わる
新しい市場の創造を夢見て、市場一番乗りを果たしたつもりであったが、思わぬ伏兵が現れた。あるベンチャ企業である。彼らは、ベンチャであるがゆえに極めて小回りが効き、次第に市場に旋風を巻き起こしていったのである。
私たちから見れば技術的に不可能と思われることでも、彼らの機械では実現出来るということで果敢に宣伝していた。私たちも、対抗上、ときには大風呂敷を拡げたい誘惑に駆られたが、やはり技術には忠実にという基本方針を堅持することとした。そして、出来ないことは出来ないとはっきりと顧客に言ってきた。そのためまだそれほど大きくない市場の大半に食い込まれ、先の地図会社からの2号機の受注さえも、とうとう彼らにやられてしまった。
私たちはしかし、口先の優位性ではなく、実力の優位性を判ってもらえるようにと、根気よく顧客の信頼回復に務めてきた。そうこうしているうちに、ベンチャ企業の機械は、その後、採用したどの企業でもお蔵入りとなっているらしいという噂がたち、やがて地図会社の3号機が再度私たちのところに発注されるに至った。ようやく苦難の時代を乗り越えたという感じがしたものである。
そして翌年には、オートディジタイザとともに、その電子回路部を流用して作った地図編集用の多数の特製ワークステーションを納入することができた。既にお蔵入りの2号機も、何とか私たちの手で動かして欲しいという特別の依頼が顧客からあったが、ベンチャ企業の機械を信頼度よく稼働させる自信はなく、これは丁重に断らざるを得なかった。
このようにして図面認識の研究がかなり進展してきた頃、カナダの大学から、モントリオールでのパターン認識国際会議で招待講演を頼みたいとの連絡が入った。早速それまでの図面認識技術を総括した論文を書き、勇躍カナダへと旅立った。会議では1時間の持ち時間をフルに使い、日本で展開されたこの新しい技術について詳細な説明を行った。
ロボット研究会議ISRR(京都)
での記念写真
(昭和59年)
記念講演
視覚とマニピュレーションを中心とするロボット技術の研究開発は、この頃になるとあちこちの大学、研究機関、企業でも活発化していた。そのため昭和58年1月、我が国のロボット関係の研究者が集まって、日本ロボット学会が設立されることとなった。私もその発起人の一人として参画し、設立総会では記念講演を行った。このときの講演要旨は、翌日の日刊工業新聞に写真入りで大きく報じられたりしたものである。
ところでこの年の秋、私の母校である武生高校から、創立85周年の記念行事の一環として講演を依頼され、久しぶりに故郷に帰ることとなった。今まで何度となく発表や講演を行ってはきたが、高校生に話すのは初めての経験であり、どのような言葉で話しかけたらいいのかさえ見当がつかなかった。しかし折角の機会でもあるので喜んで引受けることとし、「私の歩んできた道」という題名で技術の面白さを中心に話すことにした。
高校時代の国語の教科書で習った徒然草、平家物語、ファウストなど数々の名作の断片は、30年近くたっても空で暗記していたので、ついでにこれらも紹介した。また、同じく暗記しているものの1つとして、私の人生に大きな影響を与えたと思われるホイットマンの詩集「草の葉」から、「改造が要望せられるか、しかしてそれがあなたによってなされるのか、改造が宏大なものであればあるほど、それを成就するためのあなたの個性も宏大でなければならない」という一節を紹介し、高校時代にいい言葉に出会いなさいということを話の結論とした。
約千名という極めて大規模な聴衆であったが、皆、先輩の話によく耳を傾けてくれた。その中には、私の姪もいたし、あとで知ったことだが私の同級生の子息たちも数多く含まれていた。同じくあとで知ったことだが、私の母も、学校に特別に頼んで聴衆に混じってうしろで聴いていたらしい。息子の講演を聴く最初で、多分最後の機会でもあり、私にとっては1つの晴舞台、母にとっても大きな思い出となったに違いない。
見えざる相手
この頃、新しい紙幣の発行が本決まりとなり、私たちはまた、新しい研究に取りかかることになった。新札の認識である。それまでに、既に千台を優に超える現金自動取引装置(ATM)が日本全国の銀行に納入されていたので、まずはこれらの装置の紙幣鑑別部を更新する必要が生じたわけである。私たちはさっそくその検討に取りかかった。
今まで数多くの認識技術を開発し応用してきたとはいえ、これほど困難を極めた研究もまた珍しかった。なぜなら、認識する相手である紙幣をまだ誰も見たことがないのである。人間が見たことのないものを機械が見えるようにするのは並大抵ではなく、また前代未聞でもある。発行はたしか昭和59年11月1日と決定した。紙幣はその日になればいくらでも手に入れられるが、同じ日には千台を超す私たちの現金自動取引装置も一斉に新札を認識出来なければならない。この装置の実現のため、私の研究室から2名の仲間が工場へと転勤していった。
私たちは、彼らと綿密な連絡をとりながら、あらゆる方策を練って新しい認識アルゴリズムを考えた。一方、各種の協会を通して、発行前に紙幣を貸してもらえるよう所轄官庁へも積極的に働きかけることとした。しかしこれはなかなか実現しなかった。日は刻々と過ぎ、むなしい研究が続いたが、それでもアルゴリズムの中にあとで実験的に決定する多くのパラメータを仕組んでおくことにして、理論的には千兆分の1という誤認識率の、極めて信頼度の高い方式を作り上げた。
切り替え成功
パラメータは未定であったが、幸いなことに、当局もことの重大さに理解を示してくれ、紙幣を貸し出してくれることになった。とはいっても、その施設内だけに限られる。ベニヤ板で仕切った体育館に、各社がそれぞれの試作装置を1週間単位で持込んだ。朝9時に貸し出される紙幣を用いて実験し、夕方4時には返却するということを繰返しながら、その間にパラメータを決定していった。これによって鑑別装置が完成し、既に稼働中の顧客サイトのすべての現金自動取引装置の改造を、新札発行日直前に完了することができた。
この新しい装置は、新旧7券種を安定に識別出来る会心の作となった。約6年前の最初の製品化プロジェクトの際に、予備技術として開発してあったある特殊なセンサ方式が、この時初めて実用されたのである。これはまさに「本物」ではあったが、最初の開発時には革新的過ぎて実績がなく、またコストの面でも採用しきれなかったものである。もしこの素晴らしいセンサ技術が前以て開発されていなかったとしたら、事態は大きく変わっていて、もっと四苦八苦していたに違いない。やはり本物が最後には勝利するということであろう。
とにもかくにもうまくいき、新札発行日を迎えた。すべての改造機は順調に稼働し、新札切り替えによるトラブルは皆無であったため、顧客から大きな信頼を得ることとなった。あとで聞いた話だが、競争相手であるいくつかの有力会社は、その改造に失敗し、以後何ヶ月か、いろいろとトラブルが続いたとのことであった。
地図への展開
図面認識の研究は、次第に地図への傾斜を増していった。地図を単に計算機へ自動入力するだけといったものではなく、計算機の中で地図を高速に取り扱って、地図からいろいろな情報を引き出す技術の開発へと研究を進めていった。地図にいろんな属性情報を付加して、地理情報システムとして構築しようというわけである。
とくに電力会社では、送電線のメンテナンスや顧客情報の管理に地図を積極利用しようという動きが顕在化してきたし、自治体の上下水道局などでも、既設の水道管の管理や新規の敷設計画などに利用しようとする機運が高まってきた。
そのため、私たちは、再度試作した新型の小型オートディジタイザを武器に、各方面で技術のデモンストレーションを積極的に行った。その頃には数多くの会社が製品化に名乗りを上げていた。
あるとき、ある顧客から、引合いに伴う技術コンクールがあった。このときに私たちの装置は、並みいる他の競合メーカーの装置を押さえ、トップの座を占めることができた。先方指定の極めて複雑な地図を、1秒で表示するという快挙を成し遂げ、技術的には他を完全にリードしていることが判明したのである。要求性能を満たす唯一の装置という評価ではあったが、顧客の都合で残念ながら受注には至らなかった。
地理情報システムによる
地形プロファイルや景観の創生
(昭和60年)
熾烈な競争
このような経験を積みつつ、少しずつ前進を図っていったが、ちょうどそのころ工場からの強い要請があって、上下水道の管理を目的としてこの技術を製品化することとなった。私たちは工場に協力し、アクアマップ(AQUAMAP)という商品名の製品を完成させたのである。この装置は、おもに地方自治体向けの、地図処理用ワークステーションを主体とした地理情報システムであり、いくつかの市で採用される運びとなった。しかし、期待に反し、今1つ売れ行きにはずみが付かなかった。
そうこうしているうちに、ある事件が新聞に大きく報じられた。ある地方中核都市で起きた地図処理ソフトウェアの1円応札事件である。私たちは、仕事の量と質に応じた適正な見積りをまじめに提案していたが、中にはこのような1円で落札しようとする動きがあり、それが明るみに出たのである。そのあとに大きな受注が控えている仕事だから、最初の仕事は損をしてでも受注して、あとの受注を有利に運ぼうとするもののようであった。私たちがなかなか受注できなかったのも道理であり、この事件によって、熾烈な競争の裏の実態を初めて知ることとなった。
ところでこの事件は、情報処理分野における「ハイテク技術の過当受注戦争」という位置付けで連日新聞に報じられた。そのため、それまで社内ではあまり理解されていなかった私たちの地図処理の仕事が、ようやく先端ハイテク技術の1つとして社内でも認知されるようになってきた。
そしてこの事件を契機に、逆に日立の真摯な仕事ぶりが認められることにもなり、私たちの装置をさっそく導入してくれる市も現れたりして、私たちを歓喜させてくれた。また、この研究で培った地図処理の技術は、その後カー・ナビゲーション装置の開発や、防衛庁向けの地理情報システムの開発にも大いに役立つこととなり、顧客からも大変喜ばれた。
水道施設管理などに用いる
地理情報システム
AQUAMAP
(昭和63年)
優秀論文賞
ところで傷認識の研究は、私たちが先鞭を付けた分野であって、過去に完成したプリント基板の自動検査装置がその原点となっている。そこでは特徴的なパターン部分を抽出するとか、良品のパターンを参照してパターンの差異を見つけるという方法が一般的であった。しかしながら半導体ウェハは、数多くの層からなる複雑なパターンのため、このような従来知られている方法では解決が不可能であった。
そのため私たちは、おおもとの設計データを基準とする新しい方式を採用することとし、比較対象となる基準パターンを設計データから実時間で作り出すこととした。この方法は、それ迄に蓄積してきたハードウェア技術によって大変うまくいき、傷認識問題で「設計パターン参照型」と呼ぶ新しい技術の流れを作り出すこととなった。
LSIメモリの外観検査装置
(昭和60年)
このようにして社内の半導体工場向けに開発したICウェハ検査装置やLSIメモリ検査装置は、昭和60年には工場で稼働開始され、1メガビットメモリなど、当時の半導体新製品の開発立ち上げに大きく貢献した。また、このときに発表した半導体ウェハ外観検査のアルゴリズムに関する私たちの論文は、電子情報通信学会からの優秀論文賞に輝いた。
その後この技術は、もう1つの画像処理研究の中枢に育っていた日立の生産技術研究所(以後、生研と略称)の仲間に引き継がれ、次世代型の新検査装置として結実した。これは社内の数工場で続々と採用されるベストセラー機となり、その後の4メガビットを初めとする高密度メモリの開発の基盤技術として大きな貢献をした。
主管研究長時代
執筆活動
この頃私は主管研究長という職を拝命し、それまでの研究室長の役を辞することとなった。昭和62年のことである。今までとは一段高い立場から、研究所全体に目を配りつつ研究指導を行うという役割になったわけである。幸いそれ迄の室長時代と違って、自分自身の時間もある程度持てるようになり、心に余裕も湧いてきたため、今までの技術や知識を体系化し、本にすることを決心した。大学時代に見付け、私の入社のきっかけとなった日立の技術者のポンプ工学の本と同じように、私の本を見て入社してくれる若い人が出てきてくれれば、という願いもあった。
すでに3年ほど前に、「ロボット工学とその応用」という本を大阪大学の辻三郎先生とともに監修執筆した経験があったので、今度は一気に書き下し、ある出版社から発刊してもらった。ここは大学での教科書などを専門とする出版社のため、題名1つにしても教科書的な感じを出すよう要請されたが、このときは無理を言って、私のこだわりとしての「工業用画像処理」という、まったく教科書的ではない題名で我慢してもらった。
このような理工学図書は、一般に千部も売れればよく売れた方で、出版社としてもこれでもとが取れるような値付けをするらしい。題名で我を張った責任もあって、千部以上売れるかどうかに気を揉んでいたが、私の以前の上司で、当時、技術研修所長をしておられた方のお骨折りで、幸い社内でも特別斡旋販売されることとなった。関連会社を含む社内だけで2千部も購入していただき、いまさらのように日立の大きさが実感されたものである。社外を含めるとさらに倍近い売上げが達成され、私としてもようやく肩の荷が降りた感じがしたものである。
ちょうどそのころ、早稲田大学での情報処理の講義に加え、東京工業大学でも非常勤講師を頼まれて人工知能概論という講義を持っていた。折角の機会でもあるのでその講義録を「人工知能」という本にし、同じ出版社から発刊することとした。これも幸い好評で、いくつかの大学から教科書として採用されるに至った。また、のちに「マシンビジョン」という題名の本も出版し、さらに英語による「Machine Vision」という本もアメリカの出版社から刊行した。初めての大がかりな英文の執筆であったが、夜と休日を主に振りあて、終始愉快な時を過ごすことが出来た。
執筆した本の例
(昭和59~平成2年)
注目された発表
この頃、アメリカのミシガン大学で開催されたパターン認識のワークショップに招待を受けた。折角の機会でもあったので、先に開発した傷認識のアルゴリズムを知識処理の観点から解釈し直し、新しい視点での論文発表を行うこととした。
この時の1時間にわたる私の英語の発表は、自分でも信じられないくらいの上出来で、いつもは表現法を忘れて戸惑う局面も結構あるのだが、このときには、講演中に聴衆から遠慮なく飛んでくる質問に実時間で回答しながら講演するという、初めての会心の講演となった。誰でもそうだと思うが、英語が口からよく出る日と出ない日とが周期的にあるらしく、この日はおそらく最高の巡り合せであったに違いない。この時の講演がもとで、のちにまた別の会議にも招待されたが、その時は日の巡り合せが悪かったせいか、あまりいい出来とは言えなかったようである。
ところでこの知識処理に基づく傷認識技術の発表には、カリフォルニアのある会社からも、わざわざ数名が聴講にきていた。この会社は世界唯一の外観検査装置メーカーであり、日立を除く世界のすべての半導体メーカーがここから検査装置を購入していたのだから、先方から見れば日立が独自のものを持っているのは明らかであったし、事実私たちの過去の論文もかなり綿密に読まれていたらしい。
帰国後暫くして、そこの副社長が私に会いに日本へやってきた。日立が私の発表した装置を市場に出す予定かどうかをさぐるのが目的であった。もし外部に販売するとなると、当時の彼らの装置は、性能的にひとたまりもないことは明らかであった。そのため、彼らにとっては最大の関心事だったらしい。もともと当時の私たちには、社内用途で精一杯で、外部販売の意志はまったくなかった。そのため、性能のいいものが出来れば私たちも購入するであろうということを伝え、安心させたものである。今ではこの会社はこの分野での巨人に成長している。
ところでこのようなことがあった反面、当時、あるアメリカの有力な半導体メーカーが、「自分のところのいい装置を、独占して外に出さないのはけしからん」と日立に不満を言っていたらしい事実も伝わってきた。これはしかし、まったく筋違いの不満であって、努力もしないでいい装置を手に入れようという方が、よほどおかしい。出せば出したで混乱するだろうし、出さなければ出さないでまた非難されるというように、日米半導体摩擦を背景としたまさに難しい時代であった。
特許文書の処理
この頃、特許庁の審査の高速化・高効率化が話題の1つとなっていて、電子出願方式への切り替えが予定されていた。そのためこの動きに対応し、過去の特許を高速に検索して審査に役立てるための、審査支援装置の研究プロジェクトを発足させた。研究室長時代はもちろん、室長を辞めてからも引き続き私がそのリーダを務め、2種類の装置の試作を行った。
その1つはサーチステーションと呼ぶ審査官用の文書端末である。ここでは、A4版の記事がそのまま表示出来るディスプレィを2個備え、2個が1つの画面としても機能するような新方式の画面制御を実現した。たとえば一方の画面に出願された特許を、他方に検索された既出願特許を表示して比較審査できるが、その際、2個のディスプレィ間に跨って、これらの表示ウインドウが連続して自由に移動できるようにしたものである。この装置は、事業部や顧客の興味を引くところとなり、まだプロジェクトが終わらないうちから多数の受注が決定するという快挙となった。
もう1つは、多数の磁気ディスク装置を並列に組み合わせてマルチ型磁気ディスク装置として構成したものであり、今でいうRAID装置のはしりであった。ここに特許文書情報を分散記憶させて、新型の全文検索方式によって高速に必要な特許を検索するという、新鋭の文書検索用サーチマシンである。この装置は、高速文字列検索についての私たちの基本特許に基づき実現されたもので、例えば新聞1年分の記事を記憶させておくとすると、その一字一句をすべて電子的に読んで、キーワードに合致した記事を1.5秒以内に検索表示するという、当時としては驚異的な性能の機械であった。この装置は、当時、TVニュースにも取り上げられたし、またビジネスショウなどでも世の中に広く紹介されたが、最近ではさらに機能・性能を向上させたソフトウェア製品としても実現されており、幸い好評と聴いている。
恩師との再会
このような仕事の合間にも、いろいろと外国出張の機会があった。カーネギーメロン大学との人工知能に関する共同研究の打合せや、マサチューセッツ工科大学とのメディア情報処理の委託研究の打合せのほか、本社からの依頼で、気まずくなったある大学との関係を修復し、将来の共同研究の可能性を探るための緊急訪問などであった。
このような旅の帰路を利用し、あるとき、その昔私がイリノイ大学に滞在していたときの恩師であるスターク先生をカリフォルニア大学バークレイ校に尋ねた。20年近くもの長い間、不義理をし、無沙汰を決め込んでいたため、多分お叱りを受けるものと覚悟していたが、ご自慢のオープンカーを駆って山中の自宅まで案内してくださり、大変な歓待を受けた。私が無沙汰を決め込んでいた20年近くの間にも、私が発表した論文を通して私の活動ぶりを暖かく見守ってくれていたらしい様子が言葉の端々から感じられ、どうしてもっと早くから連絡をとっていなかったのかと、余裕のなかった過去の自分を恥ずかしく思ったものである。
このようにして再会した先生を、ほどなく再度訪問する機会があった。訪問して初めて、研究棟の何個所かに、ある掲示が出ているのに気付いた。「日立中研の江尻がセミナーを開く」というものである。中には、はるばるパロアルト付近から、このセミナーのためにやってきた研究室OBの参加者もいたりして、OHPはもちろん、何の心の準備もなかった私は一瞬戸惑ったものである。当時やっていた外観検査のためのパターン認識技術の話を急遽黒板を使ってやったが、幸いにも好評だったことを覚えている。このときセミナーに参加した学生の中に、その後NASAのジェット推進研究所に就職した人がいて、数年後、日立の機械研究所(以後、機研と略称)での国際会議にやってきて、久しぶりに偶然の再会を果たすこととなった。縁とは不思議なものである。
複数の磁気ディスク装置を
並列化した文書サーチマシン
(昭和63年)
カリフォルニア大学
バークレイ校にて
恩師スターク教授と。
(昭和63年)
フェローへの道
確かこのときのことだったと思うが、私には別の訪問目的があった。IEEE(アメリカ電気電子学会)のシニアメンバになるために、スターク先生に推薦書を書いてもらおうというものである。快く引き受けていただき、すぐその場で推薦書に推薦理由を記入し署名して頂いたが、そこに書かれた文章を見て私は驚いた。「この男はフェローの価値がある。だから当然シニアメンバの価値がある」というものであった。そして2年後にまた来るようにと言われた。IEEEの規則では、シニアメンバとして少なくとも2年経過したあとでなければ、最高位であるフェローに選出される資格がないのである。2年後にまた推薦してやるということであった。この由緒あるフェローの称号は、当時の私にとっては夢のまた夢であった。夢が一歩現実に近付きつつあることが実感された。
そして2年後、私はまたバークレイに立ち寄る機会があった。そのときに受けた指示に従い、推薦原稿用紙をIEEE本部から取り寄せ、早速必要事項を記入して先生に送った。多忙な時間の合間を縫って、以降の複雑な推薦手続をすべて取って頂いた。平成元年、私は待望のフェローに選出され、その認定証を手にした。私は歓喜した。日立の長い歴史の中でも、当時、まだ4人目ということで、いろんな人からお祝いの言葉を頂戴した。
(第3編につづく)
IEEEからのフェロー認定証
(平成元年)