「ピアノ協奏曲第5番の編曲と今回の演奏についての小文」南 聡
ピアニストの田中良茂さんから、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の室内楽版を作るプロジェクトに誘われたのは、2006年ごろだったろうか。上野の東京文化会館の食堂で、ピアニストの田中さん、音楽学者の西原稔さんとあと2名の在京の作曲家の方とともにこの企画のための最初の会合を持った。私が5番を編曲することになったのは、その時の出来事の結果であり、消去法的結果として、この曲になったにすぎない。当時、好んで聴くこともなく、たいしてこの曲に対する知識も少なく、スコアも綿密に見ることもなかった。そのため、確かにモーツァルトの例があるとはいえ、いくらなんでもこの曲を弦楽器とピアノの室内楽にするのは無謀なアイディアに思えていた。とりあえず、条件は弦楽四重奏ではなくコントラバスを加えた弦楽五重奏にすることでこの編曲を承知した。コントラバスが入ることでダイナミックレンジに重さと厚みの幅を持たせられるのでは、という漠然とした経験からくる期待がそうさせたのだ。そのため、通常の弦楽アンサンブルのセオリーのように、コントラバスがチェロと連動する部分は少ない。コントラバスの役割は、金管や打楽器などが加わったテュッティの重厚感をスコアに持たせることであった。
スコアは2009年の秋に第1楽章。その後、病気をしたため、作譜を手伝ってもらいながら翌年に冬に第2楽章、春から初夏にかけて第3楽章を編曲した。原曲のスコアを詳細に観察してただちに感じたことは、声部書法が明確でしっかりしているため、オーケストラを弦5部に還元することは、それほど無茶ではない、ということだった。そして、この曲の魅力は決して豪華でパワフルな壮大さを誇示したような外見的魅力だけではない、ということを知ることになった。ロマン派のいくつかの曲にみられる、こけおどし的な、まるで張り子のトラのような曲ではなく、健康的で美しい旋律と対位法の妙技に満ちているということだ。方針は決まった。この曲の魅力は「壮大さ」だけではないということを知らしめることを第一義としたのだ。
仕上がった室内楽版のセールスポイントは、スポーティな機動力の良さと、声部の透明度によって構築感を知的に聴取できる現代性ではないか、と感じている。初演のおりの評価もおおむね好評であった。しかし、この曲がより幅広く普及するのに一役かうことができるか、というと顔をしかめて首を横に振ることを選択するしかない。この編曲版は、確かに少人数の小規模な空間でこの曲を演奏することを可能にした。だから易しければ問題はなかった。ところが、この編曲の処方は交響的な大協奏曲という大きな内容を室内楽という小さな入れ物に入れることである。その結果、演奏家個々に降りかかる音楽的密度は相当だ。このことが、かなり優れた弦楽奏者たちでなければ様にならないという、演奏難易度の高い楽譜になってしまい、「普及」の二文字を遠のかせた、と感じている。初演のエクセルシオ弦楽四重奏団は日本屈指のカルテットである。彼らだからこそ、という表現の多彩なニュアンスやピュアな響きは数多くある、と市販されたCDを聴いて感じた次第である。
今回この室内楽版の弦のパートを複数の人数にした弦楽合奏版を、アルスが演奏することになった。実は編曲するに際して、弦楽合奏版のことは考えていなかった。しかし依頼者の田中さんは身近に触れる距離で幅広く普及できることを望んでいた。この依頼者の望みは、私に弦楽合奏版の可能性も承諾させることになった。多分ピアノと弦のバランスはより取り易くなるであろう。ゆえに多少各パートの負担は楽になるかもしれない。しかし、弦の合奏体となると、エッジの利いたシャープさより、より厚みのあるまろやかな表情が出るため、本来の管打楽器を持つオーケストラに類似感が出てくるかもしれない。そうなったとき、視覚的類似性も手伝い、違う版による異なる曲の姿の強調は薄れ、聴きながら本来のオーケストラ版を感知してしまい、不満を感じる聴衆がいるかもしれない。今回のアルスの挑戦は、この問題をクリアできるかに勝算がかかっていると言えそうだ。そこで私としては、ここはベートーヴェンの創意と曲の持つ巧妙さを味わってもらえるようなアプローチで、とお願いしたいと思っている。そのためには、弦楽という音質の同質性からくる響きの調和感を活かした、室内楽的アンサンブルの精妙さを残せる限界値間際のダイナミックスの表現ができるか、ということだろうと思うし、期待もそこにあると言える。
この曲の独奏ピアニストは、個人的に視覚的印象として男性のほうが好きだ。もちろん、多少線の細い音質の女流ピアニストでも、オーケストラに金管楽器がいないので、かき消されたしまう心配は全くないのだが、自分の主観的なイメージとして、どうも女流ピアニストのカラフルにデコレイトされた華やかなドレス姿と、この音楽の持つ質が似合う感じがしないのである。そこで、北海道教育大学岩見沢校を今年卒業する星君にお願いすることにした。彼ならば、幅広いダイナミックスレンジとシャープな響きによって音楽をしっかり引き締めて、清新な魅力をこの楽譜に降り注いでくれるに違いないと思っている。今から楽しみである。(2014年1月20日記)
L.V.ベートーヴェン(1770-1827)
■ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」Op.73(南聡編曲 弦楽合奏版)
ベートーヴェンの残した最後のピアノ協奏曲であり、演奏時間、編成共に盛大の規模を誇る作品である。『皇帝』という表題で広く親しまれているが、これはベートーヴェンが与えたものではない。華やかな楽想や主題そのものの持つ線の太さがあたかも皇帝ナポレオンを連想させ、それが定着したのではないかと推測される。この曲が書かれた1810年前後はナポレオンがウィーンに進撃した時代であり、第1楽章の軍楽隊のような雰囲気からもその時代の空気が感じられる。
第1楽章 Allegro 変ホ長調 序奏では、オーケストラの壮大な和音を受けて独奏ピアノがカデンツァ風のパッセージを展開する。当時の協奏曲におけるカデンツァは、曲ないし楽章の終盤に設けられるのが通例であった為、このような手法は他に例を見ない大胆な試みであった。終盤のカデンツァも演奏者の即興に委ねるのではなく、ベートーヴェン自身による短いものが作曲されている。また、カデンツァによって楽章を締めくくるのではなく、その後に長大なコーダが続くというのも、従来の作曲手法とは異なる試みである。
第2楽章 Adagio un poco mosso ロ長調 自由な変奏曲形式を持つ緩徐楽章。主調が変ホ長調であるのに対し、ベートーヴェンはこの楽章にロ長調を配置している。この調の配置は古典的な手法では極めて大胆であり、他に例を見ないものである。最後に劇的な転調を迎え、切れ目無しに3楽章へと突入する。
第3楽章 Allegro 変ホ長調 豪快で力感に溢れた華やかなフィナーレ。先の楽章で現れた主題がffで爆発的に開始され、ロンド・ソナタ形式を形成していく。コーダ終盤、コントラバスが同音で伴奏する中で独奏ピアノが静まっていく部分が印象的である。 (ピアノ独奏 星洋樹)
■弦楽四重奏曲第16番ヘ長調Op.135(弦楽合奏版)
1824年に「第九」の初演を終えたベートーヴェンが、人生の最期に取り組んだのが、このOp.135を含む5曲の弦楽四重奏曲だった。最初の3曲が依頼されたものだったのに対し、残りの2曲、Op.131と135はより自発的に創作に取り組んだと言われている。
死の前年の1826年に書かれ、ベートーヴェン最後の完成作品となったこの2曲は対照的な性格を持つ。Op.131が悲劇的な曲想なのに対し、Op.135はまるでコメディーのようだ。
第1楽章。さまざまな楽句が途切れ途切れに現れ、曲想はコロコロと移り変わる。作曲当時のベートーヴェンは55歳。腹部には死をもたらした病・肝臓疾患の兆候が現れ、聴覚は若いころにほぼ失われたまま。さらに、作曲に取りかかった夏には、もっとも気にかけていた甥のカールの自殺未遂という事件も起こっている。にもかかわらず、この最後のカルテットはある種の軽みに染められている。
第2楽章。喜劇的なこの曲の中でももっとも気まぐれで「ワケの分からない」楽章だ。Vivace(ヴィヴァーチェ)という表記は第九の第2楽章を想起させるが、第九のほうはMolto vivace(とても速く、活発に)だから、それよりは遅いテンポを想定していたと考えられる(ただし、ベートーヴェンの速度表示には謎が多いので、どんなテンポをとるかについてはさまざまな議論がある)。短い楽章だが、起伏の激しさでは第九の第2楽章を上回るかもしれない。その最たるものが、中盤から50小節間にわたって執拗に繰り返される狂気の音型だ。第1ヴァイオリンの天を飛び回るようなリズムの向こうで、他の3声がひたすら地を蹴りつづける。まるで聞き分けのない子どものように。
第3楽章。良いことばかりではなかった人生を回想するようなしみじみとした旋律が、冒頭から第1ヴァイオリンによって奏でられる。一時は死の淵をのぞき込んだ彼が見た深い森の情景が浮かぶようだ。しかし、不思議とそこに深刻さは感じられない。むしろ、日の当たる仕事部屋で人生のあれこれを淡々と思い返すといったふうだ。そして、音楽の重心はいつしか他の声部に移る。まるで「人は決して一人ではない」と慰めかけるように。ベートーヴェンが共にした人生のパートナーとは、ついに結ばれることのなかった恋人たちか、戦争の英雄や哲学的な詩人たちか、それとも常に頭の中に鳴り響いてやむことのなかった「音楽」そのものだったのか。
「Piu lento.」(さらに遅く)と書かれた中間部の深みをさまよった後に開けた世界は、ある種の肯定感に抱かれている。慣例にとらわれず、どんな苦境にもへこたれなかったベートーヴェンの生き方、そして死生観を映し出す、この曲のハイライトだ。
第4楽章も謎に包まれている。各パート譜の冒頭には「ようやくついた決心」という見出しが掲げられ、この曲のテーマである二つのフレーズの譜例にそれぞれ「そうでなくてはならないのか?」「そうでなくてはならない!」という言葉が添えられている。これを、使用人の給料の額についての他愛のないやりとりなどとする説もあったが、最近の研究では、やはりある種の哲学的な意味が込められているという見方が有力のようだ。
それにしても、この楽章も軽い。「楽聖」と称えられた希代の革命的音楽家による188年前の音楽が、今も私たちを翻弄しつづける。しかしその謎こそがこの曲の最大の魅力であり、難しさなのだろう。
巨匠バーンスタインは、死の前年の1989年にこの曲の弦楽合奏版をウィーンフィルと演奏している(CDとDVDがある)。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲はさまざまな指揮者によって弦楽合奏版で演奏されてきたが、バーンスタインもことのほかこの曲を愛し、89年の演奏について「これまでで最高の指揮だった」と語ったとされている(ハンフリー・バートン著『バーンスタインの生涯』)。私たちも、ベートーヴェンが残した数々の謎掛けに挑みながら、この曲の魅力に迫ってみたい。 (Vn 仮屋)