コロナ禍もようやく収束し、日常が戻ってきました。コロナ下ではインターネット中継で演奏会を行う試みもみられましたが、プロの素晴らしい
演奏がインターネットでいくらでも聴ける今日、アマチュアのオンライン演奏をわざわざ視聴するかというと、それはないだろうと思いました。
では、アマチュアの存在意義とは何でしょうか。技量は当然プロより劣るわけですが、音楽や弦楽の響きが好きだとか、この作曲家が「推し」だとか、この曲がいいんだよねという気持ちはそれほど劣るものではないと思っていて、そういった気持ちの部分をお客さまに味わっていただくことではないかと考えます。
しかしそうした部分は、録音(音だけ)はもちろん、画面の中の映像でも伝わりにくい、やはりお客さまにホールに来ていただいて、音だけでなく、私たち演奏者の動きや息づかい、空気感などを一緒に体感していただくことでしか、アマチュアの存在意義はないと思い至りました。みなさまに弦楽の響きの面白さを味わっていただけるよう、今後も多彩な企画・演奏会を行っていきたいと考えていますので、引き続きご来場をお待ちしています。
当団は結成以来、基本的には指揮なしで、曲ごとに決めたリーダーを中心に意見を出し合いながら練習を進めてきました。しかし、音楽的な向上
を目指すため、数回に一度は指揮者やゲストコンサートマスターを招いた演奏会を行っています。本日は、まずバッハのシャコンヌをいつもの指揮
なしスタイルで演奏します。次に、近年札幌のアマオケの客演指揮を多くされている板倉雄司さんを指揮にお迎えして、エルガーの「序奏とアレグ
ロ」、オネゲルの交響曲第 2 番を演奏します。オネゲルの交響曲第 2 番は戦時に作曲されました。現代においても戦争はなくならず、悲惨な状況を見て暗澹たる気分になってしまいますが、この曲に表現されているように、平和への望みを持ち続けたいと思います。
1720年、35歳のバッハは、13年間連れ添い、4人の子どもをもうけた妻マリアと死別した。当時暮らしていたケーテンを2カ月ほど離れていた間の出来事で、自宅に戻った時にはすでに妻は埋葬された後だったという。
その後、同じ年に作曲されたのが、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータだ。6曲からなり、それぞれ4〜7の楽章をもつ。256小節、演奏時間15分に及ぶシャコンヌはパルティータ第2番の最後に置かれ、この曲集の中でも飛び抜けて規模が大きい。
最初に8小節の主題が現れる(小節の区切り方には諸説ある。下の譜例はその半分にあたる部分)。シャコンヌはもともと3拍子の舞曲で、2拍目に重みをもつのが特徴だ。この主題をもとにした30の変奏曲が続き、最後に主題に戻る。全部で32の変奏からなる構成は「ゴールドベルク変奏曲」と同じ。妻の死の直後に書かれた大作に、バッハの特別な思いが込められていたと考えても不自然ではないだろう。それだけに、この曲はクラシック音楽史上不滅の価値を持ち、他の楽器用に編曲されることも多い。齋藤秀雄による管弦楽版は小澤征爾もしばしば取り上げた。
今回演奏するのは19世紀後半のユダヤ系ドイツ人の女性作曲家、マリア・ヘルツによる弦楽四重奏版(CDも出ている)を元にしたものだ。ただ編曲版の演奏はどうしても音が厚くなりすぎるのが難点で、元来この曲が持つ純粋さやスピード感が失われがちだ。私たちの練習の過程でもその問題にぶつかったが、全体で演奏する部分と人数を絞って弾く部分を分けたり、楽譜をところどころ書き換えることで、原曲のイメージを最大限残すよう工夫した。
曲は悲しみを想起させるニ短調で始まる。ゆったりした主題がリズムパターンを変えながら変奏されてゆき、音価は徐々に細かくなり、やがてアルペジオ(分散和音)で極限まで増幅されて前半のクライマックスを築く。中間部では独奏チェロの旋律が慰めのニ長調へ導く。ここでも愛の嵐とでも形容すべきアルペジオで再び頂点へ上り詰め、元のニ短調へ。生を回想するかのように上行と下降を激しく繰り返し、主題へと還ってくる。壮大な音の旅の後にたどり着くのは永遠の死か、それとも輪廻だろうか。(仮屋)
Sir Edward William Elgarはイギリスの作曲家である。彼は幼い頃からピアノとヴァイオリンを習い、10歳を過ぎた頃から図書館の本で作曲を独学した。1899年に発表した「エニグマ」(ギリシャ語に由来し、「謎」を意味する)により彼の名前が世に知られ、その数年後に発表した「威風堂々」により国民的作曲家となった。「威風堂々第1番」は英国の第2の国歌とされており、今なおアメリカの多くの高校や大学の卒業式で使われている。エルガーがイェール大学で音楽博士号を授与されて以来、この曲が同大学の卒業式で演奏されたことがきっかけで、それ以降、全米の学校に広まったとされている。
「序奏とアレグロ」は、彼の代表作である「愛の挨拶」「エニグマ」「威風堂々第1番」などが作られた後の作品で、彼の作曲家としての存在がイギリス国内外で認知されつつある1904年頃の作品とされている。この曲は弦楽合奏曲に分類されるが、各パートの首席奏者によるカルテットと首席以外の奏者による弦楽合奏に分かれて演奏する、バロック時代の「合奏協奏曲」のスタイルを思い起こさせる形式で書かれている(下は本日の演奏配置図)。
この曲の聴きどころの一つは、カルテットが旋律を奏で、合奏が伴奏する部分、カルテットと合奏が呼応し合う部分など、両者の役割が曲の部分部分で変化する点である。また、弦楽合奏が各パート内で更に上下2パートに分かれていることも特筆すべき点で、多くの音が重なり合うことで重厚感が増し、荘厳な雰囲気を醸成している。
序奏は、哀愁を帯びた情熱的な冒頭のフレーズで始まり、やがて曲の中に複数回出現する主題(エルガーがウェールズ地方を訪れた際に聴いた民謡が元になっていると言われている)がヴィオラによって歌われる。アレグロの部分はソナタ形式をとっているが、展開部ではフーガ形式を用いた全く別のテーマが出現する。ト短調で始まった曲は、アレグロの部分でト長調へと変化し、劇的に曲想を変えながら、壮大な雰囲気を持つフィナーレに向かう。(柿﨑)
アルテュール・オネゲルは19世紀前半、フランスを中心に活躍した作曲家です。代表作に機関車をモチーフとした交響的断章「パシフィック231」があり、劇場音楽・室内楽・映画音楽など、バラエティに富んだ名曲たちは、世界体制・産業・科学技術・思想などが大きく変化した激動の時代を反映していると言えるでしょう。そして、今回演奏する交響曲2番は、その時代とは切っても切り離せない、世界大戦の影響を色濃く受けています。
彼が本作を完成させたのは1941年、ちょうどパリがドイツ軍に占領されていた時期です。曲全体に、戦争の当事者とならざるを得なかった人々の心境が感じ取れます。
第1楽章 陰鬱なヴィオラソロが印象的な4/4拍子のモルトモデラートから始まります。そこから、疾走感と力強さが同居する2/2拍子のアレグロへ。どこに向かっていくかわからないフレーズの組み合わせが、不安や恐怖、怒りを感じさせ、聴衆の興味を誘います。
第2楽章 3/2拍子のアダージョ・メスト。不安定な動機の繰り返しが夢の中にいるような印象を与えます。不吉な音色が少しずつ厚みを増し、盛り上がりを見せる様は正に悪夢。頂点に達した後、急にコントラバスが現れます。不慣れな高音を響かせ現実に引き戻そうとしますが、夢から覚めても待っているのは厳しい現実。また夢の中へ戻っていき、慰めにも近いバイオリンのメロディや美しいチェロのソロが現れ、本楽章は終わっていきます。
第3楽章 6/8拍のヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ。スピード感に合わせて何かが飛び跳ね回っている印象を受けるのは、悲劇と喜劇の類似性を表しているのでしょうか? 混沌の末の盛り上がりが、背徳感を含んだ興奮を感じさせます。その中に現れるのが、トランペットとバイオリンのコラールです。本曲のトランペットの出番はこのコラールのみです。「交響曲」と題しながら頑なに弦楽器のみで構成されていましたが、最後に今までにない色彩を見せます。現実でも夢の中でも終わることのない絶望を覆してくれる希望の光なのか。しかし、伴奏は未だに混沌としています。希望と絶望と混沌が合わさったまま、フィナーレへと向かいます。(真鍋)