村瀬 学著 「自閉症 ―これまでの見解に異議あり!」(ちくま新書)
9月3日の朝日新聞読書欄で記者はこの本を次のように紹介している。《治療・訓練・高機能という言葉が並ぶ本については、該当児の親として心揺らしながら読んでは、しっくりしない思いを重ねてきた。この本で村瀬学同志社女子大教授の「自閉症研究者の尺度で見過ぎず、この生のあり方を理解・共感すること」という主張を読んで、視界が一段階、開けた思いだ。》 同じ思いでこの本を読まれた方も多いのではないだろうか。
村瀬氏は、昔の医者たちが創り出した「自閉症」概念をそのまま使い続けることに疑問をもっている。かつて『自閉症とは何か』(1984年 精神医療委員会)で小澤勲氏が提唱した批判点を継承し、「自閉症」が「自分とはまったく別の存在者」として論じられる風潮に警鐘を鳴らしたかったのだと思う。
村瀬氏には、小澤氏が「自閉症概念の混乱あるいは誤用、さらに差別語としての定着という事態は自閉症研究者の責任のらち外にあるのだろうか。筆者はこのような事態をもたらした少なくとも一つの源泉は専門家の自閉症論そのもののなかにある、と考えている。」と言い切ったことへの深い賛同があり、その小澤氏をしても「自閉症範疇化の中核症状は自閉である」としか表現できなかったことへの危機感がある。
村瀬氏はあえてそれを「ちえーのーおくれ」という彼流の表現で表し、一方向に早く進もうとしている文明の中で、むしろ豊かに「おくれ」を生きる人としてとらえようとした。村瀬流にいえば、カレンダーを覚えたり、複雑な路線図の駅名を覚え、小さいながらもひとりで電車を乗りこなしたり、という「ちえ」は、決して不思議な特殊能力ではなく、一般的な人の「ちえ」の地続きにあるという。そして同様に、文明の中の知的世界や社会機構の中で生きる限り、人は誰でも、最も進んだところからみれば「おくれ」を生きる存在なのだと指摘している。そんな村瀬氏が「この上なく大事だと感じてきたのは、このくらしのリズム、ゆっくりと動く世界に生きていると、たとえさまざまな『おくれ』をもった子どもがいても、あえて『おくれ』とは感じないときがあるという事実」であり、「『おくれ』は『関係』の中で『ふつう』として意識されることがあるのだ」「『文明(すすみ)』にとっての『おくれ』は『くらし』の『あゆみ』の中では『おくれ』にならないこともあるんだということを、もっと大事なこととして文明史的に考えてもらいたい」と結んでいる。
そういえば小澤勲氏は『認知症とは何か』(2005年 岩波新書)で、認知症には①医学的な基礎疾患と②そこに付随する中核症状、そして③二次的に生成される周辺症状がある、と説明したあと、③の周辺症状は大半が環境やケアによって改善できるものとしている。「できる人、金を稼げる人、常識や規範に沿って生きている人だけが尊重される世界」ではなく「規範と秩序の世界を超え出て透明な空気を身にまとったような雰囲気の」ケアや、「世間体などにはとらわれず、失敗してもとがめられない場」「一人ひとりの不自由を知悉した上での過不足ないケア」「暖かな人と人とのつながりが満ちている」「そのような場と関係」が作り出せれば認知症をかかえた人が「大変な不自由をかかえていても、生き生きとした安定した生活を送れるようになると確信している」という。
まさに一方向にすすむ文明社会にとらわれない場と関係つくりを小澤氏も村瀬氏も述べているのだろうと感じた。おそらく村瀬氏は通園施設勤務の現場で、小澤氏は認知症施設勤務の現場で、実際の体験をもとに、そんな「場」を知っておられるに違いない。小澤氏はそれを「虚構の世界」という呼び方で説明されているけれども、それもまたひとつの現実の世界であり、私達が活動でいつも求めているのは、そんな世界の存在をいろいろな人に知ってもらうこと、そして実際に体感してもらうことのような気がする。そして、それが同時に共にゆっくり生きる世界を現実の世界に引き寄せていくことに繋がっていくのではないだろうか。 (谷内)