自分を信じてやらなければ
誰が自分を信じてくれるだろうか
誰も信じないからこそ
自分を信じる人間になるのである。
ずうっと正しい事は出来ないと人は言う。
それこそ堕落である。
科学的にはずうっと正しい事はありうる。
なぜかと言えば
神がそういう自然を作ったからとしか言えない。
何回やっても同じになる。そういう実験があって
科学がある。
なんで科学が成り立っているのかは
神しかわからない。
だからずうっとやって正しくなる方が
現代である。
それを投げ出して誰がそれを信じるのか私には理解できない。
科学というものは
明らかに正しい事は続けられる。そう神が皆さんに背中を押している。
だから科学者は
科学という宗教を信じている面もあるように思う。
そういった所で
スポーツだろうが健康だろうが仕事だろうが
科学を取り入れてもいいんじゃあないかと思う。
ずうっと正しい事をやれなかったら
それこそ社会が成り立たない。
そういう危機感が必要である。
社会が成り立っているのは
みんな正しいことを続けられると思っているからである。
確かに失敗もあるかもしれない。
だけど
正しい事を続けたいと思わずして
仕事は出来ない。
それが出来なければ
村社会しかない。
そう私は思う。
だけど自然はそうなっていない。
何度繰り返しても我々に力を与える規則性が自然にある。
これは人間にとっても大きな要素である。
その規則性が続けられる要素である。
だから堕落する必要が無い。
そう私は思う。
//2015/01/31/part2
父から正しいとは何かが難しいと言われた。
何か科学とは違う話に聞こえた。
政治家の正しいと私の正しいと医者の正しいは違う。
それは本当に良くわかる。
でも私には正しいは一つのように思う。
それは自然が決める。
自然が受け入れてこそ正しいである。
いくら私の体をいじめようと
自然が決めてくれる。
私の体は不安定である。
いつか何が正しかったのか自然がはっきりすると思う。
私はそういった手前
私なりに正しい道を進むしかない。
私にとって自然が正しいである。
だから自然に合わない話は私は正しいと思えない。
そのためなら私は戦える。
そう思う。
//2015/01/31/part2 end
//2015/02/01追記
正しい事を継続するのと
仕事を継続するのとどういう違いがあるのか
私にはわからない。
仕事が成り立たないのに仕事は継続しない。
その仕事が正しいか正しく無いかは
正しい事は何かに等しい。
そのため正しいと思えることを
どちらもやろうとしないと継続しない。
どちらも結果的に間違っていたら
結果は残らない。
私は結果を残すのであれば
自然にまかせる選択を取る。
自然に正直になる。
自然のための仕事をする。
だから私にとって正しいとは
人そのものでは無い。
自然と共に私の信じる道を行く自然選択である。
そういう意味では
自然を信じている。
必ず自然は正しい方向を示すそう信じている。
なんでそう思うのかと言ったら
科学からして神様はそういう世界を作ったからである。
//2015/02/01end
<<追記
「人間は常に正しい事を出来ない。」
私はそれもやりようによってはうまくいくと思う。
判別出来ないと保留するのも人間かもしれない。
でも最善を考えた場合
まだ他にも方法論があるように思う。
そこらへんが頭の使い方のように思う。
文章にしているうちに見いだす事だってあるだろうし
議論しているうちに見いだす事だってあるだろうと思う。
ただ結構簡単に断定するのは難しい。
それはそれで確実かどうか慎重になるべきである。
私の場合結構無理っぽい事もホームページで書いている。
それは失敗してもいいやと思っているからである。
それもある意味現実になるには勇気がいると思っている。
それなりに信ぴょう性がないと出来ない。
何となくそれは今までの科学のおかげのように思う。
そういうよりどころを求められれば
「人間は常に正しい事が出来る」に変換できるのではないかと思う。
<<追記end
//2015/01/31
新規作成