<<追記2015/07/26
「混雑と待ち」読んでたら
日本の食料自給率が低いせいで
食料難になった時に世界の食べ物を高値で買い占める可能性がある事をあげていた。
だからこの本では日本自身が食料自給率をあげる努力が必要らしい。
なぜ故に他の先進国が食料自給率が高いのか私にはわからない。
今の現状を考えると日本の食料自給率を上げれば食糧費は高くなるように思う。
そして外国産の食料は関税がかかる。
TPPでどうなるのかわからないけど
私には食料自給率が低くなるように思う。
日本のそれぞれの物価の関係が今の日本を作っているように推論する。
それは日本と世界の関係にもつながっているように思う。
それにしても昨日の報道特集もちらっと見た。
戦争は大変である。
私も戦争なんてしたくない。
それでも戦争をするとはどういう事なのかが議論のする必要のある所のように思う。
ただ単に戦争は嫌だねみたいな報道なんてする必要があるのか理解できない。
あんな感じなら議論になっていない。
あんな報道するなら日本の良い所をどうやって世界にアピールするかを考えた方がいい。
私にはそんなに日本がいい国に思えない。
私の生存権を含む基本的人権も守れない国がどうやって
世界にアピールするのか理解できない。
私の今までは電磁波で苦痛の毎日で有無を言わせない戦争状態に変わらない。
一体マスコミは何が許せて許せないのか理解できない。
私にはマスコミ自体が許せない。
文句たらたらである。
<<追記2015/07/26end
<<追記2015/07/31
数学も上から下に書いたり読んだりするけれど
プログラムも上から下に書いたり読んだりする。
そういう意味で私の大学時代には比較的受け入れやすかったように思う。
これなら私にも出来るかなあと思った事は思った。
仕事でプログラムすると絶対達成出来る仕事である。
なので時間にも内容にも結果が求められる領域である。
そういう意味ではプログラムにおいて完璧が仕事に求められるような気もする。
プログラムにはバグやエラーもあるけど
プログラム結果がすべてのような世界に思う。
だからそれはそれで大変なところであるが
そんなたいした仕事にも私には思えないのが難点である。
<<追記2015/07/31end
注※数学の勉強方法は大学受験の時には思いついていた。
<<追記/2015/08/01
強者が弱者を救えなくて
私が弱者を救えたら
それは強者の論理が間違っているからではないのかと思う。
それが事実なら私が本当の強者だからではないかのかと思う。
それを教師も医者も代議士も私を認めないのが原因のように思う。
それを混沌と言って誤魔化しているようにしか思えない。
本当の強者が誰なのか理解していないからである。
私は弱い力で世の中の強い抵抗をくずれないものもあったと思うがいくつかくずしてきた。
それが本当の強者である事実しか残っていないのではないかのかと思う。
混沌とか言って誤魔化して
私をかりだすのは戦術の間違いが露呈している。
本当の強者が本当の仕事をしていない証拠である。
それは強者たるものが強者たりえないだけである。
それを見逃して私を頼るのは私が許せない。
こんな不当な扱いを受け
私を強者たりえないものをなぜ故に強者のような事をせなああかんのか理解できない。
こんな理不尽な話は無い。
<<追記/2015/08/01end
<<追記2015/08/02
何が人を成功させるのかわかれば
誰でも成功する。
そんな事は誰にもわからない。
私がわかっていれば私は実行する。
毎日生活してて
たまに思いつく事はケースバイケースである。
私に出来る事は毎日の生活管理であり
今までの経験しかない。
後は実践と工夫である。
そんな事を繰り返して一日一日を送るしかない。
//長歌と反歌//
金曜日 家に帰りて
休みあり 音楽流し
本を読み あからさまにも
歌を詠む 残る雑務も
今にして あとかたもなし
我が未来 願うものなら
かなうかな 求めるものが
何なのか 判然とせず
いつの日か わかるものなら
かなうかな 日々の中にも
おもひつく 機会うかがい
過ぎてゆく 休みとしても
期待あるかな
人知れず何があるのかわからない休みあるなら期待あるかな
<<追記2015/08/02end
<<追記2015/08/03
三島にうつり住んで
プログラムの仕事するようになったけど
それなりに.物理も進んだし
短歌や俳句や長歌や反歌もやるようになった。
正直もう、なるようになるだろうと思っている。
英語もドイツ語もやっているし
時々フランス語もやっている。
こんなに日本に貢献している奴もめずらしいと思う。
ここまでやって
本当に賢い奴って誰なのか考えて欲しい。
本当に試験ができる奴が賢いと言えるのか考えて欲しい。
私は普遍性に挑戦しているので何を実現したのかわからないけど
多分物理をやればわかると思う。
現象があってその先に普遍性の自然法則がある。
私はその普遍性の自然法則にも挑戦した。
本当の賢い奴は
その普遍性に挑戦して獲得した奴でないかのか私はそう思う。
そこに科学の広がりが出てくるのである。
普遍性こそ知能の大本山である。
<<追記2015/08/03end
<<追記2015/08/04
世の中いろんな世界がある。
専門が狭いければ狭いほど
その分野は宇宙語になっている。
なので他人の話は私は聞くようにしている。
聞かなければ余計に世界が狭くなる気がする。
その上で話をしなければ世界は語れないだろうと思っている。
大体色々な話を聞くなんて事自体がマレである。
そういう意味では私自身いつになっても独善的である事を自覚している。
その上で反論もあろうかと思う。
それはそれでいい機会かもと思っている。
なので私は三島で一人の人間としてホームページを作っている自覚はしている。
そういう人間が三島にいる。
私はそれでいいと思っている。
なのにそれを拒否されても
日本は構成できないし家族も構成できない気もする。
いろんな奴が日本全国にいる。それでいい気がする。
私はそういうつもりで話をしているつもりである。
そうしないと私自身が宇宙語になってしまう。
そういう危機感は私にある。
<<追記2015/08/04end
<<補足2015/08/07
私には話を聞く人を選ぶというのがちょっと信じられない。
異分野の
専門家さえ意見がわかれるものなので
そんなの不可能に近い。
私的には実践と工夫でのりきりたい。
それも不可能なら本当に不可能である。
なのであえて
自分なりの判断をするのに他人の話を聞くというのは
それなりにベターのように思う。
別に専門家が悟りをひらけてるわけでもなし。
参考になるのは人それぞれな気がする。
<<補足2015/08/07end
<<追記2015/08/05
愛の無い所には興味が無い。
愛のある愛らしい所に興味がある。
先週の「味処 麦」には愛があったように思う。
俳句もあったし小鉢出してもらった時も感じた。
私もそういう「おもてなし」がしたいなあと思った。
なのに
愛の無いストレスのパ〜に
私がつきあわなければいけないのか理解できない。
そんなの関心無い。
お互いどんな愛があるのかの方がよっぽど大事である。
そんな事が欠如している人が抵抗しているだけである。
そんなのパ〜でしょ。
私的には愛を育てる方が幸せになるそんな気がする。
<<追記2015/08/05end
<<追記20150811
何となくここまでやって
人生何とかならんかとあきれ果てる。
やっぱり私には日本市民権が無い。
そんなのあれば
仕事は山のようにくる気がする。
気分はそんなの通り越して
気ままに暮らしたい。
世界旅行したい。小学校の全国行脚したい。
世界に勇者として勇気を与えたい。
世界中にいいキッカケを与えたい。
ひねくれた神経には関心が無い。
何度も、たおれても立ち上がるような
天然の明るいどっしりとした太い神経こそが世の中を変える。
それに私が勇気といいキッカケを作りたい。
そういう意味では利益があっても目先の利益とは無縁である。
それが世の中を変える。
なのに利益にこだわって今も私の状況がよくならない。
どこまで私を追い詰めるのか知ら無いが
結果は大違いになっている。
普通はみんながおかしいというような状況である。
なのに目先の利益が気になっておかしいにならない。
損が許せなくて正義が存在しない。
それさえも凌駕しなくては世の中は変わらない。
私はその力は少年と少女の心にあるはずだと思っている。
<<追記20150811end
<<追記2015/08/13
年々頑張り過ぎのように思う。
盆休みぐらいゆっくりしようと思っている。
それはそれで私の戦術がうまく機能しているのかもしれない。
人間戦術的に生きる必要があるように思う。
そう言うと誤解する人がいるけど
誤魔化して生きるという事では無い。
自分の能力を開拓するという意味での戦術である。
そしてみんなのための戦術でも無い。
私が何がやりたいのかという戦術である。
そういう意味では私が楽しむための戦術である。
他人に迷惑かけてないのにそれを阻害するものは私にとって害である。
そんなの当り前でしょう。
それが当たり前にならないから私は困っているである。
<<追記2015/08/13end
<<追記/2015/08/19end
私自身あんまり他人に振り回されたくない。
幻聴聞いていると危機感感じる。
私がどうのこうのという問題は
私にとって良い問題で無い。
そうやって私を苦しめて何の特になるのか理解できない。
ほとんど女の問題ではないのかと思う。
女の損か得かぐらいしかない。
そんなの私の問題では無い。
私の得か損かは私が考える。
男の損得勘定もいい加減にしてもらいたい。
普遍性にも挑戦せずして
話はまとまらない。自分勝手に生きているだけである。
そんなの良い結果が出ているだろうか?
普通結果が出てたら社会現象になっているだろう。
男も女もあきらめられない。
いつまでそんな事を繰り返すのか理解できない。
ほとんど私の問題では無い。
なのに私に転化して私を苦しめている。
そういう自覚症状が欠落している。
私が平気だろうと思うのか知らんが
私はストレスのかたまりである。
いつまで私は苦しんだらいいのかもっとクローズアップして
思い知った方がいいのでは無いかと思う。
せめて私と同じ苦しみを味わった方がいいと思う。
<<追記/2015/08/19end
<<追記/2015/0821
世の中の平和は馬鹿とアホが馬鹿とアホを認める事と
俗世を否定する事じゃあないかと思う。
そんなものとかけ離れた生活したい。
それが何よりの前進のように思う。
私がこんな身だから世間も同じだなんてありえない。
それこそアホと馬鹿である。
そんなものよりかけ離れた生活がしたいが賢い選択のように思う。
異次元のワンダーランドこそ
賢いものの選択のように思う。それがわかってもらえないのが私のつらいところである。
大学の先輩も私と違うし
父親と母親と私とも違うし
妹と親戚のおばと私とも違う。
それが賢い選択である。
同じである必要がない。
アホと馬鹿はそこらへんがアホと馬鹿である事を認識し
俗世間を否定する事でようやく平和がおとずれる。そう私は思う。
<<追記/2015/0821end
<<追記2015/08/22
自分の世界だけで世界は完結しない。
私の知らない世界があるはずだ。
それから冒険がはじまる。
それを認めないからアホと馬鹿が認識出来ず
どこいっても同じ世界だと思い
俗世はどこにいっても俗世なのである。
それは間違っている。
違う人間がいて当然であり必然である。
そして違う俗世が存在する。
そして俗世を否定し新たな世界を望む。
その先に平和が訪れる。
だからアホと馬鹿はいつまでもアホと馬鹿なのである。
もうこれ以上アホと馬鹿を繰り返さなければアホと馬鹿を認識できないのか理解出来ない。
どうしてそんな事も社会で共有できないのか理解できない。
<<追記2015/08/22end
<<追記2015/08/23
面白くないから
ヒーローになりたい。
というより
面白いからヒーローのような気がする。
だけど面白くならないのは
選択と努力しかない。
それを度外視するから
変な話にしか聞こえず
相手にさえしたくない。
それなのにみんな同じだと思っている。
それが俗世だと思っている。
そんなの絶対ありえない。
みんな面白くない。
そんなの自分だけのヒーローである。
それだけ一人の人間が
面白くやっている事が
男にも女にも、とらわれている。
自分が面白くない事実しか残っていない。
そんなの愛では無い。
愛はふくらまなくては愛では無い。
愛の国のために頑張ろうと思ってこそ
愛はふくらみ面白い国になるのだ。
<<追記2015/08/23end
<<追記2015/08/24
あんまり
神経のひねくれたシティーボーイの話は終わりにしたい。
どうしたら終わってくれるのか理解できない。
女も同じ次元である。
少年少女にはそんな風にならんかったら
明るく太くたくましく
出来る事から変化する事である。
可能な事から変化する事である。
私は41才である。
それだけの月日が流れている。
二十代中頃までにそろえば強力に牽引する。
私の半分で物事をなすのは少々難しいけど
一直線で変化し続ければ可能だろう。
私がここまでこれたのは一重にITのおかげである。
そういう意味では道具も大事である。
道具を使いまわせば
明るく太くたくましく
変化できる人間になれる。神経ひねくれたシティボーイや女は
それが不可能だから私を悩ませている。
もういい加減やめて欲しい。
私が変化を可能にしているのは道具を使いまわしているからである。
お笑い芸人の「火花」を読み始めた。
なんかそれはそれで狭い世界のように思った。
他にも色々狭い世界はたくさんある。
それを自覚せずに世の中は語れない。
最初の方はうまく文章を書いているように思えたが
段々あらくなっているように思えた。
まだ十五%ぐらいである。
もしかしたら段々また冷静になるかもしれない。
少なくとも最初の方は
私より文章がうまい気がした。
芸人の論理を語る所はなんか普通に思えた。
興味を持って読もうと思う。
<<追記2015/08/24end
<<追記2015/08/25
三島にいると大体人は平均化されるが
都会はいろんな人がいる。
神経ひねくれた人から優秀な人まで様々である。
そういう意味で私は三島で免疫がうすれているかもしれない。
しかし幻聴で
記憶がよみがえる。
話が通じないのに話をする様は
うんざりする。
だから都会に行ったら
三島のように話の出来る人ばかりではない。
何を言っても話の通じない人間がいるのが都会である。
それはもう絶望としか思えない。
そうやって都会は成り立っている。
なので話をうまくまとめる自信が私には無い。
なのに巻き込まれている。
そういう自覚症状の無い人間が私を困らせているとしか思え無い。
もうちょっと思い知った方がいいのでは無いかと思う。
<<追記2015/08/25end
<<追記/2015/08/26
いつまでも、もめているのは
美的感覚が合わないからである。
自分がキレイにならないものを
誰が救えるのか
理解できない。
まさに泥まみれである。
泥の中にも花が咲く。
お互いに花が咲いていると思えば
それでOKである。
ただそれだけに
ずうっともめている。
あきれてものも言えない。
世の中の苦労自体が
間違っている気がする。
ただ花を咲かせるだけである。
一体勉強して何の花を咲かせたのか
ただそれだけである。
<<追記/2015/08/26end
<<追記2015/08/27
自分としては
どうしたら高い給料をもらえるのかわからない。
こんな不正義があるのか信じられない。
それより自分の正義の方が大事である。
あんまり世の中を
あてにしていない。
勝手にしろってな感じである。
誰が偉いのか理解できない。
何様のつもりなのか検討もつかない。
粛々と実現可能性を
深めていこうと思っている。
自分の経験をもとにホームページが出来ている。
そういう意味では学問的にデータで実証していないかもしれない。
でも私みたいな人は世の中に存在しない。
だからほとんど未来予測に近い。
ありえない事が起こっているそう思って頂きたい。
<<追記2015/08/27end
<<追記/2015/08/28
私に出来る最大限はなした。
このままやっても
大きくなるばかり
それで何がやりたいのか
わからない。
次は少年少女の番である。
自分にしかできない事をやる。
それが目標である。
25歳ぐらいに実現するための
基礎学力である。
私は大いに可能性あると思っている。
不可能を可能にしてくれ。
それが私の願いである。
<<追記/2015/08/28end
<<追記/2015/08/29
学生の自尊心が無いとか
夏休み明けの学生の自殺とか
私には良くわからない。
ただ実行あるのみだと思う。
実行出来ないから悩みが出来てしまう。
それも学生時代だけで解決しないかもしれない。
私自身がそうだった。
でも今の自分のホームページを考えると
学生の時に解決してしまう可能性は大いにある。
それが今の所の私の感想である。
<<追記/2015/08/29end
<<追記2015/09/03
私がいろんな事をやるのは
幻聴のためというより気分転換のような気もする。
幻聴のせいで毎日同じ気分になる。
それがつまらないからである。
何かアテにならん信ぴょう性の無い話聞いていると
私も間違ってしまいそうである。
やっぱ人選んで話せんと変な影響受ける。
まともな情報を流すだけでもそれはそれで価値があるんだと思う。
<<追記2015/09/03end
<<追記2015/09/04
私が悩んでいるのは小中学校の再現である。
努力が努力になっていない。
幻想を追い求め過ぎである。
医者も医者で人間なめとる。
こんな現象は私の責任ではない。
勝手に悩んでくださいとしか言えない。
そんな時間があるなら私は他の事やってたい。
そうして複雑性が増す。
それが人間というものである。
人間なめんなよと言いたい。
<<追記2015/09/04end
<<追記2015/09/05
今の所
和歌の本歌取りが
短歌と俳句に影響している。
より自然体に近づいているように思う。
ぎこちなさが無くなっているような気もする。
あらたな発想に気づいたような感覚が残る。
そんな手前歴史を参考に作るのも醍醐味である。
参考になるものが無いというのが結構ツライものだと思う。
テレビで著作権でもめている。
能力の問題というより
お金の問題のように思う。
そういう意味では責任がつきまとう。
私は蚊帳の外だから冷静でいられるのかもしれない。
正直な話おそろしい話である。
私もお金がちらついてくるとどうなるのかと思う。
多分一人では対処できない気がする。
<<追記2015/09/05end
<<追記2015/09/06
私が人事部長なら
大きな事を出来ますとか出来ませんとか言う奴なんか雇わ無い。
大きな事を出来るように努力しますという奴を雇う。
完璧なんて不可能なんて言う奴は
報告、連絡、相談が出来無いか
自分の努力を否定されて自分の間違いに気づか無いか
精神がいかれまくってるぐらいしか
思いつか無い。
完璧に近づこうとしないと仕事なんて出来無い。
それを否定したら仕事やめるに似ている。
一体いつまでこんな小中学校の低次元を続けるのか
私には理解でき無い。
<<追記2015/09/06end
<<追記2015/09/09
女の多数派工作なんてどうでもいいのでは無いかと思う。
私個人の問題であって
女の多数工作なんてどうでもいいでしょう。
私が判断する事で
なんで女が判断するのか理解でき無い。
私がどこまでも判断すればいいだけであって
そんなの女がする事ではない。
私はどこまでもYesかNoか言ってればいいだけの話にしか聞こえ無い。
たくさんの女がたくさん私に言っても
私にはそんな判断はYesかNoしかない。
男が多数工作して判断する話では無い。
私が判断する話であって大多数の男は私にとって興味は無い。
そういう意味では私は一匹おおかみなんだろうと思う。
女がたくさん私に言っても
一匹狼に対して言っているわけで
大多数の男とは無関係である。
そういう一匹狼に対してものを言っている自覚が欠如している。
そんなわけわからん女がいっぱい私に言っても
解決しない。少なくともわけわからん女と全く違う男に言っても通じない。
そうまさに話が通じないだけである。
<<追記2015/09/09end
<<追記2015/09/10
私にとって
バカとアホは
山本周五郎の本のように
西行の桜の.和歌のように
滅びの美学しかない。
それ以外は
良くわからない。
色んな事を言われても
私にはどうしようもない。
私にも滅びの美学はある。
ただ色んな本を読んでも
バカとアホの本はあんまりにも存在し無いように思う。
山本周五郎が稀有な感じである。
信じ続けて滅ぶか?
取り組み続けて滅ぶか?
滅ぶという意味で人間皆共通のような気がする。
それ以外は天と地ほど違う。そう私は思う。
そういう意味では滅ぶぐらいしか
話の共通点が無い。
社会に役に立つから高収入というわけでも無い私に
これ以上酷使して何がしたいのか理解でき無い。
そんな正義がどこに存在するのか私にはわからない。
ただ意味不明な女なんて嫌いである。
好きより嫌いの方が感情的に記憶に残るらしい。
だとしたら女の好きより私の嫌いの方が奴隷に近い。
生理学的に成立し無い。
とりあえずバカとアホはバカとアホを認識する事である。
全くアホとバカの認識がなってい無い。
0点は0点ですとはっきり言って認識した方がいい。
そういう認識さえ出来無い人が私を困らせている。
ゴミみたいである。そんなの誰だって嫌いである。
<<追記2015/09/10end
<<追記2015/09/14
障害者を雇用するのに人手が必要になって人手が足りなくなるとか話を聞いたが
それは障害者だけの問題では無い気がした。
普通の人だって同じような状況になる人だっているはずである。
そして今の働いている人が
しっかり働いているというとそうでも無い。
まさに摩天楼のような仕事をしている。
私に言わせれば手前勝手な主張して仕事している事になっている。
そんな仕事現場で
障害者は自分の主張をしなければいけないのである。
そんな見え透いた社会に飽き飽きである。
一体日本で誰が一番仕事をしているのかと言えば
私はいち障害者だと思う。
摩天楼の世の中で自分のやる仕事を主張しなければ
多分障害者として浮かばれ無い世の中である。
所詮普通の人だって他人に依存しているのをすっかり忘れている。
自分一人で仕事をやっていると思っている。
そこに障害者の生きにくさがある。
障害者だって他人に依存して自分の主張をすればいい。
私にはそうとしか思え無い。
そんなに仕事ができる人間が世の中にいるような気がし無い。
私もボチボチやりたい。
<<追記2015/09/14end
<<追記2015/09/15end
仕事を出来無いのを
理由をくっつけて本当にそれが原因だろうか?
そうやって原因が遠のいているように思う。
少なくとも私には何の関係も無い。
そうやって私を困らせているようにしか思え無い。
自分で展開でき無いのは
私のせいではない。
本人の問題である。
障害者が仕事出来ないのは
普通の人にとっても同じである。
それを障害者と言っても色々なのに
ひとくくりに仕事を出来無いと判断するのは
愛が足ら無い。
多分こんな愛なら世の中は戦争になるでしょう。
それは愛を持って語ら無いのが原因である。
愛はそんなものでない。
強力に世の中を変える。
私はそんな愛を持ちたいのであって
世の中の戦争のために生きているのでは無い。
愛らしい子供のパワーを引き出してやりたい。
それが結果的に世の中を変える。そう思っている。
どうせなら女性もそういう愛がなければありえない。
何か世の中見ているとこれまでの日本は幻想的な平和だったのだろうと思う。
それが変わるか壊れるか私は予想でき無いが
問題は是々非々ではない。愛の問題である。
それを語らずして世界には理解され無いだろう。
日本を信じてくれるのは本当に平凡な愛なんだろうと思う。
なのに日本人はそれが語れ無い。
なので私は世論にはついていけない。
日本の仕事も世界平和と同じである。
もう愛なんてすっからかん。
どういう愛なら平和になり仕事がしやすくなるなんて誰も考えてい無い。
それはそれで空恐ろしい日本である。
<<追記2015/09/15end
<<追記2015/09/17
大学を出て
未だに女の問題は解決し無い。
大体そんなもんだろうとは思っていたが予想通りである。
大学にいた頃にはもう結果が残っている。
それを尻目にiPS細胞だの青色発光ダイオードだの言っているので
私は一生科学には遠い存在だろうと思う。
それも女のせいである。
女さえいなければこんな事にならなかった。
このまま好きなように女同士がいがみあっていればいいように思う。
私は好きなように生きたい。
ただそれだけである。
それだけのために何で女が必要なのか理解でき無い。
私には女が天敵のようにしかうつらない。
それは愛とは何か考えてい無い証拠である。
人の言う事より自分の愛である。
それが欠落したままいがみあっている。
そんなの私はパスである。
一人で楽しく生きたい。
女とセットの生活なんてしたくない。
自分一人で独立独歩したい。
父親見ているとなおさらそう思う。
なのにいつまでこんな不毛な議論を続けるのか私には皆目検討もつかない。
女の問題は解決し無い。
それでいいのでは無いかと思う。
いまさら何を議論する必要があるのか理解でき無い。
<<追記2015/09/17end
<<追記2015/09/20
一つ一つ解決しているかなあと思う。
それで完璧ならそれでいいでしょう。
最初から完璧じゃあなくたっていい。
最後が完璧ならそれでいい。
私はそう思う。
そういう過程が抜けているだけのように思う。
なので完璧にならないのは私の責任ではない。
私は私でやっているだけである。
<<追記2015/09/20end
<<追記2015/09/26
どんな奴が基礎学力があるのか聞きたいぐらいである。
私の場合高学歴の人と違う時間の使い方をしてきた。
だから全然基礎学力が比較にならない。
それは高校まで公立で過ごしてきた結果であろうと思う。
全然試験に反映されるような勉強では無い。
それが全然高学歴な人には理解され無い点である。
私がなしてきた事は他人と全く違う時間の使い方をしただけである。
あとはそういう勇気があるか無いかぐらいしか無い。
なので基礎学力って何なのか説明して欲しいぐらいである。
他人よりたくさん遠回りしてきている。
近道しているのは科学ぐらいである。
学歴や職歴は遠回りしている。
それが日本社会の真実ではないのかと思う。
<<追記2015/09/26end
<<追記2015/09/27
最後の最後で愛は勝つ。
愛の無い所で状況は変わら無い。
状況が変わら無いから愛が終わる。
言葉をたたきつけデッサンをたたきつけ科学をたたきつけ
感極まる。
これだけ出来たのは歴史を背負ったからだと思う。
私一人でここまできた。
全世界の歴史なくして私はありえない。
これが神の愛なんだろうと思う。
涙がちょちょぎれる。
計り知れ無いパワーである。
これが一人の人間のする事なんだろうかと思う。
それだけで私は大満足である。
あとはどうなったって構わ無い。
好きにしろと最後の晩餐の気分である。
<<追記2015/09/27end
<<追記2015/09/28
世界平和は経済が成長する戦略を共有できるかではないか?
こんなにも紛争が起きるのは
なかなか経済が成長し無いのをものがたっている。
この日本においても
どうしたら景気が良くなるのか難しい問題である。
人間が必要で便利で世界が広がるものは
時代を追うごとに変化している。
私だけでも一つの経済活動である。
それがどうやって日本経済となるのか私には途方に暮れる。
経済を本当にシンプルにする事が世界平和になるように思う。
この難解な経済を説明でき無いのが紛争の原因のように思う。
だから私の仕事一つ説明でき無い経済は
世界に対しても理解され無い現象だと思う。
<<追記2015/09/28end
<<追記2015/09/29
学校の先生の免許制度のせいで
能力のある先生の弊害がアメリカでは実証されてて
免許制度の存在で先生のレベルの差が広がるのも実証されているらしい。
免許制度が無い方が先生のレベルの差が小さい事が実証されているらしい。
私としては学校が必要なのか理解でき無い。
学校なんて生徒の怠慢なのではないかと思う。
ようするに生徒も先生もナアナアである。
どちらも自分の位置に安住している。
あんまり良い傾向にある学校に見えない。
キーワードは成長である。成長しようと生徒も先生も思っているかどうかである。
そんな貪欲な生徒がいる感じもせず
ひたすら自分の位置の確保に満足しようとしているだけにしか見えない。
肝心の成長はどうなっているのか私には理解できない。
だったら学校いらないというのが私の正直な気持ちである。
ここにきて
やっぱりここでもシンプルな学校が必要である。
複雑な学校なんていらない。
それが顕著に生徒に影響している。
肝心の自分の成長に興味を失っている学校なんて不必要である。
やっぱり学校も社会も経済ももっとシンプルにした方が
健康的である。
不健全な日本が見えて仕方ない。
<<追記2015/09/29end
<<追記2015/09/30
私がシンプルが良いというのは
ただそういう風に考えたら後は計算するだけというものである。
不思議な事に標準理論は宇宙の場合一つしか無い。
ニュートン力学は高校で習うけど
別な考えで方程式をだす解析力学が存在する。
大学では同じ事をやっている証明を授業でやってた。
解析力学が発展して量子力学になる。
そういう意味で便利な理論を考えたら計算するだけなのである。
実験系の人だったらまた違う事言うかもしれない。
でもラクと言えばラクである。
そう考えて計算すればいいからである。
あんまり深く考えるとますます混乱するような哲学的な所はあるけれど
割り切れれば後は計算なのである。
そういう意味で計算がシンプルなのである。
<<追記2015/09/30end
<<追記2015/10/01
私は社会に不満なので手当たり次第批判している。
そういう意味では反政府組織である。
日本人としての市民権は無い。
女も私を病気にして喜んでいる。
私も日本を病気にして喜ぼうと思う。
そんな事が許されるのか日本人に判断してもらいたい。
私は日本人が嫌いである。
ましてや大阪人なんてもっと嫌いである。
いくら私をアテにできるからといって
嫌がらせのなにものでも無い。
一体この15年間なんだったのか聞きたいぐらいである。
女は私を15年も病気におとしめている。
悪魔として女を認定してあげる。
女さえいなければこんな涼しい人生は無い。
原因は日本人とか大阪人にありそうである。
ただ私にしがみつこうとしているようにしか感じ無い。
ただしがみつく人がいないだけのようにしか思えない。
それで何で私の個性がいきるのか理解出来無い。
私には全く関係の無い話にしか聞こえ無い。
私の立場なんて全く無視である。
それで何で15年間も病気な状態にならなければいけないのか説明してもらいたい。
女の立場でしか主張していない。
それで私一人で何をしろというのか理解出来無い。
私は何にもする事ありません。
私は私の立場で判断しようと思う。それが強烈に私の中で渦巻いている。
一体この状況をあと何年続けるつもりなのか理解出来無い。
<<追記2015/10/01end
<<追記2015/10/07
ノーベル物理学賞には少しおどろいた。
自分が思っているほど
時代が進んでいない気がした。
ニュートリノ振動の話は九大にいた頃に聞いたように思う。
それが実証されたんだろうけど
こんな感じだと
ダラダラと時が過ぎていくんだろうなあと実感した。
そんな感じであんまり新鮮味が無かった。
それでも新世界とはそんな感じではじまるのかもしれない。
新聞読んで標準理論に無い現象としてそう思った。
私が大学にいた頃は湯川先生と朝永先生の影響あるかなと思ったが
今はそれより
アインシュタインとガモウの影響あるような気がする。
何かあんまり日本人社会にはついていけない。
ここまでやらせるのかと思う。
すべて日本人が悪いのではないかそう思う。
私には何の問題も無いのに
あと何年この状況を続けるのか皆目検討もつかない。
<<追記2015/10/07end
<<追記2015/10/08
あんまりノーベル賞には関心が無い。
どっちかというと物理学賞で十分である。
あとは適当にお祭り騒ぎで十分である。
川端康成に比べられるのも嫌である。
なんせ私の学区には
川端康成の重石があるから高校では「伊豆の踊子」を国語の授業があった。
同じ校区の隣の市に茨木高校があってそれが川端康成の母校である。
私は大阪府立三島高校が母校である。
島本町に幼稚園から小四一学期まで
富田に小四一学期から高校までいた。
島本は三島郡である。
総持寺に三島小と三島中があって
なかには小中高と三島という奴がいた。
そういうわけで三島には縁がある。
何かこういう因縁が
今も続いているとなると川端康成は避けたいと思う。
<<追記2015/10/08end
<<追記2015/10/13
私としては色々手段を尽くす事しか出来ない。
一つ一つ乗り越えていこうと思っている。
色んな世界がある。
それをカテにやっていこうと思う。
そういう意味で色んな考え方をふまえて私はどうするのかだと思う。
あんまり一方的な事にはならないと思っている。
そういう所で私の言い分も少し通るだろうと思っている。
いくら幸せに思っている人が将来幸せになると言っても
そんな事が一方的に思える気がしない。
少し幸せに思うぐらいしか私には思えない。
全部幸せに思うことが奇跡にしか思えない。
それが人間のように思う。
世界の中心とかアメリカの中心とか日本の中心に文句たらたらである。
能力というより仕事が無い。
あんまり封建社会と変わらない。
ボチボチです。
<<追記2015/10/13end
<<追記2015/10/15
何か株の本を読んでいるんだが
私もやってみたくなる。
それも一種のお金の病気かなあと思ったりする。
お金のために生きているわけではないと思っても
お金に影響されているのは事実である。
需要と供給のためにお金に右往左往している。
商品価値としてはボッタクリである。
今の時点で手頃な値段か?ぐらいでしか判断できない。
そういうマネーゲームをやっている気がする。
何だかマネーゲームをやっていると思っている時点で
結構末期的のように思う。
何か仕事をするという事はどういう事なのか
最初から検討する必要があるように思う。
マネーゲームで終わらせたら人間の生きている価値は無いに等しい。
桃源郷にある仕事は一体何なのか
日本の中心で考える必要があるように思う。
<<追記2015/10/15end
<<追記2015/10/19
これまでウナギの不漁の原因はつかめず消費してきた割に
こんな事態は予想出来ず消費を繰り返した。
これからも温暖化や寒冷化の原因もつかめず農作物のマクロ経済は
何の予測もできない。
これらからミクロからマクロは語れないましてや
マクロは経済とは関係無い部分が多い。
マネーゲームにマクロが決まらない以上永遠に解決しない。
せめてこの世界が完全に理解されなければ不可能である。
経済で解決する部分は限られている。
本質はもっと他の所にある。
もしかしたら我々の知らない手段が他にもあるかもしれない。
そういう意味で前途多難である。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/19end
<<追記2015/10/21
結構プログラムの本は
一気に読む事が多い。それなのに仕事しているとそんな時間も無い。
私がそれなりにやっていけるのは仕事してない時間があるからである。
それが私が社会に訴えたい事である。
立ち止って出来る仕事もある。
外国語だって同じである。
なのに生活に追われ本を読む時間も無く仕事をしなければいけないのが
私には本末転倒に思われてならない。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/21end
<<追記2015/10/22
「自然言語処理」の前置きで書かれている章の基礎部分を読み終えた。
それ以外は目的別になっている。
今日もちょっと目次を読んだが
私自身何がしたいか思いつかない。
そういう迷いが仕事の無い人間のツライ所である。
仕事なら必ず結果の出る仕事がやってくるからである。
特にプログラムの仕事は出来ない仕事はやってこない。
仕様がおかしい仕事は私の責任では無い。
そんな感じに思った。
多分そういう仕様がおかしいとかはまた別の仕事なのかもしれない。
そんなんで一人でやろうとすると
そこらじゅうで迷いがある。
でも私はそれが好きである。
出来るだけ出来る所からやってる。
そのうち世界が広がる気がする。
迷いながら泳いで息つぎしている。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/22end
<<追記2015/10/23
何事も心が折れないよう
適当にやった方がいい。
それが私の本音である。
やれる事はやって展開するか
自分のやる事は変えていくかぐらいしかない。
そうでもなければ気分転換するぐらいである。
私は他人の存在ぐらい認めてやらないと
自分の存在も危うくなる気がする。
そこまでして他人を否定する気にならない。
なので他人のイザコザは好きになれない。
ましてや他人の活躍に口をはさむ気もない。
私は私、他人は他人である。
なのに迷惑を私は受けている自覚はある。
私はどうしたらいいのかわからない。
何か世の中愛が足らない。
そういう状況に今ある気がしてならない。
私としては愛のある人に一票である。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/23end
<<追記2015/10/24
パズルドラゴンダウンロードして少しやってみたが
お金ってどのように課金するのか不安になってやめた。
ぷよぷよもそうだが
攻略法を編み出してみたくなった。
今の所あんまり法則性を感じていない。
どうもショップという所で課金するみたいです。
今回もやはり集中力がきれる。
他に楽しい事を探したくなる。
ゲームやれるのは若いうちかなと思う。
私はファミコン世代だけど私はやった事が無い。
途中でバカバカしくなってしまう。
攻略できたのは麻雀のゲームぐらいである。
断っとくけれど私は麻雀は強くないです。
その後夕飯の買い物を父とした。
今はもう寝る時間である。
何か私の体はボロボロである。
何が真実なのかあんまり区別出来ない。
女を見ても何も感じないのが私なのではないかと思ったりするが
本当にそうなのか私にもわからない。
そういう判別さえ出来ない所が私にはボロボロにしか思えない。
私としては女の事はほっといて安らかに生きたい。
真実は見えず悲しいけれど
それでもボチボチやるしかない。
<<追記2015/10/24end
<<追記2015/10/26
勉強ぐらい努力すれば何とかなると私は思っている。
私は学歴としてはNOと言いたい気分である。
どこまで抵抗出来るのかわからないが
下克上の気分である。
ノーベル賞もあんまりどっちが偉いのか私には判別出来ない。
だけど今のトレンドとして関心がある。
気分は一人でシャーの逆襲みたいな気分である。
ようはお金ではなく手段としての情報であり効果的な教育である。
あんまり学歴が関係無くなるまでこんな活動が必要なのかもしれない。
本当にどなたが偉いのか私はわからない。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/26end
<<追記2015/10/27
退勤時に韓国語の本に集中してしまった。
私も何がやりたいのかあんまりわからない。
母親が数独やっているのとあんまり変わらんかもしれない。
頭の体操みたいな感じになっている。
若い時には考えられないと思う。
41歳にして
役にも立ちそうもない事に集中できるようになった。
それを進化というのか退化というのか判別不能である。
物事を考える癖みたいなのが一人歩きしているのか他にやる事ないからなのか
私の事をとっても真実は闇である。
ただ考える事は好きである。
それだけは言える。
なんで考える事が好きなのか
それは自分の中で展開していく力があるのだと思う。
そうした経験もある。
それが私には、たまらなく楽しい。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/27end
<<追記2015/10/28
昨日からアラビア語のNHKのテキストやり始めた。
多分放送していると思うが
他のアラビア語の本より発音がちゃんと書かれていてわかりやすい。
長年の悩みが少し解消された。
今日朝出勤してたらインド人見たような気がする。
まさかサンスクリット語なんて勉強出来ないよなと思った。
そんなわけで中国語と韓国語とアラビア語は発音から入っている。
ドイツ語とフランス語は文法から入って発音にシフトしている所である。
スペイン語とポルトガル語とイタリア語は文法のナナメ読みになっている。
まさか単語をこれだけ覚えるわけにもいかず
機会があったら現地で、もまれて覚えるしかないかと思っている。
英語もまさに同じである。
英語でここまで書けたら他の外国語も同じようにしたいと思って今に至っている。
本当に頭の体操で
気分転換になる。
そして機械学習の本を昨日買ってちょっと読んだ。
機械学習もこんな分析でちゃんと判断出来るのか不思議である。
グラフの中の関数で判定して学習と言えるのかピンとこない。
物理学のグラフとは異なる気がする。
なので少しトーンダウンしているけど
一つの手法かなと思って進める予定である。
なかなかグラフで判断するのをパソコンでやるのは難しい気もした。
いろんな判断にわかれるものを
パソコンが選び出すのはケースによりけりである。
大学にいた時
グラフを吟味出来るのも知性だなと思った。
そんな手前
いろんなグラフをパソコンが吟味するそれこそが人工知能なんだと思う。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/28end
<<追記2015/10/29
何となく
お金が先か心が先かと
タコが先かストレスが先かと思った。
私を困らせれば困らせるほど
私がやり抜けばやり抜くほど
将来は何とかなるだろう。
そういう意味では貯金みたいになっている。
そういう人生を私は歩いている。
そういう人生を私にさせたくないなら
私を困らせない、私にやらさない、私に頼らない。
これが常道である。
だけど私はそんな状況に無い。
なので私は心が先でタコのストレスを受けている。
それだけで私はいつ死んだっていい。
これで生きていけないのなら
それは世の中が悪い、他人が悪い。
そういう状況に私は、いる。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/29end
<<追記2015/10/30
私自身高校受験の感じで勉強したという感覚はあった。
だけど大学受験は高校受験の記憶量を下回ったため勉強した感覚はなかった。
だから私にとって勉強した感覚を
高校受験を通して大学にも大学院にも大学を出ても
あんな感じまで推し進めたい感じが私にあった。
別に大学受験だけが人生に思えない。
高校受験の感覚だけでも結構やれる。
私にそういう感覚があるという所が大きかったように思う。
19歳になろうとした春の18歳にして永久機関を思いついて物理の難問をかかえた。
そんな日本人はいないだろう。30歳超えても難しい。
いかに学歴がくだらないかをあらわしている。
キッカケは高校の図書館にあった科学雑誌と我が家にあった冷蔵庫の永久磁石である。
それと私の野心である。
そんな事を可能にしたのはそんな事を考えたくなる我が家にあったように思う。
結構私自身我が家で思いつく事が多い。
私は試験に裏切られた。
だからあんまり私の成績は何の参考にもならないと思っている。
そういう意味で先生は嫌いである。
先生になりたくない。
嘘をつくのが先生だと思っている。
そういう意味では経営者も上司も同じである。
ましてや医者も同じである。
私の人生は嘘をつかれた人生である。
誰も信用できない。
信用できるのは本と私のやる事だけである。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/30end
<<追記2015/11/02
あんまり良い気分で無い。
揚げ足を取るで何が改善するのか理解不能である。
ほとんど私の問題では無い。
そういう他人がいて
何が何だかわからなくなっている。
私はそんなんで良い気がしない。
結局小学校の時と状況が変わらない。
大学の時の大人な関係と異なる。
そんな子ども時代に戻ってどうすると言いたい。
そんな次元に止まったままである。
相手にする気も起こらない。
本当に馬鹿馬鹿しい。
<<追記2015/11/02end
<<追記2015/11/08
今の銀行の金利で
銀行の仕事が理解出来ない。
あんまり生活保護との違いが理解出来ない。
貯金出来るメリットも無くあるのは資産を持てるぐらいである。
資産が無くなるまでどうにかしろという事なんだろうかと思う。
経済とは水道管工事とは言え
銀行の仕事自体が水物何だろうかと思う。
しっかり仕事して金利を上げろと言いたい。
いつまでこんな状態を容認するのか文句タラタラである。
努力と容認出来ない人がいくら私を特別だと言っても
私は努力しているからとしか言えない。
努力になっていないから浮かばれないだけである。
私は少なくとも私自身が努力していると言える。
なのに私に聞こえる文句は努力に思えない。
それが決定的に違う。
それは銀行の仕事も同じである。
<<追記2015/11/08end
<<追記2015/11/09
私の悩みとして仕事をとるか時間をとるかという問題がある。
今までの二年間は仕事より時間を選択した。
私自身それは成功だったような気がする。
このホームページを拡張できたからである。
本題はこれからどうするかである。
依然として仕事をとるか時間をとるかという問題がある。
まだ飽和状態に至らないのでやる事はあるのだが
それも時間の問題である。
あと一年か二年ぐらいで何となく仕事を選択するような気もする。
統合失調症としては法定雇用率を考えるとちょうどいいかもしれない。
それに備えて私のしたい仕事は何かというのも脳裏によぎる。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/11/09end
<<追記2015/11/10
私の英語力は高校受験の塾の先生の影響が大きい。
言葉とはどういう事なのか今も驚きを隠せない。
でもキッカケは塾の先生が与えた。
なので英語と数学と物理は教えられる。
理科と社会も中学生の時偏差値70を上回った事がある。
あんまり自信が無いのは国語である。
でも古文と漢文ぐらいは指導出来る気もする。
現代文が結構きつい。
大事な事は何が間違っていて何が正解なのか理解する事だろうと思う。
その手伝いをしてやれば
試験は何とかなる。
私の今までの経験上自分の気持ちの通じる作文も書けないようでは
発想も浮かばない。
最初は間違ってもいい。
自分の気持ちが世の中に受け入れられれば将来は明るい。
そういう形になるように努力しているのかが大事である。
<<追記2015/11/10end
<<追記2015/11/11
論理の言葉で相似と合同のための補助線を引けないかと思ったりするぐらい
言葉で数学を表現してみたい欲求がある。
今ままでそこまでしなかったのが私の残念である。
色んな問題がたくさんあって保留状態だった。
今も数学が大切な状況に無いしましてや物理も同じである。
何が私に出来るのか考えるに
私の美的感覚だけである。
それが言葉で数学を表現したくなるのである。
そういう簡単な言葉で表現出来れば出来るほど能力は高くなる。
しかしそこには目的が無くては中々難しい。
仕事していればそれでいいのとまた次元が違う。
人それぞれの目的こそ万民の平等である。
私はその目的を私自身で見つけたから今があるのだろうと思う。
<<追記2015/11/11end
<<追記2015/11/12
大学入試試験が近づいている。私が高三の頃この時期に
浪人するような事を言ったのを思い出した。
過去問をやる時期だと思う。
それだけに過去問やりながらステップアップする必要にせまられる。
私の場合高校の授業にイライラした。
全く大学入試試験の参考にならない授業をしたからである。
本当に学校に出る時間がもったいなかった。
東大生や京大生に教えたいぐらいである。
世の中にはそういう高校があるという事をである。
山口大に入って山口県の高校にもそういう高校がある事を知って少し安心した。
それぐらい大学入試に関係の無い勉強は山ほどある。
そして他人の迷惑はどこまでもついてくる。
私には何の関係も無いのに迷惑極まりなし。
その尻拭いは大いにラクをした東大生と京大生がするべし。
私はそんなの知らない。そういう苦しい人生だからである。
<<追記2015/11/12end
<<追記2015/11/14
会社の正義と私の正義のどちらが重いか私にはわかりません。
最近の二年は私の正義を貫きました。
それなりに意味があったように思います。
会社も個人の正義を尊重する必要があると思います。
それが如実に最近の二年間にあらわれていると思います。
社会の何かがおかしいと思います。
個人が追及しないとこの二年間はありえませんでした。
会社も考え方を変えていかないと
私みたいな人がたくさん出てくるように思います。
何が大事なのか誰もわかっていない。それが私を作り出している気がします。
とりあえずボチボチです。
<<追記2015/11/14end
<<追記2015/11/18
私の人生は言われっぱなしである。
他人を支配してやろうなんて考えは全く皆無である。
それは多分統合失調症だからである。
幻聴でも同じ事が起きている。
いくら反論しても通じない。
私の頭の中で叫び続けている。
私にはコントロール不能であり理解不能な状態である。
よっぽど自分のやる事の方が安心できる。
他人を支配してまで不安定になる気はしない。
それでも理解出来て微笑ましい愛があれば頑張ってみたくはなる。
でも幻聴にはそれが全く無い。
ここまできたら愛の社会を作るしかあんまり夢が無い。
ふざけた利害関係より将来に望みがある愛が勝利した方がいい気がする。
ふざけた利害関係とは学歴も含まれる。
そんな能書き垂れるぐらいなら愛を唱えろと言いたい。
私は愛を選択する。
そういう人を私は採用したい。
そうしたサバサバした社会にもうすでになっている。
能書きはどうでもいい。私が言われっぱなしなのは言う本人が愛が無いからだろうと思う。
そうやって私を追い立てて本人の責任を回避している。
そんなんどう考えたって愛が無い。
私はそんな愛の無い話を黙って聞くしか無い。
それが私の愛でありそんな人の選択は存在しない。
あくまで私は愛を選択し選択された方は愛を選択して欲しいと願っている。
それが私の愛である。
<<追記2015/11/18end
<<追記2015/11/19
マイナスよりプラスを考える。
障害者のジレンマである。
私の世界観は
今の世の中と異なっている。
それが私のモーターになっている。
そして私に出来る事がある必然性である。
私に一理あるとしたら
神のしわざとしか思えない。
それぐらい苦しい。
そして楽しい。
人間の人生とは
どちらも経験しなくては深まらない。
なのに他人を見ると
楽しいだけのように解釈するのは間違いである。
また
苦しいだけのように解釈するのも間違いである。
私があるのは
両方経験しているからである。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/11/19end
<<追記2015/11/20
私の話がこじれているのは
他人の妄想癖のせいである。
私自身には全く関係が無い。
私のせいにするのも妄想である。
考えてもらはなくてもいい人まで考えるからである。
なのに他人は考えようとする。
妄想が利害関係を生んでいる。
いつまでこんな状態を繰り返すのか私には理解不能である。
そんな相手をする私もたまらない。
私はただ文句タラタラである。
黙って聞いていられない。
妄想が妄想を呼んでいるようにしか聞こえない。
そんなの許せない。
そんな利害関係しか持てないなら全てゼロでいい。
私は好きなように生活する。
もうあんまり女には期待していない。
女の妄想には参る。
そして全部私が悪いらしい。
それも女のしわざである。
あきれてものも言えない。男も最低だけど女も最低である。
どいつもこいつも最低である。そういう認識でいいのではないかと思う。
<<追記2015/11/20END
<<追記2015/11/22
出来るだけほのぼのとしたひとときを送りたい。
多分愛とはそういう感じのように思う。
それが私の愛の選択のような気がする。
そんな愛のためなら頑張れる。
つまり私がおしとやかにいれて相手もおしとやかにいれるという関係が
私にとってベストという事である。
私はそういう賢い関係でいたい。
多分そうなるにはたくさんの経験も必要だし
相手も同じだろう。そう簡単にそんな人を見つけられる気がしない。
40代で未だにこんな事を言って実現不可能だろう。
なのでほとんどあきらめかけている。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/11/22end
<<追記2015/11/23
このIT技術のおかげで勉強方法も変わる気がする。
今日はiPod touchで語学系のアプリをインストールした。
詰将棋アプリや詰碁アプリや麻雀問題アプリも大分慣れてきた。
頭使っている感は今の所ある。
こんな感じで試験そのものに意味が無くなればいいのにと思う。
私の感覚は適当にやっていればそれでいい感じである。
そんなに必死こいてやるものじゃあない。
もっと他の事に必死こいてやるものである。
私はこうすれば成功するようなものが試験で決まる気がしない。
そういう安易さが危険である。
本当は短期的な事より継続が大事なのであるが私の身の回りも継続させる動機に乏しい。
仕方なく仕事を継続しているだけである。
それが私は世の中の欠点に思える。
継続していける働きが全然見えない。本人次第になっている。
こんな短期的な人間が終末思想をかかえるような気さえする。
継続していけるシステムこそ大事である。
私が継続しているのは仕方無いからである。本当にそんな世の中でいいのか理解出来ない。
<<追記2015/11/23end
<<追記2015/11/24
私自身の身体の信号はあんまりアテにならない。
何が正しくて間違っているか判断しなければいけない。
そういう頭を使う必要がある。
そういう意味では医学部の部隊との戦いである。
そう631部隊とか731部隊と変わらない。
これまでの私の過去はオモチャにされたと言って間違いない。
そういう意味で世界の人口70億人の中でも不幸な部類である。
今も私は何かという命題がある。
どういう状態が私なのかあんまり明解ではない。
そういう状態はある意味屈辱的である。
あんまり奴隷と変わらない。
まともな判断がつかない状態に追い込まれている。
最近の明るさは段々負担が少なくなっている事である。
しかし今までの事を考えると悪い事が起こる不安がある。
何をされるかわからない不安がある。
今まで起こってきた事が私に起こる可能性がある。
それって奴隷と変わらない。私には発言権も無い。それは市民権が無いのと同じである。
それでも仕方無く生きている。こんな不幸な人間いるだろうかと思う。
やっぱ世界の70億の中で不幸な部類である。
それでも判断困難な私は頭を使って私を探そうとする。それが生きるという事だろうと思う。
やっぱ奴隷みたいである。
<<追記2015/11/24end
<<追記2015/11/26
弱者の救済はちゃんとした人がやった方がいいのではないか?
私も弱者なのに私は救済なんて出来ない。
何か学生の頃から先生より生徒に救済をやらせるなんてナンセンスである。
何のための先生なのか理解出来ない。
それも先生から文句言われるどころか生徒から文句言われる私は馬鹿になった気分である。
本当にちゃんと勉強できるとか
本当にちゃんとテニスできるとか
本当にちゃんとした生活できるとか
みんな先生がやる事である。
それを生徒にやらせるから私みたいな面倒くさい事を言われるのである。
ちゃんとした事が出来る私でもないのに
なんで私が救済せなあかんのか文句タラタラである。
文句言っている奴もちゃんとしていない自覚も無い。
私の方がちゃんとしていないのを自覚しているだけマシである。
もうちょっとちゃんとしてから文句言えと言いたい。
何様でそんな他人に問題を起こすのは
害虫みたいである。もっと自分をちゃんとする心得があってしかるべきである。
私は高校になっても大学になっても大学院になっても
ちゃんとしてるなんて思ったこと無い。今も同じである。
だけどちゃんとしたいと常に思っている。
そんなちゃんとしているなんて評価されているのは先生ぐらいである。
せめて先生になってから文句言えと言いたい。
そういう面倒くさい事を扱う状況に無い。
せめて私を頼るならそういう地位にしてから頼って欲しい。
何にも無いのに頼られても迷惑である。
そういう私は弱者だから私と付き合うとしたら自分をちゃんとしてから私と付き合って欲しい。
ちゃんと出来ないのに私に頼られても困る。
それがまともな神経な大人ではないのかと思う。
そんなにちゃんとした人が世の中にいない。だから先生が重要なのにその権利を生徒に押し付けて
私に迷惑をかけている。
だってそんな生徒ちゃんとしていないんだもん。
全て先生が悪い。
だから私は先生が嫌いである。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/11/26end
<<追記2015/11/28
私にとって愛とは頑張ってみたくなるものである。
そういう意味では私が愛らしくなるものである。
子供にも女の人にもそうあって欲しい。
そういう国なら私も手助けしたい。
利害を超えた愛とはそういう別次元である。
なのに未だに世の中は損得で動いている。
愛によって切り刻んでいくしかないまでになっている。
それがわかっているかわかっていないかなんて簡単である。
そんな簡単な事でもめている。
日本にいる中国人も韓国人もあんまり心配する事が無い。
彼らにもちゃんと愛がある。
そういう人がいる限り大丈夫である。
テレビ番組であおられているだけである。
冷静に日本にいる中国人と韓国人に付き合えばあんまりテレビに影響されていない。
そういう人達が世論に組み込まれていない。
本当に茶番なニュースである。
いくら他の男がこわかろうと私には関係無い。
私にとってどんな女がいるかの方が大事である。
それを私の頭の中で叫ばれても
そんな意味不明な女は却下である。
なのでまともな会話にもなっていないのに私の頭にとって考える要素にならない。
いつまでこんな無意味な状況を引っ張るのか理解出来ない。
私にとって会話の成り立つ人が大切である。
愛によって生きていれば愛に共鳴する。
愛の無い人が叫んでも無意味でただの騒音である。
いくら私が優しくても愛が無い以上優しくなれない。
私は愛のある人に優しくなれる。
そしてその愛を世の中にいかしたい。
そして迷惑な人にはどうなろうとほっとく。
あんまり万人に相手できないそういう人間である。
<<追記2015/11/28end
<<追記2015/11/29
機会の平等はあれど競争社会を演じて
今の私にはこの世に手段が無い。
これを本当に機会の平等なのか私には信じがたい。
本当に競争している状態なのか理解出来ない。
ただ単に私を押さえつけているだけにしか思えない。
私に代わってくれる人がいたら代わって欲しいぐらいである。
世の中は機会の平等も拒否し競争社会も拒否して
文句言っている人が私を困らせているとしか思えない。
だから私は勤勉というのは大事だと思う。
勤勉でずっと通せたらそれが正解である。
私が勤勉だとしたらそれは楽しいからである。
私のやっている事が形になるからである。
いつまでこんな採算の合わない不満を
私に持ってくるのか理解出来ない。
結局次元の合わない話なんだから自分で何とかしましょうぐらいしかない。
やがてはほっとくしか手段が無い。
少なくとも
今の私は採算の合わない状態なのだから異常状態である。
信じがたいがたくさん拒否してきた人間と同じにされている。
そういう認識でいる。
<<追記2015/11/29end
<<追記2015/11/30
プログラムの仕事が派遣労働法に適用されなかったり
プログラムの仕事を障害者に派遣より悪い待遇で働かせたり
そんな正義がどこにあるのか理解出来ない。
そんなんだったらプログラムの仕事出来るように指導しろと言いたい。
誰も出来無いなら私にさせろ。
それが本当の正義である。
なんで悪環境の仕事場に安住するのか理解出来無い。
もっと仕事しやすいように努力しなければいつになっても
改善しない。
自分の主張しか考えていないからそうなるのである。
もっと働きやすいプログラムの仕事が出来るはずである。
手前の事情しか考えていないからそうなるのである。
誰でも出来る仕事にしなければいけない。
それが生存出来る条件のはずである。
それなのに混迷を極めている。
私自身はそれは解決できると思っている。悲しいかな。みんな違う方向を向いている。
いつになったら気づいてもらえるのか悲しい限りである。
<<追記2015/11/30end
<<追記2015/12/02
若者に敵か味方か選択を迫る。
私の人生を振り返ると
決して敵か味方かの判断より第三の道を選択した方が状況は好転する。
第三の道を志すのは自己努力は必要である。
そういう意味では敵か味方かは短絡的ではある。
私は決して正攻法の人間ではない。
それでも第三の道はある。
国防も自分が望む第三の道があるはずである。
それは敵か味方かというより自分にできる国防が第三の道を開くと思う。
そうして考えて行動しているとほどほどにやれる。
ゼロ金利の経済も異常である。
もっと国民が自分に何ができるか第三の道を模索しなくては
良くならないだろうと思う。
本当はこの日本においてやるべき事はたくさんあるのに
誰もそれを為し得ないのは
ただ単に生活しているだけだからである。
ほどほどにやれる自分ができる第三の道が開けない。
ここまでくると学歴なんて関係ない。
努力あるのみである。
<<追記2015/12/02end
<<2015/12/03
今週から12月に入った。
一年を振り返ると自分自身嘘のようである。
来年も今年と同じく勉強が山積みである。
アラビア語や中国語や韓国語やドイツ語やフランス語や英語もさることながら
古文や漢文もある。それに伴い短歌や俳句も文語調に挑戦したい。
デッサンは低迷しているが草や花が私の気になるところである。
プログラムでは機械学習やiOSの開発などがある。
物理をやるだけの時間や環境が無い中
ここまでやってこれただけでも奇跡である。
本当に天才アルバート・アインシュタインしか出来ない事を
私もやった気でいる。
それはそれでハッピーだなあと思う。
今後はどんどん間違う事が大事かなあと思う。
若者に希望を見出してやる事が大事であり
私にしかできない状態は異常である。
大事な事は実践する事である。
出来なくても出来る事から実践する事である。
実践しているうちに一つ一つできる事を増やせばいい。
それはプログラムで実感していて
掲示板で外国語を表現してなおも実感し
短歌や俳句でも実感している。
最初は色々間違ってもいい。自分で間違いに気づく事が大事である。
実践して自己修正し枝を増やしていく。
それが人間のやる事である。
あとは私とは何かという事である。どんな私が日本で生きているのかそれを出来るだけ表現したい。
今年もそれが常に私にあって表現したのだが
いつになっても終わらない。
多分それだけ世の中が罪深いからだと思う。
ボチボチやりたい。
<<2015/12/03end
<<追記2015/12/04
本当にどちらが正義なのかあんまりわからない。
何となく向かうところ敵なしである。
結局物事の本質と世の中が乖離している。
一般庶民が物事の本質に近付けば近付くほど
どなたが正義なのかわからなくなってくる。
世の中が空虚でさえ思えてくる。
いくら学歴と職歴があっても正義にはかなわない。
結局その正義のために物事の本質に迫らなければいけない。
そして誰もそんなものを考える余裕もない。
私としては高みの見物である。
へちゃむくれがへちゃむくれてもめている。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/04end
<<追記2015/12/06
私としては文句たらたらで誰も聞いてくれないので
やるせない気持ちである。
女の意味不明な叫びを聞いて何で私の感想を聞いてくれないのか理解できない。
そういう意味では抑圧されたストレスのかたまりである。
女の一方通行、女の不満や気持ちに何かふりまわされてる、女の事情なんて聞いていない。
いつになったら会話が通じるのか理解出来ない。
女の事より我が身が大丈夫なのかのが心配である。
何かこのままいったら女も私もダメになってしまう。
それでも女は本望なのだろうかと思う。
何か人間が絶滅しても続ける気がする。
そんなの私としては耐えられない。
大問題なんてそんなに簡単に解決しない。
私としては女があきらめてくれるしかない。
いつまでこんな耐えられない問題を私に突きつけるのか理解できない。
勘弁してほしい。
<<追記2015/12/06end
<<追記2015/12/07
このやるせない気持ちを表現したいのだが失敗しているように思う。
誰にも聞いてくれず自分の中で抱える気持ちである。
こんなに自分が電磁波にまみえれても誰一人おかしいと言ってくれない気持ちである。
全て自分が悪いになっている自分である。
女まで私はどうでもいい。そんな事よりもっと私がまともに生きていきたい。
今の状態がまともに思えない。
それが私のせいになっている。
それはそれでストレスである。
何を言われても私は聞いている他無くそれはそれで無常である。
そういう無常がやるせない気持ちなのである。
私の状態を明確にする正義が無い。
結局私に対してやりたい放題やっているのに私は黙っているしか無いのである。
これを奴隷と言わずして奴隷じゃあ無いのかと思う。
でも誰もノータッチである。
人間の哀愁とはそういうところから生まれるのかもしれない。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/07end
<<2015/12/08
私はあんまり実現不可能な正義は持たない。
他人を否定してまで正義を持たない。
自分がちゃんとしていると思わないから私にとって私がちゃんとするのが正義である。
なので私が他人を指差すのは
自分に影響があるからである。
そうでもなければ私は何もしない。
そういう私なのに私は迷惑をいっぱい受けている。
やむにやまれなく他人を批判している。
そういう迷惑な他人がちゃんとしていると思っているのか聞きたいぐらいである。
ちゃんとしていないならまず自分からちゃんとすべきなのではないかと思う。
自分が出来ていないのに他人を批判するのは間違っている。
少なくとも私はそう思っているから私のできる事しか私は発言しない。
私の正義はそういう自分がちゃんとする事である。
そんな単純な事も世の中は混迷を極めている。
もうちょっと信頼される人がいないのか疑問である。
ボチボチやりたい。
<<2015/12/08end
<<2015/12/09
私の子供の頃の遊び心が今になって開花している気がする。
学生時代は苦しかった。
漫画でも読まなければつまらないぐらいだった。
それはいろんな意味合いがあると思う。
今は漫画を読まない。
ともかくも自分の時間が楽しくやれているのは遊び心に工夫がついているからだと思う。
長年の経験が私を楽しくさせている。
なんか私の人生苦しくてゴマカシゴマカシやってきたけど
幼少の頃の私に舞い戻っているように思う。
あの時が一番健康的で正常だったのかと脳裏によぎる。
でも結局何が正常なのか判別は難しい。
今でも時々今やる事を忘れたり、頭を洗わないつもりが洗ったり
ヒゲそるのを忘れたりする。
そんな事もあって反射神経に頼らず何かを見る事で防げたりする。
例えば歯ブラシを見るとかビゲソリを見るとかタオルを見るとかシャンプーを見るとかである。
体も敏感に反応する。いろんな刺激が私の身体によるものか判断出来ない。
出来るだけ反射神経に寄らず私の頭で解釈して判断するしかない。
そう言った手前何が正常かは私自身難しい。
私が出来る事は反射神経ではなく私の頭が判断したと言い切れる事が大事である。
そういう意味では今もたたかっている。
悲しい状況にはかわりない。
こんな事が許される世の中なのである。
文句タラタラである。
<<2015/12/09end
<<追記2015/12/10
ここ一年半は最低賃金の時給で毎日四時間で何とか生活しているのが板についている。
前の職場で7.5時間は長すぎたような気さえする。
毎日四時間のおかげで自分の時間がある。
自分のやりたい事が優先出来て助かっている。
今の所は会社の正義より私の正義の方が上回っている。
またいつか下回ったら考えなければいけない。
だけどそんな簡単にいかない。少なくとも一、二年以上はかかりそうである。
私が仕事しているのはお金に振り回されているからである。
なんとなく女もお金に振り回されている気がする。
定年の父親が家事をやっているのに女は何を感じているのか疑問である。
そんな面倒な女の問題より目の前の問題の方が我々は大事である。
なんか女自体が許せない気もしてくる。
パラサイトしか存在が示せない。それを私にどうしろというのか理解出来ない。
やっぱり心が大事である。心無い所に問題がある。
定年の父親をこのままでいいのか少し不安になってきている。
妹も大丈夫だろうかこんな状況で女のわからん話に付き合うより
私が説法した方がよっぽど効力ありはしないかと思ったりする。
段々他人が頼りにならない気が増大している今日この頃である。
<<追記2015/12/10end
<<追記2015/12/12
私は頭の中で声がすると目が冴えて寝れなくなる。
結局薬で寝ている。
朝はそれだけ辛いのだがアラームがあれば起きれる。
睡眠剤は私は苦手で
今の薬の方が朝が楽である。
四時間勤務になってから寝る時間が増えた。
それだけでも負担が少なくなっている。
それで自分の時間も持てるので願ったりかなったりである。
逆に九時には寝ないと薬の関係上睡眠するという意味で不規則になる。
そう言った手前残業が難しい。
そんなわけで私の場合成果で評価されなければ浮かばれない。
いくら成果をあげても時間に依存すると不利である。
そう言ったハンディを背負っている自覚はある。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/12end
<<追記2015/12/13
薬が無ければ声がして目が冴えると
寝られず昼夜逆転する。
それ以外に困ったことは
血圧である。結構仕事のストレスや緊張で血圧が上がる。
はかるたんびに緊張してしまう。
大学院の時もはかり直したことがある。
そんな手前健康って大事だよなあと私も思う。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/13end
<<追記2015/12/14
電子書籍も買い出すと止まらない。
書籍だとストックが目に見えて見えるので止まるけど
もう当分買わないようにしようと思っている。
歯止めは結局お金である。
一応予定の範囲とは言え正直こわい。
結構買っている。夢は広がる事が新年に向けての好材料ではある。
今日も英単語の本を読み終えたとは言え
結構ストックがある。
三種の神器に古事記に日本書紀に古文に古典に
作曲に演奏に絵画に簿記に経済に資産無いけど資産運用にプログラムに色々である。
新年に向けて宿題になって気合は入るが
しかしやる気になっている私もちょっとこわい。
まあ四十代になってそこまでになっているという気もする。
我ながら珍しいケースな気もしたりして
それなりにいい傾向かもしれない。
魚が水を得るような所があるような気もする。
それにしても時間をもっと有効活用して25歳ぐらいに完成させた方がいい気もする。
それは次の時代の人の宿題かもしれない。
私としてはそうなるように指導したい気もする。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/14end
<<追記2015/12/15
今年はiPod touchとスピーカーがヒットした。
iPod touchは家でwifi使ってインターネットしているが
外出先でインターネットで保存したアプリや電子書籍を使って
結構スマートフォンより電池が長持ちする。
多分携帯アンテナで消耗するのではないかと思う。
だから長時間に耐えれる。
買ってすぐニューモデルが出たため使っているのは残念だが旧モデルである。
iPod touchで外国語、古文、漢文などのアプリを購入して
特にアラビア語など外国語は発音してくれるので助かっている。
iPod touchで電子書籍も長時間読めるようになった。
好きな時に好きな本が読めるようになった。それだけでも革新的である。
iPod touchでゲームは詰将棋と詰碁とか麻雀の問題とか気分転換にやっている。
他には短歌と俳句とかスケジュール管理とかリスト管理とかでメモしている。
スピーカーはストレス発散になっている。
それだけで買って良かったと思っている。
blue toothのタイプとラインのタイプを買った。
新年も必需品だと思う。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/15end
<<追記2015/12/16
産業革命以後、情報革命が起こると山口大学のセレモニーで立花隆が言っていた。
電子書籍見ていたら
近づいている気がする。
多数の日本人が本を書くようになってそれが読まれる時代になっている。
そしてそれに書評が加わる。
自分の得たい情報があればあるほど
それは情報革命な気がする。
私にはそれが今のkindle本にもある気がする。
その割に私が書籍化しないのは
面倒くさいからである。
広告バナーも同じである。
それでも誰かにこのホームページを編集されたい欲求はある。
何か商売をする気になれない私がいて
私がこのホームページを書くのは生きているあかしである。
丁寧に書いて書籍化するのも意義はあるが
そこまでしたい気があまりなく結局あんまり他人に興味が無いのかもしれない。
自分が面白い方がいいのである。
他人が面白くてもあんまり私は面白く無いと言ったところである。
ボチボチやりたい。
<<追記2015/12/16end
<<追記2015/12/17
愛のパワー全開
愛をかかげる
愛のある選択
愛のあるところに愛が残る
愛が歴史になる
まあ私の理想である。
結局自分の正当化するために他人を持ち上げたり批判したりする。
そんな人に何を言っていいのか私はわからない。
そういう意味では人間関係の相対論である。
私自身あんまり人間関係に頼らない。
そういう意味では次元が違う気がする。
どちらかと言うと絶対的に神と美と愛に契約する
神に対して誓い、自然の美に対して畏怖し尊く、愛に対して笑みをこぼす
残るものは正当化というより事実しかない。
私は極力事実に反して正当化しない。それが私の愛である。
これ以上弱者ヅラして
自分を正当化しないで欲しい。私も弱者だけど普通そんな正当化しないのが弱者である。
正当化して冒険や挑戦をしない人にいくら頑張れと言っても無駄である。
そういう底辺で普通に仕事して何も起こらないように生きている人が
まだまともである。
なのにそういう世の中の人間関係として相対論をふりかざして自分を正当化し
自分は弱者だという困り者は最悪と言わざるおえない。
そんなん弱者じゃあない。
結局他人と自分の関係でのみ生きようとしている人が私を困らせている。
自分の世界で戦っていない。
そしてそういう人間関係で自分を正当化している。
だからそれを否定されると許せないのである。
しかも弱者だと思っているのである。
そして冒険や挑戦は皆無である。
そんなん弱者の私もそんな人許せない。
たちが悪すぎる。
そんな人こそ救えない。
そして私は何をすればいいのか皆目見当もつかない。
どうしようもないねえぐらいしかない。
なのに毎日声がする。
本当にたまらない。
<<追記2015/12/17end
<<2016/01/02追記
結局人間の大切な事は
正しいと自己判断できる事である。
そこに損と得を超えた自然の美がある。
それが神様のなせる技である。
それがかなわなければお互い話は通じない。
話の通じない原因は自己判断できないからである。
結局自分の損と得でしか話が成り立たない。
自分が損であろうと得であろうと
神の作った自然はそういうものであるというのが科学である。
自己正当化するために科学は存在しないし
自己鍛錬なくして科学には近づけない。
そして科学のいいところはより美しい理論に純化することである。
オカルトには全くそんな事は起こらない。
それだけ科学は美しいものがあるし美しいものを生み出す力がある。
科学の話をして話が通じるのは美しいと思う。
それが神が作った世界であろうと思う。
なのに自己判断できない事が話をややこしくしている。
いつまでそんなみにくい争いをして
神様に恥ずかしくないのかと私の美的感覚がそう感じている。
<<2016/01/02end
<<追記2016/01/13
気分的にはあきれてサバサバしている。
女も男もここまで来たかみたいな感じである。
そう犯罪と言えば犯罪である。
そういう危険を感じて生きている。
誰かの自分勝手な発想が私を困らせている。
全部他人が悪い。
いつまでこんな状況に置かれるのか理解できない。
他人の迷惑でここまで来ている。
どのツラさげて生きているのか理解できない。
本当にゴミみたいな性格が私を困らせている。
全部学校の先生が悪い。
その給料を私にくれと言いたい。
何で私が困っている状況を許しているのか理解できない。
学校の先生の監督不行き届きである。
<<追記2016/01/13end
<<追記2016/02/10
私の中でも美しくありたいという欲求があるように思う。
それはある種の、醜さがあると
解放されたくなる。今までそうやって解放するように努めてきた。
ここにきて女性が浄化するというよりあんまり必要としなくなってきている。
お金のために女性問題があったのかと思うのも辛いし
自分が自分のために生きてきた方のがよっぽど美しくなっている。
あんまり他人を必要としなくなっている。
自分としては自分一人の方が美しくなれる。
他人がいればいるほど醜くなりそうである。
いくら女が頑張っても段々子供を作れる自信も無い。
こんな女のために私は生きてきたのかと後悔する方がコワイ。
それが私の美的感覚である。
かわいいは私にとって愛らしいである。
だから愛が無ければキモイにしか思えない。
愛らしい家庭に愛があるように思う。
愛があるから愛らしい家庭があるとも言う。
それは人を見ていて大体わかる。
女性にとって愛だけで人生が終わるのかもしれない。
なので愛らしい人を見つけるのは至難の技である。
そんなに簡単に見つからない。
愛らしさに行き着かないで終わっている。愛らしく見えるのも幻想かもしれない。
完璧という人に会ったことがない。
<<追記2016/02/10end
//新規作成
2015/07/26