第17回研究会
第17回研究会では,「舞台芸能における間合い」というテーマを設け,奥井遼氏(同志社大学)と小谷弥生氏(信州大学)に招待講演をお願いしました.
テーマ趣旨
間の概念は、門から木漏れ出る日(月)の光というイメージから生まれている。それは、背後に持続している潜在的な力が、ある機会において顕在化するという意味で、東洋的な「無」の概念と通底している。また、隠されているものが露わになることを心待ちにする心情において、「(待ち)わびる」「さび(しい)」という日本の美学とも直結している。間合いは、意図をもった動物どうしの関係にしか使わない。間合いとは、二つの命が、己の本領を発揮する機会を待ちわび、互いが閃くように接触するための時機をうかがう過程である。今回の研究会では、「舞台芸能における間合い」というテーマで、身体的な相互行為としての日本の古典芸能についてお話しいただきます。奥井遼氏(同志社大学)には、人形浄瑠璃における間合いについて、小谷弥生氏(信州大学)には、能楽における間合いについて、メルロ=ポンティなど現象学的な視点を交えて論じていただきます。
(企画者:河野哲也(立教大学))
日程
2020年12月20日(日)13:00-17:45
場所
オンライン開催(Zoomを使用)
参加費用
無料
テーマ
「舞台芸能における間合い」および一般
招待講演
奥井遼氏(同志社大学)
小谷弥生氏(信州大学)
共催
新学術領域科研「顔・身体学」計画班C01-P01「顔と身体表現の比較現象学」(17H06346)
プログラム
13:00-13:05 開会挨拶・事務連絡
13:05-15:15 一般セッション
13:05-13:45
「サッカーにおける間合い 選択可能性をめぐる攻防」(発表原稿PDF)
山本研(慶應義塾大学),諏訪正樹(慶應義塾大学)
サッカーの試合中における間合いについての事例紹介を通じ, 「間合い」とは何かを考察する. 事例を ①攻撃―守備, ②on the ball(ボール直接関与)―off(ボール直接非関与)という2つの軸から成る4象限に分類し, 考察を進めた. サッカーにおける間合いには, その場が持つ志向性, 場に存在する人が持つ意図的な行為の時空間的なインタラクション, 選択可能性の認知が生み出す攻防, が関わっていることを論じる.
13:50-14:30
「風景と触れるように対話を繰り返し間合いを形成する手法の開拓」(発表原稿PDF)
佐野まり沙(慶應義塾大学),諏訪正樹(慶應義塾大学)
著者は、身体が反応してしまうほどに魅力的な風景のことを「見心地」の良い風景と呼び、その風景と触れるように関わることで風景の奥に潜む訴えを聞き入れ、風景の「見心地」の体得を探求した。その手法とは、風景を撮影し、印刷した風景写真を鉛筆でなぞり、模写し、またその都度の風景に対する感じ方をことばで記録することで風景と折り合いをつけるように繰り返し対話するものである。このような対話こそが、人が風景やものに対して間合いを形成するために不可欠であると主張したい。
14:35-15:15
「ヴィオラのスキル熟達における探索的過程についての分析」
曽我部夏樹(公立はこだて未来大学)
演奏家は運動選手やダンサーと同様に身体を動かす専門性を有しており、熟達した演奏家は自身の演奏にボディ・マップを形成しながら、意識的な修正と洗練を繰り返して演奏時の身体動作を効率的で自然なものにしてゆくとされている。本研究ではヴィオラ演奏の楽曲の練習を対象とし、演奏技術とそれに伴う身体動作の探索過程について、演奏者が練習でどのようにアプローチをしているのかを内省と外観による評価を元に分析する。
15:30-17:45 テーマセッション「舞台芸能における間合い」
15:30-15:35 テーマ趣旨説明
河野哲也(立教大学)
15:35-16:35 招待講演1
「型・段取り・間―人形浄瑠璃における三人遣いの間合い」(発表原稿PDF)
奥井遼氏(同志社大学)
人形浄瑠璃の人形遣いたちにおける「間合い」を理解するうえで、いくつか関連する「現地語」がある。すなわち、「型」と「段取り」である。「型」は人形の振り付けを構成する基本動作、「段取り」は振り付けの手順全体を意味する。本発表では、人形遣いたちの稽古場面のデータを参照しながら、これらの語彙をめぐる三人遣い経験を把捉することを目指す。これにより、彼らが日頃体現している(必ずしも概念化されていない)「間合い」なるものの一端を垣間見ることが期待される。
16:45-17:45 招待講演2
「能における「間(あいだ)」と「合」について —能舞台における音楽—」
小谷弥生氏(信州大学)
「間(あいだ)」とは、来るべき何がしかの到来によって初めて完成する時(とき)である。あたかもその始まりと終わりを示す「門」の字の中に、音が現れると「闇」になるのもまた一興である。闇もまた光を待望するが、能舞台における光とは、音と共に、いかに体現され、そしていかなるものとして映るのであろうか。能における「間」と「合」について、今回は「音」に着目しつつ、その光の到来、すなわち時機について、「間合い」について思考する契機としたい。