責任と自殺

真相の究明には不可欠な情報を知り得る立場の人物が,スキャンダルの渦中に自殺する。「私は決してやましいことはしていないが,この件で組織に迷惑をかけたので,(自殺することで)その責任をとる」といった遺書が残されることなども多い。

文化人類学者のドゥ・ボスは,他者から与えられた役割や,帰属集団への過度の自己同一化を「役割自己愛」と呼んだ。要するに,集団への帰属意識が極端なまでに強すぎるために,その集団が解体してしまったり,指導者の社会的役割が抹殺されてしまう事態を想像することそのものが不可能になり,この種の自殺が生ずる文化的な背景が成立することを指摘している。

個人の独自性を重視する西欧文化では,この種の自殺のように,集団へのあまりにも強い帰属性から生ずる自殺は全く存在しないとは断言できないまでも,一般的には理解するのが非常に難しいようである。

自己の正当性を訴えるのであれば,真に責任ある人を告発したり,裁判の場で自己の身の潔白を証明すべきであると考えるのだろう。彼らにとっては,日本人が受け入れるような「引責自殺」を理解することは非常に難しいことらしい。そもそも,この種の自殺の形態に対して社会が強い関心を払うこともないし,あるいは存在すら認めない文化圏では,統計も手に入らず,日本の引責自殺との比較もできない。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために 筑摩書房 p.90-91