1975~79年

我らが千葉大学鉄道研究会、その創立から現在に至る、50年の歴史です。

<注>1969-79年度についての記述は、『鉄研史第一編』からの抄録です。同書「通史」の各年度冒頭に掲げられた「その年の言葉」と〔主な出来事〕を引用し、あわせてその年度の活動状況を簡単に紹介しています。

1969~74 | 75~79年 | 80~86年 | 87年~

1975年(昭和50年)度

“一時、てっけんノートも低調ではありましたが、‘6月11日 あめがふったりやんだり’以来、各氏の熱裂なる議論には、目をみはるものがあり、ふりかえってみますれば、その個性の吐露された文章には、興味深いものがあります”

(『鉄研ノート』vol.2、1975年6月20日の小島純一による書き込みより)

〔主な出来事〕

 数年来の活動展開の局面の中で、本年度も鉄研の活動は様々な面で活発に展開。大学祭でのアトラクション展示など新たな趣向の企画がいくつも実行されていきました。そして会員間の雑記帳、『鉄研ノート』を舞台として戦わされた鉄道趣味、鉄研活動の在り方を巡る熱い議論は、何よりもいきいきと当時の熱気を今に伝えています。こうして本年度は70年代中期における鉄研活動の展開に一つの頂点を築いた年となりましたが、一方でSL全廃とともにこれまでの鉄道趣味の在り方、そして会の活動の方向性が大きく転換を迫られた年でもありました。それはまず北海道冬合宿の初の中止という結果に表れ、代わって鉄研らしからぬ自動車熱が一部の会員を捉えることともなりました。こうしてこれまでの活動展開の局面にもようやく転機が訪れたのですが、なお多数の個性的な会員の存在によって会内の雰囲気は活気に満ちていました。そしてこうした活気の中で、翌年度鉄研は新たなる一大プロジェクトへと乗り出していくこととなったのです。 

1976年(昭和51年)度

“昭和51年11月1日、この日は朝からとても良い天気で、空は晴れわたっていた。そしてその青空の下、一番列車は走り始めたのであった”

(『らうんどはうす』第15号、山口博史「西千葉人車鉄道事始記」より)

〔主な出来事〕

 蒸気機関車廃止後最初の本年度は、鉄研の活動の上でも様々な意味での転機となりました。まず何よりも鉄研最大の目玉となる人車が登場。そしてNゲージレイアウトも本年度初めて製作が提起されました。こうして以後の活動の中心となる新たな企画が始められる一方で、写真展・冬合宿と伝統ある行事が本年度を最後に幕を閉じていきました。冬の北海道に蒸気機関車を追い、そしてその写真を写真展で発表する、そうしたこれまでの活動スタイルが根本的に転換を余儀なくされていったことを、このことは何よりも示しています。更に会員数も本年度の初頭に50名あまりに達した後、以後は一転して急速な減少の過程へと転じていきました。こうして活動が転機を迎える中で、道東馬鉄研究会メンバーを中心とする有志会員により進められてきた旧陸軍鉄道聯隊の研究成果が『軌匡と双合』の刊行として結実。これを有終の美に、馬鉄研は主力の4年生の引退とともに3年間の活動の歴史に幕を閉じました。そして鉄研全体の活動も、鉄道趣味そのものが大きな変動期を迎えるとともに、これ以後再び模索の時代へと入っていくこととなったのです。 

1977年(昭和52年)度

“現在の鉄研は傍目にも良い状態とは言えないのではなかろうか”

(『らうんどはうす』第14号、小島純一「鉄研回顧録」より)

〔主な出来事〕

 SLブームの終焉を受け、本年度鉄研の活動は更なる転機を迎えていきました。例えば模型分野においては、これまでのHOに代わり主役となっていくNゲージレイアウトがついに登場。前年度に登場した人車も、車体に改造が加えられてより一層の充実が図られ、更にこれ以後鉄研の特色ある企画の一つとなっていくジャンケンゲームも初めて考案されました。しかしながらこうした成果の一方で、本年度活動は様々な面で少なからぬ問題に直面していきました。例えば新入会員の減少、『らうんどはうす』発行の遅れ、研究発表の実行の困難、更に財政危機…。コンパや旅行といった親睦活動についても、冬合宿が初めて中止されるなど実行は不活発化でした。こうして全体の状況としては多分に停滞の様相を帯びる中で、年度末より活動の活発化に向けて取り組みが開始。川合博ら1年生達を中心に、まず新年度に向けて久々の新入生勧誘活動を計画することとなりました。そしてそうした努力は翌年度以降、鉄研活動を新たな方向への発展と導いていくこととなったのです。 

1978年(昭和53年)度

“今年は僕の望んでいた“非鉄研的人間”が入会してきたことを喜んでいますが、反面、それによって生じた問題とも取りくまなければなりません”

(『鉄研ノート』vol.13、1978年5月8日の川合博による書き込みより)

〔主な出来事〕

 本年度は数年来の活動転換の流れの中で、新たな方向性への展開がようやく軌道に乗り始めた年となりました。4年ぶりの勧誘活動の実行によりまず多数の新入生が入会し、そして以後も同じく4年ぶりの選択乗車旅行、3年ぶりのソフトボール試合への参加、夏合宿の改革と発案より1年目にしてのジャンケンゲームの実行、そして2年ぶりの春休みの合宿と、特に旅行やレクリエーションの面で格段に活発に活動が展開されていきました。その一方で会員の活動面でも、本年度は新たな方向性が見られていくこととなりました。積極的な新歓活動で入会した1年生の多数により、以後会内で「旅行派」が形成されていくこととなったのです。これまでの鉄道ファンとは異なる、より幅広い鉄道趣味の趣向を有する彼等の存在を川合博は「非鉄研的人間」と批評。そして彼等にふさわしい活動部門として旅行部門の新設を提案しましたが、結局本年度には実現を見るに至りませんでした。また川合を中心に進められた旅行企画を中心とする活動活性化の取り組みに対しても、1年以外の学年の反応は鈍く、こうした方向性が活動の上で完全に定着したとはなお言い難いものがありました。かくしてこれ以後も活動の活性化を目指してより一層の努力がなされ、その中で翌年度、旅行派が独自の活動分野を確立していくこととなったのです。 

1979年(昭和54年)度

“鉄道研究会内に、旅行を専門として活動する人間があらわれたのは、我々が最初ではないかもしれない。しかし過去においては、この分野は、他の者たちによっておさえられてきたというのが本音ではないだろうか”

(『らうんどはうす』第18号、「旅行の部屋」より)

〔主な出来事〕

 1970年代最後の年である本年度、鉄研の活動はそうした巡り合わせにふさわしい転機を迎えました。新たな方向性への活動の試みがより一層活発に展開され、旅行分野を中心に各種の企画が実行。春休みの合宿も本年度より学年別による実行が定着していきました。そして部門別の活動では2年を中心とする旅行派独自の活動が本格的に展開。大学祭での企画実行に続き「旅と鉄道の会」結成、そして『旅情』の創刊と活発な活動の成果が認められて年度末には正式に旅行部門の成立が承認され、部門構成の枠組みがここに大きく改められました。また学鉄連への加盟も本年度実現しています。こうして活動が一層多様化を遂げるとともに、本年度には既存の活動の枠組みがこれまで以上に問い直されていくこととなりました。その大きな契機となったのが大学祭の反省であり、本年度顕在化した準備体制の不備は活動内容が多様化する中で改革の必要性を会員に痛感させることとなりました。かくして本年度末、様々な面で改革に向けた取り組みが推進。中でも『大学祭の記録』と『らうんどはうす』第18号の編集、そして翌年度新歓活動の準備に際しては、1年野崎一哉の担当で次々と意欲的な新機軸が打ち出されていきました。こうした変革の流れを受け、第二次班制度の実施など80年代の新たな活動体制は確立されていくこととなったのです。 

〔編者より小括〕

 以上、まず創立より79年度に至る活動の歴史について、ひとまずその概要を述べましたが、10年あまりの歳月に関わらず、この間の歩みは決して単調なものではなかったことが理解できたのではないでしょうか。それはこの時代における鉄道趣味、更に鉄道そのものを取り巻く状況の変化を反映したものでした。そもそもSLブームの巻き起こる中で結成された鉄研は、その高揚とともに初期の活動を発展させていきました。一時は麻雀流行の中で停滞に陥ったものの、73年度以降は再び上昇に転じ、以後70年代中期へとかけて活動は隆盛を極めました。しかしSLブームの終焉とともに活動は停滞へと転換。かくして70年代後半に鉄研は新たな活動の方向性を積極的に模索し、それは78年度以降、新たな鉄道ファンの取り込みと旅行分野を中心とする新たな活動の開拓として軌道に乗っていきました。そしてそれは以後80年代へと至る新たな活動発展の局面を導き出していったのです。

 70年代における鉄研の活動は、決して伝統を墨守するものではありませんでした。時代の変化に応じて機敏に新たな方向性を模索し、そして新たな活動分野を切り開いていったことこそが、活動を常に生命力あるものとしていったのです。当時の鉄研の旧習にとらわれない柔軟さ、新たな存在を受け入れる間口の広さといったものを、時代を超えてそこからは学びとれるように思えます。

(文責:千葉 正史)

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