1969~74年

我らが千葉大学鉄道研究会、その創立から現在に至る、30年の歴史です。

<注>1969-79年度についての記述は、『鉄研史第一編』からの抄録です。同書「通史」の各年度冒頭に掲げられた「その年の言葉」と〔主な出来事〕を引用し、あわせてその年度の活動状況を簡単に紹介しています。

1969~74年 | 75~79年 | 80~86年 | 87年~

1969年(昭和44年)度

“当時の鉄道趣味は昨今程の派手さはなかったけれども、本当の趣味者達の数は決して少くなかった。しかしながら千葉大に入学した彼らは鉄研がなかったため、それに類似したところの旅の会や写真部に散っていたのである。であるから、鉄研を作ろうという呼びかけはすぐに実現の方向性をもっていたわけである”

(『らうんどはうす』第6号、鎌田正男「鉄研回顧録」より)

〔主な出来事〕

 千葉大鉄研が最初に発足に向けて動き出したこの年、学内は大学紛争で大揺れの状況にありましたが、折からのSLブームの高揚の中で当時3年の伊藤正春を中心にまず写真部内の鉄道ファンにより鉄研創立の気運が形成。丁度バリケード封鎖が開始された5月にその発足が届け出されました。ただ具体的な活動はまだ始まらず、実態あるサークルとしての鉄研の発足は、翌年度を待つことになります。 

1970年(昭和45年)度

“念願の部室を獲得した鉄研は活動のよりどころを得た喜びで、さらに発展していく。部室内の整備も着々と行われ、使いよい部室が作られていった……。1月28日には室内を整理するとともに塗装も行われ、各種の備品も運ばれ、ここに名実ともに鉄道研究会は完成した”

(『らうんどはうす』第6号、鎌田正男「鉄研回顧録」より)

〔主な出来事〕

 前年度末の2月、札幌での出会いをきっかけに知り合った2年の穴山潮と旅の会所属の清水敏史を中心に、いよいよ具体的な鉄研組織の立ち上げに向けて新年度より活動が開始。5月の会合開催を出発点に書記・会計制度の確立、役職制度の整備、部会の定期開催開始と活動体制が一通り確立され、その上でまだ部室もないという悪条件にも屈することなく、写真展の開催、夏合宿の実行、そして大学祭への参加と活動が次々と展開されていきました。年度末には待望の部室獲得も実現し、本年度は鉄研にとり活動の基礎が確立された年として、実質的な創立初年度に当たる年と言えます。 

1971年(昭和46年)度

“鉄研とは何か?鉄研の活動とは何か?サークルとは何か?”

(『らうんどはうす』第2号、清水敏史「鉄研の問題点と今後の課題」より)

〔主な出来事〕

 部室を舞台として本年度からはいよいよ日常的な活動が展開され、班制度の実施、『らうんどはうす』の創刊、そして大学祭での研究発表と、様々な面でサークル活動発展の画期となりました。ただ、当初試みられた常設班を基礎とする活動の取り組みは結局軌道に乗るに至らず、それと入れ替わりに麻雀への熱中が少なからぬ会員をとらえていきました。こうして鉄研としてのあるべき活動の姿をなかなか見出すことができぬまま、会の活動は翌年度へとかけて混迷模索の日々に突入していくこととなったのです。 

1972年(昭和47年)度

“問題が山積みしていた時期であり……、脱会者が続発したのもこの時期であり、鉄研にとって試練の時代であったということができよう”

(『らうんどはうす』第9号、鎌田正男「鉄研回顧録(その2)」より)

〔主な出来事〕

 前年度に取り組まれた班活動が「自然解消」の結果に終わったまま、その空白に付け入った麻雀の流行問題がより一層深刻化した本年度は、最初の活動停滞期というべき状況に陥った年でした。夏合宿の中止危機に象徴される活動の全般的な停滞状況の中で新入会員も少数にとどまり、更に上級生からも少なからぬ退会者が出るなど、組織衰退の重大な危機に直面する中で、大学祭の準備をきっかけにようやく活動再興に向けて状況は転換。2年生を中心とする積極的な取り組みのもとで年度後半より会の雰囲気は再び活気を取り戻し、それは翌年度における新たな活動の飛躍を準備することとなりました。 

1973年(昭和48年)度

“当時1年生だった我々の入会で鉄研は一新された”

(『らうんどはうす』第12号、吉田将晃「国文学特講 外論III」より)

〔主な出来事〕

 積極的な新歓活動が成果を収め、多数入会した新入生達の活気あふれる姿とともに始まった本年度、鉄研の活動はこれまで以上に活発に展開されていきました。麻雀流行もようやく下火となり、そして新たな趣向の企画が次々と実行。夏合宿や大学祭といった恒例行事もより意欲的な内容で行われました。何よりも新たな活動の担い手となった1年生達の「イキイキ」とした姿が、会の雰囲気を一新させていったと言えます。こうして鉄研の活動はこの頃よりようやく順調な軌道へと乗り、以後70年代中期へと向けて発展の局面を迎えていくこととなりました。 

1974年(昭和49年)度

“我々が1年の時、最も脅威的だったのは、2年の団結力であった”

(『らうんどはうす』第14号、小島純一「鉄研回顧録」より)

〔主な出来事〕

 本年度も引続き活気に満ちた2年生達を中心に、年度の初頭より活発に活動が展開されていきました。むしろ1年生の方がそうした上級生のパワーに気押されて、一時は活動低調気味でしたが、夏休み以降にかけては新たに6名もの女性会員も入会し、これまでにない活気のもとで活動は盛り上がっていきました。例えば最初の本格的な鉄研内サークル、ナローゲージに関心を懐く会員達により結成された道東馬鉄研究会の活動なども、これ以後の鉄研の活動に大きな特色を加えていくこととなりました。こうして安定した活動発展の局面を迎えるとともに、更なる新たな活動への取り組みも翌年度へとかけて様々な形で試みられていくこととなったのです。

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