人車鉄道のあゆみ

 当会では、1976(昭和51)年以来、大学祭の出し物として人車(じんしゃ)鉄道と呼ばれる人力の鉄道を運行しており、30年余りにわたって大学祭の名物として親しまれています。ここでは、当会の人車鉄道の歴史を紹介し、企画の背景から現代にいたるまでの人車鉄道のあゆみについてふれたいと思います。

当会に人車鉄道が生まれた背景について

 当会が手作りの人車鉄道を登場させたのは1976(昭和51)年のこと、ちょうど当会の会員数が最盛期を迎えた時期にあたります。この時期、千葉大学鉄道研究会では会内に複数の下部組織を抱えており、模型,写真,研究,旅行といった、各々の趣味の方向性に基づいた部内サークルが存在していました。中でも研究を主とするグループには、「道東馬鉄研究会」という北海道のごく小規模な鉄道(殖民軌道)や、旧日本陸軍の鉄道聯隊について調査,研究を進めていた研究サークルがあり、彼らの研究対象の一つに、明治後期~大正期にかけて東日本を中心に点在した人力の鉄道「人車軌道」がありました。このように当時の鉄道研究会において、人車軌道という人力の鉄道について理解があったことを背景に、当時の一人の一年生の発案により、当会の人車鉄道の企画が産声を上げることとなります。

 人車鉄道の企画が浮上したのは1976年6月10日の部会(前期総会)でのこと、大学祭での展示企画を決めるにあたり、当時1年生だった山口博史氏の発案により、「実際に人が乗れる程度の鉄道を作り運転することはできないか」というプランが打ち出されます。このプランは注目を集め、翌週6月17日の部会で大学祭の展示テーマとして正式に採用されることとなりました。

人車鉄道運行までのあゆみ

 「人車鉄道」が大学祭の展示テーマとして正式に決まったと言っても、決定が6月17日ですから準備期間は長くはありません。短い準備期間の中で、驚異的なスピードで部材の調達、車両の製作が進められることとなりました。まず、6月26日には交通博物館(東京都千代田区.2006年5月に閉館し、2007年10月に「鉄道博物館」として埼玉県さいたま市に移転)を見学して展示されていた実際の人車車体(松山人車軌道:現在の宮城県大崎市で運行されていた)を視察、車体の設計に着手しています。

 人車の資材調達にあたっては、まず「レールをどう調達するか」が最初にして最大の問題として持ち上がり、レールに関しては出来ればトロッコのレールを使用し、調達が困難な場合は代用品として戸車レールやL字鋼などを用い、車輪は門扉用車輪などで適当なものを見繕う計画とされました。ちなみにトロッコ用(6kg/m)の新品を見積もったところ25m分で5万円以上することが判明し、会の財政上新品の購入が困難であることから、「当時すでに廃止されていた鉱山鉄道や森林鉄道の廃品を再用する」との方針に切り替え、会員にはこの条件に適った適当なレールを見つけるよう指示が下されています。しかし、レールの重さや運搬上の都合など、条件に見合ったレールを見つけることは困難で、レールの調達に関しては3か月以上足踏みが続くこととなりました。この間、代用品の調達も検討されています。

 レールの調達が難航する間、車両の製作が進められ、車輪および車軸,軸受けについては、75会渋谷氏のご実家の鉄工所にて製作が可能であるとの連絡があり、問題なく発注することが出来ました。製作費用も、工員さんの手間賃としてタバコ代程度でよいとのご返事を頂いており、後にお礼としてタバコが進呈されたと伝えられます。

 レールの調達についてはなおも難航し、大学祭まで1ヶ月を切るところまで調達のめどが立たなかったものの、当時会内で地理通として知られた金森信孝氏(75会)の尽力により栃木県の葛生鉱山で廃レールが野積みにされているとの情報を得、その所有者であると思われる駒形石灰工業(株)さまとの交渉の結果、無償での譲渡を取り付けることに成功しました。こうして5mのレール10本(25m分)の調達に成功し、人車鉄道実現に向けての最大の難題がクリアされます。

 車体の方も必要な部材を大学近辺の大西建材(千葉市稲毛区)さまに発注、大学祭直前の10月21日に製作が開始されました。この時の車体は、ともかく人が乗れる箱が出来ればよいとの方針であったことから、ロープウェーのゴンドラ然とした車体側面中央に出入り口を持ち、両端に椅子が向かい合わせで配されたスタイルでした。車体幅も、600mmが想定されていた軌間に対応した狭いものとなり、現在まで伝わる細面の車体の原型がこの時確立されます。車体色は、当時の国鉄特急色が鉄道車両らしいのではないかということから赤とクリーム色が採用されていますが、塗り分けを逆にし、車体のベースの色を赤、窓周りをクリーム色とするカラーリングにされました。こうして車体も10月30日の塗装作業をもって完成することとなります。

そして、一番列車の運行へ

 車両が完成すると、引き続き線路を敷設する工事に取り掛かることとなりました。現在は大学祭を前に自由企画(キャンパス企画)として人車鉄道の運行が企画書として提出されていますが、最初期は許可を提出することなく(大学祭の企画に当時どのような許可が必要であったかも詳らかではありませんが)、ゲリラ的に運行を行っていました。理由はやはり大学内に線路を敷設する許可を得ることが難しいとみていたことと、企画の立案から実現までの時間的な制約によるものです。また当時は西千葉キャンパス内にまだまだ空き地が多く、線路を敷設する用地が残っていました。そこで、大学祭での展示教室から近く、かつ大学当局からクレームが入りにくい場所として、当時の工学部機械工学科第2学科前の空き地に線路を敷設することとなりました。車両の製造に引き続いての工事で、11月1日の大学祭初日に間に合わせるために残された準備期間は10月31日のただ一日のみ。線路の設営には会の全員が駆り出され、突貫体勢で進められました。当時はまだ枕木はなく、角材を50cm~60cmの間隔で敷設してこれを枕木とし、レールも固定するための犬釘がなかったことから木片と釘でレールが横にずれないようにするという簡素な軌道でした。10月31日の夕方には延長25mの線路が一応の完成を見たものの、実際の車両を試運転させて軌道の精度を調整していった結果、最終的に夜9時ごろになってようやく脱線の心配のない線路が完成しました。

人車鉄道の盛況

 こうして大学祭前日に完成を見た当会の人車鉄道は、晴れて大学祭初日の11月1日から運行を開始することとなりました。この日は朝からよく晴れ渡っていたと伝えられています。キャンパス内に突如として現れた小さな鉄道は、実際に動かし始めると子供たちの大きな注目の的となり、急きょとして1回10円の運賃を徴収して人を乗せることとなりました。細かい営業の記録はつけていませんでしたが、大学祭期間中に10000円以上の運賃収入があったことから、のべ1000人以上のお客様にご利用いただいたと推計されます。こうして人車鉄道の運行は大成功をおさめ、当会の一大名物となったのでした。