人車鉄道の歴史1 (70年代)

1976年(昭和51年)

 全国にも珍しい人が押す手押しの人車鉄道。当会におけるその始まりは、1976年の大学祭の展示で「人車鉄道」をテーマにしたことがきっかけでした。

 そして、当時の1年生の方の発案が、会員たちの「自分たちの手で実際に人が乗れるような鉄道を作りたい」という思いとなって触発し、「人車鉄道」という形で結実していくことになりました。大学祭のテーマとして人車鉄道が選定されたのは6月も半ば過ぎのこと、したがって大学祭までの準備期間はわずか4ヶ月あまりしかありませんでした。このわずかな期間で、全くのゼロから車両を製作し、線路まで調達してきた当時の会員達の積極性には驚かされます。

 初代の車両は、交通博物館(当時)に展示されていた松山人車(宮城県大崎市)に範を取り、車両中央部に出入り口を設置しコンパートメント型に座席を配置した小さな箱型の車両でした。形態としてはロープウェーのゴンドラに似ているものです。

 車輪・車軸といった足回りは、当時の会員の親戚の鉄工所に発注し、タバコ2ダースの謝礼で作っていただいたそうです。レールは栃木県佐野市の駒形石灰から6kgレールを無償で譲受し、枕木は5cm角の角材を切断した手作りのものでした。

 人車初年度の路線延長は20mほど。現在よりも短い、本当にささやかなものでした。また、営業開始当初は無料でしたが、あまりの盛況ぶりに収拾がつかなくなったことから運賃10円をいただき、売上は大祭コンパに充てたそうです。

1977年(昭和52年)

 前年の車両はロープウェーのゴンドラのような、ささやかなものでしたが、この年はより「本物らしい鉄道」への志向が高まったために、車体を新造して2代目の車両を製作することになりました(台車及び台枠は前年のものを引き続き使用)。

 この時に作られた「細面で長方形の車体」という形態が、現在へと受け継がれる人車の車体の標準スタイルへとなっていきます。

 運賃は、この年から1979年まで20円となりました。

1979年(昭和54年)

 前年までは1976年に敷設した線路をそのまま撤去することもなく使っていたのですが、その年に線路の用地に駐車場を作ることになり、人車の線路は立ち退きを迫られます。

 そのため、この年から大学祭の直前に線路を敷設し、大祭終了後に撤去するという現在のスタイルが確立されました。

 また、この年は大学祭の後半2日での営業ながら集客面では大盛況を収めたのですが、途中で車軸が破損するという事故が発生。幸いにも折れたのは軸の端の方であったため、これまで外受けだった軸を中受けにするという応急措置で対処することができました。