人車鉄道の歴史2 (80年代)

1980年(昭和55年)

 この年から、より本格的な鉄道を目指して線路を延長することになり、二子玉川園からジェットコースター用のレールをレンタルしました。これまでの線路延長は約20mでしたが、この年は約50mへと延長されています。

 また、運賃もこの年から30円に値上げされました。

1981年(昭和56年)

 線路延長の方針のもと、八街市の電鉄商事(株)から新品の9kgレールを購入しました。そして、これまでは大学当局に正式な許可を得ることなく大学祭直前に線路を敷設し、終了後に撤去していましたが、この年から事前に用地の使用許可を取った上で線路を敷設していくことになりました。

 一方、車両は長年の走行によって老朽化し、ただでさえ屋根や側板が傷んでいたところに、車軸が真ん中から折れるという事故まで発生し、人車鉄道は存続の危機に立たされることになります。

1982年(昭和57年)

 前年に車両が壊れてしまったために、存続の危機に立たされた人車鉄道。一時は廃止論まで飛び出しましたが、前年のレール購入代金を捻出する必要もあり、6月の部会での議決によって人車鉄道に存続の道が開かれたのでした。そして、人車鉄道は、「毎年自分たちで更新していく手作りの鉄道」として、当会においての位置づけが再定義されることになります。

車両の方も、これまでのものを7月に解体した後、10月には新しい台車が千葉市松波の鉄工所から納入され、また車体の組み立ても行われました。これらの苦労の甲斐もあって営業では大きな成果を挙げたようです。

また、この年はサークル会館の現在地の移転に伴う引越しや、副業として古レールをカットして文鎮として売り出すなど、様々な出来事があった年でした。

1983年(昭和58年)

 この年は場所があまり良くなかったためか集客面ではそれほどの成果は挙げられませんでしたが、線路延長は実に100mにも達しました(この記録は現在でも破られていません)。したがって、作業の段取りはきわめてスムーズに進められました。

 車両には、アニメブームの世相を反映して「うる星やつら」のキャラクターのヘッドマークが取り付けられ、にぎやかな印象となりました。

1984年(昭和59年)

 人車史上最高の集客を数えた年です。わずか2日間の営業で、2000人ものお客様を集めるという盛況ぶりでした。

 これまでの実在の車両に即したカラーリングから転換し、ピンク色をベースにしたオリジナルカラーとしたことで、「アトラクション」としての効果を高め、最大のお客様であるお子様たちの目を引いたようです。

1986年(昭和61年)

 人車鉄道も10周年を迎え、記念乗車券の販売が行われました。また、これまでのあゆみを振り返って10年史が編纂され、研究冊子として発表されました。

1987年(昭和62年)

 6年ぶりに車体が新造されることになり、10月に4代目車両「ジハ2001」がデビューしました。車体妻面にドアを設け、金属屋根を採用したのが特徴です。またこの年はストラクチャーの充実が図られ、人車の入口部に初めてホームが設置されました。

1988年(昭和63年)

 接客面の拡充が図られ、揃いの制服として黄色の法被が作られました。

1989年(平成元年)

 現理学部大学院棟での最後の運行となった年です。また、この年も暖色を多用したオリジナルカラーでしたが、この年以降、「遊戯施設としての人車」から「手作りの本物の鉄道」へと回帰が図られていくことになります。