#7

見上げた天井が、一瞬どこだかわからなかった。白くてぼこぼこした凹凸のある無骨な天井。今日は、いつだ。時計を黙らせ携帯カードを起動させると腕時計の通販サイトが立ち上がった。何の話からだったか時計の話題になって、それで調べたんだったか。昨日のことのはずなのに、ずいぶんと前の事のように感じる。

コンビニに行く気も起きずもぞもぞと着替えて歯を磨く。まだ頭が混乱している。夢じゃない。あれは、夢じゃない。……そしてあの顔を、僕が見間違えるはずがない。

あの交差点の向こう側。僕らの乗る飛空機に突っ込んできた機体。そしてその運転手。鏡に映る自分を眺める。ボサボサの寝癖頭に無精髭。あの男は、こんな感じだったけどもう少し老けていただろうか。泣きそうに見えないこともないあの無表情な能面ヅラは、今の僕にはできない表情だ。

あれは多分、けれど、それなら、なぜ。

寝癖を直し髭を剃り、身だしなみを整えて家を出た。本屋でいつもの本を買い、集合場所の大時計の下でページをめくる。何度も読み、飽きるほど映画で見たのにどうしてこうも毎回受ける印象が違うのだろう。

「あーもうやっと見つけた! 何でこんなわかりにくい所に居るのよ」

「ミズが指定したんだろ」

ため息をつきながら応えて立ち上がる。渡されたミズの携帯カードはアプリワールドのページ。それからミズが「ここ行こ」と言うことも、「おごって」とねだることも、全部全部、僕はもう知っている。台本を読み上げるように一言一言答えていって、やがて会話は終了した。

「タカ」

「ん」

服を引っ張られて見下ろすとミズはどこか心配そうな顔で僕を見上げていた。

「難しい顔してる。……何かあった?」

「……何も」

遅れて来たキョースケに大きく手を振って、込み上げてきた涙をごまかした。

表情一つでミズの言動はこんなに変わるのに、どうして結果は変えられないのだろう。

駐機場で飛空機を降りて映画館に向かう途中、そのドーム状屋根に大写しになる俳優と映画のタイトルをつい目で追った。憧れない職業だと最初は思ったけど、今は少し羨ましかった。映画の台本の中とはいえ、彼らは仲間を救えるのだ。他人を救えるのだ。台本にさえ書いてあれば、誰だって救える。その先に待つのはハッピーエンドだ。

「何ボッとしてるの。始まっちゃうよ」

館内に滑り込み、ど真ん中のミズの席の前に座る。やがて照明が落ち、闇の中を広告が駆け巡る。そして再び静かになり、映画のオープニングに入った。

もしかしたら、僕も何かのストーリーに組み込まれていて、……そこにはミズを救う方法も、ミズを救う方法も、書かれていないのかもしれない。

いつもと同じように、主人公は事件に巻き込まれる。いつもと同じように、彼らは走る。他の登場人物と協力しライバルと共闘し旧友と別れ、いつもと同じように……少女を救い出す。宮瀬が言っていた鳥のシーン、今まで聞き取れなかった英語は確かに「ゴー・アラウンド」と発音していた。ヴァズ、ゴーアラウンド。ヴァズというのは鳥の名前で、どこかの国の言葉で鷹を意味するとパンフレットに書いてあったはずだ。ヴァズ、ゴーアラウンド。ヴァズ、ディセント。クライムメインテイン……ディセント。そして手が手をつかむ。

「すっ……ごい映画だった! さっすがデニーロ!」

興奮冷めやらぬ勢いでまくし立てるミズにひきつつ記念品売り場に目を走らせた。電子書籍のブースでパンフレットをダウンロードする。何も買えず手持ち無沙汰なキョースケが横から覗きこみ、「そんなにはまった?」ときく。「いい映画だ」適当に答えておいた。

「買いたいものがある」と婦人服売り場に向かうミズを見送って、僕とキョースケは食品売り場で夕食の食材調達回りをする。菓子コーナーで「お前これ要るだろ」とねりねりねりねを見せたら「子供じゃねーんだから」と笑われた。何だよ。一回目の時は絶対必要だって熱弁してたじゃないか。

「……なあ、ミズは何買いに行ったんだ?」

「え? あー、えっと何だろなああ? そうだ、気になる服があったんじゃねーの?」

何で慌てるんだ。

「気になる服があったならさっき通った時に買えば良かっただろ。今から行くにしても一緒に行けばいいだろうに……」

「……あ。あれだ、……下着」

「じゃあ何でキョースケが半額出すんだよ」

「……は?」

そうか、このキョースケはまだミズの買い物の半額を払っていないんだ。「悪い。勘違い。何でもねーよ」笑って手をヒラヒラさせるとキョースケは「なんだよー」僕の動きを真似して、それ以上何も言わなかった。

待ちくたびれたミズは前と同じゲームの同じ面をやっていた。数日前発売の乙女ゲーをいまだにやっている。……違う、このミズにとっては昨日発売の最新ゲームなのだ。イヤホンに聞き入るミズをしばらく待つ。選択肢を間違えてまたお目当ての男にに振られていた。一段落したところでやっぱりミズはキョースケに何かの代金を半額分要求した。それが何の代金なのかきいても「内緒」答えてくれない。

「いーんだよ。俺はあの店と店長が好きでやってんだ」

前を歩く大きな背中がいつも通りバイトの話をしている。「いつもそれ言うけどいつまで色々おごらせる気なの」ミズからごもっともなツッコミが入るのもいつも通り。落ちていた空き缶を蹴飛ばしてしまいカラコロと転がっていった。それはすぐに清掃ロボに拾い上げられ回収袋に消えた。仕事を果たした清掃ロボは何事も無かったように走行を再開して角を曲がっていった。ああいうタイプのロボットはプログラムで規定されたルートを規定された速度で走行したまにあるゴミというイレギュラーにも規定された処理動作をする。生活補助ロボット研究黎明期に真っ先に実用化されたといってもいいこの分野のロボットは機能にほぼ何も進展の無いまま今日に至る。逆に言えば実用化された何十年も前のその時点で清掃ロボの機能は完成されていて、それ以上の発展も変化もありえなかったのだ。

足を止める。

「……タカ? どうしたの、行こう」

「タカ? どした」

いつも通りの二人。この後飛空機で交差点に差し掛かり、他機に突っ込まれて居なくなる二人。最初と、今。何も変わらないままに駐機場へ向かう二人。ついていくように歩く僕。それも同じままで。

「ミズ」

首を傾げる。いつも見る仕草なのに今さらドキリとして、次の言葉をためらう。

「……と、キョースケ」

遠くで蝉が鳴く。

「ありがとう。ごめん、もう、……さよならだ」

エンジンと反重力装置をオンにして桿をひく。ブルン、と機体が震えてゆっくりと機体が浮き上がる。後ろには誰も居ない。乗るはずだった二人はもうはるか下で途方に暮れたように立ち尽くしていた。

ミズは、キョースケが家まで丁重に送り届けてくれるだろう。キョースケなら大丈夫だ。ミズと、キョースケ。……なんだ、思い浮かべてみれば案外お似合いじゃあないか。

バックミラーの端に映った眉間にシワが寄っていた。「難しい顔してる」って言われるな。

「どした?」ってきかれたら……今はちょっと答えられないか。晩飯の鍋、食いたかったな。チョコミント、苦手だけど一口ぐらいもらえばよかったな。アプリワールドの夜のライトパレード。映画の続編。駅前に新しくできた、洋食店。「ゲッチョー」。

今更何だ、と鼻で笑って侵入高度に入る。何度も、何度も見た気がする交差点。青い信号の向こうに……居た。寝癖と無精髭がひどい、ちょっとやつれた見飽きた男。いつもと変わらない、感情の無いぼんやり鋭い目だ。ふ、と安堵とも緊張ともつかない息が漏れた。

桿を握る手がブルリと震える。この機を逃すか。自動補助運転装置を切る。ああ、これで僕は二人を救える。これで僕が二人を霊安室で見下ろすことはない。「あれタカ」驚いたようなミズの顔を思い出す。「悪い遅れたー」キョースケはいつも遅刻で。嫌だ。いや、これでいい、これでいいのだ。とりあえず二人は変わらず笑っていられるのだから。

もう運転に不安はない。何度も何度も同じルートを運転して、慣れたから。発進も停止も高度変更も今ならきっとお手のもの。慣れたはずなのに手が汗でびっしょりだ。

信号がパ、パ、パ、と点滅して赤に変わる。いつもなら「ねえタカ」とミズが言う。誰に応えるでもなく「うん」と呟き、僕は思いきりアクセルを踏み抜いた。

ドン、と衝撃があって、世界は吹っ飛んだ。