#3

胸くそ悪い夢を見た。

……と起きた瞬間思ってから一気に体を起こす。違う、これは現実だ。現実なら結果を変えなければならない。壁の時計を見る。起きてすぐ、僕は何をやったんだったっけ。

朝食は抜くことにして、かなり早めに家を出る。集合場所である大時計には向かわず、改札でミズを待つ。

集合時間まではまだある。手持ちぶさたに鞄を探り、さっき買ったばかりの本を取り出した。最近の本屋はどこも紙本なんて置いていなくて、電子書籍データベースと化しているがこの本は珍しくレジ前に数冊置いてあった。店員には「買う人いるんですね」と物珍しげに言われた。「店長がいつも紙で買う変人がいると言って入荷した」らしいがそれはまず間違いなく僕である。

原作の中身は映画とはかなり違った。映画は「尺」があるので縮めなければならないし、シーン間の小話は省略されがちなのだ。省略したせいで伝えにくくなる要素は取捨選択されて脚本用にストーリーに組み込まれる。逆に会話はぐんと増える。文章なら主人公がダンマリでも話が進むが映像となると主人公は動くなりしゃべるなりしなければならない。……同じテーマの別の話を読んでいるみたいだ。

ストーリーは、ゾンビハンターとペットの猟犬がゾンビに襲われる少女を救い出す話。ここは映画と同じだが、情報屋が女性で宿屋を兼業していた。え、何でこのシーン飛ばしたんだよ。この世界観で宿屋の女主人と会話シーンって画面映えしそうなのに。代わりに鷹匠の男がなかなか出てこない。映画では街に入ってすぐ、市場のシーンで会っていた。よく言えば個性的で面白いやつなんだけどな……。

「あれ、タカ」

ミズが改札から出てきた。「おはよう」と応えて本を閉じる。

「今どきそんな嵩張るもの読んでんの」

「紙の本は電子書籍とまた違っていいんだよ」

「内容一緒じゃん」

「思考は全て紙から始まる」

「何が言いたいかさっぱり」

「本が紙じゃなくなって困るのはヤギだけじゃないってことだよ」

ますます意味がわからないという顔をされた。

二人で大時計に向かうと、キョースケはすでに来ていて携帯カードにバックスクリーンを立ててゲームで暇潰ししていた。「ちょっと待って今いいとこなんだ……」と鼻の下を伸ばすキョースケの脛を蹴って強制終了させるミズ。ミズのゲームは待ってもらったくせにと思ったがそういえばこのミズはまだゲームで他人を待たせていない。

前と同じように飛空機乗り場に向かい、同じ機体の同じ座席に乗り込んだ。路面に引かれた白線の反射が眩しい。

「ねえこれ」

手早く安全ベルトを締めたミズが携帯画面をこっちに向けてきた。空中に投影されたホームページには見覚えがある。

「アプリワールド?」

「そう! さっすがタカ。チェックしててくれたんだ。キョースケ、良い男はここが違うのよ」

「タカはアプリ直結の研究してるじゃん。俺不利ー」

この前ミズが行こうって言ったじゃないか。

「ここ行こうよー」

「今日は映画。デニーロ出てんだろ」

ミズが意外そうにまばたきをする。「何で知ってんの。タカ、映画全然興味無さげなのに」。わかってて映画観賞に連れ出す彼女。映画見ないで本読んでていいですか。

「タカ」

ミズにつつかれ顔を向けるとそこに指があって思い切り頬に刺さった。

「わあ、引っ掛かった」

目をきらきらさせて喜ぶミズ。子供か。

「何すんだこの……!」

仕返しに耳をつまむ。仕返しの仕返しを繰り出す彼女の笑い声が耳に残った。

「ねーえ、食べたいー」

飲食店の看板の前、人通りの多い通路のど真ん中で駄々をこねるもうとっくに義務教育の済んだ女(齢二十一)を、幼稚園児でも相手にする気分でゆっくり眺める。髪を茶に染めきれいに化粧した顔立ちは年相応に大人びた印象を受ける。僕の彼女ながら、美人だ。だまってれば、いいんだけどな。

くりっとした目でしつこくにらまれため息をついてコーヒーを置いた。

「自分で買えよ……」

「お金だして」

「たかるな」

ミズはぶーっとむくれてメニュー表を抱き締めてそっぽを向いた。本当に幼稚園児みたいだなこの人は。

「いやあ厳しいなータカは。ミズ、俺に乗り換えない? 俺ン所ならおやつ代くらいおごってやる」

ずずぅ、とストローでコーラを吸いながらキョースケがいう。すねて口をとがらせたままのミズが振り向いた。

「チケット代は?」

おい。

「出す出す♪」

親指立ててんじゃねえキョースケ。

「服代は? 化粧代は?」

「もちろんさ、どんと来い☆」

胸を張るキョースケ。

「金があったらな!」

べっしん。

どういうコントロールをしているのかメニュー表をキョースケの顔面に投げつけて「やめとく」と椅子に座り直した。

「いいのかミズ~。俺みたいな剛胆な漢そうそう居ねえぞ? 後で「あーキョースケと結婚すりゃよかったー!」とかなっても知らねえぞ?」

女声やめれ。

「安心して。キョースケは運転手であってそれ以上にはならないから。黙って飛空機操縦してなさい。……あとタバコくさいの何とかならないの」

「ならねえな。タバコは漢のロマンだ」

そう言いつつシュポッとライターでくわえタバコに火をつける。だからタバコくさいって言ってるだろうが。せめて加熱式タバコに切り替えてくれ。

そろそろ時間だったな。時計を確認して残ったコーヒーを飲み干す。行くぞ、と手を出すとまだちょっとすねつつもミズはそれに手を乗せた。

初回どんなに感動した映画といえど、三回目ともなるとこうも退屈なのか。前回見たときは「あ、あの俳優後ろで鼻ほじってら」とか結構見所があったのだが今回は後半睡魔に襲われた。内容は荒廃した世界でゾンビハンターの男とペットのゾンビ犬が少女を救い出すという西洋映画でありがちなヒーローものといったところだ。ストーリーの大筋は朝読んだ原作と同じだった。ゾンビものをカップルで見に行くと言えば主人公がゾンビに女が男にしがみつくところを想像するだろうが、ミズはゾンビが出てくるたび目を爛々に輝かせて画面をくいいるように見つめるので雰囲気もへったくれもない。珍しくもせっかく隣に座ったというのに。むしろキョースケの方が耐性が無く何かとそのがっしりとした腕でしがみついてくる。やめろ、僕にそっちの気は無い。

エンドロールを見送って場内の灯りがつくと、ミズはうーん、と伸びをして立ち上がった。「よかったあ」と嬉しそうに言うのでうん、と生返事をしておく。僕はもう飽きた。アクションシーンがいいのよね。うん。犬が主人公助けにくるとこ感動した! うん。季節のフルーツパフェおごってね。うん。

……あ。

しまったやらかした。しかめ面をあげると「よしゃあ」とガッツポーズのミズと「策士だなあ」と笑うキョースケ。

……仕方ないなあ、とため息をつきながら財布から五百円玉をはじき出してやるとミズは器用に空中でつかみ小走りに売店へ駆けていった。俺コーラとか言ってるやつがいるがシカト。お前は自分で買え。

マンゴー、キウイ、パイナップルと夏のフルーツ満載のグラスを片手にほくほく顔でミズがテーブルに戻ってきた。「はいおつり」シャランと百五十円の返却。「ん」と受け取りスプーンが二つささったアイスを眺める。手を伸ばしかけて、やめた。

「あれ? 食べないの、タカ」

食べて当然のようにミズが言う。

「お金出してくれたのタカだから、食べたって怒んないよ」

「ミント嫌い」

「あ……そう」

つまらなそうにスプーンをくわえる。しばらくそのままパフェを観察し、くるりと回して写真を撮った。いただきます、小さく声が聞こえてしゃりしゃりと氷漬けのフルーツを削る音に変わった。

時間潰しにIDリングをいじる。IDリングで見るのは大抵ネットショップかSNSだ。あー、時計いいなあ。IDリングがあるから必要なアイテムではもうないけど格好いいんだよな。カレンダーとか気圧計とかGPSとかアプリ連動通知機能とか、色々機能が詰め込まれているやつを見かけるとわくわくする。いや、もちろんそれらの機能もIDリングひとつで事足りるものだけど。

キョースケがIDリングを操作して何かアプリを起動させた。ちょいちょいと指で招くので顔を寄せる。

「見ろよ。エンテアールの『ナイトピーチ』だよ。これマジいいんだよ~」

「……」

見るまでもなくもう二回も見せつけられたタイトルだ。ため息をつきつつ目を反らす。年齢制限のあるアプリは空間写映が出来ない。スクリーンが立ち上がるのを見とがめてミズが微妙にまゆをひそめるが許せ、男の性だ。ていうかミズだって夢中で乙女ゲーやってたじゃねーか。

プレー画面に移行して二次元画像の女性に色々させ始めたが一回目の興奮はどこへやら、熱弁をふるうキョースケの暴走をあっさり見送って自分のリングの操作に戻った。

「……キョースケ。そっち系のゲームだと『シャンデリアガール』ってのがあるぞ。3D」

「2Dがいんだよ俺は」

「なんで。3Dの方がリアリティーあっていいだろ」

「リアルすぎて、夢が無いんだよなー」

「そこに居る気分になれんじゃん、夢いっぱいだぞ」

「凹凸とか質感とか妄想したい」

「それこそ3Dの方がムグ」

口一杯に広がって鼻に突き抜けるチョコミントの味。「うげえ」吐きそうになりつつ何とか飲み込む。

「何すんだ。ミント嫌いだってさっき」

「私はそーいう話を公衆の場でされるのが嫌い」

「……」

すみません。

後で注文したコーヒーを飲み終わる頃になってミズはようやくパフェを食べ終わり、「買いたいものがある」と婦人服売り場へ消えていった。

なだめすかしてさらにおだてて、何とかキョースケを操縦席に座らせた。「見て学べよ?」ということでタカは助手席である。後ろで一人になったミズは「うるさいのがいないからよく眠れそう」とわざとらしく大あくびをしてみせた。

「じゃ、行きますか」

キョースケが操縦桿を引き、機体はぐううん、と上昇する。何度乗っても離陸の瞬間はワクワクする。初期の飛空機は浮上事故に墜落事故が相次ぎ重力子研究そのものの継続までも危ぶまれたらしいが、それでも飛空機の開発が続行された理由の一つはこれに違いない。古来から空を飛ぶことは鳥を羨んだ人類の夢であり、人類は何世代もかけてその夢を叶えたのだ。

明日、じゃなくて明後日、ミズとアプリワールドに行こう。……いや、キョースケも一緒に三人だ。ミズと二人の時間は、今日さえ過ぎればいくらでもある。

「キョースケ。お前今月の給料大丈夫そうか?」

「あーうん、今月はもらえそう。今月っつーか1月2月分だけどなー」

「なら入場料自腹でオッケーだな」

「どこ行くん?」

「アプリワールド」

やったー! と後ろから元気な声。寝てたんじゃなかったのか。逆にキョースケはげんなり顔で「何曜日ですか」「月曜日。祝日」「俺行かなきゃ駄目ですか」「駄目です。強制参加です」ハンドルにガックリと突っ伏した。

「なんだよ。二ヶ月分も給料入るなら自分の入場料くらい余裕だろ」

「払えないわけじゃないけどさー、滞納してる家賃とか光熱費とかー? 払うから残額ピンチでさー」

ぶつぶつと滞納額合計を暗算し、直近一ヶ月分の必要経費もその場で出して(だからタバコやめろよ)残額を一円単位で答えてみせる。すごいがそれで金は増えない。

「……金貸してくんねえ?」

「嫌に決まってんだろ。いつ返してもらえるんだよ」

だよなー、と陽気に笑い「まあ何とかするわー」と言いながら侵入高度に上昇した。パ、パ、パと信号が点滅して交差点に入る前に青になり、飛空機は列の先頭で停止した。青信号の時は立体交差する航行高度上の機体が動き、赤の時は侵入高度の機体が動く。えーと右左折のウインカーは高度変更前で、航行高度侵入は左折が優先だったな。幸い正面には一機だけなのでそれを待てばスムーズに曲がれそうだ。

「よっし、じゃああと頼むわ」

キョースケがささっと安全ベルトを解いて席を立ち上がった。ピピー、ピピーと警告音が鳴り響く。

「え、おい待てよ」

「見てるだけじゃ操縦の練習にならないだろ? 運転代われよ」

「待てってキョースケ」

後部座席に無理矢理移ろうとするキョースケの服を慌ててつかむ。待て、待ってくれ。駄目なんだ。駄目なんだよ。

「危ないだろー。引っ張るなよ」

手を振り払って背もたれを乗り越える。僕はその腕をつかんで思いきり引っ張った。

「いいから前に来い」

「おい馬鹿、痛えって」

頼む。前に居てくれ。運転席に座っててくれ。嫌だ、嫌だ。

パ、パ、パ。視界の端で信号がまた点滅し赤に代わる。

そして、正面の機体が真っ直ぐに突っ込んできた。

ドン、と衝撃があって、世界は吹っ飛んだ。












#3・・・2

どうすれば、よかったのか。

事故を知らせるラジオを聞きながら呆然と考えた。考えた、というよりもつぶやいたと言った方が正しいかもしれない。「どうすればよかったのか」というフレーズだけが頭の中をぐるぐる回って何も進展しなかった。見下ろす先にはキョースケの遺体があった。衝突の衝撃で機体から放り出された体は、どこにどう引っ掛けたのか四肢をあちこち切断し、頭部も一部欠けていた。

席を移るキョースケを止めなければよかったのか。衝突前にキョースケが後部座席に着席してベルトも絞めていたとして、相手機を避けるのは結局タカだ。それでは駄目だ。それでは同じになってしまう。

霊安室を出てエレベーターに乗る。今回尻の打撲と肘の擦り傷で済んだためタカの病室は無い。ナースステーションで許可をとり、ミズの病室に向かった。

ドアを引き開けると、ベッドを囲む大量の機器類の稼働音がまず耳についた。昔祖母の病室に置かれていた年代物よりはずっと静かだが、生き物が息をするのと同じように機器類はモーター音をたてていて途切れることはない。ああ、生きている。……機械が。機械が息をし、機械が心臓を動かし血液を全身に送っている。生き残った代わりにミズは機械の一部になってしまった。一番近くにあった酸素メーターに手を伸ばしかけて引っ込める。「手を触れないように」と注意を受けていたっけ。一歩下がって立ち止まる。ベッドの上のミズは目を覚まさない。小さい声で呼んでみたが反応しない。小さすぎたかな。もう少し声を張ったつもりがかすれてほとんど聞こえなかった。もうこのまま二度と覚めることは無いのかもしれない。機内で座席に挟まれて首を折り、一度心肺停止状態に陥って戻ってきたはいいが一時的な酸素供給の停止で脳にダメージが出ているとも説明された。

なあミズ。ミズと僕は生き残ったけれど、これで良かったんだろうか。

何馬鹿言ってんの良いわけないでしょ、と返されるに違いない。良いわけがない、だからキョースケを助けなくては。丸椅子から立ち上がり、病室を出る。「この馬鹿」去り際に病室から聞こえたような気がした。


#3・・・3

宮瀬智博は午後のコーヒーを楽しんでいた。コーヒーといっても豆から淹れたほくほくのブラックではなく、さっき自販機でガシャンと買ってきたカロリーゼロミルク入りの冷たいやつだ。安い、うまい、甘い。最高だゼロコーヒー。

ピピピピピと電子音を立てて測定器が停止しデータ転送が始まる。それを頭半分で処理しながらまた缶コーヒーをすする。さっきも言ったけど最高だゼロコーヒー。

「失礼します」

キュインと自動扉をくぐる音がした。誰だ俺のコーヒータイムを乱す奴は。

「斎田先輩っ?」

「おう」

入ってきた人物に驚きつつ席を立つ。確か昨日事故って入院中じゃなかったか。いつもこの先輩を連れてくる加賀先輩は見当たらない。

「……キョースケなら来ねえよ」

見透かすように言われて背後を覗き込もうとしていた首をひっこめた。斎田先輩は一応部外者のくせにズカズカと奥まで上がり込み、ブルーシートのかけられた機体の前に立った。加賀先輩担当の重力子実験装置だ。

「あーそれ、教授から処分しろって言われたんスけど、バラし方わかんないんスよ。何か聞いてません?」

「……何も」

ぼそりと無愛想に答えながらスルスルとブルーシートを取り外す。巨大な冷蔵庫といった感じの乳白色の筐体のドアにシールを貼り付けたような操作盤が現れ、斎田先輩はそれをパパパと手早く操作し始めた。

「ちょっと、何やってるんスか。触らないでくださいよ」

声を上げたが完全無視でドアを開けて中に入ってしまう。慌てて追いすがったが目の前でパタンと閉まり、開けようとしたが貼り付いたようにびくともしなくなった。

これな、前に生研のウサギ借りて動かしてみてな。中身つぶれてんだわ、開けたら。

試作品の段階で加賀先輩がこぼした言葉が頭を冷たい針のようによぎる。

「先輩! 出てきてください! 危険です!」

叫ぶ声もむなしくピッと軽い電子音を合図に巨大冷蔵庫はガタガタと震え始めた。稼働するところは初めて見た。まるで羽もジェットもついていないのに空へ飛び立とうとするロケットのような、そういえば初期の飛空機は起動時こんな感じだった気がする。飛び立とうと、どこかへ飛び立とうとするように苦しげにガタバタと暴れた後突然ピタリと静止した。

「……斎田先輩?」

静まり返った実験室に自分の声だけ響く。がたり、と測定器の側板がはずれて落ちる。舞い上がるほこりの音さえ聞こえそうな静けさに耐えられなくなって、おそるおそるノブに手をかけた。

「斎田先輩……?」

かたりといとも簡単に開いたドアの先から返事はなかった。ただそこに一冊の本だけが何事もなかったかのようにポツンと取り残されていた。