今日の病院は空いていた。人がまばらな待合室を通り抜けて受付を済ませる。面会札をもらって面会上の注意を確認される。ついでに左肩の調子もきかれた。痛むには痛むけどもう慣れた。それより右耳が聞こえにくくなっているのが今は気になる。補聴器勧められたけどどうしようかな。一時的なものだとも言われてるけど。
エレベーターで三階に上がる。ポンと小さく音がして扉が開き、ちょうど入ってこようとした車椅子に出くわした。
「お、修徒やないか。面会?」
「うん。今日破は今行ってきたとこ? ……まだ安静にしてなきゃいけないんじゃないのか?」
「ほんまはな。でも心配やし」
膝にかかったタオルの下、脚は一本しかない。右足は腿の途中でスッパリ斬り落とされている。まだ体力的に厳しいが傷口の状態が落ち着き次第装具をつけて歩行訓練が始まる予定だときいている。
「……どんな感じ」
「うーん見ててもわからんなあ。全然目え覚まさへんしぴくりとも動かんし」
一旦そのまま上がったエレベーターがまた降りてきた。「ほな俺検査やから」と今日破は降りていった。
ナースステーション横の待合所に知った顔がいた。昨日子と曹と氏縞がテレビ前に座っていた。明日香もいる。明日香は今日破の見舞い、昨日子は縁利と栄蓮の送迎、曹はカウンセリングの時間待ちで氏縞は付き添い。明日香と昨日子は見舞いがあるからともかく曹たちは病棟が違うはずだが。向こうの病棟の待合室にはテレビないんだったっけ。
古いテレビは何かのドキュメンタリー番組をやっていた。警察密着だろうか、無線が入ったところでCMに切り替わる。氏縞は持ってきていたメロンパンをもぐもぐしながらテーブルの上に手をのばしアニメ番組にチャンネルを変えた。自販機でオレンジジュースを買ってきた曹は椅子に座る途中でさりげなくリモコンをとりドキュメンタリー番組に戻す。ことんと置く音がするなり氏縞が手をのばして画面がアニメに切り替わる。曹はオレンジジュースをごくごくごくと一気に飲み干してまたチャンネルをドキュメンタリー番組に変えた。氏縞が手からリモコンを奪ってまたアニメをつける。
「こらあ! 我輩は魏の皇帝曹操の子孫、曹様であるぞ! チャンネル権を我輩にゆずらぬか不敬者!」
「知ったことか! 俺はアニメが見たいんだ! 人々に夢を見せる最高の物語をな……!」
「現実を見たまえ夢想家!」
「夢を見よ若者!」
「将来を見据えて常に思考し努力せよ!」
「少年よ大志を抱け!」
「うるさい」
ドガン
昨日子の一撃でテレビは沈黙した。同時に氏縞と曹も沈黙した。割れた画面の破片がパラパラと床に落ちる。
「テレビ壊してどうするのよ昨日子……」
「だってうるさかった」
静かになって満足げだけど……テレビ……。
曹はあの後、丸一日かけてようやくまともにしゃべれる状態になった。目を覚まして初めて氏縞を見た時は理解できずにパニックを起こし、医師と看護師と氏縞と僕ら総動員でおさえつける事態になってどうなるかと思ったけどずいぶん落ち着いた。暗い場所に行くと異常に怯えたりするけどもうほとんどいつも通りだ。
「けしからん! 本当にけしからん! この尊き我輩、曹様のありがたさを知らぬのか」
「お前こそ俺のありがたさは」
「知っておるぞ」
「え」
ほっほっほと貴族っぽくエアうちわをパタパタさせる曹。氏縞はしばらく固まってから「ははーっ」と時代劇みたいに頭を下げた。「くるしゅうない」とかやってる。……テレビ見れなくなったから代わりに自分たちで演じてる……のか……?
「縁利と栄蓮は?」
「縁利は夜眠れないって睡眠薬処方されてたよ。栄蓮は……」
「まだ」
「……そっか」
栄蓮はこちらで救出され目を覚ました時、向こうであったことを何ひとつ覚えていなかった。お医者さんは一時的な記憶喪失だといっていたし、前回の明日香や僕の件もあるから長くても数年経てば思い出すだろう。
「公正は? 視力どうだって?」
「今日メガネ作りに行くって言ってた。喜邨君は転院先でさっそくダイエットプログラム始めたって」
視線を下に落とす。椅子の背に添えた明日香の右手には昨日よりは小さくなったがまだ包帯がぐるぐるに巻いてある。金属の固定具が一部突き出していて指まで動かないようにしたる。
「これ? 金具はずれるのに一ヶ月くらいはかかるって」
「……」
「そんな顔しないでよ。あれは仕方なかったんだから」
トン、と肩が触れた。そのままぐいぐい寄りかかってくるのであわてて足を踏ん張る。明日香はいたずらっぽく笑って急に寄りかかるのをやめ、反動で僕が明日香の方によろめいた。椅子につかまりなんとか体勢を戻す。明日香は数メートル離れたところでけたけた笑っていた。
縁利たちが戻ってきたので入れ替わりで待合所を離れる。角を曲がり無音の廊下を歩く。各部屋の中ではお医者さんや看護師さんたちが患者さんの治療にあたっているはずだが廊下にはその喧騒は聞こえてこない。集中治療室を通り過ぎて数メートル、個室の前で立ち止まる。名前を確認して中に入った。
病室の中は静かだった。ぴ、ぴ、ぴ、と機械の規則的な音はずっとしているけれど隣室の話し声も街の音も聞こえない。ベッド脇の丸椅子をひいて座る。
冬人さんはベッドで眠っていた。
今日破が言っていた通り、昨日と変わらず目を固く閉じて動かない。腕や足や首元といろんなところに点滴がつながりあちこちにセンサーがついている。顔色は相変わらず悪いけど、昨日よりだいぶ状態が落ち着いたとお医者さんが言っていた。
黙って寝顔を見つめているのも退屈だったので今日市役所行ってきたとか手続きがまだあとあれとこれとそれが残ってて面倒だとか来週から学校に戻るんだとか聞こえちゃいないだろうけど適当にしゃべる。すぐにネタが尽き、また黙って布団を見つめる。
鳴り続けている時計の針のカチ、コチ、という音と機械の電子音がちょっとずつずれていくのに耳をすます。機械の方が速い。何回分ずれてるんだろう……
ふ、とまぶたが揺れて息をのんだ。うっすら目があいて微妙に顔が窓の方を向く。冬人さん、と声をかけると一回まばたきをした。目を覚ました……! 止めていた息を吐き出す。
冬人さんはその動作だけで疲れてしまったのかそのまましばらく動かず、唐突に「みんなは」と音を並べた。こちらの方向を見ているが焦点はあわないままだ。
「みんな無事です」
とりあえずそう答えると少しだけ、本当に少しだけ目元がゆるみ笑ったように見えた。本当は今日破の足とか明日香の手とか色々と無事とは言えないのだけど。
アニアとの戦闘中に大量の吐血をした冬人さんはあの後救急隊に発見されて真っ先に病院に搬送された。助からないと捨て置かれかけたところを今日破が脅して運ばせたらしい。心肺停止状態で失血も多く、病院でも蘇生不可能と即断されたが頼み込んで蘇生を試みてもらった。確率はほぼゼロだとまで言われたがさすが冬人さん、目を覚ました。今は多種多様な生命維持装置と人工臓器がつながっているがそのうち前のように動き回れるようになるだろう。
「……あれがそら?」
うわごとのような言葉を一瞬とらえ損ねてから窓を振り向く。今日は天気がよく、雲ひとつない真っ青な空が病室の窓に広がっていた。
「しろいねえ」
はっとしてベッドを振り返る。冬人さんの目は焦点があわないままどこも見ていなかった。すぅ、とうすく浅い息がかすかにきこえる。
「……そう、ですね……」
声が震える。冬人さんがまたふっと笑う。
「しゅうとくん、の、うそつ、……きぃ……」
まぶたがゆっくり下りていき、すぅっと息と一緒に顔から力が抜けていく。病室はまた時計と機械の音だけになる。
冬人さんはそのまま目を覚ますことなく、 翌朝亡くなった。