まどろみからふと目が覚めて、ぼんやり天井を見つめていた。
夢。そう、きっと夢なのだ。妙に生々しく記憶に残る光景をわざとあいまいにぼかしながらそう思う。今日は……土曜日か。支度しないと。時間はまだ早いけど二度寝する余裕はない。適当に寝癖を直して財布を手に部屋を出た。
進学を機に独り暮らしを始めてからも、朝食は毎日摂るようにしている、朝食は一日のスタートだとはよくきく説教だが実際その通りだとタカは思っている。今日は何にしよう。サンドイッチ。ちょっと贅沢するか……全粒粉のあのサンドイッチ、具が多くて美味そうだったな。
明るい入店音に迎えられて惣菜コーナーに直行した。あー、無いや。何サンドだったか名前が長ったらしくて覚えていないが棚にはそもそもサンドイッチが一つもなく、値札だけになっていた。こんな朝っぱらから品切れかよ。レジ前にやたら人が並んでるからもしやと思ったけどさ。仕方ないのでパンコーナーでソーセージドッグを手に取った。
……なんだ……?
ぞわっとした感覚が手首にあった。既視感が警鐘を鳴らしている。何だよ気持ち悪いな。あれは夢だ、夢なんだろ。……結局クリームパンをレジに通した。
集合場所の大木駅はタカの家から徒歩五分の最寄り駅だ。ミズは別キャンパスに通っているので二駅離れた駅が最寄りで、そこから乗ってくる。それなら改札で待ち合わせるのがスマートだと思うのだがご本人が時計塔を指定なされた。指定した本人が携帯片手にうろうろしてた気がするが。……ああ、それは夢だったっけ。
駅前の本屋が開いていた。休日早朝から開いている店はさすが大学近辺というか、ありがたい。中を覗くと眠そうな目をした店員がディスプレイや検索端末の動作チェックをしているのが見えた。タカに気づいて店員が手招きする。一応、営業開始時間は過ぎてているようだ。
店内にはジャンル別にデータベース検索機器が並び、壁には棚型のディスプレイに新刊の背表紙画像がずらりと並んでいた。気になる背表紙をタッチすれば表紙がこちらを向き、タイトル・作者・あらすじが表示される。人気作ともなればメディアミックスの紹介やクチコミも加わる。レジで暇をもてあまし始めた店員に「ベストセラーでお薦めありますか」ときくと「ベストセラーは中央の総合端末から検索できますよ……ふああ……」とやる気の無いあくび付きで返された。
「その中でお薦めありますか。メディアミックスとか……」
言いかけて、視線を下に落とす。レジカウンターの下に紙本が置いてあった。珍しいな。電子書籍化が進んだ今では紙本を出すことすら稀になってきているのに。そのタイトルに見覚えがあった。手に取り、発売日を確認すると随分前の日付が記録されていた。
「ああ、それ最近公開になった映画の原作らしいですよ。電子書籍があるんですけど、紙本ばかり買う物好きが居るからって店長が」
「……」
無言でレジに差し出す。店長の言うその物好きは間違いなく僕であり、店長がわざわざ準備しておく本なら僕好みの文章に違いない。
「……買う人居るんですね」
バーチャルゲームのレアアイテムでも見るような目で言いながら店員は本をレジに通した。受け取った本はずしりと重かった。
時計塔の下でページをめくる。しゅる、と物語の進む音が小気味よく流れ、読み手を話に引き込んでいく。足音が聞こえて顔をあげると携帯片手にミズがうろうろしていて、「おーいこっち」手を振ると安心したように息をついて走ってきた。
「なんでこんなわかりにくい所に居るのよ」
「ミズが指定したんだろ」
「駅ついたら集合場所がお出迎えしてくれればいいのに」
聞いたようなセリフを聞き流して本を閉じた。ミズは持っていた携帯画面をこっちに向けた。
「ねえこれ」
ミズの携帯画面がマップからテーマパークのホームページに切り替わった。アプリワールド。最近波江崎にできたって、……誰から聞いたんだっけ。
「ここ行こ」
「いつ」
「今日」
今日は映画だろ……。
「何、その顔。何か不満があるの」
「不満しか無えよ……。映画行くって言ってただろ。何、急に」
「行きたいから行くの! 連れてって!」
「たかるんじゃねえよ……」
ため息をついて視線をそらした先にちょうどでかい図体が見えた。
「おーい。気づけー。悪い遅れたー」
でかい声に驚いてミズだけでなく無関係の通行人までビクと振り向く。やめろ、ただでさえ目立つんだお前は。
電車乗り過ごしちゃってさーなどと言い訳しながら「行こう」とレンタル飛空機の店へ歩き出す。
「キョースケ、時は金なり、他人の時は人の情なり、よ」
「んー、そのこころは?」
「待っててもらえたことに感謝しなさいってこと」
それくらいわかりなさいよ、飛空機店の店長から鍵を受けとるキョースケの足を軽く蹴っ飛ばす。サンダルの先がふくらはぎに軽く刺さって「痛てっ」と声をあがった。
「お前昨日夜何してたんだよ。今日朝早いのわかってただろ」
「やー、イイトコだったんだよ」
IDリングを揺らす動作にミズが顔をしかめる。
「またそのゲームか。ユリカちゃんだっけ? 何回振られたら気が済むんだよ」
「や、今はアカリちゃん。聞けよ、昨日イイトコまでいったんだよー」
「電子彼女のノロケ聞いて何が楽しいんだよ……。早く乗れ」
シートに体を沈め、安全ベルトをしめる。僕は助手席でミズが後ろの席。「今日はご利用くださいまして」などと気取った挨拶をした後飛空機は発進した。ゆるやかにスムーズに、駅舎の屋根が離れていく。
「……レンタル飛空機代出してもらおうか」
ミズが耳元で、でもキョースケに聞こえるようにささやいた。そうだな、と大袈裟にうなずいておく。「おいおい勘弁してくれよー……」ぱたぱたとハンドルを人差し指で二回叩いて止まる。
「……手持ちで足りねえわ」
マジかよ。ミズは呆れてため息を吐き、席に戻った。キョースケが金欠なのはいつものことだがそこまで切り詰まってるとは思わなかった。僕やミズに比べれば少額だが仕送りももらっているし、今やっているゲームだって無課金だし特別ブランド物にこだわりがあるわけでもないし何に使っているんだか。というか、そんな節約しなきゃならんほど金が無いならもっとマシなバイト探せよ……。
キョースケは大学に程近い焼き鳥屋で働いている。大通りから一本入った通り沿いの目立たない小店舗でほぼ常時閑古鳥なのでシフトすらなかなか入れさせてもらえず、入れても売り上げが芳しくなく未払い給料が実に三ヶ月分は溜まっている。
「お前さー、なんであの店で働いてんの。向かいにでっかいビアガーデンあるだろ。そっちの方がシフトも入れるし時給もいいだろ」
「いーんだよ。俺はあの店がいいからあの店で働いてんだ」
こだわるのは悪いことじゃないけど生活できる程度にしとけよ……。
キョースケがあの店で働きたがる気持ちはわからないでもない。出される食事は至極一般の居酒屋といった感じだが訪れるお客が桁違いに個性的で経験豊富な友好人で、あそこに居ると色んな話が聞けるのだ。希少な繁忙期に学会が被ったとかで代理でシフトに入ったことがあるが、北海道の北端まで電車で行ってそこで買ったママチャリで鹿児島南端を目指して一人旅中のおじさん、日本百名城の鬼瓦の収集のため城巡りをしているおばあさん、超控えめに流している店内BGMを全て鼻歌で追える常連さん、退店すると必ず串で木工細工が置かれている団体客(作品は店内で展示)に遭遇した。
何より店長が味のある人でよく名言を吐く。
今までの人生後悔したこと無いのかって? あるね。後悔ばっかりだ。けど俺はもう一度人生をやり直したとして、同じ道を来て同じ後悔をして今に戻ってくるだろうさ。一度歩んだ人生ってのは、選んだ時点で最善になってるもんだ。失敗も挫折も後悔も、その人生でしか味わえない貴重な経験だ。
何の話をしていた時だったか、カウンター越しの台詞を思い出した。店長も世界一周しようとして即帰国、バンド結成翌朝解散と盛りだくさんな人生を通ってきているだけあって深みのある言葉だった。「潜入調査」に来ていたミズに軽く目配せして大事にしろよ、と芋焼酎をあおり、焼き網に向かう背中を覚えている。
「今日、モールのどこ見んの?」
「まずは映画。……キョースケにもメッセ送ったと思うけど」
「ん? ああ来てた来てた。いやー日常的にメッセ確認する習慣が無くてさー」
「今確認すんなよ……」
ハンドル片手にIDリングを操作するキョースケを横目にため息をつく。キョースケはヘラヘラ笑って表示を切り、「今日はどんな映画みるんだ?」とまるで反省しないセリフを吐いた。
助手席から眼下を見下ろす。遠くはないが近くもない距離をマンションやアパートの屋根が通りすぎる。そのベランダや屋上にヒラヒラと洗濯物が踊っていた。飛空機が実用化されたばかりの頃は空撮プライバシーについて随分と問題になった気がするが、屋外にはみ出す生活感は今も変わらない。屋根にでかでかと文字を描いた屋根広告は飛空機が飛ぶ前には無かったはずだから、空からの風景はずいぶん変わってはいるのだろうけれど。
映画館のドーム屋根が見えてきて、飛空機は侵入高度へ下降をはじめた。
スクリーンを駆け巡っていた番宣が止まって、もう何回目かになる映画鑑賞注意喚起CMが流れる。上映開始何時だっけ。入場スキャンでバックライトが切れたIDリングでは時刻が見えない。時間チェックはあきらめて、赤いランプに追われる旧式カメラのストーリーを眺める。「これさー、レア物を追いかけるカメラ収集家集団みたいだよな」キョースケがあくびをしながら言った。役の善悪がすりかわっている。
これが最後の一回だったらしく、音声がふっと途切れてシアター内の照明が落ちた。しばらくの沈黙の後、配給会社の社章が流れて映画のタイトルが表示される。映画は砂塵舞う路地を歩くシーンから始まる。大柄では決してない細身の男が、裏通りから人のごった返すメインストリートに入っていく。数秒あけて犬が一匹、とてとてと後をついていった。舞台は中世ちょっと前の中東……いやヨーロッパ? どこだろう。フィクションだからどこでもないのか。ロケ地どこだったっけ。……パンフ買っとくんだった。
男が店に入った。カウンターに居た別の男と軽く挨拶して、カウンターに肘をつく。あれ。こいつ見覚えがある。特徴的な髪型も、メリハリ効きまくった話し方もちょっと大袈裟な仕種も、全て記憶にある通りだった。それで肩をすくめる主人公の表情もまた同じ。
観たことは、無いはずだ。ミズはいくらデニーロ出演作品だからといって同じ映画に二度も引きずっていくような人ではない。既視感だらけの画面に目を凝らして何かを探す。この常連のセリフも同じ、男が人差し指を立てるのも同じ。
……ああほら、酒瓶の並ぶ棚端にオレンジジュース混じってるのは、知らなかっただろ。
「で、進展の方はいかがで?」
「何の進展だ」
工場産野菜をかごに放り込む。キョースケは国際ニュースで見るような仕種で「ハァン? 何言ってんだよー」と両手を広げた。
「ミズとデートをほぼ毎週重ねてて、何もないってんじゃぁ無いよな?」
「ねーよ……」
「ねえの? マジで?」
つまんね、と口を尖らせサラダ油をかごに放り込む。一キロ+αの衝撃が腕にかかってかごを取り落としそうになる。さっき入れたキャベツとたまねぎは無事なようだ。
「そっちこそ彼女は……ゲームじゃなくてリアルの方」
「……あー……。いや、俺は今のままがいいわ」
「一生独身?」
「かもなー。もらってくれる?」
「何言ってんだお前。男同士だろ」
「俺も男とは嫌だな。現実世界のアカリちゃん探しますかー」
結局ゲーム基準かよ。たしかブロンドの髪をツインテールにしていて、目が大きくて緑色だったような。まずこの国にはいないな。居たとしてもキョースケの壊滅的英語力ではコミュニケーションがとれるとは思えない。しかし不思議だよな。それ用にデザインされてるとはいえそんな外国人っぽい女の子でも日本風の学校制服が似合ってるんだから……。
「……そのアカリちゃんってさ、歳いくつ?」
「十四。聖シュヴァルツ学園中等部に通っててー」
「おまわりさーん」
「なんだよ、その歳の子がいいとか、そういうことじゃねえって」
齢二十二の長身マッチョが言ったら不安すぎる。現実のアカリちゃんがキョースケに見つからないことを切に願った。
レジで精算をすませて食品売り場を出ると先に用事がすんでいたミズが暇をもて余してゲームに熱中していた。お待たせの一言にも反応しない。「行こう」と肩をたたくと「邪魔しないで」の一言とセットで裏拳を頂戴した。「今良い所なんだから」今朝他の誰かが言っていた気がする言葉が続いたのでそのままお気の済むまで待機して駐機場に向かった。
「タカ、練習がてら運転してみるか?」
免許取りたてで下手なんだって……言わなかったっけ。いつ言ったかわからないので声を引っ込めて表情で渋る。お前な、とあきれるような表情を返された。
「練習しないと上達しないぞ? ほら代わる代わる」
運転席に突っ込まれてしぶしぶ安全ベルトを締める。キョースケ用にたいぶ遠くなっているブレーキと座席の距離を詰め、座席位置をかなり上げる。あーもう、でかいんだよお前は。
シフトレバーに置いた手がガクガク震えていた。握り込むとおさまったので特に気にせず捍を引いてアクセルを踏み込んだ。機体はノロノロと上昇し、離着陸高度へ、そして航行高度に合流する。
「下手っぴ。もっとこう、スムーズに上がりなさいよ。スーって」
「難しいんだよそれ……」
口答えしつつ確かに今のは乗り心地悪かったかなと反省。
「短距離走でさ、スタートん時思いきり地面を蹴るだろ? あれと同じで、動き出すときには思いきりってえのが大事なのさ」
運転操作のほとんどを自動運転補助装置に任せて眼下の風景を眺める。初めて乗った時はその微妙な高さに恐怖心しかなかったが、今では鳥気分だ。スーパー、コンビニ、レンタル飛空機店といった商業施設の屋上には最近流行り始めた屋上広告がでかでかと貼り出されていて退屈しない。昔ながらの文字を書いた垂れ幕が多いが、ソーラーパネルを利用して販促ムービーを流している店もある。
次の交差点を右、とナビがつぶやいたので侵入高度に上昇した。青信号の前で停止。今日の夕飯の餃子、楽しみだな。今回作る餃子は百味餃子というやつで、中の具材は作り手任せだ。闇鍋の餃子版。変な食材は買ってないから、まあ食えるものが出てくるだろう。青信号がパ、パ、パと点滅する。
「ねえタカ」
「ん?」
ミズの声にミラーを見上げて、
ドン、と衝撃があって、世界は吹っ飛んだ。
#2・・・2
『……デジコガアリマシタ。コノジコデフタリガ』
白い天井を見上げながら、ラジオの速報をきいていた。既に一度はきいたその放送は、ほとんど間違えることなく言葉を追うことができた。
「それ、消して頂戴。病室でそんなニュース流さないで欲しいわ」
「ラジオつけたのナカノさんじゃないですか」
ニュースが途切れる。「気がつきました?」などと看護師に声をかけられ、その人に飲み水を頼んで体を起こす。足には銀包帯。目の上に垂れた前髪がうっとうしかったので払いのけようと出した右手にも包帯が巻かれていた。ベッドサイドの窓が開いていて夕日がまぶしく、片腕で軽く勢いをつけてカーテンを閉じた。
さっきの看護師が戻ってきた。水を受け取り喉を潤す。
「……同乗の、高下瑞希と加賀恭介」
まだ名前しか言ってないが看護師の顔がこわばる。「同じ病院に入院されてます」早口で回答して背中が向いた。そのまま病室を出て行こうとするそれを急いで呼び止める。
「会わせてください」
「ダメです」
部屋との仕切りになっていた方のカーテンがザザッと開く。入り口脇のベッドに座る中学生と一瞬目が合った。
「……死んだのは、知ってます。状態もだいたい想像つきます」
振り返った看護師はラジオをにらんでインカムに耳を傾けた。何か一言二言話し、苦々しい顔で通話を切る。
「…要求されたのは、斎田さんですからね」
車椅子で連れて行かれた先は、金属製の両開き扉の前だった。担当医の面会意思再確認を受けた後中に通される。遺体の載ったストレッチャーが二台、引き出されてタカの前に並んだ。キョースケの方は全体的に白い固定用包帯でぐるぐる巻きになっており、顔もつぶれて数時間前に誰だったのか想像もつかなかった。対してミズの方は比較的傷が少なく、特に顔はまぶたの辺りがちょっと直したような跡があるだけだった。キョースケがかばってくれたのだろう。それでもミズは助からなかったけれど。
「……彼女さんを大事にされてたんでしょうね。とっさにかばわれて……」
看護師がつぶやく。
そうですね。リノリウムに反射する蛍光灯に目を落とし、口の形だけそう答えた。