ふと、目が覚めた。間髪を入れず目覚まし時計がけたたましく鳴り始める。うるっせな。起きてらーよ。黙らせて首筋をぼりぼり掻きながら時間を確認する。あー、二度寝にはちょっと遅い。あきらめて服を着替え、寝癖は放置して近所のコンビニに行く。サンドイッチ売り切れか。こんなに種類あるのに人気だな。ソーセージドッグでいいや……。
……あ。駄目だ。
これじゃ同じだ、同じになってしまう。やっと働きだした寝ぼけ頭をフル回転させ考える。買ってしまったソーセージドッグは仕方ないとして。朝食を手早く済ませ、駅に向かう。途中で早朝から開いている本屋で今日の映画の原作を買った。……一回目と違うことをしようとすると他の時と同じになってしまう。「買う人いるんですね」前と同じことを言う店員に「流行りなんだよ」前と違うことを答えておいた。
そのまま駅に向かい、本を読みながら改札前でミズを待つ。もしかしたら来ないんじゃないか。研究室に行ったのはただの夢で、ミズはまだ病院で眠っているんじゃないか。機械に囲まれて息をしているだけのミズを思い出して不安になる。暇潰しに買った本だというのに全然集中できなかった。幸いあまり待たないうちにミズが携帯片手に改札を出て来るのが見えた。
「ミズ」
呼ぶとパッと顔を明るくして「あれ、タカ。おはよう」と笑う。ああ良かった。ミズはここに居る。
「集合場所ここじゃないよ」
「場所分かりにくくて」
「……私が選んだ場所が悪いと」
「違う」
キョースケだけミズが指定した場所でゲームをしながら待っていた。口元には紫煙立ち上るくわえタバコ。ミズが足を蹴っ飛ばしてゲームを強制終了させた。
「今イイトコだったんだぞ。アカリちゃんがやっとオッケーしてくれて」
そーかい悪かったな。……。
予約してある飛空機に乗るべくレンタル飛空機場に向かう。メーカー各社の懸命な価格競争と政府の補助金で最先端技術の権化とも言うべき飛空機は発売当初よりずっと手に入りやすくなったが、販売価格は未だ一昔前の地上だけ走るタイプの高級車並みだ。学生の身のタカ達には到底手の届くものではない。レンタル代が安くて良かった。
レンタル飛空機店を経営するおじさんは飛空機を借りに来る学生に慣れていて、テキパキと支払いや返却の説明をして「壊すなよ」口角に歯を見せつつ飛空機の鍵をキョースケに渡した。
免許取りたてのタカの運転では心許ないので運転手はキョースケだ。ミズと出かける時は大抵キョースケがだいたい付いてくるが、専ら格安の専属操縦士として、だ。
飛空機に乗り込み安全ベルトの装着を確認して「じゃ、行きますか」キョースケが桿をひく。推進力と浮遊感。急加速も失速も無く、スムーズに侵入高度に上がっていく。「見習いなさいよ」隣に座ったミズが言う。免許を取ってから一度だけ、ミズを乗せて近場を飛んだことがある。エンジン起動はスムーズだったものの反重力装置の起動に手間取り、急発進してそれにビビって侵入高度上昇中に空中失速……とミスのオンパレードだった。以来ミズから「運転して」と言われたことは無い。
「今日、モールのどこ見んの?」
「まずは映画。……キョースケにもメッセ送ったと思うけど」
「ん? ああ来てた来てた。いやー日常的にメッセ確認する習慣が無くてさー」
「操縦しながらリング操作すんな」
「大丈夫だろ。自動補助運転装置が付いてるしー」
今日見る映画はミズが前から見に行きたいと言っていたもので、今週前期試験が終わってようやく行くことが決定した。珍しく「おごって」ではなかった。「デニーロの出る映画だから。ファンなら自分でお金出して見たいじゃない」とミズは言う。そういうものなのか。ちなみにデニーロとは最近人気の男性俳優の一人で、どんな役にも嵌まるカメレオンぶりと劇中の繊細な感情表現が評価され数多くの大手映画製作会社作品に出演している。何度か彼の出る映画を見に行った(……連行された)が、確かに格好良かった。ありきたりな表現を使うなら観衆をストーリーに引き込む何かを持っている、といったところだう。
「ねえタカ」
手渡された携帯カードの空中投影画面がこちらを向く。最先端技術テーマパーク、アプリワールドのホームページ。
「そこ行きたい。ううん、そこ行く」
「いつ」
「今日」
え、とキョースケが思わず急ブレーキを踏む。危険運転と判断した自動補助運転装置により緊急回避高度に強制上昇。
「何してんだよ……」
「悪い悪い。戻すわ。ちょっと待って」
これまたスムーズに航行高度に戻り、一路モールを目指す。
「今日は映画だろ、時間無いって」
むう、とむくれるミズ。いつも思うがそれでも成人か。服装と化粧はバッチリ決めて「知的な大人」感があるのに(実際、新入部員に「高下先輩ってクールですね」と言われているのをみた)少し気を抜くとこの通りだ。タカの視線から思考を読み取りでもしたのかミズが上目遣いにタカを睨んで大げさに顔を窓側に向けた。反抗期の子供か。
「明日にしろ」
「……もう、前から言ってるでしょ。今週日曜は予定入ってるんだってば」
あー、そうだったっけ。確かミズのお祖母さんが入院してて、家族で見舞いに行くんだったか。下宿しているせいでミズの家からは遠く、行き帰りと十数分の見舞いと食事程度で合計一日かかってしまう。
「……ゲッチョーな」
結局最初と同じセリフだ。ミズは喜びキョースケが落胆する。だから金貯めとけって、自分が考えることすら同じまま。
モールの映画館のドーム屋根が見えてきた。飛空機はそこから少しはずれにある駐機場に停める。自動補助運転装置が駐機場サーバーと無線連絡により着陸許可を求め、「OK」の文字がフロントガラス上に表示された。キョースケはフロントガラスに表示される案内に従って手際よく操作し、飛空機は下降していく。
と、降りる先の滑走路に程近い場所の飛空機が動き始めた。白い、箱形機でドアに赤いメーカーロゴが入っている。タカ達と同じレンタル機だ。おそらく操縦経験が浅く着陸機の確認を怠(おこた)ったのだろう。
『F-302、ゴー・アラウンド』
警報音に続いてナビがしゃべり、機体は離着陸高度から航行高度、そして侵入高度まで上昇して停止した。今頃相手機のナビは不注意運転の説教を垂れているだろう。それほど待たされることなく相手機は滑走路から高度を上げて申し訳無さげに飛び去っていった。
「何今の。初めて聞いた」
無事着陸して安全ベルトをはずし、ミズがキョースケをつつく。
「危険運転するとあんなメッセージ出るの?」
「危険運転じゃねえよ……。たまにある」
タカも教習で一度聞いた。着陸操作に手間取る中うっかりアクセルを踏み込んでしまい侵入高度まで強制移動。F-302は機体番号として、
「なあキョースケ。ゴー・アラウンドって何だっけ」
「着陸やり直し指示。もともとは航空用語でさ、風が強かったり霧が濃かったりで安全な着陸が保証できない時に管制から滑走路に着陸しないで再上昇を要請してた。それがゴー・アラウンド」
航空用語か。教習所でもいくつか教わった気がするが覚えていない。
「タカー。面倒くさそーな顔してるけどさ、航空用語勉強しとくと機器間の通信の意味がわかって面白いぞ?」
「飛空機関係の勉強はもう勘弁してくれ……」
必修科目だったから講義も聞いたしテストも受けたがどうにも興味をもてず、赤点を連発し、再試で単位を回収するべくテスト勉強に何時間費やしたかわからない。余裕で一発合格するこいつにはわからないだろうけどな。
モールに向かって歩き出す。見られないようにIDリングを手で覆いつつ残額を確認してため息をついた。
キョースケ、アプリワールド……行きたかったらやっぱお金貯めとけ。
試用版のアプリチップをリングに留める。カバーを戻して説明書のチュートリアル通りに腕を振るとシャキーン! とやたらカッコいい音がした。ヘーンシン! シャキーン、ヘーンシン! シャッキーン。いい年して何とかライダーの真似事……。効果音のお陰であまり恥ずかしくない。通りがかった小学生が「シャッキーン」と真似していった。途端に首筋から耳の後ろにしびれるような熱さがはしる。……ごめん、無理。
「タカ、これ面白え」
キョースケが指をパチンと鳴らすとコォッと音がして青い炎のエフェクトが手を包んだ。その手で投げる動作をするとエフェクトだけ前方に数メートルすっ飛んでいく。またそんな中二くさいものを……。手をパンとたたくとビリリと小さな雷が手に生えた。「水も出るんだぜ」と人差し指と中指を揃えて立ててこちらに向けて指の間から光線がぴゅー。水鉄砲かよ。
「タカ」
「何……わっ」
振り向いて思わずのけぞった。肩の上に何か乗ってる。顔文字みたいなのが乗ってる……。
「これすごいよ(°▽°)」
「色んなの出せる(*´∀`)♪」
「積層モード(・_・?)」
ミズが何かしゃべるたびに肩に乗る白い顔文字が積み上がっていく。やめろ、立体映像だから重くはないはずだけど重たいぞ。
映画を見終わって立ち寄ったアプリショップには目新しいIDリングアプリが勢揃いしていた。つい最近までは、検索アプリ、メールアプリ、カレンダーアプリなど日常生活ガジェットしか無かったのたがいつの間にかその手のアプリはIDリング本体にプリインストールされるようになり、ゲームとか音楽とか娯楽に特化したアプリチップが最近の主流だ。アプリチップ式アプリはリングのIDアクセス機能を利用するだけで、基本的にチップ内蔵メモリで動作処理をするためIDリング本体の動作が重くなることはない。……だからと言っていくつも付けていると物理的に重くなるけど。
「タカ。これすごくいい」
ミズにつつかれて顔をあげるとミズの横に白い吹き出しが出現していた。「タカ。コレスゴクイイ」全文片仮名表記だが言った内容が全てポップアップされる。新しく何かしゃべるとその前の吹き出しは消える。文字の拡大縮小も可能。感度調整可能、数か国語に対応しかも翻訳付き。手の上で火の玉と水鉄砲のお一人様バトルを繰り広げていたキョースケが「翻訳機能」の単語にパッと振り向いた。
「……おばあちゃん、耳遠いから。こんなのがあるって知ったら喜ぶだろうな……」
身障者支援アプリの派生品か。そう言えば視覚補助アプリの研究やってる企業があったな。360度カメラを搭載したミニ飛空機と連動するアプリで、使用者の前方を飛んで階段とか足下の異物とか信号とかを音声で知らせるやつ。使用者前方を飛ぶ、というのがネックで路上実験すると交差点でミニ飛空機がしばしばバスにはねられるんだったか。視覚補助はうまく行ってないが聴覚補助は派生品が出るほど開発が進んでいる。将来の就職とその後の収入変化も考えて各企業の研究内容を見ておかなければ……。
つい大学院卒業後の進路を考え始めてしまっていることに気がつき慌てて頭を振る。今は市場チェックじゃなくてミズとのデート中だ。今後の研究計画に傾きかけた思考を引っ張り戻して別の棚に移る。ミズは知覚補助アプリのコーナーにまだ留まっていて、会話吹き出し化アプリのチップをはずして眺めていた。時折チラッチラッと上目遣いにタカの顔をチラ見する。……。
「買わねーぞ。キョースケほどじゃないけど僕も金欠だ」
むくれるな。おばあちゃんも孫に買ってもらったほうが喜ぶと思うぞ。
ため息をついて平台の上の別のアプリチップを適当に取る。音楽に合わせて光線が出るアプリ……だろうか。
「タカ。もう一回さっきの服見てくる」
「ん。わかった。買うのか」
「やっぱあれがいい。……私一人で行くから、付いてこなくていい。夕飯の材料買っといて」
はいこれ、と買い物メモ。これまた珍しい。いつもなら服の前で「これ買ってー」とやたらねだるくせに。よっぽど気に入ったんだろうか。「行こーぜタカ」キョースケはもう店を出ている。
「食品売り場だろ? 喉乾いちゃってさー。ジュースおごって」
……自分で買え。
ミズと、キョースケが安全ベルトを絞めたのを確認してから捍を握る。しびれたように手が震えるのを見て自分であきれた。教習卒業してから何回乗ってるんだよ。いい加減慣れろ……。捍を引き、アクセルを踏む。キョースケのようにとはいかないが前回よりはスムーズに浮き上がった。
「タカ」
「ん」
「アプリワールド行きたい」
「今日はもう行きません。ゲッチョーって言っただろ」
ちょうどバックミラーで見えないが多分ふくれ面をしている。
「気が変わるかと思ったのに」
「変わるか。僕はそんな朝令暮改頭じゃありません」
「諦めよーぜミズ。こいつがこーいうしゃべり方する時って、テコでも動かねーじゃん」
「……そーね」
あっさり引き下がるミズに、一瞬迷う。だって、もし失敗したら……もし、うまく行かなかったら、ミズにゲッチョーは無いのだ。今からこのまま閉園間近のアプリワールドに滑り込むべきではないのか。なるべく速く飛べるルートを使っていけば、ライトパレードには間に合うんじゃないだろうか。
頭の中でルートを引く。波江崎の、駅近。あの方面への高速ライン。入り口は各鉄道駅と主要都市の交通網中心部にあって、ここの最寄りは……。さすがに思い出せなかった。
交差点に差し掛かり、侵入高度に上昇する。信号が変わるのを待ちながらナビの行き先をアプリワールドにセットしてみた。この信号を右でしばらく飛ぶと左手上空に有田高速ライン入口、か。……良かった、方向は同じのようだ。
信号がパ、パ、パ、と点滅する。肺に刺すような冷えが走った。ちょうど正面、さっきまで他機のいなかった所に左折機が待つ。タカ達と同じ、白いレンタル飛空機。信号が赤に変わる。同じ、同じだ。また、同じ。どうすればいい。どうすればいい。どうすれば、変えられる。
「ねえタカ」
猛然と突っ込んでくる機体。僕は応える余裕もなく目についたそれをぶっ叩いた。瞬時に垂直に僕らの機体は下の高度に落ちる。勢いで浮き上がる体が安全ベルトに押さえつけられる。フロントガラスのすれすれ上をF型飛空機の底が通過した。そのまま視界から飛空機がフレームアウトする。……避けれた……?
じんじんと今さら痛むので手を見ると殴った赤いボタンの色が移ったように握りこぶしの横が赤く腫れている。このボタン何だっけ。えーと、エンジンスターター……じゃない、反重力装置の電源……のわけがない、えーと、……緊急回避ボタンだ。……そういえばそんなのあったな……。
「タカ、上!」
ズン。
ミズが叫ぶも間もなく後ろから吹っ飛ばされて、咄嗟に見た場所に飛空機は無く何が起こっているのか理解できずに振り向いて、キョースケ側のリアガラス越しに猛然と突っ込んでくるフロントガラスの割れた飛空機を見た。……おい待てよ。何で、何で離着陸高度で航行できるんだよ。
慌てて捍に手を伸ばすが間に合わず、
ドン、と衝撃があって、世界は吹っ飛んだ。
#4・・・2
『 デジコガアリマシタ。コノジコデフタリガ』
『 警察ハ身元ノ確認ヲ』
「それ、消して頂戴。病室でそんなニュース流さないで欲しいわ」
『 現場ハ見通シノ良イ』
「ラジオつけたのナカノさんじゃないですか」
『 ニ別ノ機体ガ衝突シタモノトミテ』
ブチッ、アナログな音で雑音混じりの音声が途切れる。
ここ、どこだろう。白い天井。さっきラジオが切られたのでカーテン越しのくぐもった話し声しか聞こえない。
「あ、斎田さん気がつきました?」
そのカーテンが開き、看護師が顔をのぞかせる。
「みず……」
「はい、お水ですね。すぐお持ちしますー」
「……」
どうせミズの安否を訊いても伝わらない。諦めて起こしたベッドに背中をつけた。
右腕に銀包帯、首にコルセット。それが「今回の僕」の怪我の状態だった。首はたぶん衝撃によるむち打ち、右腕は添え木もしてあるので骨折だろう。
事故のニュースはさっきラジオが吐いていた。いつもと同じ三名死傷。相手機の情報なし。あの機体さえいなければ、と思ってみるが脳裏に浮かぶのは量産型のレンタル飛空機で、どんなやつが乗っていたかすら像を結ばなかった。
「おじさん、さっきのラジオの人?」
入口横のベッドから中学生が言う。だから二十そこそこの人間に向かっておじさんとか言うなって。「さあな」と無愛想に応えると「ひま。何か面白いことやってよ」いつも通りのセリフが返ってくる。
「……その怪我の原因当ててやろうか」
「お、マジで? ぜってー当たらねえわ」
「賭けるか」
「やめとく」
なんだよつまんねーな。
「……学校で窓ガラス殴って割った」
「正解」
特に喜ぶでもなく会話は終了する。また暇になった中学生ははぁ、とつまらなそうな息を吐いた。
戻ってきた看護師から水を受けとり喉を潤してからミズとキョースケのことをきいた。「私は知りません」とはぐらかされる。いや、知ってるだろ。さっきラジオで流れていたのだ。ラジオが事故を知っているのだからその結果が流れ込む病院が何も知らないはずがない。
「……死んだんですよね?」
違うと言ってもらえたならどんなにいいだろう。看護師は顔をひきつらせつつ「はい」と答えた。二人とも? ……はい。
「それで、今どこに」
訊いてどうするんだ。下だとわかっているくせに。
「知りません」
「霊安室ですか」
「違います」
思わず顔をあげた。
「損傷が、激しいので。処置優先ということで葬儀社に連絡をと、しゅ、主任が」
焦点がフラりとずれてキョロキョロとさまよいはじめる。しょちゆうせん。それが何を意味するかわからないまま「僕がしつこく訊いたのが悪いですから」と今聞いた内容を口外しないと約束し看護師には落ち着いてもらった。
「少し、トイレに」
看護師が出ていくのを見送って、今回は院内端末の使い方を教えてもらっていない中学生が暇をもて余してタカを見上げた。
「損傷が激しい、処置優先、葬儀社……?」
つぶやいた単語に軽く小首を傾げて、思い付くまま言い放つ。
「……バラバラ死体ってこと?」
#4・・・3
あー、これ何だっけ。よく見る単語なのにパッと訳が出てこない。頭をかきむしりながらIDリングに向かってアルファベットを読み上げると「orbiit。軌道」と返ってきた。続いて「perturbation。摂動」。
バタバタン、と乱暴にラボのドアが開け閉めされて誰か入ってきた。戻ってきたかな。博士課程メンバーの書類の山越しに居室を覗く。論文とか電子化してるだろうに何でこうも紙の束が溜まるのか。
「あ、斎田先輩」
加賀先輩は居ないのか。珍しいな。いつも加賀先輩がこの人連れてくるのに。
「キョースケなら来ねえよ」
思考を読まれた。肩をあげて首を引っ込める。
斎田先輩の首にはコルセット。事故りでもしたかな。今しがたそんなニュースをラジオで聞いた気がして机の上の筐体にチラリと目を配る。斎田先輩の用は宮瀬ではなかったらしく無言でずかずかと実験室へ入り込んできた。しょっちゅう加賀先輩が連れ込んでいるとはいえここは最先端の重力子技術研究室として結構機密な研究もやっている所で、斎田先輩は明らかに部外者だ。何のためらいもなく機器カバーを外しているけど。
「あーそれ教授から処分しろって言われたんスけど、バラし方わかんないんスよ。何か聞いてません?」
「……何も」
無愛想な聞き取りづらい声。聞き取りづらいのは首のコルセットが顎に当たっているせいかもしれない。何をするんだろうと見ていたら慣れた手つきでパパパと操作盤で操作し始めた。
「ちょっと、何やってるんスか。触らないでくださいよ」
パカリと機器のドアが開く。斎田先輩はそうすることになっているかのようにその中に入っていった。え、何かサンプル持ってたっけ? 考える間に重力子実験装置のドアが閉じる。
そして、電子音の後装置はガタガタと震え始めた。どこかへ飛び立とうとするように。羽根など無い。屋内の、それも一階から一体どこを目指すというのか装置はガタガタと苦しげに震え続ける。やがてガスが抜けたように止まりドアが開いた時、そこにはもう誰もいなかった。