0日目(前日):転校生

チチチチチチ……

小鳥の鳴き声で目が覚めた。もう朝か。さっき寝たばかりのような気がする。頭をぼりぼり掻きながらとりあえず目覚まし時計のアラームを解除しようと手に取って、……ぶん投げた。

5時。朝の5時だぞおい。最近にしてはずいぶん涼しいとは思ったけどさ!

理不尽に投げられて沈黙した時計を拾い上げると乾電池が外れていた。ひょっとして乾電池が外れたせいでとまってて、本当は7時とか8時とかそんな時間なのではと期待したが、勉強机のそばの壁掛け時計もしっかり5時を指していた。……。

今から寝ると寝坊間違い無し。一回寝ると三時間は起きないから。しょうがないのでベッドから降り、着替える。中学校の制服はダサイ。同じクラスに校則違反に厳しい乱暴者がいるので着崩している生徒はいない。今日は……9月15日。勉強机の上の新聞をひろげて、購読者投稿欄、「ゆうひ」をさがす。この投稿欄に作文を投稿して掲載してもらい、音楽ギフト券をゲットする、というのが今学校で流行っているのだ。学校とクラスを褒め上げるというのが暗黙のルールになっていて、でも知らなかったのか不満を書き並べて投稿し、それが新聞に載ってクラスでいじめられている子もいる。滝波明日香。

滝波さんの作文を見つけて昨日も読んだのにまた読み返す。懲りていないのか先生に悪口を言う人がいるとか授業中の立ち歩きがあるとか、学校を褒める表現は一言たりとも入っていない作文。だけど僕が思うにどれも事実なのだし、それを隠してでっちあげストーリー書き並べて学校を褒め上げようとするみんなの方が間違っている。そんな事でいじめないといけないのか? まあ、何も無い場所に向かってひたすらしゃべり倒してたとか、宙を見つめて10分以上微動だにしなかったとか噂がたってるから、それだけが理由じゃないかもしれないけど。惜しくも佳作で文章なしで、紙面に印字された神永修徒という名前を指先でなぞりつつため息をついた。滝波さんかわいいのにな。……じゃなくて、……ええと。

……とりあえず今日の新聞取りに行こう。

部屋のドアの方へ一歩踏み出した時、

ピィィィィ ン

虫の鳴くような〈音〉が頭の中に直接響いた。

『久シブリ、……マタ、ヨロシクナ』

何だろう。誰の声だろう。聞き覚えがある。聞き覚えがない。くらくらする。知らない。たぶん知らない。

〈音〉が消えた。

その後は、覚えていない。

「修徒っ! いつまで寝てるの! 8時過ぎてるわよっ!」

母さんの怒鳴り声ではっと目が覚めてあわてて起き上がったらものの見事にベッドから転がり落ちてしりもちをつき、その拍子に蹴った勉強机から目覚まし時計のパンチをくらった。何か僕に恨みがあるのか目覚まし時計。

「げ」

時間を確認したらマジで8時過ぎ。あわてて鞄に教科書を放り込んで超特急で階段を下り、玄関へ。

「こら修徒、朝御飯!」

台所から顔を出して母さんが目をつりあげる。狐みたいだ。

無視してスニーカーに足を突っ込み、直後に筆箱を置いて来た事に気がついてまた階段を駆け上がる。中学生は親の手伝いをもっとするものだとか平日に8時まで寝るなんて小学生だとか(父さんは8時30分起きだが)近所の手城君は素晴らしいのだとかいちいち聞いてられるか。

腕を組んで仁王立ちする母さんにふさふさのシッポが生えているような気までしてきた。笑いをかみ殺した僕の顔がおかしかったのか母さんまで吹き出し、僕は今のうちにと横をすり抜けて家を出た。

あと3分。間に合え。

見上げた空は真っ青。今日も暑くなりそうだ。ミンミンと蝉の鳴き声が響いている。

校門が見えた。よしラストスパート!一気に駆け込み生徒指導の先生の手から逃れチャイムの鳴る校庭を走り抜ける。下駄箱に走り込むと僕と同じぎりぎり遅刻組の奴らがまだ数人いてのそのそと上履きに履き替えていた。僕はさっさとスニーカーを所定の場所に突っ込み中へ。速度を落とさず階段を駆け上って、

「神永修徒君。また遅刻」

担任の先生に捕まった。ちくしょう。担任にさえ見つからなければ反省文書かなくて済むのに。

教室に入って席に着く。すぐに号令がかかり、朝学活が始まる。内容は、明日から1泊2日の合宿について。昨日も持参物は軍手と動きやすい私服と筆記用具と……という説明をしていた。たぶん今日も一字一句全く同じ事を言うのだろう。

先生の声を右から左にスムーズに聞き流しながら右斜め前の席に目を遣る。毛先がちょっとはねた長めのショートヘアの女子。滝波さんだ。今日も学校来たんだ、よかったよかった。こっち向かないかな……じゃなくて。……ええと。先生が話しているときはちゃんと先生を見て聴こううんそうしよう。

黒板の方を向くと先生の隣にどこか見覚えのある男子生徒が立っていた。誰だっけ。

「今日からこのクラスの一員になる藤井公正君です。仲良くしてください」

先生の紹介にしぶしぶといった感じで頭を下げ、僕の左斜め後ろ、教室で一番後ろの席に向かう。ざわざわと騒がしい教室。こんな中途半端な時期に珍しい転校生。僕も興味をそそられて振り向き、目が合った。どちらかというと灰色寄りの黒い目。今朝夢で見た顔と見比べたくなったがはっきり思いだせなかった。そいつはちょっとだけ歩調を緩めて軽く眉根を寄せ、そのまま自分の席についた。

「えー、藤井君は喉の不調で声が出ません。会話は身振り手振りかメモになりますが、そこは配慮してあげてください」

斜め後ろの席に好奇の目が集まる。慣れたように視線を無視した転校生は先生の補足に礼を言うような感じで軽く肩をすくめた。そして手際良く鞄から取り出したフセンを机に置く。

ガラッ ぴしゃっ

「喜邨(きむら)君! 遅いじゃない! 遅刻よ遅刻!」

大きな声に驚いて黒板側に向き直る。わざわざ教室の前側のドアから入って来た遅刻者は、その巨体で周囲の机を押しのけながら僕の横の席に鞄を投げつけた。

「別にいいじゃんかよ。今日は班と分担決めるぐれーだろ? 時間通り来たってヒマなだけだ」

どすんと座った椅子がみしりと音をたて、すでにヒビの入った床タイルがずれる音がした。

喜邨君はでかい。中学生にして身長が170を超えている時点ででかいのだが、その体格がふとましいとかデブとか超えてとにかくでかい。同じぐらいの身長の力士と並んだら力士がほっそりして見えると思う。そんなだからしょっちゅう備品を壊す。何脚目だっけその椅子。そろそろ壊れるかな。

「班決めなんかせんせーが勝手に決めりゃいーじゃんかよ。俺別に誰が班員でもいいし」

「へぇっ! 滝波と一緒でいいのか喜邨!」

窓際の席から氏縞(しじま)がちゃかす。喜邨君は思い切りいやな顔をして

「あー。じゃあ滝波さんとー、班を別にしてくださいー。俺の希望はそんだけ」

その言葉に俺もウチもと次々に声があがる。先生は静かにしなさいと言っただけで合宿の日程説明を再開した。

斜め前の席、セーラー服の背中は何も無かったように泰然としていた。何度トイレに投げ込まれたのか端がしわしわになったノートにメモをとっている。さっきの騒ぎに混じって言ってみればよかったかな。せんせー、滝波さんとー、班を……じゃなくて、ええと。

班と分担する仕事が決まり、先生がそれを黒板に書き出していく。僕ら生徒は何もする事がないのでその辺の奴らと適当にしゃべっている。僕はもう一度手元の紙を見直す。3班、喜邨ゆたか、氏縞和典、徳永曹と僕と、滝波明日香。……そして藤井公正。男子五人女子一人。女子の数がなぜか圧倒的に少ないこのクラスでは当たり前の構成だ。僕は、滝波さんの手料理が食えるだとかいう考えを打ち消すのに3分20秒かかった。バンガロー(巨大テントみたいなやつ)は、男子が3番バンガロー、女子は8番バンガロー。3番バンガローは3班独占だが女子は複数班で一つのバンガローを共用する。分担する仕事は火番。薪を運んで来て、先生から渡されるライターで火をつけ、料理が終わったら後始末をする。

「はぁ? 滝波と同じ班とか。うっわ最悪」

喜邨君があからさまに舌打ちをしてプリントを投げ捨てた。空気読めよな、俺らの班来んじゃねーよ。ガツンと後ろから椅子を蹴り飛ばし、滝波さんがびくりと肩をふるわせた。

「おい喜邨ぁ、だからってこっちの班来てもらっても困るからさ。今回は我慢してくれよ」

「俺のところもご免だわ。女子は欲しいけど。……滝波はいらねえわ」

喜邨君はにやにやしながら滝波さんの椅子を引っ張った。縮こまる滝波さんに詰め寄る。

「他の班の奴らもお前と一緒嫌だってよ。他のクラスもたぶん駄目だろうなあ。お前、居るだけで迷惑なんだよ」

ガタガタと椅子を揺らされ「やめて」と滝波さんが椅子にしがみつく。

「あーそうだ。お前、明日学校来んなよ。それならみんな嫌な思いしなくてすむ。いい提案だろ?」

ガン、と蹴り飛ばされて机に衝突する滝波さん。机の上の筆箱が跳ねて落ち、床に中身がぶちまけられた。消しゴムがバウンドして目の前を転がっていく。ちょっとやりすぎじゃない、さすがに女子から声が上がったが喜邨君はふんと鼻で笑ってそれを無視した。

ロッカーの方まで転がっていった消しゴムを拾って滝波さんに手渡した。

「はい、消しゴム。滝波さん、気にすんなよ。……僕は明日、滝波さんに来てほしいと思ってるから」

小声で付け足すと滝波さんは他の女子からペンを受け取りながら困ったように笑った。ペンを渡した子に礼を言う。それからこっちをもう一度振り向いて

「『明日香』でいいよ。消しゴム、ありがとう」

頬がかっと熱くなる感覚がした。「別に、転がってきたからだし」と早口で答えて席に戻る。やめろよ。幸い喜邨君は他の子と既に別の話題で盛り上がっているから今回は大丈夫だけど、タイミングが悪かったら僕までそれに巻き込まれかねない。

「なぁ曹。曹は薪を割った事あるかい」

ふと思いついて声をかけた前の席のつんつん頭は僕の言葉にくるっと振り向くとさっそくいつものように真面目くさって

「我輩は三国時代の魏の皇帝曹操、つまり、曹家の子孫。我輩のような高貴な身分の者に貴様のような下賎の者が物を尋ねるとは無礼千万。今後このような事をしたら厳罰に処する。よく肝に銘じておけ」

と言い放った。何だ厳罰に処するって。怖ぇ。

「曹。魏の始皇帝は曹丕だぜ。子孫と言うなら曹丕の名をだすべきだろ」

いつもの通りに氏縞が口をはさむ。曹はすぐにそっちへ振り向き、

「たわけ者め!我が名字には曹操の字、孟徳の徳の字が入っているのだ。だから我が一族は曹操の子孫である!そんな事も知らぬとは氏縞の名も落ちるな」

「何を言う!我の名字には氏という字が入っている!氏の字が入っているのだから我こそがリーダーとなるべき者だ!全ての長となるべきだ!だから我こそがこの国で一番えらい!」

「何だと!氏の字がどうした!普通皇帝の子孫の方が位は高いだろ!だから俺の方がえらい!」

「俺の方がもっとえらい!」

「俺は日本一だ!」

「俺は世界一だ!」

「俺は宇宙一だ!」

何か始まっちゃったがこれもいつも通りだ。僕はどっちも全然えらくないと思うのだけど。むしろ逆だろ。

「曹君、氏縞君、ばかで、めちゃくちゃで、まるでなってない方がえらいのよ」

喧嘩に気づいた先生が近くまで来てボソリ。二人は一瞬黙り、直後、

「俺の方がばかで、めちゃくちゃで、まるでなってない!」

「俺の方がばかで、めちゃくちゃで、まるでなってない!」

さらに低レベルになって再開。あきらめの早い先生は何事もなかったかのように板書に戻っている。

「僕はふつうだ」

つぶやいたとたん口喧嘩をやめてばっ、と全く同じ動きでこっちを振り向く。全く同じようにぽかんとした表情で

「なるほど。ふつうが一番えらいのか」

何か悟ったらしい。わけがわからない。

そこへ喜邨君が割り込んで来て

「じゃあ、班長は神永だな」

えらいんだからできるよなやらないと後でどうなるかわかってるよなという顔で迫られて、無意識に頷いてしまっていた。

教室はさらに騒がしくなり、プリントで折った紙飛行機や小さく切った消しゴムが頭上を飛び交い始めた。うるさいのが嫌いな喜邨君はイライラと机の角をつついている。

「しずかにしなさぁい!」

先生が怒鳴るが逆効果。わぁっと歓声が起こり、先生にもミニ消しゴムが投げつけられ、その慌て様に笑い声が起こる。喜邨君の指のテンポが速くなる。消しゴムを投げた生徒と叱ろうとする先生で追いかけっこになり、いっそううるさくなる。飛んでいた紙飛行機のうちの一機が喜邨君の頭に当たり、墜落した。

ガシャン!

吹っ飛んだ椅子が壁に激突して派手に曲がった。激突された壁の表面がポロリと崩れ、床に落ちた椅子の上にぱらぱらと落ちる。一瞬で教室は静まり返った。外の蝉まで鳴きやんだ。憤怒の表情で立ち上がった喜邨君は教室中をねめつけるように見回し

「うるっせえんだてめぇら!いいかげんにしねぇとシメるぞ!」

それだけ言って曲がった椅子を拾ってきて、ぐいっと曲げ直して座った。

先生もすっかり怯えてしまい、え、ええそうです静かにしましょう、周りのクラスに迷惑ですからとか何とか聞き取れない声で早口に言って板書を書き上げた。

教卓に大量のプリントが乗っている。おそらく合宿のしおりだろう。僕が勝手に班員分をつくって持ち帰るとたった今思い出したとばかりに班長さんは班員の合宿のしおりを作ってくださいと指示を出す。遅いよ先生。しっかりしてくれよ。

四時間目が終了し、昼休憩。全国的にはちょっと珍しいらしいが、この学校はパンと牛乳だけの給食がある。生徒は弁当のおかずだけをもってくる。

さっき喧嘩をやめた曹と氏縞がドアを派手に開けて教室に飛び込んで来た。ドアの近くにいた女子がびっくりして飛び退く。

「いえーいどけどけー!」

「今日のパンは黒糖パン! さあ持ってけドロボー! 1個千円だ!」

ただで配れパン係! 仕事しろ!

「とはいえ我輩は魏の皇帝曹操の子孫、つまり曹家の末裔である! 上に立つ者は心が広くなければならん! この我輩は賢いからそのことを知っている! ただで配ってやろうではないか!」

当たり前だ。

「俺の方が賢いからな!おまえより多く配ってやる!」

「何を貴様……! 氏縞のくせに!」

急にやる気満々になって猛スピードで配り始める。手早さは全く同じ。並んだ机や椅子を蹴飛ばし人にぶつかり謝りもせず次のパンに飛びつき……非常に迷惑だ。しかもこのクラスは37人。最後の1個を同時につかんで停止し、睨み合った。

「俺の方が賢くて経験があるから俺が配る」

「俺の方が賢くて経験があって教養があるから俺が配る」

「あ、あのー……」

二人の口喧嘩に明日香が割って入った。

「それ私のパン……」

曹と氏縞はしばらく無表情にパンを取り合う格好のまま固まっていたがどちらがやったのか、もしくは二人で同時にやったのか、ぐしゃっ、と音をたててパンが潰され、パン箱に投げつけられた。

「なんだ。いつもえらそうな事いう割に不注意なやつだな曹」

「なんだとはなんだ」

「なんだとはなんだとはなんだ」

また別の種類の口喧嘩を始めながら曹と氏縞が席に戻ってから明日香は黙ってつぶれたパンを拾い、席に着いた。僕も席に着いた。

弁当箱を開けて硬直。今日のおかずはコロッケのような物とウインナーとレタスとトマト、卵焼き。いや、嫌いな物が入っていたわけでも焼き過ぎて焦げた物があったわけでも無いのだけど。恐る恐るコロッケを箸でつついて切り開いてみる。クリームコロッケだ。真っ白なクリーム。ん、クリームにしてはちょっと固いか…かじってみる。…………甘い。砂糖の味だ。これ……マシュマロだよ。

冷凍食品で、かにクリームコロッケとかコーンクリームコロッケとかあるでしょう、作り方分からないからとりあえずそれっぽい見た目と食感の物を選んでみたのっ♪

脳裏に現れた母さんが菜箸片手に赤いお気に入りのエプロン姿でにっこり笑う。ふざけんな。たまにはまともなおかずを入れてくれ。

「おい修徒、牛乳いらねぇなら俺によこせ」

よこせと言いつつ勝手にとって一気に飲み干す喜邨君の机には既に空になった重箱のような弁当箱とこれまた空になった牛乳の瓶が5、6本。

「……腹壊したりしないのかい」

「いや、すでに滅茶苦茶腹痛いんだが昨日兄貴が学校で十本飲んだって自慢しやがったからな。俺は20本飲むんだ。おい、曹。牛乳よこせ」

曹は氏縞との口喧嘩に夢中で喜邨君が牛乳を取った事に全く気づかなかった。

もそもそとパンを完食し、片付けて席を立つ。持って来たサッカーボールを片手に教室を出ると、さっきの口喧嘩を続けながら曹と氏縞が追いかけて来た。

「なんだとはなんだとはなんだとは(中略)とはなんだ、修徒、一緒にサッカーしようぜ」

「なんだとはなんだとはなんだとは(中略)とはなんだとはなんだ、俺も参加させろ」

どうやら相手より一回ずつ多く言っているらしく「なんだ」と言うたびに両者の指が動く。

「いい加減やめろ、二人とも」

「なんだとはなんだとは……。いや、な、俺は優しいから続けたそうな曹を無視できなくて……」

「ふん! 貴様が優しいだと? グランドの年中むっつり顔の銅像も大笑いのセリフだな。優しいのは我輩! 貴様が一生懸命述べる事をきちんと聞き届けてきちんと返答してやっていたのだ」

いいから終われ。

僕は持っていたボールを地面に落とし、蹴り出した。さっそく曹が走り込み、氏縞にパスをまわす。と、そこへいつからいたのか藤井君……公正でいいか、が乱入しボールを奪う。

「あっやりやがったな」

氏縞がにやりと笑い、ボールを奪い返そうと公正の正面にまわりこむ。公正はすぐに曹にパスを出し、直後僕が曹からボールを奪う。久しぶりにサッカーらしいサッカーだ。

ふと校舎の方をみると明日香が教室の窓からこっちを見ていた。明日香が見てる……! あれ、公正を見てるか? このやろ、後で覚えとけ。

「バカ、何ぼさっとしてる!」

ボカン、結構大きな音が頭の中に響いて衝撃でこけた。飛んで来たボールが当たったらしい。側頭部がじんじんする。

「痛ってぇぇぇぇ……」

大丈夫か? と曹がきいてくれたが直後に大丈夫か? と氏縞も全く同じように言い、どっちの心配のほどが大きいかを競い始めた。何だか今日はやけに口喧嘩を聞かされるな。

「あ、ありがとう」

立ち上がるのに手を貸すような奴、この学校に居たっけなと顔を上げると公正だった。お前かよ。条件反射的に言った礼を返せ。

公正は僕の手をつかんだままじっと眺めてこれ、と小指の付け根を指した。じんわり黒い、ほくろというには大きいあざ。

「ん? 小さい時からあるけど。何だい」

ふうん、と言う感じで興味なさげに手を離す。何なんだよ。足早に校舎に戻っていく灰色頭に顔をしかめる。何なのあいつ、と曹に話そうとして隣に居なかった。氏縞も居ない。

「おーい何やってんだ修徒! 授業始まるぞ!」

頭上から降って来た声と同時に昼休憩終了を告げるチャイムが鳴り始める。

「やべ! サンキュ曹! すぐ上がる」

窓に手を振り返し、僕は慌てて校舎に駆け込んだ。

僕はあまり運の良い方じゃないらしい。

後数歩で教室にたどり着くという所で先生に見つかり、むんずと腕をつかまれて教室への逃げ込みを阻止された。

「神永君朝遅刻した上に授業遅刻とは何ですか!」

授業遅刻とは、授業に遅れることです。

「みんな授業開始が遅くなって迷惑してますよ!」

迷惑してません。授業短くなって喜んでます。

「次遅れたら御両親に伝えますからね」

伝えられたときの父さんと母さんの反応が手に取るように分かる。あらあら修徒、遅刻したの?今のうちに十分遅刻しておきなさい、遅刻して困らないのは今だけだから。

午前中で合宿に関する決めごとは終わったんだから放課にしてくれればいいのに五時間目がある。六時間目は今日は無くて、掃除も無くて帰れるからまだいいが。席に着くとすぐに号令がかかり、授業が始まる。源頼朝がどーたら、鎌倉幕府がどーたら。日本の歴史知らなくて何か困るような状況ってあるのかよ。帰らせてくれー。

「ぅぅ……修徒……」

「……」

右隣からまるまる太った腕が伸びてきた。腕の主はもちろん喜邨君。腹を抱えてうんうんうなっている。

「きけよ……20本達成したぞ……」

「あーすごいなきむらくん(棒読み)。……保健室行くかい?」

「募金箱? 何に募金しろと……うぷ…気持ち悪い……」

「ほ、け、ん、し、つ、だ。ったく、何を兄と張り合ってんだ」

「腹……」

ああそうかい。そのとおりではあるけどね。とりあえず背を丸めてうなるのはライオンが威嚇してるみたいだからやめてほしい。食われそうで怖い。曹たちもひそひそと

「我輩は中国の者、あのような猛獣はアフリカに多いときく。貴様がなんとかしたまえ」

「できるかボケ」

明日香の方に目を向ける。真面目に授業を聴いて板書もきっちりとって先生の話もメモっている。後でノート見せてほしいくらいだ。公正も意外と真面目な野郎だったらしく黙って授業を聴いていた。……と思ったらフセンに何か書いて折り曲げ、明日香の机にコントロール良く投げた。明日香が手を止めてそれを開いて読み、フセンの裏に何か書いて公正の方にその面を向けてよこした。『了解』? もしかして前からの知り合いか何かかお前ら。公正お前許さねえぞ僕を差し置いて明日香と仲良く……じゃなくて、ええと。

喜邨君は机に突っ伏していたのでフセンには気づかなかった。

放課後。明日香と一緒に帰る公正を尾行してやろうと校門の柱にもたれて二人を待った。大会が差し迫っている部活をのぞき、ほとんどの部活が休止期間なので授業終了直後から校門付近は混雑していた。氏縞と曹が「お前何してんの」と寄ってきたので「いやちょっと。待ち伏せ」と人差し指をたてて追い払った。重大ミッションだ。彼らに気づかれるわけにはいかない……!

「あ、神永君」

「ひゃう」

声をかけられて変な声が出た。丁度よかった、一緒に帰ろ? と普通に誘われる。ミッションはいきなり失敗だが結果オーライ、喜んでいいのかこれ。明日香の後ろにはくそ公正。何だよお前も居るのかよ。……って、もともと公正と一緒に帰る予定だったんだから当たり前か。

公正がフセンを一枚突き出した。「話がある」「俺の家に来い」。

「『来い』って。何様だよ」

「あのね、私がお願いしたの。神永君も交えて一緒にお話したいなって」

明日香のお誘いっ? 何事だ。僕にも運が向いてきたか。何運だ。

公正の家は明日香の家の三件東だった。畜生、近くに住みやがって……。一階建てで、わりと小さな家。裏がマンションだからか暗い。壁のスイッチを押して電灯がつき、明るくなる。あ、カーテン閉めたままなのか。どうりで暗いわけだ。

「公正、親は」

「仕事」「出張」と走り書きのメモ。中学生の息子置いて二人とも家をあけるか。公正が信用されてるのか、親がそういう人なのか。

荷物を置いて、公正は棚からポテチを出してきて大皿にあけた。明日香がポチッとテレビをつけ、適当な局にあわせる。そして各々今日の宿題を開く。おーい、話があるんじゃなかったのか。

「あの、公正。えと……その、本当なの?」

「何言ってんだ」「今さら」とフセン。ため息をついてミスプリントをひっくり返し、何か書き始めた。

「だって、〈音〉が通じる人なんて今まで居なかったんだよ? 向こうの話、一回だけ仲良かった子に話したけど……何言ってるのって。頭大丈夫? って言われて。友達じゃ……なくなっちゃって。だから、もう、夢だったのかなって。こんなにはっきり覚えてるのにっ……」

うっとうしそうに突き放し、書き上げた文を見せる。明日香は紙上に目を走らせ頬を膨らませた。おい公正、その紙こっちにも見せろよ。何言ったんだよ。

明日香の質問責めに公正は小さくため息をつき、僕に「代わりに説明してやって」「面倒」とフセンを見せた。もちろん話の内容を知るわけがない。何の話なんだよ二人とも。

「公正が何言ったか知らないけど、気にすんなよ明日香」

「別に、……公正は嫌なこと言ったわけじゃないよ。ねえ公正もうひとつ。かみなぎゃく……神永君もなの、本当に?」

人の名前噛んだし。きかれた公正がこっちを振り向き、目を覗き込むように見つめる。お、ぼ、え、て、ね、え、の。……覚えてねえの。口がそう動いた。

「……あのさ。さっきから意味わからないんだけど」

明日香が黙る。公正は何か書いたフセンをまた明日香にだけ見せる。おい見せろって。何書いたんだよ。後ろから抜き取ろうとしたが抵抗され、腕をつかんで転ばせ床に押さえつけて無理矢理フセンを取り上げた。「修徒はあっち側」「本当」の二文。なんなんだよ。

「……公正、ちょっとトイレ」

明日香が案内も無く奥へ走っていく。前にも来た事があるのかもしれないと思うとさらにさらに公正に対して殺意がわいてくる。僕は遊んだ事も無いんだぞ。

公正が畳にあぐらをかいて座り、僕にも座れと畳を指差した。何か書いて手渡す。

「本当に何も覚えてないのな」って何をだよ。首をかしげてじぃっと見つめられて、居心地の悪い事この上ない。灰みがかった目を見てたら今朝の夢に出て来た奴を思い出すだろうが。あ。まさか。……いや、他人の夢をのぞき見れるはずが無い。

公正はしばらくそのままじいっと僕を見ていたがやがてはぁっとため息をつき、覚えてないなら、いい、と書いた。それから手え見せて、と僕の左腕をつかむ。昼休憩の時と同じくまじまじと僕の左手を見つめる。だからそれたぶん生まれつきだって、言いながら引き戻そうとするがしっかりつかんで離さない。何なんだよ。

僕の左手小指の付け根には、面積の大きいほくろのような黒っぽいあざがある。覚えている限りでは僕の手にそれが無かったことがないので生まれつきだろうと思っているのだけど、このしゃべらない転校生はそうは思わないらしい。ぐりぐり回すな。痛えよ。

僕の指の掌側をなぞった公正の指先が淡く光った気がした。公正はそこをぐいっと押し込み、何かがカチッと音を立てる。なるほどこれのせいか、声は出ていないのに公正の口がそう動いたのがわかった。公正がしばらく小指をぐりぐりもむと、黒いひも状の何かがぬるりと出て来た。最後まで引き出しきって、はい、というように公正は僕に手を返した。

手のあざが消えていた。

「な……何だよそれ。お前何したんだよ」

「今は言えない」「そのうちわかる」のメモ。「説明長い。書くの面倒」も追加。そっちが本音だろ。出した黒っぽいものはすぐ捨ててしまい見せてくれなかった。

「公正、トイレありがとう」

明日香が戻ってきていた。チラリと壁の時計を確認する。

「私明日の準備するから今日は帰るね。えっと、かみにゃぎゃくん……」

「噛むなよ」

僕の名前そんなに言いづらくないはずだぞ。それとも何か他に言いづらい理由でもあったのか、明日香は慌てたように目をそらいて顔を赤くした。か、かみながくん、かみながくんと数回小声で練習するが焦っているのか数回変な発音が混ざる。

「しゅ、シュウって呼んでいい? ……途中まで、一緒にかえろ」

……是非とも。よろこんで。

「じゃ、またあした」

「またあした」

公正の家を出てすぐに明日香と、準備が終わったら遊ぶ約束をした。

「シュウおそーい! 2秒待たなかったけどっ!」

待ち合わせ場所の交差点で明日香が手を振っている。水色の自転車を横に停めて、ぴょんぴょん跳びながら。かわいいなあ……じゃなくて。ええと。

「それは遅くないだろ……どこ行くんだ」

言いつつ、並んで発進。もうすでに楽しい。

「そこ右!」

ドンガラガッシャン!

「いきなり方向を言うな!」

「あははははゴメンゴメン。図書館行こう」

えぇぇぇぇーとブーイングしたらあっさりじゃあシュウの行きたい所でいいよと笑ってくれた。かわいい……。

「じゃ、ちゃんとついて来いよ」

反転して再び発車。スピードを上げる。すぐに長い登り坂に入る。立ちこぎでぐんぐん登る。この道は滅多に車が通らないくせに広い。だから毎度毎度、見た目より坂の距離が長くてなかなか登りきれない。足が痛い。ペダルが重い。汗がにじむ。蝉の鳴き声がすぐそばで聞こえて、通り過ぎる。暑い。

「ねえちょっと、どこまで登るの!」

「頂上まで競争!」

「ずるい、私女子だよ?」

「男女平等!」

着いた。頂上。振り返ると、明日香ははるか後方で自転車を押して歩いている。はやくはやく。がんばれがんばれ。汗を肩口で拭ってからスタンドを出し、自転車から手を離して明日香を待つ。

からからから……

車輪のまわる音をさせてようやく登りきった。はぁあ疲れたぁ、もう、何で待ってくれないのと文句を言いながら額に浮いた汗をぬぐって顔をあげ、そしてはっ、と目を見開く。

「これを見せたかったんだ」

少し遠くまで広がるごちゃごちゃした市街地。その先に、海。水平線を境にして、空。夕日でオレンジ色にそまって海の表面に乱反射し、きらきらと眩しい。本州だろうか、夕日からずっと右の方の水平線上に何か見える。

「きれい……」

隣に立つ明日香は風でくしゃくしゃになった髪を直しながらつぶやいた。初夏の涼しい風が僕らの間を吹き過ぎる。二人で静かに夕日を見つめた。

すごいだろ、と話しかけようとしたら右隣に誰もいない。がちゃん、と音がして振り向いたら明日香はすでに自転車にまたがっていた。

「下まで競争!」

「えぇぇぇぇぇぇぇ!」

あっという間に下っていく。あぶないだろ。慌てて追いかける。怖い怖い怖い。さっきの蝉の鳴き声も吹っ飛ぶように聞こえてすぐかき消えた。

下で待つ明日香に追いついて停車。さ、帰ろー、ニコニコと笑いながら自転車発進。さっきのもうするなよ、危ないから……と言いながら僕も自転車のペダルに足を掛けて縁石に乗り上げてすべってこけた。くそ、ひざすりむいた……。

「もう、ドジだなあ」

呆れたと言わんばかりにため息をつき、明日香が自転車を停めて戻ってきた。ぎゅっと握った拳が弱く光ったかと思うといつの間にか手の上に大きな絆創膏が二枚乗っていた。それを僕の膝に貼る。

「すごいな。それ。手品?」

明日香は何言ってるのとでも言うような微妙な顔をして、それから何かに気づいてしまったという表情になり、何かを決心したように頷いてから口を開いた。

「〈力〉よ。公正もできるはずだし、シュウもできるはず」

さっさと自転車に戻り、僕を置いてこぎ出す。何か怒らせるようなことを言っただろうか、僕は。よくわからないが手品じゃないらしいさっき絆創膏を出した〈力〉っていったい何なんだ。僕にも絆創膏作れるのか。

集合場所だった交差点に着いた。ここからは別々の道を帰る。明日香が自転車を止めた。僕も止まる。明日香は何も言わずにまた走り出し、まだ止まったままの僕を振り返り、

「今日はありがとう!」

それだけ言ってスピードを上げ、やがて角を曲がって見えなくなった。

家に帰ると母さんにもう夕御飯できてるわよ早く帰ってきて手伝いなさい中学生なんだから門限ぐらい守りなさいさもないと門限一時間過ぎるごとに漢字をノートに5ページ書き取り制度再開するわよとさんざんに文句を言われた。門限5時は早すぎなんだよ。明日香は門限6時半だぞ。

食卓にはロールほうれん草(ロールキャベツのキャベツをほうれん草にしたもの)と味噌汁、白御飯。ロールほうれん草は唯一と言っていいほど数少ない、母さんの創作料理の中で評価の高かった料理だ。もっと正確に言うと最もましな料理だ。普通にロールキャベツのほうが断然おいしい。

食事後、風呂を出てから準備開始。いや、べつに明日香と遊べる、わーいわーいと浮かれ騒いでどこで何するか地図を広げて想像しまくってたせいで時間がなくなったわけじゃないぞ。単に明日香と遊べる喜びで明日が合宿という事を忘却していただけだ!

動きやすく汚れてもいい私服数着、懐中電灯、腕時計。しおり、ハンカチ、ティッシュ、ビニール袋、タオル。軍手、本。持参物表の最後の一文字に考え込む。本。とりあえず「科学びっくり大百科」でも入れておくか。

楽しみだな、合宿。