10日目:閑古鳥の幸せ

眠い……。

目を覚ましたはいいものの質が悪かったのか眠気が抜けず布団から出られないままふわ、とあくびが漏れた。このままもう一回寝てしまいそう……だけど8時には飯堂についてないと。布団をはがしてのろのろと着替える。ううう眠い。

7人の寝息を聞きながら今日はうまいこと音をたてずに引き戸の隙間を通り抜けて廊下に出た。リビングに行く途中で洗濯かごに服を放り込む。リビングのドアを開けるとカーテンの閉まったままの部屋で昨日子が新聞を呼んでいた。

「おはよう」

「……おはよう」

「明日香は?」

「姉さんまだ寝てる」

……昨日遅かったしな。駅での光景を一瞬思い浮かべて追い払う。朝から思い出したくない。

昨日子の他には誰も起きていないようでリビングは朝の静けさに包まれていた。昨日子はまた新聞に集中を戻してしまい、無言のまま時計の針の音だけが部屋に響く。居心地が悪い。誰か起きてきてくれ。

救世主よ現れろと願いをこめて廊下へのドアを睨みつけてみたらタイミングよくドアノブがくるりと回った。願ってみるものだ、ラッキー……。

「おっはよ〜?」

「……何ですかその発音……。おはようございます冬人さん……」

人選ミスだ畜生。ラッキーじゃない、断じてラッキーじゃない。

今日も今日とてぼっさぼさで寝癖のついたままの茶髪をぼりぼり掻いて、寝たまま歩いてるんじゃないかと思う眠そうな糸目でふあああと気のぬけるあくびをひとつして、ふゆひとさんって誰ー? と目元に垂れた涙をぬぐってまたあくびをした。

「……」

自分の名前も忘れるほど耄碌したか。一晩で。僕と昨日子に指をさされて、あ、僕? 僕ふゆひとっていうの? じゃあよろしくねとにこにこ笑顔で握手を求められた。僕らの名前は忘れられているに違いないので修徒です、と初対面みたいに名乗って薄くて固い手を握る。いい加減この物忘れには慣れないと。

「おはよーさん! ふあ……」

「あ、キョーハー。おはよー?」

「なんやその発音」

「最近はさまってるんだー」

「……“さ”が余計や……」

「おはよう。ん、飯まだなのか」

「おはよー? えーと」

「喜邨」

「喜邨くん! 僕冬人ー! よろしくー」

喜邨君にも握手を求める冬人さん。喜邨君は差し出された手を華麗に無視してキッチンに乗り込み冷蔵庫をかぱっと開ける。調理せずにすぐ食べられるめぼしい物が無かったようですぐにまたぱたっと閉めた。それから冷蔵庫の横の棚を漁って食パンを発掘してさっそくその場に座って開封。おーい他人ん家の食糧だぞそれ。

「うー……眠い……」

目をこすりながら明日香が入ってきた。続いて縁利と栄蓮が入ってくる。その後ろにマーティンとサラマンダーを両肩に載せた公正。縁利も公正も眠そうな顔をしていたが栄蓮だけ元気いっぱいでみんなの顔を見回して首をかしげていた。

「みんな眠いの? 昨日遅かったから?」

 そしておもむろにいつも持ち歩いている肩掛けポーチから緑色の粉末が入った小瓶を取り出した。

「そんなあなたに! 覚眠剤! 副作用は一応無し! ひとつまみでばっちり目が覚める、効果てきめん眠気覚ましだよ!」

 自信満々な宣伝をされても試す勇気がない。けれど試用は強制のようで栄蓮は楽しそうに鼻歌を歌いながらみんなの手にひとつまみずつ載せて行く。しばらく自分の手に載せられた黄緑色の粉末を眺めておそるおそる顔を近づける。ど……毒じゃないよな? 誰か先に飲んでくれないかなと顔をあげたらみんな僕に注目していた。ふざけんな。毒味役なんかやるもんか。みんなの口元が引きつり、それぞれ自分の手のひらに視線をもどす。特に意味もなく呼吸をあわせて、せーの。

 ごくり。

 一斉に飲み込んで、あれ、以外と平気……ぐへ。

「がっ……辛ああああああああああああっ!」

ずん、と鋭い刺激に一瞬訳がわからなくなった。鼻の裏から目頭を貫くような痛みで涙が出て目がかすむ。鼻で息をするとしびれて痛い。耳がきーんとしてくらくらした。

「いぎゃあああツンとするツンとする鼻もげる!」

「はははははひーみっともないな曹! 目からどばどば涙流して泣きやがって!」

「ふはははははふん貴様のこそ鼻からどばどば流しやがって汚らしい! 覇王たるもの、涙流すこともあるだろうさ! しかし我輩、鼻からミズを垂れ流すことは無いぞ! 体調でも崩さん限りはな!」

いいから顔ふけ、と縁利に雑巾を投げつけられる二人。僕もティッシュで鼻水をちーんとかんで涙を拭く。確かに効果てきめんだった。目はすっかり冴えたが副作用は多大にあった気がする。

「ん」

昨日子がずいと新聞をこっちによこした。開かれた面、狭い一角を指されたがアルファベットが並んでいて写真が無く、何の記事がわからない。隣の記事には上等な服を来た禿頭のおじさんが片手を挙げて立っている写真がついていて、たぶんこの国の支配者を賞賛する記事だった。

昨日子が上目遣いに僕の顔色をうかがい、読めないことを察して読み上げる。ナーガ・チェス、駅構内滞在のホームレスが襲撃される。死亡8名。これ、昨日、と付け加えられてゆっくりうなずく。昨日子は何か考えるように目をそらし、謝るようにかくっと首を傾けて新聞をしまいに行った。メイン記事の隙間を埋めるために丁度いいから入れられたような必要最低限の情報のみのシンプルな記事。昨日見たあの光景も、まるでテレビ番組中で流れた映像のひとつだった気がしてくる。現実感をそこに置いてきたような。

「ねえ、お味噌汁のみそ、赤だしと麦とどっちがいい?」

キッチンから明日香が叫ぶ。赤で、麦味噌! と氏縞や今日破が口々に答えて意見がまっぷたつに割れ「じゃあ合わせで」と混合味噌に決まっていた。明日香も昨日のことを昨日に置いてきたのか何事もなかったみたいに朝食をつくっている。

しばらく待つと昨日子が拭いたテーブルの上にししゃもの塩焼きが並べられ、ゆらゆらと湯気のたつみそ汁が添えられる。縁利と栄蓮がみんなの箸と箸置きを並べてみんなテーブルの周りに集まり始める。完璧な朝食だ。そして炊飯器の蓋を開けた明日香が固まった。

「……あ。スイッチ押すの忘れた」

「……」

おかずだけの朝食を終えてテツロウさんの家を飛び出す。8時まであと10分。静かな白黒タイルの道を走りながら、まるで学校に遅刻しそうで焦ってるみたいだとふと思い出した。先生に怒られるしみんなに注目されて恥ずかしいし毎日毎日惰眠をむさぼったことを後悔しつつ学校にダッシュしていた日常がまだ数日しか経っていないのに遠い日々のように思える。学校には時々遅刻したけど、バイトには間に合いますように。最後の角を曲がって後は直線。足下の配管の網に注意しながら裏道を突き抜け、勝手口から中に入る。

「おはようございまーす!」

換気扇がはきだすゴウゴウという駆動音に負けないように声を張り上げたけど返事が無い。コンロの横に投げ捨てられていたエプロンを身に着けながら従業員室をのぞくとそこで樽のような体格の店長が二つ折り座布団を枕にして寝ていた。

「店長、おはようございます!」

「んごー」

大声を出してみたらわざとらしい大きないびきが返ってきた。狸寝入りかよ。ちょうど体格も狸に似ている事だしここはいっそのこと本格的に獣耳でも付けてみませんか、店長。

「起きてくださいよー。開店まであと5分ですよー」

「むにゃむにゃ」

「ほら、街灯もずいぶん明るくなってきましたし」

「ふああ、わしが起きるまで街灯を消しておけ」

……自分が起きるまで太陽沈ませとけみたいな要求だぞ、それ。

「聞こえてるじゃないですか。ほーら、起きてくださいよー」

「んにゃ。聞こえとらん聞こえとらん」

嘆息してさらに店長を前後に揺する。あーもう起きてくれ。あんたこの店のオーナーだろ仕事しろ……。

「起きてくださいってば」

「んー。あと一日……」

長え。

「おはようございます」

海瑠さんが来た。すたすたと従業員室に横たわる服着たセイウチを無視して取通り過ぎ、ささっと着替えて大きめのフライパン片手に戻ってくる。いつの間にか起きあがって海瑠さんの手際の良い準備に見とれていた店長が慌てて狸寝入りモードに戻る。丸まった店長を細い目で見下ろしてフライパンでとんとんと自分の肩をたたきながらニヤリと怖い笑いかたをする。

「今日は何をとばしますかね。昨日は中華鍋だったので今日はフライパンなんてどうでしょうか。きっといい音すると思いますよ」

「待っ……待ってくれ! 起きる! 起きる起きる起きる!」

「やっぱり寝たフリでしたか」

にっこり。ガイーン!

振り下ろされたフライパンが店長の頭にぶち当たって本当にいい音がした。

「目は覚めましたか?」

「……覚めた、と思うぞ」

むしろ永眠する所だったんじゃないのかと思うが店長はフライパンが激突したあたりをさすりながらむくりと起きあがった。そりゃよかったという海瑠さんの笑顔が怖い。何事もなく起き上がる店長も怖い。

テーブルを拭いて床を掃いている間に海瑠さんは仕込みを済ませ、店長はシャッターを開ける。薄暗い店内にもう完全に昼の明るさになった街灯の光が差し込む。相変わらず店の前を通りかかる人は見当たらない。こんなんでちゃんとお店をやっていけてるのが不思議でしょうがない。

箒とちりとりをかたづけて、やる事が無いので従業員室に戻った。仕込みを終えた海瑠さんも暇くさって従業員室でメニュー表の新調作業を無駄に丁寧にやっていたりする。ふと顔を挙げて目があった。

「修徒君、朝ご飯食べた?」

「あ、おかずだけ。ご飯炊き忘れで食べれなくて」

ちょっと待ってて、と再び厨房に引っ込む。日課の散歩を済ませた店長が入れ替わりに従業員室に入ってきてさっそく座布団を二つ折りにする。また寝るのかよ。

「はい」

ひょい、と目の前にほかほかと湯気のたつご飯が盛られた茶碗が差し出された。

「朝ごはんはしっかり食べなきゃダメだよ」

受け取って、店長から割り箸ももらう。サクリと箸を通してすくい取って口に運ぶとじんわり熱さが舌の上にひろがり数回噛むとご飯の甘みが出て来た。おいしい。いつも食べるご飯と何か違う気がする。

「鍋で炊くのと炊飯器でたくのとは味が変わるんだ。気づいた?」

うなずいてもう一口。なるほど。今度明日香に頼んで鍋で炊いてみてもらおうかな。

「すいませーん! 棒棒鶏ひとつおねがいしますー!」

お店の方からお客さんの声がして残りの一口をのみこんでたちあがった。お客さん来てたのか。仕事だ。元気のよいお客さんの声に負けじと声を張り上げる。

「はーい! 棒棒鶏ひとつ!」

昼ご飯を食べに来たお客さん5人が帰ってまたやることがなくなり、従業員室に戻るとまた店長が寝ていた。海瑠さんが「お昼どきだけどお客さんもいないしお昼にしようか」と賄いの準備を始めたので豚骨ラーメンをお願いした。

「店長は何がいいですか……ってまた寝てる」

はーっ、とため息をつくので起こそうと店長の体を揺すってみたけど起きる気配はない。熟睡だ。

「今朝の一発じゃ足りなかったようですね。あと三発たたいて差し上げましょうか」

ため息まじりに流しに手をつっこんで、たった今洗ってまだ水滴がしたたっているフライパンを流しから取り上げる。店長の耳がぴくっと動いたかと思うとがばりと起きあがりものすごい早さで部屋の隅までダッシュした。聞こえてたのかよ。

「あーあ。逃げられちゃいましたね。残念残念」

はははと笑って店長も豚骨ラーメンでいいですね、と一方的に賄いの料理を決めて厨房に戻る。素早い起床を見せた店長はまだ寝ぼけているようでポンコツラーメンって何だ? と首を傾げていた。僕も知りたい。

テーブルを拭きに店に出る。お客さんがこぼしたラーメンの汁や酢豚のタレなんかは退席後すぐに拭くようにしているのだが後で見ると拭き残しがけっこうある。もっと手早く抜けの無いようにしなければ。

座布団を片付けて店長も店に出てきた。ぼさぼさの髪をとりあえず手で押さえて整えて手近な椅子を引いて座る。それからテーブルにひじをつき、はああーっとため息。客が来ないどころか店の前を人っ子一人通らないのを嘆いているのだろうか。ここに店作ったの店長だろうに。

「……お客さん来ませんねえ」

海瑠さんを真似てちょっと意地悪な言い方をしてみた。昔とは比べ物にならんな、と普通に返される。ううむ、海瑠さんに毒慣れさせられているとみえる。

「昔はこのナーガ・チェスもたくさん人が居てな。通勤ラッシュの前後にはそこの通りも人でいっぱいだったんだが……」

はああ、とまたため息。な……なんだかかわいそうになってきた。

「ため息吐いちゃダメですよ。幸せが逃げていっちゃいますよ」

「新しい幸せが入ってくるスペースを空けたんだ」

え。そんなに幸せいっぱいだったんですか。全然幸せオーラが感じられないのでつい疑って店長の顔を覗き込んでしまった。

「何だ。自分の店を持てて、こんなに街は寂れてもまだちらほら客も来てくれる。幸せじゃないか」

「え、でも……もっといっぱいお客さんが来てた昔の方が……」

またため息をついた。今のは呆れて何かが漏れ出たようだった。

「今だって十分過ぎるくらい幸せだ。過去と現在を比較するな。過去は必ず美化されているものだ。だから過去に現在以上の幸せな瞬間など存在しない。……一号」

「修徒です」

「お前はお前の好きなように考えればいいが……わしはそう考える」

ごくり、と息をのんでしまった。喉が乾いたんだ、きっと。「しかし数年でこの有様だ。ここも潮時かもしれんな」とつぶやいてまたため息をついている店長に軽くジェスチャーで断って席をたつ。

……今が一番幸せ、か。コップに水を注ぎながらふう、と息をついた。今の僕のため息でどれぐらいのスペースが空いたのだろうか。

今の僕が幸せじゃないとは思わない。でも一番幸せかっていうとそうとも思わない。もっともっと幸せな時間が、この先に求めれば得られる気がするから。もっと上の幸せがあるに違いないと思うからまだ満足できない。いつか僕も店長のように今の幸せ、というものをかんじられるようになるのだろうか。それとも。

一杯水を飲み干し、少し考えてから別のコップになみなみと水を注いだ。

「はい、店長」

「お、気が利くな」

気が向いただけですー、とツンデレみたいな言葉を心の中で舌を出しながら返して店長の隣に座る。うーん、店長と同じように水を飲んでふーっと深呼吸してみたけどやっぱり店長の考え方はよくわからないなあ。

「修徒ーっ!できたって言っただろ!」

厨房からセイロが立て続けに3つ飛んできて僕を襲撃。突然すぎてガードできずドガゴンと三カ所でなんだかちょっとヤバそうな音がした。

「痛っ! 海瑠さんっ! 何も3つ投げることないじゃないですか!」

「じゃあ四つ目」

もうひとつ顔面めがけてひゅーんと飛んできて、避けたら通りまで飛んでいった。

「一号! 取ってこい!」

僕は犬か。というかいい加減僕の名前を覚えろ店長。

心の中でののしりながら拾いに行って、戻ると海瑠さんが僕の席と店長の席の前にほこほこと湯気をたてる豚骨ラーメンを置いていた。うまそう……!

「ほらほらさっさと置いてくる」

「はい!」

誰がセイロ飛ばしたんだよさっさと置いてこいって完全犬扱いだろとか言いたい事は色々あるけどあんなにおいしそうなのに冷めたり麺がのびたりしたら悲劇だ。うん。素直に置きにいったのは決して犬みたいな忠誠心からではない。決して。

「いただきます」

ぱん、と手を合わせて割り箸を手に取る。ぱきっと割れるなり汁をすすり麺をすくって吸い上げる。熱っ。でもおいしい……。相当とろけた表情になったようで海瑠さんと店長が「なごむなあ」と言わんばかりに僕を微妙な笑顔で眺めていた。

「喜んでもらえたみたいでよかった」

「すごくおいしいです」

海瑠さんはくすくす笑ってオレはすごく嬉しいよ、自分の作った料理で喜んでもらえて、と照れたように頭を掻いた。これだから飯堂はやめられんのだ、と店長が腕を組んで尊大に胸を張ったら一緒に太鼓腹も突き出てシャツのボタンがいくつかはじけとんで格好悪くはだけた。妙につぼにはまったようで海瑠さんが笑い出し、つられて僕も笑い出してついには店長まで笑い出して、しばらくそのまま笑いが止まらなかった。

「そろそろ終わりだね。店閉めようか」

夕方、あの後ほとんどお客さんが来ないまま終業時間になった。はい、と答えてちょっと道にはみ出している椅子を店内に引き込む。ガラガラガラと海瑠さんがシャッターを下ろして店内が急に暗くなる。手探りで従業員室へ向かっている途中で灯りが点いた。

「ごめん、点けるの忘れてた」

従業員室入り口横のスイッチの前で片手チョップ型に手を立てて謝る海瑠さん。……いつの間に僕を追い越したんだ。気配すら感じなかったぞ。

従業員室に入るとそこで店長が寝ていた。またかよー。一日何時間寝てるんだこの睡眠動物は。しかも今回はボタンが取れてシャツがはだけ、お腹が見えているというおまけつきである。……帰る時は挨拶して帰った方がいいよな。それがたとえ安眠妨害でも。……。

「店長。起きてくださいよ。もう閉店ですよー」

ちょっと迷ったけど起こしにかかる。ゆらゆら揺らしてみたけど寝返りすら打たない。

「海瑠さーん。店長が起きてくれませーん」

「ありがとう」

ありがとうって何だありがとうって。返事の意味が分からないまま厨房をのぞくとちょうど片付けが終わった海瑠さんが三段の空のセイロを持ってくる所だった。僕がのぞいているのに気がついてくるくるっと空中で別々にセイロを宙返りさせて元通りに積み重なった形でキャッチしてみせた。すげえ。

「あー……。ここまで熟睡だとセイロは効果無いなあ……」

ぺいっとセイロを投げ捨てる。投げ捨てられたセイロはすごいコントロールで収納棚の一番下の段に収まる。それ取って、と言われた油性ペン(黒)をレジ横のペン立てから渡した。さて、今回はどうやって店長を起こすのかな……?

海瑠さんは嬉しそうに黒マジックのキャップをきゅぽっと外して店長の顔に近づけた。え。まさか。

きゅきゅきゅっ。

店長の顔の凹凸などものともせず大きく優雅な字でさらさらと“職務怠慢”と書き入れる。さらに無精髭の生えたあごにくるくると渦巻きを三つ、額には“睡眠中”の文字。赤マジックも持ってきて左頬にはなまるマークをくーるくるくるり。

「怒られますよ……っ」

「大丈夫大丈夫。修徒も書く?」

「遠慮しときます」

子供みたいに口をとがらせつつマジックをペン立てにもどす。仕返しが怖いもん。共犯なんかできるもんか。エプロンをたたみながら心の中でべー、と舌を出した。僕もなかなか子供っぽい気がしないでもない。子供だけど。

「じゃ、帰ります」

「お疲れさま」

裏口のステンレスドアを開けて外に出て数歩歩いた所で突然眩しい光が頭上から降ってきて白黒割れタイルの地面にプールの底のようなキラキラ光る波紋が踊り狂った。数秒視界を奪われて立ち止まり、振り返ると同じく驚いた顔の海瑠さんと目があった。海瑠さんは目を細めて上を見上げた。僕も目を細めて上を見上げる。いつもは街灯の光を反射して銀色か白っぽい色をしているドームの天井が透けて真っ青に色づいていた。それがだんだん黒っぽくなり、銀色が混じり始めてやがて元通り、普段のドームの天井の色に戻った。

「今の……?」

「……ライト・シティーの日照装置の操作ミスだよ。最近時々あるんだ」

「ライト・シティー?」

どこかで聞いた覚えがあるけどなんだっけ。首をかしげると店内からさっきの黒マジックと紙を持ってきてそこに○を三つ並べて描いた。あ、これ見たことある。スカイ・アマングの海岸で明日香が描いてたやつ。確か真ん中がスカイ・アマングで……。

「ここが今オレたちの居るナーガ・チェスのあるレフト・シティー。こっちがスカイ・アマング。スカイ・アマングをはさんでレフト・シティーの反対側にあるこれがライト・シティー」

うん、明日香にきいたのと同じだ。

しかし海瑠さんはスカイ・アマングの○の上下にひとつずつ小さめの黒丸を描きたして十字を作った。

「それは?」

「こっちはフロント・シティー。あんまり知られてない所で、誰も住んでないよ。昔自然保護区だった名残で森があるだけ。もうひとつはバック・シティー。何年も前に爆発があって、今は機能してない。残骸だけ残って宙にういてるってきくね」

「爆発?」

「うん。結構権力が強くて大きい国で、科学技術もここよりずっと進んでるんじゃないかって噂されてたくらいなんだけどね。まあ、一夜でばーっと」

それだけ発達した国が一夜で消えるものだろうか。何か危険な大実験でもやってて、すごく大きな爆発だったとか……?

視線を感じてふと目をあげると海瑠さんと目があった。凝視されてた……? 「なんですか」つい後ずさりしながらきく。

「いや……何で知らないのかなと思って。バック・シティーの爆発事件は6年前だよ。君の歳なら覚えてるはずだよね。移民のようだけどライト・シティーの名称に馴染みがないみたいだし……君はいったいどこから来たのかな」

とっさに答えられなかった。そうか。ここの人にとってバック・シティーやライト・シティーは日本でいう大阪や京都のような誰もが知る大都市なのだ。それ知らなかったらいくら何でも怪しすぎる。ユーは何しにここへ、だ。

……ん、6年……? 確か、明日香がスカイ・アマングから連れ去られたのもその頃じゃ……。その時期に何があったんだ……?

「修徒君?」

「あ、えと……」

質問に答えず考え事してたので余計に怪しまれている。どうしよう、とりあえずこの話きらないと。ふと冬人さんの笑顔が脳裏をよぎった。

「なーいしょ♪」

思いっきり営業スマイルを作ってみせた。面食らう海瑠さんにそのままちょっと詰めより、「相手にだけ出自を訊ねるなんて野暮ですよ」と軽く眉を寄せてからパッと離れた。まだ驚いたように立ち止まっている海瑠さんに「お疲れ様でしたー!」といつもの挨拶を置いて走り出す。明日またきかれるかもしれないけど、その時はその時だ。何かいい答え方を考えておこう。

路地の街灯は夜間用の暗めの照明に切り替わり始めていた。

「お帰りー」

家について玄関のドアをノックも無く開けると明日香の声と揚げ油の跳ねる音に迎えられた。

「ただいま。夕ご飯、コロッケ?」

外までおいしそうなにおいがしていた。

「うん、当たり。シュウ、コロッケ好きなの?」

「大好物」

ただし僕の母さんのあの創作コロッケでなければ。サツマイモコロッケとかカレー風味コロッケとか、最初の頃はよかったけどマスタードを入れ過ぎてしまったポテトサラダをコロッケに仕立て上げたあのからしコロッケはもう二度と味わいたくない。

「あれ、修徒くんお帰りー?」

「まだやってるんですかその発音……」

頭上に?マークを浮かべて首を傾げる冬人さん。今朝のこともう覚えてないなこの人。

「公正と今日破は? 冬人さんと職場一緒だったよね?」

「冬人さんだけ先に帰ってきたの。さっき〈力〉で」

「えへー」

えへーじゃない、〈力〉で帰るなら二人も連れて帰れ。置いてくるなよ。今頃えっちらおっちら路地歩いてるぞあの二人。

バタン。

ドアを吹き飛ばしそうな勢いで氏縞、曹、喜邨君がリビングに突っ込むように帰宅した。三人で口を揃えて

「飯いいいいいいいい!」

喜邨君が三人に増えたんじゃないかと一瞬思った。今日の晩ご飯のコロッケ、僕の分はちゃんと確保できるだろうか。

「今帰ったぞ!お、今日はコロッケか!俺の大好物や!」

みんなコロッケ好きなんだな。コロッケ……がんばってゲットしなければ……!

「できたよー。持って行って」

明日香に呼ばれて真っ先にキッチンに駆け込む。お、明日香考えたな。今日はひとりひとつの皿に分けてある。大皿から取り分けると喧嘩になるもんな。コロッケが3つの皿と2つの皿があったのでとりあえず縁利と栄蓮の分、と思って2つの皿を手に取る。置いてきて戻ると残っていた皿のほとんどがコロッケ2つの皿。これは早いとこ自分の皿を持って行った方が良さそうだ。3つの皿を持ったらちょうどその皿からコロッケがひとつ釣り上げられて喜邨君の口に消えた。

「あーっ!ちょ、喜邨君何してんだよっ!」

「2つの皿と3つの皿があったら不公平だろ。これで全部2つずつだ。公平公平」

言いつつもうひとつコロッケをほおばり満足そうに口周りに付いたパン粉をぬぐって皿を手に取った。そのままスキップでもしそうな雰囲気で楽しそうにリビングへ向かう。

「おい、喜邨お前コロッケつまみ食いしただろ。3つ載ってた皿があったはずだぞ」

「全部2つだ。自分だけ一個余分に食おうとか考えてんじゃねえだろうな、公正」

……喜邨君は何個余分に食ったんだよ。僕の静かな視線に公正が気がついて喜邨君の席に置かれていた皿を取り上げる。そして氏縞と曹の皿にコロッケを分ける。え、僕にはくれないの。

「てめえ何すんだ」

「お前はキッチンでコロッケ食っただろ。それも3つ以上。だから他の奴に譲れ」

「証拠あんのかよ。あ? 防犯カメラで撮りましたこれがそのデータですって出せるのかよ。勝手に疑いかけてんじゃねえ」

「僕が見てたよ」

「お前は俺に責任転嫁かよ。コロッケ食ったのはお前だろ」

「違う、喜邨君が不公平だから何とかって理由付けて食べたんじゃないか」

ごん、と重い音が響いてびいいいんと木製の机が振動した。衝撃で机からちょっと浮いた箸や皿が着地してガチャッと鈍い音。みんなの視線を集めたまま昨日子はパン、と手を合わせていただきますとつぶやいた。静まり帰ったリビングに明日香が戻ってきた。机の上の皿のコロッケを見回して僕等と昨日子を見比べ、はあ、っとうんざりしたようにため息を吐いて席に座る。

「……はいはい。ひとり二つね。いただきます」

微妙な雰囲気のまま明日香に続いてみんな箸を手に取った。テツロウさんも苦笑いで箸を手にとる。あー、ずいぶんくだらないことで喧嘩したな。子どもか。騒いですみませんでしただよ本当に。

一口あたたかいコロッケをかじって喜邨君に対して怒りが湧いた。こんなにおいしいのに、喜邨君のせいで2つしか食べられないんだ。「くれよお」と伸ばしてきた手を仕返しを恐れず思いっきりつねったのは今日が初めてかもしれなかった。

夕食も終わったしテレビでも見ようかとリモコンを探したけど部屋の隅の新聞の束の上にそれは無く、他の人が座っていた椅子の上とかキッチンのカウンターの上とか探しまわってそもそもテレビが存在しない事に気がついた。完全に自分家気分になっていた。それは喜邨君も同じだったようで今日って何曜日、○○○ってもうそろそろ始まる時間じゃねえ? ときいてきた。喜邨君も見てたんだそのアニメ。

公正が「ちょっといいか」と皿を洗っていた明日香、昨日子と窓際でしゃべっていた縁利たちを呼ぶ。「何?」と氏縞や曹も集まってきたがお呼びでなかったらしく、公正が配ったプリントは二人には渡らなかった。

「何や、これ」

プリントを一枚めくって今日破がきく。英文なので内容はわからないが一枚目が記入用、二枚目がその説明のようだ。

「ナーガ・チェス永住許可申請書。スカイ・アマングの内乱とアクア・チェスの浸水のせいで申請者多いから審査は当分先になると思うけど、早く書いておいた方が有利だから」

「永住許可って……。私たち特にここに住むつもりないんだけど」

「もちろん許可通ったらここじゃなくて指定住所に住むことになるぜ。それまではここに居させてもらえるように頼んである」

 な、と公正がテツロウさんに目配せして、テツロウさんが微笑んでうなずく。

「そうじゃなくて、私たちはレフト・シティーに住むつもりはないよ?」

「なんで?」

「なんでって……」

言い返そうとした明日香が眉根を寄せて黙り込む。

「……明日香。お前らはここに残れよ。ついてくる必要は無いんだぜ。俺はまだ用があるし、喜邨たちを向こう側に送り返す約束したからな。お前らはスカイ・アマングには住めなくなったけど、移住先が見つかればそれでいいだろ。スカイ・アマングやライトよりも、ここは治安もいいし先進国だし仕事もあって生活に困ることはない。最適だと思うけど」

縁利が説明文を栄蓮に読んで説明して、栄蓮が「公正って意外と気がきくんだね」とつぶやき「意外とってなんだ」と公正が顔をしかめた。

「さすがに俺と栄蓮二人で生活するのは大変そうだから、今日破のところに同居できるといいな」

「それなら許可申請の時に申告すればいい。当局側にしてみれば使う建物をひとつ節約できるわけだから問題なく通ると思う」

ふむ、と今日破も申請書を熟読し始める。明日香は戸惑うように今日破を見つめ昨日子と顔を見合わせていた。

「でも……、私たちも一緒に」

「11人でぞろぞろ移動するより人数少ない方が俺らも動きやすいんだよ」

邪魔だと言わんばかりの口ぶりに思わず肩をすくめる。ごめんしつこかった、早口でそう言って明日香も申請書に目を落とした。

玄関でピン、ポーンと呼び鈴が鳴り、「はぁい」栄蓮が答えて出て行った。ちょっと待て栄蓮、他人ン家だぞ。慌てて後を追いかけたが既に玄関を開けて来客と対面していた。街灯をバックにフードをかぶった長身の黒マントの男が二人。「テツロウ、は居るかな?」ときかれて「呼んでくる!」と僕とすれ違った。

黒マントのうち一人が僕に気づいて「あれっ」と声をあげ、フードをとる。茶色に近い黄土色の髪……ジョセ?

「修徒じゃん! どうしてここに? ここお前の家じゃないだろ?」

「へ? あー、テツロウさんの家には居候させてもらってます。むしろジョセこそどうしてここに?」

「テツロウに所用の為。詳細は機密。以上」

もう片方はやっぱりロブか。アンドロイドが、堂々と一般人の家を訪問してる……?

栄蓮がテツロウさんを連れて戻ってきた。テツロウさんは二人と話があるからと外へ出て行き、興味本意で玄関をのぞいた面々は見送ってドアを閉めた。

「おい……どういうことだ」

公正が怖い顔で睨んできた。何で僕を睨むんだよ。

「ロブとジョセはテツロウさんともともと知り合いで、おしゃべりにでも来たんじゃないかな」

「修徒……。何で奴らの名前を知ってる」

「おととい街で会った」

「……?」

困惑したような顔で「どういうことだ」ともう一度つぶやいて冬人さんをチラっと見た。冬人さんは「んー?」と笑顔のまま首をかしげた。公正は冬人さんをしばらくじっと見つめ、やがてはあ、とため息をついてリビングに戻って行った。

今日の風呂の順番はスムーズに決まり、僕は早めの順番で快適に入浴した。いつもの通り最後にまわされた氏縞と曹は湯槽でお湯掛けバトルを繰り広げて長湯になり栄蓮に怒られていた。布団を敷いて間もなく寝てしまったので、テツロウさんがいつ戻ってきたのか僕は知らない。