眠りから覚めて、毎度混乱するのは何故だろう。自分がどこに居るのかすぐわかることなどほとんど無い。しばらくぼやけた天井を見上げて、その白い色と遠さでああ自分の部屋だ、とわかるのだ。それからようやくさっきまで寝ていたことを自覚する。
高校の頃に古典の授業でしょっちゅう居眠りをして起こされたがあの感覚に似ている。起こされた瞬間は何が起こったのかすらわからなくて、周りの遠慮がちなザマミロ顔を見てから理解するのだ。
ベッドから起き上がり、寝ぼけた頭が動きだすのを待つ。今日は土曜日。何かあったっけ。「ミズ」「モール」「大木駅」「八時」IDリングに訊くと次々に単語を吐き出した。空間投影された文字は約十秒で見えなくなる。ああ、朝食の食パンを切らしている。コンビニでサンドイッチでも買ってくるか……。時間にはまだ余裕があるし。前と同じことを考えながら乱暴にシューズを突っ掛けて外に出る。まだ朝も早いというのに蝉が元気に鳴いていた。
コンビニに行ったところでサンドイッチは買えない。代わりに買うものを考えながら信号を無視して道路を渡る。バスが来ない時間帯の信号に従う必要はない。
どうしたらいいのだろう。このままソーセージドッグを買って、一回目と同じように出掛けて駅前でミズを待つのか。同じようにまた、飛空機に衝突するのか。またミズを、キョースケを、死なせるのか。精算機がソーセージドッグとゼロコーヒーのタグを読み込み支払い金額が画面に表示される。店員にそれを払って商品を受け取り、店を出た。
部屋に戻り、机の上に買ってきた物を並べて少し考え携帯カードを取り出した。音声認証でミズの番号を呼び出す。数回の呼び出し音の後、返事があった。
『何? 寝坊したの? まだ時間余裕あるからタカん家からなら間に合うよ』
「いや……」
むしろ早すぎたくらいだ、と答えようとしたが『聞こえない』とミズの声が遮る。携帯をいつもと逆の手で持っていた。右手に持ち変え、IDリングに声が入るように手首を寄せる。さっきの返事はすっ飛ばしていきなり本題に入る。「ちょっと今日、行くのやめよう」
『何、どしたの。具合悪い?』
「や、別に」
『急用? ご家族に不幸とか』
「じーさんもばーさんも元気ピンピンだよ、うちは」
『じゃあどうしたの』
答えに、つまる。
何を言おうとしたのか口は開いたが言葉は出なかった。違う。言う言葉が無かった。今日出かけたら、もう帰ってこれないなど言えるわけがない。何言ってるのタカ、で終わる。そんな冗談、面白くないよ。
ポツン、流しで水滴の垂れる音がした。内倒し窓の向こうから、爽やかな蝉の鳴き声。夏の日射しがじわりじわりと窓辺を侵食し始めていた。
『……、いいよ』
しばらくの沈黙の後、ミズは大きくため息をついてそう言った。
『いいよ。気分が乗らないんなら』
「……悪い」
『無理に誘ったのは私だし』
渋々ながら行くと約束したのは僕だ。
『そのうち代わりにどっか連れていきなさいよ』
「あー、うん」
『後その時は奢りで。今度ドタキャンしたら許さないから。それと今日暇になったからって一日中ゴロゴロしないこと。私とのデート断っといて無駄に過ごすとかそれこそ』
「う、うるっせなあ……わかってらーよ」
ふふん、と笑い声。『じゃあまた』と通話は切れる。「じゃあまた」返した言葉は部屋の中だけに響いて消えた。
携帯を財布にしまって床に寝転ぶ。これで今日、僕らが飛空機に乗ることはなくなった。電話一本。こんなに簡単なことだったんだ。運転を交代してもらったり、席を変えたり。大枚はたいてアプリワールドに行ってみたり、色々したけど答えはもっと手前にあった。起き上がってソーセージドッグの包みを開く。買ってしまったから仕方ないが、どうしてもサンドイッチを食べたかったのなら食パンでも買って自分で作ればよかったのだ。
もそもそとパンを咀嚼しながらふと疑問に思う。これで、もう心配は無いはずなのに僕は何をこんなに自分に言い聞かせているのだろう。
食事が終わってから結局部屋の隅から模造紙を出してきた。新入部員勧誘イベントで使った余りだ。マス目が描かれたそれを裏返しに床に置く。
懐かしいな。新学年スタート後しばらくの期間、基礎課程を学ぶ新入生が集まる全学棟前に立ってビラ配りしたっけな。キョースケは「ナンパと一緒だろ? なあに、男に魅力がありゃ女子部員だって増えるさ」とふざけ半分に女子ばかりに声かけてたっけ。それでいつのまにかミズが入部してて、春のサーメン対決で試合してからしばしば練習を頼まれるようになって、よく話すようになって。……「すきです」と言われたのはいつだったか。僕にとってもその時にはもうミズは他とは違う特別だった。いつなのだろう。いつからなのだろう。
床に広げた模造紙を、端を踏んづけたまま見下ろし眺めた。もう、あの飛空機にあの交差点であうことはない。ないのだけど。……時間はまだ七時をまわったくらい。僕の記憶に残るあれは、今日これから起こるはずだったことだ。書いてしまえば、あったこととして残してしまえば、それが少しは保険になるだろうか。
その辺にあったサインペンで真ん中に「飛空機」、隣に「交差点」。「ミズ」「キョースケ」「信号」「右折」。そして後は思いつくままに単語を書いていった。
しゃわしゃわと、爽やかに蝉が鳴いている。鳴き始めたらあんなにうるさいのに鳴きやむ頃にはいつ聞かなくなったのか気づかないほどになっている。今だって暑いなー夏だもんなー、と夏らしさを探さなかったら気がつかなかっただろう。手に持った発泡スチロールカップを、ミズが遠目に覗きこもうとする。欲しい? 溶けて色水のようだったはずのかき氷をミズは喜んで受け取り、白山にさっくりストローを刺した。
ああ、これは去年の夏祭りだ。唐突に理解して塀に背中を預けた。急速に暗くなっていく空を見上げて花火を待つ。いつ買ったのか僕の左手にはイカ焼きが握られていて、またもミズが物欲しげに見つめていた。
「やらないぞ」
「……別に欲しいなんて言ってないもん。私は今これ食べてるしー」
ミズこそいつ買ったのかベビーカステラの紙袋をチラリと見せる。いいな、それ。おいしそう。あげなーい。え、一個くらいーだろよこせ。じゃあそれちょっと頂戴。さっきかき氷分けただろ。
「仲良いなーお二人さん」
木陰からキョースケが顔を出す。コーラのお供か、右手にベビーカステラ。
「あ、いつの間に……一個三百円」
「一袋三百円で十二個入りだろ? 一個あたり二十五円からぼったくんなよー。ま、払わないけど」
「じゃあ返しなさいいい」
「いいだろ一個くらい。二十五円でケチケチすんなよ」
「自分の彼女にでも買ってもらいなさいよ」
「残念、居なくてさー。誰か紹介して? かわいいコ」
手をひらひらさせてふざけるキョースケをにらんだミズの目がふとそれる。振り向くと、空いっぱいに巨大な花火が上がっていた。あまりに大きすぎて金色の尾の先が建物の影に見切れている。それが消えるとすぐに次の花火が咲いた。音はない。さーっと光の線が空を疾る。それはこれまたあまりにも大きなしだれ花火で、一面に広がった花火が恐怖心をあおるようにずるっと落ちてきて眩しさに目を細め、
急に真っ暗になった。
何も見えない。すぐ隣にいたはずのミズもいない。キョースケも、いない。真っ暗で星ひとつ無い宇宙空間にでも放り出されたようだった。
急に暗闇に取り残されたにも関わらず僕は妙に落ち着いていた。番宣が終わって本編の映画が始まる直前、あの静けさによく似ているな、などと考えてそこにスクリーンがあるつもりで少し上を見上げる。しばらく待つと本当にそこに真っ白なスクリーンが映し出された。
瞬間、不安がよぎる。知らず知らず手指に力がこもる。急に逃げ出したくなったが脚の感覚が無い。耳鳴りのような音の中スクリーンが揺れる。本編が始まる。ああ、駄目だ。まだ、始まるな。やめてくれ。やめてくれ、待ってくれ。頼む、嫌だ、もう、嫌なんだよ……!
#6・・・2
『……デジコガアリマシタ。コノジコデフタリガ』
蝉の鳴き声で目を覚ました。模造紙脇で、つけっぱなしのラジオがニュースを吐いている。
『……ハ身元ノ確認ヲ急グトトモニ……』
見ればクマゼミが網戸に張り付いている。うるさいわけだ。ゴトンと窓をこづくとそいつはすぐにどこか飛んでいった。もう夕方か。ミズにはああ言われたが結局僕は暇になった一日をグータラして過ごした。
『現場ハ見通シノ良イ立体交差線デ……』
床に広げられた模造紙には大量の文字。1、2、3と各単語に付箋で番号をつけて各回ごとに変わったところ、同じだったことの見分けがつくようにしてある。午後四時十五分頃、ちょうどこの時間帯のことを書いている間に寝てしまったらしい。「レンタル飛空機」「交差線」「右折」と続いて機内座席図を書こうとしたのか大きさがまちまちの四角形がぐちゃっと重なっていて、そのすぐ横に鉛筆が転がっていた。さて、続きを……
『……衝突シタモノトミテ、警察ハ情報ノ提供ヲ……』
思わずラジオをひっつかんだ。手の中でくぐもった音声が別のニュースを伝え始める。おい、ちょっと待てさっきのニュースだ。もう一度聞かせろ。何の事故だって? どこで、あったって言った……?
ラジオを投げ捨て部屋を飛び出す。アパートの階段を駆け下り歩道に飛び出した。目指す先は駅だ。あそこならバスを待たなくともドローンがある。道路には夕日が刺さり、ほとんど人は歩いていない。時折上空を通り過ぎる飛空機に、思考だけが焦っていく。
IDリングでキョースケを呼び出す。反応はあるが応答が無い。『通信環境ニ問題ガアルカ、オ取リ込ミ中ノ可能性ガアリマス』とのたまうリングにリダイヤルを繰り返す。プルル、ツーツーツー『通信環境ニ問題ガアルカ』プツ、プルル、ツーツーツー『通信環境ニ……』プツ、プルル、ツーツーツー『通信環境ニ』プツ、プルル……。番号を変えてミズにも掛けてみる。『通信環境ニ……』応えない。
押し間違えて別の番号にかけたら応答があった。ディスプレイに表示された名前は宮瀬智博。誰だっけ。『斎田先輩? どーしたんスか急に』ああ、キョースケの研究室の後輩だ。
「キョースケそっちに戻ってないか」
「やー、戻ってないっスねー。俺も待ってるんスけど、何か聞いてませんか」
「……何も」
話が中途半端だがドローン乗降場に着いたので通話を切る。IDリングをかざして手早く利用登録を済ませ、ドローンのカプセル座席に乗り込む。市民病院を行き先にセットすると決済画面が表示された。前払いなのか。値段が、アプリワールドの入場料と同じだった。
モーター音を響かせて、ドローンはふわりと浮かび上がる。反重力装置搭載飛空機の飛行安定性がまだ十分でなかった頃には次世代家庭用乗用車として期待されていたドローンだが、「電力を食う」という至極当然な理由で飛空機にその座を奪われ一気に衰退した。一人しか乗れないし。今では割高料金で指定ポイント間を輸送する「ドローンタクシー」に使われる程度だ。飛空機と比べて良いのは駐機場でなく一般家庭の庭やベランダにも乗り入れ可能なことと、飛空機より低空の専用空域を経由して目的地に直行するので、短距離であれば早く着くことだろうか。
病院の玄関前でドローンを待たせて受付に駆け込む。夕方とはいえ週末の面会受付は混雑していて申請までかなり待たされた。
「ご家族の方ですか」
「いいえ」
「ご家族の方に連絡はつきますか」
いったい僕を幾つだと思ってるんだ。カウンター越しに事務員を睨んでからこの病院に搬入されたであろう二人のことだと気がついた。……ミズの親御さんなら、登録がある。データスキャナーにIDリングをかさして電話番号を選択する。幸い公共機関への情報提供は「承認」に設定されていた。それに送信者電子サインをつけることを代価にようやく面会許可が降りた。
予想通り、と言っていいのか案内ロボはエレベーターには向かわなかった。受付を過ぎてすぐの処置室奥の部屋。プレートに「霊安室」の文字。そして案内ロボには「スタッフを呼び出し中 しばらくお待ちください」の表示。さほど待たずに担当医が来て面会の意志確認。
あぁ。……やはり、そうなるのか。
まだ棚に納められず、ストレッチャーに載ったままの遺体に目を伏せた。損傷は思ったほど酷くはない。二人とも死因は高所からの落下による全身打撲と説明された。触れた手は既に冷たい。冷房のきいたこの部屋でなければ、外のうだるような暑さの中だったなら、まだ温かかっただろうか。僕が呼ぶこの声に、返事をしてくれただろうか。
他の面会者が来ましたので、と担当医は部屋を出ていった。他の面会者。ミズの親御さんかもしれない。もしかしたらキョースケの関係者かもしれない。その人たちがこれを見たらどう考えるだろう。僕のせいだと名乗り出たらどう言うだろう。きっと皆優しいから、僕のせいではない、共に泣こう、共に哀しもうと提案してくれるだろう。けれどこれは僕のせいなのだ。他の誰が、何と言おうと、これは僕のせいなのだ。でなければ僕は二人を救えない。だから、僕に彼らと共に泣く権利も、哀しむ資格も、無い。
きっと理解はされないだろう。それでいい。別に。
僕なら、まだできることはある。だから今はここでさよならだ、ミズ、……キョースケ。今度は、次会うときは、何を使ってでも。
#6・・・3
ごくり。
喉を鳴らして缶の中身を飲み干す。今のが最後の一滴だったと信じられなくてもう少しのけ反ってみたがもう垂れては来なかった。安い、うまい、甘い。最高だぜゼロコーヒー。もっと容量があればプレミアムだけど。諦めて缶を置いた時、バタ、ガタンと扉の音がした。斎田先輩かな。さっき電話あったし。ちょうどいい、加賀先輩の論文紹介用論文の和訳終わってるから持って行ってもらおう。
「……よぉ」
「ちわっス」
軽い挨拶の後、斎田先輩はそのまま中に入ってくる。「加賀先輩ならまだ来てないっスよ」「キョースケならもう来ねえよ」微妙にずれた返答に、少し考えてからやっぱり持って帰ってもらおうと論文の和訳をパソコンの下から引っ張り出した。それを無視して先輩は重力子実験装置の前に立つ。
「あーそれ、教授から処分しろって言われたんスけど壊し方わかんないんスよ。何か聞いてません?」
「何も」
続けて何を言おうとしたのか手を止めてしばらく固まって、結局無言でブルーシートを取り外す。操作盤の上に手をかざし、また何か考えてから指を滑らせる。何で操作方法知ってるんだ、と驚いてしまってから我に返った。
「ちょっと、何やってるんスか。触らないでくださいよ」
一度は無視したが一通り操作に一段落付いたのかしばらくしてから手が止まる。
「宮瀬。……もし何かを壊すか無くすかしてしまったとして、過去に戻ってそれを取り戻せるとしたら……。お前だったらどうする?」
「それって大事なものなんスよね。だったら戻りますかね。俺は。リスク次第で考えなくもないけど」
「だよな。今僕はそれをやってるんだ」
僕には部外者が許可無く機器をいじってるようにしか見えませんけど。
過去に戻れば取り戻せる、か。最近そんな感じのことを思ったなぁ。プリントアウトした論文に紛れこませて棚に置いていた本を手に取る。ちょうどよかった。斎田先輩は紙本好きだときいている。
「……先輩。『ユギ』って映画、知ってます?」
この本はその映画の原作だ。加賀先輩に勧められて先週見に行ったが最高だった。もっとも、俺の印象に残ったのは戦闘シーンばかりだけど。ナイフ使いの主人公の男を演じていたデニルだかなんだかいう俳優、噂通り圧巻のアクション演技だった。
「あれ、もう観てますか」
斎田先輩は、「いや」と応えて目を伏せる。
「でもストーリーは知ってる。観るはずだったし読むはずだったからな」
「どっかに頭でもぶつけてきたんスか? ……乱闘中に鳥が来るシーン、覚えてます? 俺あのシーン見て失敗しても諦めず何度でも挑戦することの大切さ? っていうんスかね、学んだんですよ」
しばらく考えるような無反応の間があった後、首を傾げる。本当に観たんだろうか。「主人公のライバルというか、仲間というか、そんな関係の奴が助けに来るシーンですよ」と付け加えたらやっとわかった顔をした。
「ゾンビに寵愛(ちょうあい)される一行をかっさらおうとするところだな」
……間違ってはいない。
「なかなか主人公達に近づけなくて何度も失敗するんスけど、タッチアンドゴーだとかゴーアラウンドとか指示して、……やり直してやり直して、何度も失敗しても最終的には助け出した。もしやり直せば取り戻せるってなら諦めないで何度でも挑戦すべきだと俺は思いますね」
「けど、その鳥は燃料が要るだろ。何度でもはできねえよ」
「……半分機械でしたっけね、あいつ」
曖昧に笑ってごまかし作業の続きを眺める。斎田先輩は一通り設定の確認を済ませるとその巨大冷蔵庫のような筐体(きょうたい)に入っていった。内側から扉が閉まる。……あのー。今から実験するんスか。俺そろそろ帰りたいんスけど。
カタカタカタと重力子実験装置が震え始めた。振動はだんだん大きくなり傍に放り出されたブルーシートもガサガサと耳障りな音をたて始める。何で起動してるんだ。まだ中に斎田先輩が居るはずなのに……。
なおも強まる振動に不安を覚えて先輩の名前を呼ぶ。返事は無く、しばらくして止まった筐体の扉がひとりでに開いた時、そこにもう斎田先輩は居なかった。