1日目:出発

チチチチチチ………

僕は小鳥の鳴き声で目が覚めた。手元の時計は5時だけど、今日は中途半端な時間に起きてしまったからと目覚まし時計をゴミ箱にスローインする必要は無い。合宿で登校時間が早いから。外はもうずいぶん明るい。今日も天気がよくて暑くなるのかもしれない。蝉が鳴く前にベッドから降りて、勉強机の下の旅行鞄に目が止まった。ようやく待ちに待った合宿だ。

荷物の確認をして一階に下りると黒服の女の人が寝ぼけ眼をこすりこすり朝食を作っていた。

「あら修徒おはよう。今日はレーズンパンと目玉焼きとキャベツね」

珍しく普通だと思いつつ食卓に着くともうあらかたできていたのか数分で僕の前に皿が並べられた。真っ黒焦げのレーズンパンと焼き過ぎたのか白身の部分が少なくて緑がかった黄身の目玉焼き。3cmぐらいの太さのキャベツの千切り。……全然普通の料理じゃなかった。とりあえず食べてみる。げ。パン苦い。目玉焼き……どんな味付けしたんだよ。なんでこんなに甘ったるいんだよ。

「かあ、さん味見したのかい、これ」

窓辺の鉢植えに水をやっている女の人の呼び名に一瞬迷った。僕もまだ寝ぼけているらしい。ふあ、とあくびでごまかした。母さんは床に水をこぼしてあたふたと雑巾を探していた。

「……手、どうしたの」

「手?」

フォークを置いてぐーぱーさせるが何ともない。そういえば左手小指のあざが無い。

「ここにあったやつ? 昨日新しく来た転校生がいじったら取れたよ。何か入ってたみたい」

「……そう、ですか」

思案顔のまま雑巾をしぼる。手を洗おうとレバーを上げて、上げすぎて勢い噴出した水が思い切りはねて服にぶっかかっていた。

朝食を食べ終わり、旅行鞄を持って下りると玄関で母さんが車の鍵片手に今日は鞄が重いだろうから送ってあげようかと有り難い言葉をくれたけどおそらくそれは居眠り運転になるに違いなく、恐ろしかったので断った。命は惜しい。

学校はクラスの奴らにうらやましがられるほど割と家に近いので徒歩数分で到着する。校門の前には何台も親達の車が並び、校庭の朝礼台の前には生徒が集まりつつあった。あ、|氏縞《しじま》と|曹《つかさ》と|喜邨《きむら》君見っけ。わかりやすいな相変わらず。

「我輩は曹家の者!我輩の方が重たい荷物を持っている!本を2冊入れてきたのだ!」

「俺は弁当、こっそり姉貴の分も持ってきたんだぞ!」

「はっはっは。貴様の浅知恵などお見通しだ我輩はきちんと家族全員分くすねてきた」

大迷惑にもほどがある競い合いの隣で喜邨君が大きな体を丸めていた。朝食を食い過ぎて腹痛を起こしたとか何とか。巨大な登山用リュックサックの中には大量の食料しか入ってないに違いない。

「ピイガガガーーー……。集まった生徒はバスに、ガガー……うしてください」

スピーカーで話しているのだろう、ひどい雑音の混じったクラス委員長の声が聞こえてきて人ごみがゆっくりと並んだバスに移動していく。僕たちもその中に混じって3号車に乗り込む。そういえば明日香が僕の隣だ。座席の上の棚に鞄を押しあげながら微妙に笑顔になってしまう。ごまかすためについでのふりをして通路で待っている明日香の手からリュックをひったくって棚に置いて、明日香の方を見ないで窓の外の方を向いたまま自分の席に座った。僕は窓側。明日香は僕の右側。通り過ぎるクラスの奴らが悪いなー、とでもいうような微妙な笑顔を向けていく。似たような顔を返して席にもたれた。悪いな、明日香の隣席は譲らねえ。

「合宿先」「どこ」通路をはさんで向こう側の公正が明日香にフセンを渡した。くそ、そっちも隣か。通路に身を乗り出した公正の顔面をぶん殴りたくなったが実行すると明日香に嫌われそうなのでやめておく。いつか覚えとけ公正。

「|久万《くま》だよ。久万のキャンプ場」

笑顔で答えないでくれ明日香。無視しろ……!

「熊っ?」

いつの間にか喜邨君が来ていて、話に割り込んだ。直後、バスが発車してよろめき、慌ててつかんだ明日香の席の背もたれが少々ゆがむ。

「久しい万でくま。森の中に生息するやつじゃないぞ」

「日差し? よくわからねぇな修徒の説明は」

ちゃんと人の発音を聞いてろ。

「あーあ、合宿、冬にスキー場行くんだったらよかったのに」

「へーえ明日香ってスキーできるんだ。へーえ」

氏縞は僕の後ろの席だったようだ。その隣、明日香の後ろの席に曹。どうりでさっきからうるさかったわけだ。

「すっ……スキーなんかできないよ。雪だるま作るに決まってるでしょう」

今知ったよスキー場が雪だるま製造所だったなんて。

すっかりバスガイド気分のクラス委員長が|砥部《とべ》町に入りましたこの街は砥部焼で有名だから皆さんよく知っているはずですねと誰一人聞こうとしない説明を続けている。松山の風景とは全く違う景色が車窓を流れていく。

「ねえ、国名七並べしようよ」

「あ、さんせー」

明日香の提案に珍しく喜邨君が乗り、さっそく開始。知っている国名を順番に言っていくだけの単純ルール。氏縞も曹も参加。

「アメリカ!」明日香。

「中国」曹。

「タイ」氏縞。

「ラオス!」喜邨君。

「韓国」僕。

「イギリス」明日香。

「インド」

「インドネシア!」

「パキスちゃん」←喜邨君。

誰だそれ(パキスタンだろーが)。

「イタリア」

「ドイツ」

「アルゼンチン」

「フランス」

「メキシコ」←喜邨君。

「オランダ」

「チリ」

「オーストラリア」

「オーストリア」

「まんまー」←喜邨君。

何歳児だ喜邨君。ミャンマーぐらい発音しろよと言ってやったら兄貴がそう教えてくれたんだと主張された。

「|久万《くま》町に入ったって。もうすぐ着くよ」

20分後、明日香の報告に|喜邨《きむら》君はものすごく気分も機嫌も悪そうな顔を上げた。バスに酔ったらしい。ここ、前から3番目の席なのに。機嫌が悪いのは|曹《つかさ》と|氏縞《しじま》が喧嘩のネタ切れの責任の押し付け合いでぎゃあぎゃあと言い争ってうるさいせいだ。

バスはゆっくりと速度を落とし、駐車場に入った。停車。前から順番に降りなさいと委員長がわめいているがみんな気にする事無く早い者勝ちでどやどやとバスを降りていく。すぐに火起こしなのでかまどの方へ急ぐ。

旅行鞄から出した軍手をはめて、なたで薪を割る。喜邨君が持ってきた薪は積んであった薪の中でも乾燥していて割りやすい。曹と氏縞が薪割りの本数を競っている所に公正も参加して薪の奪い合いになっている。危ないからなたを振り回して薪の所有権を主張するのやめろ。

「おい修徒…。ずいぶん端がガタガタじゃねぇか」

新聞紙に油をしみ込ませてかまどの底に並べていた喜邨君は僕の自信作の20本が不満なようだ。ガタガタだったら火が燃え移りやすいんだぞとか何とか言い訳がましく心の中でつぶやきつつ新聞紙の上に薪を置いてマッチ(明日香の持参物。他の班は何故か必死で木をこすり合わせている)で火を付ける。すぐに新聞紙に火が回りびっくりして飛び退いた。やがて薪にも燃え移り、火が安定すると木をこすり合わせて火が出るわけが無いと原始人に学ぶよりも現代の科学に甘えることを決めた他のクラスの人たちが火種をもらいに来た。たぶんもらいに来ないのはくそ真面目な委員長班だけだろう。

料理班が飯ごうを持って来て火にかけた。大きな鍋も火にかける。いつの間に切ったのかにんじんやたまねぎ、じゃがいもなどが次々に鍋に放り込まれていく。

だんだん日が暮れてくる。森に日が沈んでしばらくして東の空に一番星が咲いた。空の濃くて少し暗めの透き通った青色が木に囲まれて見えている。さっきまでうるさかった蝉の鳴き声ももう聞こえなくなって今度は鈴虫か何か虫の鳴き声がする。

「シュウ、カレーできたって。……何見てるの?」

「……空。ヒマだったから」

だったら料理班手伝えばよかったのにと笑いながら明日香は踵を返し料理班が紙皿にカレーをつぐのを手伝いに走って行った。……前言撤回。全然ヒマじゃない。僕は星を見るのに忙しいんだ。再び上を見上げると雲のせいで空が見えなかった。ちくしょう。

しばらくして明日香がカレーを持って来た。他の人にも配られる。

配られたカレーをスプーンですくって口に入れて、ものすごく熱くて口の中をやけどするところだった。あぶないあぶない。でもおいしい。

隣に公正が座った。わざわざ近くに座らなくてもいいのに。さすがにどっか行けとは言えず、黙って食事を再開する。氏縞と曹がカレー鍋の近くで何か言い争っている。カレーの種類の知識量を競い合っているようだ。シリアルカレーとか、カレー焼きそばとか色々聞こえてくる。

「カレーあんみつって存在するのか?」

ピラ、と見せてきたフセンで思わずむせた。シカトする気満々だったのにあまりに心当たりがあったので。恐ろしいことにカレーあんみつは実在する。母さんが作った創作料理の一つで普通のカレールゥにラーメンが数本混じっていて、ご飯のかわりにあんこが盛りつけてある。トッピングとしてマロンクリームが皿にその上に盛られている。カレールゥとそれら甘味の量によって甘さ辛さが激変する代物だ。やってみたい奴はやってみろ。先にトイレへの避難路を確保した方がいいかもしれない。

答えろよ、とばかりに袖を引っ張られるがそっちを向けない。実在するなどと答えれば実践させられそうで怖い。だって材料全部喜邨君が持ってるし。たぶんあの巨大なリュックサックに入っていたのだろう大量の菓子パンが喜邨君のすぐ近くに積まれている。喜邨君はカレーの残りの全クラス分を完食して再び腹痛を起こしたらしくうんうんうなっている。

紙皿を捨ててバンガローに戻る。すぐに寝袋の準備だ。班員全員分の寝袋を広げて並べる。しばらくして他のみんなも戻ってくる。

「あれ? 喜邨君はまだかい」

「あー……。今日賞味期限のパンは食べないともったいないとか言ってまだ食事中」

氏縞が答えて、曹の寝袋の上に置いてあった枕を自分のとこっそりすり替えた。曹は鞄の中を探っていて見ていなかった。公正は探っていた鞄から歯ブラシセットを見つけ出し「あ」という顔をする。まだ済ませてなかったのか。手洗い場の照明、もうすぐ消灯時間だぞ。

「3班さん、ちょっといいかー」

バンガローの出入り口に人影が立った。はいよ、と開けるとクラス委員長。片側だけ微妙に長い前髪の下の黒ぶちメガネが蛍光灯の光を反射した。思わず目をつむる。

「ああ悪い、普通のメガネより反射するんだ、これ。……公正居るかー?」

呼ばれた公正が顔を出す。

「あ、俺クラス委員長の手城。島田も居る、ちょっと話がしたいんだけど。出て来れるかー?」

うなずいて歯ブラシセットを手に出て行く公正。うーん、委員長がこの時間に他班のバンガローに来るなんてらしくないな。あのくそ真面目さんなら「もうすぐ消灯です!」って各班のバンガローを拡声器片手に見回ってそうなのに。

「手城のメガネって普通のメガネじゃねえの」

曹がつぶやきをきいて氏縞が「チッチッチ」と人差し指を振りながら詰め寄る。

「そんなことも知らないのか曹くん……?」

「何だよどうせお前も知らねえんだろ」

「アレはだね、俺らには見えないものが見えるメガネなのだよ」

「……おおお! 精霊とか英霊とか死霊とか!」

「そう、異界から現世に忍んで出て来た闇の眷属たちをその目にとらえる為に……!」

そんなメガネが存在してたまるか。

「色覚矯正眼鏡だよ。委員長確か軽度の色盲だったはず」

「……し、知ってたさ夢が無いな修徒は!」

「へっ……その年で夢語ってんじゃねえよ氏縞ぁ」

「何を言いやがる曹ぁ」

あー……。夢があるだの無いだので始まってしまった喧嘩にはーっとため息をついた。委員長に(正確にはそのメガネに)恥ずかしい属性がつけられそうだったから阻止したつもりだったんだけど、何も言わないで眺めてりゃよかった。うるさくて寝る気にならない。

公正が帰って来た。事務的な話をしてきましたという感じの無表情。特に何か校則違反してるようなところは無かったし、注意を受けたわけじゃ無さそうだけど何話してんたんだろ。

「明日の予定」と走り書きされたフセンが視界に入る。合宿のしおりの表紙をこっちに向けられてなるほど、とうなずく。しおりももらってなかったのか。どうりで合宿場所を知らなかったわけだ。

「おーう何だかウザイ女子が男子バンガローの前にうろちょろしてんな。とっとと帰れ、いっそ家に帰っちまえ、オカーチャーン、アタシサビシクテカエッテキチャッタヨーってな」

乱暴な口調で声がして、誰かを無理矢理押し退けて巨体が入って来た。喜邨君だ。前屈みに腹を抱えつつのたのたとバンガローに入り、さっそく寝袋に入ろうとして、

「小せぇなこの寝袋。腹が通らねぇじゃねぇか」

喜邨君がでかいんだよ。

入り口に立っていた人影は明日香だった。「おいここ男子バンガローだぞ。のぞきか?」「女子にも追い出されたんだろ。お前、気味悪いから」氏縞と曹がまくしたてて明日香が小さくなる。土で汚れたリュックを抱きしめる手が震えている。それでも立ち去らず、口をひき結んで上げた目が僕の目と合った。

「何か用かい。僕らもうすぐ寝るんだけど」

「あのっ……。話が、あって」

話? さっきの委員長といい明日香といい何の話か先に言えよな。

「公正、居る?」

ちえ、公正に話かよ。「居るけど。呼ぶかい」の言葉にしかし明日香は首をふった。それからちょっと迷うように視線をそらし、また戻す。口が「やっぱり明日に」と動いたような。

「何。今じゃないと駄目かい。さっきも言ったけど、もう寝るから」

「あう……。えっと」

明日香はうっと詰まったように話し出しかけた口の形のまま数秒固まり、あっという間に顔を真っ赤にしてさっと口を閉めて落ち着かなげにきょろきょろと僕に視線を合わせては慌てて何度かそらした。何なんだじれったい。

その時、

ズズン。

大地が揺れた。上下に。

喜邨君が寝返りでもうったかと振り向くが喜邨君はまだ寝袋と格闘中で、外からガラガラミシミシッと音がして、今度は大きく激しくたてに横に大きく揺れた。

「明日香っ!」

まだ驚いた表情のままバンガローの入り口に突っ立っている明日香の腕をひっつかんで中にひきずりこむ。

揺れは長かった。上下前後左右どっちへ揺れているのかさっぱり分からないままにバンガローごと揺さぶられ、外から斜面を岩が転がる音や木の折れる音が響いてくる。川のゴウゴウという音が聞こえる。近くに川なんて無かったはずなのに。ガラガラと音がした。おそらく崖崩れの音。川の音がさらに近くなる。

「土石流だ!」

外をのぞいた曹が叫び声をあげた。直後、バンガローがぎりぎりと傾き始めた。そして、ぶちぶちぶちっとロープがひきちぎられ、あっという間に上下が逆転し、反転し、バンガローはぐるぐる回転し始めた。

助けてと叫びたいのにどこかで誰も助けられるわけが無いのが分かっていて、それ以上に自分がこのまま死ぬんじゃないのかと怖くて怖くて、僕は叫んだ。わあわあと言葉にならなかった。いつもえらそうにしている喜邨君も曹も氏縞も、くそ公正もぎゃあぎゃあわめくばかりで何もできない。明日香は僕にしがみついて泣いていた。

ばんっと大きな音がしてバンガローの布が一部破れて大穴が開いた。斜面に突出していた岩にぶつかったらしい。再び岩に激突し、衝撃でバンガローから吹っ飛ばされて宙を舞い、川の濁流にたたきつけられて川底に衝突し、必死で浮き上がると流れて来た土や石や木が僕を沈めようとする。周りは真っ暗で、耳元で濁流がうなる音しか聞こえない。流れる先を見ると黒々とした太い筋のような大きな穴がぱっくりと大地に口を開けて待っていた。科学びっくり大百科で読んだことがある……断層だ。

水を吸って重たい服。沈めようと僕を川底に押し付ける土石流。じりじりとなすすべも無く断層へ近づいていく。スローモーションのように。

──明日香がいない。

気がついた時にはもう遅く、僕はぱっくりと口を開けた奈落の底へ、土石流の滝に乗って、落ちていった。