X-DAY_DATA_LOG

CODE:H-1759

 H-1759は廊下で待機していた。いつも通りの昼下がり、検体7号……「鷲也様」の訓練が試験場で行われていた。防音扉でここに音は聞こえないが、壁ひとつ隔てた向こう側で激しい剣戟が繰り広げられているのが見える。今日は戦闘訓練用に改造された短期戦闘特化A型アンドロイドが相手。これまでのデータから勝てない相手ではないが余裕とはいえないといったところか。

 鷲也様は研究所総長かつこの工場の主であり事実上この国の長である王(アニア)様の第一子であり、本来なら実験対象からはずされそうなものだがむしろ積極的に実験利用されていた。なんでも特殊な〈力〉をもつ血筋だとかで、アニア様いわく研究対象にしない理由がないとのこと。研究員たちもその姿勢をありがたく思っている者が多いようだった。

 実際鷲也様は非常に優秀で、弱冠14歳で投入されたアクアシティー戦では周りが敗戦するなか輝かしい戦績をおさめられた。その後も訓練を続け実験に協力し、研究所の発展に貢献してきた。

 しかし。当然ながらその訓練は過酷だった。H-1759はそのために訓練中、常に廊下の見える位置で待機となっていた。

 基本的には送迎の仕事、ということになっているが訓練後疲労で動けなくなったのを抱えて運んだこともある。背中からおびただしい出血を起こした彼を医者へ救急搬送したこともある。他にも熱を出して倒れた、高所から落ちたなど医者に寄ることなくまともに送迎したことなどほとんどない。……いや、それについてH-1759は何も言わない。何も思わない。アンドロイドはそういう風にはプログラムされていない。

 今日は弟の「翔太様」が訪れる予定だときいていた。今日の訓練はかなり軽めに切り上げられるだろう。アニア様はこの弟の方に特に愛情をそそいでいる節がある。ただし理由はやはり研究に関係しているが。同僚によればキャンセラーが効かない〈力〉を持っているとか。キャンセラーが効かないなら既存の〈力〉複写ではアンドロイドに導入することはできないはずだが現在試作第一号が試験中だったりする。新手法のテスト品なら外部取り付け型として単回用がH-1759にも配布されていた。

 うわさをすればなんとやら、その「翔太様」が廊下をとてとてと走ってきた。「兄さんはここですか?」とあいさつもそこそこにきいてきて、返事を持たずにドアにはりつく。背丈の足りない分足下を盛り上げて窓を覗き、激しい暗器訓練を興味深げに眺め始めた。左手には本が一冊。年齢に見合わずなかなか分厚い本で、開いたページの挿絵には見覚えがあった。空、だったか。どこか別の世界には空というものがあって、光も水も、人間が何もしなくてもそこから自動的に与えられるという。アニア様が以前目標のひとつとして話しておられたものだ。後ほど目を通すべきと考え、著者とタイトルを記録、ページの見えた部分のイメージを保存する。

 翔太様がもっとよく見ようとドアによりかかる。そんなによりかかられては、声に出すには遅く鍵のかかっていない扉がゆっくり開く。支えをなくして翔太様は台から転がり落ちた。

 アニア様は入ってきた翔太様を目を細めて見つめ、遊び心だろう、翔太様の持つ本に狙いを定めて〈力〉をこめた。

 次の瞬間たくさんのことが一度に起こった。翔太様の隣に鷲也様が現れて突き飛ばし、ほぼ同じタイミングで強い閃光が走った。鮮血が飛び散りドム、とくぐもった爆発音。鷲也様が大きくのけぞり、どさり。倒れる音。翔太様の悲鳴。事故だ、と瞬間的に判断する。鷲也様は倒れたまま起き上がらない。傷は見えないが負傷と判断。指示が出次第早急に搬送しなければ。嫌な音がして鷲也様の口から大量の血が吹き出た。警告、カラー黒。思わずバイタル測定を開始する。大量出血、多臓器不全、頻脈、血流量低下、意識喪失、見ればわかる情報が詳細に分析され一気に流れて処理しきれなくなる。搬送、搬送が優先行動で間違いないはずだと思考ルートを変更して行動決定、実行にうつす。

 バリッと眩しいほどの閃光に一瞬つつまれ飛び出しかけた足を止めた。

 ──っ!

 足下から無数の柱の群れが突然現れて勢いよく伸びた。思わずコントローラーを叩き瞬間移動とプロテクターを同時起動する。貫かれる寸前に天井近くへ移動に成功。アニア様は、……負傷、しかし他の個体が移動させている。同僚にまかせて次打の柱を避けながら場内を見渡す。鷲也様は。

 鷲也様は柱の攻撃を免れていた。すでにかなり広がった血だまりの真ん中に倒れて動かない。すぐ近くに立つ弟が白目をむいたまま閃光を散らしていた。これは……暴走だ。書架の資料に似たような記述があった。おそらく駄目だろうが運ばなければ。おそらく駄目? ……言葉の理解を回避しタイミングをはかる。

 柱の猛攻をプロテクターで防ぎながら群れに突っ込み鷲也様を回収した。再び天井近くに浮遊して直後、弟のものだけではない量の閃光が走った。

 反射的に最大距離をとび、屋外に移動する。直後、建物の屋根も壁も関係なく異様な数の柱が一気に飛び出して爆発するように崩れた。第二波はさらに隣の建物に波及しどんどん街へと広がっていく。

 崩れる建物からわらわらと人間のようなものが走り出ていくのが見えた。あれは……アンドロイド? どの個体も翔太様と同じ白緑色の閃光を散らしながら走り去っていく。観測同定、最新型のアンドロイドだ。なぜ。制御系統の不具合で全停止され、全機体の廃棄手続きが進められていたはず。オリジナルの〈力〉保持者の暴走で強制起動された……?

 腕の中で鷲也様が咳きこみはっとして目を落として絶句した。腹部にあいた拳ほどもない穴からぐちゃぐちゃにつぶれた腸がはみだしていた。速い鼓動にあわせてそこから血がしたたり、出ていた破片が押し流されてべちゃりと落ちる。さらにベシャ、バチャ、と内臓の残骸が次々にでてくる。咳の度に口からも血が飛び呼吸を奪っていた。カラー黒のコードが出ているが外傷が少なかったのでそこまでと思っていなかった。即死しなかったのがむしろ不思議な状態だった。体温が一気に下がっていっている。早く、早く届けなければ。

 最大距離移動を繰り返しながらプロテクターも起動して傷口を押さえ出血を止めようと試みるが勢いはおさまらない。ちぎれた内臓の破片がせき止められて溜まり、血でどす黒くふくらんでいく。咳もおさまらず吐血を繰り返して冷たくなっていく。死んでしまう。短時間の過剰使用で〈瞬間移動〉の飛距離が出なくなり走り出す。

「ク……リス」

 この状態でもまだ意識があるのか、咳き込み、血で喉を詰まらせながら何か言おうとする。

「僕じゃない、翔太を……げほっ、しょうたをたすけて」

 しゃべらないで、とは言えなかった。今を逃したらもう声を聞くことはないと思った。

「僕はもう助からない、から……」

「もう、……を守れない、……しょうたを……、しょうたを、つれてに……げて」

 うめき咳き込み、がたがた震えながら必死に目を開けていようとする。しかし徐々に体は弛緩していく。まぶたは下りていく。

「それ……つかえば……流刑地……むこ……わた、……かはっ……ら」

「たのむクリス」

「しょうたを」

「しょうたを」

「たのむ」

 〈音〉が使えたらどんなに良かっただろう。途切れ途切れの声はすぐに聞き取れないほど小さくなり、鷲也様はぐったりと気を失ってしまった。医者の家に駆け込んでそのまま手術台へ、医者が出てくるのを待つ余裕もなくいつも見ている通りに聞きを繋ぐがすでに呼吸は止まっており脈も弱くほとんど検知できなくなっていた。医者が妻を呼び出しててきぱきと蘇生作業を始めるのを横目に診療所を飛び出す。翔太様。翔太様を連れ出さなければ。

 己の主人が鷲也様ではないことは、もう頭になかった。