私が国際協力の仕事に関わり始めたのは20年前、縁あって開発経済学を勉強し始めたのは10年前のことです。この20年の間、開発経済学は教育や保健をはじめ、様々な分野における援助効果を実証し、研究成果を積み上げ、開発援助の実務に大きな影響を与えてきています。他方で、個々の研究論文を理解するには、実証研究の専門性が必要とされますので、研究と実務の間の距離は開く一方と感じられます。今回から、各回でテーマを定め、過去20年余りの間、教育開発に関し、開発経済学でどのような研究がなされてきたかについて、私が把握できている範囲のこととなりますが、お話ししていきたいと思います。今回は、教育において重要とされる教科書配布にかかる研究について、ご紹介したいと思います。
開発経済学では、1970年代から90年代にかけ、子ども達の学習成果と、学校における教科書等の資源との関係についての様々な研究がなされました。その頃の研究の一例としてフィリピンにおける世界銀行による教科書配布事業をとりあげたHeyneman et al. (1984)があります。フィリピンでは1970年代半ばに子どもと教科書の比率が全国平均でおよそ1対10と教科書の不足が顕著であったことから、全国における教科書配布により子どもと教科書の比率を1対2とすることが目指されました。1977年からの5年間で、小学校から高校の全教科を対象とし、約9,700万冊もの教科書の印刷・配布が計画されました(初年度には初等1・2年生を対象とし、約2,000万冊が配布されました)。全国に教科書が配布されたことから、Heyneman et al. (1984)では、教科書配布開始の前年度の初等1年生と2年生、教科書配布開始年度の初等1年生と2年生の、それぞれ学年末の試験の比較により、教科書配布の効果が推定されました。調査対象約50校における回帰分析の結果をもとに、フィリピン語と算数でそれぞれ0.3標準偏差、理科で0.5標準偏差の向上が図られたとHeyneman et al. (1984)は主張しています。
Heyneman et al. (1984)においては、教科書配布の有無が、年度の相違と重なっていますので、同研究における効果推定が成立するためには、教科書配布前年度と配布年度の間で、教科書配布の他に子どもの学習に影響を与えうる環境面の相違がない、あるいはそうした環境面の要因全てを回帰分析において考慮に入れることができている、といった強い仮定を置く必要があります。Heyneman et al. (1984)について、それらの仮定が成立していたかについては、様々な議論がありえますが、この場ではその点に深入りしません。Heyneman et al. (1984)の他にも、1970年代から90年代にかけて定量データをもとに、子ども達の学習成果と、教科書の関係を探る研究が行われ、教科書と子ども達の学習との正の相関関係が示されました(Jansen, 1995)。世界銀行は、2001年、サブサハラアフリカにおける教育開発に関し、A Chance to Learnと題した報告書を公刊しましたが、その中で子ども達の学習の基本的条件として、教科書の重要性をあげています(World Bank, 2001)。World Bank (2001)の記述は、当時の教科書配布事業に対する援助機関の認識を示すものと言えるでしょう。
開発途上国における教科書配布事業の子どもの学習に対する効果への見方を一変させた研究として、Glewwe et al. (2009)があります。その研究について見る前に、Paul Glewweなどによる、ケニアにおけるフリップチャート(理科や数学の指導内容を図示したもの)と子どもの学習の関係を探る研究(Glewwe et al., 2004)を見てみましょう。
Glewwe et al. (2004)は、フリップチャートと子ども(初等6~8年)の学習の関係について2つの方法で研究を行っています。一つ目は、調査対象校における子どもの学習成果(理科・数学等)と、もともとあるフリップチャートの数を調べ、それらの関係を探るものです。二つ目はランダム化比較試験です(前者と後者の調査対象校は異なりますが、同じ地域から無作為抽出されています)。前者では、フリップチャート1個につき子どもの学習成果が0.2標準偏差高い結果が示されたのに対し、後者では調査対象の全ての教科(理科、数学、地理、保健)に関し、フリップチャートの効果がないことが示されました。前者と後者は、フリップチャートと子どもの学習成果の関係を調べているにも関わらず、なぜ全く異なる結果が示されたのでしょうか。その理由は、前者では、フリップチャートの数と子どもの学習成果の両方に相関する変数(例えば子どもの通う学校の校長や教員の特徴等)をコントロールできていなかったためと考えられます。もちろん、前者では、子どもや教員、学校の特徴についても調査が行われ、回帰分析における説明変数に加えられましたが、どれほど変数を加えても、観測しづらい要因(校長や教員のやる気等)による子どもの学習成果への影響を完全にはコントロールできません(「欠落変数バイアス」と呼ばれます)。他方で、後者はランダム比較試験による結果ですので、介入効果の推定結果は、フリップチャート以外の要因による影響を受けません。Glewwe et al. (2004)は、同じ介入内容と被説明変数の関係について、異なる手法で調査することにより、実証研究におけるランダム化比較試験の優位性を示したと言えるでしょう。
さて、Glewwe et al. (2009)は、ケニアにおける教科書配布事業の子ども(初等3~7年)の学習成果(英語・数学・理科)に対する効果を、ランダム化比較試験により推定しました。調査対象校では、数学の教科書を例にとると、生徒と教科書の比率が20:1程でしたが、教科書配布の介入により、その比率が2:1程に改善しました。では、子ども達の学習成果は改善したのでしょうか。残念ながら、教科書配布の子どもの学習成果に対する効果は平均して無い、というショッキングな結果が示されました。平均して、と申し上げたのは、教科書配布を受ける前に学力の高かった子どもに対してのみ、約0.2標準偏差の効果があったためです。
教科書は子どもの学習にとって重要であるにも関わらず、なぜ、Glewwe et al. (2009)では、教科書配布の子ども達の学習成果に対する効果が平均して無いという結果が示されたのでしょうか。Glewwe et al. (2009)は、考えられる要因として、初等教育の普及が進んだ結果、教授言語である英語を十分に解さない生徒が増加したこと、カリキュラムの想定する子どもの学力レベルと子どもの実際の学力のずれが大きくなったことから、教科書配布が大多数の子どもの学習成果の向上に寄与しなかったのではないか、と論じています。
世界銀行は、前述のとおり2001年に教科書配布の重要性を指摘していましたが、最近ではGlewwe et al. (2009)等の実証研究の結果をもとに、学習成果向上のための方策として、既存の教科書配布はBad buys(賢い買い物ではない、という意味)と主張しています(World Bank, 2020)。
では、教科書配布はやめて他の介入をした方がよいのでしょうか。そんなことはありません。問題は教科書の中身であり、他の介入との組合せ(介入のパッケージ化)なのです。JICAは、1990年代末から中央アメリカ地域で算数・数学の教科書開発に取り組み、その経験をもとに近年ではエルサルバドルにおける事業で算数・数学の教科書を含む介入パッケージを開発し、ランダム化比較試験を通じて効果検証を行いました(Maruyama and Kurosaki, Forthcoming)。USAIDは読み書きや計算にかかる教科書開発を行い、ランダム化比較試験により介入パッケージの検証を行ってきていますが、算数・数学の学習内容を包括的に取り扱った教科書を含む介入パッケージの開発と、その効果検証は、私の知る限り、他の援助機関には例の見られないものです。現地の子ども達と教員についての深い理解をもとに教科書を設計・開発し、他の介入と組み合わせる。この援助のあり方に日本の技術協力の特徴の一つが表れていると言えるでしょう。
それでは、エルサルバドルにおけるJICAの教科書開発事業の知見を他国のJICA事業に応用することは可能なのでしょうか。また、算数・数学以外の科目でも、その知見は応用しうるものなのでしょうか。さらに、エルサルバドルにおけるJICA事業の知見をどのように発展させられるのでしょうか。エルサルバドルの事業における知見を有効に活用し、発展させていく上では、そもそもエルサルバドルにおいて子どもの算数・数学の学習成果を向上させた教科書の仕組みやその特徴・課題は何か、他国への応用において国のコンテキストの相違をどのように考慮する必要があるか等、様々な点を整理・検討していく必要があります。エルサルバドルにおけるランダム化比較試験は、同国の事業に従事したJICA専門家の有する暗黙知を形式知化し、組織内で共有し、他機関と広く議論していく上での一つの取組みと言えますが、知見の有効活用・発展のため、さらなる取組みが期待されます。
参考文献
Glewwe, Paul, Michael Kremer, Sylvie Moulin, and Eric Zitzewitz. 2004. “Retrospective vs. prospective analyses of school inputs: the case of flip charts in Kenya.” Journal of Development Economics (74): 251-268. https://doi.org/10.1016/j.jdeveco.2003.12.010
Glewwe, Paul, Michael Kremer, and Sylvie Moulin. 2009. “Many Children left behind? Textbooks and Test Scores in Kenya.” American Economic Journal: Applied Economics 1 (1): 112-35. https://scholar.harvard.edu/files/kremer/files/textbooks_and_test_scores_aej_jan_2010_sunday.pdf
Heyneman, Stephen P., Dean T. Jamison, and Xenia Montenegro. 1984. “Textbooks in the Philippines: Evaluation of the Pedagogical Impact of a Nationwide Investment.” Educational Evaluation and Policy Analysis (Summer, 1984) 6 (2): 139-150. https://doi.org/10.3102/01623737006002139
Jansen, Jonathan D. 1995. “Effective Schools?” Comparative Education (Jun. 1995) 31 (2): 181-200. https://doi.org/10.1080/03050069529100
Maruyama, Takao, and Takashi Kurosaki. Forthcoming. “Developing Textbooks to Improve Math Learning in Primary Education: Empirical Evidence from El Salvador.” Economic Development and Cultural Change.
https://doi.org/10.1086/721768
World Bank. 2001. A Chance to Learn: Knowledge and Finance for Education in Sub-Saharan Africa. Washington DC: World Bank. https://openknowledge.worldbank.org/handle/10986/13855
World Bank. 2020. Cost-Effective Approaches to Improve Global Learning. Washington DC: World Bank. https://documents1.worldbank.org/curated/en/719211603835247448/pdf/Cost-Effective-Approaches-to-Improve-Global-Learning-What-Does-Recent-Evidence-Tell-Us-Are-Smart-Buys-for-Improving-Learning-in-Low-and-Middle-Income-Countries.pdf