今回から次回にかけて、1970年代のインドネシアにおける大規模な小学校建設事業と、その後の2000年代の同国における初等教員資格制度改革について、それぞれ事例と実証研究を見てみてみましょう。小学校建設と教員資格制度改革は直接関係無いように見えますが、Chang et al. (2014)やRosser & Fahmi (2018)、 Novita (2019)は、1970年代の大規模な小学校建設は、教員の増員過程における質管理が不十分なまま、初等教員の需要を大幅に増加させ、結果的に教育の質の問題をもたらしたと論じています。インドネシアにおいて1975年に約60万人であった初等教員は1985年に約113万人と10年間でほぼ倍になりました(UNESCO, 2022)。インドネシアでは初等教育へのアクセス拡大を経て教育の質へと政策課題の重点が2000年代にはシフトしていきましたが、教員の教科知識や指導力の不足が課題として指摘されました(Chang et al., 2014; Rosser and Fahmi, 2018)。
地域は異なりますが、サブサハラアフリカ地域も似たような流れをたどっています。同地域では2000年代に初等教育へのアクセスが大幅に改善しました。アクセス拡大に伴って初等教員を大幅に増加させた結果、1999年から2014年にかけて初等教員数は約1.8倍となりました(Bashir et al., 2018)。初等教員の大幅な増員の結果、今日のサブサハラアフリカ地域における学習の危機の直接要因の一つとして、教員の教科知識や指導力の不足が指摘されています(Bold et al., 2017; World Bank, 2018)。インドネシアにおける事例とその実証研究は、今後のサブサハラアフリカ地域における教育開発を考える上でも参考になるのではないでしょうか。今回はインドネシアにおける小学校建設事業の事例と実証研究についてご紹介し、次回は2000年代の教員資格制度改革の事例と実証研究をご紹介したいと思います。
インドネシアでは1970年代の石油価格上昇により増加した政府収入をもとに、1973年から1974年、1978年から1979年にかけ、INPRESと呼ばれる小学校建設事業が実施され、計61,000を超える学校が建設されました。INPRESはインドネシア語でInstruksi Presiden(英訳はPresidential Instruction)の略称です。同事業では、1校あたり120名の子どもの受入を想定したようですので、61,000を超える学校は、年間732万人を超える子どもが学べるキャパシティです。1972年時点でのインドネシアにおける初等教育就学者数は約1,600万人でしたので、INPRES事業の規模の壮大さが感じられますね(UNESCO, 2022)。INPRES事業では、1972年時点で不就学の初等教育就学年齢の子どもの人数に応じ、各ディストリクトに建設される学校数が配分されました。
では、INPRES事業はインドネシアにおける教育開発に、どの程度貢献したのでしょうか。INPRES事業の教育開発効果を推定した著名な研究としてDuflo (2001)があります。Duflo (2001)は、インドネシアで1995年に行われた人口統計データ(分析では1950年から1972年に出生した人々のデータが用いられる)と、各ディストリクトにINPRES事業において建設が計画された学校数のデータを組み合わせ、INPRES事業により子どもの就学年数がどの程度伸びたかを推定しました。なお、「計画された学校数」と申し上げましたが、Duflo (2001)の参照した1983年にインドネシア教育省の実施した調査によりますと、INPRES事業において建設が計画された学校数と実際に建設された学校数はほぼ一致していたようです。
インドネシアにおける初等教育就学年齢は7歳から12歳でした。従って、Duflo (2001)の参照する人口統計データのうち1962年以前に生まれた人々は、INPRES事業により学校建設が行われた1974年時点で当時12歳あるいはそれよりも年齢が上となり、就学年齢をこえて就学していなかったとすればINPRES事業から裨益していないはずです(表1)。
Duflo (2001)における、INPRES事業による就学年数への効果推定の基本的な発想は、1957年から1962年に出生した人々(1974年時点で12歳から17歳)と、1968年から1972年に出生した人々(1974年時点で2歳から6歳)の1995年までの就学年数の差分をディストリクト間で比較することです。前者がINPRES事業に裨益しなかった人々、後者がINPRES事業により裨益した人々ですね(表2)。(経済学や社会学等では、ある期間に出生した人々の集団をコーホートと呼びます。)INPRES事業が就学年数に対して効果があったとすれば、上記の差分は、各ディストリクトにINPRES事業により建設された学校数(初等教育学齢期の子ども1000人あたり)に比例するはずです。
Duflo (2001)における、INPRES事業による教育開発効果(就学年数)推定方法の前提を確認しましょう。まず、上記の推定方法は、INPRES事業により教室建設が行われた1974年時点での人々の年齢を基準としていますので、もしも初等教育就学年齢を超えて就学する子どもがいたとすると、上記の推定方法では正しくINPRES事業の就学年数への効果を推定できませんね。人口統計データの確認の結果、1950年から1962年に生まれた人々の中で、1974年時点で初等教育に就学していた人々の割合は3%未満でした。従って、INPRES事業による小学校建設には、1974年時点で12歳以上の人々は裨益していなかったと考えられるはずとDuflo (2001)は論じます。
次に、INPRES事業の実施を見越して、あらかじめ個人が出生地や就学地を変えていたとすると、Duflo (2001)の推定方法は成立しません。例えば、家庭がINPRES事業を見越して引っ越して、INPRES事業における教室数の計画策定時よりも、ディストリクトの子どもの数が増えてしまうと、教室が想定以上に過密化してINPRES事業の開発効果に影響を与えてしまいますね。他方で、そうした引っ越しをする家庭は教育熱心と言えます。教育熱心な家庭がINPRES事業のある地域に引っ越すと、INPRES事業のない地域に比べ、教育熱心な家庭が増えるでしょうから、Duflo (2001)の推定方法ではINPRES事業の事業効果を過大に評価してしまうかもしれません。
上記の点について、Duflo (2001)は、1972年以前の段階ではINPRES事業による小学校建設数は決まっていなかったことから、INPRES事業が1995年の人口統計に含まれる個人の出生地に影響を与えた可能性は考えにくいと論じています。また、人口統計に含まれた個人の約9割が12歳の時点で出生地にとどまっていましたので、INPRES事業の決定が就学地の選択に影響を与えた可能性もないであろうとDuflo (2001)は論じています。このように、Duflo (2001)は推定方法に続いて、その方法に求められる前提を提示し、データをもとに前提が満たされていることを論じます。
続いて、Duflo (2001)における、INPRES事業による就学年数への効果の推定結果をみてみましょう。前述のとおり、INPRES事業により学校が建設されることで、そのディストリクトの人々の就学年数が伸びたとすれば、各ディストリクトにおける1968年から1972年に出生した人々の就学年数と1957年から1962年に出生した人々の就学年数の差分は、INPRES事業により建設された学校数(初等教育学齢期の子ども1000人あたり)に比例するはずです。回帰分析の結果、INPRES事業により初等教育学齢期の子ども1000人あたり学校が1校建設されることにより、1968年から1972年に出生した人々は就学年数が平均して0.188年向上したと推定されました(Duflo, 2001)。INPRES事業では、平均して初等教育学齢期の子ども1000人あたり1.98校が建設されたようですので、INPRES事業は就学年数を平均して0.372年伸ばしたと言えます。
INPRES事業の効果は地域によって異なったのでしょうか。人口密度を基準として地域を区分して分析したところ、人口密度の比較的低い地域において就学年数の伸びがみられた一方、人口密度の高い地域では就学年数の伸びは見られませんでした。Duflo (2001)は、人口密度の低い地域では新たな学校建設により子どもの通学距離・時間が短縮化されたことで、就学年数の伸びに寄与したのではないかと論じています。
では、そもそも、1957年から1962年に出生した人々と、1968年から1972年に出生した人々を対象とし、INPRESの事業効果を分析するという方法は妥当なのでしょうか。Duflo (2001)は、その検証のため、1974年時点で12歳から17歳の人々(1957年から1962年に出生した人々)と、18歳から24歳の人々(1950年から1956年に出生した人々)の就学年数を同様に比較します(表3)。
1974年以降に実施されたINPRES事業により就学年数が伸びたとすれば、1957年から1962年に出生した人々(1974年時点で12歳から17歳の人々)と1950年から1956年に出生した人々(1974年時点で18歳から24歳の人々)の就学年数の差は、INPRES事業により建設された学校数(初等教育学齢期の子ども1000人あたり)に相関しないはずですね。INPRES事業は1974年時点で12歳以上の人々(1962年以前に出生した人々)には、効果を与えていないはずですから(表1)。回帰分析の結果、1957年から1962年に出生した人々と1950年から1956年に出生した人々の就学年数の差は、INPRES事業により建設された学校数(初等教育学齢期の子ども1000人あたり)に相関しないことが確認されました。
Duflo (2001)は、INPRES事業により就学年数の向上が図られたことを示しましたが、冒頭で述べましたとおり、1970年代の大規模な小学校建設が、教員の質管理が不十分なまま、初等教員の需要を大幅に増加させ、結果的に教育の質の問題をもたらしたとすると、今日の我々はINPRES事業をどのように評価すべきなのでしょうか。INPRES事業は、就学年数の向上を図った良い政策であったのでしょうか、または、その後の教育の質の問題を生じさせた拙速な政策であったのでしょうか。あるいは、INPRES事業について論じる上では、当時、教室建設という特定の事業に多大な資源配分を行ったことや、教員の質管理の問題に十分に取り組めてこなかった、インドネシアの教育政策における中長期的展望の不足や、政策環境についても考えるべきでしょうか。それらの問いを考えることで、今日の教育開発への何らかの示唆がえられるように思われます。
次回は、インドネシアにおける2000年代半ばの教員資格制度改革と、その実証研究を見てみましょう。
参考文献
Bashir, Sajitha, Marlaine Lockheed, Elizabeth Ninan, and Jee-Peng Tan. 2018. Facing Forward: Schooling for Learning in Africa. Washington DC: World Bank. https://openknowledge.worldbank.org/handle/10986/29377?CID=EDU_TT_Education_EN_EXT
Bold, Tessa, Deon Filmer, Gayle Martin, Ezequiel Molina, Brian Stacy, Christophe Rockmore, Jakob Svensson, and Waly Wane. 2017. “Enrollment without Learning: Teacher Effort, Knowledge and Skill in Primary Schools in Africa.” Journal of Economic Perspectives, 31(4): 185-204.
https://pubs.aeaweb.org/doi/pdfplus/10.1257/jep.31.4.185
Chang, Mae Chu, Sheldon Shaeffer, Samer Al-Samarrai, Andrew B. Ragatz, Joppe de Ree, and Ritchie Stevenson. 2014. Teacher Reform in Indonesia: The Role of Politics and Evidence in Policy Making. Washington DC: World Bank.
https://openknowledge.worldbank.org/handle/10986/16355
Duflo, Esther. 2001. “Schooling and Labor Market Consequences of School Construction in Indonesia: Evidence from an Unusual Policy Experiment.” American Economic Review, 91 (4): 795-813.
https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/aer.91.4.795
Novita, Pipit. 2019. “What Happened to Initial Teacher Education in Indonesia? A Review of the Literature.” European Journal of Social Science: Education and Research, Sep. -Dec. 2019, 6 (3).
https://doi.org/10.26417/ejser.v6i3.p88-103
Rossera, Andrew and Mohamad Fahmi. 2018. “The political economy of teacher management reform in Indonesia.” International Journal of Educational Development. 61: 72–81.
https://doi.org/10.1016/j.ijedudev.2017.12.005
World Bank. 2018. World Development Report 2018: Learning to Realize Education’s Promise. Washington DC: World Bank.
https://www.worldbank.org/en/publication/wdr2018
UNESCO 2022. UIS.STAT. Retrieved from http://data.uis.unesco.org.