私たちが理学部化学教室に進学したのは1958年4月で、それから卒業までの2年間、出入りしたのは何時も化学教室の正面玄関からだった。この化学教室の入り口の絵が私たちのWebsiteのホームページを飾っている。この正面玄関と階段には、それから60年近く経っても忘れられない思い出がある。
1958年の9月、つまり私が3年生の秋の午後、私が外の用事から化学教室に戻って来て教室の入り口が見えるところに来ると、化学教室の玄関から出て階段を降りようとする一人の女性の姿が見えた。私は思わず「サエ!」と叫んでしまった。
この女性・三枝貞子と私は、小学校、中学校、高等学校の同期生だった。でも私は、大学受験で一年浪人をしたので、お茶の水女子大学の化学科に進学した彼女は私よりも一年先輩になっていて、この年は東大大学院の修士課程の受験に来て、彼女はその帰りだった。
中学の時、私たちは男女共学で、同学年の生徒の数は150名しかいなかったから、お互いすべてが顔見知りだった。女性徒は親しい仲間同士であだ名を付けて呼び合っていたので、もちろん私はそれも熟知していた。
しかし、極めて奥手だった私は、あだ名で女生徒を呼ぶことのできる男友だちを羨望と嫉妬で身を焦がしつつ眺めながらも、それでも女子を親しくあだ名で呼ぶ勇気は持たなかった。
実際、その年令になるまでついぞ女性の同期生をあだ名で呼んだことはなかったのに、彼女を見た途端に口をついて出たのは「サエ!」だった。私自身びっくりしたけれど、彼女も心の底から驚いたに違いない。
驚いて目を見開いた彼女と、その時はそこで立ち話をしただけだった。でも、彼女はこれが大きなきっかけだったと、その後言っていた。生まれて初めて私が口にした愛称で、私が一人の男性として彼女の心にポンと飛び込んだのである。
三枝貞子は1959年春には東京大学化学系大学院生物化学専門課程に入学し、私は1年遅れで同じ道を辿った。生物科学の江上不二夫先生の研究室は、新館と呼ばれた化学教室の右手の奥の増築部分の1階にあった。その狭い一室に彼女と机を並べて大学院修士課程を終え、私は1962年4月に彼女と結婚した。
落ち着いた性格で思慮深い彼女が、若い頃は生意気なだけで、未熟な青二才だった私をどうして選んだのか、いま考えると不思議である。でも、彼女のお陰で私はやがて自己中心的な性格から脱却して、人間らしく成長することが出来た。今思い返すと、その後の長い年月の間に、よくぞ彼女は私を見放さなかったものと思う。彼女に先立たれた今、私は感謝の気持ちを伝えるすべがない。毎日、心のなかでもっと立派な人になろうと彼女に誓っている。
東大理化2960卒Website(Scientia ) に収録
(20171110)
Scientia を見た Mak Kag氏の投稿
昔ある時、化学教室の地下室から階段を上がって玄関ホールに出ようとしたら、一組の男女が、名札を裏返して、人目を忍ぶように玄関を出て行くのに気が付いた。彼等は外に出て、小走りに病院の方に向かった。そうか彼らはできていたのか!隠さなくてもいいのに!
今バラシます。それは Chaibo ことYamagataと KoSada ことSae でした。それから何年か何か月か経って、修士報告会のあとのコンパで、Sae はシャンソンを歌い、Chaiboはクラリネットで伴奏をしました。めでたしめでたし。
発信時間: 2010-10-04 16:18:08 | チャイナネット | 編集者にメールを送る
「中国が好きだ。だから中国にいる」。これは、瀋陽薬科大学に務めている山形達也教授の言葉だ。
山形教授は2000年に瀋陽薬科大学で講義をするため、初めて中国に来た。非常に熱心で、口を挟まず、まじめに講義を聞く学生たちの姿に感動し、山形教授は「ここで仕事をしよう」と心に決めた。それから3年後の2003年、同じ研究者である奥さんと共に再び瀋陽薬科大学に来た。
一流の科学者を育てるために、学生と一緒に研究を続けている。山形教授が研究しているのは、世界一の難病、癌だ。癌細胞の転移が分かれば、癌を抑えることができる。山形教授が今、学生たちとその基礎研究を行っている。
研究指導のほか、「学生を育てるには、自信をつけさせることが大事だ」と考え、学生たちに励ましの言葉をかけることを忘れない。山形教授の指導と激励のもと、学生たちは、研究成果を世界でもトップクラスの科学雑誌に投稿したり、世界各国の有名な研究室に呼ばれて勉強や研究を続けている。
また山形教授は、自分の知識経験を生かし、専門分野以外でも自分の力を発揮し、友好に尽力している。
瀋陽では日本人が作った日本語教師の会という組織がある。この会は、中国人が会に所属する日本人と日本語で会話練習をしたり、日本語の雑誌やテキストを読むことができる日本語使用室で活動している。山形教授は、実際に日本語を教えることはないが、「違う国に来て、自分たちの経験を生かし、助けようとするのは、なかなかいいね」と、練習場所を探したり、本を集めたり、ホームページの作成や更新を担当して、会の活動を自分なりにサポートしている。
「純真で、向上心があり、一生懸命研究をする」と、自分の学生たちの指導にも熱が入る。また、「地元の人々も素朴だ」と仲良く付き合っている。
「自分には、バックグランドも権力もないけど、個人の付き合いしかやらない。しかし、個人個人が理解を深めることはすべての基本だ」と、山形教授は、瀋陽での生活を楽しんでいる。現在73歳の山形さんだが、実際の年齢よりかなり若く見える。
中国が非常に気にいって、5年の契約を終え、さらにまた5年間の契約を更新した。中国を最後の仕事場と考えている。仕事ができなくなった時、日本に帰って老後の生活をおくるとおっしゃった。
瀋陽薬科大学で研究を続けながら、中日交流を実践している山形達也教授をご紹介した。
「中国国際放送局 日本語部」より 2010年10月4日
「中国網日本語版(チャイナネット)」の記事の無断転用を禁じます。問い合わせはzy@china.org.cnまで
1989年に山形は同志と語らってFCCAという名前の糖質科学の研究グループを立ち上げ、TIGGと名付けた機関誌を発行しました
山形はFCCAの初代幹事長を6年、TIGGの初代編集長を9年務めました
1999年に発足当時の苦労を振り返って
What Could Be Better than Indulging in TIGG?
こ ん な 道 楽 な ら ま ア い い わ ヨ
―FCCAとTIGGを 始 め た こ ろ ―
を書きました(これは私の仕事を容認した妻・貞子の言葉です)
以下は2カ国語で出版しているTIGGに載った回顧録です
GLYCOREFLECTION
Trends in Glycoscience and Glycotechnology Vol.11 No.59 (May 1999) pp.159-178
Yamagata, Tatsuya
Div. Glycobiol. and Glycotechnol., Japan Institute of Leather Research, Tokyo 120-8601, Japan
Key Words : editorship, FCCA, TIGG
A. First Issue of TIGG Is Now Rare to Find
It was the 2nd of September, 1989, when the first issue of TIGG was launched. As we started FCCA, as well as TIGG, we were able to decide among ourselves that the coming issues should have a serial number as in the case of Nature and Science. To see the serial number growing on the TIGG issue always gives me pleasure, with the confidence that we have done something commendable. TIGG is being issued bimonthly, and thus that of weekly journals constantly gaps the number of our journal. Some day when TIGG will be issued weekly or, even daily, TIGG may surpass these journals. Anyway, the serial numbering system has an advantage so as to know how long I have been personally involved in this kind of tough job.
The first issue was published as a Xeroxed letter which was stapled and folded to fit in an envelope with the return address of a company and sent to the individuals whose addresses were picked up from the lists of participants of several carbohydrate-related meetings and from that of Japan Society of Carbohydrate Research. Since we had no funding to start with FCCA and TIGG, Dr. Takagahara, one of the FCCA secretaries, took care of mailing out the first issue, with the help of his secretaries using the envelopes of his company. It was at the eighth issue when he was relieved from this kind of volunteer work. Some people who received this mail enclosed in the company-named envelope regarded it as a direct mail and immediately threw it away without even opening. The second issue of TIGG acquired an imposing journal style, and thus it is highly possible that a few people still keep the first issue in their hands. In the editors' note of the first volume, I described on a short note how the organization of FCCA and the publication of TIGG took off. I may begin with writing how and when our crazy guys seeded these.
1989年9月2日 がTIGGの 記 念 す べ き第1号 の 発 行 日で あ る。 FCCAもTIGGも 自分 た ちで始 めた もの なの で 、TIGGの ナ ンバ ー を通 し番号 にす る か ど うか とい う よ うな こ と も自分 た ちで 決 め て きた。TIGGは 、NatureやScienceみ たい に通 し番 号 で行 こ う と 決 め た の で 、号 数 が 増 え て い くの は大 変 楽 しみ で あ る。 今 の と ころTIGGは 隔 月 刊 なの で 、Natureに は号 数 が 引 き離 され て 行 く ばか りであ る。 で も、今 に こち ら も 毎週発行 にな り(差 が開かな くなる)、 それが 日刊 に なれ ば追 い越 す の も夢 で はない。 ともか く、今 まで に何 冊 発行 したかが 直 ぐ 分 かるのが 、 この 数 え方の取 り柄 で ある。
そ の 第1号 は、Xeroxコ ピー をホ ッチ キスで閉 じて折 り畳 んで封 筒 に入れて 、 日本 糖質学会名簿 と糖 質関係の研究会 に 出席 した人 たちの 名 簿 を頼 りに送 られ た。FCCAもTIGGも す べ て手 作 りで 何 の 資 金 もな く、 この 第1号 の発 送 は創 設 当初 の幹 事 の一 人 で あ っ た高 河 原 さん の奉 仕 で な され た 。 つ ま り、 そ の 企 業 の 名前 入 りの 封 筒 に入 れ て 送 られ た 。 「また いつ もの ダ イ レ ク トメー ル か」 と い う こ とで 、封 も開 け られ ず に その ま ま捨 て られ た もの もあ った らしい。第2号 か らはきちん と製本 された雑誌の体裁 となった ので、 この第1号 のA4判 の薄い小冊子 をその まま持 っている人 は多 くないに違いない。その第1号 の編集後記 にFCCAが どのよ うな経緯 で始 まったか を書いたが、ここで も、話はそ こか ら始 め よう。
Fig. 1. The initiators of FCCA. Drawn by Mochizuki and included in the first issue of TIGG (September, 1989). The second from the left represents K. Kawaguchi.
B. How Eagerly Dr. Kawaguchi Urged Me to Become a Victim of Conspiracy Led by Him
In April, 1989, Dionex sponsored a meeting in Tokyo at which I gave a talk.After the fruitful meeting, I met Dr. Kawaguchi who called me several days earlier to get an appointment with me. I met him only once several years ago and I knew him as a person who used to work on liver lectin. We went to a small nearby Chinese restaurant where he ate and drank a lot, while talking a lot. It was the very first occasion when I was shocked not only by his eating speed but also by the amount he ate and drank. There was no end to his talk as well. In brief, what he said was that he wanted to create an organization that will promote and enlighten people of how important and interesting researches on saccharides were. He urged me to join it.
What do you mean? -That researches on saccharides are important and interesting? I know it. That's why I have been deeply involved in researching it. Why do you think it is allowed to insist your opinion upon others? If you think it is enjoyable, why don't you start working on it yourself? Enlightenment sounds arårogant and may fool other people. These were what I said to him.
I still keep the thoughts with me. Then, if so, why did I say Yes to him? Why did I get entangled with him and involved in FCCA and TIGG which demanded my full devotion to them, affecting my research activity and my own private life, for the past ten years? One reason for this was found in one of his proposals, i.e., the organization would publish its journal whose purpose fitted what I had in my mind. Secondly, I was such a gullible person.
What's more important at that time was, you know, that I was scared by the amount, which should be equally shared by the two of us. Not until I agreed with his idea, he never stopped eating while speaking.
1989年4月 のある 日、ダイオネ ックスが スポ ンサーとなって 糖 の分析 に関す るシンポ ジウムが 開かれ、私はその講 師の一人 として話 を した。その会が終 わった後、事前 に受 けた電話で約 束 を した川 口吉太郎博士 と会い、会場の近 くの食べ物屋 さんに 出掛 けた。川 口さん とはその数年前 に学会で初めて出会 う機会 が あ り、肝 レクチ ンの研 究を していたら しい とい う印象 を持 っ ていただけであ る。川口 さんはその小 さな中華料理屋 さんで、 よ く飲み、 よ く食べ 、そ して言葉が尽 きなかった。この後 も川 口さんの食べ るときの速度 とその量 に何度 も驚 か されたが、 こ れがその最初であった。 この時 の彼の熱弁 を一言 でい うと、糖 の研究が大事 で、かつ面 白い とい う啓蒙活動 をしよう と言 う。 そ してその運動 にぜ ひ参加 しろ と言 う。
糖の研 究が大事 で面 白い?「 そんなこ とは当 た り前で はな いか。だか らこそ 自分 は糖鎖の研 究 をやっているのだから。面 白い と思 うな らば、川 口さんが 自分 も大事 だ と思 う研究 をやれ ば良いではないか。 自分でや っている ことを、何 で厚か ま しく も面 白い と言 って関係 の ない 人 に押 しつけ よ うとす るの? 大 体、啓 蒙なんて他 人を馬鹿 に している ことだ」 これが、彼の話 に対 する最 初の返事 だった。
この時に感 じた私 の考 えは今 で も変 わってい ない。それな らばなぜ川 口さんに巻 き込 まれて この10年 間、自分の研究 も私 生活 も大 いに影響 を受け ることになった事業 に関 わって しまっ たのか。 これ は、 この彼 の描 く活動 の一つ に雑誌の発行 とい う のが あ り、その雑誌 を発行 する 目的が私 の考 えてい ることと一一 致 してい たことと、私が生来乗せ られやすい性格のためである と言 えよう。
しか し何 よ りも、 ともか くその時、川口 さんの熱 弁 に賛成 を しない ことには、割 り勘で払 う予定の食事代が どん どん膨 らんでい く恐怖 におびえていたためで もあ った と思 う。
Fig. 2. "TIGG helps keep you out of confusion" Drawn by J. Kudo. Taken from No. 9 (January, 1991).
C. "Forum: Carbohydrates Coming of Age" Was Proposed to Our New Organization
There must have been many people to whom Dr. Kawaguchi spoke with fervor. Some clever persons said No, while some gentle ones, Yes. One day in June, when I suppose he had gotten enough number of people to start the business, we met at a small restaurant in Shinjuku. Joined together were Drs. Shigeharu Fukuda, Kichitaro Kawaguchi, Tatsuro Nishihara, Yasuo Ohe, Naoto Shibuya, Isamu Takagahara, Hiroshi Tomoda, and I. This was the first time for me to see these people except for Dr. Kawaguchi whom I have met only once for this purpose. This situation simply may imply that FCCA originated from him.
He told us that the name "Forum: Carbohydrates Coming of Age" for our new organization was suggested by Dr. Y. C. Lee of the Johns Hopkins University. It's a nice name. All of us had been persuaded by Kawaguchi to join this business, and, once we liked the name of the organization, we had no difficulty discussing what we could do under the dazzling banner.
We decided to have bimonthly meetings for a saccharide research campaign in the form of a symposium, research meeting, or lecture course. This is the first purpose of this FCCA, since the aim of the organization was to make people aware of the importance of saccharide research.
Moreover, we agreed to publish a bilingual newsletter in English and Japanese every other month. This composes the second raison detre of FCCA. English will be used as the official language of the journal to make it international and Japanese is likewise essential for us to be accepted in Japan where FCCA was to be set up. The newsletter should consist mainly of minireview articles on hot topics as well as introduction of papers that seemed important and exciting. The latter attracted my attention and induced me to become involved in this endeavor. Anyway since I enthusiastically speak about the intriguing papers which can be found in the newly arriving journals on the shelf in the library, why not write about it to the people outside of my laboratory?
川 口さんは私 に振 るったの と同 じ様 な熱弁で、彼 の運動 に 私のほか にも何 人 もの人を誘 った と思われ る。そ して賢明な人 は断 った に違 いない。心が優 しくて断れ なか った何人かの数が 予定 の人数 に達 したのであろうか、6月 のある日新宿に集 まろ う とい う連絡が あった。酒 も出 し軽食の出来 る喫茶店の一角 を借 り切 って集 まったの は私 の他 、川 口さん をは じめ として、渋谷 、西 原 、 高 河原 、供 田、福 田(恵)、 大江 の諸 氏 で あ っ た。 私 は 川 口 さん とこの 目的 で 会 うの もこれ で2回 目だ ったが、川 口 さん 以外 の 人 た ち とは 全 くの 初 対 面 で あ り、 川 口 さん に繋 が る 人脈 で このFCCAが 始 まっ た こ とは 間 違 い な い。
この よ う な試 み の ため の組 織 に 「Forum:Carbohydrates Coming of Age(FCCA)」 とい う 名前 がJohns Hoplins大 学 のLee先 生 が 提 案 され て い る とい う。 洒 落 た名 前 で あ る。 大 体 が 、 川 口 さん に折 伏 さ れ て集 まっ た 以 上 、 組 織 の 名 前 が 気 に入 れ ば、 も うそ れ で計 画 はす ん な りと動 き出 す こ と は決 ま っ た よ う な もの で あ る。
2ヶ 月 に1回 くらい の 頻 度 で 研 究 会、 シ ンポ ジ ウム 、 講 習 会 の よ う な形 で 糖 質研 究 の面 白 さ を宣伝 す る 集 ま りを開 こ う。 こ れ が このFCCAの 存 在 意 義 の 第一 であ る。糖 質研 究 の面 白 さ を喧 伝 し、 か つ 研 究 して い る 人 た ち の 間 の 自由 な 交流 を活発 に しよ う とい うの だ か ら当 然 で あ る。
隔 月刊 で2カ 国語のニュース レ タ ー を発 行 し よ う 。 こ れ が こ の FCCAの 存 在意義 の 第 二 と な る。 2カ 国 語 と は 英 語 ・日本語 のふ た つである。英語は 国際誌である以上 絶対だ し、 日本語 もこれ また 日本国 内で支持者 を増や すためには絶対必 要 だ と考 え た 。 ニ ュース レターに は、その時々の糖 質研究 の トピック ス を扱 う ミニ レ ビュ ー を載 せ る こ と と、 これ は重 要 とい う思 われ る論 文 を取 り 上 げ て 会員 に紹 介 し よ う とい う こ とが 決 ま っ た。 この 後 者 が 、 先 ほ ど書 い た 、私 が こ うい う こ とが 出 来 る な らば や って も良 い と思 う内容 だ っ た 。 つ ま り、 毎 週 到 着 す る 雑誌 か ら面 白い 論 文 に 出会 っ た と きの興 奮 を、 自分 の研 究室 の 人 た ち に伝 え る だ け で な く、広 く会 員 と共有 し よ う とい う姿 勢 に賛 成 した の が 、 ま あ言 っ てみ れ ば私 の運 の尽 きだ っ た こ とに な る。
Fig. 3. TAG-1 was suggested to be associated with the guidance of neourons by the paper of A.J. Furley. Drawn by H. Kudo. Taken from No. 6 (July, 1990).
D. We Will Create Trends in Glycoscience and Glycotechnology
Which name should be given to the newsletter to be born? The term Glycobiology was getting popular at that time. We wanted to create a new term and immediately came across "Glycoscience" . As for another term to be paired with this word, we shouted in chorus "Glycotechnology". Thus our newsletter was termed "Trends in Glycoscicence and Glycotechnology (abbreviated as TIGG)". We were the ones who started using both words, glycoscience and glycotechnology, for the first time in the world!
Those who gathered on that day were all assigned to be secretaries of FCCA as well as editors of TIGG with no objections. Mainly because, I supposed, I was the eldest among the attendants, they put me forward as chief executive secretary for FCCA and editor-in-chief of TIGG. Some time later, Dr. Kawaguchi told me the main reason why he wanted me to join his club. He thought that I would be free of the influence of "the big shots" ruling over saccharide researches in Japan, because I was at that time working at the non-profit private institute, the Mitsubishi Kasei Institute of Life Sciences.
The commitment to become chief of the two organizations did not make me uneasy, since I thought we had plenty of time before we would commence the actual activity. We were in a sense intoxicated by the idea that we would start something important in the field of saccharide research and got drunk with several glasses of beer. I myself did not realize how tough the directorship as well as editorship would be. What we fixed at the first meeting were the individual appointments and fee for the FCCA membership. We never seriously discussed how we could line up possible contributors to the newsletter and how we can raise fund for our organization. We were unable to figure out at that time that publishing the bimonthly journal would require roughly ten million yen a year and that we would have a hard time later in a year.
We were so thoughtless that we roughly estimated the expense per issue could cost us 500 yen and we fixed the annual fee for the domestic members as 3,000 yen and 7,000 yen for the overseas members, taking the extra postal charge into account. If accumulated members' fees may face a deficit of money, we could ask for donations at companies concerned.
Since the newsletter was to be made by the FCCA members, and issued for the members, we immediately agreed to use the phrase taken and modified from the famous Lincoln's Gettisburg address. We would print "TIGG, a Publication of, by, and for the FCCA Members" on the cover of TIGG journal, though, at the time of the meeting, none of us was sure about the order of "of, by, and for" in the original address.
雑 誌 の名 前 は 何 が よい だ ろ う?ち ょう どその ころGlycobiogy とい う言 葉 が 使 わ れ だ して い た。 同 じ言 葉 を使 うの は面 白 くな い 。直 ぐに、 そ れ に相 当 す る言 葉 と してGlycoscienceを 作 ろ う と い う こ と に な り、 そ れ の対 句 と してGlycotechnologyと い う言 葉もす ん な り出 て きた。 したが って 、雑 誌 はTrends in Glycoscience and Glycotechnology(TIGG)と 名付 け られ た 。Glycoscienceも 、 Glycotechologyも 私 た ち は これ が世 界 で公 式 に使 わ れ た最 初 で は な い か と思 っ て い る。
FCCAの 活 動 を支 えて い く人 た ち と して 、 その 日集 まった 人 た ち がFCCA幹 事 とな っ た 。 そ のFCCA幹 事 長 とTIGG編 集 長 に は 、集 まっ た 中で 最 年 長 の 私 が推 さ れ て就 任 した。 あ とで 川 口 さ んか ら聞 い た が 、 私 に この 運 動 に是 非 入 っ て 欲 しか っ た の は 、私 が 当時 は民 間 の研 究所 で あ る三 菱 化 成 生 命 科 学研 究所 に い た の で 、学 会 の 大 物 達 の 影響 を あ ま り受 け る こ と な くこの活 動 を展 開 で きる と考 え てい たか らで あ った 。
実 は 、 幹 事 長 と編 集 長 に な る こ と 自体 に大 して 不 安 は な か っ た。 何 しろ 、何 時 か らFCCAと して の 活 動 を 開始 す る か 、 TIGGを 何 時 か ら発 行 す るか は決 め な か っ たか らで あ る。 全 て は ま だ、 だい ぶ 先 の こ とだ と思 っ て い た。 考 え る時 間 は た っ ぷ り あ る。 そ れ に何 しろ皆 が初 対 面 なの だ。 そ れ に、私 自身 は幹 事 長 に なる だ けで な く、 さ ら にTIGG編 集 長 と な る こ とが 、 どん な に 大 変 な こ とで あ るか は 全 く実感 してい な か っ た。 この時 の集 ま りで 決 め た の は 私 の 人 事 と、FCCA会 員 の 会 費 だ け で あ っ て 、TIGG の寄 稿 者 を ど うや っ て 確 保 す る か とか 、運 営 資 金 は どうや って集 め る か とい う よ うな重 要 な話 は全 く欠 落 してい た。 その 時 には 、 その 後 のTIGG発 行 の ため に毎 年1,000万 円 近 い 金 が い る とい う現 実 的 な こ と には 誰 も頭 が 回 らな か っ た の であ る。
脳 天 気 な私 た ち は 、会 費 はFCCAの 活 動 が この よ う な もの な ら ば大 して費 用 は掛 か らな い だ ろ う、 とい う 目の子 算 で 、年 会 費3,000円 と決 め た 。 日本 以 外 は送 料 が 掛 か る こ とを考 え て7,000 円 と決 め た。 予 算 が 足 りな い よ うな らば、糖 質科 学 の発 展 に興 味 のあ る関 連 企業 に寄付 を お願 いす れ ば、 きっ とや っ て い け る に違 い ない 。
ニ ュー ス レタ ーで あ るTIGGは 、 会員 が 権 利 と して受 け取 る もの で あ り、 会員 が 発 信 して作 る もの で あ り、 ま た会 員 の ため に発行 され る もの で あ る。 それ で、 リン カ ー ンの 有 名 な演 説 をも じっ て 「A Publication of,by,and for the FCCA Members」 とい う言 葉 をTIGGの 表 紙 に入 れ よ う とい うこ と も、 そ の場 で決 ま っ た。 た だ しこ の時 は 、文 中 のof, by, and forの 順 番 は誰 もが 、 う ろ覚 えで あ っ た。
Fig. 4. TIGG shows the way to get to know the saccharide functions. Modified from the original cartoon shown in Fig. 3. Taken from No. 15 (January, 1992).
E. The First Issue of TIGG Was Launched while I Was Looking on Blank Amazement
At that time, honestly, I did not realize what a person Dr. Kawaguchi really was. I underestimated his strong will about what he wanted to do, though, of course, he was becoming a menace at that time by sending a bunch of fax sheets of paper everyday and any time.
Dr. Kawaguchi persuaded quite a few people to come together to start the organization with which he dreamt of doing a lot of things, and it was nicely named FCCA which furthermore was designed to publish the bimonthly newsletter. Were there any obstacles to stop him from moving ahead? Following a flood of faxes signed with KK (hereafter KK will represent Dr. Kawaguchi) we were destined by the middle of summer to have the first FCCA seminar on the 2nd of September, 1989, the same day when the first issue of TIGG should also be launched. Everything was in the hands of KK. To confess the truth, I had nothing to do with the editorship of the first issue, except for writing the Preface, Hot Papers, and Editors' Note. KK took care of everything, including calling for all manuscripts for TIGG, editorial work, copying the final forms, and sending all the printed sheets of paper to Dr. Takagahara from where our lovely newsletter was sent to possible readers as previously described.
The first volume was made of Xerox copies, the first half of which consisted of the English version followed by the Japanese ones. It was a thin pamphlet, but, as a reflection of KK's wish that every information is obtainable through TIGG, it was from the beginning full of different sections, most of which can still be seen in the recent issue, such as Minireviews, Hot Papers (the name of this section was changed to Glycotopics from No. 8 (November, 1990), because the abbreviated form was indistinguishable from that of Hot Patents), Hot Patents, News,and List of Reviews. As for the News, we had no way to collect by ourselves original news related to saccharides, and thus they were obtained from already published newspapers and magazines. Later, we found them invaluable and removed them from the following issues.
In September, 1989, just after the first volume of TIGG was published, I attended the Tenth International Symposium on Glycoconjugates held at Jerusalem under the directorship of Dr. Nathan Sharon. I was able to take with me many copies of the first TIGG newsletter that was not thick at all, and distributed them to participants of the symposium. Upon browsing it, some of my friends admitted that TIGG was meaningful and interesting, but most of the words were compliments and encouragement to me who was excited with a new job.
I was able to see Dr. Y. C. Lee for the first time at the symposium, who named our organization FCCA and by whom I now inwardly think that our idea to start FCCA and publish TIGG originated. I had had opportunities to listen to his lectures at some prior meetings, but had not met him personally before. To my surprise, he spoke back in Japanese in reply to my greetings in English and we had friendly conversations using my mother tongue. Throughout our activities on FCCA and TIGG for the past ten years, KK asked help from Dr. Lee not only in correcting English expressions but also consulting him when the need arises. After getting acquainted with Dr. Lee, I naturally followed KK's way to get helped.
さて 、 この 段 階 で は川 口 さ ん を、 私 は ま だ大 分 甘 く見 て い た こ とに な る 。 と言 うか 、 川 口 さん を知 ら な か っ た と言 っ て良 い。 毎 日Faxの 紙 つ ぶ て が何 通 も私 の研 究所 に来 るの で 、 自分 の 考 え に従 っ て遠 慮 な く振 る舞 うこ とを ため らわ ない 敵 わ ん 人 だ とは思 っ て い た け れ ど。
こ れ だ け の 人 た ち を こ こ に一 堂 に 集 め る くらい 自分 の や り たい こ と に情 熱 を燃 や してい た川 口 さん が 、 そ れ の受 け 皿 とな るFCCAと い う名 の組 織 が 出 来 て 、そ の 活動 をPR出 来 るTIGGを 発 行 す る こ とが 決 ま っ て い て 、 そ の ま ま黙 っ て い る は ず が な か っ た 。 そ の6月 の 集 ま り か ら8月 に掛 け て 毎 日 何 通 もKKと 署 名 され て 送 られ て くるFaxの 洪 水 の 挙 げ句 に 、9月2 日に 第1回 のFCCAセ ミ ナ ー をす る こ と、 そ の 日 を記 念 してTIGG第1 号 を発 行 す る事 が い つ の 間 にか 既 定 事 実 と し て 進 み 出 した 。 私 は 、 時 間 とKKのFaxの 洪 水 に押 し流 され て い た だ け で 、真 実 を言 う と、 編集 長 と はい う ものの 第1号 の編 集 には 全 く関 わ って い な い。 私 は こ の第1号 に 、序 文 と、 編集 後 記 と、 そ してGlycotpoicsの 原 稿 を2編 書 い た だけ で 、 川 口 さんが 発 送 以外 の 原稿 集 め、 編 集 と 印刷 まで全 て をや った の で あ る 。
最初 に書 い た よ うに この 第1号 はXeroxコ ピー を 閉 じた もの で 、 前 半 に 英 語 版 が 来 て 後 半 が 日本 語 版 で あ っ た 。 薄 い け れ ど、TIGGに 目 を通せ ば糖 質 の こ とが 全 て分 か る よ う に した い と い う川 口 さ ん の気 持 ち を 反映 して、 ミニ レビ ュ ー とGlycotopics(創刊 当時 はHot Papersと 名 付 け られ てい た 、略 称 がHot Patentsの HPと 重 な な るの で 、 第8号-1990年11月 号 一か らGlycotopicsに 変 わ った)の ほか に、Hot Patents、News、List of Reviewsと い うセ クシ ョンが 最 初 か らあ っ た。 このNewsは 、 独 自の取 材 陣 を持 た な いTIGGと して は、他 の雑 誌 、 新 聞 に載 った 糖 質 関係 の 記事 を再 録 す る事 に な り、 あ ま り意 味 の ない こ とで あ って その 後 は 中止 す る こ とに した。
TIGGの 第1号 が 出版 され た9月 に イ ス ラエ ル で複 合糖 質国 際 シ ンポ ジ ウム が 開 か れ 、私 は これ に 出席 した。TIGGの 第1号 は 何 しろ 薄 い か ら沢 山持 って も大 した こ とは な い の で 、エ ルサ レ ム の 会場 まで 自分 で持 って い き参 加 者 に配 った。 何 人 もの 知 人 は 「面 白 い 、 これ は重 要 な こ と だ」 とい って くれ て嬉 しか った が 、 こ の よ うな こ と を始 め て 興 奮 気 味 の 私 に 対 す るお 世 辞 と、 励 ま しで あ っ た ろ う。
こ の シ ンポ ジ ウ ム で は 、 そ れ まで 何 度 も講 演 を聞 い て い たけ れ ど、 接 点 が な く て 個 人 的 に は 会 っ た こ との ないLee先 生 と初 め て 知 り合 っ た 。 驚 い た こ とに 英 語 で 話 しか け た ら 、 「日本 語 で 話 し ま し ょ う」 とい う返 事 が 返 っ て き て 、 そ の ま ま私 の 母 国 語 で 十 分 な意 志 の 疎 通 を 図 る こ と が で き た 。 す で に 書 い た よ う に 、FCCAの 命 名 はLee先 生 に よる 。FCCAな る もの を作 っ た りTIGGを 発 行 し よ う と い う考 え は も と は Lee先 生 で は な か っ た か と、 今 で は 秘 か に思 って い る 。 川 口 さん はLee先 生 に何 度 もFaxを 送 って 英 語 表 現 だ け で な く、 あ りとあ らゆ る こ とで 先 生 の 智 恵 を仰 い でい た。Lee先 生 と知 り合 った 私が 、そ の 後 こ の意 味 で も川 口 さんの 仲 間 に な っ て しま っ た の は言 う まで もな い 。
Fig. 5. Professor Yuan Chuan Lee of the Johns Hopkins University. He helped us to launch, keep, and brush up both FCCA and TIGG.
F. A Number of Cans of Beer Were Left Unopened at the First SMAT
The first meeting of FCCA named 1st SMAT was held at a big hall of The Aparel Kaikan near lidabashi on the 2nd of September. Our secretaries arranged everything. First SMAT represented the first Small Meeting held At Tokyo. Thus, when the meeting was to be held in a city named Central Kansas (if any); it could be the Xth SMACK, Wow! KK liked this naming. Later on, however, we decided to count our seminars in a serial number and from the 11th meeting organized by Dr. Kiyoshi Furukawa in August, 1991, it has been called the xth FCCA seminar wheresoever it is held.
At my opening address as the chief executive secretary of FCCA to participants whose number was close to 70, I stumbled over my words on what for FCCA was organized, since I found the value of FCCA in publishing TIGG than in the enlightening. Immediately after I finished my stammering talk, KK took over to give his unscheduled address. What's been vividly kept in my memory is a big camping icebox on the floor at the rear corner of the hall. In order to fill it, KK, with his marvelous perpetual capacity to obtain donations from his acquaintances at brewery companies, cans of beer and juice were mounted beside it.
The FCCA seminar is quite unique in such a way that everybody is allowed to drink beer while listening to the lecture. That was the style that KK insisted for the FCCA seminar. I suspect this could be the main reason why KK wanted to organize the FCCA. We were not always allowed to take beer cans into the hall, and many times we faced difficulty in finding a place for the meeting. Anyway, we repeatedly announced this benefit to the audience and we, the secretaries, led the way and naturally got drunk during the seminar. Still many cans of beer were left unopened and we gave them all to the janitor of the hall before we left.
Following the first seminar, we held many FCCA meetings. No. 14 issue of TIGG contained the announcements of the 12th and 13th FCCA seminars, and we could say that the FCCA seminar was held roughly bimonthly. The 13th seminar was held in Nagoya, for the first time out of Tokyo, and organized by Dr. Noriko Takahashi who, in agreement with our idea of commencing FCCA, became the first member of FCCA. I do not know why, but my membership number was 154. Anyway, a flood of FCCA seminars was the reflection of the emerging demand and expanding activities of the members. This meant that we were living in the era that FCCA literally represented. Moreover, we ourselves had the liberty to organize and hold FCCA seminars. We soon noticed this liberty in our hands and considered it to be the inherent right of the FCCA individual members, and, therefore, put it in the FCCA rules such that the member themselves can propose and organize the FCCA seminar. This was first announced in the No.22 issue of TIGG (March, 1993). At every scientific society, meetings are organized by the society itself. FCCA seems to be the only organization where every individual has the right to propose and organize the scientific meeting by her/himself. We are very much proud of this
第1回 のFCCAセ ミナー は 、飯 田橋 の 洋 服 会 館 を借 りて 開 か れ た。 会場 は私 た ち幹 事 の手 作 りで 用 意 され た 。今 で こそFCCA セ ミナ ー と呼 ん で い るが 、最 初 は1stSMATと 呼 ば れた 。 これ は Small Meeting at Tokyoと い う こ とで 、 も しFCCAの 集 会 がRight Townと い う町で 開 か れ れ ば、 それ はXth SMARTと な り、Central Kansasで 開 か れ れ ば 、Xth SMACKと な る!こ れ は 川 口 さん が主 張 した命 名で あ っ た。 や が て 、FCCAの 主催 す る セ ミナ ー を通 し番 号 で 数 え よ う とい うこ と にな り、1991年8月 の古 川博 士 を オー ガ ナ イザ ー と して 開 か れ た 第11回 集 会 か ら、 ど こで 開 か れ よ う とFCCAセ ミナ ー と呼 ぶ よ う に変 わ っ た。
この 第1回 のFCCAセ ミナ ー の 冒頭 でFCCA幹 事 長 と して私 はつ っか え なが ら、何 を 目指 してFCCAが 始 ま った か を話 した が 、 私 は ど ち らか とい う とTIGG発 行 に最大 の意 義 を見 い だ して い た の で大 して熱 の こ も らな い もの だ っ た に違 い な い。 その あ と、 川 口 さんが 引 き取 っ て熱 弁 を振 る っ た か らで あ る。 そ の 第 1回 の セ ミナー で何 よ りも印 象 深 く思 い出 す の は、 会場 の後 ろ に 大 きな キ ャ ン ピ ング コ ンテ ナ ーが1個 置 か れ て いて 、 そ の 中 に入 れ て冷 やす べ く、 ビ ー ル、 ジ ュ ー スの 缶 が 山 と な って い た こ と で あ る。 こ れ は 、そ の後 の 機 会 に も才 能 を遺 憾 な く発揮 す る こ とに な る川 口 さ んが 企 業 にい る知 人 ・友 人 を口 説 き落 と して 、 FCCAの 活 動 の た め に現 物 寄 付 を して貰 っ た結 果 で あ っ た。
ち なみ に、 このFCCAセ ミナ ーで は ビー ル を飲 み なが ら話 を 聞 く こ と の 出 来 る ス タ イ ル に す る こ と を 川 口 さ ん が 主 張 し て 、 そ の 通 りに な っ た 。 し か し、 飲 み な が ら 講 演 を聴 け る 会 場 が そ ん な に あ る わ け で も な く、 そ の 後 会 場 探 し に は 何 時 も 苦 労 が つ き ま と っ た 。 こ の ビ ー ル を飲 み な が ら の ス タ イ ル はFCCAセ ミナ ー に独 特 の もの で い ま だ に 変 わ っ て い な い 。 た だ し、 こ の 第1回 は、 集 ま っ た 人 た ちが 飲 み な が ら話 を 聞 く こ とに慣れていなかったので、宣伝 した以上 はお手本 となる幹事 たちは始めか ら終 わ りまで ビールを飲 んでいたけれ どとて も飲 み干せず、最後 に会場 の守衛 さんにビール もジュース も全部差 し上げて引 き揚 げた。
このあ とFCCAセ ミナーは洪水 のように開かれ る。第14号 (1991年11月)に は第12回、第13回FCCAセ ミナーの公告が載って いる くらいである。大体2ケ 月おきに開かれ た計算 となる。ちな みに第13回 は名古屋 において、FCCAの 活動 に賛 同 して会員第1 号 となって下 さった高橋禮子博 士 をオーガナ イザ ー として初 め て東京 を離れて開かれている。なぜ か私 の会費の支払 いが遅 く て、私の会員番号は154で あった。 ともか く、このように活発 に FCCAセ ミナーが開催 され たのは、 まさにFCCAの 字義通 り糖鎖 の時代が来たためであ った し、私 たちが企画すれ ばその まま開 かれる と言 う自由さの ためであ った。 この後者 は大 きな こと で、私 たちはFCCAの 会員の権利 としてこれ を明記するこ とに気付 き、FCCA会 員 はFCCAセ ミナ ー を提 案 、 企 画 出来 る こ と を FCCA会 則 の 中 には っ き りとうた っ てい る 。 この こ とを最 初 に会 員 に明確 に知 らせ た の は 、第22号-1993年3月-で あ った。 どの 学 会 で も学 会 自 らが 主 導 して 集 会 を企 画 す る。 会 員が 自由 に提 案 して 、 そ の企 画 をい つ で も支 援 す る態 度 を とっ て い る学 会 は FCCA以 外 に はな い。 これ を最 初 に言 い 出 した こ とは私 た ちの 大 き な誇 りで あ る 。
Fig.6. We got KDN. These persons may remind you of Drs. Sadako Inoue and Yasuo Inoue. Drawn in a charming way by A. Ogura. Taken from No. 6 (July, 1990)
G. The Imposing No. 2 Issue Made Us Face the Bankruptcy
Time did not allow us to relax after publishing the first volume. Just after launching the first volume I started to behave like the editor in such a way that I encouraged other editors to collect minireviews and I personally asked possible contributors to write articles. Based on these efforts, B5-sized No.2 issue made a big contrast to the first one in the thickness, with a cover this time. In addition to the sections included in the first volume, those named Glycoessay, Meeting Report, Forum (later on this was named Glycoforum), Announcement of related meetings, and Letters to Editor were added to the content. Members of my laboratory, including two by myself contributed five articles out of six Glycotopics. Dr. M. Ito of my laboratory contributed a minireview. The cover of our TIGG was designed by Dr. H. Higashi of my laboratory who contributed his article in the third issue, too. Dr. M. Shimamura gave many contributions in Glycotopics. I was always asking these members for their cooperation to help keep our TIGG alive. The main reason why I was able to work as chief executive secretary of FCCA for six years and as editorin-chief for ten years could be attributed to their kind collaboration and support, and moreover, to their top ranked line of research work. Being sustained by their work, I was able to play around with TIGG for years.
The main work for the editor at any ordinary organization is to ask for the contribution of articles and the laborious editorial work that follows is given to the professional. But this was not the case for us. Because of financial difficulty, we had to do all the editorial work by ourselves to the step prior to printing. Such kind of editing work on No. 1 and 2 issues was kindly taken care of by KK and his modest wife, Hideko Kawaguchi. I did not realize what a tremendous amount of labor it demanded until I became involved in this editorial work for No.3 issue and from No.5 through 9 issues at my place.
Publication of No.2 costed us a lot of money. FCCA and TIGG, which were launched with no sound financial planning, should attract many people to become members in order to keep FCCA alive. In order to increase the number of members, we had to give them a good payback; the satisfactory newsletter. Upon the increment in the number of members, there would be many that are willing to contribute to the newsletter and this would fortify the ground of FCCA and TIGG. Whenever we, the secretaries, met together, we exchanged ideas on how to brush up FCCA and TIGG. Though we had not known each other until we started FCCA, we became best friends among whom we were willing to show our true colors. I was mainly involved in the improvement of TIGG and KK, in the efforts to increase supporting companies. All of the secretaries were concerned with ideas to increase the number of FCCA members.
The initial funding for the commencement of FCCA was the deposit made by donations of the FCCA secretaries. Less than one million yen, however, was not enough to cover initial expenses for the publication of TIGG and thus we had to live on bank loans. When the additional loan was found impossible, KK used his money to meet the immediate need. At the end of some year, KK asked me to cover the expenses and I let FCCA use 1.5 million yen without interest. That money was paid back to me in fractions over a period of one year. At the end of the year, this was repeated.
時 間 は容 赦 な く経 つ 。 第1号 を出 して浮 か れ て い るわ け には い か な い。 第2号 か らは私 は編 集 長 ら し く振 る舞 い、FCCA幹 事 や 他 の 方 々 に原 稿 執 筆 をお 願 い して 内 容 の 充実 を 図 っ た。 そ の 結 果 、 第2号 はB5判 で 英 語 版104ペ ー ジ、 日 本 語 版62ペ ー ジ か ら な り、 内 容 も第1号 の セ ク シ ョ ン に、 グ ラ イ コエ ッ セ イ、 学 会 見 聞 記 、 フ ォ ー ラ ム 、 糖 質 関連 集 会 の お 知 ら せ 、 読 者 の 手 紙 を 加 え て 堂 々 と し た体 裁 を持 つ に 至 っ た 。 ホ ッ トペ ー パ ー は6編 あ っ たが 、 こ の う ちの5編 は私 も含 め て私 の 研 究 室 の 諸 氏 が書 いた ものであ った。 ミニ レビュー には私の研 究室 か ら伊東 博士が書いてい る。東博士 は第2号 の表紙 のデザ インを して、第 3号 には ミニ レビューを寄稿 している。島村博士は何度 もホ ッ ト ペーパーに寄稿 して くれた。 この後 も研 究室の諸 氏 には何度 も 無理 を頼 んだ。私がFTIGG編 集長 の職 に10年 間い られたの も、 私 の研究室 の諸氏の大い なる協 力があ ったか らである し、 もう 一 つ何 よりも大事 なことは、彼 らによる世界 に誇 る研 究があっ たか らである。私 はこれ らを背景があ ったか らこそ、好 きな こ とをやってい られたのだ と思 う。
通常 な らば依頼 した原稿が集 まれば、それは専 門家である 出版社 の仕事 となるが、万事 お金のない私 たちと しては、最後に紙 に印刷 す る最終版下 まで は自分たちでや らな くてはな らな かった。第1お よび第2号 は川 口さん と川口夫 人がこの裏方 の編 集仕事 を引 き受けた。 これが どんなに大変 な ものであるかは、 第3号 と、その後引 き続 き第5~9号 の発行を 自分のところに引 き 受 ける まで全 く分か らなか った。
このTIGG第2号 は立派 に印刷 されたけれ どその費用 も大変 だった。大体が資 金な し、計画 な しで始めたFCCAとTIGGが 成 り立つ ためには、出費 を分担 して くれ る会員が集 まらな くては ならない。会員が増 えるには会員 と しての見返 り、つ まりTIGG の内容が満足のい くものでな くてはな らない。FCCA会 員が増 え れ ば、TIGGに 向けて発信 する会員 も増 えて、TIGGの 基盤 も確 立す る。私たちはFCCA幹 事会の度 に、FCCAとTIGGを 発展 させ るための新 しい アイデアを出 し合って、文字通 り喧 々囂 々 とや り合った。FCCAが 始 まるまでは幹事同士 は知 り合いではなかっ たに も関わ らず、 FCCA幹 事 の間ほ ど互 い に本 音 を 語 り合 っ た こ と は な か っ た と思 う。 主 と して私 がTIGGの 内容 に 取 り組 み 、 川 口 さんがFCCAを 支 援 す る賛 助 会 員 の増 加 勧 誘 に当 た っ た。 会 員 数 増 加 の た め に は 、幹 事 全 員 が 知 恵 を絞 って 、 実 行 に 当 た っ た。
FCCA/TIGG の 最初 の運 営資 金 は 幹 事 の ポ ケ ッ トマ ネーで ある。 これ を集め てデポジッ トして運営 に当たったが 、合計数 十万円では足 りるはずがなかった。FCCA初 期の頃は銀行 か ら借 金 して運営資金 に した し、借 りられな くなってか らは川 口さん が 自分の金 をつ ぎ込んで急場 をしのいだこと も度 々だ った。私 も年 末になる と150万 円の金 をFCCAに 無利子 で提供 した覚 えが ある。 それが翌年 の1年 を掛 けてFCCAか ら返 って くる。そ して また年 末 にな ると、 これが繰 り返 されるのだった。
H. I Owe the Idea of the Present Format of TIGG to the Magazine in the Alitalia Aircraft
No. 2 issue of TIGG had the same format as the first one; the English version came first followed by the Japanese one, simply because simplicity was the first choice for us to make the editorial work simplest.
Iwas invited by Dr. Basu to attend the international conference held in New Delhi, India, in January, 1990. I used the Alitalia Airlines to get to India and the pamphlet provided for the passengers in the aircraft determined the present format of publication in TIGG. One page was divided into two columns; the left column was English and the right column, Italian. I got the idea at a glance. It came to my mind that everybody was browsing TIGG in which English and Japanese was printed in a parallel way; the English version in the left column and the Japanese, in the right of each page. The reader will be satisfied comparing the Japanese version with the English one on the same page. That's it! No other choice for the bilingual newsletter. I would insist to KK on this format when I get back to Tokyo. This would be welcome by readers.
However, KK did not agree with my proposal on the new format. He said it would be a tough job. There was thus no way but to take over the editorial business from KK. Hence the publication of No.3 (January, 1990) was taken care of by me and honestly, by Ms. Atsuko Nakamura, my miracle secretary. She finally made it using an NEC-98 computer, though she was by no means a computer expert at the very beginning. The NEC-98 was slow and idiot compared to the Macintosh computer, which we used later. I remember the excitement I got when she showed me a sheet of paper on which exactly the page formatted as in my mind was printed out. Because of the lack of the capacity of the computer used, partly being assisted by manual work particularly for the alignments of the typing faces, she paid all the efforts to make it. The printed version of TIGG did not differ from that of the Alitalian magazine except that the latter was printed in full color.
Publication of journals did not allow us to find a time to fool around. Before we published one issue, the editorial work for the next issue should begin. The work for the publication of No.4 was given back to KK, in which every article appeared in such a way that the English version was followed by the Japanese and figures were put in between. References were placed at the end. In the editor's note of the issue, it was written that readers might ask, "How often are you going to change the format?" but we needed some experiments to find the easy way.
TIGGの 第2号 も創刊号 と同 じく、前 半に英語版 が来 て後半 が 日本語版 とい うスタイルだ った。 これは自分 たちで編集す る 以上編集の容易 さが優先 したためである。
1990年1月 始 めにイン ドのニューデ リーで国際 シンポジウム が あ り、Prof.Basuか ら招 待 を受 けて 出席 す る こ とが 出 来 た。 この と きの往 きの飛 行 機 に イ タ リア の ア リ タ リ ア航 空 を利 用 した こ とが 、 そ の 後 のTIGGの ス タ イ ル に と って決 定 的 とな っ た。 長 時 間狭 い椅 子 に座 っ てい る退屈 さに機 内 誌 を手 に取 りぱ らぱ ら とめ くる と、1 ペ ー ジが 二 つ の カ ラム に別 れ て 、左 が 英 語 、右 が イ タ リア語 で書 か れ て い る で は な い か。 一 瞬 「これ だ!」 と思 い 、1ペ ー ジ の左 に英 語 、 右 に 日 本 語 が 来 る TIGGが 眼 前 に浮 か ん だ 。 TIGGが2カ 国語 な ら ば この 方式 が最善 だろ う。 日本 に戻 った らそれ を提案 しよう。 これは 絶対受 けるぞ。
しか し、興奮 してTIGGの 方式 には これが よい と主 張 して も、そんな難 しい ことは出来ない と、川 口 さんはにべ もない。 「それな らこちらでやる までだ」 と言って第3号(1990年1月 号)の 編 集作業 は当時三菱 化成生 命研 にいた私 が引 き受 けて しまっ た。繰 り返すが編集作 業には全 く未経験 であった。つ ま り私 に は とて も出来 ない。それで秘書 の中村 さんを拝み倒 してや って い ただい たのであ る。中村 さんだって経験が あったわけで はな い。その ころのNECのPC98と いう今か ら思 うと泥亀 みたい に小 回 りが利かず、遅 い コンピュータを使 って、 と もか くも中村 さ ん は私の イメー ジ通 りのス タイルでTIGGの 第3号 を仕上げて く れた。今か ら思 うと能率の悪い コンピュー タを使 っての作業な ので中村 さんは大変 な努力 を重ねた に違い ない。で きあが って みる と、仕上 が りはア リタ リアの機内誌 と全 く変わ らないすばら し さで 、 た だ 、 色 刷 りで な い だ け で あ る 。
雑 誌 の 悲 し さで 、 で き あ が っ て 喜 ん で い る 時 間 が 余 り な い 、 も う次 の号 の作 業 が始 まっ て い るの で あ る。 第4号(1990年3 月号)は 版 下 作 成 作 業 を1回 休 ん だ 川 口 さ んが 任 せ う と言 う の で 、編 集 作 業 は再 度 彼 の と こ ろ に戻 った 。 しか し この号 で は 、 書 く論 文 が 英 語 ・日本 語 の 順 で 現 れ る とい うス タ イル で 、全 く そ れ まで と は違 って しまっ た 。 全 くよ くス タ イル の変 わ る雑 誌 と思 われ た に違 い な い。 そ の こ とが 編 集 後 記 に書 い て あ る 。
Fig. 7. It was found difficult to get rid of gangliosides from TSH-receptor. Drawn by H. Kudo and attached to the article cotnbuted by W. Kielczynski et al. Taken from No. 7 (September, 1990).
I. To Whom Do We Owe?
Since we were not at all prepared for the publication of TIGG when it was started, we were not able to include foreign contributors in the earlier volumes. I was writing the Preface by myself from the beginning through the third issue. However, in No.4 issue Dr. Sarah Spiegel contributed to Minireview and Dr. C.C. Sweeley, to the Preface, whose term was switched to Glycommentary from No. 6 issue according to the idea of Dr. Lee. From that time on Glyco-somethings became our favorite words in TIGG. From No. 2 to No.8 that was the last one published in a B5 size, Drs. P. Giummelly, N.C. Buckley, S.W. Homans, H.S. Conradt, B. Hoefer, H. Hauser, K. Schmid, B.N. Singh, J.J. Lucas, CE. Costello, U. Galili, A. Thall, B.A. Macher, w. Kielczynski, P.J. Leedman, L.C. Harrison, C.C. Sweeley, J.J. Neefjes, H.L. Ploegh, F.A. Troy, H. Rahmann, M. Liscosvitch, and Y. Lavie contributed articles to Minireview and Glycoessay from abroad. Domestic contributors to the Minireview section were: Drs. N. Shibuya, H. Fukui, M. Ito, N. Kashimura, I. Matsumoto, T. Nakajima, T. Okuyama, S. Suzuki, H. Ishikawa, S. Kitahata, H. Higashi, K. Kasai, K. Kobayashi, T. Akaike, M. Nakamura, M. Saitou, T, Hori, Y, Ohashi, Y. Hirabayashi, T. Kanzaki, Y. Suzuki, Y. Shigemasa, H. Saimoto, Y. Tsujisaka,Y. Yano, M. Janado, T. Taki, S. Handa, K. Kinomura, T. Sakakibara, T. Okuyama, Y. Inoue, S. Inoue, K. Furukawa, S. Tsuji, Y. Tsumuraya, Y. Igarashi, M. Ohnishi, M. Ikekita, H. Moriya, T. Shiba, A. Hayashi, and T. Yoshino.
Of course, we the editors paid all the efforts to have the TIGG continue whose commencement was never programmed in advance, but at the same time these people mentioned above made contributions to the journal whose fate nobody knew but Jesus and their contributions helped TIGG to obtain support from readers which continues to date. I really appreciate their collaboration from the bottom of my heart. Among them mentioned above, Drs. H. Moriya, T. Hori, and T. Okuyama have passed away and I have no means to convey my gratitude. If FCCA gets richer than it is now, I wish these people need not pay membership fees to get TIGG issues throughout their lives. I would like to repeat that we owe a lot to the individuals who fed articles to the baby TIGG.
TIGGの 発刊 の準 備 の ない ま ま創刊 に踏 み切 って し まっ た た め 、 国 際誌 と銘 打 ち なが ら も、 日本 人以 外 の寄 稿 者 が は じめ の うち は用 意 で きなか った。 序 文 も3号 まで は私 が 書 い て い た。 そ れ が 、 第4号 に な っ て 、序 文(こ れ は 第6号 か ら はLee先 生 の ア イ デ ア で巻 糖 言 と名 付 ける こ とに な った 。 こ れ以 降 、 「Glyco何 と か」 とい う言 葉TIGGで 氾 濫 す る よ う にな る)にSweeley博 士 、 ミ ニ レビ ュー に元 気 なSarah Speigel博 士 の寄 稿 を得 て 、少 し国 際誌 ら し くな って きた 。 第2号 か らはB5判 の 体 裁 の最 後 とな っ た第8 号(1990年11月 号)ま で 数 え る と、上 記 のS.Speigel博 士 の 他 に 、P. Giummelly、 N.C.Buckley、S.W. Homans,H.S .Conradt、B. Hoefer、H.Hauler、K.Schmid、B.N.Singh、J.J.Lucas、C.E. Costello、U.Galili、A.Thall、B.A.Macher、W.Kielczynski、 P.J.Leedman、L.C.Harrison、C.C.Sweeley、J.J.Neefjes、H.L. Ploegh、F.A.Troy,、H.Rahmann、M.Liscosvitch、Y.Lavie博 士 らの 名前 が ミニ レ ビュ ー の寄 稿 者 と して 挙 げ られ る。 国 内 か らの 寄 稿 者 と して 、渋 谷 、福 井 、伊 東 、 柏 村 、 松 本 、 中 島 、 奥 山 、 鈴 木 旺 、 石 川 、 北 畑 、 東 、 笠 井 、 小 林 、 赤 池 、 中 村 、 斎 藤 、 堀 、 大 橋 、 平 林 、神 崎 、重 政 、 辻 坂 、 鈴 木 康 夫 、 滝 、飯 田 、榊 原 、奥 山 、井 上 康 男 、 井 上 貞 子 、 古 川 、 辻 、 円谷 、五 十 嵐 、 大 西 、 池北 、守 谷 、 芝 、林 、吉 野博 士 らが あ る 。
用 意 もな く飛 び立 っ たTIGGとFCCAの 飛 行 が 何 とか続 く よ うに私 と川 口 さ ん、 他 の 幹 事 の 払 っ た努 力 は確 か に無 視 で きな いが 、 何 と言 っ て もTIGGが 現 在 まで 続 い て きたの は、 まだ海 の もの と も山 の もの と も分 か らない 時代 のTIGGを 、 そ れ で も信 頼 して寄 稿 して 下 さ っ た上 記 の 方 々 が あ っ た か らで あ る。 心 か ら 感 謝 の 言 葉 を述 べ た い 。 しか し、 こ の 中 の守 谷 、 堀 、 奥 山博 士 はす で に鬼 籍 に入 っ て し まわ れ 、 あ らため てお 礼 を 申 し上 げ る 機 会 も ない 。FCCAに 資 力 が あ れ ば 、せ め て 、 この8号 まで の 揺 藍 期 のTIGGに 寄 稿 して下 さっ た全 員 を、生 涯 会 費無 料 の会 員 と して 優 待 すべ きで は な い か と思 っ てい る。 そ う、 彼 らの 立 派 な 論 文 が載 る こ とでTIGGの 信 用 が 出 来 て 、私 た ち の事 業 が 軌 道 に 乗 った の だ か ら。
Fig.8."Hi, where,d you put your Galal-3Galβ1-4GIcNAc, Old World Monkey?""Ah, I usually wear it when I go to the hospital."Drawn by A. Ogura for the article of Uri Galili et al., TIGG, Vol.2, No.7, p.312,1990.
J. What Ms. Nakamura Did Not Dare to Tell Me?
When we, the secretaries, were invited to KK's home on May 19th, 1990, we realized that we faced the difficulty to publish No.5 issue (May, 1990) because the company who once said to KK that it would take care of every editorial work for No.5 suddenly cancelled the contract for some reasons. KK had no time to spare for No.5. He proposed to skip the scheduled publication and to publish the combined issue for Nos.5 and 6 in July. I thought that, in order for TIGG to get support, we should publish the numbers of TIGG in an unnicked manner, particularly in its baby stage, and thus I promised to take care, with able Ms. Nakamura in my mind.
Since that day, we, particularly Ms. Nakamura, spent busy days. On May 25th I received a floppy diskette containing all the manuscripts for No.5. But most of them were not complete and awaited the galley proofs. Furthermore they were to be compiled manually, though partly helped by the formidable computer. It took us one full week before finishing the editorial work in such a way that the final form was given to the printing company. Since the format which I loved to use for No.3 demanded hectic extra efforts, we adopted a new format in such that English was printed on the left page and Japanese on the right, when TIGG was opened flat.
As mentioned above, we used the NEC computer that was comparable to the 38 combat rifle, which was born in 1905 in Japan during the Japan-Russia war and yet widely used by the Japanese army during the Second World War (1941-1945). Somebody started using Macintosh SE-30 and we were overwhelmed to know how splendid the Mac computer was and the dream of using it for the editorial work was growing in my mind. We finally got it in time for compiling manuscripts for the No.9 issue (January, 1991), but Ms. Nakamura was succeedingly involved in the publication of No.5 through No.8 using the NEC PC98
If she was not patient with the labor for the publication of TIGG, since nobody could take it over, TIGG could have vanished before celebrating its one-year-old birthday. In fact, we did not have the energy to observe its birthday. Undoubtedly, we owe her for our present prosperity, too. How did we express our gratitude to her at that time? She got a very small amount of reward from my own pocket and her name was placed as one of editorial staff and printed in TIGG as such. I was intoxicated with the idea that we were involved in an important undertaking and that she should feel honored to see her name on TIGG as a staff member. Ms. Nakamura, I suppose, could have asked me not to give any more work for TIGG and would not mind if TIGG were about to die young.
1990年5月19日 に川 口 さんの う ち に私 た ちFCCA幹 事 が 招待 を受 け た時 、第5号(1990年5月 号)の 編 集 が全 く進 んで い な い こ と を知 っ た。 川 口 さん に よる と、 有料 で雑 誌 の 編 集 を引 き受 け る と言 明 した会 社 が 、 い ざ とな っ て急 に何 故 か 出来 な くな った と い う。 川 口 さん の と ころ で も、 とて も引 き受 け よ うが ない と言 う。 彼 はTIGGの 発 行 が1回 くらい抜 けて も次 に5/6合 併 号 にす れ ば よい と考 えて い たが 、最 初の1年 が 大 事 で は ない か と思 って私 は第5号 の編集 を引 き受 けて東 京 に戻 って きた。
勿論心の 中に は、第3号 の編集 をや ってのけ た有能 な秘書の中村 さんの姿が あ ったからである。 しか し、そ れ か らが大変 だった。5月25日 には電子 ファイルとなった原稿 が 揃 ったが全 て未 校正 だ った し、 まず そ の段 階か ら始 め な くて はな らなか った。 中村 さ んは研究 所 の仕事 をこなす以 外 に、超 過勤 務 を して この大 変手の掛か るTIGGの 編集作業 に打 ち込 んで呉 れた。 た だ し TIGGの スタイルは、私 のお気 に入 りの第3号 の形態 では余 り に も手が掛 か りす ぎたので 、 開 いた と きの左 のペ ー ジには 英語 、右 のペ ー ジには 日本語 版が 来 る ように配置 して版下 作 成 が 行 わ れ た。
勿 論 作 業 に は コ ン ピュ ー タを使 って い たが 、前 に も書 い た よ う にNECのPC98と い う太 平 洋 戦争 にお け る 日本 軍 の38式 歩兵 銃 的 な コ ン ピ ュー タ なの で 、 手作 業 よ りは増 し とい う程 度 だ っ た。 研 究 室 に はMacintoshを 使 い始 め た 人が い て、 私 た ちは そ の コ ン ピュ ー タが い か に 優れ てい る か を横 目で 見 て い た。TIGGの 編 集 に もこ の よ う なMacが 欲 しい と言 う思 い が 育 つ の は 当然 だ っ た。 やが てMacを 手 に 入 れ る こ とに な るが 、 それ は大 分 先 の こ とで 、 気 の 毒 な中 村 さん は 、5号 に引 き続 き、6、7、8号 の 編 集 をPC98を 使 っ て や っ て くれ た の だ っ た。
彼 女 が 引 き受 け て くれ なか った ら、 他 に誰 も代 わ りよ うが な く、TIGGは 発 行1年 足 らず で そ の ま まつ ぶ れ て い たか も知 れ ない 。TIGGが 今 もあ るの は彼 女 の お か げで あ る。 しか し当時 、 私 た ちが 彼 女 へ の感 謝 を どの よ う に表 した か と い う と、 私 の ポ ケ ッ トマ ネー か ら ほ んの 少 しの 謝礼 と、TIGGの 中 表 紙 に 、Editorial Staffと して 名前 を載 せ た だ けで あ っ た。TIGGと い う壮 大 な 事 業 に酔 い しれ て い た私 た ち は、 「こ こに 名 前 が 載 る こ とは 名 誉 な こ とで す よ」 と思 って い たが 、 中 村 さん に して み れ ば迷 惑 な話 で 「早 くこの 仕 事 を止 め て よ、TIGGが 潰れたところでちっとも構わないわ」 と言 い た い と ころ だ っ た に違 い な い。
Fig. 9. Ms. A. Nakamura who was the secretary to T. Yamagata and destined to be involved in publication of TIGG for a year. Without her devoted help, TIGG could not have lived for a couple of years.
K. Macintosh I Bought Was Gone Forever
I obtained Macintosh IICi, Apple's display, HP's printer in expense of a bonus at the end of 1990, after publishing No.8 issue. It costed me roughly 1.2 million-yen. If I could give them all to Ms. Nakamura, I could be appreciated. But these were for publication of TIGG. We bought software, Aldus Page Maker, which was getting popular for desktop publishing. We were going to use a Uzi instead of the 38 combat rifle. With a new set of machines Ms. Nakamura was able to compile No.9 manuscripts for printing easier than ever. From the No.9 (January, 1991) issue on, the appearance was made larger to a letter size which has been kept since. The format was the one we adopted at No.3. Inside were GlyCommentary contributed by Dr. S. -I. Hakomori, Minireviews by A. Varki, L.J. Sandell and TM. Hering, J. Lehmann and L. Ziser, S. -I. Do and R.D. Cummings, and N. Maeda and A. Oohira, and Technical Note by J. Suzuki. We could proudly say that we were publishing an international journal. Though the contents in the articles were getting old, these review articles convey a kind of throbs to us even at present, because they were still vivid. When I ask for a minireview article, I write to the author that the article should not necessarily be a thorough review but rather could be a reflection of the idea of the author; how she/he has researched, what she/he has thought of during the research, what she/he thought of most important in a particular topic, and what she/he thinks of being challenged in the future. This composes the remarkable feature found in minireviews in TIGG.
As described above, since TIGG got the present format from No.9, and the editorial work became easier with Mac computer to which I invested my own money, I wanted to continue to compile TIGG at my laboratory with Ms. Nakamura whom we can reward and give credit for TIGG. However, KK insisted to restart the editorial work from No. 10 (March, 1991) issue and took everything including a set of Mac machines to his home. I was very much disappointed on behalf of Ms. Nakamura. But it may be possible that she could have been pleased more than ever and more than anybody could. When I reflect now, I was very much touched by her dedication. She could be the last Japanese lady holding the virtue of modesty and of patience. Since I moved out of the Mitsubishi Institute to work at the Tokyo Institute of Technology in 1993, I can hardly see her, but she is always with me so far as I think of TIGG
Idid not have an opportunity to touch my first Macintosh IICi, which has gone forever to KK's place. It was said to be reimbursed by FCCA. But, because of a shortage of money, it took two years to get all the money back.
さて 、 第8号(1990年11月 号)も 無 事 に 出版 した後 、私 は12月 の ボ ー ナス を注 ぎ込 んでMacintoshのIIci、 デ ィス プ レイ、 そ れ と HPの プ リ ン ター を 自費 で 買 っ た。 確 か 、 全 部 で120万 円 位 した と思 う。 このMac一 式 を 中村 さん に上 げ た な らば ず い ぶ ん と恰 好 よか った だ ろ うけ れ ど、 勿論TIGGの 編 集 に使 うた め であ る。 ソ フ トウエ ア はDTP用 の 、 当時 のAldus Page Makerを 購 入 した。 機 能 が ず いぶ ん上 が っ た コ ン ピ ュー タ を使 う こ と にな っ て 、 そ れ まで に比 べ れ ば 遙 か に楽 々 と彼 女 の仕 上 げ た の が 第9号(1991 年1月 号)だ っ た。 こ れ は レ ターサ イ ズの 大 き さで 、今 と全 く変 わ らな い ス タ イ ルで あ る。1ペ ー ジの左 に英 語 、右 に 日本語 とい う、 第3号 で 試 み て 、 ほ とん どが 手作 業 と変 わ らず大 変 苦労 した 作 業 が 今 やMacで 簡 単 に出 来 る よ う にな っ た 。 内 容 も国 際 誌 に ふ さ わ し く、 巻 糖 言 に箱 守 博 士 、 ミニ レ ビ ュ ー に は 、Varki、 Sandell、Lehmann、Cumming、 大 平 博士 らの 力 作 が 並 ん で い る 。 こ れ らに限 らず 、TIGGに 載 った ミニ レ ビュ ー を今読 ん でで み て も、書 い て あ る事 実 は古 くな っ て い る に して も、 い ま だ に 読 む に耐 え 、 か つ あ る 種 の感 激 を もた らす の は、 書 き手 が研 究 に取 り組 む 時 の姿 勢 、 息づ か いが 読 者 に伝 わ って くる筆 致 で 書 か れ てい るた め だ ろ う。TIGGは 書 き手 に、 網 羅 的 な 、 かつ 総 花 的 総 説 で は な く、 著 者 の 研 究 に 取 り組 ん だ と きの 考 え 方 、 疑 問 、解 決 、 そ して将 来 の方 向 性 が 伝 わ る もの を書 い て 欲 しい と 要 求 して き た が 、 そ れ が 、 こ のTIGGの ミニ レ ビュ ー の 特 徴 と な っ て い る。
こ の よ うにTIGGの 体 裁 は大 き く脱 皮 を遂 げ 、 第9号 か らは 見 た 目 も恥 ず か し くな い もの とな っ た。 編 集 も遙 か に 容 易 に な った。 私 と して はMacに 投 資 した こ とだ し、 中村 さ ん もMacに 習 熟 した し、 簡 単 にな っ た方 式 でTIGGの 編 集 を こ こで続 け て 、 実 務 を担 当 す る編 集 ス タ ッ フ と して 中村 さ ん に ク レジ ッ トと、 そ して 少 額 の 謝礼 を上 げ た い 気持 ち だ っ た。 しか し、 川 口 さ ん は 自分 の と こ ろで10号 か らは編 集 す る と言 い 張 り、Macご と全 て を持 っ て い っ て しま った。 私 は 中村 さん の ため にが っか り し た が 、今 か ら思 う と何 よ りも嬉 しか っ たの は 中村 さん だ っ た に 違 い な い 。 今 思 う とあ の よ う な苛 酷 な 作 業 を彼 女 に お 願 い して、中村 さんがそれ にどうして耐 えて くれ たのか、不思議 に思 う。彼女 こそ、い まはほとん ど失 われた日本女性 の美徳 を残す 最後 の人種 だった に違いない。私が1993年 に三菱化成生命科学 研究所 を去 って東京工業大学 に移 って以来、彼女 には滅多に会 う機 会がないが 、思 い出す度 に彼女 に心か ら感謝 してい る。
さて、私が購 入 したに も関 わらず一度 も触 る機会のない ま ま、Macintosh IICiは川口さんの ところに行 って しまったが、そ のMacに 投資 した金はFCCAの 財産 と して買い上げて貰 うことに なった。 しか し、FCCAは ひどい赤字を背負っていて、全額返済 されるにはあ と2年が必 要だった。
Fig. 9. "Still, this is your son." Drawn by J. Kudo for the paper of Yamamoto et al., Nature (1990) 345, 229-233, picked up to the Hot Paper. Taken from No. 7 (September, 1990).
L. I Asked Donations to FCCA among the Secretaries
We had a deficit reaching several million yen by the end of 1990. There were several reasons for this. First, since we commenced our FCCA at September, 1989, and the rest of the first year was quite short, we thought we could manage with the first year's fee to cover expenses for both 1989 and 1990. Second, we were too innocent to ask for an estimation of the cost for No.2 publication beforehand. We were only concerned with the style. We received a bill asking several million yen early in 1990. Third, we were anyway ignorant and inexperienced. Everything costed us much more than we initially thought in mind. We were not able to cut off the costs of printing, bookbinding, shipping, mailing, calling and the like. These bills accumulated to increase our deficit.
From the beginning of our organization, nobody expected to get refunded for travel expenses for meetings or to have their lunch paid by FCCA. We were all volunteers and our uncountable hours of service were dedicated for keeping FCCA activities and publishing TIGG journals. The spirits are being inherited to the present secretaries. One improvement made possible from 1996 was that secretaries living outside Tokyo are refunded for the travel expenses to attend secretary's meeting. Until that time, nobody living out of Tokyo was assigned for secretary, because of financial consideration.
After running FCCA for a year, though facing the deficit of several million yen, we were able to estimate that roughly ten million yen was necessary to cover costs of publication for six issues of TIGG and four FCCA seminars a year. The reasons for the deficit generated in the very beginning of FCCA would not have caused us trouble if we behaved wiser.
We longed for the sound finance in order to develop FCCA and TIGG in a steady manner. First of all, we realized that the membership fee set was too low. We decided to raise the domestic fee from 3,000 to 5,000 yen per year. The overseas fee was left untouched. The sum of membership fees was estimated to be 3.5 million-yen. The fees collected from the supporting company members would reach 2.5 million-yen. We could get 2 million-yen from the advertisements placed in TIGG. This total of 8 million yen would not be enough to cover the cost as well as the deficit we incurred. Thus, I took the initiative in donating to FCCA. But still we had a long way to go.
We, the secretaries, had a lot of discussions on how to raise funds for our FCCA and finally came up with the idea of asking some companies to become sustaining members of FCCA. Among them, Mr. W. Yamaya, the president of Seikagaku Corp., and Dr. I. Kato, a director of the Takara Shuzo Co., agreed with the idea and promised to support us by giving us one million yen each for three years. Three years were estimated to be the term where the deficit would be offset with their help. It was the fall of 1990. We were suffering from a large amount of deficit, but we saw light in the dark, which we thought, would get all the brightness in years. I will never forget the joy I had when I received letters from Seikagaku and Takara. They kept us alive. Of course, not only the sustaining members but also the persons who agreed to give their publicity to TIGG as well as regular, institutional, and supporting members allowed us to get over the crisis.
I would like to add that the cost of publication of No.11 (May, 1991) through 16 (March, 1992) was supported in part by a grant-in aid from the Naito Foundation who helped us succeedingly from 1995 through 1997 as well as from 1999 on. From No. 22 (May, 1993) the cost of publication of TIGG has been in part supported by a grant-in-aid from the Ministry of Education, Culture, Science, and Sports of Japan. We are very grateful for these supports.
1990年 の終 わ りには私 た ちは数百万 円の赤字 を抱 えてい た 。 誤 算 の 理 由 は い くつ か あ った 。 第1に 、FCCA/ TIGGを 始 め た のが1989年 の9月 だ った の で 、短 い期 間 で1年 分 の 会 費 を取 る の は 会 員 に悪 い と思 っ た。 そ れ で 、1989~1990の2年 間 を会 計 年 度 と して は1年 と見 な し、 国 内3,000円 、 国 外7,000円 の 会 費 で 、 TIGGで い え ば1990年 の終 わ りまで の8号 分 を差 し上 げ ます よ と い う こ と に し て し まっ た 。1989年 は そ れ で も十 分 出 来 る と思 っ て い た 。 第2に は 、 第2号 を立 派 な雑 誌 の 形 態 にす る こ と に 目が 奪 わ れ て い て 、 い く ら掛 か る か 見 積 も ら ず に 印 刷 させ た こ と で あ る 。1990年 に 入 る と、200万 円 を超 す 請 求 書 が 回 っ て きた 。 第3は 、 と に もか くに も私 たちが計 算 に疎 い世 間知 らず だ った ことで あ る。全 てが予想 を上廻 って経 費が掛 か った。外 部 に払 う印刷 費、製本代 、輸送費 、郵送費、電話代 などは抑 え ようがない。 それで赤字が増えてい く。
したが って、 こ との最初 か ら幹事 に手 当が 出 る とは誰 も 思 っていなかったが、実際、会合 に集 まるための交通費、昼食 代全 ては幹事が 自分 で払 ってい た し、勿論 、雑誌 の編集 にい く ら時間 を使 って もそれはすべ て無料の奉仕なのであ った。 この 精神 はい まだに現在のFCCA幹 事会に受 け継がれている。一つ改 善 された ことと言 えば、1996年 か ら東京以外 に在住 している幹 事が会合に出席する時にはその交通費をFCCAが 負担する ように なった ことくらいである。それ までは、幹事 に東 京以外 の人に なって欲 しくて も、財 政難 を理 由 に見送 っていた。
この ようなことに経験 のない私たちだったが、それで も1年 の経験 を経 て冷 静 に見積 もる と、6冊 のTIGGの 出版 や年4回 の FCCAセ ミナーな どの活動 のために、1年 間 に1000万 円近い費用 が掛かる ことが計算 された。最初の1年 の赤字 の原因は、その後 愚 かなこ とを しなければそのあ との脅威 に とはならない ことが 分 かった。
FCCA/TIGGが 健全 に発展す るためには財政が しっか りしな くてはな らない。それで、FCCA会 費 をあ ま りにも安 く設定 して いた ことが分か って きて、 まず国内3,000円 を5,000円に値上げす ることを決めた。それで も、正規 の会員か らの収入は350万 円 く らい と思われた。それで、賛助 会員の獲得 に川口 さんは力 を入 れ、その収入 を250万 円 くらいと見積 もった。雑誌広 告で200万 円 くらい増 えるだろ うが、それで も足 りない。それで、勿論、 幹事長である私 自らが率先 したが 、何 とFCCAは 幹事 に寄付す る ことを奨励 したのであ る。 しか し、それで も足 りない。
そこで、TIGGの 事業 に理解 を示 して大 口の資金援助 をあた えて くれそ うな企業 に維持会員 になって貰お うと幹事会で相談 して、数社 に当たった。 そのなかで、生化学工業株式会社の山 谷渉社長 と、宝酒造株式会社の加藤郁之進バ イオ本部 長が趣 旨 に賛同 して、1991年 か ら年100万 円の維持会員 とな り、 しか も、 初年度の赤字が消 えるために必要な期 間として見積 もった3年 間 は少 な くとも援助 を続 けると約束 して下 さった。1990年 秋 のこ とであ った。私た ちは多額の赤字 を抱 えなが らもこれで前途 に 光 明 を見 い だ した。 この 嬉 しさは忘 れ られ ない。 これ で 、 FCCA/TIGGは つぶれず に済 んだのである。勿論 、維持 会員2社 だけではFCCAは 成 り立 たず、何 らかの会合で顔 を合わす度 にお 願 い したTIGGへ の広告 出稿 に応 じて下 さった方 々、FCCA/ TIGGの 趣 旨に賛 同 して下 さった正会員 、団体会員 、毎年5万 円 ずつの賛助 会費を払 って下 さった賛助会員80社 、全てのおかげ で私たちのFCCA/TIGGが 危機 を乗 り越 えて ここまで存続で きた ことは言 うまで もない。
なお付 け加える と、第11号(1991年5月 号)か ら第16号(1992年 3月 号)までは内藤記念科学振興財団か ら第1期 の出版物刊行助 成 金 を戴 き、 第22号(1993年5月 号)か らは現在 まで も続 くこ とに なった文部省科学研究費補助金(研究成果公 開促進費)の助成 を受 けるこ とが 出来 るようになった。内藤記念 科学振興財 団か らは その後 も計3回 に亘 って刊行助 成 を受 けて、大 いに助 か ってい る。 関係諸氏 に深 く感謝 している。
Fig. 11. "Why is she so popular?" There were three articles on selectins in No. 15 (January, 1992) in which sialyl Lewis X was focused on. Drawn by Mochizuki.
M. Why Is She So Popular?
TIGG is too square. This is what people criticize. Since TIGG is a scientific journal, there is no way to put a centerfold picture. But to make reading a bit comfortable, KK put some cartoons drawn by his acquaintance from the beginning in TIGG. There was a cartoon that, when a glycomania went for skiing, everything looked to have a hexagonal shape, in the No.2 issue. This was painted according to KK's idea.
While reading the manuscripts for the journal by myself, I was sometimes stimulated to think of the motif to cartoons. When I brought the idea to Dr. Kudo working at the same institute and gave an elucidation for it, he took a pencil and drew a cartoon in a couple of minutes without stopping to chat with me. He is a top ranked researcher in neuroscience, but I wonder why he would not switch to live on his talent for cartoons. Besides Dr. Kudo, Dr. Ogura, Dr. Shimamura, Ms. Kudo were willing to use their talent for decorating our TIGG by cartoons fit to the text, some of which are included in this article. A cartoon used for the manuscript on brain glycoprotein TAG-1 was later modified and used for publicizing TIGG. The one used for selectins with a caption "Why is she so popular?" was made into a slide and used at the lecture by Dr. Hakomori; that delighted me a lot (Fig. 12). FCCA rewarded the cartoonists, but I, conveying the rewards, asked them to donate to FCCA. Nobody dared to refuse it. I feel a bit ashamed of it.
The artide for GlycoHistory section, that first appeared in No.14 (November, 1991), is quite unique to TIGG and was made possible by KK's idea. He asked Dr. Misaki to write an article entitled "Fred Smith in my memory" on Dr . Fred Smith who is wellknown for "Smith's degradation". Dr. Smith passed away in 1965 at the age of 53 and thus, the number of people who do not know Dr. Smith in person is growing. Dr. Misaki succeeded in conveying not only what Dr. Smith performed but also how he was like and touched us a lot. Later, we were informed that Dr. Misaki wrote the article while looking after his son who passed away soon later. His love and lamentation toward his beloved son was harmonized with that toward his master and gave us a heartfelt touch.
There are many magazines in Japan putting impression reports on the foreign country contributed by the Japanese. Since TIGG is published in Japan and distributed to worldwide readers, we got the idea to put reports on what foreign researchers think of Japan in the section "Discover Japan". There were a number of contributions made by people who now and then stayed in Japan. Among them, the one that was contributed by Monica Palcic and Ole Hindsgaul was unique and no body has dared to challenge since then. Particularly interesting was the picture in which Ole and Sanders were appearing.
TIGGは 元来糖質科学 のための雑誌 なので内容が堅 い。少 し で も気分 を和 らげる ように とい う発想で 、初 めか ら川 口さんが 知 人に頼 んで漫画 を書い て貰 ってあ ちこち に入 れてい る。 ス キ ー を して い る 時 、 何 で も糖 の 六 角 形 に 見 え て しま う Glycosyndrome?と いう傑作 は第2号 に載 ってい る。これは川口 さ んの発想で望月 さんが描いた ものであ る。
私 も編集長 と して ミニ レビュー、 グラ イコ トッピクスを読んでいる最 中に刺激 されたときは、 これ らを飾るための漫画のア イデアを同 じ研究所の工藤博士 の もとに持 って行 った。漫画の趣 旨を説明す ると、工藤博士 は鉛筆 を持 って さらさらと数分の うち に書 き上げて しまう。彼 は脳神経科学の一流の研究者である。こ のような才能 を生か さず に、何 で脳神経科学の研究 をやっている の と思 うくらいの腕前 である。工藤博士の他 にも、小倉博士 、島 村博士、工藤嬢 に も書 いていただいてTIGGを 飾った漫画 をこの 文 中に再録 している。脳 の糖 タンパ ク質TAG-1に 添え られた漫画 を そ の 後 少 し改 編 して そ の 後 ず っ とTIGGを 飾 る 漫 画 と して使 っ て き た もの もあ る 。 私 の 気 に入 りの 一 つ で あ るFig. 12は 箱 守 博 士 の 講 演 ス ラ イ ドに も使 わ れ て い て嬉 しか っ た。FCCAか ら は当 然 、 漫 画 を描 い て 下 さ っ た工 藤 博 士 ら に 薄 謝 を 差 し あ げ た が 、FCCA幹 事 長 は直 ち にFCCAに 寄 付 して 貰 う こ と に成 功 した 。 今 思 う と、 全 く漸 愧 に 耐 え な い。
TIGGは そ の後 も雑 誌 の 本 質 的 な ス タ イル の 改 良 は行 わ な か った もの の 、 紙 面 に工 夫 を 凝 ら し た 。 何 よ り も TIGGに 特 徴 的 で 他 に は比 べ る もの の な い の が グ ラ イ コ ヒス トリー で これ は川 口 さん の ア イ デ アで始 まっ た。 第14号(1991年11月)に は、 そ の 第1回 「Fred Smith in m ymemory」 が三 崎 博 士 に よっ て 書 か れ て い る。 ス ミス分 解 で 知 られ る技 法 を始 め たSmithは1965 年 に53歳 で亡 くなっ たの で 、勿 論 若 い研 究 者 は個 人 的 に は彼 の こ と を知 らな い。 三 崎博 士 は 、Smithの 業 績 を述べ るだ け で な く、 Smithの 人 柄 が 目の 当 た りに浮 か ぶ しみ じみ した 語 り口 で私 た ち に多 くの感 動 を与 え た。 あ とで 知 る ところ に よ る と、三 崎博 士 が そ の後 亡 くな られ た こ愛 息 の 看病 を しなが ら、 あ の原 稿 を書 い て 下 さ った とい う。 ご子息 へ の 愛情 と亡 き師 匠へ の 哀惜 の 情 が あの よ う な優 れ た文 章 と して 結 実 した も の と思 わ れ る。
TIGGは 日本 で編 集 出版 してい るの で 、 発 信 してい るの は 日本か らと考 えて良い。 日本で出版 される 日本 人向けの学術誌 は 日本か ら外 国 に留学 した人の印象記 を載せ た りする。 それな ら ば、私 たちのTIGGに 日本 に来た国外の研究者 や学生の印象記 を 載せ た ら面 白いのではないか とい うア イデアでDiscover Japanが 始 まったのは、ずっ と遅 く1996年 か らであ る。 なかで も、生 き 生 きと した筆致 で読者 を喜 ばせたのはPalcic及びHindsgaul博士 に よる もので、困った ことにあ まり良す ぎてか、その後の寄稿 が な くなって しまった。
N. Big Shots Are Not Wanted among Secretaries but Necessary as Advisers
A new organization needs somebody to add value to it and thus the editorial advisory board members were chosen from this point of view as well. I asked several seniors in glycobiology to become advisers and KK took care of those in glycotechnology. I have many friends and acquaintances in the world and most of them willingly accepted my offer.
Among those who declined my offer, one of them was Professor Tamio Yamakawa who found GM3 and globoside a long time ago and, standing as a big senior in the field of glycolipid research, raised up many good researchers. When I met him on my way to Israel, I explained to him what we had started and asked his help by joining the advisory board. He declined it because he could not believe in such a suspicious group driven by the odd guy. I do not know the reason why, but something annoying happened years ago between him and KK at whom Dr. Yamakawa was still angry. KK had completely a different opinion. This kind of argument would get nowhere.
Some of my foreign friends embarrassed me by asking why Dr. Yamakawa was not included in the board. I respect Dr. Yamakawa and have never had a quarrel with him. I believed that TIGG was the best and unique journal in the world and that in order to go one step further we needed him. The day came when the number of FCCA members increased and TIGG became popular, and finally Dr. Yamakawa agreed into becoming the adviser. It was the fall in 1992. I would like to express my sincere gratitude for the encouragement to promote TIGG, particularly during the hard time we had, to Drs. H. Egge, Ten Feizi, Sen-Itiro Hakomori, Akira Kobata, Yuan Chuan Lee, Akira Misaki, Gentaro Okada, M. -L. Rasilo, Harry Schachter, Nathan Sharon, Roland Schauer, Sakaru Suzuki, Charles C. Sweeley, Guido Tettamanti, J.F.G. Vliegendhart, Herbert Wiegandt, and many others in the advisory board.
団体 、雑誌 が新 し く世間に出る とき、それに箔 を付 けるた め にその世 界で重 要 な人物 を顧 問 に配す るの は常套手段 で あ る。私 たち もこの世界で重要な先達 にFCCA/TIGGの 顧問になっ ていただ く必要 を感 じて、手分け してお願 い した。 川口さんは 糖質科学、私は糖鎖生物学である。幸 い世界 中に多 くの友人が あ り、 どなたも快 く顧問 を引 き受 けて下 さった。
例外 は、山川民夫博士であ る。山川博 士 は言 うまで もな く 糖脂 質研究 の草 分けの一人であ り、私の深 く尊敬す る第一人者 である。綺羅星 のご と く多 くの弟子 を育てその影響力は真に大 きい。先 ほ ど書 いた ように1989年 の イス ラエルでの学会で一緒 になった山川博士 に顧 問になって下 さる ようお願い した。 しか し、 山川博士 は大変 はっ きりとこの ようないかがわ しい団体 の や るこ とを自分 は好 まないと言われたのである。つ まり、詳 し い事情 は今 になって も分か らないが、川口 さんが昔 山川博士 に 大変 な迷惑 を与 えてそれ を怒 ってい らした らしい。 川口さんに よる と全 く別の 見解 なので、今 は何 が真相 なのかは分 か らな い 。
外 国 の 友 人 に会 う と、 山川 が 顧 問 にい ない じゃ ない か とい わ れ た りす る 。 私 と山 川博 士 は 喧嘩 してい る わ けで も ない し、 私 はTIGGは 世 界一 の雑 誌 で あ る、 少 な くと も、 なる と信 じて い た か ら、 山 川博 士 に 会 う産 に顧 問 に な っ て 下 さい と頼 ん で い た 。私 た ち に堅 忍 不抜 の努 力 でFCCA/TIGGは だ ん だ ん世 に認 め られ る よ うに な っ た あ る 日、 山川 博 士 が つ い に顧 問 とな る こ と を承 諾 して 下 さ った の で あ る 。1992年20号 か らで あ っ た 。
H. Egge、Ten Feizi、 箱 守 仙 一 郎 、 木 幡 陽 、Y.C.Lee、 三 崎 旭 、 岡 田厳 太 郎 、M.- L. Rasilo、Harry Schachter、Nathan Sharon、 Roland Schauer、 鈴 木 旺 、C. C. Sweeley、Guido Tettamanti、J.F.G. Vliegendhart、H. Wiegandt、 そ の他 多 くの顧 問 の方 々か ら暖 か い 励 ま しと貴 重 な助 言 を受 け て 、 このFCCA/TIGGが 育 っ て きた こ と を、 感 謝 と共 に思 い 出 して い る。
Fig. 12. Dreaming of the day to come when we need not worry about the finance. Drawn by H. Kudo. Taken from No.6 (July, 1990).
O. We Do Not Need the Initiators as FCCA Secretaries Forever
When we started in 1989, the FCCA Regulation section 20 said that the secretary could serve a term of three years and could be re-elected, if necessary. This meant that we, the initiators of FCCA and TIGG, could stay as secretaries as long as we wanted. There was a possibility that this came true. We, the secretaries, for the first term have commenced, raised up, and deeply committed to FCCA, and thus we might find it difficult to leave FCCA forever.
However, as Eastern wisdom says, standing water will get foul. Moreover, we did not want to raise up a boss in FCCA. Facing the end of the first term (1989-1992), I thought it was a good time to think of introducing a limit to our term as secretaries. If we were to postpone doing this until the end of the second term (1995), it would be too late. In order to avoid the disorganization possibly caused by all the secretaries leaving, some should still retain their positions, implying that the longest term would be set for 9 years, which seemed too long. Therefore, by introducing a limit to the term as secretaries at the end of the first term, we can refrain from the possibility of building our own dynasty in FCCA.
According to the amendment of our Rules introduced in 1993, the term of the secretaries was set to not longer than 6 years. If all the secretaries were to be replaced by new ones, there would be no continuity in the FCCA activities. And thus, at the end of the year 1992, about a half of the secretaries of FCCA for the first term, i. e., Drs. H. Fukuda, N.Shibuya, and H.Tomoda left FCCA, and Drs. K. Hatanaka, J. Hirabayashi, and H. Kubo were going to serve the second and succeeding third terms.
At the end of the year 1995, Drs. Y. Fukuda, K. Kawaguchi, T. Nishihara, I. Takagahara, and I left FCCA after serving the initial two terms and Drs. N. Shibuya, M. Ishihara, K. Kakehi, and H. Ogawa were assigned as new secretaries. The era of Yamagata (1989-1995) came to an end, during which KK and I made a good combination to help keep FCCA. Honestly speaking, any of the two was indispensable for FCCA as well as TIGG. Dr. Hatanaka was switched during the third term to Dr. T. Sato, and in addition Drs. T. Kuriki, K. Sugahara, and Y. Tsumuraya were going to serve the third and possibly fourth terms.
Drs. Shibuya, H. Hirabayashi, and H. Kubo left their job at the end of the third term (1995-1998), and instead Drs. K.-I. Kasai, T. Kuriki, Y. Matsuzaki, S. Nishihara, Y. Suda, M. Yokoyama joind as secretaries. The third term was guided by Dr. Shibuya (1996-1998) and the present fourth one, by Dr. Kasai.
私 た ち は1989年 にFCCA/TIGGを 発足 させ たが 、 最 初 か ら会 則 で幹 事 の 任期 を3年 、 た だ し再 任 を妨 げ ない と定 め て あ った 。私 た ち がFCCAを 始 め 、軌 道 に乗 せ 発 展 させ て きたの で 、FCCA は 我 が 子 み た い に可 愛 く、 いつ まで も幹 事 で い られ る な らば 、 そ の ま ま永 遠 に椅子 に座 っ て い そ うで あ る。
しか し、 東 洋 の こ とわ ざ に あ る よ う に 、 「淀 ん だ 水 は腐 る 」 。 さ らに 、FCCAの 中 に大 ボ ス を作 りた くない 。 第1期 の終 わ りに規 則 を変 え る こ とな しに第2期 に な る と、 その 時 に変 えて も、FCCAの 継続 性 を考 え る と全員 が 辞 め るわ け に行 かず 、一部 の幹 事 は9年 勤 め る こ とにな っ て しま う。 これ で は長 す ぎる。 第 1期の終わ りに任期 を決 め な くて はな らない。 そ れで 、 幹事 の任 期 は有 限 と決 め る こ とで 、 FCCAに 私たちが永 遠 に居続 けて私物 化 す る可 能性 を自 ら阻止 した。
1993年 始め に な され た会則 改正 で、幹事 の任期 は1 期3年 、再選可能、 しか し任期が6年 を 越 えない こ とが決 め られ た。 また全 員 が 交 代 す る と FCCAの 継続性 が 難 しくな るので、 半 数が 交代す る こ とに して、福 田、 渋 谷 、供 田博士 が 1992年 で退 き、1993年 の第2期 か ら新 た に、 畑 中 、平 林 、 久保博 士 が 幹 事 とな り第2期 、 引 き続 き第3期 を勤 め た。
1995年 の終 わ りに は、 福 田、 川 口、 西 原 、 高 河 原 博 士 と、 私 がFCCA幹 事 を辞 任 した 。最 初 の2期 を勤 め た こ とに な る。代 わ りに、 渋谷 、 石 原 、掛 樋 、小 川 博 士 が 幹 事 と な った 。 山 形 が 幹 事 長 を勤 め 、 川 口博 士 が 事 務 局 を担 当 したFCCA創 始 の 時代 が 終 わ った 。 正 直 言 っ て 、 川 口博 士 、 或 い は私 の い ず れ を欠 い て も、FCCA、TIGGい ず れ も存 在 で きな か った で あ ろ う。 第3期 は渋 谷 幹 事 長 の時 代 とな っ た。 や が て1993年 に、 畑 中博 士 は佐藤博士 と交代 し、 さらに栗木、菅原、円谷博士が就任 した。
渋谷、平林 、久保博士は第3期 終了の1998年 末 に幹事 を辞任 し、笠井、松崎、西原、隅田、横山博士が新 たに第4期 の幹事 に 選 ばれた。 その うちの笠井博士 が第4期 の幹事長 に選 ばれた。
Fig. 13. "TIGG as fruitful apples full of wisdom. Why not join us?" Drawn by H. Kudo. Taken from No. 21 (January, 1993).
P. Indulging in TIGG Was Better Than Having a Mistress
In most of the issues of TIGG, we were able to enjoy short notes written by KK in editors' note. If we picked up all the editors' notes ever published together, we can instantaneously make a book of the history of our FCCA as well as TIGG. Some said that the greatest and the only joy to subscribe to TIGG was to read the editors' note at first and discard TIGG thereafter. It was so relaxing to read it compared to the square minireviews.
I was not eager to write to the editors' note than KK, since I was not so good in writing in English. In the editors' note of No.8 issue, there was a short comment written by me, as follows: "As indicated in the No.5 issue, I have been involved in actual editorial work since that time. This work has greatly accumulated and no one except Ms. Nakamura is presently available to help with it. The result is that now I have become a Japanese workaholic: working from dawn to dusk with no weekend rest. Due to tight finances of FCCA, part of the burden for the regular publication of the journals falls on me.
My wife whom I rarely see advises me to view the Journal as a sort of side interest and allows that it requires less money than a mistress does. This immediately brings to mind our former prime minister (Mr. Uno) who became involved in a terrible scandal over a mistress and was compelled to resign in two months.
But, I do not suppose my situation is all that bad. Besides, TIGG should be found of great value by those interested in carbohydrates. Perhaps I should not mind conceiving of TIGG as a side pursuit but I wonder what my wife is actually up to, considering all the advice she is giving?"
To be editor-in-chief of our TIGG really demanded time and money. As for the time, I was being separated from my family who lived in Nagoya from 1973 through 1993 and thus, time was all mines except when I saw my family on some weekends. Thus first, I could use my time on TIGG in place of spending it for my family, though I admit that this was quite unusual. Second, since my laboratory was publishing top-ranked researches as mentioned above, I could spare my time for TIGG.
I was busy calling for articles for Minireview, translating articles written in English into Japanese as well as those from Japanese into English, and leading the organization. Until the end of 1990 I was deeply involved in the actual compiling business of TIGG, but what I had to do as editor-inchief was obviously to collect outstanding articles on intriguing topics in our field. According to the policy of TIGG, minireview articles were to be written for us upon request. There could be two ways as to how to pick up possible contributors who had performed top-ranked work; discussing among editors or making decision by each editor without consulting with one other. It may take time to adopt the former way and, moreover, I relied on the lights of each editor who makes selection.
The late Professor Dr. Fujio Egami, my bachelor and master thesis adviser, used to say: "It is nonsense to look for the important work to join. It is You who make the work important." This implies that every researcher is required from the very beginning of the career to have her/his standard by which the quality of research is judged. The standard retained by each researcher is not necessarily the same as those of others, but one can be confident in what she/he has accumulated in mind throughout her/ his career. In addition to this judgement thus made possible, what I stand on was the extent to which the work pleased me. When I found an interesting paper, I naturally wanted to know the background of the research. This urged me to write a letter to the possible contributor inviting to send an article on the hot topic. I am afraid that not all of the people may have accepted my judgement, but there was no other way but to ask for articles by myself unless other editors were cooperative.
Anyway, motivated by my own interest, I selected contributors for the journal who in most cases satisfied me with the articles I asked for. I enjoyed reading the articles and sometimes they helped me to give lectures. Thus, as a whole, I enjoyed the editorship, though I had a hard time. This kept me staying in the position for the past ten years.
Acknowledgement
The author is grateful to Dr. Maria C.Z. Kasuya for the English editing of the manuscript.
TIGGの ほとんど毎号 に川口さんが編集後記を書 いてい る。 今読み返 してみて、 これ をその まま並 べれば、それがその まま FCCA/TIGGの ほとん どの歴 史が伝 えると思 う。一節 によると、 TIGG読 者 の一番の楽 しみ はこの彼 に よる編集後記 を読 むこ と だ った という。TIGGが 到着 する と真 っ先に ここを開いて読 んで 「アハハ」 と笑い、そのままTIGGを 閉 じてそれっき り。他 の ミ ニ レビューに比べ た ら格段 に柔 らかい筆致 で、編集の こ と、周 りので きごとが書かれていて誰 をも楽 しませ た。
川口 さんに比べ ると私はあ ま り編集後記 を書いてい ない、 何 と言 って も、英語で普通 の文章 を書 くのが得意で はなか った ためである。 その第8号 の編集後記 に私の短 い文が載 っている。 次 の ような ものである。 『第5号 の編集後記 に書 いた ような経緯 で、TIGGの 編 集業 務 を引 き受 けさせ られて以来、 この第8号 で もう5回 も編集 を私 の ところでや ってい る。その仕事量増大のため に、週 末の休暇 もな くワー コホ リックの典型的な 日本人にな って しまった感が ある。更 にFCCAの 財政が逼迫 しているので、 このTIGG発 行 を 可能 にす るため、実 を言 うと、私財 を投 入 している。
滅多 に会 えない ワイフにこの こ とをぼや くと、彼女 はこ う い った。 「他 に道 楽 しているわけではないのだか ら、道楽 につ ぎ込んでい ると思 えば安い もの じゃない?」
落語 にある大家 さんの義太夫語 りは店子泣かせ だが、 この TIGGは 「私の道楽」で も少 しは人の役 に立 ているに違いない。 そ う思 うと、少 しは元気が出て くる。
それに して も、私 に道楽 を勧め るワイフはどん な秘か な道 楽 を持 っているのだろ うか。』
そ う。金 と時間が掛 かる道楽がTIGGだ った。時間に関 して い うと、私 は1973年 か ら1993年 まで名古屋 に家族 を置いて東京 に単 身赴任 してい たか ら、時 々週末 に名古屋 に帰る以外の時間 はTIGGに 投 じる ことが 出来 た。実際、家族のために時 間を使 わ な くてす むとい う特殊 な事情 と、先 に書いた ように、私の研究 室か ら世界 に誇 る研究が出ていたので、私 自身の研究上損失 は 別 と して も、私がTIGGに トチ狂 っていて も許 されたのである。
最初の1年 半近 くは実際の編集業務 に沢山の時 間をとられた けれ ど、編集長 としてのは私の本職 はTIGGに 如何 に良い総説 を載せ るかであった。TIGGの ミニ レビューは依頼原稿 なので、良 い レビュー を書いて くれそ うな人に 目星 をつけな くてはな らな い。 これ はつ ま りよい研究 を した人 をどうや って選ぶ か とい う ことであ る。編集委員が集 まって誰に書 いて貰 うかを集団討議 す るか、各編集委員が各 自の判 断で決め て依頼するかの どちら かであろ うが、前 者は時間が掛 かるので 各編集委員の見識 に任 せ るのが、TIGGの 方針であった。
私の恩師であ る江上不二夫先生 は、 「そこに重要 な研究が あ るのでは ない、 自分で重 要 にす るのだ」 といわれ た。 これ は、研 究者はご く若い ときか ら自分お よび他 の研究の 質を評価 する ことが要求 されているこ とを意味 している。 その評価 の基 準はそれぞれの研究者 によ り必ず しも同 じではない し、同 じ必 要 もないが、各人はそ れぞれの見識 に自信 を 持 って い る はず で あ る。私はこの ように し て な され る評 価 の 他 に、その研究 を私が面 白い と思 うものを重要 視 した。 『これこそ面 白い、だか ら重要 な研 究であ り、今後 の研究 方向の指針 となる。 ミ ニレビューに取 り上げ よう。』私の見識 を受 け入れない人 もあ るか も知 れないが 、TIGG を遅滞 な く発行す る最 終責任は私が負 ってい るのである。他の人が ミニ レビューの原稿を 集めて くれない限 り、 私は私のや り方で行 く しかない。
つ まり私は 自分の 興味の ままに著者にお 願いを書いて、その背 景から説 き起 こ してそ の トピックスを書 いて もらった。著者か ら送 られてきた原稿 は ほ とんどの場合私 の興味 を満 たす ものであ り、私は楽 しくその レビューを読 んだ し、 また話 をす るときの原典 として使 わせ て 貰 った。 したが って、編集長の仕事 は苦役だけではなかったこ とを私は ここに明記 しな くては ならない。今、私 は疲 れ果 てて TIGG編 集委員長 を辞任 しようと しているが、実際 は苦 しみだけ で はな く楽 しみがあ ったか らこそ続け られたのである。 この楽 しみ に協力 して下 さった方 々に心 か ら感謝 したい。
Fig. 14. Tatsuya Yamagata with the members of his new laboratory in 1999. Yamagata was working at the Mitsubishi Kasei Institute of Life Sciences when he got involved in FCCA and TIGG. In 1993 he moved to the Endowed Chair at the Tokyo Institute of Technology until his retirement in 1998, when he moved out to Japan Institute of Leather Research, Division of Glycobiology and Glycotechnology. His sustaining wife, Sadako, is on the extreme right.
中国の東北地方の瀋陽(昔の満洲時代には奉天と呼ばれていた)にある瀋陽薬科大学に滞在している十余年の間、私はブログにその折々の心情を書いてきた。いずれ私が先に死んだ後、一緒の研究室で働いていた妻の貞子が読み返して、中国の生活を思い出すのに役立つようにと思って書き始めたのだった。
そのブログに書かなかったことが幾つかあって、以下の記述はその一つである。
2013年春のこと、瀋陽薬科大学の私たちの研究室では、学生の一人が博士の学位を取ろうとしていた。もちろんその後の就職を考えなくてはいけない。この薬科大学でも就職の可能性があるようなので、大学のWebsiteに求人案内が出るのを待っていた。
4月の下旬に大学のWebsiteの中に教員募集案内が出ているのを見つけて、何処の学部や学科がどのような教員候補を探しているかが分かった。募集をしている学科によっては、男性に限ると書いてあったりして、他の国だと問題になりそうである。
おそらく好景気の続く中国では、給料が安い大学には男性が応募しない時期が長くつづき、大学の職が安定しているというので応募してくる女性しか採用できなかったのだろう。確かに私たちの生命科学部の若い先生には女性が多かった。
このWebsiteのページには申し込みの宛先、期限が書かれていなかった。もっと情報が知りたいと思って知り合いの教授に連絡したところ、5月の連休明けに電話で話すことが出来た。用向きを話すと、もう応募書類を出したか?と尋ねられた。
「でも大学の人事課に尋ねると、これは正式の募集ではなく締め切りもまだずっと先だということですが」と返事すると、うちの学生が興味を示している学科にはすでに9人が応募していて、その学科では書類の一次審査を行い5人に候補を絞って、今週末には最終面接して決めるはずだと言う。
なんと、大学のホームページには非公式の募集要項が出たけれど、申し込み期限も知らせていないのに内輪で応募を密かに受付け、すでにそれを締め切って、候補者の選考をしているのであった。
そういうわけでこの学生は、瀋陽薬科大学への応募を諦めたのだが、さらにまだ話しがある。
瀋陽薬科大学は省立である。昔は中国に単科の薬科大学は二つしかなく、その一つとして瀋陽薬科大学は大いに勢威を誇っていた。勿論当時は一流の大学だった。しかし、大学の再編成が進む中で、どういう経緯か知らないが、もう一つの南京薬科大学は国立大学に昇格し、さらには中国医科大学と名前を変えて一流の大学として評価を得るに至ったのに、この瀋陽薬科大学は省管轄の省立大学になってしまったのだ。したがって大学の人事は、当然のこと、遼寧省政府の人事なので、省のWebsiteにほかの省立大学などと並んで職員募集の案内・募集要項が載ることになる。
後日、その案内が遼寧省のWebsiteに載っているのを見つけた。それによるとこの瀋陽薬科大学の職員募集への応募は、この年の6月30日が締め切り期限と明記されている。
そして、この募集案内が省政府の人事網(インターネットの案内)に載ったのが6月25日と、これも明記されていた。
人事の募集期間の情報が公開されて、たった五日間で応募の締切である。しかも実情は、申込期限の二ヶ月前に大学の内部で密かに選考が終わっている。。。
驚きの話だが、それが当たり前で、誰もそれに驚かない国。でも、どこかの国でも聞いた話である。
日本の大学でもつい昨日まであった話ではないか。大学教授の公募があると、必ず「その公募は本当なのですか、もう候補が決まっているのではないですか」という問い合わせがある。「もちろん、純然たる公募です。優秀な教授に応募していただきたいのです」との返事が返ってくるが、大抵は内部で候補が決まっていて、公募で選んだという体裁を整えるための公募が多かったようだ。今は知らないが。
なお、私が瀋陽薬科大学に招かれてきて以来その時点で十年が経っていたが、その間に外部から採用された教授、准教授は誰一人いなかった。残念ながらいまでは、瀋陽薬科大学は三流大学にも入っていないのではないか。
これぞEssay に収録
(20200417)
高齢者が健康を保つには毎日歩くなどの運動を続けることが必要とされています。このほかに私は、中医(中国伝統医学)による艾灸(もぐさを固めた棒灸で温める温灸)の効果を実感するようになったので、それをお伝えしようと思います
若いうち私は、自分の健康に注意を払うことはありませんでした。幸い、それなりに健康だったのでしょう。でも後期高齢者といわれる歳になると、毎日身体を動かしていないと身体が衰えることを実感しました。若いうちは運動もせずゴロゴロしていても(実際そうだったのですが)筋肉は衰えることなく保たれていたのが、高齢者になると、発電所のダムで夜中の余剰電力で揚水をしておかないと翌日の発電に使う水が足りなくなって発電できないのと同じ感じで、目に見えて筋肉が落ちてきます。
中国から帰国したとき、何しろ、一人暮らしでは寂しいですから、以前妻の貞子とリタイアしたら盲導犬パピーを飼おうと話していたのを実行しようとしました。前にも犬と暮らしていたのですが、飼い犬に死なれたときの辛さにその後飼うのを控えていました。でも、ゴールデンレトリーバーの3ヶ月の子犬を1歳になるまで育ててあとは盲導犬にしつける協会に渡すなら、別れるにしても耐えられるでしょう。それで、老後はパピーを育てて暮らそうねと言っていたのでした。しかし、その協会に連絡したら「家族一人ではパピーの飼育はお願いできません。家族の愛情が伝わりません」と冷たく断られました。
中型犬の寿命は十数年ありますから、後期高齢者が子犬から犬を飼い始めるのは問題です。それで犬を飼えずに一人暮らしを強いられて嘆いている私を見かねて、別のところに住んでいる長男が「じゃあ、いざというときは犬を引き取るから、子犬から飼い始めていいよ」と言ってくれました。でも智慧の回る息子は、「どこかに旅行するからと言っても預からないからね」とちゃんと釘を差したので、その後犬と暮らし始めた私はどこにも出かけられません。
「孝行息子」のおかげで、2015年のはじめからゾフィと名付けたボーダーコリーと暮らしています。毎日とはいきませんけれどゾフィと5〜6Km は歩くので、高齢者が健康を保つにはまず歩くこと、ということを満たしています。実際、かなりの速度で歩くことのできる高齢者の健康度は有意の差で高いことが知られています。
そのお蔭で、私はこの年にしては一見元気ですけれど、それは見かけだけです。あちこちに具合の悪い所があります。私は77歳になるまで中国の瀋陽薬科大学で足掛け15年働いて、研究室から多くの学生を送り出しました。そのうちの十数人は今も日本で仕事をしています。その中のひとりは中国古来の伝統医学(東洋医学とも、漢方とも呼んでいる分野です)に詳しく、それを私に試してくれています。その効果を、皆さまにお伝えしたいと思ってこのように書き始めています。
日本では棒灸と言われています。鍼灸の灸のことです。もぐさ(艾)っていうのがありますね。よもぎの葉の裏に生えている白い部分を乾燥させて固めたもので、この艾を直接皮膚に乗せて火をつけるとお灸です。むかしは老人で背中にお灸のあとのある人が沢山いました。このもぐさを棒状に固めたもの(通常、直径18mm、長さ200mm)を中国語では艾条(アイティヤオ)と呼んでいて、日本では棒灸と呼んでいるみたいです。
これに火をつけて手で持って皮膚から離して、いわゆるツボとして知られているところを温めます。もちろん何の跡も残りません。 中国伝統医学ではこのツボは100を超えて知られているそうですが、私が実感できるのは押すと痛いので分かる手の二箇所と脚の三里くらいです。このツボというのは解剖しても神経が集まっているわけでも、血管あるいはリンパ節があるわけでもないそうですが、筋肉が凝ったときに押すと効くことは実感して、その存在を感じます。
1) この数年、夜中に寝ている最中に足の筋肉が攣ることがあり、それは我慢出来ないほどの激痛でした。壁を背にしてともかく立って足の筋肉を伸ばせという人もいますが、ものすごい痛さです。やがて、ともかく痛い脚でバスルームに行って寝ぼけたまま熱いシャワーを脚に20分位浴びせて直していました。家庭医に訴えると、「足が攣りそうなときは芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)を飲め」と言って処方してくれましたが、その効き目は全くありませんでした。
中国伝統医学に詳しい卒業生の指導に従ってお腹にあるというツボを艾灸で温めた結果、夜中に足の筋肉が攣る激痛の起こることがなくなりました。もう半年以上筋肉の収斂で悩まされたことはありません。これはお腹にあるツボを艾灸で温めた脚の血行を促したのだそうです。
2) 高齢者になってからは前立腺肥大と診断されていますが、尿が出にくくなり、もう4年位医者から薬を処方してもらっています。それもだんだん強いものになっていて、毎日その薬を飲まないとトイレで苦労する状態でした。最近になって、その処置として下腹部のツボを温めるようになりました。
その艾灸を始めて1週間経ったとき尿道の腫れを抑える薬を飲むのをやめましたが、排尿に支障がありませんでした。今は薬を飲んでいません。つまり艾灸をすることで、薬を飲まなくても排尿に苦労しないようになりました。これを始めてまだ4週間で、いまはまだ毎日温めていますが、中国伝統医学の教科書によると、これを続けると前立腺肥大による障害は治るそうです。
3) 緑内障の進行を止める効果があるかもしれません。中国から帰国して視力が落ちたことを感じて、近所の眼医者に行きました。眼圧の高くない緑内障と診断されてもらった薬は気休めでしかなく、その後だんだん悪くなってきて目薬もつけるのをやめてしまいましたが、艾灸をお腹に当て始めてからは眼も同じようにこの艾灸で温めています。眼を温めると気持ちが良いのです。
生命科学を勉強した身からすると、眼圧が高くないのに神経細胞が死ぬのは、何らかの理由で血行が悪くなって神経細胞の生存に必須のNeurotropic factorsが行き渡らずに細胞が死ぬのだろう、温めることで血行が良くなって、網膜の神経細胞へのNeurotropic factorsの供給が良くなり、神経細胞が死ににくくなるに違いない、と考えます。
艾灸で温め始める前までは視力がどんどん落ちてきましたが、始めてからはその視力の低下が止まったように思っています。今から半年後に自動車運転免許の更新があるのですが、そこで無事に合格すれば確かな効果となります。2年半前の前回の検査では視力が合格ラインの0.7に落ちていましたので、この次は危ないはずです。
4) この一年くらい手の指を動かすと指の関節が固く強張ってきていることを感じますし、関節を指で揉むと痛むことを感じていました。
この指の関節を艾灸で温めると、痛みが取れるのではないかと考えて実行したところ、驚くことに痛みが取れたのです。でも今は2〜3日してまた暖めないといけませんが、続けてやることでこの先が楽しみとなりました。
この艾灸は中国の伝統医学に基づいています。中国の伝統医学の源はすべて『黄帝内経』にあります。「黄帝」は中国の伝説上の皇帝ですが、この本は秦・前漢の時代(紀元前202~後8年)の作とされています。それでもずいぶん長い歴史があります。人間の観察に基づいて作られた医学理論なので、今の生命科学とは相容れない部分も多く、西洋医学の信者は中医(中国伝統医学)をただの迷信と切り捨ててきました。
私は科学者の端くれなので、科学的に実証されたものしか信じない人間です。ですから人の身体には「血」が流れているだけでなく、「気」が流れているのだ、「気」は目に見えないが人の生命力のすべてみたいなもので、身体には「気」の通り道「経絡」があり、その通り道にある「経穴(ツボ)」を刺激することで「気の流れ」を整えると健康でいられると聞くと、そんな通り道があるのだろうか、全然確認されていないじゃないか、だから信じるに足りないと思っていました。
中国の瀋陽で仕事をしているとき身体が疲れたり、凝ったりして、按摩を受けるのがいいだろうと考えて大学の近くの盲人按摩に出かけるようになりました。1〜2時間くらい背中や手足をマッサージしてもらうと気持ちよくなり、身体に「元気」が戻ってきた気になります。やがて、手指で押されて気持ちよくなる場所はいわゆるツボとして知られて記載されているものであることがわかりました。
つまり、私は身体にはツボがあることをだんだん感じてきたのです。そして今は II. に書いたように、そのツボを温めることで具合の悪い箇所が治ることを体験しています。そしてその間にわかったのは、中国伝統医学では、身体のバランスを保つことを最も重視していること、このバランスを保つことで病気を未然に防ぎ、健康でいられる方法を示していることでした。つまり、人は自分の身体のDaily maintenance を続けることで健康を保つことが大事であることを教えています。ちなみに、「未病」という言葉は、いま日本でも流行り始めましたが、この二千年以上前の「黄帝内経」の中で使われているということです。
自分が実感しているだけで科学的に実証されていないものを、なぜ信じるのか、どうして人にも勧めるのかについて私の考えを書いておきましょう。
どなたもアスピリンをご存知でしょうし、お世話になったことがあるでしょう。あの鎮痛、解熱剤で、主成分はアセチルサリチル酸で、19世紀の終わりドイツのバイエル社が初めて工業的な化学合成に成功して解熱鎮痛剤として売り出し、その後世界中で用いられてきました。もちろん今でも用いられています。
もとはローマ時代にまでさかのぼりますが、柳の樹皮を噛むと鎮静作用があることがすでに知られていました。アメリカの先住者(アメリカンインディアンと呼ばれていた)も鎮痛のために柳の皮を噛んでいたそうです。その後18世紀になって、イギリスの神父E .ストーンは、ヤナギの樹皮の抽出エキスが、悪寒、発熱、腫脹などに強い効果があることを発見しましたが、主成分はサリチル酸で薬として用いるには作用が強く、バイエル社のホフマンがサリチル酸をアセチル化して薬にするまで待たなくてはなりませんでした。
アスピリンは世界中で家庭常備薬として大人気となりましたが、それでもその薬効がわかったのは、アスピリンという薬ができてから70年以上も経ってからのことです。アスピリンは薬効の原理がわからぬまま、この薬が頭痛に効くからという理由で世界中の人々によって使われてきたのです(なお血小板凝集活性のあるトロンボキサンチンA2の前駆体となるプロスタグランジンをアラキドン酸から作るシクロオキシゲナーゼを阻害するから鎮静作用を惹き起こすことが見つかったのは、私の記憶では1980年頃です)。
私の言いたいことは、もうおわかりでしょう。今はまだ実証されていない「気」、「経絡(気の通り道)」、「経穴(ツボ)」ですが、中国伝統医学を軽んじてきた科学者が本気になって研究を始めれば、何時かは科学的にその存在が示されるのはないかということです。今は科学的な実証がないけれど、現にあるその効果を信じる人、あるいはそれを信じたい人は、自分のリスクで試せばいいじゃないか、それを止める権利は誰にもないと思うので、私の体験を知っていただきたくここに書いてみました。どなたにも元気で暮らしていてほしいのです。
FORUM-2 に収録
(20190716)
ぼくが学童疎開で松本に行ったのは4月29日だったという記憶があるのですが、同じ学年の人たちの手記を見ると、どれにも3月末と書いてあるのです。この違いが気になっていました。
また、附小2年生のときの担任は宇津木先生だったのに、疎開先の3年生のときは加藤先生になっていたのです。どうして宇津木先生が代わってしまったのか、これも腑に落ちないことでした。
今回、若林茂さんが綿密な考証のもとに学童疎開の記録と思い出を附小のWebsiteに載せ始めたので、このことを訊いてみました。
以下は若林さんの返事です。ぼくが松本に4月29日に着いたのは間違いないようです.
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昭和19年8月頃 学童疎開第1陣出発(当時の3年生以上。ぼくたちは2年生だった)、浅間学寮編成に伴う 学校全体の担任再編成 このとき。宇津木先生 松本へ。
2年2組担任に加藤先生が新任となった(東京残留組の話)。
この記憶ありますか。夏休みが明けたら、担任が代わっていたという事で、2年生児童にとって、印象はうすかったと思われます(ぼくー山形ーには全く記憶にありません。同じクラスのNOA君にも訊きましたが、彼も全く覚えていないそうです)。
20年3月 新3年生(24年卒、若林、白井、土方、大野、等ほとんどの者)が集団学童疎開で松本へ、この時、遅れて山形君が松本へ。
20年3月17日 の学級通信(加藤先生、作成)が残っていて、それによると
イ 縁故疎開 荒川、伊藤、谷、平井、三原、山形、山際、赤羽、桐山、末田、中村忠彦
ロ 集団疎開 相良、白井、園田、千葉、中村忠晴、中川、牧、木村、児島、鈴木、中島、野村、岡本、上岡、青木、吉中、村上、石橋、
ハ 残留 能崎、吉田
後日作成の疎開同総会名簿には山形の名前があります。
「附属疎開の軌跡 22年卒河野(大槻)さん調べ 」によると
学童疎開第2陣 20.3.24 松本到着(新3年生 若林ほか大多数)
20.4.29 2年生 29名ほか数名が到着とあります。
以上より、貴兄は、多分、20.4.29の新2年生の便で、到着と思われます。「ほか数名」に含まれているのでしょう。
加藤先生の学級通信では、上記の通り、貴兄は、当初、縁故組でした。だから、松本到着が4月末になったのでは、ないですか。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
思い返してみると、たしかにぼくは縁故疎開をしていました。そのまま諏訪にいたのではなく4月からは学童疎開に参加して苦労したので、縁故疎開をしたなんて思ってもいませんでした。
1944年(昭和19年)の冬休みにぼくは母に連れられて長野県諏訪市に住んでいる叔父の家を訪ねて(蓼科高原でスキーをした写真が残っている)、そのまま叔父のうちに一人残されました。家の中に温泉の内湯があり、冬の間始終浸かっていたので、足は却ってあかぎれだらけでした。3月9−10日の東京大空襲で中野にあった叔母の実家が焼けて、焼け出された(という言葉がその当時はありましたね)叔母の高橋さんという母親がやってきて同居したのを覚えています。
連絡帳 に収録
作成: 2018/11/28 (水) 13:11:41
最終更新: 2018/12/11 (火) 12:13:56
附小のWebsite の「Document 学童疎開」のところに、若林茂さんの「附属の學童疎開の記録とその思い出(その3)」が載りました。
私は附小の2組で、学童疎開として1945年4月29日に松本に3年生として行ってからの担任は加藤嘉男先生でしたが、1年・2年生のときは宇津木先生でした。どうして担任が代わったのか、そのときも知らず(知らされず)、その後の宇津木先生の消息も全く聞くことなかったのですが、若林さんの前回の記録を読んで、長年の疑問に幾分答えが出ました。
松本温泉の学童疎開先で「セクハラ事件」があり、それを起こして直ちに学寮から追放されたのは(元の記録、荒井勝子さんの著作「アルプスよ今日わ」によると)U先生ということです。若林さんはセクハラ事件と書いていますが、それ以上のひどいことですね。
U先生が宇津木先生かどうかは、これだけでは不明です。U先生が宇津木先生であるとは思いたくありませんが、宇津木先生が(若林さんによると私達の2年2組の二学期から、担任を加藤先生に代わって、松本に赴任したという)その後の消息を全く私達に知られることなく行方不明になった理由と、状況証拠としては一致します。
疑問が解決したような解決していないような、胸の中に何やらしこりが残ったままです。
連絡帳 に収録
作成: 2018/12/07 (金) 20:05:29
私が上記のような意見を述べると、同級生だった谷弘志さんは、U先生というだけでは他の人もいるかも知れないじゃないかと私の発言を諌めました。たしかにそうです。でも若林茂さんの調べによると、昭和19年8月に学童を連れて松本に学童疎開した5人の先生のうちで、Uで始まる先生は宇津木先生しかいなかったそうです。
おまけに谷さんは、宇津木先生とは「大人になるまで年賀状をやりとりしていたけれど、この件に関する話は一切なかった」と言いきっていますが、担任の宇津木先生がばったりと消えてしまった背景に触れないとしたらその話題には忌諱が働いていたわけです、つまり、状況証拠はたいへん黒いものと言わざるを得ませんね、とても残念ですけれど。
連絡帳 に収録
2018/12/10 (月) 21:43:16 ab5f4@42c01
若林茂さんの「附属の學童疎開の記録とその思い出(その3)」には戦時中の児童に児童r手帳が配られて、その中に「児童五省」があったそうです。
その「児童五省」は:
一 皇国の子として、恥じることはなかったか
二 兵隊さんに申訳のないことはなかったか
三 親に心配をかけることはなかったか
四 身体の具合をそこなふことはなかったか
五 今日のつとめに怠ることはなかったか
これで、三田島の海軍兵学校の、昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元(はじめ)少将が創始した「五省」を思い出しました。「児童五省」はこれから取られたことが明らかです。
「五省」は:
一、至誠に悖るなかりしか
(誠実さに背いていなかったか)
一、言行に恥ずるなかりしか
(言動に恥ずかしい点はなかったか)
一、気力に缺くるなかりしか
(精神力に欠いた点はなかったか)
一、努力に憾みなかりしか
(努力するのに心残りはなかったか)
一、不精に亘るなかりしか
(怠けてものぐさになっていなかったか)
これって人間の基本のモラルですよね。ぼくはこれを守ろうといつも努力しています、が。。。
連絡帳 に収録
tcyamagata 2018/11/26 (月) 10:12:43 ab5f4@42c01
ぼくはずっと研究者を職業として生きてきた。その研究者としての大事な芯の一つを加藤嘉男先生の教育から得ている。その教訓が骨身にしみて、「怠けたい、手抜きをしたい、ずるいことをしたい、誤魔化したい、嘘を付きたい」という誘惑からぼくを厳しく遠ざけていたことを、ここに書いたことがある。
(心の傷がぼくの原点 https://sites.google.com/view/s24fushou/essay/agora2#7)
ぼくは研究者としてもう一つの大事な教訓を、同じく附小時代に、そのクラスでの発表会で得たのだった。
なんと、同級生の山本修(おさむ)のおかげである、あのヤントだ。クラス随一のいじめっ子で、2組のころ、ヤント、野村、そして須賀次郎(ははは、ゴメンね、貴兄とのわだかまりは今では氷解しているよね)からぼくは散々いじめられたものだ。今でも恐怖を感じるそのヤントのお蔭だなんて認めたくないし、言いたくもないが、実はこの一件がぼくの研究者としての精神の通奏低音となっている。
加藤先生のクラスは毎年夏休みのあと、生徒による発表会があった。発表の内容は何でもよく、自由研究として研究発表をする人がいたし、自作の詩や作文を読み上げる人もいた。話す人は希望者だったような気がするが、ぼく自身は積極的に人前で話すタイプではなかったから、保護者である親が申し込んだか、あるいは加藤先生が指名するシステムだったのかも知れない。
今では当たり前のクラス風景だろうが、これは昭和22年、戦後二年目のことである。このクラスは今から思うと、戦後教育改革の先頭を切って走っていた。
この発表会でぼくが覚えているのは、ある日夜中に起きていて観察した皆既月食のスケッチを絵にして、人前で話したことである。なんでこんなことが発表に値するのか不思議だが、むかしの小学生のことだから許してもらいたい。
ネットで月食の写真を見つけたのでここに借用して載せる。ぼくの描いた絵も本質的はこんな感じだった。左上が始まりの時間で、時間は右に流れていく。
この発表会でぼくが覚えているのは、ある日夜中に起きていて観察した皆既月食のスケッチを絵にして、人前で話したことである。なんでこんなことが発表に値するのか不思議だが、むかしの小学生のことだから許してもらいたい。
ネットで月食の写真を見つけたのでここに借用して載せる。ぼくの描いた絵も本質的はこんな感じだった。左上が始まりの時間で、時間は右に流れていく。
満月に丸い地球が影を落として、そしてそれが移行していく。地球の暗い蔭(ここでは暗い赤色)は丸い。それは平面で描かれている月面の上ではっきり見えるし、もちろんぼくの絵にも再現している。 しかし発表した中に、おかしな絵が一つあったのだ。月食の終わるころの時間だ。図でいうと、最下段の真ん中あたりである。地球の影は丸い地球を反映して丸い弧になっている。
ところがぼくの絵では、それが内側に凹の円弧だった(いわゆる三日月の形である、この図の丸い月の右肩に暗赤色の三日月が書かれていると思ってほしい)。発表のときには、もとのスケッチから書き写しているが、そのとき元の図は持っていなかった。 発表の後は、質問の時間である、ヤントが手を挙げて言うには、「最後のところでおかしな絵があります。地球は丸いから、地球の影は丸いはずなのに、終わりの方の山形くんの絵では、それが逆になっています。本当にそのように見たのですか、それとも、書き写すときに間違えたのですか?」 ぼくは質問を受けた途端に、自分の見せた絵の間違いに気づいた。この絵は正しくない、ヤントの指摘が正しい。もとのスケッチから写し間違えたか、最初のスケッチの段階から間違って観察していたかのどちらかだ。
写し間違えたといえばいいけれど、肝心の元のスケッチをそこに持っていないので証拠を示せない。しかもそう言うと、自分が不注意だったことを認めてしまうことになる。或いは、もともとの観察が違っていたかも知れないが、それを認めたら、自分の顔に泥を塗ってしまう。満座の前で発表してどうして自分の犯した間違いが認められようか。
「地球は丸いから、月に映る地球の影も丸いはずだけど、月が球形だから円周に近いところは影も向こうに伸びるからこのように見えたのにちがいない」とぼくは言い張った。
ヤントは、「映る面が球形でも平面でも関係ないでしょ。丸いものは同じように丸い影を与えるはずです」とぼくを追求した。その通りだ。どんな言い訳を考えても、ぼくに分がないのは当然である。
この先の展開は記憶に残っていない。「ヤントの指摘は正しい。しかし、ここにもとのスケッチを持っていないのでなんとも言えないが、写し間違えたかも知れない」と言ってお終いになって欲しかったと思うが、実際は覚えていない。少なくとも「ヤントの指摘は正しい」と言ったという記憶がない。おそらくその時は頑張り続けて自分の誤りを認めなかったので、それを恥じて恥ずかしい記憶が消されたのだろうと、今は思う。
ぼくはこの日(おそらく附小5年の夏)、研究者としてあるまじき間違いを犯したわけだ。自分の話、主張に間違いがあって、それを他の参加者から指摘され、その間違っていることがわかっても、間違いを認めるどころか、なんとか言いくるめて、ごまかして逃げようとしたのである。
これはその後ぼくの心に深く沈殿して、いつも絶えずぼくに警告を与えてきた。「間違った主張をするな。誰でも間違えるのだ。ぼくだって間違える。人から受ける疑問、質問は貴重である。それを材料にして改めて自分の主張を検討せよ。そしてもし間違いの指摘が正しいことに気づいたら、謙虚に間違いを認めよ」
だから、ぼくはその後の研究者人生で、人との議論には常に謙虚に取り組んだ。いつも自分の主張は丁寧に検証した。実際その後も、自分の研究者の道を歩みながらいろいろの人を見てきた。質問を受けた時に指摘に沿って自分の考え、主張、証拠を検討しようとはせず、ただ居丈高になって相手の言い分を抑えつけようと反論する人をたくさん見てきた。このような人の誰もが研究者としては駄目で、消えていった。
じゃ、ぼくはどうかって?ノーベル賞をもらうほどの革命的、画期的研究ができなかったその他大勢の一人というだけである。
ともかくぼくがうそ偽りのない研究者人生を送ってきた裏には、あの、心底大嫌いな、いじめっ子のヤントがいたのだ。
essay-あの頃 に収録
(20181012)
銀行や郵便局にある個人口座で10年以上使われた形跡のないものは休眠口座とよばれている。毎年、850億円発生しているといわれている。銀行はこの口座の金を自由に使うことができるが、もちろん払い戻しには応じている。わたしも先日三つの銀行を回って、30万円近くを回収してきた。
放置された預金口座のお金を「社会のために有効活用する」観点から、2018年1月に「休眠預金等活用法」が施行されたという。
法律ができる前は各銀行の管理だったが、来年2019年1月からは10年以上取引がない預金は、休眠預金として預金保険機構に移管される。
預金保険機構がこのお金を「社会のために有効活用する」とは、「子どもおよび若者の支援」、「日常生活を営むのが困難な人への支援」、「地域活性化等の支援」などにかかわる活動を行う民間公益活動に助成金を出すことだそうだ。
結構な話である。個人の資産でも不要と思われていると公に認定されれば、公共のために使える、使ってよいのだという考えには大賛成である。それで思ったのが、このごろ話題になっている日本全国に大量に発生している空き家のことだ。これも有効利用できないか。
日本は2010年をピークにして、ついに総人口が減少に向かっている。政府は移民を増やしていくようだが、しばらく総人口は減少が続くだろう。
2013年の国土交通省の発表によれば、空き家が、全国におよそ820万戸あって、住宅全体の13.5%を占めているという。しかし一方で、新築住宅の数は増え続けている。国土交通省が2018年1月31 日に公表した2017 年の全国における新設住宅着工戸数は、前年比0.3 %減の 96 万4,641 戸だそうだ。一戸建て、集合住宅、貸家全て含めての数で、それが需要で多少埋まるにしても、820万戸に加えて総計では毎年100万戸近い空家が増えていくことになる。
休眠預金が増えても一般庶民はちっとも困らないが、空き家が増えるとこれは近隣の安全に脅威となって深刻な社会問題になってくる。今は空き家に行政は全く手がつけられないが、これも休眠口座並みに、公共のために使おうという発想を提案する。
さらにこの考えを推し進めて、持ち主が明らかであっても、中古住宅に10年間使用の実態がないなら(これは納税の状態でわかるはずだ)、その中古住宅およびその土地を自治体が自由に使って良いことにしたらどうだろう。空き家になって10年間、利用の実態がないならという基準で、空き家とその土地に対して行政が利用権を持つというシステムにする。
現時点で社会的に問題にされている空き家とは、持ち主が不明なものを指している。しかし、ここの議論では空き家の概念を広げて、空き家イコール中古住宅としよう。持ち主が不明の空き家以外の、持ち主がはっきりしていても売る(貸す)意志がない、あるいは売り(貸し)たくても売れ(貸せ)ない中古住宅も対象にして論じている。
居住しない中古住宅が発生して人が居住しなければ、まず税金をかなり高くする。しかも10年間居住者がいなければ、その時点で中古住宅とその土地の利用権は自治体に移る。
こうなると、中古住宅を持つ人は、高い税金を取られた上にただで自治体に巻き上げられては敵わないと言うので、積極的に貸家にするだろう。高齢者には家を貸さないという大家が減るという大きな収穫となるに違いない。大家はあるいは中古住宅として積極的に売りに出すだろう。そうなれば中古市場が活性化するというものだ。Suumo を見て計算してみたが、首都圏で中古市場に出ているのは空き家率から計算した中古住宅のほんの1−2%に過ぎない。もちろん税制を改めて、今は残存価値がないとされている築20年以上でも家の残存価値を認めるのだ。
売りたくても売れないから空き家になっているものは、つまり持ち主にとっては価値がないに等しいわけだから、公共のものとして役立てたらどうかという発想である。
その10年間規制を避けるために、名義だけでも貸家にする人がいるかも知れないが、収入の確定申告をしなかったらそれで嘘がバレてしまう。
このように10年間使われていない中古住宅を公共のものにするシステムを作ると、次の利点が生まれるだろう。
日本では大都会の真ん中はともかく、一般庶民の住む住宅地の道路は狭く、公園は少ない。空家になった土地をそのまま公園にしてもいいし、保育園、学童保育、老人ホーム、地域住民の集会場の用地に当ててもいい。中古住宅を公共のものにするということは、自治体の財源が豊かになるということだ。
道路予定地など何十年も机上計画のままで道路建設が進まないのは、公共投資に必要な土地に現実に住んでいる人が等価の家が見つからないから動いてくれないからだ。空き家と土地が増えれば、現在居住中の住民の家の移転のための候補が増えるわけで、道路建設を進めやすくなる。これは大きな公共の利益になるだろう。つまり、このような空き家と土地は住民のための街の再建計画に積極的に利用できる。
高度成長期が過ぎ、バルブの時期も過ぎ、さらに富裕層と一般庶民の二階層に分化して停滞した日本経済の中でわたしたちほそぼそと生きているけれども、空き家とその土地を公共のために使うことによって、日本の美化計画、日本列島の改造、強靭化計画に、今やっと落ち着いて取り組むことができることになる。
どうだろう、こういうのは。乱暴かもしれないが、いい提案ではないだろうか?個人資産への侵害として反対されるかも知れないが、売れない資産など持っていても仕方ないはずだ。だれもが、生前いくら稼いだとしても死ぬときに金を持っては死ねないのだ。それくらいなら、公共の役に立てたらどうだろう?
P.S. 2018年7月31日 インターネットに住宅型有料老人ホーム「介護の王国」が「全国で増え続ける空き家問題… 介護施設への転用が解決のきっかけになる!?」という記事を出していた。
FORUM-1 に収録
(20180731)
今までの人生でギックリ腰を経験したことがあるだろうか?
欧米では「魔女の一撃」(ドイツ語のHexenschuss)と言うそうだ。経験したことのない人には伝えようのない激痛である。図はWikipediaから借用(文献1)。
私は30歳代で一度、70歳代で二度経験した。
いずれのときも痛みに身動きならず、トイレに這って行く以外はその場で三日間寝たきりだった。
このギックリ腰は専門的な言葉では椎間板ヘルニアと言って、腰痛の代表的なもののようです。腰を曲げて重いものを持ち上げようとしたり、無理な体勢で運動をしたりするときにゴチする。脊椎骨の間の緩衝をしている椎間板の中の髄核が圧力に耐えかねて背中側に押し出されて、脊髄神経を圧迫する。(コルセットを付けて動きを抑制し)安静にしてそれがもとに戻るのを待つか、重い症状のときには手術で取り除くかするが、患者は社会復帰するまで痛みに苦しみ抜く。
この症状を改善する新しい療法がこの8月から保険薬として承認された。
このクスリの本体はコンドロイチナーゼという酵素で、なんと私が給料をもらう研究者として独立して始めた最初の研究で見出したものなのだ(文献2)。細胞外の組織にあるプロテオグリカンの性状を決める成分はグリコサミノグリカン(GAG)と呼ばれていて、このコンドロイチナーゼはGAGのうちのコンドロイチン硫酸、デルマタン硫酸、ヒアルロン酸を分解する(文献2,3)。椎間板の中にある髄核の成分がコンドロイチン硫酸、デルマタン硫酸であることも、見つけている(文献4)。
文献2と3の論文を発表してから私たちの研究に加わった名古屋大学医学部の、当時は大学院学生だった岩田久先生(その後、名古屋大学整形外科教授、今は名古屋共立病院。文献4の共著者)、さらにその後は彼の仲間やお弟子さんたちがこの酵素を使って椎間板ヘルニアの治療に使えないかと研究を続けてきた。そのほぼ40年にわたる治験の努力が実って、厚生省の被験治療薬として承認されたのである。解説がyomiDrに載っているので、詳しくはそれを参照のこと(引用5)。
私は1960年秋に学部学生として卒業実験を始めてから2014年夏に瀋陽薬科大学を辞任するまで、ずっといわゆる基礎研究に携わってきた。世間の注目や期待が集まる応用研究ではないので研究費にも恵まれず(特に中国ではほとんど無視)、何時かはきっと何かの役に立つだろうと人にも自分に言い聞かせていた。
研究人生後半の20年は、細胞表面の糖鎖(特にGD1aというガングリオシド)ががんの転移を抑えていることを見つけてその機構を追求してきたが、とうとう機構の全貌がわからないままに研究生活が終わった。残念な気持ちで研究と教育生活を引退したが、研究人生初期の研究がその後の多くの先生たちの努力により、腰痛に悩む人の一部を実際に救えることになって、素直に喜んでいる。長生きしてよかったと思っている。
自分の研究がやっと人の役に立つことになった。ぼくの四度目のギックリ腰の治療にも使えるわけだ。
FORUM-1 に収録
(20180724)
文献1.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E6%80%A7%E8%85%B0%E7%97%9B%E7%97%87
文献2.Yamagata, T., Saito, H., Habuchi, O., and Suzuki, S.,
Purification and properties of bacterial chondroitinases and chondrosulfatases.
J. Biol. Chem., 243, 1523-1535 (1968)
PMID: 5647268
文献3.Saito, H., Yamagata, T., and Suzuki, S.,
Enzymatic methods for the determination of small quantities of isomeric chondroitin sulfates.
J. Biol. Chem., 243, 1536-1542 (1968)
PMID: 4231029
文献4.Habuchi H, Yamagata T, Iwata H, Suzuki S.,
The occurrence of a wide variety of dermatan sulfate-chondroitin sulfate copolymers in fibrous cartilage.
J. Biol. Chem., 248, 6019-6028 (1973)
PMID: 4269443
引用5.椎間板ヘルニアの新しい注射薬、1回で高い治療効果…8月発売 Yomiuri Online
先日用事があって会った能崎章輔さんに「星の王子さま」の再読を薦められた。そのときに、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の名前も言及されたのだった。たしかそんな本があったかなというくらいの遠い記憶しかない。
「なんだっけ?」「彫像になった王子が身に着けた宝石や金箔を貧しい人たちに与えていく話だよ」。
うちに帰って、こういうときはネットに限るとわかっているのでネットで検索してみた。すると、その本の文庫本の宣伝などに並んで、実際にその話がネットに載っているのが見つかったので、さっそく読んでみた。石波杏訳オスカー・ワイルドの「幸福の王子」である。
http://www13.plala.or.jp/nami/happyprince.html
短い話だ。冬が近づいて仲間たちは温かい南国に去ったのにひとり残ったツバメが、自分の身から宝石を取り外して貧しい人たちに与えようという王子のメッセンジャーになる。このツバメの心情がいじらしくて、途中から涙そうそうとなった。
王子は身につけた宝石も金箔もみんな貧しい人たちに与えてしまってみすぼらしい灰色の像となり、ツバメは厳しい寒さに凍えて王子の足元で死んでしまう。最後に登場した神様はこの王子とツバメを顕彰しようとする。しかし最後の一行のこの神様の言葉が傲慢で、それまで感動で震えていた心が凍りついてしまった。
簡単な読後感を能崎さんに送ったところ、「幸福の王子」の翻訳はいくつか出ていて、能崎さんはそれら全てに目を通しているとのことだった。そして曽野綾子の翻訳では最後の一行が原文とは変えられているという。
まだ曽野綾子の翻訳を見ていないし、能崎さんのメイルをここに勝手に引用することもできないので詳しくは書けないが、経験なキリスト教徒の曽野綾子ですら、オスカー・ワイルドの原文のままでは神の言葉としてあまりにも傲慢すぎて今の世に合わないと思ったのだろう。
アメリカ合衆国では大統領の就任宣誓のとき聖書に誓う場面があるくらいキリスト教が社会生活に浸透しているが、教会に通わない人が増えているということだし、世の中は変わっていく。
神が存在すると思っている人たちを否定する気はないし、何にせよ信じることは人を幸せにすると思っているが、傲慢は人であれ神であれ私には受け入れることはできない。と、思っているのも、一つの傲慢さの表れなのだろうか。
FORUM-1 に収録
(20180713)
歳をとって運動不足だと足腰の筋肉が弱ってしまう。近年はこれにロコモと名付けて、ロコモにならないように日頃の運動に努めましょうと盛んに言われている。ロコモとはロコモティブシンドローム(運動器症候群)のことで、通称ロコモで通用している。
高齢者の脚の筋肉の衰えはやがて介護の要支援に繋がる。骨折して寝たきりになると認知症になる人が多いと言われている。要支援は認知症と相性がいいようだ。認知症の多くを占めるアルツハイマー病の原因は未だに特定されていないが、自分にとって恐ろしいのは認知症になることである。
認知症になってそれが進めば、毎日がバラ色の天国に暮らしているようなもので、それはそれなりに幸せかも知れないが、自分が自分でなくなっていくという過程を考えると恐ろしさに身がすくむ。
というわけで、『できることはやりましょう。足腰の筋肉が衰えないように、歩きましょう!!!』
今日の日経の夕刊を見ると『大股「速歩」で手軽に筋力アップ 歩幅目安は65センチ 正しい姿勢もポイント』という記事があった。
それによると、『速歩で重要なのは歩調(テンポ)をあげることでなく歩幅を広くすることで、目標の歩幅は65センチ。中高年になると筋肉の衰えに加えて、脳機能が歩幅の広さに影響する』のだそうだ。
『東京都健康長寿医療センターが高齢者666人を対象に歩行状態を4年間かけて追跡調査をした。歩幅を「広い」「普通」「狭い」の3グループに分けて調べたところ、「狭い」グループは「広い」に比べて認知機能が低下するリスクが3.39倍も高いことがわかった。一方で、歩くテンポでは、「遅い」グループは「速い」グループに比べて認知機能の低下リスクに差がなかった』という。
ところで私は、中国に足掛け15年いたが、その間、日本にいたときみたいなクルマを運転する生活から遠ざかっていた。日常の移動にはバスに乗るか、歩いていたのである。
4年前に日本に帰ってきたときはそのように歩く習慣が身についていた上に、ボーダーコリーという元気で疲れを知らない牧羊犬を飼い始めたので、お天気の日は一緒に歩いている。自分の歩幅を計ってみると85 cmで、60分に5 Kmくらいの速さで、今の時期だと朝の5時から1時間半くらい歩くのだ(雨の日はホッとして休むけど)。
この新聞記事に照らし合わせてみても、私の歩き方は立派に及第していることになる。実際、日常の立ち居振る舞いで不自由を感じたことはない。しかし、実はこの頃、それでは足の筋肉を正常に保つには足りないことを自覚し始めた。
こういう運動をやってみると如実に判る。
1)布団に背を下にして寝て、両足を揃えて持ち上げる運動。脚を60度から70度位に保つ。高校の頃は体育の時間にやらされていた運動だった。これをやってみると、数秒で太ももの表側の筋肉(大腿四頭筋)が引き攣ってしまう。続けていると腹筋がヒクヒクしてくる。
2)立って、腿を下方に伸ばしたまま(膝を身体より前に出してはいけない)、片足の膝を曲げて足の裏が尻につくようにする。もちろん、付かないができるだけ近づけて、この位置を保つ。これをすると腿の裏側の筋肉(ハムストリングスと言われる大腿二頭筋)が数秒で引き攣ってしまう。
二三年前はこんなことはなかった。しかし80歳を越えると、一日置きに速歩で6 Kmの距離を歩いても、脚の筋肉の働きを正常に保つには足りないのだ。
皆さんは、どうでしょうか。人には個人差があるので、歩いているだけで脚の筋肉は大丈夫という方もあるでしょう。でも、足腰に不安を感じる方は、まずはぜひ歩いて見てください。そして、今はネットですぐに調べられますから、良い運動法を見つけて、そしてそれを毎日行ってください。歳を取ると、毎日続けるというのが大事みたいですよね。
引用:日本経済新聞夕刊20180711
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20180711&c=DE1&ng=DGKKZO3281746010072018KNTP00
『大股「速歩」で手軽に筋力アップ 歩幅目安は65センチ 正しい姿勢もポイント』
FORUM-1 に収録
(20180711)
三浦半島は小さな山が沢山連なっていて起伏の激しい土地です。先端の横須賀も、ひろい基地に連なる殆どの市内の目抜き通りは海抜1メートルにありますが、横須賀中央駅の直ぐ近くには小山があって、その頂に中央公園があります。
先週末、用事があって出掛けたついでに横須賀駅の前の店で、ビスケットを買い込んで、この中央公園に向かいました。駅から10分足らずで山頂に着きます。
横須賀の港が直ぐ足許に見え、遥か彼方に横浜のランドマークタワー、そして対岸の千葉の山並みも見えます。東の空にはトンビが三羽くらい旋回して舞っています。トンビの頭がこちらを向くときを狙って、ぼくは「カモーン」と叫びながら、ビスケットを空に投げ上げました。
二・三分これを続けているうちにトンビがだんだんとこちらに近づき、やがて数を増し、群がってきて、とうとう、投げたビスケットに飛びついて来るようになりました。最終的には五十羽くらい集まってきたでしょうか。互いにビスケットを目指しながらも、しかし互いにぶつからずにその中の一羽がビスケットを掴むのです。トンビはビスケットを足の先で掴みます。片足で見事に掴むのもいました。
一緒にカラスもやってきましたが、彼らは空中のビスケットは捕まえられずに、地面に落ちたビスケットを漁っていました。トンビに囲まれ、ビスケットを取りに掠めて飛ぶトンビの翼の音を耳元に聞きながら、「カモーン」と言いつつ投げ上げてビスケットの三袋目になったとき、子どもに声をかけられました。放課後この公園に遊びに来た小学校の低学年と思しき子どもたちが、数人近くに来ていました。
「オジサン、トンビに餌を上げているの?」
「うん、トンビと遊んでいるの」
「でもね、トンビにこの公園で餌を上げてはいけないことになっています」
「あっ、そう。知らなかった。ごめんね。これで止めるからね」
ということになって、15分位夢中でトンビと遊んだ時間は終わりました。
それから三日、大胸筋、広背筋、三角筋、上腕二頭筋、大殿筋が大いに痛んでいますが、それでも、今も、幸せな気分です。
連絡帳 に収録
作成: 2017/12/18 (月) 10:19:59
Shinpei 2017/12/19 (火) 10:47:07 ab5f4@42c01
山形さんの横須賀のトビに関するエッセイ、おもしろく拝見しました。私も数年前、会社の同期の二人と横須賀中央に近い海岸を散歩し、「油断していると急降下してくるトビに弁当をさらわれるよ」と言われながら美しい海岸と悠々と空を舞うトビのいる風景を眺めたことを思い出します。その時は数軒もの民家の軒に燕がいるのを見て、「まだ、こんなのんびりしたところがあるのだなあ」と感じました。貴兄のエッセイを読んで想像する風景と、それらの懐かしい映像が重なってくる思いです。
このごろ、以下のような惹き句を持った広告をよく目にする。
1.『ずっと続く健やかな歩みに「プロテオグリカン」 希少成分「プロテオグリカン」を贅沢に配合しました』
2.『軟骨成分の品質と含有量を極限まで追求した感動できる「プロテオグリカン」とは』
3.『軟骨成分をまるっと補える新しい軟骨成分「プロテオグリカン」配合 希少な極生だから期待できる素早い実感 1グラム3000万円以上した希少成分』
4.『「プロテオグリカン」驚きのはたらき うるうる美肌』
「プロテオグリカン」は軟骨の主成分なので、軟骨が大事な働きをしている関節の滑面がすり減ってきて、歩くと膝が痛む人には、この広告は大きな福音に聞こえるはずだ。
広告では希少成分とでているが、プロテオグリカンはII型コラーゲンと並んで軟骨の主成分だ。ただし、これを分解しない形で抽出するにはグアニジン塩酸などを使う必要があり(ほかにもタンパク質分解酵素を阻害する試薬などが必要)、1グラムを抽出するのに3,000万円の費用が掛ったというのは、その通りで嘘ではない。
この広告で使われている「プロテオグリカン」は捨てられてしまうサケの鼻骨から酢酸抽出で取られているので、昔ほど高価ではないのは事実だけど。もちろん抽出法には問題があり、これは後で触れる。
いかにも高価だった天然物質が、今はありがたく飲むことが出来て、膝の痛みが治るんだ、となると「じゃ、飲もう」飛びつく人もいるだろう。上に書いた広告の1から3までは飲み薬である。
問題は、軟骨の主成分である「プロテオグリカン」を飲んで、じゃ、すり減った軟骨が元通りになるの?ということにある。
これらの広告の内容を支える学術論文が一つあった(弘前大学の友人の先生に助けて戴いた)(文献1)。
それを読むと、平均年齢52歳の男女からなる被験者を集めてきて、無差別に二つに分け(無差別にというのは科学的実験・検証では必須の方法)、一つのグループにはサケの「プロテオグリカン」、そしてもう片方にはプラセボ(偽物、つまりべつのもの)を、それとはわからないようにして服用してもらう。さらに二重盲検法と言って、被験者がどちらを飲んでいるかわからないだけでなく、実験者も、被験者に与える時「プロテオグリカン」を与えているかどうかわからないようにすることで、得られた結果の信用性が高まる。
読んでみると色々と調べているが、II型コラーゲンの分解が遅くなったことだけが、これらの二つのグループの間で有意に異なっていた。有意というのは、これが正しくない確率は5%以下だという意味である。つまり、このサケから取り出した「プロテオグリカン」を飲むと、II型コラーゲンの分解が抑えられるといっても間違は少ないだろう、ということだ。被験者が歩くときに痛みが減ったという声もでているが、これはその傾向があるだけで統計的には有意ではなかった。
このサケから抽出された「プロテオグリカン」の化学的性状は他の研究者が詳しく調べていて、抽出のときにかなり分解していることが報告されている。もちろん、それでも服用して実際にすり減った膝が治るのなら良いが、このような高分子は食べると、必ず胃と腸内で徹底的に素材まで分解されてから、改めて身体に利用されるのだ。
つまりタンパク質はアミノ酸かジペプチドまで、多糖類は構成している単糖まで、分解されてから小腸で吸収され、身体はそれらをさらに分解して栄養とするか、それらを使って身体に必要な高分子(たとえば、自分の身体のプロテオグリカンとか)を作るのだ。食べ物を消化するのは体内に異物を取り込まないためだし、異物が入り込まないかどうかは身体の免疫機構がしっかりと見張っている。
従って、サケの「プロテをグリカン」を食べても、それがそのまま自分の膝の軟骨の中に入り込むことは決してない、もちろん広告でも、飲んだプロテオグリカンがそのまま壊れた膝軟骨を修復するとは言っていない。そのような印象を読んだ人に巧妙に与えているだけである。
ひところ流行った、コラーゲンを食べると肌が若返る、コンドロイチン硫酸が膝の痛みに効く、グルコサミンを飲むのがいい、という宣伝と同じなのだ。つまり高価な投資に、全然見合わない。
いや、きちんとした科学論文があるじゃないか、という向きもあるだろう。でも、科学的権威が高いと言われる科学のジャーナルに載る論文だって、オボカタさんの例(Natureに掲載された、どんな細胞でもp Hを変えると万能細胞になるというインチキ論文)を持ち出すまでもなく、その一部は追試できない、つまり間違いか偽物ー捏造ーなのだ。サケの「プロテオグリカン」を飲んだら効くという研究も、他の人達が追試して確認できるまでは簡単に信じることは出来ない。サケの「プロテオグリカン」には、他に低分子の不純物が含まれている可能性があり、それが効いて、軟骨の分解が抑えられたのかもしれない(もしそうなら、それはそれで大発見となる)。
この広告が宣伝するようには運ばないよと私はここで主張しているが、でも、「病は気から」と言うのも本当である。気の持ちようで人の体調は変わる。「信じる者は救われる」というのも事実だ。サケの「プロテオグリカン」が膝の痛みを治すのだと信じて飲み続ければ、効き目を味わう人があるかもしれない。
この私の文章を読んでしまった人は半信半疑で飲むことになるから、そうなると効かない可能性が高い(プラセボ効果の逆で、疑ったり、信じないと、有効のはずでも効かない)。高いお金を払ったのに、効かなくてごめんね。
ただし、4.『「プロテオグリカン」驚きのはたらき うるうる美肌』は、もし皮膚に水溶液を塗るならば効くはずだ。保水力はヒアルロン酸には及ばないが、塗れば皮膚がしっとりするというのは信じて良い。でもそのためには、「プロテオグリカン」を含む高額商品でなく、すでに市販されているヒアルロン酸を含む製品で十分だ。
文献1.Tomonaga, A., et al., EXPERIMENTAL AND THERAPEUTIC MEDICINE 14, 115-126 (2017).
FORUM-1 に収録
(20171215)
放送大学の講義で「寄生虫病」を受けている。講師はもとは麻布獣医大学の先生で、大学では1年かかって教える内容をたった12時間で教えるのだといいつつも、楽しげに私たちに講義をしている。講義の大半が済んだところで、映画「地方病との斗い」を観ることになった。
講義では、寄生虫病の一つとして日本住血吸虫についても学んだ。この吸虫に取り付かれると最終的に肝硬変を起こし、往時の人々は悲惨な最後を遂げることになった。日本で明治から大正時代にかけてこの病態を解明し、この寄生虫の生活環も明らかにして、昭和時代になってこれを断ち切ることに成功した物語が映画「地方病との斗い」である。この映画を観ての感想を書きたい。
筑後川流域、広島県片山地方、そして甲府地方の三箇所に、この日本住血吸虫症は限られている。今ではそれはこれら3つの地方にのみミヤイリガイがいるためであったことがわかっている。そして、古来からこの風土病はあったのだろう。映画が取り上げているのは甲府なので話を甲府に限るが、今では東南アジアに広く行き渡っていることが知られている「日本」住血吸虫が、大昔にどうして、どのように日本にも入って来て、そして特に甲府に、ミヤイリガイと共に定着したのか不思議である。日本にもミイラが保存されて残る気候があれば、昔のミイラを調べてその謎が解けるだろうが、発掘される骨を調べるのではわからないし、この経路は謎のまま残るのだろう。
甲府地方の農民が長い間苦しんできた地方病に焦点が当てられたのは、日本が幕末に開国して以来富国強兵に努め、徴兵制を敷いたおかげである。つまり日本の近代化とともに、この地方病に照明が当たったのだ。1874年に初めて村から「お上に」嘆願書が出された。それを受け取った山梨県令(知事に当たるか)はそれを握りつぶしたが、1886年に幸い徴兵制で壮丁の検査に当たった軍医が甲府地方の若者の発育不全とこの病気に気づいた。これが、この地方病が世に知られて関心を集めるきっかけとなった。日本の近代化への目覚めのおかげである。
映画では、多くの人たちがこの病気の解明に関わったことを紹介している。1897年には杉山某氏は遺体を解剖して虫卵を見つけている。三上三郎は十二指腸虫でもなく、肝ジストマでもなく、新種の寄生虫病であることまで突き止めた。そして1904年には桂田冨士郎は虫体を発見、藤浪は死体から成虫を発見。
映画はそこから話が急展開していく。この寄生虫がどうやって人に取り付くかを調べることになる。つまり感染源、感染手段探しである。犬のグループを二つに分け、一つには汚染地域の水を飲ませ、もう一つのグループではその水に犬を漬けたのだった。後者では100%感染が成立して、だから接触感染であることを結論づけたことを見せている。
これは実に見事な論理の展開で、現代の科学を観ているみたいだが、このようにスルスルと進める事のできる裏付けがあったのだろうか。しかも虫卵では感染が成立しないことを見つけたので、中間宿主を疑って、中間宿主探しを始める。これだって、虫卵を見つけてもそれがこの虫の卵であることを証明する手続きが必要であり、それは実際大変なものだったはずだが、ここでは省略されている。
そして多くの人たちが中間宿主を懸命に探したのだろうが、1913年(大正2年)、今名前の残っているのは鈴木実と宮入慶之助の二人で、彼らがカタヤマガイが中間宿主であることを見出した。この中間宿主探しの人たちは汚染地域の水に浸かって中間宿主候補を探したはずだが、よくぞ感染しなかったものだ。幸い宮入氏は発見の功を讃えられて、カタヤマガイはミヤイリガイと呼ばれるようになった。
これで日本住血吸虫による病気は、この虫の生活環を断てば良いことになった。だがこれは今の目で見ればこうなるが、そのときは、中間宿主の発見で直ちに、このような考えになったのだろうか。大正時代の8年間にミヤイリガイを採取して米俵96俵になったというから、ミヤイリガイの駆除をかなり早くから目指したみたいだ。この新しい目標が直ぐにできたのか、いろいろと紆余曲折、試行錯誤を経たのか、科学的観点がどのように応用されて、この地方病撲滅に役立ったかに、私は興味がそそられる。
1925年(大正14年)広島県知事から山梨県に移った本間知事は、広島県片山地方での撲滅の成功体験(石灰をまくことでこのミヤイリガイを駆除できたらしい、効果的な駆除剤としての石灰に行き着くまでの過程も知りたかった)があった。それを使って山梨でもミヤイリガイを駆除してこの病気を克服することに、県を挙げて取り組んだ。
支那事変から太平洋戦争へと突き進む日本としては、健康な壮丁を用意するために、この病気の克服に必死だったに違いない。本間知事は汚染地域だった片山地方の数十倍にもなる汚染地域を指定して、石灰を撒くことでミヤイリガイの駆除を命じたのだった。実際にこの作業の当たったのは地域の人達・農民であった。
しかし戦時中にはミヤイリガイの絶滅は実現せず、進駐軍(アメリカ占領軍のことだ)も甲府に置いた列車に研究拠点を設けて熱心に駆除剤の開発に取り組んだ。新たな駆除剤の開発だけでなく、住環境の改変も行われた。田んぼの土地を固めただけの水路をコンクリートの水路に変えることで、ミヤイリガイの住みにくい状況に変えるプロジェクトも始まった。
石灰とそれに替わる〇〇粒剤を住民が総出で撒き続ける作業と並んで、水田に泥を盛って栽培作物を変えてしまうという(その結果ミヤイリガイの棲み家がなくなる)壮大なプロジェクトも行われ、とうとう1978年(昭和53年)山梨県では日本住血吸虫の病害が根絶した。まだミヤイリガイは甲府に生息しているものの、日本住血吸虫を人から追い出すことに成功したのである。
甲府地方に広く広がっている地方病の根絶に成功した物語を見て、まさに近代文明の勝利を感じたが、それは一つには「時の利」であった。
1)西洋医学が日本に根付いて、科学教育も始まり、物事を科学的に観察することで、仮説を立ててそれを検証するという科学的な手法に人々が馴染み始めた時代であったこと。
2)顕微鏡が行き渡って医学で使われるようになって虫卵を観察できるようになったこと。
3)日本が近代国家を作るべく富国強兵策をうちだしたために、甲府の発育不全、早死の若者をなんとか病気から救わないといけなかったこと。
4)それを受けて行政、研究者が強い意志と熱い情熱をもってこの病気の解明に打ち込んだこと。つまり、近代化されつつある日本のこの時代だからこそ出来たことだ。
その結果日本住血吸虫の生活環が日本で日本人の手によって明らかにされ、この吸虫の侵襲から逃れるには中間宿主を根絶すればいいという目標ができた。音頭取りは行政であっただろうけれど、数十年にわたるこの駆除の中心になったのはその地域の住民だったことが、この映画で示されている。
WHOと日本の団体によるフィリピンにおける日本住血吸虫の駆除の努力の様子を、この映画の後に続けて観たが、住民の意識が低ければ決してそれには成功しない。翻って、甲府で駆除に成功したのは、住民の教育程度が高く、この病気を根絶するにはどうしたら良いか、何が必要なのかを住民が理解して、進んでそれに向かって邁進したからである。
甲府地方における日本住血吸虫の根絶には、この因子も実は非常に大きなものであったことを改めて認識した。先に書いた、「時の利」に相対して付け加えるなら、この住民の意識の高さは「地の利」(日本だから出来た)というべきであろうか。講師の内田明彦先生の解説にもあったが、江戸時代から連綿として行われてきた一般住民の子供をも対象とした寺子屋教育の成果に、この意識の高さは帰せられるだろう。
以上、「地方病との斗い」の筋を追いながら、この映画を観ての感想を述べた。見事な映画である。これを観ることが出来てよかったし、これはつまり放送大学の講義「寄生虫学」を受講してよかったということである。
なお、この映画はインターネットの科学映像館サイトで見ることができる。
http://www.kagakueizo.org/movie/medical/355/
左は公益財団法人目黒寄生虫館
(20171204)
FORUM-1 に収録
宅配便のドライバーはきつい仕事みたいですね。昼ごはんを食べる暇がないほど忙しいというし、最近値上げをしたとは言え、今は年末で配る荷物が多くなって、きっと殺気立っているのだと思います。
今日、グロサリーにクルマで出掛けての帰りです。ぼくの前には別のクルマが走っていました。当たり前の光景ですね。普通にクルマがつながって走っていたのです。
すると、ぼくの前のクルマが走っているところへ、左の小道からクロネコヤマトのトラックが頭を出して、急ブレーキで止まりました。危ない運転をしているなと思いましたが、まさか、そのクルマが、ぼくの前のクルマが通ったあとぼくの前に飛び出してくるとは思いもしませんでした。しかも同じ方向に合流するのではなく、右手の反対車線に入ったのです。
ぼくはびっくりしてブレーキを踏んで速度を落としたので、別に何も起こらなかったのですが、あのくらいの車間距離では、普通はどのクルマも入って来るはずがない距離なのです。
というわけで、忙しい宅配便のドライバーには同情しますが、宅配便のトラックには、うーんと気をつけましょう。
連絡帳 に収録
作成: 2017/12/01 (金) 15:17:53
この数ヶ月、KDDI-AUの代理店から電話が度々掛かって来ます。「いまお使いのネット回線はどこのですか?」「電話はどこの回線ですか?」
うちは最初はNTTでプロバイダーがSonetでしたが、その後Sonetがうるさく言ってきたので
、たしか今は光回線も(Nuro光)Sonetです。
「いま、KDDI-AUにお乗り換えになると、毎月のお支払が2千円くらい安くなります。ええ、お宅に弁当箱くらいの大きさのモデムがあるでしょ、これを交換に伺うだけです。工事費もいりません」
うまいこと尽くめの能書きを滔々と述べるので、三ヶ月くらい前に掛かった時には、ほとんど話に乗りかけました。しかし最後に、安くなる代わりに何か不都合なことが起きないのかを訊いてみました。すると「前のNTTでご満足なら、何も不利なことはありません」と言っていましたが、更に追求すると、Sonetは速度が2GBで、KDDI-AUは1GBなのだということでした。実測ではどうなのかは分からないでしょうけれど、速度が半分になることを全く言わずに勧誘しているのですよ。
こういうことを最初に言わずに隠してしつこく勧めるのは、実に不愉快に思いましたので、このときはこの話を断りました。
それでもまだ、KDDI-AUの代理店から(同じところか違うかわからないですが)、相変わらず勧誘の電話がかかってきます。「安くなりますよ」は歓迎ですが、速度が半分になることは、厳しく追及するまでは絶対に言いません。
安くなるのは魅力ですけれども、顧客に不利なことを決して言わない商売は容認し難くて、ぼくは損な性分なのですね、未だに勧誘を断り続けて、Sonetに高い金を払い続けています。
連絡帳 に収録
作成: 2017/11/22 (水) 01:51:22
昨年末、同期会の幹事の集まりがあった。
これは今年幹事をやった人達と来年の同期会を担当する次期幹事の引き継ぎのための集まりで、その帰り道一緒になった女性の同期生NOTさんがぼくに言った。
「小学校ではたくさんのことを教わったと思うけれど、担任の広田先生が教えて下さった中で、一つだけとても強く心に刻み込まれていることがあるのよ」
「それはね、国語で「大意」って習うでしょ」
「これって、ある程度の長さの主張のある文章を短くまとめることよね。そしてこのほかに「文意」ってのも習ったわ。文意は、その文章で何を言いたいのかってことよね。だから、それ以来、ひとの話を聞くと、この人、本当は何を言いたいかをまず探るようになったの。つまりとても分析的に、批判的に人の話を聞くようになったわ」
「これはね、小学校時代に担任の広田先生の教わって身についたことなのよ。でもこれはわたしだけで、他の人に聞くと、誰もそんなことを教わったなんて、覚えていないのね」
「あのね、KOKさんはね、同じく広田先生に教わった中で、客観的に物事を見ることが必要だと教わったというのよ。普通、私たちがなにか書くときは、自分の視点で書くでしょ。自分が何を感じたか、どう思ったかが中心よね。今はインターネットの時代で世の中にブログが溢れているけれど、どれも、みんなそうよね。自分の主張や考えを書いているわよね」
「それを、物事を自分ではなく別の視点から見て書くことを教わったの言うのよ。これだと作家になれるわね。もちろん、私はそんなことを覚えていないわ。でもKOKさんは、それで物書きになったと言っていいみたい」
ぼくは同じように、小学校時代の加藤先生の言葉で影響を受けただろうか。
実は、とても恥ずかしい思い出がある。それが心に残って、ずっと今までぼくの人生を律してきた。6年前になくなった妻(いうまでもなく小学校以来の同期生のさえ)にも話したことのない、心の傷だ。
確か6年生のときだったと思う。当時まだ丸刈りの頭の加藤先生は床屋に行って、自分の刈り取られた髪の毛を新聞紙に貰い受けてきた。一人ひとりの机に座っているぼくたちに髪の毛を少しずつほぼ均等に配って、これを数えて、人の頭の髪の毛の数を知ろうじゃないかと言った。
人の髪の毛の数は人によって違うはずだし、大体、数えて何の意味があるのか、と直ぐにぼくは思ったが、先生から見えるところに座っているので、ともかく数え始めた。
数千本の単位だ。白い紙の上で最初は丹念に1本ずつ動かして数えて、数え終わった毛の束を右端に作っていたが、加藤先生の髪の毛の数を数えることの馬鹿らしさに取り憑かれた。それで、これで十本、十本という具合に目分量で髪の毛の束を作って動かし始めたら、作業は面白いように進み始めた。
ところが、それが加藤先生の目に留まってしまった。加藤先生はぼくのところに来て言った。「おい、やまがた。これは何だ、ちゃんと数えていないじゃないか。初めからか数え直しなさい」
ぼくは自分の不正が暴かれた屈辱感に苛まれながら、髪の毛をまた最初から数え直した、加藤先生の厳しい視線の監視下で。
恥辱にまみれた単調な作業の中で、「加藤先生の髪の毛を数えることに一体何の意味があるのか」という疑問は消えなかったが、この単調でしかも緊張を強いる作業を合理化する唯一の道は、それを自分に納得させることだった。
つまり、他の40人が正確に数えているのに、ぼく一人が不正な数を出せば、最終の合計数字は意味がなくなり、みなの努力がまったく無意味になる。だから、これは無意味な行為であっても、自分が誠実であることで、ぼくはみなを救うのだ。
人を救うのは気持ちの良いことだ。ぼくはそれで、その馬鹿げた、しかしある意味で意味のある行為を続けることができた。
その後、ぼくは科学者になった。実験をしていると、この数字が出なければ結果は綺麗なものになるのにとか、この3回目の実験結果が逆になれば自分の仮説は証明できたのにとか、思うことが何度もあった。それでも、ぼくは実験を繰り返して統計的に意味のある結果を出して自分たちの仮説を証明するか、あるいは仮説が間違っていることを証明して仮説を破棄し、改めて仮説をたてて実験することをやってきた。
実際、研究をやっていると事前に考えた仮説が正しいと証明できるのは3割位で、あとはたいてい間違っているのだ。最初に思いつくアイデアなんてたかが知れている。予想と違った結果が出て初めて、新しい発見があるのだ。
しかし、世の中に発表される膨大な数の科学論文の1〜3割はデータに不正があったり、捏造されたなのだという。人は誘惑に負けるのだ。
ぼくは自分の研究が人を救うことになるかどうか考えたことはなかったが、実験で得られたデータには誠実に向き合い、54年間の研究生活で不正な行為は一度もしなかった。これが、あの加藤先生の髪の毛を数えることから教わったぼくの原点である。
essay-あの頃 に収録
(20170529)
79歳の春、思い立って放送大学の学生となった。心理学の勉強をするためである。
それから一年経って、今は80歳の春を迎えている。
その間、2016年の7月には前期の試験があり50年ぶりに試験勉強をして、弘明寺にある神奈川学習センターで4科目の試験を受けた。後期には、面接授業というのがあり茗荷谷の元教育大学敷地にある放送大学文京学習センターで、心理学実験、心理学英語原書講読を経験し、さらには今年の1月末には9科目の試験(一部は記述)を受けた。
一年経ってどんな具合なのか、興味をお持ちの方もあるだろう。ぼくは今80歳で、心身共に元気である。ここが肝心なところなのだが、一年前よりも元気である。実際、一年前に中断したブログも再開して、今は書きまくっている。
さて、学生となって勉強をしたから、元気なのだろうか。勉強をしてきたことと、元気になったことに因果関係があるだろうか。
A) 放送大学の学生になって、一年間勉強を続けた
B) 今は一年前よりも元気である
ここで、A)とB)を独立の事象としよう。そのとき、『B (一年前よりも元気である)のは、A(放送大学の学生になって、一年間勉強を続けた)からだ』と言いたいけれど、そう言えるだろうか。
これをA)とB)から導かれた結論としよう。
A)とB)からこういう結論を出すと、心理学を勉強した身としては、そりゃないでしょ。それは「前後論法」っていうんですよ。時系列に沿って、事前の状況と事後の状況を比較して安易にその二つをくっつけているじゃないの、ということになる。
「前後論法」であるとみると、この場合はA)がB)の原因だと結論するのは、ほかの原因を考慮しないでその原因を帰属する安易な思考方法なのである。
真の原因としては「平均への回帰」「自然な要因」「同時発生の原因」「欠落したケース」などがあるかもしれないのに、それを見落として、前後を安易に結びつけるのが普通に陥りやすい思考なのだ。
しかし、若い時ならともかく、心身ともに衰える一方の年令で一年前よりも元気というのは、「平均からの回帰」でも「自然な要因」でもないだろう。「同時発生の原因」としてはZophieとよく歩くことが挙げられるだろうが、これは二年前からやっていることだ。
つまり、B (一年前よりも元気である)のは、A(放送大学の学生になって、一年間勉強を続けた)からだという可能性が、とても高いといえるだろう。
というわけで『学問のススメ』である。頭を使うのは頭と身体の健康によいと言うが、実際、その通りですよ、という身近な例を提供しているつもりである。
ありあまる時間の一部と僅かなお金で、健康が保証されるのだ。「面倒くさい」なんて言っていないで是非試して欲しい。「面倒くさい」と思うのは老化の明確なサインですよ。
(放送大学で)勉強を続けると、心身ともに活発さを保つことが出来る!!!
ちなみに、2017年4月入学の第2回募集は3月1日〜3月20日。
URL:http://www.ouj.ac.jp
FORUM-1 に収録
(20170224)
学童疎開から東京に戻ってきたのは1945年の11月頃だったと思う。疎開のあと直ぐには戻ってこない生徒があって生徒数が減少し、ぼくたち3年2組は男女一緒のクラスとなって担任は広田先生だった。
4年生になると疎開から戻ってきた人も増えたし、新しく入ってきた人達もいて元通り学年は3組編成になってぼくたちは加藤先生の4年2組になった。
世の中の食糧事情は最悪だったが、世界は戦争中とはすっかり変わってしまった。何よりも新しい遊びが入ってきた。野球である。
ぼくたちが野球のルールを良く知っていたとは思えないが、それでもみなが家にあるものを持ち寄って、粗悪な印刷の野球ルールブックを片手に、野球遊びが始まった。ボールは軟式テニスのボールだった。ぼくは叔父のグラブをもらってきたが、左利きの叔父だったので、右手にはめるグラブを左手にはめて、とても使い難かった。
それでも、こんなお古でもあれば良い方で、必要な数の半分ぐらいしかなかったと思う。でもその中で、園田が一人だけ新品のダークグレイのグラブを持ってきた。羨ましく思いながら、いいグローブだねと褒めたものだ。あ
実際に野球をやろうということになってぼくはピッチャーを買って出た。それまでは何時も、何かと場を仕切っていたから当然のことだった。
でも、いくら投げてもストライクが入らない。「4球ボールなら一塁に行っていいんだろ」と、誰かがが抗議したが、ぼくは受け付けずに、「これでいいのだ、ボールは数えないんだ」と投げ続けた。やがてみんなが口々に抗議をして、ついにぼくはマウンドから引きずり降ろされた。
まったく運動神経のないことが友だちの前で如実に示されて、それまでのガキ大将の面目と自信が完全に潰えたという、人生最初の深刻な挫折を味わった瞬間だった。
でも、これだけでは済まなかった。深く傷ついた自尊心を自分でも扱いかねて、それを救うための代償を求めたに違いない。
なんと、新品のグラブを持っている園田のいじめに加わったのだった。4年生のときに入ってきて、たちまち辺りを席巻した悪ガキのヤント(山本修)が園田の新しいグラブを、「何だ、こんなに硬いグラブは。これじゃ硬すぎてボールが取れないね」とけなしたのである。
園田が野球少年の片鱗でも見せていたら、みなから一目置かれただろうけれど、昆虫少年だった園田の運動神経はぼく並みだったから、ヤントから見れば言い易かったに違いない。新しいグラブが羨ましくて、だからこそケチを付けたのだろうが、これはいじめである。ぼくはその尻馬に乗って、いじめに加わるという卑劣な人間となって、自分の心の痛みを補償しようとしたのであった。
しかし、この明らかに正義に悖る行為はぼくを惨めにし、それを恥じる気持ちは深くぼくの心の底に沈殿した。ぼくは園田に対する忸怩たる気持ちを抱いたまま、その後の自分の人生を生きてきた。だからその後は一切いじめにかかわらなかった。良くも悪くも人の尻馬に乗るという行為も、厳に戒めてきた。何時も、その時の良心の咎めが蘇ったからである。
先日(2016年)の同期会で久しぶりに会った園田に、やっと事の顛末の一部始終を話して、謝った。
70年ぶりに胸のつかえが降りた。お互い、生きてて、良かった。
essay-あの頃 に収録
(20170101)
加藤学級では5年生になった時、生徒のぼくたちはうちにある楽器を学校に持ってくるように言われた。
今の小学校では低学年からリコーダーやピアニカなどの演奏を習うが、当時は音楽の時間は歌を歌うだけで器楽教育の発想はなかったし、だいたいそんな楽器なんて存在しなかった。もちろん、ヴァイオリンを弾ける生徒もいなかった。当時、結構行き渡っていた楽器はハーモニカで、ハーモニカのあるうちが半分くらいあった。ハーモニカと言ってもハ長調だけでなくイ長調、ト長調などに移調した色々なハーモニカがあった。
ハーモニカのある生徒はそれぞれの調子ごとにグループを作って、ハーモニカ奏者群となった。縦笛を持ってきた人は笛のグループ。なしの人は木琴を割り当てられ、一人は鉄琴だった。あと小太鼓、大太鼓、シンバル、トライアングルにも生徒が割り当てられた。コップに水を入れて小型の笛の先を突っ込んで吹くのを担当した生徒もいる。
加藤先生はハイドンの「おもちゃの交響曲」の第一楽章を、ぼくたちの楽器編成に合わせて各パートを作り(当時のことだから謄写版ーガリ版ーで)印刷して各パートを作った。ハーモニカのためには、調子の違うハーモニカごとに移調した楽譜を作って渡したのである。
そして指揮は加藤先生。格好良かった。
ぼくは、ピアノ担当だった。姉にくっついてピアノを習い始めたばかりだったので、これを弾くのに苦労したのを覚えている。加藤先生の指揮がいくら良くても、ピアノがしっかりしていないと全体が崩れてしまうので、責任重大とばかりに一所懸命練習したのだった。
みなで練習したのは、音楽の時間を勝田先生に分けてもらって音楽室で練習したと思う。ピアノは三階の端の音楽室にしかなかったからである。
5年生の秋の音楽会がぼくたち加藤学級オーケストラの初の出番だった。
この時代に小学生がオーケストラをやったなんて、全国で初めてのことではなかったか。昭和23年の小学校6年生である。今ならマスコミで大評判になって取材が殺到したに違いない。
ぼくたちはこのToy Symphonyを演奏するのが手一杯で、他の新しい曲には手を付けることはなかった。
附中に入った時、加藤学級からは数人が別の学校に進学して人数を欠いていたが、学校側のたっての希望で指揮者なしで、この曲の最後の演奏をした。この時、初めてピアノに譜めくりが要るのではないかと言って、3組の本荘玲子さんにぼくの隣に座ってもらうからという連絡が入った。
その後、第25回音楽コンクールで入賞し、NHK交響楽団のピアニストになって活躍したあの本荘玲子である。とんでもない。あの頃でも雲の上の人だった。恐れ多いだけではなく、あちこちごまかして弾いている手元を本荘さんに見られてしまったら、弾くに弾けないではないか。やっと、お断りを認めてもらった時には冷汗三斗だった。
ぼくはその後大学のオーケストラではクラリネットを吹いたし、アメリカに留学したときはシカゴでアメリカ音楽学校に行ってフレンチホルンを習った。結局、ピアノを含めてどれも物にならなかったが、音楽は大好きで、自分の時間の3分の1くらいは音楽を聴くのに使ってきたような気がする。
essay-あの頃 に収録
(20161211)
小学校を卒業してから70年近く経ちました。それでも、個々の場面は深く心に刻みこまれています。もちろん、心理学でいう記憶の変容で自分の都合の良いように変わっているはずですし、ボケもあるでしょうし、本当にあったことからは離れているかも知れません。
事実は一つしかないのに、歴史は人によって(国によって)様々ですものね。
2004年の第20回参議院議員選挙の投票日が近づいたときに、私は中国にいたので国政選挙では初めて棄権しました。棄権したことで想起して、小学校時代のクラスの討論会のことを当時のブログに書きました。それを多少書き直して、ここに載せます。当時のクラスの討論会風景です。
たった一票のことかも知れませんが、ひとりひとりが全体の意見を作るのだという意識は昔から変わっていません。この民主主義の原点は、私たちが1945年の敗戦を小学校の3年生で迎えたところにあると思っています。
私たちは物事の善悪の判断が付く年齢の時に、すべての価値観がひっくり返るのを目の前にした世代で、しかも、戦後の教育が混乱している時期に小学校の高学年だったという、かなり特殊な年齢層に属しているでしょう。
敗戦後の混乱のなかで、クラスの自治会はかなり早く導入されたように記憶しています。学校側が決めた級長はなくなり、その代わり級長(クラス代表)はクラス全員の投票で選ばれるようになりましたし、小さなことでも自分たちで討議して物事を決めるという経験することになりました。
小学校が教育の実験校だったためか、敗戦の直ぐ次の年にはそれまで四十人足らずのクラスが6人単位の班に分けられて、そこが勉強の単位となり、意見を言う単位ともなりました。分団と呼ばれていて、わたしの班の班長は、落ち着いて面倒見の良い、そしてしっかりと自分の意見を持って人を導くことの出来る、いってみればみんなの父親みたいな田宮務でした。実際、彼のあだ名は「おとうさん」でしたね。
その後何年も経ってお互いが青年となって再開したとき、彼の方が背が低いことに大変驚いたことを覚えています。私たちの信頼と尊敬を集めていた田宮は、それほど記憶の中では際だった大きさでした。人の偉大さは、身体まで大きく見せるというのは本当のことですね。
クラスの自治会では身の回りに関わることは皆で議論して決めました。クラスの担任の加藤嘉男先生はよく議題を持ち出して、私たちの発想と議論の訓練をしました。
あるときは「戦勝国が負けた国の指導者を戦争犯罪人として裁いて良いか」という題が出されました。
この時はクラス全員が班とは関係なく、YESかNOの自分の意見に従って実際に教室の右と左に分かれて、意見を戦わせたのです。
私は「日本が負けたのは軍部が独善的に国を支配したからだ」というその時の時流の意見を信じていたので、YESの方に座りました。YESの側には、いまでは行方不明の山本修がいて、頑張って発言していたのを覚えています。
しかしNOの方には兄貴とも頼む田宮も、その後大蔵官僚になった図抜けて頭の良い大須敏生もいて、「連合国は勝ったから負けた日本を裁いているのであって、論拠はそれだけである。日本には戦いを挑む理由があったのだ」という理由で「勝ったからと言ってあのような裁判を行うのは間違っている」と主張しました。
戦犯裁判を是認する側は言い負かされてしまい、結局クラスの総意は、戦勝国が敗戦国を裁くのは間違っているという意見となったのです。
これは戦犯を裁く東京裁判の行われているその頃でも、表だって世の中では言われなかった意見に違いありません。
私は理路整然と裁判是認側を論破する田宮と大須の二人に聞き惚れて、ついぞ彼らへの反対意見が心中に浮かばなかったことを覚えています。「戦勝国の横暴」という言葉も「アメリカ帝国主義」という言葉もまだ使われていなかった時代だったと思いますが、「軍部が悪いという単純な図式」だけで世の中は動いていないことをこの二人は理解していたと思います。一方で人の世の複雑さが分かるには、私は幼すぎたということが、今振り返ってみると良く分かります。
これが何時だったのか、いわゆる東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われたそうです。判決がでてからですと6年生の後半になるので、おそらく裁判の途中の5年生の後半から6年生の前半に掛けてではなかったかと思います。発達心理学では自分自身から離れて物事を抽象的に見る能力は小学校の高学年になって形成されると言っています。
とすると、この時期のこの小学生は凄いですね。と言っても、田宮や大須のことですけれど。
東京裁判の判決が出るよりも、平和憲法公布の方が先でした。憲法の内容をクラスで討議したかどうかの記憶はありませんが、自我の形成期をこのように自由に意見の言える雰囲気で過ごしたので、個人個人が自分の意見を持つと同時に、集団全体のために知恵を出し合うことが全体の利益であり、したがって個人が選挙権を行使するのは当然の義務であるという考え方が、しっかりと身に染みついたのだと思います。
長じては、ほとんど無意味に思える一票ですら、棄権出来なかったのですから。
essay-あの頃 に収録
(20161116)
附小S24の2組の加藤学級が、小学校4年生の時から5年生のはじめにかけて分団ごとに発行した雑誌から選んだ文章を、加藤嘉男先生がまとめて、技報堂から1947年12月に発行された「子供の町」はれっきとした本です
加藤嘉男先生のまえがきの最後をここに引用します。
ーーーーーーーーー
「このぐらいの文ならぼくにも書ける」
「この位の絵なら私にも画ける」
という方があるでしょう。一つ書いて下さい。もっと良い「子供の町」を作って下さい。そうして新しい希望と、勇気に燃えて、毎日毎日の生活を楽しく送って下さい。「子供の町」が「大人の町」 になる頃の日本は、きっと生まれ変わったような世界の日本となって、世界の人達から、日本人の働きが喜ばれ、世界の人々のために、日本がなくてはならない国となるようにしましょう。
ーーーーーーーーー
私たちは加藤先生のまえがきに書かれているように、その通りに、大人になって、「日本は、生まれ変わったような世界の日本となって、世界の人達から、日本人の働きが喜ばれ、世界の人々のために、日本がなくてはならない国」となることに貢献しました。
この本は日本の敗戦後の混乱期に育った私たちの宝です。私たちは、このお陰でその後文章を書くことが日常当たり前にできるようになりました。
いま、この「子供の町」の先にくるものを、2組の人たちだけではなく同期の人達と共有できないかと言う思いで、この同期会HPを立ち上げることを同期会に図って賛同を得ました。
(20161024)
子供の町」の定価は110円でした。昭和22年から物価は大雑把に言って40倍になっているそうです。とすると、「子供の町)は、いまですと4400円の定価となるので、かなり高いという印象ですね。
(20161027)
附小の2組の本「子供の町」の内容をWebで公開しています。2016年の年内いっぱいの公開です。
(20161101)
「子供の町」は、Webcat plusというネットに載っています。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/117861.html
45014109という書誌番号をもっていて、国立国会図書館に収蔵されているみたいです。
(20161102)
FORUM-1 に収録
一番上の1列目左から:三段崎敏行(1組)、田中努(1)、細野明(1)、
2列目:小泉繁久(1)、堀池正(1)、青木健(2組)、山田玲子(3組)、田中公子(3)、若林茂(1)、鈴木素彦(1)、近藤鎮子(3)、田畑てるね(3)、
3列目:小路稠子(3)、山形達也(2)、梅沢節子(3)、苅部良子(3)、依田信一(1)、野呂雄二(2)、上井達雄(1)、小笹和彦(1)、中村忠晴(2)、青木宏子(3)、
4列目:園田太嘉雄(2)、本間盛太郎(1)、千葉(2)、
5列目:永峰雅子(3)、石橋公行(2)、武藤重治先生、牧壮(2)、饗場一雄先生、加藤嘉男先生
ひもじい。ヒモジイ。
お腹が空いたなんてもんじゃない、何時もお腹がペコペコ。
空腹を抱えたぼくたちのお気に入りの遊びは、東京のうちで親と暮らして幸せだった頃食べたおやつの名前を言うことでした。
チョコレート
アンパン
ドーナッツ
白玉。。。
ぼくが学童疎開の第三期として、中央線に乗って松本に行ったのは敗戦を迎えた昭和20年・1945年4月29日のことだったと記憶しています。
松本での宿は浅間温泉旅館でした。あの疎開騒ぎの時代とは言え、温泉旅館何軒かをぼくたち学童疎開の生徒たちが占領できたのは、すごいことですね(ぼくたちの東京第一師範学校の地位が関係していたのではないでしょうか−これは後の若林さんの記録によると、単に世田谷区の学校だったからだということがわかりました)。
大学の数は戦前のことですからまだ多くなかったし、先生を教育する教育機関は、東京高等師範学校(後の教育大学、筑波大学)、東京女子師範学校(御茶ノ水大学)を二つの巨峰として、ほかには東京師範学校(東京青山師範学校ー>東京第一師範、東京府豊島師範学校ー>東京第二師範、東京府大泉師範学校ー>東京第三師範)しかなかったと思います。その附属小学校ですから、何かと幅を利かせていたのではないかな、と今思い返しています。
その温泉旅館が亀乃湯だったか、菊之湯だったか、記憶が曖昧です。姉は西石川旅館か東石川旅館にいたように記憶しています。今インターネットで浅間温泉を調べると、菊之湯は出てきますが、馴染みのある名前は他には一つも見当たりません。栄枯盛衰ですね。
(牧さんによると、亀の湯だったそうです。今は残っていないとのことです)
旅館には、子供心にはプールほどの大きさに映った浴槽があって、入り放題ということはなかったと思いますけれど、そこで入浴のときにハンカチや、制服の襟につける白いカラーなどを洗っていました。洗ったあと折りたたんで手のひらでパンパンと叩いて伸ばすと、乾いたあとはアイロンを掛けたように皺がなく干し上がります。
東京で暮らしていた時には自分で洗ったことなんてありませんから、出かける前に母に教わったのでしょう。面会に来た母がこれを見て涙を流していたことを覚えています。
松本の小学校では、地元のクラスの一部に先陣で疎開していた学童仲間の一人の白井が歓迎の挨拶をして迎えてくれました。それに答えて何か言うように誰かに指示されましたが、ぼくは親元を離れた悲しみにまだ打ちのめされたままで、まったく何も言えなかったことを覚えています。
あの頃のことですから、「勝つまで頑張ろう」とかいえば良かったのでしょうけれど、ぼくは世間的な常識のないごくごく内気な生徒でした。
この松本の小学校で何を勉強したか、それよりも、学校に通って勉強したかどうかの記憶はまったくありません。覚えているのは何時もお腹をすかせていた情景だけ。
チョコレート、アンパン、ドーナッツ、、、と言いつつ、お腹がグーとなる。
でも、これらの名前が出て来なくなると、人間らしい暮らしから切り離されて、つまり人間ではなくなってしまいそうで、必死に、食べ物の名前を思い出していました。
Document 集団疎開 に収録
(20161211)
あの時代は、食料配給制の時代でした。それでも、と言うかそれですから、1945年の3月末(ぼくが遅れて松本に行ったのは4月29日だったと思います)に松本の浅間温泉に東京から行って分宿し、そして6月3日には下伊那郡上久堅村に再疎開した私たち学童の食べ物を手当するのは、簡単なことではなかったはずです。
一緒に上久堅村で学童と暮らした、饗場先生、加藤先生、山崎先生、武藤先生たちが、その任に当たって、食料の確保に必死の思いだったでしょう。
その時の写真を見るとこの先生たちは骨ばかりにやせ細っています。それに比べて、上久堅村小学校の校長先生の脂ぎった体格といったら、実に対照的です。
上久堅村での先生たち:
男の前列、左から武藤、加藤、饗場の各先生。その隣がこの学校の校長先生、一人置いて山崎先生。
写真の手前で見るように、校庭は芋畑になっている。後ろの建物は、天皇皇后の「御真影」の入っている奉安殿(あの時代はどこの学校にもあった。奉安殿という名称が思い出せなくて、博覧強記の若林茂さんに尋ねた)
食料が乏しいといっても、それでも、おやつが出ました。最初は、湯のみ茶碗に一杯の炒った大豆でしたが、すぐに少なって、一人10粒となり、すぐに6粒に減りました。
ぼくたちは、炒った大豆を紙の上に置き、その種皮を剥いてそれを別の山にして、裸になった大豆(将来子葉になるところ)を二つに分け、さらに芽(と呼んでいますが実際は幼根)の部分を別にします。それからはゆっくりと、剝いた皮を一つ一つ食べ、芽の小さな硬い塊を前歯で噛み、最後に半分ずつにした子葉を、時間かけて噛み砕いて食べました。
カイコの蛹も食べました。蛹は、繭を作ると不要になりますから、繭ごと茹でてしまい、聞いた話では鯉の餌になっていたそうですが、食糧不足、タンパク質不足の学童たちに時々おやつに出てきました。それも一人あたりニ三個ぐらいだったように思います。
食べ物に事欠く時代でしたから、蛹は栄養豊富なありがたい食べ物だったでしょうけれど、あの独特な匂いは好きになれず、口に入れて食べるのには苦労しました。
その後、21世紀の中国に行って11年暮らしましたが、カイコの蛹はご馳走の一つなのですね。蛹は茹でたりしないで生のまま出てきます。もちろん、ぼくは食べられませんでした。
同じ瀋陽薬科大学では日本語の教師だった加藤正宏先生と親しくなりました。彼はぼくより十歳以上若く、もちろんあの時代の食糧難を知りません。彼はカイコの蛹に、「おいしいですよ、食べてご覧なさい。ヨーグルトを食べているみたいに美味いです」と舌鼓を打っていました。
そう言って食べるよう勧められたぼくは、その後当分、ヨーグルトを食べるどころか、思い浮かべるだけで胸がむかつきました。
Document 集団疎開 に収録
(20161212)
浅間温泉の各旅館に分宿していたぼくたちに、東京から親がよく会いに来ました。
あの頃の列車事情を考えると切符を手に入れるのも、乗ってくるのも大変なことだったと思います。日本はB29による都市の爆撃だけでなく、艦載機のP51 が始終やってくるようになっていて、汽車などは機銃掃射の格好の標的でしたから、定時運行なんてなかったし、何時も命の危険にさらされていたわけです。一年上にいた姉の話によると、多分甲府大空襲(7月7日)の時でしょうか、汽車が中央線の大月あたりで機銃掃射を受け、乗っていた車両がトンネルに入っていたお蔭で助かったと聞いたこともあったということです。
松本に行って1週間位後には沢山の荷物を持った母が来ました。ぼくたちへの食べ物の他に、きっと母のことですから先生たちにも持ってきたと思います。
姉も学童疎開で一緒に浅間温泉に来ていたので、先生のはからいで姉弟二人は旅館の三階の別室で母と一緒の時間を過ごしました。
母の心づくしのごちそうを久しぶりに貪欲に食べました。海苔巻き、お赤飯、濃い味で炒めた牛肉、ほうれん草の和物など、東京で普通の暮らしでは手に入れるのは困難だったでしょう。子どもたちのために、あちこちの伝手を頼って手に入れた品々に違いありません。
その後、赤ん坊に戻ったみたいに、と言うか文字通り赤ん坊みたいに、母の膝にすがって思い切り甘えているうちに、たちまち時間が過ぎて、母が東京に戻る時間になりました。
ぼくは、三階から階段を降りてきてニ階に着く直前の階段の踏み板のところで母の両脚にしがみついて、思い切り泣きました、泣けば、母が帰ってしまうという悲しい現実が転換して、このままの状態が続く現実となるに違いないと必死な思いにすがって、激しく泣き続けたのです。
でも、もちろんそんなことは起こらず、ぼくをなだめる姉にぼくを託して母は去って行きました。
ぼくはその時初めて、世の中には自分ではどうにもできない無情なことがあることを身に沁みて知りました。
この出来事で別に賢くなったわけではありませんでしたが、あの時以来、無心な子供の目に加えて、自分を突き放して観るもう一つ外の目を得たような気がします。
Document 集団疎開 に収録
(20161228)
浅間温泉も危ないと言うので、私たちは飯田市から山奥約3里のところにある長野県下伊那郡上久堅村に移動しました。たしか、1945年6月3日でした。
3年生と5年生がこの上久堅村に移り、私たちはさらに二つのお寺に分かれて住みました。ぼくは興禅寺でした。もう一つは玉川寺で、小学校を含めてこの三つが山の小さな盆地の中で三角形を作っていました。
でも小学校に行って勉強した記憶がまったくありません。
ぼくたちは毎日、村の人達の暮らしを手伝っていました。薪運びは、小さな背中に薪の束を縄でくくりつけて運ぶのですが、小学校3年生のことですから、知れた量ですよね。
松の根を掘るのもやりました。松の根を掘り出して絞ると松根油が取れて、これが飛行機の発動機を動かすのだと教えられ、「お国のためになるんだ」と、とても誇りに思いながら、汗を流して松の根を掘りました。もちろん、実際にはじゃまになるだけで、一番働いたのは先生たちだったでしょうけれど。
「おーかーにはーためく あーのー日の丸をー あーおーぎながーめる われらーのひとーみ」
と歌いながら、ぼくたちは籐かごを背負って道を歩きました。道と言っても、今の舗装道路ではありません、石と土が踏み固められた道です。カイコの飼育は軽作業でしたから、ぼくたちの仕事のメインでした。
桑の葉のついたまま小枝を鎌で引き切って、それを背中に背負った籐かごに入れて農家に運ぶと母屋の二階が大抵は蚕室になっています。蚕室に入ると、静かな中にサワサワサワと明瞭な音が聞こえ、おカイコさんが桑の葉を食べています。その上に新しい桑の葉をおくと蚕が移ってくるので、新しい棚に移し入れ、古い棚の食い残りの桑の葉と、緑色の糞を掃除するのが日課になりました。
画像はネットから借用
4齢から5齢位になると幼虫は子供の指よりも太く、手のひらに載せると前の方にある三対の手の感触と、後ろの方の4対の吸盤付きの肢が手のひらに吸い着く感触がなんとも言えず心地良かったことを覚えています。
雨で濡れたままの桑の葉をやってはいけない、おカイコさんが死ぬからと言われていたのに、葉っぱを拭くのをいい加減にしたときは翌日おカイコさんの死骸と対面することになり、手抜きをしたことを大いに恥じました。
6月には麦を刈りました、左手に麦わらを束にしてしっかり握り、右手ののこぎり鎌を引ききって刈り取り、収穫することを覚えました。
稲の害虫のニカメイガを追い払うために、ぼくたちは畦に並んで一斉に歩いて害虫を追いました。イナゴの出る時期になると、紙袋を片手に持って、これも畔を一斉に歩いてイナゴを捕まえて紙袋に入れて、それは、あとでお寺に帰って大きな鉄鍋に入れて大きな木の蓋で封じて囲炉裏で焼いて、みなのおやつになりました。
イナゴは香ばしくて美味しかったけれど、秋になってイナゴがいなくなったときはコウロギを捕まえて鉄鍋で蒸し焼きにして食べました。今から思うと、雑食性のコオロギを食べたなんて、驚きですね。
「岡にはためく あの日の丸を」は今調べてみるとサトウハチローの作詞でした。古賀政男の作曲です。サトウハチローの「お山の杉の子」もぼくたちの愛唱歌(佐々木すぐる作曲)で、今は歌われていない3番も、ぼくたちは仕事をしながら歌っていました。
「こんなチビ助 何になる」
びっくり仰天(ぎょうてん) 杉の子は
思わずお首を ひっこめた ひっこめた
ひっこめながらも 考えた
「何の負けるか いまにみろ」
大きくなって 国のため
お役に立って みせまする みせまする
これと同じメロディーで、次の替え歌も歌っていました。
アッツ、タラワ、マキン島
大宮島や サイパンを
敵に取られた くやしさは
小さい ぼくらも 忘れない 忘れない
Document 集団疎開 に収録
(20170208)
ぼくの学童疎開5 興禅寺の生活
興禅寺の食事風景の写真が残っています。上久堅村での生活の写真はあの当時、加藤先生が撮ったのだと若林茂さんが言っていますが、ぼくは誰が撮ったかは覚えていません。それがもし本当なら、戦後も2組の写真が沢山残っていてもいいはずなのに、先日の同期会(2016年10月20日)のときに会場で映すからと言って同期生から写真を集めたところ、3組が一番多く、1組がそれにつぎ、2組の写真は学年共通の公式の写真以外には殆どありませんでした。
その、お寺の本堂での食事風景ですが、細長い座卓を囲んで坊主刈りのぼくたちが座わっています。食卓の上にはどんぶりにご飯が山盛りに盛られているのですね。
こんなことは信じられません。絶対、これはヤラセに違いないと思います。証拠があるから、このときはこれを食べたのでしょうけれどね。
ぼくたちは何時もお腹をすかせていましたが、親代わりの先生たちに何時もしっかりと見守られていたと思います。加藤先生は上久堅村までは一緒で、ぼくたちは村での作業のときは何時も加藤先生に率いられていました。加藤先生は7月初めには赤紙で招集されて、兵隊姿で村をあとにしました。興禅寺に残ったのは饗場先生と山崎先生でした。
山崎先生は5年生の担任だったのでしょうが、山崎先生は母上も一緒でした。学校と一緒に疎開して学童の面倒を見る責任を負うことになったにしても、母親ひとりを東京に置いて行くことは出来ず、それで一緒だったのでしょう。この母上も寮母のような存在として、ぼくたちの世話を焼いてくれました。
ぼくたちはこの母上には、母親のような甘えを感じていましたが、それでも、彼女に訴えたことはすぐに先生に通じるわけです。それでどんなに優しい人でも、為政者に通じる人には心を許してはいけないという世間的知恵をここで学んだ記憶があります。
あと二人の若い女性の寮母さんがいた記憶がありますが、学校の関係者だったのか、あるいは村の人だったのか、覚えていません。
ぼくたちの日課の一つにシラミ退治がありました。
何十人という学童がいるのに、お寺には風呂を増設しなかったと思います。そんな資金はなかったでしょうし、できたとしても燃料の手当が出来なかったでしょう。どのくらいの頻度で入浴したか覚えてません。たまにしか入浴しない身体も衣服も清潔ではなかったし、栄養失調でしたから、シラミがたかるのには絶好の条件でした。
下着を脱いて裏返して縫い目に潜んでいるシラミを見つけて、両手の親指の爪で挟んでつぶすのです。ろうそくの蝋を見つけてきてこの上にシラミを置き、虫眼鏡で太陽の光を集めて焼き殺してj暇つぶしをする学童もいました。
南京虫に刺される痛みは戦後になって覚えましたが、学童疎開の時にはいませんでした。夜はノミに悩まされました。いざノミ退治というと、昼間の本堂の畳の上で30cmくらい飛び上がって逃げるノミを、ぼくたちの多数の目でとり囲んで、たいてい捕まえて殺していました。それでも毎晩ノミの襲撃で、薄い血を吸い取られていました。
Document 集団疎開 に収録
(20170406)
上久堅村の興禅寺では本堂をぼくたち東京の学童のために明け渡してくれました。
その本堂がぼくたちの生活の場で、食事部屋であり、勉強部屋であり、そして寝室でした。寝るときは雑魚寝ではなく、それぞれが自分の布団を敷いて寝ていました。あの数の布団はぼくたちが東京から運んだものではなく、村で手当したのだろうと思います。夏だからまだ薄くてよかったのでしょう。
夏を過ごしましたが蚊帳(かや)はなかったと思います。山を降りた飯田市の安養寺では蚊帳を使っていましたから、山の上の冷えた温度では蚊が生きていられなかったのか、欠食児童のぼくたちの血では蚊も生きていられなかったのか、あるいは蚊帳もないほど貧しい農村にぼくたちは入りこんだのか。
3年生ですとまだ寝小便をする生徒もいました。毎朝みなにからかわれていましたね。それがきっとトラウマになってまた、その夜もおねしょをしていしまう、の繰り返しだったでしょう。
ぼくたち学童のために、本堂の裏にはトイレが3つくらい、これも急造された廊下伝いで行けるように作られていました。汲み取りでしたから、誰かが時々はその汲み取り作業をしたのでしょう。ほかに人がいたとは思えませんから、先生たちか、ほかにも5年生がやっていたかもしれません。
3年生のぼくたちから見ると、2年年長の5年生は大人同然の巨人で、権力者で、命令者で、略奪者でした。それですから、彼らに良い思い出はありませんけれど、今から思うと、5年生はあの山寺での生活を支える一部になっていたに違いないと思います。
上久堅村の学童は突然の闖入者のぼくたちを「とうきょっぺ」とよび、ぼくたちは彼らのことを「いなかっぺ」とやり返していました。喧嘩をしたことはありませんが、ぼくたちは各班ごとに行動していて、彼らと一緒に遊ぶことはありませんでした。
それでも「とうきょっぺ」は珍しかったためか、ぼくは村の女の子二人に「たっちゃあ」と呼ばれて可愛がられ、始終食べものを貰いました。ぼくをお寺の外に呼び出して、彼らが食べ残してぼくのために持って来てくれた「お焼き」を呉れるのです。ぼくはその場でそれを夢中で食べました。
清潔とはいえない手で握りしめてきたお焼きを、ぼくも手を洗うことなく掴んで大急ぎで食べていたので、多分そのためでしょう、ぼくは何時も下痢をしていて、今でもあのトイレの中が目に浮かびます。下痢続きでやせ細ってしまったぼくを、両親が7月の終わりには迎えに来て東京に戻りました。幸いうちは空襲で焼けていませんでした。
それで終戦の詔勅は、真っ青な空のもと庭の大きな銀杏の木の根本でラジオを聞いた記憶があります。ぼくには天皇の言葉はまったくわかりませんでしたが、父が、うっそりと笑みを浮かべて「やっと終わった」と言ったことは覚えています。
10月には再度上久堅村に戻ってみんなと一緒の集団生活を続け、11月初めには疎開生活を終えて東京に戻ってきて、ぼくの半年間の学童疎開は終わりました。
(20170808)
後列左から三人目:加藤嘉男先生。右から二人目饗場先生
前列左から武藤先生。一人置いて山崎先生。
昔からチビの部類で運動神経欠如の私から見ると、運動神経抜群の岡本さんは2組加藤嘉男学級の英雄でした。運動会、水泳大会ではいつもヒーローで、1組と2組の対抗野球試合では2組のエースで4番、女性クラスの3組からも熱い声援を送られていました。
6年生の時の水泳大会の50m競泳では、同じ2組の須賀次郎さんがライバルで、二人同時に飛び込んだのに岡本はすぐに泳ぐのをやめて立ち泳ぎをしているじゃないですか。私たちは声をかぎりに「オカモト!何してんだ、泳げよ!」と叫び続けました。須賀から15mくらい引き離されてから泳ぎ始めた岡本は、私たちの大歓声を受けながらなんと最後のぎりぎりで須賀を抜き返したのです。後で聞くと、「飛び込んだらパンツの紐が解けてしまってね」とのことでした。この時の須賀さんは完全なヒール役でした。
なお、須賀次郎さんは言うまでもなくその後は日本のダイビングの草分けとなり今やレジェンドとなりつつも未だ先頭に立って活躍中です(須賀次郎)。山形 達也
土方さんとは附小では別でしたが、附中では同じクラスでした。私も同じ東横線・都立大学(小学校に入った頃は都立高校)駅に住んでいましたし、子供の時から怪我の時には土方さんの父親の経営である土方医院にかかっていましたが、お互い顔を知っている以上の付き合いありませんでした。
大学の受験では東大に受かっているのに慶應に行ってしまった土方さんの名前が記憶に残りましたが、疎遠のままうち過ぎた60年を経てやっと二人の間に交流が生まれました。それは2014年に中国から帰ってきて、それまで数十年ご無沙汰していた附中同期会に顔を出したところ、今までの不義不忠の埋め合わせに次の同期会の集まりの幹事をしろと言われたのがきっかけでした。
日本の事情が少しわかってくると、同期生より私の方がPCやネットに詳しいことがわかったので、童喜会のWebsite作りを提案して実際に公開のSiteを作って、同期生のためのWebsiteを始めました。もちろん同期生の方々からの投稿があってはじめてWebsiteが維持できるのですが、その貴重な寄稿者の一人が土方さんでした。
土方さんは日本を遠く離れた米国在住のためでしょうか連絡をすると、友達でもなかった私を懐かしんでくれたのか、お互いの間でメイルのやりとりをするようになり、そのおかげで彼の優しい心遣い、思いやりに満ちた心情に触れることができました。
土方さんとは数年間のお付き合いでしたが、彼の逝去の報に接して悲しみと同時に温かい思い出が心に満ちてきます。彼は今年の1月に亡くなってしまいましたが、同期生の私たちはこの世を去る時期が多少前後しているだけです。
また会う日まで!の悲しみです。 山形達也
キヨべとはクラスが一緒になったことがないので附中時代は話したこともないのですが、キヨべに憧れている人が多かったのではないかと思います。親友の一人がキヨべに恋焦がれて大いに悩んでいたので、こちらは奥手の子供ながらもドキドキして眺めていました。
その影響でしょうか、中3の京都修学旅行で行きの列車に乗っている間、キヨべの好きだと言うヴェルレーヌの詩「秋の日の ヴィオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」を一所懸命覚えようとしていた記憶があります。もちろん、覚えられませんでしたけれど。
胸に模様の入った青いセーターを何時も着ているキヨべでした。そのキヨべと何時も一緒にいたのが、十年後に私の妻となった三枝貞子だったのです。
悲しみを噛み締めています。山形 達也
内田 勲さんは附中で私とクラスが違ったので、一年前までは全く知らない人でした。2022年6月谷弘志さんの追悼の集まりがあって赤坂の店に早く着いて座っていると、後から入ってきてテーブルの真向かいに座った人がいました。誰だかわからず「あなた誰だっけ?」と声をかけると「内田です」と返事が返ってきたので「あ、マスク外してみて」。
マスクを外した内田さんの顔はすぐに昔の印象に結びつきました。これが内田さんとの60年来初めての会話でした。
2022年の秋にそれまで存続した同期会は解散して、その後は有志の集まりの「童喜会」と変わりました。私はその世話人を志願したので、その後は自然と内田さんにもメイル(もちろん、同期生に送る一斉メイル)で頻繁に連絡するようになりましたが、驚いたことにはメイルを送ると必ず、しかも直ちに内田さんから返事が来るです。忙しいに違いないのに、いつも必ず、直ぐにです。
2023年の春からは慶應大学大学院博士課程に入るつもりだと聞いていたので、お正月の挨拶では、「頑張れ がんばれ 内田!」と書いて送りました。すると彼は返事の中で、「自分の話し方を、山形さんのように、論理の筋道の通った話し方に、変えるのを目指している」と書いてきたのです。
事務的なメイルを送るだけの約2ヶ月の短い付き合いで、山形は論理の筋道の通った話し方をする、と言われるなんてあり得ないと思いました。理系人間に関する一般的な見方に基づく言葉に思えたのです。それで、ほんとかなと喜ぶよりも単なるリップサービスに聞こえるよ書き送りました。
すると内田さんは、自分の生き方として今まで口先だけのサービスは絶対にするまいと誓い、それを実行してきた、国内外の何万人もの社員をまとめて成果を出し続けるためには、自分がやりたくないことはやらせない、言わない、を守り通してきた、だからあのように書いたのは自分の心情の発露なのだと書いてきました。
私はなぜあのように自分が反応したのかを、自分の生き方を振り返ることで総括しました。そして、元来全くのダメ人間だったけれど、生まれ持った性格に反する懸命の努力をして、色々と学んで人として成長してきたと今は思う、今の自分があるのはほとんどが結婚した(小中高の同期生だった)三枝貞子のおかげだと書きました。
これに対して内田さんは、自分も心情を吐露したけれど、山形も同様に心情を曝け出して嬉しい、さらにいうと、山形に親しみを感じていたのは山形が三枝貞子と結婚していたと知ったからだ、あの三枝さんが選んだ人なら、間違いない男だと直感したことも事実で、確かに短い付き合いだが、直感が正しかったことを嬉しく思っているという返事でした。
彼の返事は私の琴線に見事に触れました。さすが多くの人の上に立った人です。経営の才能もさることながら、人として実に誠実で見事な人物であることに感銘を受けました。
このような人にこの歳で出会うことができた喜びは大きなものでした。しかし、それをゆっくりと味わう時間もなく内田さんは世を去ってしまいました。短い期間ながら濃い関係を持つことができたことを、喜びと悲しみの綯い交ぜの気持ちで振り返り、還らぬ友を偲んでいます。
「自分の国は自分で守る」、そのためには国内にしっかりした「ものづくり」を守り育てることが必要であるという内田さんの信念を多くの人たちが継ぐことを期待します。 山形 達也(20231120)
小学校の時の同級生だった田宮務が亡くなったと聞いて、びっくり。会おうと思ったら会うことが出来たのに、何時でも会えると思って先延ばしをしていた自分を後悔して、知らせのメイルを読みながら、涙があふれた。
この歳になれば、何時だれが死んだっておかしくないことは百も承知している。でも田宮は、小学校を卒業して以来、変わらない若々しい面影のまま私の心に住みついているので、晴天の霹靂の思いだった。
昭和20年末の東京第一師範付属小学校で私は、その一年前に縁故疎開や学童疎開で離散した生徒を集めて男女合同で再開した3年生のクラスだった。疎開に行ったまま戻ってこない生徒数の減少を補って、4年生、5年生のはじめに補欠募集をして生徒が増えて、再び私のクラスは2組の男子クラスになった。
田宮が入って来たのはこの4年生の4月からだったように思う。正確には覚えていない。戦後の小学校教育はそれまでと大きく様変わりして、クラスの中に5-6人くらいからなる班が作られて、そこが学習の単位、自治活動の単位となった。
この班割りが、担任の加藤先生に依るものなのか、自主的なものなのかも今は覚えていないが、気付いてみると、私は何時も田宮と同じ班にいた。
何時のころからか、私はクラスで「お嬢さん」というあだ名を貰い、ことごとに山本とか野村とかの悪童どもに、あだ名がお嬢さんだからという、それだけの理由でからかわれていた。
田宮は「おじいさん」と呼ばれていた。これは田宮が温厚で、決して荒げた態度を人に示すことがなかっただけでなく、彼が述べる意見には人を承伏させる重みがあり、何時も大人の判断力を示していたことを全員が認めていたからだろう。
田宮は私がいじめられていても特にかばうことはなかったが、私が悪童どもに追われて半泣きで教室に逃げ帰ってくると、彼らに向かって「もういいじゃないか」というのだった。私に向かっては元気ないじめっ子も、田宮には歯が立たなかった。田宮の身体が大きかったと言うことはない。私と変わらない小柄な背丈だった。それでも、悪童は田宮に言われると威圧されて、私にそれ以上何も出来なかった。
勿論、そのくらいだから、田宮が私をお嬢さんと呼んで嘲笑することは決してなかった。
小学校の卒業式のあとの謝恩会で3組の女子クラスは、卒業する生徒を指名して芸をやらせるという演し物を用意した。田宮は、ラジオで野球の実況解説をするアナウンサー役に指名され、渡された原稿を読んだ。顔を紅潮させながら明瞭な早口で、彼は見事に演じきった。ついでながら、私は自分が指名されたらどうしようと一人やきもきしたのに、お呼びは掛からなかった。その頃も女生徒の目にとまる存在ではなかったわけだ。
田宮は卒業の時には小学校卒業時に伝統となっている滝澤賞を、クラスでは大須に次いで二番目の席次で貰った。つまり、田宮は成績も良かった。
でもあの頃のぼくたちには、成績がよいかどうかは友だちと付き合う上での基準ではなかった(その後だってそうだ)。信頼できるかどうか、これがすべてだ。田宮は小学校の間、ぼくが心の底から尊敬する友人であり、何かにつけて頼りにしている友人だった。田宮が言ったからと、田宮の言うとおりに振る舞っていたような気がする。田宮は今の言葉で言うと私の守護神だった。
大人になって年賀状をやりとりするようになって、田宮とも年賀状を交わすようになった。それが、私たちが働き盛りだった40歳代のころ、やがて途絶えた。田宮がどうしているか、どうしても分からなかった。
それから約二十年経って田宮の消息が知れた。事業の上で友人の借金を連帯保証したために、その2億円の負債を一人で背負った田宮は一切をなげうってその返済に努め、それを返し終わったあと、再び同窓会の私たちの前に現れたと人づてに聞いた。
やがて、千葉の金谷に、今は住んでいることを知った。子供相手の事業も続けながら、毎年正月には、はるかに千葉の海を眺められる自然の中でゆったり暮らしている様子を、50首くらいの和歌に読み込んで、それが「金谷の里」という小冊子になって送られてきた。
心和む歌の数々だった。どの歌にも解説が付いていた。大きな夢とそれを打ち破る手ひどい挫折があっただろうに、穏やかな響きが歌の隅々まであふれていた。
今年も2月に私が日本に一時休暇で戻ったときには、「金谷の里」が届いていた。ぱらぱらとめくって今年は歌の数が少ないことがちょっと気になった。それでも、又あとで見ようと本を自室の机に置いたまま、私は中国に戻った。
もう60年近く、田宮には会っていない。でもその間、私の心の中で田宮がにこにことしたあの頃の顔で、私を何度励ましてくれたことだろうか。田宮の身体がこの世から消えても、これは変わることはないだろう。私が生きている限り、田宮は私の心の友人として生き続ける。 山形 達也 (2010年06月06日 アメーバブログ)