国鉄・広尾線の思い出
2020年5月NHK 総合テレビで放送された「にっぽんの廃線100」は反響を呼び、8月にはBSプレミアムでアーカイブス 秘蔵映像でよみがえる「にっぽんの廃線100」として一部編集され再放送されました。
番組では廃線になった路線にまつわる思い出やエピソード、とっておきの映像・写真をアーカイブ特設サイトから応募してくださいと…
当方現役時代(北海道)に遺遇した資料があった筈とひたすら家探ししましたが見つからず、昨年は記憶のみを頼りに、昭和62年2月に廃線となった広尾線の思い出を NHK に投稿しました。
ところが、この度ひょんなことから件の資料が複数見つかったので、かねて「シニア通信」への出稿を勧めてくださった塩田理事に原稿・資料をお渡しした次第です。
以下昨年 NHK に投稿した記事原稿です。
昭和62年1月末繊維メーカーの札幌営業所に赴任して半年、初めて迎える北海道の冬、道東方面へ出張した週末の帰路、帯広駅にて下車しました(北海道では冬季、長年の交通手段は、車ではなく列車を利用した移動が一般的でした)。
当時札幌市内の駅舎に貼り出されていた”国鉄広尾線さよなら列車”のポスターを見ていたので迷わず予定の行動に…同年2月1日日曜日、運行された帯広発のさよなら列車に乗車しました。
豪雪地帯を走る広尾線(帯広一広尾 84km)列車のヘッドマークは、半分書に覆われていましたが、今日が最後の見納めと全車両満席。
終着駅=広尾駅に近づいて、巡回する車掌さんから”お礼と別れのご挨拶”が告げられると、一瞬車内に哀愁が漂い、「いちげんさん」の自分にも、長きにわたり歓びと悲しみを運んくれたであろう広尾線のドラマがそこはかとなく伝わってきたものでした。
後日談になりますが、その後別の会社(関西の小さな専門商社)に再就職しましたが、仕事で再び北海道を訪れたときは、レンタカーで廃線後の幸福駅に立ち寄り、売店で「愛国駅一幸福駅」の切符を買い求め、しばし”お守り”代わりに持ち歩いていました。
フラワー・シニア通信 発行日 令和3年8月5日 自治会の編集部が一部加筆エ
オレンジ色の車体、そしてその前後部にヘッドマークをつけた”お別れ広尾線「愛国・幸福号」”は、静かに帯広駅のプラットフォームを離れた。行き先の路線が強吹雪のため、出発を見合わせているとの車内放送のあと、定刻10時を約15分遅れての出発である。幸福駅、愛国駅の名で金国的に知られたあの広尾線(帯広一広尾間84キロ)は、去る2月1日、鉄道輸送58年の歴史に幕を閉じた。
北海道では、このところいわゆる赤字ローカル線が次々に姿を消していく。58年10月の白糠線を皮切りに、すでに第一次廃止対象路線は8線全線、二次線14線では国鉄最後の廃止線となった羽幌線を合む7線がそれぞれバスに転換された。
4月1日、「JR北海道」が新たにスタートしたが、その直前の3月には瀬棚線(16日)、湧網線(20日)、士幌線(23日)、羽幌線(30日)が相次いで廃止となった。
これほど矢継ぎ早では、とても全線乗りおさめるわけにはいかないが、昨年8月当地・札幌へ赴任して以来、10月の胆振線を振り出しに数木の”さよなら列車”に乗り合わすことができた。
地元の新聞では、「道内の鉄路がまた消える…」という書き出しによくお目にかかる。しかし、これでは哀切感だけが先立ってしまう。実際には、最後の“お別れ列車”に乗ってみると意外に明るい雰囲気につつまれている。
路線発止に至るまでの曲折を思い、これからのさまざまな困難と強みを察すると、乗容の一人として複雑な気持にさせられるが、せめて今日一日は、「OO線最後の旅を心ゆくまでお楽しみください」との車内アナウンスを素直に受け止めておきたい。
そんな思いで乗り合わせた“さよなら列車”で出会ったいくつかのエピソードを紹介してみよう。
列車内では、それぞれ趣向を凝らした記念乗車証明書や乗車記念の品が配られる。日付スタンプだけのお手軽なものもあるが、なかには専務車準の認め印入り証明書に、来客ひとりひとりの乗車区間をきいて手書きしてくれるものまである。乗車記念の方は、金属バッヂから簡易壁掛、各駅スタンプ入りの栞とこれまた多彩である。
車内で目につくのは、重装備の報道関係者とチビッ子たちである。隣席のオバちゃんグループの話にそれとなく耳を傾けていると、このご一行は村会員でお出かけの由。
冒頭の広尾線ではミス”愛国・幸福号”のお嬢さんが紅白のたすきを掛け、車掌と共に絵葉書や記念品の販売に一役買っていた。臨時列車のダイヤはおおむね余裕をもって組まれているせいか、有名駅での停車時間は長い。もっとも、どの駅でもホームは記念乗車券を買い求める人、スタンプ台に並ぶ人、列車や駅舎をバックに写真を撮る人などでごった返し、駅員もこの日ばかりは乗客から色紙にサインを頼まれたり、一緒に記念写真におさまったり大忙がしである。そして列車が終着駅に近づくころ、車内アナウンスで利用首への御礼と本日限りで全ての業務を終了するとの報告が行なわれる。心なしか惜別感がこもっていて、聞いているこちらの方も思わず「ご苦労さん」と一言かけたくなる。
これからも何処かでさよなら列車”運転の知らせを聞けば、にわか鉄道ファンよろしく、きっと馳せ参じることになるだろう。
(当時在した会社の)社内報に掲載された記事 ローカル線”さよなら列車” 1987年(昭和62年)・5月
みんなから、コマッちゃんと親しまれた、小松喬生先生が、令和4年6月24日に95歳の天寿を全うされました。
私たち3回生にとって10歳年上の兄のような先生でした。同期会には欠かさずご参加いただき、先生を囲んだ楽しい会話の場はいつまでも賑やかでした。
優しい目で、一人ひとりに語りかけるように、分かりやすい教えていただいたおかげで、数学が好きになった仲間が増えました。方程式の解き方というより、「もの」、「こと」を深く掘り下げて論理的に考える大切さと楽しさを教えていただきました。私が社会人になってから今に至るまで、日本の「ものづくり」の在るべき姿を追い求めているのもその原点は小松喬生先生の数学の時間です。
附中時代
富山(小松)美知子さん提供
2001年
谷孝子さん提供
2023年10月20日
”無限大”についての授業でのワクワク感は74年も過ぎた今でも鮮明に覚えております。
”無限大”って何? あの時からずっと考えております。宇宙の広がりのこと。人間の持つ業の深さのこと。今度先生にお会いしたら、また議論したいと思っていた矢先のご訃報に悲しみでいっぱいです。
奥様のご看病をなさり、手帳にビッシリ、小さい字で、脈拍、体温、血圧、血糖値などのデータを書き込まれ、日々の体調を把握されておられました。奥様も先生の後を追われるようにお亡くなりになられたとのこと。お二人で仲良く、支え合いながら彼岸にお渡りになられたことでしょう。
ご遺族にお悔やみを申し上げ、小松喬生先生と奥様のご冥福を心よりお祈りいたします。安らかにお眠りください。
ありがとうございました 合掌
(「緑友」2023年3月号「前会長と恩師への追悼文」から許可を得て転載しました)
附中数学班
「緑友」編集委員からの御依頼で、「附中の思い出」を六〇〇字で語ってくれとのこと。困りましたね。附中の思い出、あれやこれやあって、とても六〇〇字で語れるものではない。
でも、今、思い返してみると、あの頃(昭和24年~26年)の附中は、諸事定まらない、いうなれば歴史で言うところの国生み、創世の時代、おそらく、今日と違い、こうるさい学習指導要領の類もなかったのでしょう。
そんな中、例えばコマッちゃん(小松喬生先生)の数学の授業。小学校を出たばかりのボクたち、ワタシたちガキ相手にいきなり、ビブン、セキブンだものね。でも、学内には、「数学班」というものがあって、特にここに巣くう女子たちは、それにしっかりついて行ったようでした。
ボクなんかは、黒板にxやyの字が記されるだけで、頭がクラクラしたものですが。
国語の八木徹夫先生、ファンが多かったですね。そういえば生徒の何人かがお宅に伺ったところ、その超清貧の生活ぶりにびっくり、みんな感動して帰ってきたものです。八木先生、教室に現れるや、大声で「本を仕舞え、紙を出せ!」と。漢字のテストです。
女性の先生の中には、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)の当たったセーターをお召しの先生もいらっしゃった。英語の先生。この先生の英語(アメリカンイングリッシュ)の発音はピカイチだった。その後、退職されてかなり経ってから何人かでお目にかかる機会があったのですが、「私、この歳で、一度も外国に行ったことないのよ」と。
そう、コマッちゃん(小石川のあるとある家の屋根裏にお住まいだった)、今でも覚えているのは、私たちの卒業式の当日、式場で、「君たちを手放したくない!」と人目をはばからず号泣。PTAたちが感動したのなんのって。先生方の教育、生徒たちに寄せる情熱だけは確かなものでした。
他方、これに対する生徒の方は、中には猛者もいて、冬のある日、教室には寒風が吹き込む中、教室のベニヤ板をひっぺがして、ストーブにくべ、暖をとった。勿論、バレて大目玉をくらいましたがね。
3回生、コロナの前は、気の合った仲間で旅行に行ったり、飲み会に赴いたり。でも、われ等の仲間、男性の方は、さすが、身体のそこかしこの不調を訴える向きが少なくない。
他方、女性の方は、概ね皆、元気。なかには、何回も、階段から転げ落ちたり、道で大転倒、大怪我をしたりする向きも少なくありませんが、その後の回復力は速い。男性と女性、どこが違うのでしょうかね?皆さんの期はいかがですか?
(「緑友」2022年3月号「附中の思い出」から許可を得て転載しました)
中国の東北地方の瀋陽(昔の満洲時代には奉天と呼ばれていた)にある瀋陽薬科大学に滞在している十余年の間、私はブログにその折々の心情を書いてきた。いずれ私が先に死んだ後、一緒の研究室で働いていた妻の貞子が読み返して、中国の生活を思い出すのに役立つようにと思って書き始めたのだった。
そのブログに書かなかったことが幾つかあって、以下の記述はその一つである。
2013年春のこと、瀋陽薬科大学の私たちの研究室では、学生の一人が博士の学位を取ろうとしていた。もちろんその後の就職を考えなくてはいけない。この薬科大学でも就職の可能性があるようなので、大学のWebsiteに求人案内が出るのを待っていた。
4月の下旬に大学のWebsiteの中に教員募集案内が出ているのを見つけて、何処の学部や学科がどのような教員候補を探しているかが分かった。募集をしている学科によっては、男性に限ると書いてあったりして、他の国だと問題になりそうである。
おそらく好景気の続く中国では、給料が安い大学には男性が応募しない時期が長くつづき、大学の職が安定しているというので応募してくる女性しか採用できなかったのだろう。確かに私たちの生命科学部の若い先生には女性が多かった。
このWebsiteのページには申し込みの宛先、期限が書かれていなかった。もっと情報が知りたいと思って知り合いの教授に連絡したところ、5月の連休明けに電話で話すことが出来た。用向きを話すと、もう応募書類を出したか?と尋ねられた。
「でも大学の人事課に尋ねると、これは正式の募集ではなく締め切りもまだずっと先だということですが」と返事すると、うちの学生が興味を示している学科にはすでに9人が応募していて、その学科では書類の一次審査を行い5人に候補を絞って、今週末には最終面接して決めるはずだと言う。
なんと、大学のホームページには非公式の募集要項が出たけれど、申し込み期限も知らせていないのに内輪で応募を密かに受付け、すでにそれを締め切って、候補者の選考をしているのであった。
そういうわけでこの学生は、瀋陽薬科大学への応募を諦めたのだが、さらにまだ話しがある。
瀋陽薬科大学は省立である。昔は中国に単科の薬科大学は二つしかなく、その一つとして瀋陽薬科大学は大いに勢威を誇っていた。勿論当時は一流の大学だった。しかし、大学の再編成が進む中で、どういう経緯か知らないが、もう一つの南京薬科大学は国立大学に昇格し、さらには中国医科大学と名前を変えて一流の大学として評価を得るに至ったのに、この瀋陽薬科大学は省管轄の省立大学になってしまったのだ。したがって大学の人事は、当然のこと、遼寧省政府の人事なので、省のWebsiteにほかの省立大学などと並んで職員募集の案内・募集要項が載ることになる。
後日、その案内が遼寧省のWebsiteに載っているのを見つけた。それによるとこの瀋陽薬科大学の職員募集への応募は、この年の6月30日が締め切り期限と明記されている。
そして、この募集案内が省政府の人事網(インターネットの案内)に載ったのが6月25日と、これも明記されていた。
人事の募集期間の情報が公開されて、たった五日間で応募の締切である。しかも実情は、申込期限の二ヶ月前に大学の内部で密かに選考が終わっている。。。
驚きの話だが、それが当たり前で、誰もそれに驚かない国。でも、どこかの国でも聞いた話である。
日本の大学でもつい昨日まであった話ではないか。大学教授の公募があると、必ず「その公募は本当なのですか、もう候補が決まっているのではないですか」という問い合わせがある。「もちろん、純然たる公募です。優秀な教授に応募していただきたいのです」との返事が返ってくるが、大抵は内部で候補が決まっていて、公募で選んだという体裁を整えるための公募が多かったようだ。今は知らないが。
なお、私が瀋陽薬科大学に招かれてきて以来その時点で十年が経っていたが、その間に外部から採用された教授、准教授は誰一人いなかった。残念ながらいまでは、瀋陽薬科大学は三流大学にも入っていないのではないか。
(20200417)
山形さんから「とぼけた味のエッセイを書いて」と言われました。「と」の字を文字通りとっ払って、「ぼけたエッセイ」の状態になっているかもしれませんが、最近感じていることをつづります。
最近読んだ本で興味深かったのは、『不死身の特攻兵』、講談社現代新書です。特攻隊に組み込まれながら、できれば死なずに何回でも出撃した方が役立つはずだと信じて、8回、数え方によれば9回も特攻機から生還した元隊員の記録とインタビューです。
付属中に通った方は覚えていらっしゃると思うのですが、私たちは、元特攻隊員、インパール作戦の生き残り、学徒動員の元新兵さんだった各先生がたから直接、当時の体験談を間近な時点で聞くことができましたし、それぞれ強烈な印象を受けたものでした。ところが、この著者は昭和33年生まれですから、「その当時のことなどは実感としてわからないだろう」と考えながら読み始めたのでしたが、この本では私たちだったら普通質問できなかったような、世代が違うからこそできるインタビューをしています。
「もう来ないでくれ」と元特攻兵から言われても訪問し,死の二週間前にさえ面接して、永遠に失われるはずだった記録を残しています。質問内容も「特攻機内では大小便はどうしたのですか」というようなことまで聞いて、それによって出撃前夜の食事の状態とか当日朝の最後の食事はバナナだったということも聞き出しています。戦争終了後とは言え、人によっては「そんなの敵前逃亡字ではないか」と当時なら言われかねなかったような行動、我々の中学校時代には遠慮して聞けなかったし、語ろうとも思わなかったような事実まで淡々と取材しています。我々が当時、先生の話から聞きたがったのは「何機撃墜したのですか?」、「どうやって小銃で河岸から輸送船を沈めたのですか?」というようなことが主だったですよね。時がたち、インタービューアーの世代が違うからこそ残せた記録なのかもしれないと思うのです。
これほど、すごい体験ではなくても、我々の世代の戦時体験もほっておけば消えていくでしょう。元気なうちに伝えたいことは何らかの形で残しておけば後世の人たちにとって参考になる素材になるかもしれません。
この元特攻兵のように、能力が人並み外れて高く、運にも恵まれて、最後まで活動をしたあと生還することができれば、テレビドラマだったらハッピーエンドのストーリーでしょうが、この方の場合は生還後も厳しい人生が続いたようです。戦争がいかに多くの個人やその家族の生活を無慈悲に奪ってしまうものかを感じ、戦争という紛争解決手段は、極力避けたいものだと強く感じました。
『小池小泉「脱原発」のウソ』飛鳥新社は題名が個人攻撃のような激越なタイトルのため、一見ゾッキ本のような印象を受けましたが、エネルギー、外交、核燃料サイクルと、分野が違った3人の専門家の共著で、書かれているのは、まじめで具体的な論証を積み重ねたな内容です。
それによると、日本は原発停止を補うための追加燃料費年間約3兆円をこれまで何年も外国に支払ってきたとのことです。さらにそれによる経済的影響や波及効果を考えると日本は膨大な損失をしてきて、それをみんなで負担してきたことになります。「原発には便所がない」とよく言われる放射性廃棄物の処理についても、この著書では地層処理で大丈夫だとしており、仮に火山の噴火があってもこの方法ならまず大丈夫だとして、その根拠を詳しく記述しています。地層処理については、最近、NHKの元記者がやはり「原発には便所がないのがまず第一の問題だ」と原発反対論を始めたので、「放送大学の原子力利用の講座では地層処理と言っていたではないのか?」とたずねて答を待ったら、講座内容を知らなかったようなので、ちょっと驚きました。
この著書は、広大なジュンク堂東急本店内店舗には平積みで置いてありました。平済みされているということは、その書店で売れると期待しているか、力を入れて売っているかのどちらかです。ところが新聞関係者を中心にマスコミ関係者がよく集まる日比谷のプレスセンター内の同じく広大なジュンク堂店舗には、反原発の書籍はたくさん並べてあるのに、この著書『脱原発のウソ』は平積みはおろか、背表紙を向けた陳列さえ探しても見当たらず、「ほぼ同時期に同系の書店店舗なのになぜだろう? プレスセンターの書店では売れないのだろうか?」と不思議に思いました。
原発賛否の議論の背景には関連する業界別の利害の対立、国際間の利害の思惑、政界・学会等も含む組織内の論争や対立など、さまざまな経緯(いきさつ)や利害、抗争などの要素もからんで複雑な展開を見せてきたのではないでしょうか。中には情緒的、感情的な訴求や哲学・宗教的な見解もあるようですが、そうではなくて、また政治利用のための反論でもなくて、専門家たちの科学的・具体的な事実に基づくきちんとした議論とかその結果を勉強したいものです。そうした科学的、客観的論証こそが必要なのだと思います。
その意味では、この著書の題名は個人攻撃を目的にした本のようにみえてしまうので残念です。小池さんは今は逆風状態ですが、これも原発と同様、ムード的情緒的反感の対象とはしたくないです。今後、都知事として、何人かの元知事たちと比較してすぐれた実績を着実に残すことを期待したいと思っています。
ここまで、書いていたら、伊方原発再稼動反対の広島市民の訴訟に対して広島高裁が再稼動停止を命じる判決が出たというニュースが出てきたのでびっくりしました。報道によれば、9万年前の阿蘇山の噴火のような大規模噴火があって火砕流が押し寄せるという事態が考えられないとは言い切れないというのが主な根拠のようです。素人目には、「9万年も前に起ったそのような噴火が再稼動予想期間の40年間にどのぐらいの確率で起きるのだろうか?」という気がします。また、仮にそのような火砕流が九州と四国の間の海を乗り越えて伊方にまで達するようなことがあるのだとしたら、原発の有無に関わらず大変な被害をもたらすはずで、そこに原発の存在が加わることによって、どれだけ被害が拡大するのか、この判決の根拠として、それをどう計算しているのかということが、これまでのニュースではよくわかりません。
熊本地震を引き起こした二つの大きな断層が伊方の方につながっているということが、意識されているのかと思いますが、科学的に本当にどう専門家の大多数が考えているのか、そのような専門家たちの議論を素人にもわかりやすく解説するような、科学的な報道をしてほしいなと思います。ただ、旗を持って勝訴と喚声を上げている人々とか、困っている事業者とか表面的な現象だけを大きく報道するだけではなく、専門家の論議を深く、しかもわかりやすく報道してほしいと思います。原発に関する、やや情緒的なあるいは哲学的な、あるいはオーバーな「社会的怪談」は、ある時期、警戒を強める意味で有益な効果ももたらしたかもしれませんが、逆に有害な影響もあったと思います。これからは科学的な論議とその結果の紹介が大事だと思います。
また、今後40年間に伊方原発を壊すほどの阿蘇の火山爆発の可能性が、軽視できないぐらいに高いのだったら、原発がなくても避難路の確保等の回避努力をはじめさまざまな事前施策や措置が早急に必要になるはずです。もし、本当にそうなら、早急にその対策を進めるべきでしょう。
再稼動差し止めの判決は高裁では初めてのことです。異議申し立てで別の高裁裁判官によってくつがえされる可能性があるとはいえ、高裁でさえそのような判決が出たということは、原発問題に関する国論の分裂の深さを感じさせます。それにも関わらず、この問題は日本国民にとって大きな問題です。再稼動の是非を国民投票によって決めたらいいではないかとい意見がありますが、私は簡単には賛同できません。リップマンというジャーナリストが「ファントム・パブリック・オピニオン」と言ったとおり、世論は幻のようなところがあり、直前のちょっとした出来事や有力な人物のふとした発言等で意外に大きく変ったり、ゆらぐことがあります。世論は決して無視してはいけないのですが、機械的にある一時点の世論調査に硬直的・永続的に準拠することは間違いのもとです。「だから、こうして意思決定したらいいじゃないか」ということについては、私見はありますが、荒唐無稽なところがあり、それこそ「あいつ、ぼけた」と言われるおそれがありますから、もう少しよく考えてから発言するなら発言することにしたいと思います。
山形さんの寄生虫に関する記述、興味深く拝見しました。世界で唯一の寄生虫専門の博物館が目黒にありますが、私も時々、行きます。かねてから若いカップルのデートスポットになっていて、寄生虫入りのペンダントとかボールペンなど、寄生虫に関連したグッズも置いてあって思わず笑わせられます。そんな見方しかしていなかったので、山形さんの文章を拝見して「そうなんだ!」と感じ、展示で紹介されている諸研究の価値と研究者の努力に気づかされた思いです。
寄生虫館の展示の中に、象皮症という寄生虫由来の病気で陰嚢が異常に大きくなり、自分の一物を布にくるんで天秤棒につるして、自分の肩でその一端をかつぎ、前に立つ人にその片棒をかついでもらって運びながら移動している図がありました。もちろん、それほどひどくはなかったけれども、来年の大河ドラマの中心人物、西郷隆盛がこの病気だったとのことです。寄生虫病の怖さを印象的に表している展示だと思います。
私が関心を持っているのは、館内にある数々の人獣共通症の説明です。本来は家畜も含めた動物の病気なのに、人にも感染してやっかいな病気になることがあるということですが、それも実にいろいろなものがあることがわかります。テレビでもSNSなどのネットの世界でも ペットブームが華やかですが、こうしたペットブームの裏面も考えてほしいものです。
私個人としては、家の目の前に公園があるため、そこへつれて来られたたくさんの犬や、放たれたネコたちが垂れ流す頻尿にやブラッシングの獣毛などに毎日悩まされています。寄生虫館の展示と合わせて考えると、腹立たしくてしかたがありません。
でも、昨今のことですから、すぐキレる人がいるので、面と向かって苦言を呈するのは危険です。面と向かって直接苦情を言うと相手も対応を逃れられない局面となりがちなので、切れることになりやすいのでしょう。
そこで一計を案じたのが鼻歌を歌って、直接的ではないが、やや激越なコミュニケーションを行なう手段が有効です。「菜の花畑に犬が糞し」という歌い出しのものや、「人んち(人の家)の方まで来てイヌのくそ」というような歌詞を、例えばヨドバシカメラの「まあるい緑の山の手線」のコマーシャルソングのようなよく知られたメロディーに乗せて歌うのです。この元歌は米国の南北戦争の少し前のジョン・ブラウンの乱で刑死した奴隷開放派のテロリストの死骸が腐っていき、魂だけが空を飛んでいくという歌詞がついていて、南北戦争時には北軍の兵士が行進する時などに歌ったのだそうです。メロディーは美しいが、歌詞は最大級に汚いというので、のちに歌詞を変えて歌われるようになったようです。そのためか、どこかイヌの糞も歌にふさわしいところがあります。それを聞いた相手はもちろん不愉快になるでしょうが、直接言われているわけではありませんから、言い返してはきません。「ここへ来ると、せっかくの散歩なのに気分が悪い」、「ここへ来ると意地悪なおじいちゃんがいるから行こ」などということで、あまり来なくなります。それこそ、こちらの狙いどおりの効果です。少しは反省してもらわければいけない人たちがたくさんいるのです。
そんな中で、ソニーがロボット犬を再発売するというニュースがあります。将来、よくできたAIつきの犬のロボットが久しぶりの日本発ヒット商品になればいいなと思います。「AIの発達でホワイトカラーはもちろん、医師さえロボットに職を奪われるかも」というような時代が来ると言って、1930年のシンギュラリティ(技術的特異点)の悲観的な未来図を警戒する声もありますが、イヌのロボットの話はAIの活用の未来に関してほほえましい要素を含んでいると思います。
イヌのロボットなら糞もしないし、「貧乏人の子供の食料を金持ちが何匹もの犬に浪費してやりたいほうだい」ということもなくなります。1月15日ごろ店頭に並ぶようですが、従来よりも進歩した犬ロボットのようです。事前に一部報道されているような画像をみると、最近出ている人型のロボットと同様、金属的な外見のロボットのようです。私たちの幼少期には田河水泡さんが描いた「のらくろ」を愛読しましたが、田河さんの別の漫画で、ロボットが主役の作品があったのをご覧になったかたがいらっしゃるでしょう。そのロボットは「カネセイ(金製)」、「ゴムセイ」という名前だったと記憶します。昭和初期に描かれた、この漫画のカネセイは四角い顔のゴツゴツした印象のロボットでしたが、ゴムセイが今、事務所や店頭などの案内ロボットの多くによく似ていると思います。そうしたロボットの登場する『漫画の缶詰』の復刻版が昭和44年に講談社から出版されています。どうもロボットの形というと、そういうものをみんな思い浮かべるのでしょう。
事前PRで見る限り、新しい犬ロボットには毛が生えていないようです。生きている犬猫の弊害をなくしてくれて心の癒やしを実現する新製品に期待する者の一人としては、心の癒やしのためには毛が生えていることが必要ではないかと、何となく思います。
人の会社の製品についていらざることを含めて、くだらぬことを長々と書いている自分は、やっぱり本当にぼけてきているのかもしれません。
(20171218)
去る4月の誕生日を機に運転免許の更新を受けた。高齢者特別研修などを経て、新しい免許証を実際に受け取ったのは2月6日。意図した訳ではないが、3月からの改正道路交通法の施行前の駆け込み更新となった。高齢者には、認知症の惧れがないかに始まり、ハンドルやブレーキの操作の機敏性など様々なテストが課される。5点満点で3点台、可もなし不可もなしの合格だった。年齢の割に好成績だったのは「視野」の広さ。長年政府・日銀でマクロ経済を見ていたためかと思ったが、そういうこととは関係ない。ネコ科の動物のように左右の眼の間隔が開いていると視野は広くなるらしい。しかも、テスト結果を記した紙に、この数字は本人の申告に基づくもので、試験官が保証するものではないとの添え書きがある。
初めて免許を取ったのは昭和41年の10月。ほぼ五十年前のことである。この免許はパリのノートルダムの向かいにあるパリ警視庁で交付を受けた。「駆け込み」ではないが、厳しい日本の免許制度をかい潜って受けたという点ではちょっとウマイことをした感は拭えない。翌年帰国に際しこの免許を国際免許に切り替え、帰国後鮫洲に赴いて日本の免許に替えて貰った。4月に更新したのは、これが脈々と続いているものである。フランスで5年近く運転し、帰国後の運転歴は(途中2年間の米国勤務を挟み)40年余。この間天祐も味方して無事故の実績を重ね、今や代々ゴールド免許を続けている。勿論81歳になった今でも運転は現役。片道175キロ程の八ヶ岳東山麓の山荘モドキに年5,6回行くのは専らクルマ。都内でもコンサートホールやスポーツクラブなどに行くのに度々クルマを使う。車好き、運転好きではないし、天性の不器用ゆえ細かい運転技術は下手糞だと自覚しているが、必要に応じ週に5日程は運転して今のところ何の問題も無い。日本流の厳しい試験をクリアしなくても、己を知り謙虚に振る舞えば大丈夫ということなのだろう。ただ、高速道路を逆走したり、歩道に乗り上げ通学中の児童をナギ倒したり、高齢者運転の事故は信じられないような被害を生む。世の大勢は、少なくとも高齢者に対しては日本流の厳しい規制を更に強化する方向のようだ。小生の場合、三年後の更新が極端に難しくなれば、挑戦する意欲を失うかもしれない。五十年続いた運転免許は、そんなに珍しいことではないだろうが、この鈍骨にとってはそれなりの達成感がある。今振り返ると、五十年前フランスで免許を取ったのは、日本に居続けてはあり得なかった飛躍だったような気がする。当時の記憶には曖昧な部分もあるが、思い出すことの出来る範囲で「飛躍」の実態を書き綴ってみたい。
昭和41年の7月、小生は生れて初めて飛行機に乗り、パリに旅立った。その少し前、フランス政府の「技術留学生(ブルシエ・テクニーク)」の試験に合格し、勤務先の大蔵省から長期休暇を得てパリに渡ったのである。「技術」留学とは、典型的には電力会社の社員がフランスに来てフランスの電力会社で使われている技術や作業法などを実地に学ぶというようなこと。昭和41年頃はフランスは日本よりかなり進んだ文明国という認識があったのか。その認識はさて措き産業の分野で味方を増やすことが当時のフランス外交の大方針だったようだ。やや押し売りの感無きにしも非ずだが、それでも選考試験を必要とする程希望者が殺到したのは、フランスの文化発信力の強さの反映だろう。小生の場合、学ぶべき「技術」は財政金融。当時の大蔵省や日銀がフランスに学ぶことが多いと考えていたかどうか定かではないが、早い話、国費を使わずにフランス語を多少喋れる人材を幾人か育成しようという敗戦国の習い性も尾を引いていたに違いない。(その後5年程でこの習性は改まり、「国費留学生」制度が発足。5年以上後輩の連中は遥かに良い条件でフランスにも留学するようになった。)
話が長くなったが、「技術」研修は秋にスタートするから、7月にはパリ南郊のカシャンにある寮に留学生は集められ、フランス語のダメ押し研修を受けるかたわら、日帰りのバス旅行でパリ近郊の名所を見学するなどしてフランスに慣れるよう仕向けられる。小生は出発が遅れ、寮に入ったのは7月下旬。アルミ合金?で外装を固めた4階建ての瀟洒な寮で、各人に個室があてがわれ、小生は4階の住人となった。1階には談話室があり、ここで附小・附中を通じて2期先輩のYさんのお話を聞いたのが物語の始まりである。Yさんは、ご専攻は何か分らなかったが、典型的なエンジニアの技術留学生だった。談話室でお話を聞いたのは2回程、何処で運転免許の話になったのか記憶がはっきりしないが、ここでタラタラ研修を受けている間に思い切って免許を取ったらどうかとアドヴァイスして下さったような気がする。そして、オートエコールと呼ばれる免許の教習所、試験のあらまし、中古車市場関連の情報などを伝授していただいた。
「オートエコール」、字義通りに訳せば自動車学校。フランスでは初歩から路上実習だから、日本の教習場のような広い敷地は持っていない。幸いなことに、カシャンの最寄り駅地下鉄ソー線のバニューの目の前に小さなオートエコールが一つあり、寮から歩いて5分程だった。間口5メートル程の店構えで正面にカウンターがあり受付や記録を行う。近くの路上に何台もの車が置かれ、受講生はそのうち1台を選び、横に教官が乗ってその指示で運転を始める。因みにソー線はパリ市交通局が運営する地下鉄(メトロ)の一つの路線で、パリ南郊の住宅地とパリを結ぶ長い編成の通勤列車が走っていた。東京の半蔵門線と同じで、郊外に出ると専ら地上を走る地下鉄である。ソー線とは、バニューの一つ先の「ソー公園(パルクドソー)」の名をとったもの。ソー公園は小さいながら立派なシャトーを備えた緑豊かな公園で、その周辺は起伏に富み車が余り通らない小道が巡っている。当時のフランス車は大多数がフロアシフト、「坂道の発進」が運転免許の重要な試験項目だったこともあって、小生が通ったオートエコールの路上実習はソー公園周辺を廻ることが多かった。
オートエコールは全国至る所にあり、規模は大小さまざまらしい。人口がさほど多くないカシャン・バニューの我がオートエコールは、家族経営の零細企業だった。主人は赤ら顔の痩せた男で自身指導員を務め、マダムは金髪の小太りで小柄、巻き舌で勢い良く喋る人。いつもカウンターに陣取り受講生の受付、記録、会計などを担当していた。ほかに指導員のピエール。彼は所謂メカニシャン(技師)で使用人のようだった。昔観た映画で題名は忘れたが、プチブル一家で母親の言いなりのおとなしい息子がおもちゃの競馬か何かに夢中になり、母親と一緒にハァハァ言って騒ぐ。シモーヌ・シニョレ扮する美人妻が苛々してそれを眺めているうちに、筋骨逞しいトラックの運転手(ラフ・バローネ)との出会いがあり、やがて道ならぬ恋に堕ちるという筋だった。我がオートエコールの主人は、体型から物腰からこのダメ息子にそっくり。指導員としても余りキツいことは言わず、小生がギヤを入れ間違えてギーと鳴らすと、商売ものの車が傷むのを気遣うらしく、身をよじって「ドゥースマン、ドゥースマン(優しく、優しく)」と叫ぶのが常だった。一方ピエールは、アルジェリアからの引揚者で、向うでは軍人か技師か相当の地位のある人だったようだ。小さなオートエコールのメカニシャンに身を落して糊口を凌ぐことに鬱屈した想いを禁じ得ない風情を漂わせていた。人物としても指導員としても、彼は主人を圧倒する貫禄。さほどキビしいということもないが、要点はしっかり教えてくれたように思う。
9月に入って或る日曜日、画期的な出来事が起った。同期の畏友T君がアイヴォリーホワイトのピカピカの新車、ドイツフォードのコルチナ?を運転してカシャンに小生を訪ねて来てくれたのである。T君は当時国際機関の職員でパリの西南セーヴルの集合住宅風の大きなアパルトマンに居を構えていた。小生が当時の国際空港オルリーに降り立ったときわざわざ迎えに来てくれ、小生はカシャンに移るまで3日程お宅に泊めて貰って、メトロの切符の買い方などパリ生活の初歩の伝授を受けた。オルリーからお宅に行くのはタクシー。未だ運転免許は持っておらず実習を受講中と聞いていた。芽出度く免許を取って早速小生に披露してくれた訳である。アトで分かったことだが、彼は当時熱烈恋愛中。ピカピカの新車の助手席に座る麗人のイメージが彼の免許取得の大きな起動力になったことは想像に難くない。因みにその麗人とは、現在の育代夫人その人である。そういう事情は兎に角、小生も大いに発奮して実習に励むこととなったのは言うまでもない。
パリの運転免許試験は、日時と場所を指定した通知を受け、指導員が同乗する車に乗って受けに行く仕組みである。その車は実習に使われていたものを使って差し支えないこととされていた。場所はパリ市内の街路の交叉点。小生の受験場はモンパルナスの南、街外れではあるが或る程度交通量もあり坂道もあり、実地試験には打ってつけの場所だった。我がオートエコールでは長いこと受講しているのに未だ合格しない初老のマダムを合格させるのが優先課題。バニューから4,5キロの道をピエールが付ききりで彼女に実習の最後のツメをアレコレ教えていた。小生は後部座席に乗ってそれを見るだけ。受験場に着くとキビしい目つきの試験官が乗り込んで来て早速試験が始まる。マダムが受けている間、小生は路上で待つよう言われたが、程なくマダムが大泣きに泣きながら帰って来た。コースの始まり近く、坂道の発進で失敗したらしい。「モン・マリ(私の主人)はもう絶対におカネを出してくれない。今日が最後のチャンスだったのに」と言ってシャクリ上げている。彼女を路上に残し愈々小生の番である。助手席に試験官が乗り後ろのピエールに向かって「ヒドい女だ。あんなに泣いてもどうしようもないのに。」と、試験の間中悪口を言い通し。小生の運転はよく見ていないようだった。試験の最後は縦列駐車(クレノー)。これさえ通ればと欲が出たのか僅かに車輪が歩道に乗り上げてしまった。試験官に「もう一回」と言われ、南無三宝、丹田に力を入れエイヤッとハンドルを切ると、歩道から25センチ程の理想的な位置にピタリと決まった。これで合格である。
バニューへの帰り道、「一人が笑い、一人が泣くか」とピエールがポツリと呟いた。マダムは泣き止まず、こっちも笑うどころではない。アトのことはよく覚えていないが、何日か先に警視庁で免許の交付を受けることになったのは前述の通りである。
免許を取った10月には、カシャンの寮を引き払い、パリ市の東の外れ、ヴァンセンヌの森と境を接するサンマンデ(市?)の素人下宿に引っ越した。女あるじダネル夫人は高名な海洋関係?の技師の未亡人で、空いている寝室に代々日本人の留学生を住まわせているので有名だった。小生は10代目位になるのか。2年前が大蔵省一期上のK氏、直前が日銀同期のM氏。K氏は特に夫人のお覚えが芽出度かったようで、入省当時理財局で斜め下にいた小生がパリに行くのを喜んでくれ、行ったら是非ダネル邸に入れと強く推奨されていた。免許取得後パリ市の東端12区の大きな中古屋に車を買いに行った時は下宿に移る直前だったのだろう。選んだ車はルノーのドーフィンの上級車種オンディーヌ。ドーフィンはオートエコールで試験を受けた車。オンディ-ヌ は前進5段のギアチェンジが出来る高級仕様?である。初めて自分の車に乗ってドライヴした行く先はパリ東の小都市モーである。ハイエンドにギアを入れ快調に飛ばしていると、後になり先になりしているシムカ・アロンドが気になって来た。この車は「007シリーズ」の中で、ボンドガールが乗りフランスの西に向かう川沿いの道で猛烈なカーチェイスを演ずる名車、オンディーヌとは格が違う。果敢に追い抜いたが先方がこれに気付き、アッと言う間に先を越され消えてしまった。
カシャンの寮に戻り、或る夕方、用も無いのにカルチエ・ラタンに行ってみようと思い立った。ラッシュアワーに掛かったのか国道20号は大混雑。パリ市街に入ってからは一方通行の道に5台程横に並んでジリジリ動く。フランス人はケチと言うか合理的と言うか、家の中でも街中でも明かりは暗くしてガマンする。日本の信号は、はっきり見えるよう交叉点の上に青黄赤と横に並んで付いているが、パリ市の信号は道路の右、歩道の端に立つ細い電柱のような柱にタテに青黄赤と並んでいる。それがたいへん暗く、古い街並みと調和しているのかウスぼんやりして良く見えない。前が空いたのでスルスルと出るとピーと笛が鳴り交通巡査に止められた。信号無視の現行犯である。あぁ免許もおしまいかと一瞬呆然となったが、堂々たる体格のパリのお巡りさん、免許証を取り上げ暫く眺めて「貴方の国には信号は無いか」と一言。免許証は直ぐ返してくれた。東洋の君子国を侮辱されたようで複雑な心境だったが、当時のパリで東洋系の貧し気な男と言えばインドシナ3国出身が断然多い。「信号は無いのか」と言われるのもムリからぬところがある。カルチエ・ラタンに無事着いたか、何をしたのか全く記憶が無い。ホロ苦い第二の冒険である。
第三の冒険はT君への答礼、セーヴル訪問である。日曜の午後だったか、オンディーヌに彼を乗せ、サン・クルー橋を越し坂の上の方までぐるぐる回った。そろそろ暗くなって来たので彼をアパルトマンまで送ろうと細い路地から玄関口の方へ左折しようと頭を出したとき、左から火の玉のような猛スピードでアルファロメオが突っ込んで来て我がオンディーヌに激突。助手席のT君は一瞬息が停まる程の勢いで座席に叩きつけられた。幸いオンディーヌは(ドーフィン同様)リア・エンジンなので運転席の前はガラン胴。クシャクシャに潰れたがそれがクッションになって運転席、助手席には大きな被害は無かった。アルファロメオからは若い男が二人、「糞ッ(メルド)」を連発して降りて来た。フランスでは物損だけだと交通巡査を呼ばない。車に備え付けられたコンスタという書式に事故当事者が合意してサインする、それをそれぞれの保険会社に送って損害賠償等の処理をして貰う仕組みが定着している。コンスタには簡単な平面図が描かれるようになっており、事故当事者がどの道をどっちに向け走っていたか明記される。アルファロメオが走って来た道に優先権は無く、オンディーヌは右側から出て来たのだから「右側優先(プリオリテ・ア・ドロア)」のルールが適用され、先方が100パーセント悪いことになる。アルファロメオのお兄ちゃん達はその責任を自覚する風もなく、車から引っ張り出したワイヤーを近くの電柱に巻き付け、ヒン曲がった前のバンパーをエンジンの力で元に戻すと、ブルルンと轟音を残して走り去って行った。扨、背中を強打したT君が気になったが、見たところ大事ないらしい。将来この事故の後遺症でヨイヨイになったら俺が面倒をみると大口を叩いて一先ず別れることとした。後日譚になるがアルファロメオのお兄ちゃんが一向にコンスタを出さないので賠償金が下りず、アトの車が買えない。ダネルさんの妹婿がパリ警視庁に務めていたので調べて貰ったら、問題のアルファロメオはパリ南郊の小都市の八百屋の車だと分った。「八百屋風情が車に乗るなんて」と慨嘆するダネルさん。当然地元警察署から注意が行き、程なくコンスタは提出された。アルギュスという中古車専門の週刊誌に掲載されている相場では、我がオンディーヌには買った値段を1割程上回る賠償金が支払われることとなった。薄幸のオンディーヌは身を捨ててあるじに幾ばくか報いた訳である。
オンディーヌの後継車は、並みのドーフィン、それも10数年経ったボロ車だった。これを買った経緯、売り手の意外な素性など、事実は小説より奇なりを地で行く物語になる。又、このドーフィンを廻る苦労話も語り出すと尽きない。しかし、余り長くなってはお退屈さま。技術留学生時代の話はこの辺で打ち止めとしよう。
パリから帰ったのが昭和42年。昭和46年に「お礼奉公」で再度パリに渡った。このとき4年程主としてフランス国内を運転して回ったのも、先に述べた「飛躍」の延長だったような気がする。2回目のパリは「俄か外交官」としての出向だった。車はオンボロ中古とは縁が切れ、プジョーの404(キャトサン・キャトル)の新車を買った。「俄か外交官」のお勤めは、国際機関の日本政府代表部勤務、簡単に言えば会議屋である。会議には東京の各省から出張者が大勢来て、訓令に基づき発言したり、コミュニケ等の文書を纏めたりする。ただ、出張先が華のパリだから余暇には地元の勤務者が出張者の希望を容れいろいろ「ご案内」するのが一種の不文律だった。日程の関係で余暇が週末に当ると、郊外に遠出するのが普通となり、「地元民」は出張者を満足させるよう、日頃の体験を活かすことになる。
「いやーパリで大須君の車に乗せて貰ったらね、凄いスピードでガタガタ揺れる。丁度ジェット機が着陸して暫くの間滑走路を驀進する、あの感じなんだ。」こう言っているのは大蔵省同期のI君。彼が友人の誰彼に喋っていることだから、小生が聞いている筈はない。にも拘らず、喋っている彼の表情や言葉遣いがリアルに目、耳に浮かぶのは不思議というほかない。彼がそういう感想を抱いたのは「あのとき」の経験からだろう。心当たりがある。週末彼を乗せてノルマンディー地方を案内した。古都ルーアンの大聖堂など見どころは皆見て、かなり時間を余している。折角だからドーヴァー海峡を見るかと水を向け、彼も喜んだので一路北へ驀進した。ルーアンまでは高速道路があるが、ドーヴァー海峡の方に行くのは一般道を走るしかない。「すごいスピードでガタガタ揺れ」たのは、多分このときの印象だろう。運転はちょっとキツかったがどうと言うことはない。夕方にはパリに帰って、大使公邸だったかの彼の予定にアナを開けることはなかった。
このエピソードで想起するのは、出張者などの案内にどの程度「サービス精神」を発揮するかという難しい論点である。「サービス精神」とは小生が勝手に使っている言葉だが、例えば睡蓮や太鼓橋で有名なジヴェルニーの「モネの家」に行くのに、高速を一つ手前の出口で降りて、セーヌ川を南から見下ろす「トサカ道(ルート・ドゥ・クレスト)」を通ると、大抵の人は見事な景観に驚いて喜んでくれる。(中には、旅の疲れで眠りこけてしまう輩もいないではないが。)昼飯をご馳走するにしても、春酣なら、リラの花が上から下までびっしり咲き誇っている生け垣が裏庭にあるレストランを選べば、食後腹ごなしに庭に出たとき、満足は倍加する。しかしサービス精神は、反面、己の好みを押し付けることにもなる。また、案内役が先に喜んでしまって、ワインを飲み過ぎたり、ホロ酔い運転でお客をハラハラさせたり、反省のタネは尽きない。
パリのお礼奉公は4年に及んだ。3年目が終ろうとするとき、大蔵省の人事当局から、東京へ帰してもいいがどうする?と内々の打診があった。アト1年でも足りない位ですとは言わなかったが、もう少しこちらで勉強したいと殊勝に答えた。この4年間、ゼロ歳の長男を連れて行き、パリで娘と次男が生まれた。普通ヨーロッパに4年も滞在すると、この際ということで、イギリスやスペイン・ポルトガルはもとより、ギリシャ、トルコ、北欧、南伊、モロッコなど大いに足を延ばして探勝する人が多いが、小生は赤子を抱えているので遠出は難しかった。勢いクルマでフランス国内を廻ることになったが、隅々まで、時には同じ所を何回も、せっせと廻ったものである。良く言われることだが、フランスの田舎は道(線)の左右ばかりでなく、「面」として美しい。運転免許五十年のハイライトはフランス国内のドライヴだった。30歳とちょっとの働き盛りでフランスの風光と文化に触れたことは幸運だったと思っている。
(20170801)
フェイスブックで旧友の写真を見つけた。
眠っていた昔日の記憶が目を覚ます。獅子ではないから起こしても取って食われることはない。でも寝た子くらいなら瞬時に起こせるパワーをこの写真はもっていた。
撮影者と僕は縁もゆかりもない。だがこの写真は、僕にとって示唆や啓示や含みの多い不思議なエネルギーを秘めていた。パンドラにはほど遠いが、ドラの箱くらいは開いた感じである。僕が旧友なら、俺の葬式にはこの写真を使え!と遺言状に遺すに違いない。
海は見えない。でも潮の香りがする。カタカナが見える。でも日本は感じない。
何の脈絡もなくキーウェストかサンチャゴあたりの街角だろうと考える。どちらもヘミングウェイが後年の半生を過ごした土地である。だが撮影は昨年、場所は尾道と解説が付いていた。そもそもサンチャゴなんか行ったこともない。
しかしデジャブみたいな現実感がある。唐突だが、僕にとってこの景色はヘミングウェイの世界。
あの Hardboiled Realism の神髄 ”老人と海” から切り取った一場面に見える。
なぜだろう? たぶん原因は二つある。
一つめは旧友の風貌だ。道を究めた人間の静かで重い存在感が漂ってくる。
二つめは僕自身の卒業論文。テーマはヘミングウェイだったし、青春との決別の印 ... のつもりだったし。
きっと Happy Golden Days への飽くなき郷愁なんだろう。
旧友は作家じゃない。かの文豪を意識しているはずもない。だが追想に耽る僕の目には写真の旧友がヘミングウェイの髭面に映る。おまけに彼が身に纏う海の男オーラのせいで、老人と海の漁師サンチャゴにも見える。
友人の名は須賀次郎。小・中・高の同級生だが腐れ縁はそこまで。僕は陸の道を歩き彼は水の中へ潜った。そして60年余が過ぎ、彼は伝説のダイバー。押しも押されもせぬ日本スキューバダイビング界の重鎮である。僕はと言えば早々に現役を退き、ウォーキングに励み、物理的歩行は止めていない。
この1月に彼は82才を迎えた。いまだにバリバリの現役である。お気に入りの仲代達也や佐藤愛子もそうだが、生涯現役を貫く高齢の人たちは例外なくセクシーだ。美しく年を重ねるには現役であり続けることが必要条件なのかもしれない。
最近簡単に風邪を引くらしい。加齢に伴う免疫低下は自然の摂理。気に病むことじゃない。彼は毎度泳いだり潜ったりの荒療治で風邪退治をする。きっとリンパ液の巡りをよくして免疫力を高めているに相違ない。血液には心臓があるがリンパ液用のポンプはない。身体ごと頻繁に動かさなければ液はうまく循環しない。道理に適った荒療治である。自然界に生きるもの、須く自力でほとんどの病気に勝てるよう創られているのだ。彼はそれを知っている。
人間に限らず凡そ地球上の生きものなら、自然界の秩序や法則に従わずして生命の維持存続は不可能だ。わかりきったことなのに、この大原則を親も学校も教えない。そのせいだろう、巷は生きているのが当りまえと思い込んでいる平和ボケでいっぱいだ。ある女性冒険家が、九死に一生を得た後で言っていた。『私たちが生きていること自体奇跡なんです。死を覚悟して気付きました。生きているんじゃない、生かされているんです。』
彼女の真意を僕が正しく理解しているか否か、それは確かめようがない。でも大自然との真剣勝負の中で生かされてきた人間の、本物の逞しさや謙虚さや寛容さや誇らしさは十分伝わってきた。
彼女同様、須賀次郎も自然に生かされてきた強運を片時も忘れない人間だ。彼のブログやSNSの投稿を見ればよくわかる。生きているのは当たり前などと呆けたことは考えようもないだろう。
金属にレアメタルがあるように、人類にもレアヒューマンがあっていい。生涯賭けて道を究めた極道で、自然界の法則・秩序を遵守し、多様な生態系の持続に尽力し続ける人間のことである。
それなら、須賀次郎は十分過ぎるくらいレアヒューマンじゃないか?
今年2月、彼は震災後日本人で初めて福島原発沖の海に潜った。4月初め、そのドキュメンタリーがTBSで放映された。『 変わらないで海は在った。よかった ... 』。
番組のラストシーンで物静かにそう呟いた彼は、食物連鎖の頂点に相応しいレアヒューマンに見えた。僕は何やらとても誇らしい気分だった。
友人を誇らしく感じたのは80年来初めてだ ... いや、違うな、もう一人いる。
四十数年前の記憶が蘇る。才色兼備を絵に描いてカナをふったようなひとだった。以来、僕の中ではずっとかけがえのない守護天使なのだが、異性だから友人と定義していいものか、よくわからない。
さて、フェイスブックの写真が老人と海の一場面に見えた二つめの原因。即ち卒論で決別したはずの青春とその懐古へ話題を変える。
80才になれば、誰だって今だから言えるとか言いたいってことはヤマのようにある。これもその一つ。どうやら自分の大学時代は、生涯を通じ文句なしに楽しく刺激的でスリルと希望に満ちた日々だったのだ。もし神さまが人生のやり直しを許してくれたら、ためらうことなく教養学部の門前で自分の受験番号を見つけた場面からスタートする。大学時代をやり直したいのではない。繰り返したいからだ。
僕にとってその終わりの証し、つまりモニュメントもどきが卒業論文だった。
教養課程を経て僕は英米文学を専攻した。特段の必然性はなく、何となく取っつき易かっただけのことだ。そして卒論のテーマにはへミングウェイをを選んだ。考え抜いた末の選択ではなく衝動的に決めてしまった。
自分でいうのもどうかと思うが、僕は大切なことほど直感頼りに即断する傾向がある。その方があとで悔やんでも諦めやすいからなのか? 生来の怠け者、あるいは脳天気なだけなのか? つまるところ、ケセラセラが僕の本性なのだろう。
ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞した時、僕はまだ大学生になっていなかった。でもそのニュースは知っていた。短編 ”老人と海” が高く評価された結果の受賞だという報道記事を憶えている。でもヘミングウェイという作家に特別な関心があったわけでもなかった。
それから数年が経つと僕も大学生になっていて、Happy Golden Days の真っ只中にいた。これも今だから言えることだ。そんなある日、あの映画に出会った。”老人と海” である。この出会いがなければヘミングウェイとの縁は100パーセントなかったと思う。一期一会である。なぜその映画を観たか? もちろんヘミングウェイに惹かれたわけではない。スペンサー トレイシーのファンだったからでもない。デート相手のリクエストだっただけだ。
この映画について話し始めると必ず長くなる。だから結論だけにする。
文字どおり青天の霹靂だった。映画を見終わった僕は、ショックでしばらく座席から立ち上がれなかった。誇張ではない。連れの不審げ、不安げ、不満げで奇妙な表情は今も忘れない。
娯楽の少ない時代だったから映画館へは足繁く通った。たぶん洋画ならあらかた観たと思う。しかしこの日の老人と海ショックは初体験だったし特別だった。
問題はショックの正体である。未だにうまく説明できそうにない。化石しか見たことがないザウルスみたいなものだ。
言えるのは、ショックは3段階あったこと。最初は映画を観た日。まるで心の準備がないまま、いきなり ハードボイルド・ザウルスに襲われた初体験ショックである。この第一次ショックを受けたまま、卒論はヘミングウェイに決めた。
ヘミングウェイ初期の短編集に『 Winners Take Nothing. 』というのがある。
その日僕を襲ったザウルスを因数分解すると、答えはそれに近かった。そのドライでタフでフェアな無頼の美学が何ともはや震えがくるほど感動的で、腰が抜けたのはむしろ自然の成り行きだったと思う。未知との遭遇の瞬間とは須らくそういうものだろう。
それから卒論完成まで、暫くヘミングウェイは僕にとり憑いた。結果的とは言え想定外の対象だ。とにもかくにも先ずは質より量。翻訳版で彼の作品を読み漁るしかない。何事もフローは誤魔化しが効くが蓄積はムリだ。インスタントが通用しない世界は厳しい。じきに馬脚が現われた。起・承・転から先へ論文が進まない。頭を抱えていたある日、『ヘミングウェイ、ショットガン自殺!』の訃報が世界を駆け巡った。ただ呆然である。1961年のことだった。
これが第二次ショックである。不謹慎だが、卒業論文的観点からすればこれで僕は救われた。
ヘミングウェイの自死ショックは、僕に自らの戦略的瑕疵を気付かせてくれた。自分が論ずべきだったのは、ヘミングウェイの創り出したザウルスは何かではなく、ザウルスはなぜヘミングウェイを自爆させたかだった。
当りまえの話だが、当時これは最新中の最新テーマである。定説や常識があるわけもない。言ったもん勝ち。僕向きだ。わが道を往けるのは何よりありがたかった。振り出しには戻ったが、そこから論文は一気にゴールへ突き進んだ。
恙なく卒論は完成し、担任のN教授の評点はAマイナスだった。これでめでたく卒業、僕の青春はハッピーエンディングである。よせばいいのに調子に乗って、僕はなぜマイナスが付くのか教授に聞き正しに行った。実は内心自信作でもあったのだ。教授は苦笑交じりに説明してくれた。『最初から最後まで Hardboiled の綴りが間違っていたからだよ。ダブルエルじゃない。シングルエルだ。』 想定外の指摘に虚を突かれ素直に引き下がらざるを得なかった僕は、ヘミングウェイもショットガン自死もザウルスも、そのまま丸ごと忘れてしまうことにした。何せ青春時代は終わりなんだから ... ね。
この話は珍しく他言した覚えがない。あってもせいぜい2~3人。ネタ話の大好きな次女と何でも話したくなる守護天使くらいだろう。なぜか極々限られた範囲での共有情報になっていた。別に隠したいことでもなかったのだが。もちろん第三次ショックとかいう大袈裟な代物でもない。むしろできの悪い落語のオチみたいなものだ。卒論が青春との決別記念碑だという謂れのない思い込みが、実は単なる気のせいに過ぎなかったという日常茶飯事的誤算にも似ていた。
ところが、僕とヘミングウェイとの縁は切れることなく脈々と続いていた。意識になかったから不思議な気分になる。
還暦を過ぎた直後くらいの頃だった。ザウルスの亡霊が忘れたころにやってきた。それもふた桁の平成になってからだから虚を突かれ、一瞬パニックになりかけた。ようやく自分を取り戻した僕は、40年越しで改めてN教授の苦笑の真意を忖度し、我ながら何とも気恥ずかしくて独り赤面することになった。それが第三次ショックである。
結果だけ解説する。
ある親しかった英文科の後輩が以下のような情報を送ってくれた。
『ヘミングウェイ一家は、1928年に拳銃自殺した父親クラレンスを含め、遺伝的に重度の躁鬱病家系だった。1961年に本人、その後1966年に妹アーシュラ、1982年に弟レスター、1996年に孫娘マーゴ、がそれぞれ自殺している。いずれもクラレンス同様、重度の躁鬱症状から始まる諸々の既往症発症経緯を辿り自死に至った。』
ヘミングウェイの自死は遺伝子の為せる業だった ... 知恵と想像力を総動員した僕の卒論は、結局詭弁と屁理屈を寄せ集めたゴミじゃないか ... 僕の青春自体が笑えないブラックジョークになってしまいそうだった。
我に返った僕は、反射的に文庫本『老人と海』を読んでいた。あの日のザウルスは変わらないでそこにいた。
(20170623)
半夏生とは夏至の日から11日目の7月2日。半夏が生える頃である。
ドクダミ・十薬 半夏は山野に生えている、カラスビシャクの根から採れる生薬の名前。身近にある薬草といえばドクダミ、十薬とも呼ばれる昔からの万能薬。毒を矯めてくれるからドクダミだともいわれるが、日陰に咲き控えめながら、何気なく目立つ雑草の中の雑草。白い花に見えるのは実は花を保護する苞、中央の出っ張りが花の房。子供の頃にはよく葉っぱが臭いと言いながら、摘み取って遊んだ。今でもそのときの嗅覚記憶は、しっかり思い出せる新鮮な青臭さ。
ハンゲショウ ハンゲショウは半化粧、半夏生の頃が花の咲くときで、花穂の近くの葉だけがおしろいで化粧したように真っ白に変化する。家の近くにある日当たりのよい遊歩道の水辺を、目立つ白化粧をした葉が、このころになると清楚に彩って、涼しさを演出してくれる。 同窓生はすでに傘寿を祝い終わって、次々と半寿を迎える年。半とは八十と一、長寿の祝いの一つである。「人生わずか五十年、首尾よくいけばあと十年・・・」というセリフは歌舞伎の世界だけ。今や平均寿命が80.75歳、女性は86.99歳の時代。男性の平均寿命は超えているが、次の長寿の祝い米寿まではまだ道半ば、なるほど半寿なのかと納得。
もうすぐ夏がやってくる。4月の後半から既に夏日を何日も体験し、一気に暑くはならず、涼しい日も雨の日もあって、徐々に夏になる半熟期。蒸し暑くなる夏にふさわしい、自然の四季彩だなあと感じ取る感性、和の心のゆとりが懐かしくなる、と半夏生の頃のひとり言。
(20170616)
鈴木 審平母校の跡地は、その後順調に整備が進み、子供たちの運動や遊びの場として利用者が増えています。イヌの糞をばらまいていく無責任な手合いも少なくなって静かな環境が保たれています。学校跡から南側2本目の太い道路、から環状7号線、小学校正門と郵便局があったバス道と裏側の野沢龍雲寺交差点に抜けるバス道路の4本の道路に囲まれたエリアは「ゾーン30」となって、自動車に時速30キロ以下のスピード制限がかけられています。
ところが、最近立て続けに2度ほど、自転車で十字路を横切った際に横1m以内で自動車が急停車する、あわやの事態を体験しました。最近、学芸大学付属高校裏のイチョウ並木の通りに「危険 自転車の飛び出し注意!!」という派手な大きな看板が出たのを目にしました。私もマークされている一人かもしれません。自転車族の一人として、認知症運転者と言われないように注意しようと思います。
このWebsiteへの投稿を促された日には、眼底出血の予後の検査で目があまり見えず、応答が遅れました。せっかくみんなのためのフォーラムをつくっていただいているわけですから、「こんなこと、みんなどう思っているだろうか」というようなことを書いてみました。どれも「つれづれなるままに」綴ったようなもので、それほど真剣に思いつめているわけではなく思い浮かべたことを率直に記したものです。間違っている点があればご指摘いただければと思います。
雀百まで踊り忘れず
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トランプ大統領、早くから土方さんが、その分析と予測を記述されていらっしゃいましたが、私が今、興味を持っているのは、「伝統的な旧型メディアとあれほどあからさまに対立して、うまくやっていけるのかな」という点です。
ツイッターなどのデジタルメディアは伝え手としては伝えたいことをそのまま伝えられ、メディア側の解釈とか見方の影響を受けず、ゆがみなく伝えられるから使い勝手がいいですし、新しいメディアをうまく利用することは為政者にとって効果的な手段となりますから、さかんに利用するわけです。ナチスは当時の新しいメディアだった超小型レコードで歌やメッセージを流して効果的な宣伝をやったということです。
広告の世界では、現在伸びている大きなメディアはデジタルメディアだけで、テレビはほぼ横ばい気味、新聞、雑誌、ラジオの広告費は、もはや全部合わせてもデジタルメディアに追いつかない状況になってしまいました。それだけ強力なメディアをコミュニケーション手段の中軸に置こうとする戦略は理解できます。
しかし、旧型メディアには、視聴者がことさらに情報を取ろうとしなくてもひとりでに、ある意味では強制的に飛び込んでくるという特徴があり、それなりの力があります。使い勝手がいいデジタルメディアに傾き、旧型メディアを相手にしない態度をあからさまに示し続け、フェイクメディアと決め付けたり、取材・応答を拒否する態度を続ける広報戦略が、もしうまくいったら、ますます旧型メディアは劣勢に追い込まれていくことになるでしょう。トランプ政権がこの傾向を変えないとすれば、旧型メディアも必死に反撃するでしょうから、この勝負は見ものです。
もちろん、旧型メディアもデジタル技術の活用は推進していくでしょうが、やはり、その形態としてはスマホやパソコンに入った新聞であり、テレビです。旧型メディアとデジタルメディアが融合してAbemaTVのように、視聴者が無料で見ることができる新しい番組ができたり、有料で見られるマージャンなどの実況が見られるような、新しい試みも出て来るので、事態をもう少し複雑に考えなくてはいけない部分はありますが、基本的にはツイッターなど送り手が自在に送ることが出来るメディアと、一旦プロの解釈や要約などの過程が入る旧型メディアが対比される状態は続くでしょう。その勢力図が今後どうなっていくかという問題は今後も続くと思います。
短くとも、整理されていなくても、雑多でも、生の声がそのまま伝わってくるメディアを重視し、それを取り巻くデジタルの世界のコミュニケーションの世界に軸足を置いて、情報をとって仲間たちと活用していく人たちと、経験や知識・素養などに裏打ちされた情報のプロたちのフィルターを経てある程度整理された情報を評価し、活用していこうとする人たちの、どちらの勢力が強くなっていくかが、この勝負の行方を決めるのではないかと思います。デジタルメディアと旧型メディアは、それぞれを支える組織や事業体、プレヤーが違っている傾向が今のところ強く、それぞれ強力な組織となっています。トランプ大統領と旧型メディアの勝負の行方を見守っている関係者は多いと思います。
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ミサイルが日本に飛んでくる懸念については、恐ろしくなってくるばかりです。軍事については何もわからないのですが、素人なりにニュースを見ていると、空母の艦隊のデモンストレーションと、そんなものはいつでも撃てるし、報復できるぞというデモンストレーションとがせめぎあっている宣伝合戦の段階のように見えます。
宣伝合戦という点だけで言うならば、もし本当にミサイル発射をやめさせたいのだったら、ミサイルの撃てる潜水艦を多数配置して、時々さまざまな所に浮上するというデモンストレーションの方が発射の抑止に役立つのではないかと思ってしまいます。ミサイルを試射してそれらの小さい潜水艦の一つにでも当ったら、たちまち激しい報復を受けるでしょうから、そう安易には撃てないのではないかと思いますが違うのでしょうか。
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「米軍基地以外の日本にもミサイルを落とすぞ」と言う宣伝を聞くと、我々の世代では、すぐに太平洋戦争の空襲体験を思い出します。「出てこい、ニミッツ、マッカーサー」などと歌って虚勢を張っていたころの戦中体験は、我々よりも3歳ぐらい若い世代だと、もう完全には伝わりにくいようです。
あのころの防空壕よりも、今のシェルターは優れているでしょうし、水や非常食などの備蓄も今の方がずっと便利で優れたものが作られています。そういう手段は進歩しましたけれども、空襲の破壊力はそれよりも格段と大きくなっています。「そんな時、そんな備えをしても何の役にも立たないから、何もしないさ」という人もいます。「地震もあることだし、やはり非常事態への備えをしておこう」という人もいます。皆さん、個人レベルではどう備えているのでしょうか?
今後、事態が更にエスカレートして、突然、ショッキングな報道があると、それをきっかけに物不足パニックが起るおそれがありますが、それは避けたいものです。東北関東大震災の直後には首都圏でも、一時、パニック症状的な動きが出て、それと似たような現象が見られました。やはり、緊張があまり高まらない、今のうちから、みんな徐々に備えておくようにしたほうが、みんなのためにも賢明ではないでしょうか。
個人レベルでも、シェルターをつくるという人がいます。お金がある人はそれができるでしょう。米国の竜巻多発地域では、死傷被害を受けるのはシェルターを持たない、特にトレーラーハウスなど簡易な住宅に住んでいる人たちの被害が多いそうで、ここにも所得格差があるようです。もっと被害が深刻になると公共シェルターなどの論議が起ってくるかもしれません。
今、俄に慌てふためくのは、むしろ滑稽(こっけい)ですらありますが、今からゆだんなく個人レベルでも、缶詰や水などの備蓄も含めて、それぞれが備えておくことは必要なのではないでしょうか。それが、いざという時に、「助けてください」の他人依存一辺倒を軽減し、パニックを起こさない歯止めになるのではないかと思います。
なーんちゃってるけど、自分自身を振り返ってみると、あまり備えができていません。これからやるつもりです。
イメージはインターネットから借用
(20170601)
もう春ですね。確かに、でもまだ冷たい空気が残っている。ヒンヤリとした 肌を刺すような感触。そんな空気に似つかわしい、日本水仙の香りは冷気が 感じられるからこそ、ホッとする爽やかで清楚な香り。花の少ない冬の間中 野原や水辺を彩り、寒さの中でも凛として咲く日本の花。別名を「雪中花」とも「雅客」とも称したという、冬の名残香を伝えてくれる地味な姿の花である。
ニホンスイセン
誰でも知っている水仙だから、其の、花の姿をよく見てくれる人は少ない。 水仙の花は、群れている花々としてしか見てもらえない。よく視ると白い花の中央は、黄色いアクセント、小さなカップ状をしている。地味だが一輪挿しでも十分に存在感があり、爽やかな芳香は部屋の空気に、清潔感を伝え切る。
学名には「小さなコーヒー茶碗」のある、「中国系」の水仙、という意味が加えられており、ニホン水仙が外来種であり、中国の神話「水の仙人」に起源があるのだと気付かされる。水仙はナルシストの語源でもあり、ギリシャ神話の水面に映る、自分の姿を覗き込む姿勢が、花の風情に重なっている。水仙の学名「ナルシス」には、洋の東西の神話が潜んでいたのだ。
ニホン水仙を名乗り、その香りを漂わせているのに、気づいてくれる人は少ない。昔は皆愛でてくれたのに、何故?「其のにほひ 桃より白し 水仙花」と眼の前にある、其の水仙の匂いを愛でたのは芭蕉。馴染みのある桃の花の匂いより、甘さと温かさが少ない、淡白な冬の名残香を感じ取ったのであろう。 色香は移ろいやすいものだからこそ、今、愛でてやらなければという共感か?
「われ感ずる 故にわれあり」とは、感覚論者のコンディヤックの言葉だ。しかし賢くなりすぎた皆様方は「われ思う 故にわれあり」を疑うことなく、 ホモサピエンスに徹しておられる。たまにはホモルーデンスの遊びの世界を楽しんでは如何ですか? 遊びはゆとりです、恥ずべきことではありません。
ジョンギル黄水仙
そろそろ花屋さんの店頭に小ぶりの花、ジョンキル黄水仙が顔を出す季節。別名は「ニオイ水仙」いい香りです。温かみと甘さが感じられる、間違いなく春の先ぶれ香です。誰にでも好かれる芳香であると、保証できる。ぜひ春先の花屋さんの店頭で、探してみてください。そして鼻を花に近づけてください。
アランコルバンは「匂いの歴史」という本で「ジョンキル黄水仙」と「瘴気」を芳香と悪臭(非衛生)のメタファーとして捉え、フランス18世紀の悪臭だらけの生活環境から、悪臭という概念が発明された歴史、悪臭との住み分けと衛生思想の発展を論じている。「瘴気」とは、病原菌が発見される以前の病気の元になる邪気という捉え方。18世紀末までは衛生学者が悪臭を訪ねて、それを排除する活動をして、結果的には病原菌の繁殖を予防していた。病原菌の概念が普及し社会常識になったのは、19世紀になってからのことなのだ。
鼻は悪臭や火事のにおいを嗅ぎ分け、安全を確保する役割を担っているが、すぐに慣れてしまう、感じなくなってしまうという、嗅覚には順応性がある。悪臭が身についても、気付かない危険があるのだ。身ぎれいにする嗜みが、昔から云われてきたが、恐れることはない、悪臭って可愛いところがあるのだ。
人間由来の汚物の匂いには、どこかアフィニティがあるらしい。微量の希薄な悪臭成分は、人間にとって魅惑的らしいのだ。ジョンキル黄水仙には汚物臭の成分が微量含まれている、これがなんとも快い匂いなのだ。
善悪・美醜の世界でも、ちょい悪、ちょい臭は許容されるのだろうか、いや歓迎されているのか? 西洋水仙である、ジョンキルと日本水仙を比較して観て嗅いで、日本の四季の楽しんでください。鼻が利かなければ、美食を楽しむこともできない。食事の楽しみが、単なる食餌になってしまう。
日がな一日、長閑に暮らすにはそれなりの才覚が必要だ。人生の後期高齢者として、老醜を感じさせず、高貴高麗者らしく振る舞うには、鼻こそ大事だ。触覚・味覚・鼻さえ利けば、目がかすんでも、耳が弱くなっても大丈夫。恐竜時代を生き延びた、哺乳類の根源的な感覚が残っているのですから。
ジョンキル黄水仙の香気を、是非楽しんでください。
(20170227)
山形さんのブログを見ていたら、淡路町まで行って落語を聴いて笑ってきたそうで、この歳になるまで落語を観に行ったことがないなんて驚きですが、それでも結構なことで、何となくほのぼのとした感じでした。いやなニュースや先行きの見通せない事象の中で、笑いはいい処方かもしれません。同時に、人を笑わせることができればもっといいのかな。
でも、世の中、けしからぬことや不合理だと思うことが目につきます。多分、「最近、けしからんと思うこと」というアンケートを出したら、相当な反応があるのではないかなと思ったりします。
人は怒っていたり、逆境にあるときは、笑いの素材がなかなかないのでしょうね。でも、ちょっとその気になって探せば身の回りにも、何かあるかもしれません。最近、小生の周辺でも、こんなことがありました。
よく家まわりの修理などで面倒を見てもらっている大工さんが、「最近、下馬ではネズミが増えましてね」と言うのです。下馬とは我々の学んだ小学校のあった町で、かなり周囲に広がっている大きな町です。結構、外観が立派なお宅でも、出没して悩まされているお宅が多いのだそうです。
「うちは見たことがないなあ」と言っていたのですが、先日、私の書斎というよりは物置化している部屋に持ち込んでおいた紅茶用の砂糖のスティックが1本破れて砂糖が少し飛び出していました。
血糖値が要注意なのであまり使わなくなっているのに、そう言えばなんだか本数が減っていくような気がしてきました。砂糖の代わりにキシリトールのチューインガムのボトルのふたを開けっぱなしにしておいたら、これも数が減ったようです。 USA TODAYのホロビッツという食品分野に強いコラムニストが10年前に予想したのが当たって、ガムは機能性ガム(オペレーショナルガム=何かの効能があるガム)の人気が高いそうです。
ネズミも「このガムは歯にいいそうだ、チュー」とか言ってこのチューインガムを食べているのかなと考えたりします。サプリ米とかいうビタミン、ミネラルが入っている黄色い米の小さな袋も、もしかしたら狙われたのかもしれません。
イメージはインターネットから借用
友だちと「ネズミもサプリを食ったら健康になるのかな」、「チューインガムをネズミは噛むのかなあ。飲んだらフンはどういう形になるのだろう」などと電話で雑談していたら、かみさんが聞きつけて「本当にネズミ、いるの?」と、電話の後すごい剣幕で聞いてきたので、「いや、オータナティブ・ファクトだよ、まあ虚構だ」と煙に巻いて逃げたのですよ。 でもね、追い打ちが来て「そういう、ありもしないのに無くなった、無くなった」というのは認知症の始まりよ。病院に行ってみてもらってちょうだい」と迫ります。なかなか、ネズミのように速足でサッとは逃げられないのですよ。 以上、お粗末でした。
(20170218)