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2022.05.10
ロシアのウクライナ侵攻は世界を揺るがせている。駐中国、駐インド両大使を歴任した谷野作太郎氏に日本外交の在り方などについてインタビューした。前編では、ウクライナ危機下の外交の役割、国交正常化50周年の日中関係などを聞いた。外交がなければ戦争は防げない
泉 ウクライナ危機に伴い、米中関係や日中関係と絡んで「台湾有事」などの議論が急浮上しています。
谷野 今、日本では「いずれ台湾有事の事態が来る」、「台湾有事は日本の有事」、はたまた「だから『米国との核の共同保有』について早急に議論を始めよ」と。
中国の習近平国家主席は台湾武力解放の挙に出るほど愚かだと思いたくありませんが、ウクライナをめぐる情況を中国は注意深く観察しているはずです。
いずれにせよ、台湾の将来を決めるのは、台湾住民の意志です。将来、中国と台湾との間の関係をどうするかということについては、あくまでも両者の間の平和的な話し合いによって決めていくべきものです。
「台湾有事」は「日本の有事」という側面があることは否定しませんが、その前に日本の政治の領袖(りょうしゅう)方が対外的に発すべきメッセージは、そうならないように、ここは「外交」の出番だということです。「外交」ですべてを防げるわけではありませんが、「外交」がなければ戦争は防げない。
中国はもっと仲介に動いてほしい
泉 中国語とともにロシア語を勉強され、旧ソ連時代にモスクワ勤務の経験もあります。ウクライナ危機に日本外交はどう向き合うべきでしょうか。
谷野 私は若い身でモスクワの日本大使館に勤務したこともあって、キエフ(キーウ)やクリミアも訪れたことがあります。プーチン大統領の暴挙は許し難いことですが、なぜ、そうなる前に、米国とロシアの間でもっと真剣な外交活動がなされなかったのか、という思いを強くしています。米国はむしろその間、ポーランド経由で最新の武器をウクライナに送り続けたといわれています。そしてウクライナのNATO(北大西洋条約機構)入りをけしかけた。
冷戦崩壊後も、ウクライナは、ここが軍事的に対立するロシアと西欧諸国との間にあって地政学的に軍事的緩衝地帯たることを宿命づけられています。
ゼレンスキー大統領はやっとNATO加盟をあきらめ、ウクライナに適した軍事的「中立」の仕組みを案出したいと言っているようです。ぜひ関係国が知恵を絞って、そこにたどりついてほしいと思っています。EU(欧州連合)加盟はよいと思いますが、他方、バイデン大統領の「プーチン政権を倒してやるんだ」と…。あの発言は本音はともかく、勇み足でしたね。(バイデン氏の)令息についてはかつて、ウクライナ・ビジネスとの関係が取り沙汰されたこともありました。その一方で、パラノイア(偏執病)のうわさが絶えず、核の使用を口にするプーチン大統領も心配。とにかく、政治、外交が機能しないで戦争となった時、その下で犠牲になるのは、いつも責任のない女性たち、いたいけな子供たち、そして老人たち…。今のあの痛々しいウクライナの情況は、中国では全く報道されていないのでしょうね。
中国もこの際、もっと仲介の方向で動いてほしいですね。そうすれば、世界が中国を見る目も少しは変わるでしょう。
日本の今の立場でロシアとウクライナ、その背後の米国との間で「仲介」などという大役はとても無理でしょう。しかし、いつの日か分かりませんが、いったん和平成ったあとのウクライナの復興支援については、日本もいろいろな面で大いに尽力すべきものと思います。
もう一つは今回の事態の下、あらためて露呈した国連の問題です。安全保障理事会の改革、国連総会の権限強化など、いずれも長年の懸案ですが、日本はこの面で志を同じくする国々を糾合して国連の強化に向けて大いに努力してもらいたい。
泉 2022年は日中国交正常化半世紀の節目です。日中関係についての見解をうかがいます。
谷野 最近の日中関係は、本当に残念に思います。50年前、日中国交正常化の時、その後の両国関係を律するガイドラインとして、周恩来首相はよく「求同存異」ということを口にしていました。両国の間の「小異」は残しつつも、そのうえで両国の平和善隣友好関係という「大同」を目指そうと。
ところで、日本では「小異を捨てて、大同に就く」という言い方が定着したようにみえますが、ご存じの通り、本家本元の中国では、「小異を捨てて」という言い方はありませんね。「存異」です。「小異」はどうしても残るし、残すんです。特に激しい外交交渉の決着のあとはそう。大事なのは、その「小異」のところについて意を用いながら、用心深く管理し、手当してゆくということでしょう。
ところが、近年の風潮は、その「小異」を日中双方でことさらに荒立てて、そこに多くの政治家、メディアが参戦して、これを「大異」にまでもって行って盛り上がる。そんな状況を、まま目にします。
私はかねて、今日の両国の経済関係は「共鳴、共創」の関係に入った、そのことを踏まえつつ「共存、共栄」を目ざす時代になったと言ってきました。お互いに良い意味で刺激し合う「共鳴」、長短相補いつつ一段と高いところを目ざす「共創」、そうやって「共栄」の世界を目指すということです。
「共創」のテーマは、環境保全、省エネ、IT(情報技術)の活用、電気自動車(EV)などいろいろありますね。しかし、残念ながらお互いに「政治」が邪魔をする中、ここへの切りかえが十分でないような気がします。
昨年の東京、今年の北京のオリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式をテレビで観ました。北京の方はITをふんだんに駆使して、優雅な中にもメッセージ性もあり、日本の関係者には失礼かもしれませんが、今回は北京の方に軍配を上げざるを得ませんでした。総監督として指揮した張芸謀(チャン・イーモウ)さんとは、私が北京在勤時代、若干のおつき合いがありました。
泉 日中国交正常化前に香港に駐在され、1972年9月29日の日中共同声明の前後はモスクワ駐在でした。当時の思い出をお聞かせください。
谷野 私の香港駐在は1963~65年で、当時の香港は日本も欧米諸国も「チャイナ・ウォッチング」(中国情報の入手・分析)の一大拠点でした。
そんな中、私たち日本総領事館は、欧米の総領事館が持っていないユニークな情報ソースを持っていました。新中国の経済建設を手伝って欲しいと中国にとどめ置かれていた日本人の技術者、学校教員といった人たちが当時、やっと中国側も了解する中で、一人ひとり帰国することになりました。
当時はまだ日中間の直行便がないことから、皆さん香港経由で帰っていくわけです。そこで、お世話もかねて、この人たちをアテンド(接待)し、その間、中国の情況をいろいろと聞き出すのです。
こうして、中国では反右派闘争、大躍進、人民公社、そして大飢饉と毛沢東流の独り善がりの治世の下、いかに大変な情況だったかということを話してくれるわけです。当時、日本では大躍進、人民公社などについては真逆の本が出回っていましたから、私たちはびっくりしながら、そのいちいちを東京の方(外務省)に書き送ったものです。
当時、著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で有名なハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授も若い身で長期、香港に滞在していました。広東から逃げてきた中国の若い(共産党)党員をつかまえて何日もかけてインタビューし、その結果を本にしました。彼とはその後、私がハーバード大学CFIA(国際問題研究所)に在籍した時も含めて長いつき合いでした。実は(2020年12月20日に米国で)突然亡くなる直前、東京で食事する機会がありました。ですから、びっくりしましたね。
モスクワには自ら志願して、1971年に赴きました。72年9月の日中国交正常化の前、モスクワの中国大使館の人たちとはパーティで顔を合わせることがありましたが、先方は握手しても私としっかり目線を合わせるでもなく……。そんな感じでした。ところが、正常化のあとは大きく変わりました。
私のつき合いの相手は主として銭其琛さん(当時、政務参事官。その後、本国に帰って新聞局長、外相、副総理を歴任)でした。ご夫妻で二度ほど私の小さなモスクワのアパートに食事に来てくれたことを記憶しています。おだやかで、バランスもとれて、模範的な優等生タイプの外交官でしたね。
銭基琛氏(右端)と王毅氏(左端)=2002年4月23日、中国・北京の人民大会堂(撮影・泉宣道)
銭其琛さんとはその後、何度も会う機会がありましたが、日中間でむずかしい問題についても解決に向けて前向きに対応してくれました。例えば、私がアジア局長の時、こんなことがありました。
当時、日本の銀行で台北に支店を出していたのは第一勧銀(第一勧業銀行、現みずほ銀行)だけ。そんな中、東銀(東京銀行、現三菱UFJ銀行)も台北に支店を出したいということで手続きを始めた。これに対して、東銀という著名な銀行が台北に出すということになると、日本の他の銀行がこれに続くということを恐れたのでしょう。
在京中国大使館の唐家璇公使(当時。その後、外相、国務委員など歴任)が私のところにやって来て、「絶対止めて欲しい」と言うんです。私は、そもそも東銀の台湾進出は何が悪いと思っていたし、第一これを止める権限など外務省にはないと答えました。唐家璇さんは最後はプリプリして帰って行きました。これは「日中共同声明違反だ!」という捨てぜりふを残して。
その結果、何が起こったかというと、当時、東銀は他の邦銀と共に、同時並行的に上海支店の開設も申請していたのですが、東銀だけが蹴られました。
私たちは「こんな理不尽なことがあるか!」と思って、日中外相会談の折、銭其琛外交部長(外相)にねじこみました。上海出身の銭さんは「しばらく時間を貸して欲しい」と応じ、その結果、1年くらい経ってからだったでしょうか。東銀の上海支店開設の許可がおりました。
泉 国交正常化から間もない1973年10月、北京の日本大使館に一等書記官として赴任されました。最初の北京駐在の印象は。
谷野 当時は毛沢東時代の末期で、国政のキャッチフレーズは「自力更生」。すなわち「ヒトサマ(西側先進工業諸国)の厄介になどならず、自力で発展してみせる!そしていずれ英国を抜き、さらに米国も!」と。かけ声だけは大変勇ましい。しかし、それはそれで大変独り善がりの中国でした。
ひと頃まで頼りにしていたソ連との関係もイデオロギー論争の末、最悪の状態となり、ソ連の技術者たちも、皆引き揚げるという情況でした。
北京の街中、各所に赤色の小冊子『毛沢東語録』から選んだ毛沢東の「お言葉」が氾濫。中国の映画、演劇といっても観るに耐えるものはなく、京劇も三国志、西遊記などからとった伝統的な演目はすべて江青女史(毛沢東夫人)の指示で追放されました。舞台で演じられるのは「様板戯」(模範劇)といって江青女史がその作成にまで深くかかわったといわれる革命現代京劇、音楽の方も欧米のものは排除され、ベートーベン批判が始まるという情況でした。もちろんカラオケ、ゴルフ場などはとんでもないこと。
モスクワから北京に移り住んで、ソ連との比較で今でも覚えていることがいくつかあります。
その第一は、北京は貧しい中でも新鮮な野菜、果物の類はかなり豊富なこと。モスクワは大きなデパートはあるものの、食料品売場の棚はほとんど空っぽでした。他方、電化製品、家具などは使えるに耐えるものがない。日本大使館はちょうど立ち上げの時期でしたので、私は命を受け買い付け部隊長として香港、東京に行き、それこそ航空便のカーゴ・ルームがいっぱいになるような大量の買い物をしました。
第二は、北京には泥棒がいないということ。当時、ホテルの部屋に小銭を忘れても、従業員が「お忘れもの!」と追いかけてくるといった情況でした。
日本との関係で言えば、国交正常化直後ということもあって、「中日友好」の教育が人民たちの間に徹底されていました。当時、日本人学校はないため、私の長男は外国人子弟を受けいれている芳草地小学校(北京芳草地国際学校)に通っていました。一学期が終わって成績表をもらってきたら、何とオール「優」。まだ中国語もできないのに、こんなはずはないと家内と担任の先生を訪ねたところ、「中日両国は世世代代友好で行かなくてはなりません」、「これ(成績表)は、そんな私たちの気持ちを表したものです」と(笑)。家内と二人で苦笑しました。
泉 「竹のカーテン」の中で、中国共産党の内部では権力闘争も起きていたようですね。
谷野 当時、党の中央では大変醜悪な闘争が進行中でした。毛沢東、林彪、江青、張春橋らが入り乱れて。その後、情況が逐一明らかになっていくのですが、中国は昔から、そして共産党になってからも王朝国家の域を出ていない。中南海(党中枢)に皇帝がおり、その下で佞臣(ねいしん)、奸臣(かんしん)らが入り乱れて、策を弄し……。当時、私たちは、その情況を知る由もなかったのですが。
その間にあって、常に毛沢東を立てつつ苦労したのが周恩来総理です。ある中国人曰く。「毛沢東は革命の人。鄧小平は国造りの人。周恩来は、その両方だった」と。
大躍進、人民公社、これに続く大飢饉、そして文化大革命……。中国の歴史のこの部分を振り返ると、毛沢東の犯した罪は決して小さくないと思います。
(2022年4月19日、都内の日中友好会館でインタビュー)
〈(後編)「日中韓で東アジア版エリゼ条約を」はこちら〉
バナー写真:谷野作太郎氏=2022年4月撮影
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2022.05.11
泉 宣道 【Profile】
駐中国、駐インド両大使を歴任した谷野作太郎氏へのインタビュー。後編では、1998年秋の中国の江沢民国家主席の訪日延期で幻になった日本の国連安全保障理事会常任理事国入り問題、「村山談話」、日中韓“和解”条約構想などを聞いた。
泉 1998年4月に駐中国大使に就任されました。その年の9月に江沢民国家主席の訪日が予定されていて、「日中共同宣言」が焦点となっていました。8月21日午後、北京の日本大使館で差し向かいで話していた時、突然連絡が入り、大使は退出されました。その日の夕方、中国当局は大洪水を理由に江沢民主席の訪日延期を発表しました。もし、当初予定通り9月訪日が実現していたら、日中関係は大きく変わっていたのではないでしょうか。
谷野 あの時、急に唐家璇外交部長(外相)から呼び出しを受け、大洪水のため9月に予定されていた江沢民国家主席の訪日を延期せざるを得ない、と告げられました。それはいたし方ないこととして、その結果、次のような事態となってしまったんです。
すなわち、もともとはそのあとに予定されていた韓国の金大中(キム・デジュン)大統領の方が先(10月)になり、江沢民主席の訪日はあと(11月)になってしまいました。
小渕恵三首相と金大中大統領が10月8日に合意した「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」で、日本側は韓国に対する公式の反省と謝罪を初めて文書に明記しました。日韓両国は「過去」の問題に一つの区切りをつけ、これからは未来志向でいこうと。
ちなみに、この金大中大統領の訪日は、当時、日韓それぞれの側で高く評価され、韓国側でも映画など日本文化の解禁などの措置を取りました。そんなことで、あの時、日韓両国の関係が戦後最高の高みに達した時期として、今なお特に日本側で記憶に残るところです。
金大中氏については、前にお話したハーバード大学のCFIA(国際問題研究所)時代、彼もそこにフェローとして夫人とともに来ていたものですから、爾来、夫婦ぐるみの付き合いがありました。懐かしい人です。今やお二人とも亡くなってしまいましたが。話は横にそれますが、その金大中氏が大統領時代、北京に国賓としてやって来たことがありました。その折、「これから、タニノのところに行くか」という話になったらしいのですが、中国政府との関係で、そんな乱暴なこともできない、ということになったとか。あとで、在北京の韓国大使館から聞きました。私はその折、韓国大使館を通じ、「日韓関係はこれからも折々の大波、小波をかぶることもあるだろう。その時に試されるのが、貴兄の政治家としての勇気とリーダーシップだ」という趣旨の書簡を送ったことを覚えています。
江沢民主席の訪日が結局、金大中大統領訪日のあとになった結果、中国側は来るべき「日中共同宣言」では、日中間の「歴史」の問題について、あの小渕・金大中宣言(小渕首相が「痛切な反省と心からのお詫びを述べた」と明記)を、そっくりそのまま採用してくれなければ、中国国内がもたない、と言い出したわけです。
泉 江沢民主席の訪日が延期になる前、中国側は日本との歴史問題に一つの区切りをつけようとしていたのではないですか。
谷野 中国外交部の王毅部長助理(現国務委員兼外相)は私に「大使、“歴史”の問題については、もうわれわれは日本側に迷惑は掛けません。“謝罪”も求めません。来るべき江沢民主席訪日の際の共同宣言では、“歴史”の問題については『村山談話』をなぞる形で良いから、日本としてのあの時代の認識について、さらっと言っていただいて、“歴史”の問題は今回を最後として、日中共に21世紀に向けて新しい中日、日中関係をつくりましょう」と言っていました。
王毅さんのレベルで勝手にそんなことを言えるはずがない。おそらくこれは「中南海」(中国共産党中枢)の考えでもあろう。中国も変わったものよ、と新鮮な気持ちで受けとめたことを覚えています。
ところが、中韓首脳の訪日時期が逆転したことで、がらりと変わった。江沢民主席の訪日は、小渕・金大中宣言の直後(約1カ月後)、しかも日本の首相は同じ小渕さん。その小渕・江沢民宣言(日中共同宣言)で、あの文言(「痛切な反省と心からのお詫びを述べた」)が踏襲されないとなれば、中国の国内がもたない、と言い出したのです。
こうなると、中国側はてこでも動かない。11月に発出予定の宣言は北京で、中国側と詰めていたのですが、「日本側が中国側の要望を入れてくれない限り……」と中国側の担当者は日本側の担当者(泉裕泰参事官=当時、現日本台湾交流協会台北事務所代表)と会うことすら拒否するという日々が続きました。
そんな時、たまたま橋本龍太郎さん(前首相)が訪中されました。橋本さんは私に「そりゃ君、中国側がそう言うのは当然だよ」とおっしゃっていました。
ところが、肝心の小渕首相がなぜか大変固かった。いずれにせよ、この問題については、詳細は省略しますが、その後の両国の外相会談などがあって、結局、本番の両国首脳会談の冒頭、テータ・テート(二人だけの差し向かいの会談)の形とし、その場で小渕首相より“口頭”で、「村山談話」を若干、中国向けに修正したものを述べ、やっと収まった次第でした。
日中首脳会談を前に握手する小渕恵三首相(左)と江沢民中国国家主席(東京・元赤坂の迎賓館)[代表撮影] (時事)
泉 1998年11月の「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」には結局、小渕・金大中宣言に盛り込まれたような公式の反省と謝罪の文言は明記されなかったわけですが、後日談はありますか。
谷野 王毅さんは私に「大使、本当に惜しいことをした。日本側があの時、中国側の要求を受け入れてくれたならば、中国側は日本の国連安保理常任理事国入りを支持することになっていた。結果は、日本側の固い姿勢の下、相討ちになった」と言いました。
にわかに信じ難い話ですが、当時、中国の社会科学院の日本研究者の間では、日本の常任理事国入りを主張する向きが大勢を占めていましたので、まんざらうそでもないのかなと思ったりしました。ちなみに、中国は首脳が外国訪問に出かける前に、こういった学者、研究者たちの意見を聴取することがあるようです。
私は常々、中国側の関係者に「もし中国側が日本の常任理事国入りへの支持を表明してくれたら、もやもやした日中関係を覆う日本側の空気は大きく変わるよ」と言い続けたものです。
泉 「日中共同宣言」をまとめるまで曲折はありましたが、中国の国家主席が国賓として公式訪問したのは初めてでしたし、「世界の中の『日中関係』」という概念を国際社会に発信できたのは有意義でした。
谷野 日中共同宣言の「双方は、日中両国がアジア地域及び世界に影響力を有する国家として、平和を守り、発展を促していく上で重要な責任を負っていると考える。双方は、日中両国が国際政治・経済、地球規模の問題等の分野における協調と協力を強化し、世界の平和と発展ひいては人類の進歩という事業のために積極的な貢献を行っていく」との部分が、世界の中の「日中関係」、「中日関係」です。
ちなみに、このくだりは中国側の主張で入れたんです。中国もやっとその気になってくれたか、と感激したことを覚えています。
私はよく、中国外交部(外務省)のジャパン・スクールの若手の人たちに「あなた方はいつも狭い中日関係の世界に閉じこもっていないで、“世界の中の中日関係”という視点を取り込むべし。そのためには長いキャリアの中で、一、二度は欧米など日本以外の国に勤務する機会があったらよいね。日本の外務省の場合はとっくにそうしているよ」と言ったものです。その後、王毅さんがアメリカへ短期留学の機会が与えられました。また、東京の中国大使館にも、日本との関係がなかった、日本語がしゃべれない外交官が来るようになりました。よいことです。
泉 内閣外政審議室長でいらした1995年7月、村山富市首相から戦後50年の「談話」案を作成するよう指示を受けましたね。いわゆる「村山談話」ですが、8月15日の閣議決定に持ち込むまでどのように調整されましたか。
谷野 ある日突然、村山総理からお呼び出しがあり、「君が一案、書いてくれ。それを官房長官と自分のところに持って来てほしい」と。
私は内閣参事官室の方で(談話案づくりの)作業が進行中であることは承知していましたので、若干ちゅうちょしたのですが、外ならぬ総理から直接のご指示だったので、内々私なりの一案を作るべく筆をとり始めた次第でした。その間、計3人の学者と内々ご相談しました。もっとも私の方で用意したものについて、大きな修正はなかったと記憶します。
そうして出来上がったものを官房長官と総理のところにお持ちし、「よし、これで行こう」と。内閣参事官室の方では、「ある日、突然、上の方(官房長官)から、全く別のテキストが降って来たので、驚いたって何のって」と、これは当時、内閣参事官室に通産省から出向していた松井孝治さん(その後、政界に転出し、民主党政権時代の内閣官房副長官)が、その後、いろいろなところで述べていらっしゃいます。
「村山談話」については、いくつかのことが思い出されます。8月15日の発表直前になって、内閣改造(8月8日)があり、官房長官が五十嵐広三さんから野坂浩賢さんに代わりました。その野坂さんが突然、「談話に重みを持たせるため、閣議決定としたい」とおっしゃった。これには事務方は大変あわてました。
閣議決定は、ご承知の通り、全員一致でなければならない。他方、閣僚の中には、この種の「歴史」にからむ問題については、良くも悪くも一家言をお持ちのおっかない方も少なからずいらっしゃる。そこで急きょ、内閣参事官室が手分けして閣僚方のところに根回しに赴いたわけです。その過程で橋本龍太郎通産大臣(当時、副総理格として入閣。遺族会会長)からは、談話原案に「敗戦」と「終戦」と両様の書き方が混在しているところを「この際、“敗戦”という表現に統一しては如何(いかが)」とのご示唆を得ました。
自民党への根回しについては当時、副総理・外相として入閣しておられた河野洋平・自民党総裁のもとに足を運びました。2回ほどご説明に上がったのですが、大臣は案文を懐に収めたまま、何らのご返事もありませんでした。
河野先生は、リベラルな方ゆえ、内容をご覧になって、これにご異存はないものの、これをそのまま党に諮ったならば、議論が沸騰してまとまるものもまとまらない、と心配されたのではないかと思います。従って文字通り、懐にしまったままだったのでしょう。
泉 フィリピンのラモス元大統領はかつて日中韓を中心とした「北東アジア諸国連合(ANEAN)」こそ、必要だと提唱しました。東アジアの和解に向けて「エリゼ条約(仏独協力条約)」はモデルとなりますか。
谷野 1963年1月に調印された有名なエリゼ条約では、独仏間の和解、協力推進に向けて①両国の首脳、外相、国防相間の会談の定期化②ホーム・ステイを含む大規模な青少年交流③大学教育の単位、学位等の相互同等性の実現――など幅広い分野での協力が定められています。
この条約の署名者は、フランス側がドゴール大統領と関係閣僚、西ドイツ(当時)側がアデナウアー首相と関係閣僚でした。そこに両国の最高首脳らがかけた強い政治の意志をみる思いです。その後、青少年交流に参加した人たちから、独仏それぞれの側で閣僚になった人も少なくないと聞きました。
日本の場合も、中国、韓国、東南アジアとの間で、同じような青少年交流プログラムはあるものの、残念ながら、質、量、それを支える仕組み面において雲泥の差があります。そこで、東アジア版エリゼ条約のようなものを考えてはどうだろう、という話になるわけです。また、その下で東アジアと日本との間の青少年交流を統一的に担当する「東アジア青少年交流財団」のようなものを立ち上げられないものだろうか、と思ったりしています。
泉 東アジア版エリゼ条約の具体的な構想をお聞かせください。
谷野 参加国はとりあえず、今日最もこのような仕掛けが必要とされる日本、中国、韓国の3カ国です。幸い、この3カ国の間には首脳が一堂に会する「日中韓サミット」の場があります。
もっとも、現下の厳しい政治情況の下、2019年12月の第8回日中韓サミット(中国・成都で開催)以来、しばらく開かれていません。しかし、韓国で近く、新しい政権が誕生(5月10日に尹錫悦=ユン・ソンニョル=氏が新大統領に就任)することになりました。一つのチャンスかもしれません。
私はかつて関西方面に出張する機会が少なくなかったものですから、奈良県知事、京都市長といった方にお会いするたびに「どうでしょう。奈良条約、京都条約のようなものを考えられないでしょうか。奈良、京都は昔、日本で中国大陸、朝鮮半島との交流の中心だったのですから」などと提案してきました。
もちろん、日中韓サミットが中国や韓国で開かれる場合は、西安条約、慶州条約など開催地の名前でよいのです。これも、ひとえに関係国の政治のトップの方々の大きな覚悟と強いリーダーシップを必要とする話ですが、私はそんな夢を捨てきれないでいます。
(2022年4月19日、都内の日中友好会館でインタビュー)
【谷野作太郎氏のインタビュー後の寄稿】
日本はもっと「中国研究」を
コロナとウクライナをめぐる情況、これが終わったあと、世界はどうなるのか。私は今、世界がひとつの大きな転機にさしかかっている気がしてなりません。
アメリカ、中国、ロシア、また世界中、問題だらけの情況ですが、私は日本の将来についても心配しています。改革が一番遅れている政治(国会)の情況、その下にあってブラック企業化してしまったといわれる霞が関(役人村)、このことは本インタビューのテーマではありませんので、ここでは述べることを差し控えますが、そんな中、私が年かさのいった老人として心配しているのが、日本の次世代を担う若者たちの「教育」の問題です。
とくに、理工系の分野での人材の層の薄いこと。よく、中国、欧米との比較で話題になるところです。ドクターレベルの人材の少ないこと。世界的に注目される論文も少ない。中国や韓国に比べて、良い意味での産官連携がまだまだ未熟。そして、この分野への国の予算の注入は、中国などに比べると、雲泥の差です。
中国から日本に留学に来た若者たちが、日本の教育のレベル(とくに理数)にびっくりして、「どうやら、留学先を間違えたらしい」と。
インドでは、とくにIIT(インド工科大学)が世界的に有名ですが、インドの若者たちはIITに不合格だった場合にそなえて、すべり止めにボストンのハーバード大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)を受けておくか、ということが話題になるそうです。これは昔、少しでも優秀なインドの若者に東京大学に来てもらおうと、インドのバンガロールに東大の事務所を構えていた所長さんの話です。IT(情報技術)を目ざすインドの若者たちに東京大学のことを話すと、「University of Tokyo? 聞いたことがないなあ」と。
中国との関係では、日本における「中国研究」が先細りになってきているのではないか、と心配しています。東京大学の著名な某教授(中国政治)が「自分のゼミに来ている学生は、ほとんどが中国人、そして若干名の韓国人、日本の学生は一人もいない」と以前、話していました。
他方、中国における「日本研究」は、こういう中日関係にあっても、その質、量、広がりとも半端ではありません。中国社会科学院はもとより、著名な大学には必ず「日本研究センター」があります。その点、日本の情況はお寒いかぎりです。
そして、欧米にあっては、つとに若い学生たちは、日本研究から、中国研究の方にくら替えしてゆくとか。こんな状況では、「他ならぬ隣国の中国については、日本は研究も人脈も欧米よりは上」とたかをくくっていると、気がついた頃に、この点でも欧米に抜かれてしまった、ということにもなりかねないと思っています。
要は、いま一度、オールジャパンでがんばって、世界から一目おかれ、そして徳の面でも――ここは私のような者が言えたことではありませんが――世界の尊崇の念を集める日本を取り戻すことです。がんばりましょう。
世の中(国際情勢)が乱れゆく中、やはりできるだけ早い機会に日中首脳会談を、と思います。もちろん、それに向けて一定の準備、なかんずく米国との間で「中国」について十分な意見交換、すり合わせ(すべて米国の言いなりになるということでなく)をしておくことが大切ではありますが。
習近平国家主席はこのところ「共同富裕(ともに豊かになる)」ということを言い出していますね。他方、岸田文雄総理も「新しい資本主義」をと。そこには、通底するものがあります。なれば、首脳会談で、お互いに事務方の用意したペイパーを語り合うだけでなく、そういったテーマについて余人を交えず、お二人でお互いの思い、悩みを語り合ったらよい。よく言われる「首脳間の信頼関係」は、そうやってこそ生まれるものだと思います。
【谷野作太郎・元中国大使インタビューを終えて】
歴史的外交文書にも関与した「リベラル保守」の論客
「歴史にIF(もしも)はない」ものの、1998年の夏に中国で大洪水が起きていなかったら、21世紀の日中関係はもっと違ったものになっていたかもしれない。谷野作太郎氏へのインタビューを通じて、そんな感を強くした。
ひょっとしたら、中国は日本の国連安全保障理事会常任理事国入りを支持していたかもしれなかったのだ。もっとも、1998年11月の「日中共同宣言」には、双方は「安全保障理事会を含めた改革を行うことに賛成する」(下線、泉)と明記されている。中国側はこの立場に今も変更はないのか、一度、中国外交部に尋ねてみたいものだ。
谷野氏は「村山談話」をはじめ歴史的な外交文書にも、事実上の“執筆者”として関与してきた。今年は南東アジア第二課長としてかかわった「福田ドクトリン」から45周年。福田赳夫首相が1977年8月、マニラでスピーチした東南アジア外交三原則で、「心と心」の関係がキーワードとなったことで有名だ。ちなみに福田氏の長男、康夫氏(元首相)と谷野氏は幼なじみである。
「アジア太平洋」と「インド太平洋」の双方を主舞台として、戦後の日本外交の最前線に立ってきた。「リベラル保守」を自負し、戦前の不幸な「歴史」にも真摯に向き合ってきた。こうした経験を踏まえ、今でも積極的に発言している。
北京駐在経験者が集う「燕京会」で挨拶する谷野氏=2019年1月、都内のホテル(撮影・泉宣道)
4月19日に都内の日中友好会館で開かれたオンラインの「日中メディア対話会」では、ロシアのウクライナ侵攻に対して「ぜひ止めてください。その役割を果たせるのは中国とインドしかない」と訴えた。
筆者は政治部の駆け出し記者だった1981年10月、当時内閣総理大臣秘書官を務めていた谷野氏の面識を得た。以来、取材を続け、98~99年はともに北京に駐在していた。眼光の鋭さ、時折見せるチャーミングな笑顔、ダンディな着こなしは今も変わらない。
なお、谷野氏にはオーラルヒストリーとして『外交証言録 アジア外交 回顧と考察』(2015年、岩波書店)、『中国・アジア外交秘話 あるチャイナハンドの回想』(2017年、東洋経済新報社)がある。
バナー写真:筆者の泉宣道氏(左)と谷野作太郎氏=2022年4月19日、日中友好会館(東京)で