牧 壮
いつもWebsiteを楽しく読んでいます。
私も皆様に近況をと思いつつもつい延び延びになっていました。実は昨年12月に起業しその対応に追われておりました。81歳での起業でした。半年経ちそろそろ皆様にご報告出来るかなという段階まで来ました。
「全てのシニアをインターネットに繋ぐ」を理念として「一般社団法人アイオーシニアズジャパン」という法人を立ち上げたのです。
益々進む高齢化社会にあって、高齢者の孤立・孤独からの脱却、また高齢者の持つ知識、経験、技術などをもう一度社会に戻すと言うことで、それらの為に全てにシニアをネットで結ぼうとする活動です。
「Internet of Seniors」(略してIoS)という言葉を商標登録しました。IoT(Internet of Things)がいまや社会に定着し第4次産業革命とも言われていますが、それに加えてIoSが新しい高齢化社会の構築のフラッグとなって貰いたいと思っています。
https://seniors.or.jp/ をご参照ください。
IoSという言葉はまだ知名度がありません。是非これを啓蒙していきたいと思っております。多くのシニアの方からのご支援を期待しております。
取り急ぎ近況のみご報告させて頂きました。いずれまた、もっと詳しい状況をお伝えしましょう。
(20180727)
牧アイティ研究所 代表
(プロフィール概略)
1936年山口県下関市生まれ、3兄弟の次男。父の転勤で終戦時は世田谷、その後新潟へ。新潟大学付属中学・県立新潟高校から慶應義塾大学工学部卒業。旭化成へ入社し、旭メディカル㈱常務→シーメンス旭メディテック㈱副社長→旭化成情報システム㈱社長を歴任し’99年(63歳)定年退職。
’99年に、牧アイティ研究所を設立。念願のリゾートオフィス計画を実行、マレーシア・ペナン島へ13年間移住して、インターネットを活用したグローバルなワークスタイルを実践した。'12年(75歳)に帰国し、次なる展開を実践中。生涯現役のスマートシニアを目指している!!
日本の高度成長時代の推移の渦中にいました。
海外での仕事仲間やネットワークは今でも貴重な財産です!!
生まれは山口県下関ですが、モノ心つく前に父の転勤で東京・世田谷に引越しました。ここで'45年3月10日の東京大空襲を経験、真っ赤に染まった渋谷方面の空は今でも記憶に残っています。その後新潟へ引越し新潟大学付属中学・県立新潟高校を経て慶應義塾大学工学部計測工学科へ。大学時代は勉強の傍ら卓球や麻雀で友達との交流を深めました。
就職活動は出遅れて、慌てて就職課募集版の「あ行」から見て最初に応募したのが「旭化成」。初めてのオリエンテーションで聞いた「これからの日本は化学(旭化成)の時代!!」というフレーズに至極納得して、そのまま入社したのです(笑。
最初の配属は工務部門で、プラントの開発導入・輸出を約10年担当。次いで本社工務本部へ異動。社内ベンチャーの役割を担い、将来のマーケットを見据えたシステム開発の企画に携わり、高度成長期の技術開発の現場を体験しました。社内で開発された各種センサー技術を応用したシステム機器の開発に携わる。更にエンジニアリング会社で医療機器の開発を担当。その中でも国内初のMRI自社開発にも成功したことが強く印象に残っています。
その後、シーメンスとの合弁会社で技術担当代表取締役副社長になり、世界各国を飛び回った。最後のご奉公として、旭化成情報システム(社長)で、旭化成グループのシステム再構築に携わる。クライアントサーバへのダウンサイジング、このダイナミックなIT実務体験がその後の人生に大きな影響を及ぼすことになろうとは・・・。
”Mr.マキ、あなたの老後の夢はなんですか?”
・・・退職後の人生の楽しみ方を考えるようになった!!
55歳を過ぎた頃、ある米国の仕事仲間から質問されました「牧さん、あなたはアーリーリタイアメントしないのですか?」「あなたの老後の夢は何ですか?」・・・アメリカでは50代になると当たり前のように、老後の設計や夢について語り合っている、と聞いて大きな衝撃を覚えました。さらに彼は「子供も孫もいる、会社にも忠誠を尽くして働いた、あなたは世の中に対してやるべきことは全てやった。これからは自分自身のために楽しく生きていいんですよ」と。
このことがあってから、妻や家族とも老後についての話をするようになりました。仕事がら海外渡航経験が多かったので、最初はなんとなく「海外移住して外から日本を見てみたいな!?」という感覚でした。外国の年金と比較すると、日本の年金受給額は先進国の中でとても高い水準です。欧米は物価が高いけれども、アジアなら移住計画も実現できる範囲にありました。
「退職後は海外リゾートで自由を楽しむ!! そして社会とも繋がる!!」
「海外移住計画」を断行、条件を満たしたのはマレーシア・ペナン島。
定年が近づくにつれ、「悠々自適な海外シニアライフ」の夢は膨らみ、具体的な候補地の生活実態や雰囲気を詳細に調べては、休暇の度に妻と同伴で下見ツアーに出掛けたものです。すると東南アジアは、日本では味わえないようなエキサイティングな生活ができることがわかってきました。
’99年63歳で定年退職。移住先は「温暖なこと」「英語圏」「安心安全なエリア(医療体制も含)」「インターネット環境がある」「日本との時差1時間」ということで、最終的にマレーシアのペナン島に決定!!
実際に現地での生活を始めても実に素晴らしかった。4LDKのコンドミニアムの家賃は4万円で勿論オーシャンビュー。日課は夫婦揃って早朝ゴルフの後プールでひと泳ぎ、午後から私は自宅オフィスで仕事、妻は英語レッスンやショッピング、そして夕方から夫婦揃ってスポーツクラブへ。
ワークスタイルは「My Office Resort Office(MORO)」と名づけました。ノートPC(現在はiPad)さえあれば、仕事は全て間に合いますし、インターネットで世界中と繋がり、テレビ会議も無料でできる理想的なビジネススタイルでした。
仕事の内容は中小企業向けのIT活用支援・グローバル化の支援、またカリフォルニア州立工科大学(ポモナ)の在日代表も担当して、グローバルに対応する次世代型ビジネス・アナリストの育成支援もしています。定年直前の仕事が「旭化成情報システム社長」、ITブームの渦中で企業のIT化を推進した中で、これからは中小企業や個人の生活にもITが絶対に必要だと感じて、サポート支援も充分にビジネスになると考えていたんです。個人向けには、日本に滞在している期間だけ、PCやiPadのシニア対象のインストラクターをボランティアで担当していました。
▲プールサイドでメールチェック!!
定年後は横つながり社会が楽しい!!
サラリーマン時代に築いたグローバルな人間関係も大切に!!
組織の中で何十年も働いていると、どうしても縦割社会に体が馴染んでいます。定年後は、まさに横社会。今までの組織の枠組みから解放されると、目の前に新たな世界が拡がります。その新しい世界に出会って楽しむためには、体力と気力が必要で、常に新しい刺激を受けることが大切なのです。そして多くの異文化に接し、新しい友人が増え人生観も大きく変わってきました。
ペナンと日本の往復生活も最初は2年くらいの計画でしたが、なんと13年間も続きました。’12年3月75歳でペナンの住居を引き上げ、日本に戻ってきました。そしてFB三田会の仲間のご縁があって、4月から日野原重明先生(聖路加国際病院理事長)の新老人の会SSA(スマートシニアアソシエーション)のお手伝いを始めました。
●今後の夢・目標・生き方についてー
現在76歳、新しいスマートシニアの生き方を広めたい!!
日本では高齢化社会と情報化社会が同時に急速進行している中で、シニアがデジタルデバイドにならないための個人向けの支援活動に一層力を注いでいこうと考えています。そして主宰・理事を担当させていただいている「ICT経営パートナーズ協会」「SSA(スマートシニア・アソシエーション)」「スマートシニア・タブレットPC活用研究会」などの会の目標達成に向けて頑張って参りたいと思います。
また新しくiPadのDVD「絆~初級操作編」製作にも挑戦して、近々発売予定です。シニアがシニアに指導することを推奨して、シニアのインストラクター育成も開始しています。
年金がベースにあるものの、働くことで社会との接点を持ちながら、自分の価値を他人に判断してもらうこともできる。その対価としての収入は、やはり嬉しいものです。
私も日野原先生にならって「100歳まで生きるぞ計画」を着々と進めています(笑。
「Internet of Seniors(略称IoS)」
が商標登録されました‼
益々高齢化が進む社会のなかにあって、高齢者が自立・自活し、社会から孤立・孤独にならない為に如何にあるべきは大きな社会問題大です。人生100歳時代といわれ、また「2025年問題」としてその対応が求められていますが、その具体策は示されていません。今や社会は「インターネット時代」と言われ、全ての物がネットで繋がIoT(Internet of Things)で「第4次産業革命」と言われる時代にある一方、デジタルの世界に無縁なシニアが増大しているのも事実です。
長寿と共に社会との接点が減りますが、それを補う手段として「インターネットへの繋がり」は今や不可欠な物となっています。シニアこそインターネットの活用が必要と言えます。そこで「すべてのシニアをインターネットへ繋ぐ」ということの旗印とすべく「Internet of Seniors」とういう用語を商標登録しました。今まで「インターネットは怖い」、「もう年だから無理」と言っていたシニア達に、世代を越え、社会を超えての支援活動が出来ればシニア達も安心してインターネットの世界に入れます。65歳以上が全人口の27%をしめるに至る中、1億総活性化という命題を達成するにはシニアのインターネット活用は不可欠です。
多くの皆様のご支援をお待ち申し上げます。
https://www.exa2011.net/mebius-maki/
2023/10/13
2021/10/19
2018/12/10
2014/11/17
子供の頃の思い出を辿るとき、いつも真っ先に思い出すのが学童疎開(集団疎開)のことです。
東京に空襲が激しくなってきた昭和19年、小学校3年以上の学童疎開が始まりました。20年3月、私は小学校の3年生になっり私も学童疎開することになりました。小学3年生といってもまだ子供です。親元から離れての地方での団体生活です。
3月10日の東京大空襲の直後の出発でした。夜の新宿駅の地下道に集められそこで親とのお別れでした。全員に乾パンが一袋づつ配られました。半分遠足気分でしたが先生からは「途中空襲警報が出たら汽車から離れ逃げろ。そのときの非常食だから無事着いたら戻すように」との話がありました。
行先は松本の浅間温泉でした。何軒かの旅館に分かれて既に4年生以上が暮らしていました。大部屋での雑魚寝ですが最下級生はいつもいじめの対象でした。
温泉旅館に疎開していたのでそれは良かったのですが、3ヶ月後に飯田の先の山の中のお寺に移されました。理由は松本も軍需工場があるのでいつ空襲になるかわからないということでした。
山の中のお寺の本堂での雑魚寝は毎晩蚤とシラミの攻撃で痒くて眠れず、起上がっては薄暗い電気の下での蚤退治が続きました。 また夜中に先生に起こされ教員の部屋に呼び出された何人かの生徒がいましたが、それは東京に残っていた親が空襲で死んだという知らせの為でした。戻ってきた子が布団の中で泣きじゃくっていたことが忘れません。
夜中に見回りに来た先生が何時自分のところにきて起こされるかビクビクしながら寝ていたことを思い出します。
食料難の頃ですから何時も空腹感でした。周辺は山ですからよく桑の実やあけびなどこっそり隠れて食べました。
また勤労奉仕ということで周辺の農家に手伝いに行かされました。縄をなったり稲刈りも手伝いました。蚕のの世話もさせられました。農家に手伝いに行くとお米のご飯を食べさせてもらえることが最大の楽しみでした。
そんな山奥にも米軍の航空機から撒かれたビラが落ちてきましたが、それを拾って読むことは禁止されていました。
終戦は村の小学校の校庭で玉音放送を聞きました。雑音が多くよく聞きとれませんでした。とにかく負けたことそして広島にはマッチ箱の大きさの強力爆弾が落ちたという話聞かされたことを覚えています。
「欲しがりません、勝つまでは」と教えられてきたのですが戦争に負けたということで全員和歌を書かされました。小学校3年生の私の書いたものは「30年後僕たち頑張って今度は米英やっつける」といったものでした。
終戦になり実際に東京に戻されたのは11月始めでした。学校の周辺は焼け野原でした。幸い住んでいた家は焼けませんでしたが焼け野原は絶好の子供の遊び場でもありました。
竹の棒を持って焼け跡の瓦礫を掘り返すと色々なものが出てくるからです。中には四角い穴あきの古銭も出てきてそれを拾い広い焼け野原で投げて遊んだ記憶があります。今から考えると勿体なかった感じですが。
進駐軍の数が増えジープの乗ったアメリカ兵が我々子供達に向かってチョコレートやガムを投げたのを、競って拾ったのもこの頃でした。
一部が黒く墨で塗りつぶされている教科書での勉強が始まりました。
(牧壮 マイライフ:http://tmaki1936.com/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95/ から許可を得て転載)
Document 集団疎開 に収録
(20161212)