リスクとは単に「あぶない」「危険」という意味ではなく、自ら能動的に行動することに伴う「好ましくないこと」を指す言葉です。いわば「冒険」や「前向き」に「勇気」をもって、新たな価値を得ようとする際の、マイナス面がリスクなのです。リスクとは逃げるのではなく、積極的に取りに行かねばなりません。リスクという言葉は、いろいろな事の未来を語る形式の一つなのです。
リスクに該当する日本語はありません。英語にリスクという言葉は17世紀にうまれました。中世の宗教的な支配から自由になっていく時代で、デカルトの「われ思う、故にわれあり」と自己を起点とする近代的な精神が現われたので、自由と責任とリスクを同時に、個人が引き受けることになったのです。日本においては「安全安心」という言葉で「リスク管理」に適応しているのは、リスクという危険性が、日本人の集団的な「世間」発想から捉えられたものです。個人の自由と責任の問題としてではなく、歴史的習俗に従った表面的な「社会」の安全、集団的個人の不安解消策で、個人の選択という概念が少ないのです。
日本に社会とか個人という言葉が生まれたのは、明治時代になってからのことです。社会は明治10年(1877)、個人は明治17年(1884)の事でした。
これからは、個人の自由・責任・リスクを、同時に引き受け得る姿勢で、個人が選択するということが、ますます大切な時代になると思われます。
日本語の辞典で、リスクを引くと「危険」とあり、「投資にはリスクを伴う」と例示もあります。損害を受ける危険であり、リスクには大小があるのです。リスクに該当する言葉はないのですが、リスクに近い意味でつかわれている日本語は「冒す」です。困難や障害に敢えて立ち向かう、危険を冒すことで、邪魔になることを乗り越えることです。雨を冒しても決行するとか、嵐を冒して出航することなどです。
この延長線上で考えるなら人生は、「生きるとは死のリスクを伴う」ということになる。投資という経済行為は、利を求めて行われますが、損失を伴う可能性があることを、事前に理解していることです。人生も最期は死が待っているのは、誰でも理解していることです。生きているとは身体が健康であるというだけではなく、心の世界も幸せでありたいということです。人生とは生物的な生老病死の四苦と心の苦、四苦八苦を背負って生きることなのです。
リスクを取るということは理性的な客観世界だけではなく心の利、意味や価値、人間関係などの情報世界が重なり合っています。リスク判断には個人として物事に対応する姿勢と、人間として「あるべき要」、つまり公共の「理」と、自分らしく生きるという個人的な「利」のバランス感覚、が潜んでいるのです。
「好く」はスク、気に入ってそちらに心が向かう、という日本語で「理好く」「利好く」は、いずれも前向きに物事に対応する姿勢、リスクです。日本語として定着はしていませんが理性と感性、社会と個人の視点、時間的な流を考慮した、バランスの取れた感覚と、行動でリスク管理をし、克服して遊びのゆとりを創り出す要が理スク、利スクなのではないでしょうか。
リスクを取るには、事前の慎重な計画と分析の上での行動、適時の適応力がなければ失敗の連続になってしまいます。ということは理スク、利スク行動の前には必ず離ス苦行動という、苦から離れられる、離ス苦という思考過程があるのです。
離ス苦は悲観的、慎重に状況判断するペッシミスティック思考が必要であり、前向きに積極的に行動するには楽観主義者、オプティミステトでなければなりません。一個人が同時に楽観主義と悲観主義のバランスを取ることが、リスクを制御するコツなのです。
ノーリスク・ノーリターン、ハイリスク・ハイリターンという言葉があります。積極的にトライしなければ、何も成果は得られません。ハイリスクとは、まさに冒険そのものです。離ス苦・利好ク・理好クの融合がリスクマネジメントではないでしょうか。
生きていることが即リスク、最期は死ぬことが決まっているのに、不確実な時空間の中で命の限りを尽くして学び続け、成長し続ける自分の選択が、同時に世の中に貢献しながら、人々と楽しむ人生、人らしく生きることこそが、ハイリスク・ハイリターンのリスクマネジメントなのではないでしょうか。
リスクを取るとは修養の道、世のため人のため、利他、道徳、倫理の道でもあり東洋の思想とも重なり合っている、と考えられるのではないでしょうか。
参考
A business has to try to minimize risks. But if its behavior is governed by the attempt to escape risk, it will end up by taking the greatest and least rational risk of all: the risk of doing nothing.
「事業においては、リスクを最小にすべく努めなければならない。だがリスクを避けることにとらわれるならば、結果は最大にしてかつ最も不合理なリスク、すなわち無為のリスクを負う」
⇒ リスクは逃げるな!
(The future)requires decision—now. It imposes risk—now.
It requires action—now... The skill we need is not long-range planning.
It is strategic decision-making, or perhaps strategic planning.
「(未来を得るには)いま意思決定をしなければならない。いま行動し、リスクを冒さなければならない。必要なものは、長期計画ではなく戦略計画である」
⇒ リスク管理は、戦略計画の実践だ!
戦略計画の本質は、思考である。常に分析,想像、判断が必要。
単なる予測ではない。可能性をつくり、広げること。それが真の未来志向だ。
いま決めなければならない。明日のために、いま何をすべきかを考える。
リスクは減らすものではない。リスクを乗り越えてこそ大きな成果がある。
上野治男著 東京法令出版 19/10/1990
リスクの中に自由あり(作者不詳 上野治男訳)
笑えばバカと言われるリスク 泣けばおセンチと言われるリスク
手を差し伸べれば巻き込まれるリスク 感情見せれば拒絶のリスク
夢を語ればバカにされるリスク 愛しても愛されないリスク
生には死のリスク 希望には絶望のリスク 努力には失敗のリスク。
それでもリスクはとらねばならぬ
人生最大の危険は何のリスクも取らぬこと。
リスクを取らないのは、何もしない人、何も持たない人、何の価値もない人。
リスクを避ければ、苦しみも悲しみもないだろう。
しかし、それでは、何も学べず、感動も変化も成長もない、愛の喜びもない、生きているとも言えない。
確実だけに縛られりゃ奴隷と同じ、自由を奪われたことになる。
リスクを取る者こそ自由な人間。
RISKS (author unknown)
To laugh is to risk appearing the fool.
To weep is to risk appearing sentimental.
To reach out for another is to risk involvement.
To expose feeling is to risk rejection.
To place your dreams before the crowd is to risk ridicule.
To love is to risk not being loved in return.
To live is to risk dying.
To hope is to risk despair.
To try is to risk failure.
But risks must be taken,
because the greatest hazard in life is to risk nothing.
The person who risks nothing,
does nothing, has nothing, and is nothing.
They may avoid suffering and sorrow,
but they cannot learn, feel, change, grow, love, or live.
Chained by certitudes, he is a slave.
He has forfeited his freedom.
Only a person who risks is free.
第3回 経済安全保障研究会 2023年6月23日
司会 ただ今より、第3回経済安全保障研究会を開催させていただきます。本日は谷野作太郎大使をお迎えして、お話をお聞きします。
谷野大便は日比谷高校をご卒業の後、東大の文科一類に進学され、59年に外交官上級試験、それから卒業、入省された後にアジア局の南東アジアの第2課長、アジア局の中国課長、鈴木総理の秘書官、その後に韓国公使、アジア局審議官、アジア局長、内閣官房外政審議室長、インド大使、中国大使などを歴任されました。日中関係では第一人者の谷野大使をお迎えしまして、今日は谷野大使からは「最近の内外情勢万華鏡」という題目でお話をいただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
谷野 ご紹介いただきました外務省のOB、谷野作太郎です。大切な勉強会に、私のような超老人にお声がけいただき恐縮に存じます。
拓殖大学の富坂先生から、最近の米中関係について話を聞きたい、ということでしたが、何分、高齢ということもあって、今の米中関係の細かいことについては、勉強が不十分です。
他方、ウクライナ戦争など、最近の内外の諸情勢については、ウツウツたる心境の下、いろいろ考えないわけでもない。「そんな話でも良いですか?」とおたずねしたところ「結構です」とのこと。そこで、勇を鼓して、のこのことやって参りました。
従って、話題は、私の長い外務省、内閣官房生活の中で、ウクライナ戦争、そして縁のあった中国問題、日韓関係、インド.....と多岐にわたります。以下お話することについて、すべてにつき、「お前の言っていることは、もっともだ」ということにはならないでしょう。それは、それで結構。それぞれのテーマからご関心のあるところを捨っていただいて、これを契機にお一人、おひとり、関係の資料を渉猟し、探索を進め、いい加滅なSNSなどに惑わされることなく、ご自分の考え、意見を持っていただければと思います。それこそ、民主主義の根幹だと思います。そういうことで、私の方も皆さんをいろいろと挑発しながら、話を進めたいと思います。
以下、題して「最近の内外情勢万華鏡・ 一老人の繰り言」。一時間ほど、皆さんのお耳を汚したいと思います。
混沌、分断、対立・・・・アメリカの調落
先ずは、世の中内外の情勢です。そして、その中にあってアメリカの凋落ぶりについてです。
正直言って、明るいニュースはほとんどありませんね。
世界は、混池、紛争、対立、分断、そして戦争…..。私はウクライナ以外の地、例えばアジアやアフリカなどで、あまり報道されないだけで、実は多くの問題が起きているのではないかと心配しています。ひとつの例としてロヒンギャ(ミャンマーのイスラム系少数民族)の惨状、或いはタリバン統治下の人々の生活…..。そんな中、問題の根源は、アメリカの凋落(社会の分断、政治の劣化、内向き志向…..)、国際秩序の守り神であるはずの国連が機能していない(ウクライナ戦争)。そして WTO(世界貿易機構)も機能していない(米国の邪魔立て一一裁定役の上級委員の選出をプロック)。日本の情況は最後のところでお話しましょう。
アメリカの情況
私の友人にアメリカなど世界中を飛び廻って自分で立ち上げたファンドを運営しているつわものが居るのですが、最近アメリカ、ヨーロッパを廻って来て、
・アメリカの大都市が本当に汚くなった。
・ニューヨークの五番街を歩く人たちの服装と銀座通りを歩く人たちと、服装など後者の方が断然 良い。
・街なかでは、アジア人を狙った暴力沙汰も少なくない。
・アメリカのカリフォルニア州の都市では、900ドル以下の万引きは犯罪とみなさない。警祭はなにもしてくれない(とてもそこ迄、警察の手がまわらないから)。そしてこの動きが米国の他の大都市に広がりつつある。
と言っていました。そういえば、あの森の都ワシントンも今や、ホームレスたちの一大拠点とか。もっとも、以上は大都市の話で地方に行けば昔ながらの瀟洒な佇まいの一軒家があるというアメリカらしい風景が残っているのでしょうけれど。
60年代初頭、輝くようなアメリカ
私は、若い頃(1962年、ケネディ大統領暗殺の直前)、ニューヨークとカリフォルニアに住んだことがあります。あの頃は輝くアメリカ、私たちは皆、そのようなアメリカに憧れ、日本も早くこのような国になりたいものだ、と思ったものです。もっとも、そのようなアメリカにあっても黒人等、有色人種に対する差別は、色濃く存在していましたが。
私は、コロンビア大学(プロードウェイ 116丁目) の近くに住んでいたのですが、若かったこともあり深夜、あそこからプロードウェイをぷらぷらと徒歩で、南の方角のタイムズ・スクエア(プロードウェイ 42丁目)まで何時間もかけて、歩いて行ったことを思い出します。でも、当時はそうした深夜の散歩も全く身の危険を感じることはありませんでした。
しかし、その後ベトナム報争最中の頃、仕事でニューヨークに出張することがありましたが、若い身とて、総領事館がとってくれたのは安宿。総領事館からは、ホテルの部屋の鍵は必ず二重にかけよ、夜遅くの外出は厳禁と言われたものです。大義なき戦争を闘う中、アメリカの社会、人心が大変すさんだ時期でした。タイムズ・スクエアはエロ・グロの世界。もっとも、そんなニューヨークもその後、剛腕の市長を迎え、随分きれいになり、治安も大きく改善されたのでしたが、また逆の方向に戻ってしまったのでしょうか。
とにかく、国際秩序がこわれてゆく中、本当にアメリカには、しっかりしてもらわなければ困る。
ところが、来年の大統領選挙は今のところ、あのトランプ氏と、これも高齢でいろいろと問題をかかえているバイデン氏の間で闘われることになるだろう、と。ウツウツとした気持ちがつのります。
そんな中で、国際社会でいやが上にも存在感を増しつつある中国。アメリカの現状を見て、「自由とか民主主義と言うけれど、(強権的な)中国流の国の統治のやり方も悪くないだろう」と勘違いし、世界に喧伝する。これに同じる国が出てくる。そういう事態になることをおそれます。東南アジアでも、カンボジアなどは、すでに中国流統治になびく気配が濃厚ですね。
アメリカよ、早くかって世界があこがれたアメリカを取戻せ!ということです。
何を仕出かすか分からないとされるプーチン大統領と思いつめが募るゼレンスキー大統領
次は、ウクライナ戦争についてです。以下述べるところについては、「いや、ボクは、ワタクシは違う意見だ」とおっしゃる向きも少なくないのではないかと思いますが。
プーチン大統領の暴挙、他方、ゼレンスキー大統領の思いつめ一一今や、ゼレンスキー大統領は、クリミア半島を取り戻すと言い出しています。国際条約(オスロー条約:日本もふくめ多数の国が加盟。但し、米国・ロシア・ウクライナは加盟していない)で禁止されているクラスター爆弾を寄こせとも。どうやらアメリカはこれに応じるらしい。そんな中、今日のような情況に立ち至ったことについて、全く責任のないウクライナの老人たち、女性やいたいけない子供たちが家を焼かれ、命を落としてゆく......そんな修状を日々テレビで見せつけられるにつけ、「とにかく、先ずは職争を止めよ!」という思いがつのります。今日のような情況に立ち至ったについて責任がない、ということについては、プーチン大統領に戦場に駆り立てられ命を落としてゆくロシアの兵士たちとて同じことでしょう。ウクライナについては、昔からの宿痾と言われる腐敗・汚職も相変わらず。バイデン大統領からこのことを厳しく指摘され、ゼレンスキー大統領も頭を抱えているらしい。
ウクライナの今日の情況について、シカゴ大学のジョン・ミアシャイマーという国際政治学の教授は、「ウクライナ戦争の責任は、米国とNATOにある」と主張しています(注1)。(NATOがロシアの国境まで拡大することはロシアにとっては、生存に関わる死活問題であり)ロシアは、ウクライナのNATO 入りは絶対に許さないと明確に警告を発してきたにもかかわらず、アメリカと NATOはこれを無視し続けた。そしてロシアの侵攻が始まる前から、アメリカとイギリスはウクライナに高性能の兵器を大量に送り、軍事顧問団を派遣し、ウクライナを「武装化」していたというのです。冷戦終結当時、アメリカのベーカー国務長官は「NATO を東方へ1インチたりとも拡大しないことを保証する」と言っていたことを思い出します。最近、バイデン大統領もウクライナの NATO 加盟は時期尚早と言い始めているようですね。しかし、そのバイデン氏は副大統領時代、ウクライナに何回も足を運んでいますし、当時、令息とウクライナ(と中国)の利権にからんだ人ということで、共和党が問題にしはじめています。
昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻で、1週間でキーウ(キエフ)を制圧するというプーチン大統領の目論見がウクライナ側の抵抗ですっかり狂ったということが言われたものですが、以上のことを考えれば、ウクライナ側が容易に手を上げなかったのは当たり前ですね。アメリカ、イギリスによるウクライナに対するかねてからの手厚い軍事支援があったわけですから。プーチン大統領がこのことを知らないはずはなかったと思うのですが。
「とにかく、戦争を止めよ!」。しかし、このような主張に対しては、特に、これを担当する日本の政府関係者からも「何を、非現実なことを!」「そんなことをすれば弱体化しつつあるロシア軍に建て直しの時間を与えるだけ!」とお叱りを受けます。ロシア軍が弱って来ている今こそチャンス!だから「必勝しゃもじ」だ、それゆけ、やれゆけということなのでしょうか?
ウクライナの安全を米国、NATO、ロシアなどで保証する国際的枠組みを
私は若い頃、1970年代初頭、モスクワの日本大使館に勤務していたことがあります。ですから、キエフ (キーウ)やクリミア半島も訪れたことがあり、あの国については、若干の土地勘は持っているつもりです。その後、冷戦が終了、ウクライナも独立を果した。しかし、そのウクライナは、やはり地政学的にロシアと NATO 諸国との間の軍事的な緩衝地帯として運命づけられているような気がしておりました。
昨年、ロシアのウクライナ侵攻直後(3月)、ゼレンスキー大統領は「ウクライナのNATO入りは断念する」「そのかわり、ウクライナの安全を保障する国際的枠組みを米国等で構築してほしい」と言っておりました。当時、キッシンジャー氏もそれしか道はないと言っていたと記憶します。事実、当時はトルコが停戦仲介に動く中、国際的にもウクライナをどうやって「中立化」にもってゆくか、ということが議論され、日本の新聞でも「中立化」一ーといってもスイス、オーストリアなど国際約束で承認された「中立」(neutral country)や、スウェーデン、フィンランドの如き国が外交方針としてとる「中立」(declare neutrality)というやり方などーーという方法があるといって議論が盛んに行われていました。
しかし、それが今や「クリミア半島も含め、東部の領士すべてを取り戻す!」と。しかし、そうなれば、狂ったプーチン大統領は「戦術核」の使用を検討の俎上にのせるかもしれない。「戦術核」をもってウクライナのインフラ(発電所、飛行場、ダム.....)をピンポイントでたたく。恐ろしいことで、ぞっとします。
要は先に述べたように、①ウクライナが平和で繁栄できる国際環境を如何に構築できるか、他方、その上で②ロシアが安全を脅かされず、国際環境に利益を得て規範を遊守する状態(山添博史・防衛研究所主任研究官)を作るか、ということだと思います。
それを目指すにおいても一一何度もくり返しますが、何よりも、先ずは今の暴力沙汰、戦争を止めるということです。
この点に関して、過日、アメリカの米外交問題評議会会長のリチャード・ハース氏の論考を目にしました(6月4日付読売新聞)。同会長は、25年前の北アイルランド紛争の和平合意について次のように述べています。
①先ずは、暴力の停止。参加する勢力に武器を捨てろとは求めなかった。
②武器の廃棄という作業は、和平合意のあと、取り組む課題として残された。
③北アイルランドの「最終的地位」(北アイルランドが英国にとどまるのか、或いは、いずれ、南のアイルランド共和国に統一されるのか)という点も、ほとんど避けた。
そして、リチャード・ハース会長はウクライナ戦争について、
①ウクライナは、1991年の独立時に遡る領士の全面回復を主張する権利がある。一方で、ロシアのプーチン大統領は、彼が不法にも併合したウクライナ領土はロシアの一部だとの主張を必ずや行うだろう。
②しかし、現時点でも、将来においても無理だとわかっていることを交渉開始の前提条件とすべきでない。
と述べています。
そういえば、あの朝鮮戦争も、米軍、韓国軍、これに対するに北朝鮮軍、中国の軍(人民志願軍)が消耗戦をくりひろげる中、1953年10月休戦協定が成立、戦火は止みました。その後のことは、「平和協定」に委ねられたのですが、こちらの方は未だに結ばれていません。しかし、戦火が止んだあと、轑国は平和な環境の下、国際社会の支援も得ながら、今日のようなすばらしい「躍進韓国」をなしとげました。
いずれにせよ、私は、一日も早くウクライナでの戦火が収まることを祈っています。
(注1)「第三次世界大戦はもう始まっている」(エマニュエル・トッド著、文春新書)
往時と様変わりした中国、そして日中関係
次は、これも最近、何かと話題の多い中国についてです。
個人ごとになりますが、私は外務省時代、二度北京の日本大使館に勤務する機会を得ました。第1回目は若い身で日中国交正常化直後、1973年から75年まで。あの時は、モスクワから家内、長男、次男ともども東京を経由して(当時は東京一北京間の直行航空路も開けていませんでしたから)、香港、広州を経由して2日がかりで北京入りしたことを覚えています。
到着は夜でしたが、搭乗機から見る北京の街は今と違って真っ暗でした。えらい田舎に来たな、と。
当時の中国は、毛沢東時代の末期、国政のスローガンは「自力更生」(ヅーリーガンシャン)、すなわちヒトサマ(西側先進工業国)の厄介などならずに、自力で発展してみせる、そしていずれ英国を抜いでみせる、と。何ともひとりよがりの中国でした。そんな強がりを言いつつも、経済技術支援という面では、唯一ソ連に頼るところが少なくなかったのですが、この方も中ソ関係が急速に悪化してゆく中、ソ連からの技術者もどんどん引揚げてしまい、文字通り「自力更生」という道を歩まざるを得なくなってしまった。
でも、あの頃の中国、私のように老世代には、今もなお、なつかしく思うことも少なくありません。大気汚染などの公害もなく(北京の秋の突き抜けるような青空は「北京秋天」として有名です)。人々は皆貧しい中、その後の中国と違って幹部たちの大がかりな汚職もなく、日本との関係では国交正常化直後ということもあって人民の間には「中日友好」の精神がたたきこまれていました。「中日両国、世世代代友好下去」(世々代々、友好、で行こう)と、この辺のことについては、別途、拓殖大学発行の「海外事情」7〜8月号において、拓殖大学の富坂先生のインタビューを受けた中でお話したところが掲載されていますので、本日は時間の関係もあり、そちらの方にゆずることといたします。
そして、その後、本省でいろいろな役目の下、中国関係でいろいろと関わりましたが(中国に対するODA 供与の開始、第二次天安門事件への対応、平成時代、両陛下のご訪中などなど)、その間、日本の総理、外務大臣などにお伴して中国を訪問、政いは先方から国家主席、国務総理らを日本に迎
えるなどのこともあり、中国の党、政府の要人方(黄必武、鄧小平、趙紫陽、胡耀邦、李鵬、江沢民、そうして台湾においては蒋介石・・・・・)のお国なまの強い中国語のしゃべり口が今でもなつかしく私の耳朶に残っています。
そして、私の中国での第2回目の勤めは、1988年から2001年まで。これを最後に同年4月退官いたしました。
中国「改革・開放」政策の始動、そして WTO 加盟
この時期は1978年末、鄧小平氏の主導した「改革・開放」政策が花開き、まさにそれが真っ盛りの頃でした。そして中国は2001年にWTO 加盟を果たし、これによって国際社会の信任を得て、外国からの投資もどんどん増える。かくして中国は、新たな経済発展の道をつかんだわけです。もっとも、あの頃はすでに、「改革・開放」が始まってから 20年、「改革・閉放政策の負の側面(自然環境の破壊、貧富の格差、幹部たちの腐敗…..」も色こく中国社会を色彩っているという状況でした。
いずれにせよ、このようにして私は、「自力更生」下の中国と「改革・開放」下の中国という、全く異なる二つの中国を現場で体験した次第でした。
鄧小平氏の始めた「改革・開放」の中国、すなわち「自力更生」(ひとさまの厄介になどなるものか)などとひとりよがりに強がっていても中国の発展に期待できない、そこは助けてくれるという向きがあれば、大いに 介になろうではないか、ということです。こうして、日本との関係で言えば、日本から中国へのODA(政府開発援助)の提供が開始されたということでした。しかし、この対中 ODAの提供は第1回北京オリンピック(2008年)を期に基本的に終了ということになりました。それはそうでしょう。今や月面着陸を目指すということころまで力をつけた国に ODA はなじみません。
ところで、この日本の対中 ODA をめぐって、昨年、「計3・6兆円の援助を注ぎこんだ日本政府が、中国を排外的なモンスターに変えた」という帯をかけた本が出版されました。もっとも著者の名誉のために一言付言すると、肝心の書籍の方には、一言もそのようなことは書いていない。おそらく近年の日本の反中・嫌中感情が高まる中で、これに媚びる出版社の商業主義がそうさせたのでしょう。
日本の対中 ODA は一番多い年でも、中国の巨大な財政収支(国、地方)総額のせいぜい2%強。しかも、対中 ODA のほとんどは借款 (もちろん、条件は当時の市中銀行の融資にくらべれば余程良い)、そして中国はアフリカの一部の国と違い、ちゃんと返済して来ています(この点についても、日本政府はお人好しで、中国に対しては、多額のODA をただで差し出していると主張する著名な某評論家が日本にはいらっしゃいます)。
往時、宮崎勇さん(故人、経企庁出身エコノミスト、村山内閣で経金庁長官)は、よくこれっぽっちの援助について日本政府は中国側に「感謝」の表明を強要し、病院などに寄贈した顕微鏡一台一台に至る迄 JICA(国際協力機構)のマークを張り付けている、あまりにも大人気ない、とおっしゃっていました。もっとも、そこは私は、宮崎さんと若干考えを異にし、頭微鏡の件はともかくとして、例えば、中国当局に話して北京の国際空港に「この空港(の一部)は、日本政府の援助によるもの」という大きな表示を掲げてもらったのですが、これもしばらくして取り外されてしまいました。
毛沢東政治に先祖返りした習近平の中国共産党
そこで、今日の習近平氏の下での中国ですが、昨年秋の第20 回党大会を機に中国は、すっかり毛沢東政治に先祖帰りした観があります。習近平思想なるものを喧伝し、党の中枢(党政治局常務委員)も気心の知れた福建省、浙江省、上海市時代輩下にあったイエスマンたちで固めた。この陣容をみてこれからの中国の持続的発展の肝である「経済」のことが分かっている人材が見当たらないな、と指摘する向きがありました。リコノミックスの名で知られる李克強総理は、一時は全人代の委員長として残るのではないかと言われていましたが、予想に反して引退に追い込まれて?しまいましたし、もう1人劉鶴という副総理(ハーバード大学に学び、副総理の座にあっては厳しい中米経済交渉を中国側の主席代表として取り仕切った経済通)も引退してしまいました。
他方、私が党中枢の陣容をみて感じたのは「日本に強い人脈を持った人が一人も居ないな」ということでした。そんな中、ただ一人、王滬寧という人が居ますが、(政治局常務委員ナンバー4。その後政治協商会議主席に)、この人は若い頃(上海の復旦大学に在籍)、中国政治の学者として令名の高かった国分良成先生がいらっしゃった慶應大学に出没していたことがあるらしいのですが、何故か長続きせず、プツンと凧の糸が切れてしまったようです。
日中(中日)間の政治レベルの太いパイプということで思い出されるのは、朱鎔基さん(上海市長、国務院副総理を経て、一九九八年に国務総理に)と、その輩下の経済官僚たち、これに対するに日本側の宮崎勇さん(経企庁出身のエコノミスト、村山内閣の経済企画庁長官)や大来佐武郎さん(国際的なエコノミスト、経済企画庁などを経て、第一次大平内閣の時、外相に)といった人たちの間の濃密な関係です。当時、中国では「改革・開放」政策の中で、例えばこれと逆行するようにどんどん頭体が大きくなってゆく国営企業をどうするかということが、改革派の経済官僚たちの間で問題意識としてあった。そんな中、日本の国鉄など「三公社五現業」の民営化の経験などを中国側と存分に分かち合っておられました。宮崎勇さんが亡くなられた時、長い弔文をこれだけは人手に委ねないで、総理自ら書き起こし、宮崎家に送ったといわれています。
私の大使時代の曾慶紅(党中央組織部長、国家副主席をつとめた。政治局常務委員ナンバー 5)と野中広務さん(自民党幹事長、官房長官などを歴任)との間の関係も、大変濃密なものがありました。彼我の往来の中で、到着地の飛行場には必ず、そのどちらかが出迎えるという。そんなことで、私自身も曾慶紅さんとはいろいろおつき合いいただき、北京を離れる時は、閣僚の何人かを呼んで、中南海で送別の宴を張ってくれました。
もう一人は、これは私が官を群したあとのことですが、福田康夫氏と習近平氏との関係。福田君は、当時、日中間の政治・外交関係がどんどん冷えこみ、首脳会談もままならない中、秘かに何回か北京に赴き、安倍・習近平会談への道を拓いたのでした。彼と私は小学校時代机を並べ、お互いにベースボールに興じた仲。今のような日中(中日)関係の下、「君がもう少し若かったら、日中関係のためいま一度、ひと働きしてもらいたいところだが.....」と話しています。彼は、ちょうど今、天皇陛下、皇后陛下のお伴(首席随員)としてインドネシアから帰国の途上にある。そろそろ日本の上空にさしかかるところではないでしょうか。
ところで、習近平氏、実は、今日のような中国の国内情勢の下、中国社会の「安定」が頭から離れず、懊悩の日々なのではないでしょうか。そんな習近平氏はかって、中国共産党は「党政軍民学」を、そして地理的には中国の「東西南北中(北京)」のすべてを統治する、と言っていました。そして昨今では、中国国内はおろか、外国の各地でもそこに居住する在留中国人を対象に警察活動のようなことを始めているとか。かっての金大中事件を思い出しますね。
今、NHKの大河ドラマで徳川家康のことをやっていますが、家康はかって国の統治のあり方について次のようなことを言っています。
「天下ノ政ハ、重箱ヲスリ粉木ニテ洗ヒ候ガヨロシキ」
どういうことかというと、四角の重箱にゴマを入れてすりつぶしても、四隅に必ずすき切れないゴマが残る。それが統治の極意だというのです。すき切れないゴマ、今の中国について言えば、例えば、チベット、ウイグルなどの少数民族、政いは、人権弁護士たちなどでしょうか。ところが、今の習近平氏のやり方は、国内の情況が不安でたまらない中、大きなすり鉢にゴマを放り込み、大きなすり粉木でことごとくこれをすり潰すやり方、これではかえって社会を不安定なものにしてしまう、ということでしょう。
他方、現下の米中対立も困ったものです。最近では、さすがにデカップリング(分断)という言い方を止め、ディリスキング (リスク軽減)という言い方に変わって来ているようですが。すなわち、対中輸出管理も軍事バランスに影響を及ほす技術の分野に限る。中国との交易関係全体を断とうということではない、ということなのでしょうか。
しかし、パイデン大統領やその下の補佐官らのモノの言い方を見ると、アメリカによる対中経済政策の背後には、「米国産業の復権」という思惑があるような気がしてならない。そして、他の諸国に対してもそのようなアメリカの対中政策につき合え、と。かって、日米間にあって、アメリカに半導体協定を押しつけられ、これを境にそれ迄日の出の勢だった日本の半導体産業が一挙に衰退の方向に追い込まれたことを思い出します。米中が角つき合わせる中、当惑の極にあるのが、アセアンの国々。「Don't force us to choose between the U.S. and China!」というのが、彼らの正直な気持ちで、マレーシアのマハティール元首相、シンガポールのリー・シェンロン首相などははっきりそう言っています。
デカップリング、政いはディリスキング、やはりここは、安全保障を念頭に対象を主要防御技術にしぼり込むべきでしょう。それにしても、そのような声が、日本の経済界からしっかり上がって来ないような気がしてなりません。中国との間の対話もあまりない。他方、アメリカの経済界は、昨今のような情況の中でも中国側との対話はしっかり続けているし、経済界の大物たち(アップルやテスラ、JP モルガン・チェースのトップたち)も次から次へと訪中しています。事実、米中の賞易量は増えつつある。そんな中、だれひとり日本の顔が見えない、これは垂駐中国大使のなげき節です。その後やっと経団連会長一行の訪中があったようですが。
中国側と直接の対話を重ねる、そして主張すべきことはどんどん主張する、これがあるべき姿です。この点に関して、最近の中国のやり方についての私なりの大きな懸念は、日本の中国における企業活動と例の「反スパイ法」との関係です。現に今も、日本の某製薬会社の社員が中国側に拘束されたままです。しかし、そんな中、中国からは日本企業の対中投資を勧誘する代表団がひんぱんに日本を訪れています。これに対して日本の企業としては、当然その関係業種の投資環境を調べるため、いろいろと情報の入手に努める。ところが、そのような活動が、場合によっては、「反スパイ法」にひっかかり、手がうしろにまわることになりかねない。一体どうなっているのかということです。
私は、その中国について、今先方から要請が出されている CP-TPP (米国が離脱したあとのTPPの今日版)について、これも加盟を希望している台湾と同時加盟を目ざすという方向で検討してみてはどうかと思っているんです。かって TPP交渉で日本側の事務方のトップだった某君も内々そのような考えを私にもらしていました。
しかし、日本における大方の世論は、台湾の加盟については全く問題ないが、中国についてはとんでもない、ダメだダメだと。たしかに中国については国営企業への補助金の問題、「政府調達」や外資に対する技術移転強要など、問題が多々あることは事実です。ただ、そのような問題について、あらためて中国を鍛え直すメリットは国際経済にとって小さくない。ですから、中国に対しては、「加入に際してハードルを下げることは決してしませんよ。だから、加入に向けて国内の法制をととのえるなど精いっぱい努力して下さい」と。そして交渉の期限を二年、三年と区切って、その間、台湾には待ってもらう。そうすれば、少なくともその間も、加入のあとも中国としては、台湾に対して手荒な所作は控えるでしょう。どうでしょうか。
最後に、日中(中日)関係について私がよくお話していることについて、二点だけ申し上げます。
第一は、故周恩来総理が中日(日中)関係を律するガイドラインとしてよく口にしていた「小異を残して、大同に就く」(「求大同、存小異」、或はつづめて「求同存異」)という言葉です。中国と日本は、国柄、国の統治の仕方、国民性が違う。一時期の不幸な「歴史」の問題もある。しかしそれらは「小異」として横に置いて、お互いにアジアの大国としてより高みの「善隣友好、平和、協力」の関係(「大同」)をこそ目ざそうと。
ところが、その後日本では、「小異を捨てて、大同に就く」という言い方がすっかり定着してしまいました。しかし、そんな言い方は本家、先方の中国にはありません。「小異」はどうしても残るのです。とくに日中、政いは日韓の間でむずかしい外交交渉を経て得られた決着、合意にそのようなものが多々あります。要は、そのあとそうして得られた決着の結果残された「小異」を捨てること、忘れることなく、ひき続きこれに目を向け、しっかりこれを管理してゆく、ということだと思います。ところが、近年、日本でも、そして中国、国でも、そのような「小異」をいたぶり、つつき廻わしてこれを「大異」にまで広げて盛り上がる。そして、そこに双方のメディアが参戦し、国民感情も興番の極に達するという情況を目にします。
私はこのことを例えば、二〇一五年に得られた慰安婦問題についての合意のあとの国内の情況について感じました。あの時、日本では「不可逆的(決着)」という言葉がとびかった。これをタテに、この問題について今後日本側は何を言っても、やっても(やらなくても)よいのだと言わんばかり……。もっとも、この件については、その後、折角得られた合意を一方的に反故にした当時の文在寅政権のやり方こそ、大いに責められるべきことは言うまでもありませんが。
第二は、日中関係についてとくに日本の政治家方が桃言葉としてよく使う「日中間国は、お互いに引越しできない関係なのだから」という言い方です。日中関係の最前線で今の情況を心配し、これを何とかしたいと思っていらっしゃる方でも。今のような情況の両国関係の下、そうおっしゃりたくなる気持は分からぬではありませんが、そう言ってしまっては、そのあと少しは前向き、建設的なことを言ってみても、聞いている側にはすんなりと心に響かない、メッセージとしても萎えたものになってしまう。ちなみに、このことは日朝関係についてもよく聞かれる言い方でしたが、最近は、すっかり姿を消しました。
「日中、中日両国、お互いによい隣人を得たものだ。だから双方力を合わせて……」いつ、また、そのような日が来るのでしょうか。
急速に改善に向かう日韓関係
次に最近、盛んに話題になる日韓関係についてです。
私は若い頃、一九八四年から八七年までの間、在ソウルの日本大使館の公使として勤めるという貴重な経験をいただきました。当時は全斗煥大統領時代、強権的な偽似軍事政権の時代でしたが、韓日関係の方は一九八三年一月の中曽根総理の電撃的な訪韓(この訪韓を機に懸案だった対韓国借款の問題も解決した)の直後ということもあって、良くも悪くもしっかり管理されていました。約二年余のソウル勤務を経て東京に帰った時、外務省の先輩、同僚たちから「韓国の勤務、いろいろと大変だっただろう」となぐさめられたのに対し「いや、総括すれば二年余のソウル勤務、大いなる「操」とちょっぴりした「うつ」(日本の歴史教科書の記述をめぐって、若干のもめごともありましたから)というところかな。」「大勢の友人もできたし」と応じたものです。
しかし、その全斗煥政権の下、実は舞台裏では、光州事件(一九八〇年五月、韓国の光州市で全斗煥大統領の軍事政権に対する民主化要求の蜂起に対し、全斗煥政権は、軍事力をもって弾圧、多数の死傷者を出した事件)、延世大学学生の拷問致死事件など、いろいろとおそろしい事件が起こっていたことも事実です。
話は横にそれますが、これらの事件については、その後、朝国が民主化を遂げたことを背景に、その情況を活写した映画、テレビドラマが作成されています。「光州5・18」、「タクシー運転手 約束は海を越えて」(光州が舞台、東京在住のドイツのジャーナリストが韓国人へ飛び、同記者を封鎖されを光州まで乗せたタクシー運転手の助けを得、戒厳軍の妨害を受けながら取材を続け、何とか東京に帰ったくだんのドイツ人記者が、東京から光州事件の痛ましい実情を世界に向けて発信するという実話にもとづいた筋立て)、今や、国際的な大スター、ソン・ガンホ(タクシー運転手役)の演技が光ります。
もうひとつの「一九八七 ある問いの真実」は、先に述べた延世大学の学生の拷問致死というこれも実話をテーマにした作品。お忙しい向きが幹国映画、テレビ・ドラマのどれかひとつかニつだけとおっしゃる向きは、私のお薦めは、これと連続テレビ・ドラマ「第五共和国」(全部で二十七巻)の第一巻。一九七九年、朴大統領が遺恨をもった中央情報部(KCIA)部長に暗殺されたあの悲劇的なストーリーが中心です。このニ十七巻の大作。すべて、その後の全斗煥、盧泰愚氏らの法廷における陳述をベースに作成されているので、真実に近いいわばドキュメンタリー映画、全斗煥時代の国を知るには必見の作品です。
ところで、私は日中、日朝関係について、前者の場合は、お互いに国柄、国の統治の仕方も違うし、中国の軍事力も半端ではない。そんな中、これからも各種の摩擦、紛議、はたまた時として対立も避けられないだろう。先に、故周恩来総理の考えをご紹介しましたが、日本からみても中国とは、自由、民主主義、人権、法の支配(中国は“法の支配、ではなく、法による支配)といった基本的価値観のところで、考え方が違う。従って、成織表で言えばお互いに目ざすところはB+ぐらい。しかし、それでもお互いの利益のために、これがB-、C+、C-…....とどんどん悪くなって行かないよう問なき対話を進め共通の利益に視点を定め、お互いに努力しながら何とかこれを B +のレベルに継続してゆく(今は、とくに政治、外交関係はC或はD) ということではないか、そして、そんな中、特に双方の「政治」がとかく移ろい易い「世論」なるものに流され、或はこれに身をまかせるのは良くない、と思って来ました。
他方、これにくらべて日朝関係の方は「世論」云々のくだりは同じですが)、よく言われるように両国は、自由、民主主義、法の支配…....と言った基本的価値観を共有する国柄。従ってお互いの「政治」の意志さえしっかりしていれば、これを A -ぐらいのレベルに持ち上げることは難しいことではないのではないか、と思って来ました。ですから、文在寅政権下の日韓(韓日)関係については、本当に残念に思って眺めていた次第です。
と、そこへ尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の登場。そこで話は一挙に様がわりしつつある今日の日韓(韓日)関係の話になります。
様がわりの日韓(韓日)関係、日本側の対応
私は、ユン大統領の強いリーダーシップの下、急速に改善の方向に向かう日関係を驚嘆の思いで眺めながら、実はそこに若干の危うさを感じておりました。というのも日関係の障害の中心テーマになっていた「徴用工」の問題についてユン大統領が困難な国内の状況の中で汗をかく中、日本側は、葬国側が解決案を持ってこいと言うだけで、ユン大統領の努力に呼応する姿があまり見られず、または日本による朝鮮半島の植民地支配についても、岸田総理は、「歴代の日本の総理が表明して来たところを総体として継承する」という以上を出ず、これで岸田訪韓の時、持つだろうかと秘かに心配していたのですが(注2)、結局訪幹の時、新聞報道によれば、急遽現場での調整で、徴用工の問題で「多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む」と発言され、韓国側もこの発言を高く評価すると言うことがありました。
もうひとつ、岸田総理について韓国側が大きく評価したことに、広島における G7サミットの折、広島の公園にある朝鮮半島出身の人たちの原爆犠牲者の慰量碑にユン大統領と一緒に赴き、弔意を捧げられたことがありました。この慰置碑は、実は私の役所現役時代、長く公園の外に放置されたまま、これを公園の中に移すということについては、いろいろな勢力が養否入り乱れて実現に至らなかった経緯があります。たしか、当時、与党、政いは、地方の当局も移動については大変消極的だったと記憶します。
懸案だった半導体部材の対輸出規制の件(日本政府は、徴用工問題への韓国側の対応を不満として、フッ化水素など半導体関連の三品目を突如、対幹輸出時の許可手続を厳格化した。葬国側は、これに対しWTO に提訴するかたわら、これら部材の自製化に舵を切った)も片づきました。あれは、明らかに徴用工問題についての当時の韓国側のやり方に頭にきた日本政府の報復措置(当初、日本の政府当局は、はっきりそう言っていました)。あの時、東京での本件をめぐっての交渉の際の日本側の団長の無礼ないでたち(これ見よがしにエリ巻き姿)、会議の場は倉庫のようなところ…これもいまだに忘れられません。もっともその後さすがに WTO 規約との関係でまずいと思ったのか、韓国側のゆるゆるの輸入政策を糺すための措置だったと説明ぶりを変えていましたが。ところが、最近の日朝関係改善の中で、これもあっという間に何事もなかったかのように元通りに戻されました。これに対し、それまで政府のやり方に拍手喝采していた与党も何も言わない。いい加減ですね。
この半導体の三部材は、例えば、日本企業が韓国で組み立てを依頼し日本に輸入していた4Kテレビに必要な部材だった。それが簡単にできなくなったわけですから、いわば日本にとっては天につばするような情況でした。そして、韓国側は仕方がないから、自製、政いは他からの輸入に切りかえたわけです。
問題なのは、この間日本の経済界が日本政府のやり方にあまり声をあげるということもなかったこと。私は、この情況を眺めながら、昔、経団連会長の石坂泰三氏がある案件(たしか、大阪万博に必要な経費の経済界と政府の分担の問題ではなかったかと記憶します)をめぐって、時の総理大臣、あの長期政権を誇るおっかない佐藤栄作氏のもとをたずね、いろいろと議論の末、最後には石坂氏が「もう、君には頼まん!」と佐藤総理を怒鳴り上げて席を立って帰って来たという話をよく思い出しておりました。このことは、「もうきみには頼まない、石塚泰三の世界」というタイトルで本になっていますし(著者、城山三郎氏)、私自身、石坂さんの秘書でその場に居合わせた人(故人)と昔、大変親しくさせていただいたものですから、この方からよくこの話を聞かされたものです。
アメリカや日本政府のやり方について、日本の経済界はあまり声を上げない。このことは対中関係でのデ・カップリング(デ・リスキング)をめぐっても、感ずるところです。
ユン大統領の対日関係改善のスピード感にうまく乗るべし
韓日(日韓)関係改善に向けてユン大統領のスピード感に日本側はうまく乗る一一少なくとも、その足をひっぱることはしないーーことは勿論ですが、他方、「徴用工」だけが両国の間の障害ではない。大きな問題としては、福島第一原発事故を受けての水処理の問題もあるし、その外にも慰安爆問題、韓国海軍艦艇による海上自衛隊へのレーダー照射問題、福島など八県の水産物輸入禁止の問題など…...そしてその背後には対日政策についてどうしようもない韓国の政治、社会の分断ということがあります。肝心のユン大統領の支持率が下降気味なのも心配ですね。従って、そこは、日本としてひき続き辛抱強く対応してゆくということでしょう。
そして、これからの日韓関係を考える時、やはり肝は経済関係だと思います。例えば、半導体、日韓双方でうまく分楽しながら良質の半導体製品を造り上げてゆく。エネルギー協力というテーマもあります。こうして、日韓経済関係の改善が日本、韓国の国民一人ひとりの生活にプラスとして実感されるようになればしめたものです。今、日の交流の主役は若者たちですが、日本について言えば、彼ら、彼女らのK-POP や幹国の化粧品などへの関心だけに支えられる日韓関係では心もとない気がします。
(注2)岸田総理が訪される前ですが、「徴用工」の問題について「The Forced Labor Solution-The Triumph of Korean Leadership Over Japanese Timidity」という論評を目にしました。筆者はスタンフォード大学のダニエル・シュナイダー教授。父君は往時、沖縄で米軍のトップを勤めて一家あげての親日家。もっとも、父君はその後駐韓大使も経験しており、この論評については、後者の経験の方が優ったのかもしれません。いずれにしても、親日家にしてもこの言ありかと残念に思った次第でした。
九十年代後半のインド、「改革・解放」へ
最後に、日本の話に移る前に、最近とかく話題になるインドについて若干、お話ししたいと思います。
私は、一九九五年から九八年までの約二年半の間、インドのニューデリーの日本大使館で仕事をする機会をいただきました。でも、その間、東京へ出張で帰る度に先輩、同僚たちから「インドは暑いし、衛生状態も悪いし、大変だろう」「あの長口舌をふるうおしゃべりインド人は、少しは良くなったかね?」.....と。しかし、実を言うとそのインドに私は家内ともども、すっかりはまってしまいました。とにかく、根明かで社交好きで泣きごとを言わない。「(問題あるように見えても、いつも)ノープロプレム!」と。四十度の炎天下、水筒をひっ下げて、よく、インドの友人たちとゴルフに興じたものです。
当時のインド、中東情勢がゴタゴタする中、この地域に出かけていたインド人たちからの送金も途絶え、「経済」が立ちゆかなくなり、それまでの内向きで規制でがんじがらめの経済運営を改め、経済のかじ取りを一挙に外国企業に優しい対外開放の方向に切った時期に当たりました。インド流の「改革・開放」のはじまりです。
もっとも、中央(デリー)の政治の方は、いまひとつ定まらず、相次いで首相が変わるという時期でしたが、そんな中、メディアの世界では、時々のテーマをめぐって、大変良質な議論が闘わされ、司法の世界も、とくに最高裁は識見、人格にともに優れ、一身に尊敬を集めた人材をそろえていました。そんなインドの最高裁についてよく言われたのは“ACTIVE JUDICIARY”(行動する司法)。どういうことかと言うと、政治、行政の足らざるところ、政いはさぼっていてやらないところを、「世直し」に向けて自分の方から出ばっていって、具体的措置(例えば必要な法令の制定をうながすなど)をとるといったことです。日本の同法の世界では考えられません。
私の友人の一人に外務省で同期の福田博君という人が居ます。彼はその後、最高裁の判事に任ぜられましたが、ある時インドにやって来て、インドの最高裁の判事方との意見交換を通じ彼らの識見の高さにいたく感銘を受けていたので「どうだい。日本の最高裁も、少しはインドを見習っては、日本も、政治、行政がさぼっているところは多々あるのだから」とけしかけたことを覚えています。その後彼は、国会における一票の格差の間題で、厳しく「政治の息慢』を指弾するかなり有名な判決を書き、これを機に政治の方でも、格差是正に向け、少しずつ動きが始まりました。
ところが、私がインドに居た頃のインドの良い面、メディアの世界での良質な言論の自由、時の政権とは明確に一線を画した最高裁の ACTIVE JUDICIARY、政治と宗教の分離(セキュラリズム)といったことが、とくに第二次モディ政権になってからひとつひとつ姿を消してゆく。これが今日、インドについてお話したかった点です。
強権的政策(とくにモスレムへの対応)が目立つモディ政権
第二次モディ政権になってから、とくに目立つのが、ヒンドゥーナショナリズムを背景にしたインド国内のモスレム勢力に対する強圧的な措置です。そもそも、モディさんのBJP (インド人民党)は、過激なヒンドゥー宗教団体 RSS(民族奉仕団)をベースに創設された政党ですし、モディさん自身、そこを活動のベースにしてのし上がって来た人です。
二〇〇二年、モディさんの出身地グジャラート州でヒンドゥー教徒がモスレム勢力を襲撃し大暴動に発展したという事件があった。そして、その背後に当時州の首相だったモディさんの「関与」があったのではないかということがうわさされ、もう今ではすっかり忘れ去られていますが、何と当時、欧州諸国は同人へのビザ発給の停止措置をとったくらいでした。しかし、そのモディさんは、その後、グジャラート州をインドのデトロイトにするのだというかけ声の下、この州の発展に大いに力量を発揮し、それをベースに遂に連邦政府の首相の座を射とめました。そうなると、欧米諸国も現金なもので、直ちに同人に対するビザ発給停止の措置をとり上げました。
ちなみにそのモディさんに常に陰で寄りそって選挙などの場で辣腕を振って来た人にアミットシャーという人が居ますが、この人も前述のグジャラート州の大暴動の件で、黒幕の一人として重い罪に問われています。本人は、遂に陰の存在から仮面を脱ぎすてて、モディ首相の片腕として、今や連邦政府の内務大臣という要職にあります。
モディ政権によるヒンドゥーナショナリズムを背景とした強圧的な所作の象徴的なもののひとつとして、かねてインドの統治の上で悩みの種だった西のジャンム・カシミール地方(モスレム勢力が大多数を占める)を二分割して、一挙に連邦の直轄領とするという挙に出ました(二〇一九年八月)。
他方、最近のインドの最高裁はと言えば、かねてイスラム勢力と所有権をめぐって法廷開争が続いていたウッタル・プラデッシュ州アヨーディアの寺院の跡地について、これをヒンドゥー教徒側に所有権を認める判決を出し、ここにヒンドゥー教徒のラーマ寺院を再建するということでモディ首相もその起工式に出席していました。
やること、なすこと、私は、最近のインドは一寸中国に似て来たなぁと言ってみたりするのですが、「世界最大の民主主義国・インド」というイメージがすっかり定着しているのか、怪げんな顔つきをされるのが落ちです。
「We are the largest democracy!」
私がインドに居る時も、インドの人たちがよくこう言うのを耳にしたものでした。しかし、一寸でもインドで暮らしてみると「でも、この根強い女性ベッ視の風習はどうなの?」「社会の隅々まで張りついたカースト制度は民主主義になじむものかしら?」「人々の間の貧富の格差も半端ではないし…....」など茶茶を入れたくなったものです。しかし、それでもお話したように、私も家内もそんなインドにすっかりとりつかれてしまった次第でした。
インドにおけるスズキ自動車
ところで、昨年秋、スズキ自動車の鈴木修さん(前会長、現在は相談役)のお誘いで約四年ぶりにインド(ニューデリー、グジャラート)を訪問する機会がありました。スズキ自動車がインドに進出してちょうど四十年。それを祝賀して大きな記念行事が閉かれる、モディ首相も出席するから是非ということで、喜んでお伴した次第でした。
インドとスズキ自動車といえば、インド政府からインドで車の製造に向けて日印合弁会社を立ち上げたいという要請に対して、日本の自動車メーカーが全く相手にしなかった中、ただ一社鈴木修社長(当時)の英断の下、スズキ自動車がこれに応じ、それから、インドでのマーケットを広げ、インドで自動車といえば「スズキ」といわれるまでになった(一時は、マーケット占拠率は六〇%を超した)歴史を思い出します。
鈴木修さんは、少なくとも合弁事業の立ち上げ、これを軌道に乗せるまでは、インドというむずかしい環境の中、現地の合弁会社の運用をインド人の責任者に任せておられたことを思い出します。もっとも、その間、定期的にインドに飛来されて、スズキの経営哲学を先方との間で十分シェアしながら、「それじゃ。また三ヶ月後に来るからな」と。そうなると、委せられたインド人もはり切るわけです。細かいことまで、現地の日本人のトップが口を出し差配したがる日本の企業にはなかなか出来ないことです。そういうわけで、今でもインドのスズキ自動車の従業員たちの名刺には日本語で鈴木修さんが書いた「やる気」と書いた文言が刷りこまれています。
もっとも、そのスズキもこのところ、インドに進出した韓国の自動車メーカーに追い上げられ、マーケットのシェアも四O%ぐらいのところまで落ちて来ているようですが。
インドにおけるスズキ・インド進出を記念しての祝賀行事を見ながら、他方、あの時、鈴木修さんの決断なかりせば、今は、インドで語るべき日印協力のシンボル事業は何ひとつないなとの思いを深くしたものです。日本の自物家電、ケータイなどの類はすっかり韓国勢に駆逐されてしまいましたし(ちなみに、このことは中国でも同様)。
伸びしろの大きいインド経済
インド訪問は四年ぶりでしたが、あらためて感じたのが、インドの発展(経済)のスピードと、しかし、そのインドは経済・社会インフラがまだまだ貧しい中にあって、今後ともインド経済の伸びしろは大きいな、ということです。
問題は、そこには日本の企業がどう食らいついて、ビジネスを広げてゆくかということ。先に、「ノープロブレム」をしょっちゅうロにするインド人と細かいことがいちいち気になり、決定のプロセスも課長一部長一取締役一会長と重層になっていて諸事時間がかかる日本の企業文化のことをご紹介しました。私は、とくに外国の地で業を立ち上げる時、肝はやはり現地の情況に通じた(人脈、事業環境……..) 相手国の人をパートナーとして見つけるということに尽きるような気がします。それにあのインド説の強い英語(ヒングリッシュ)。これを色々数字を交えながら弾丸のように発射してくるインドの役人たち相手に対等にやり合う、容易なことではありません。スズキ自動車のことはお話しましたが、その後、中国で勤務した時、中国に進出している欧米の企業の現地のトップは概ね中国人(場合によっては、シンガポール、台湾から人材を調達)であることに気づきました。そのかわり、とくにカネの出入に厳格な日本企業においては、交際費の支出などで勝手なマネはさせないように「財務」だけは、しっかり日本人が握るということでしょう。
なお、最近のインドについては大変良質の本が出版されました(「インドの正体”未来の大国”の虚と実」伊藤融著、中公新書ラクレ)。正体などと、例によっておどろおどろしい書名ですが、者者は(私は、直接は存じ上げませんが、現在は防大教授)かつてインドの日本大使館に勤務された方、今のインド、昔のインドについていろいろと辛口の記述もありますが(その内容はインドで暮した者として、私もほとんど共感するところです)、著書全体に通底するのはインドに対する強い思い、そして、そのようなインドを相手にするには、日本もしたたかさを涵養をする方向に変わらなければという思があるような気がします。
最後に、日本のことに話題を移す前に、折角の機会ですから、今もよく話題になるいわゆる「歴史認識」とこれとは違う歴史上の「史実」について少しだけお話したいと思います。
私は、「歴史」について、下世話な言い方ですが、やった方とやられた方との間で、少なくともこれにかかわった人、政いはその次の世代ぐらいまでは、あの時代の「歴史」をどう認識するか、いわゆる「歴史認識」を一致させることはむずかしいと思っています。中曽根総理はよくそうおっしゃっていらした。
他方、その「歴史」について何があったのか、すなわち、近現代史における歴史上の「事実」については、これを彼我の間で共有することは可能ではないかと考えます。ところが、このことを探索しようと資料を渉猟する学究の徒に対し、「つまらぬことは止めておけ!」「自虐史観の輩!」と乱暴に言葉を投げつける向きがある。とんでもないことだと思います。
「史実」を共有するということについては、日本のある大学でこんなことがありました。
先生が生徒たちに対し「昔、日本はアメリカと戦争したことがあるんだよ」と話したのに対し、生徒たちは、「へぇー、知らなかった」と怪訝な顔。そんな中、一人の生徒が、おずおずと手をあげて「先生、それでどちらが勝ったんですか?」と(笑)。これは、外ならぬトウキョウダイガクでの話で、今ではかなり知られた話です。私は、今でも時折、この話をするのですが、一定の年カサより上の方たちは大笑いです。ところが、例えば、大学の入学式、企業の入社式などでこの話をしても会場は皆、シィーンとして……気味が悪いですね。
昔、神戸でこんな経験をしたことがあります。駅前のタクシーに乗って近くの孫文記念館にお願いしますと運転手さん(神戸の人でした)に話したところ、「ソンブン?誰ですか、それ?」と。いささかびっくりして、孫文のことを話したところ、「わしら、そんなことを学校で習わへんかったからなぁー」と。若い人たちは孫文のことをマゴフミと読み、この人一体誰のこと? という向きもあるようです。
私は何も「歴史」の学習で中国や韓国のそれに合わせよと言っているのではありません。あれはあれで、多々一方的なところがあるからです。しかし、基本的な史実だけは身につけておきたい。彼の地の人たちは、ここところをしっかりとたたき込まれて、かかってくるからです。そんな中、私は昔、「大学の入試に近現代史からどんどん出題するようにしては如何」と大学の先生方に申し上げておりました。ところが、ある大学でそうしたところ、おっかない先輩たちから「つまらぬことは止めておけ!」とどなり込まれたということです。どこの大学だったか?ご想像にまかせます。
先にお話した東京大学での話、その後、少しは、高校時代の近現代史の学習も充実したものになったのかと思っていたのですが、最近全くこれと同じ話が別の大学であったとのこと、なかなかに根は深いですね。
日本、がんばれ!
最後に、わが日本についてです。
近年、とかく暗い話ばかりが横溢する近年の日本ではあります!
・低迷する経済(実質経済成長率はここ30年0.7%/年、企業の国際説争力の低下[世界1位から世界 34位に スイス IMD])
・時価総額でトヨタは世界 39位(1989年には上位 10位の内7社が日本企業だった)
・政治の劣化(ガーシーの件は、びっくりしました)…….
他方、日本、良いとこ、住み良いとこ、というのも私の率直な気持ちです。
・メリハリがしっかりした四季の移り変わり
・ 世界一の治安、正確な交通体系の運航
・東京など大都市では世界中の食が
・ 他宗教に寛容
・清潔な公共トイレ……
日本の政治による統治(ガバナンス)などのあり方
前段のことについては、いろいろとお話したいことがあるのですが、今日は、時間の制約もあり、ただ一点だけ。それは日本の政治による統治(ガバナンス)のあり方についてです。
私の手元に昔と今の内閣官房の姿、形を記載した表(国会便覧より)があります。
往時、例えば、鈴木内閣の頃、それはたったの1ページ。当時、副長官だった翁久次郎さん或いはその後の藤森昭一さん(中曽根内閣)らは、「官邸はヒマなのがいいんだ」「議論は各省庁の間、司、司で十分してもらって、どうしても解決できない案件だけを官邸に持って来てもらう」と。
しかし、世の中の仕組みが複維になり、それと共に省庁をまたぐ案件もどんどん増えて行った。また、行政の方はタテ割の弊害も目立つようになって来た。そんな中、官邸機能の強化ということが叫ばれるようになり、中曽根改革 (内閣官房に内政、外政審議室を設置)、橋本改革(財政構造改革など大つの改革を旅印にスタートしたが、尻すぼみに終り“失敗、と言われる。唯一手をつけた中央の省庁の再編も、厚労省など、かえって肥大な役割を生み出し、これも成功、とは言われない)がなされ、福田内閣の時は、内閣人事局の創設が検討され、これは、その後の民主党政権を経て安倍内閣の時に実現しました。
話を内閣官房の姿、形の方に戻すと、これが私が秘書官としてお仕えした鈴木内閣の頃は、これも1ページ。そのような情況が徐々にに改変され、村山富市内閣(一九九五年の阪神淡路大震災への対応の遅れが、厳しく批判された)の時はニページに。そしてその後の民主党政権になるとそれが一挙に六ページに増えた。ところが、これが安倍内閣(第二次)に至り、一挙に十ーページに増えます。xx総合戦路室、△△推進室、〇〇検討室……などなど。もっとも、そこを占拠する方たちは、親元の省庁における役職を保持したままというケースが多いのですが。
そうして、いわゆる官邸官僚といわれる人たちが、人によっては、「総理のご意向!」を錦の御旗にして各省庁をおどし上げる。例えば、外務省で言えば、内輪の大使会議の席にこういった人が乗り込んできて、「総理のご意向!」として、個別の ODA 条件の割りふりを自分の好みに従って迫るということがありました。そんなことを許す外務省も外務省と思ったものでしたが。
前述の「内閣人事局」については、これの設置を検討の俎上に乗せた福田康夫氏が「人事局局長のポストを当初、事務の官房副長官でなく政治家(官房副長官)をもって来たのが大きな誤りだった。
そうなると官庁の事情でなく、特定の政治家がそれぞれの思惑で役所の人事を動かすということになりがち」(事実、具体的な事例についての言及は避けますが、外務省についても、某総領事の酒の席での「官邸批判」の言辞が官邸の副長官(政治家)の耳に達しーーちなみに、これを官邸に「ご注進」したのは、その席に居たメディアの人でしたーー「暴言を許さん」とて、役職を解かれ窓際族に追いやられたケースがありました。)
その後、この内閣人事局の長は、事務の副長官が就くようになりましたが。
私は、官邸生活が長かったということもあり、悲しい性、毎日の新聞の「総理の動静」の欄に目が行ってしまうのですが、近年の役所の官邸への出入りのひん度、姿・形にびっくりしています。例えば、私の古巣の外務省の事務次官、複数の局長たちを従え、多い時には、週に何度も。これでは、官邸からの注文うかがいのための官邸詣でとみられても仕方がない。昔、私が総理秘書官をしていた時は、こんなことはありませんでしたね。それでも、外務省の場合は昔からの官邸側とのとり決めとして、原則として事務次官は週に一度(総務課長を記録係として従え)、官邸に一人でいらっしゃっていました。でも、他省庁の事務次官は、本省にデーンとかまえていらっしゃって、足しげく官邸詣でということは全くありませんでした。こんなことを言うと、外務省の後輩たちに「世の中は、すっかり変わったんですよ!」とお叱りを受けそうですが。
でも、私は、古いかもしれませんが、本来あるべき姿は、個々の政策については、閣議で方針を決める、それをふまえて、各大臣がそれを実行に移すために輩下の役割の部下たちを叱咤激励し汗をかく、その上で足らざるところは、総理の意向を受け、官房長官が各大臣や次官を動かしてゅく、ということではないかと思います。(注3)
昔は昔で、いろいろと問題があったことは認めますが、それでも、国を統治する上において、立法府、官邸、行政府、そして行政の一部である検察、これらの間において良い意味での緊張感があり、とくに昨今と違って、それらの間で自由闊達な議論があったような気がします。生来、気の弱い私のような者でも、例えば橋本龍太郎さんなどに、「総理、それは、とても理屈が通りませんよ!」と言えたものです。橋龍さんは、冗談が好きな人で「タニノという奴は、気のくわぬことを言うと殴るから!」と。勿論、そんなことはないのですが、異論があった時は、「それはダメですよ」と手をかざして横に振ることぐらいはしたのかもしれない。それを「気にくわぬことを言うと殴る」と。閉口したのは、北京在勤中、訪中された橋本龍太郎さんのための胡錦濤副主席主催の晩餐会の席上のこと。「胡錦濤さん。今度のタイシには気をつけなさいよ。気にくわぬことを言うと殴りかかってくるから。」と。またか!と閉口しながら、「いやいや」と手を横に振ると、「ほらね!あの通り」と(笑)。
橋龍センセイ。なかなかむずかしい人で、何日も口をきいてくれなくなったり、途端に仲良くなったり......でもなつかしい人です。
日本の統治のバランスがくずれたということについては、1994年に導入された「小選挙区比例代表並立制」で、自民党総裁を兼ねる総理大臣が立候補者の「公認」を決める段階で、大きな権限を持つことになった結果、自民党の国会議員と行政府の長(総理大臣)との間の力関係も大きくくずれた(総理大臣にはっきりモノを言えなくなった)ということをおっしゃる自民党 OBの方もいらっしゃいます。もっとも、この小選挙区制の導入なかりせば、過去2回あった、国民の期待する与党から野党への政権交代もなかっただろうとの声も。むずかしいものですね。
私は、今の日本が時折、新聞でも報道されるように、国際社会での競争力がどんどんなくなってゆくことが心配です。株価だけは、高値が続いているようですが、私たちの世代のうちは、「日本、良いとこ、住み良いとこ」と浮かれておわるかもしれないけれど孫たちの世代の日本は、今のままでは国際的な競争力をなくし、人口も減り、文言通り極東の小さな一島国ということになりかねない。そんな中、人口が減ってゆくことについては、これに抗っても仕方がない。勿論、結婚したくても経済上の理由でできないという向きには、それなりの手当が必要ですが。
むしろ、人口が小さくなってゆくことを所与のこととして受けとめ(人口が小さくなると交通渋滞も解消。持家も広くなるなど悪いことばかりでない)、今からその前提で新たな国造りに向けて設計図を書いてゆくということではないでしょうか。極東で、ひとり、高い生活水準を保持し、世界に伍して闘えるいくつかの産業を持ったキラリと光る日本。私はそんなことを考える時、よく北欧の国々(フィンランド、デンマーク、スウェーデン) のことを頭に浮かべます。そして、アメリカとの関係も、いま少し一人立ちすることが必要ではないか、とも思っています。
そんな中、かって閣僚をなさった自民党の古川禎久さん(衆議院議員)が、「日本は、いつまでも、政治経済においても、外交安全保障においても、米国一辺倒、で良いのだろうか」、「日本も今少し、自主自立の旗を立て、”王道”を歩むべし」と声をあげていらっしゃいます(『月刊日本』)。
また、最近、国会で「超党派石橋湛山研究会」という議員連盟が発足した由。石橋港山という人は戦前は、植民地を放棄せよ、貿易立国こそ日本の生きる道として「小日本主義」を唱え、戦後、首相の座に就くや、「日本は、米国と提携はするが、向米一辺倒にはならない」と宣言した人です。その後病のため、首相の座を降りましたが。いずれにせよ、そんな石橋湛山について、国会で超党派の議連の研究会が立ち上がった由、注目しています。
以上、拙い話をダラダラと申し上げましたが、時間をオーバーしましたので、この辺でひとまず打ち止め、といたします。どうもありがとうございました。
(注3) このテーマでは「官邸官僚が生み出した”無責任体制”」(牧原出東大教授、『中央公論』五月号)という優れた論考があります。
歴史の歪曲・否定では世界の中で勝てない
司会 ありがとうございました。やはり普段なかなかお話を聞けない、貴重なお話をお聞きいたしました。折角ですから、もし質間がある方がおりましたら、挙手をお願いします。
質問者 貴重なお話をありがとうございました。大使のお話はいずれも非常にその通りだなと思ってお聞きいたしました。最近の中国について2点お伺いします。
1つは、この間のG7広島サミットでも、岸田さんはアメリカとほぼ同じレベルで、中国を念頭にした非常に強い姿勢を示されましたが、岸田政権の今の対中姿勢をどのようにご覧になっているのか、評価しているのか、非常に危うさを感じているのか、ということをお聞きしたい。
もう1つは、この前、アメリカのプリンケン国務長官が訪中して、習近平国家主席と会談しましたが、その時の会談スタイルが外交団の間でも話題になりました。座席はコの字型で、習近平が真ん中に座り、プリンケンとカウンターバートの秦剛がその左右に座った。習近平は2人を助さん格さんのように従える形で、上から講話をするような形で会談をした。これまでアメリカの国務長官が訪中した時に、国家主席が会談すると、いわゆる外交上は横並びのソファの椅子に座って会談をする、というスタイルが記憶に一番多いのですけれども、このコの字型のスタイルというのを、長年外交官として見てこられて、どういう風に我々は中国のメッセージを受け取った方がいいのか。
谷野 あれは、仰るように、これまではアメリカの国務長官も大体1対1の時は隣り合わせで座っていて、ああいう形は初めてですね。誰がああいう形にすることを入れ知恵したのか、習近平氏自身の意図なのか、それともゴマをする外交部の動きとかがあるのか。私は、日中首脳会談はずいぶんと付き合いましたけれども、ああいう形でやったのは、私の現役時代はもちろんなかった。ただひとつ覚えているのは、フィリピンのマルコス大統領です。まさにこないだのように。帝王のように座って、双方に日本(総理もふくめ) とフィリピンの出席者が座る。椅子もマルコス大統領のところだけ玉座。あれを見て独裁者のマルコスを思い出しましたね。バイデン大統領は習近平氏のことを独裁者と言って、中国が反発したけれど。もっとも、トランプ大統領が先にお話した中国の劉鶴副総理以下とホワイトハウスで会談した時は、正に今回、中国がやったのと同じ形でしたね。トランプ大統領が、一人で中央に座り、その両脇に中米双方のメンバーが並ぶという。
外交部というところは、残念ながら力がない。外交政策をとり仕切っているのは、党の「中央外事政策工作委員会」、トップは習近平氏です。だから「戦狼外交」と言って、外交部はその時の「空気」に調子を合わせる。日本でもひどいのは、大阪の中国総領事の件がありました。この人は、私は昔からよく知っていて、ああいう人ではないと思ったのだけれども、大阪の総領事のホームページに、ロシアのウクライナ侵攻の直後に、「強い国に盾を突くとどういうことになるか」、まだ今日のような状況じゃなくて、あの頃はロシアが直ちに席巻をするという予想だったのかな、「強い国に盾を突くとどうなるか、今度のウクライナから日本は教訓を学ぶべきだ」と。これはものすごく評判が悪かった。今度はまた、呉江浩大使、彼も前から知っているから、着任早々意見交換もしたのだけれども、台湾問題を中心に、「日本の対応如何によっては、日本の人民は火の海の中に行く」と。
外交部は人員や規模は、日本の外務省どころではないです。世界中に大きく根を張った。しかし、中国がいかに問題視されているかということが外交部を通じ中南海の中枢に届いているのだろうか。私は、総理秘書官を長くやっていたものですから、外務省から来る電報を精査して、総理にお見せした時々にご意見をいただいた。昔は外務省は、大使から骨太の意見具申が上がってきたものです。私は昔、本当に感動したのは、敗戦直前の佐藤尚武さんという駐ソ大使。その後参院議長になった人ですが、長文の意見具申を送っていた。これはもう敗戦必至だ、とにかくそういう前提で.....と切々たる意見具申だった。あれは色々な在外の意見具申の中でも、歴史に残る意見具申として有名です。前段は何でしたっけ。
質問者 今の日本の岸田政権の、安倍政権からの変節がありましたけれども、対中外交ですね。
谷野 岸田さんのモノの仰り方は、パイデン大統領ほど乱暴ではない。日中ハイレベルの対話もいずれキチっとしなくてはならない。中国といずれは政治対話への道を目指すという事で、「習近平は暴君だ」などという発言は日本からは出てこない。日中首脳会談への道を探っておられるのだと思うのですが、どうやってそこへの道筋をつけるか。林大臣は、あの方の父君は私が目中友好会館にいた頃に会長で、私が副会長。そんなことで、林さんは若い頃から存じ上げていて、最近までは日中議連の会長だった。しかし、それだけでベタベタの親中派だ、と自民党はレッテルを貼ってしまうわけです。先ほど言ったように、王毅外交部長と訪中の話をしただけで、もう国賊のように言われました。
党の外交部会長は、草田さんが訪韓する前に予算委員会で、「総理、韓国に行って謝るなんてとんでもありません」。予算委員会でかなり時間を取ってやっていましたけれども、岸田さんは若干別の対応をされた。
今の日本国内の反中感情はスゴイ。そして一頃の反韓感情。感情的になって、しかも「歴史」を全面否定してしまう。それは駄目ですよ。日本のアジアとの「不幸な歴史」を開き直って歪曲し或いは全否定して、それをもって「日本人の誇り」を取り戻そう、と。しかし、そういう所作が、例えば欧米の有識者、アジア関係をやっている人から見れば、実はこういう人たちの所作は、ーー慰安婦の問題でも有名な右翼の評論家が大きな新聞広告を出して評判になりましたねーーそういう所作が、第三者からみれば、最も深いところで「日本の民族の診り」を傷つけている。「謝る」という事ではないのです、これは散々やってきた。要するに歴史を歪曲する・否定する、今や謝罪はメインテーマではあるべきではない。歴史の歪曲・否定というのでは世界の中で勝てない。ドイツはそこを見事にやった。
ただ日本と違うのは、ドイツはアデナウアーにせよ、ナチスの時には外に出て抵抗した人たちです。それが戦後の西ドイツの国政の中枢に帰って来た。だから、スパッと「過去」を切れた訳ですし、歴史教育の問題もしっかりしている。ベルリンに行かれたことがある方はご存知でしょうが、日本でいえば銀座のど真ん中のようなところに多くの石材がおいてある。それはナチスの機性者の慰霊のためです。プランデンブルクの門から少しのところです。日本はとても無理でしょう。なぜなら戦前、国政の中枢にいた人、満州の経営の最前線にいた人たちが、戦後の国政の中枢に入って来た。だから、ドイツと違って、「歴史」をそのまま引きずってしまっていて、教科書問題などは(中曽根さんは立派にやられたと思うけれども)、いつも問題になった。調べてご覧になるといいと思いますよ、満州で最前線にいた人は、岸信介さんはその最たるものだけれども、彼だけではなくて、戦後間僚になった人が随分いる。文部大臣、大蔵大臣など。だからドイツのようには中々いかない。
外務省もそうです。私はよく分からないですが、外務省も欧米派が居たのでしょうが、なぜか戦後の外交の最前線で活躍した人の何人かは、戦時中ハイル・ヒトラーとやっていた人です。よく分からない。大島浩さんという人がいるでしょう。駐独大使、三国同盟を主導した軍人さんです。一昨日この人のことをNHK でやっていた。私が外務省に入った時は内田さんという人が官房長で、お嬢さんは有名なピアニストのあの内田光子さん。内田さんは大島大使の下で仕えていて、極東裁判の時は大島弁護に回る。難しい司法試験をトライして受けて、だから大島さんというのは、吉田茂さんなどとは対極の人だったらしいけれども、人を引き付けるものがあったのかなとも思います。ハイル・ヒトラーは、例えば、牛場信彦さんです。牛場さんの存在感というのは、戦後の外交で非常に大きかった。対米経済交渉など強腕でとり仕切ったなかなかの人です。外務省はどうしてそうなったのか。私も、国会でしょっちゅう、あの頃は局長答弁などというのも結構ありましたからね。土井たか子さんなんかが元気な頃で、例えば「局長、南京事件、認識を述べよ」というようなことを質問してくる。僕などはどうでもいいのですが、歴代の総理・外務大臣の判で押したような答弁、「あの時代の歴史についての評価は後世の史家に委ねる」、それを絶対に超えてはいけない。リベラルな鈴木善幸さんでさえ、そう言わされていた。
ところが、私がお仕えした中山太郎という大臣、この間亡くなってしまったけれども、外務委員会で「日本の朝鮮半島の植民地について、あれは誤りであって申し訳なかった」とか言って、僕は中山さんが席に帰ってこられたから、「ずいぶん思い切った立派なことを仰られましたね」と言ったら、「いや、谷野くん、俺は昔大阪で医者をやってとったんだ。あの時は大阪には朝鮮の在日の人が多数住んでいて、いかにこの人たちが戦後苦しい思いだったのかを自分で知っていたから、ああいう答弁が自然に出てきた」と言っておられました。しかし、それまでは堅かった。「後世の史家の評価を待つ。」と。
すみません。長い間お付き合いありがとうございました。
司会 もう一度、谷野作太郎先生に盛大な拍手をお願いします。本日は誠にありがとうございました。
※以上は、研発会の当日、時間の制限もあって省したところを、研究会のあと、報告者が補筆したものである。
谷野作太郎(たにの・さくたろう)
1936年生まれ。1960年東京大学法学部卒業後、外務省入省。中国課長、
内閣総理大臣秘書官(鈴木内閣)、アジア局長、内閣外政審議室長を歴任後、駐インド兼駐ブータン王国大使、次いで駐中国大使。2001年退官後は早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授、財団法人日中友好会館副会長などを経て、現在、日中友好会館顧問。著書に「中国・アジア外交秘話』(「中国・アジア外交秘話」東洋経済新報社)、「外交証言録 アジア外交 回顧と考察』(岩波書店)、「アジアの昇龍一外交官のみた躍進藤国」(世界の動き社)など。
自分【須賀次郎】の最後の仕事であり、最後まで、続ける所存です。
2010年、発足以来、終始一貫して追求しているのは、スクーバダイビングをリサーチ【調査】という視点から追求することです。調査というと、なにか仕事っぽくきこえますが、人はなぜ水の中に潜るかというと、水の中の世界がどんなになっているのか、見たい、知りたい。見たら、記録したい。記録の道具はカメラです。それを、楽しみ、レクリェーションとする人もいれば、仕事とする人も、学問、学びとする人もいます。
つまり、ダイビングは水の中のことを知る、調べるのか、なにもしないのか、二つに一つということになります。なにもしなくても、水の中は楽しいので、それをスポーツと呼びます。スポーツでダイビングをする人も、水中の自然を目にすれば、記録して、人に知らせようとします。
今書いている本の前書きのようになってしまいましたが、報告書、おもしろく感じていただければ、うれしいです。
(20230824)
添付のPDFを見るには、右上の「JAUS Journal」の右上にある↗️をクリックしてください
相変わらずコロナが猛威を振るいアメリカのは連日新記録、日本も大変なようですが皆様お元気ですか?
米大統領選も相変らず、トランプ氏の敗北宣言はでずゴネていますが昨日キャリフォルニアで選挙の結果通りの民主党側のelectorsが認定されましたので/同送の文のごとく/バイデン氏の勝利がほぼ、ほぼ確定しました。日本のマスコミやネットでは、あまり騒がれていませんが極めて重要なマイルストーンだと思います。
California certification puts Joe Biden over the top officially in Electoral College
これからもトランプ氏側は色々画策するでしょうが一度certifyされた、slate of electorsを否定することは大げさに言えば内戦、革命覚悟でなければ出来ないと思います。TRUMP氏自身は、更なる手段、例えば重要州の共和党系の州議員ーこれも下院、上院とあるのが普通ーー、あるいは知事などに働きかけ、トランプ系のslate of electorsを併記させたり、訴訟を長引かせ時間切れを狙い、連邦政府の両院にその決定を委ねるなどの手も理論上はあり得るようです。でもこれをしたら本当に国を二分する様な騒ぎを覚悟しなけらばならないので、共和党の議員の支持は得られないと思います。色々なスケジュールの日程やありうる画策などはこの英文で大略説明されてます。
それにしても日本の一部マスコミや大半のSNS、Youtubeの論評がトランプを支持しているのにはほんとうに驚きました。この件に関して。2、3の日本のマスコミでの解説記事を見ました。
(下に記事名を記しておきます)
1:米大統領選日米関係の激変に備えよ。11/12/20 孫崎享、毎日デジタル
https://mainichi.jp/sunday/articles/20201109/org/00m/030/001000d
2:バイデン氏の経済、外交のポイント 11/10、日経、斎木昭彦。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66007380Z01C20A1M10900
3:12/6/20 毎日新聞デジタル、(米大統領選に不正)日本人識者達の論理ーーー吉井。
https://mainichi.jp/articles/20201205/k00/00m/030/008000c
これらの記事を見て感じたのは、バイデン氏になると外交と経済で今までより日本の立場が難しくなる、特にアメリカと中国の間に挟まれ、経済に重きを置けば中国と親しくせざるを得ないが、外交、安全保障面ではアメリカの言うことを聞かざるを得ない、そのやり方がトランプ氏を相手とするときよりはずっと難しいとするある程度理屈があるものが一つ。もう一つはネット上などで多いのは右派的な考えで、中国、韓国が嫌いだから、TRUMP氏は中国を叩いた(韓国とは分からないが)から、即ち中国の敵はトランプ氏。敵の敵は味方であるとの論理で、トランプ氏は日本の味方とする乱暴な理論があるらしい。どうもあまり納得できないがその様に説明されていました。
コロナ隆盛でいろいろ近い人々の間でも感染者が出てきています。
どうかお元気でお過ごし下さい。
(20201207)
秋も深まり時には寒いほどですが私は無事に過ごしております。アメリカのコロナは衰えることなく多くの州で春よりも感染者が多い所も出て来ています。
以前お伝えした大統領選挙は大詰めを迎え、候補者のdebate も終わり、現在は候補者、l運動、テレビでの舌戦がたけなわです。でも政策での論争は兎も角、とにかく相手に傷をつけることが主な目的で有ることが多い様です。
良くも悪くも、アメリカという大国の大統領という強すぎる程の力を持つ職に就く人を選ぶ選挙ですのでマスコミの取り上げ方も非常に大きく、結果の予想がテレビ、新聞、ネット上などで山ほど載せられています。
今のところバイデン氏がやや有利とされていますが、2016年/前回の結果を見てもマスコミの前評判は時には外れる事もあり、私もネットなどで調べて楽しんでいます。日本からの発信されたものも多く目にしていますが、何故かTRUMP氏有利とするものが多く驚いています。これだけTRUMP氏有利とするのは、何かTRUMP政権の方が、日本にとって政治的、外交的、経済的に有利と考えそれらの人々の希望的観測が反映されているのではないか、、とも思えます。
私はバイデン氏を応援していますが、なんとなく頼りなさげで、おしの強さに欠けるので心配です。トランプは堂々と黒をしろとも言いくるめたり演説の態度も4年前に比べれば上手になっているし、何があっても彼を支持する岩盤層が一定以上いるのが強みです。でも嘘をよく言うこと、科学を信じないこと、親族を重用する事などで反感を買っています、今どうなりますか、、、、。。
ここで、アメリカでのマスコミの多く、ネット上での意見は大まとめにすればバイデン氏ー有利が殆どです。今の所、トランプ有利をかなりはっきりと言っているのTrafalgarと言う調査機関のみです。この機関は前回のトランプ勝利、ヒラリー敗北を予告したので一応有名です。興味のある方は、LATEST POLL BY TRAFALGARとでも入れて検索してください。他でもいつもはTRUMP氏側のコメントが多いFox newsでもTRUMP氏やや不利のpoll結果を出しています。// latest poll by Fox// とくにpresidential pollと入れれば間違いない//
予想のためのpollは大手テレビニュース、新聞各社、英国の賭けの予測会社など色々ありますが、その社により、TRUMP氏、バイデン氏寄りなど偏見が多少あるので幾つかのものを読み比べて自分なりの予想をしてみれば良いと思います。以前に述べた様に、この時期、50州とワシントンDCの多くは殆ど共和党支持か民主党支持かが決まっているのであと支持の行方がはっきりとはしてない10足らずのpollの予測を見れば良いと思います。下に注目すべき州の名前を記しておきます。また見るべき調査機関名を記しますので、自分で好きなものを選び調べて下さい。ただfivethirtyfiveは比較的中立なサイトとされているし、わりにフォーマートが使い易いので、latest poll in swing state by Fivethirtyfiveと入れてこのサイトは見た方が良いと思います。これを開くと一番上にLatest polls と出てきます。
その下の欄に 3つ選ぶ所があります…一番左のall pollsの選ぶ所でpresidential:general electionを選びます。 次いで真ん中のstate の所ではallを入れると州名アリゾナから、、、、ワイオミングまでが出てきます。調べたい州を選ぶ、、、例えばフロリダFlなど。最後のdistrict の欄はメイン州とネブラスカ州を除いてはとくに選ばないでも良い。メイン、ネブラスカも大統領選挙では不要。
こうしておいて、好きな州例えばFlをいれると右に赤と青の横線が出てくる。青は民主バイデン、赤は共和、トランプの支持数が3月から10月第3週まで出てきます。あとは自明で25日現在でバイデン支持49.1%,トランプ支持46.9%と出ます。不明の者がいるから必ずしも100%とはならない。何処かにその州の選挙人数が書いているはずだが、今は見えない。、、、、フロリダは確か29人。自分が元いたことのある州などのポールもわかります。
この様にしてまだ余り決まってないとされる、Arizona, Florida, Michigan, North Carolina, Ohio, Pennsylvania, Texas, Wisconsin などを入れてみて下さい。
他のサイトは、Latest poll in swing state by (( NBC, NY TIMES, FOX NEWS, ECONOMIST, GUARDIAN, などなど大手のマスコミ名を入れればいくつか出てきます。by Trafalgar を忘れないで下さい。
分からない所があればご質問下さい。 お元気で、土方。Masahisa Hijikata <hijikata@aol.com>
(20201026)
当地は大統領選が近付き、愈々煩くなってきています。でもトランプがコロナに罹患したので、その影響がどう出るかが話題となっています、どうなるにせよトランプ氏が簡単に諦めることはまずないと思います。たとえ選挙でバイデン氏に敗れても、何かとイチャモンを付け法廷闘争に持ち込みあわよくば最高裁での決定などで大統領の座を離さないように策することも考えられ、既にその布石をしてるようにも取れる言動が多く見られます。
このフォトは家の近くの人の前庭に置かれているBLACK LIVES MATTER とする人種差別撤回のスローガンを謳っています。反トランプ、すなわちDemocrats 民主党の宣伝、スローガンです。
今のところ民主党のテーマはこれが多く又コロナに対するトランプ政権の対応の遅さ、間違いを責めています。
トランプ側のスローガンはLaw and Order、法と秩序で各地での暴力的にもなるデモを批判する事、民主党の政策を左傾と恐怖を煽り立てています。実情は民主党でも左傾どころか資本主義もいいところなのですがsocialismと決めつけ多くの国民の社会主義嫌いにつけ込むのが選挙方法のようです。
何にしろ結果は予測するのが非常に難しく、色々な世論調査で一応バイデン有利と出ていますがどうなるのかは全く分かりません。この予想を困難にするのがアメリカの大統領選挙の方法がerector 選挙人制度による間接選挙によるからです。
この方法について私の分かってる範囲で次の文で説明いたしますが、簡単ではないので、ネットで探したアメリカの中高校生辺りを対象にした文を2つか3つ送ります。又、最近毎日新聞電子版で読んだTRUMPの投票で負けた場合のいちゃもんつけて逆転することの策略も出来れば送ります。
兎も角問題を複雑にしてるのはこの州単位で選び出す選挙人による投票で大統領を決めるとする選挙方法のためです。更にその選挙人の州への割り当てが10年毎の人口比で変えられるのですが10年では実状に合わないこともあります。更に州ごとの選挙人は、メイン州とネブラスカ州以外では 勝者総取りですので、極端に言えば仮に10人選挙人が割り当てられてる州で11月3日の一般選挙ーpopular vote と云います—で、51:49の差で共和党が勝ったらその州の選挙人の10人すべては共和党のトランプ側となり、12月16日の選挙人の集まりでトランプ支持として投票する事になります。
詳しく言えばこの12月の選挙人 electorsの集まりで大統領が決まるのです。もちろんこの逆もあり得ます。選挙人の総数は538ですから過半数の270人の選挙人を獲得すれば大統領になれます。でもこの各過程でイチャモンをつければ法廷闘争などで時間切れになり、下院議員の投票で決まることなどもあり得る、などなどTRUMP氏の策のつけ込みどころかとも思います。
選挙人538人は、下院議員数::435と上院ーーsenator 人員数:100、それにWashingtonDC特別区に3人を合計したものです。上院議員数は州の大きさにかかわらず各州に2人ずつ、50州で100人、下院は州の人口の大きさで下院議員の割り当てが決められていてぜんぶで435人なっています。
(20201005)
米国の力は衰えたとは言え世界にあたえる影響は極めて大きく、また大統領には日本の首相などに比べれば大きすぎると言えるほどの、極めて大きな権力がありますので、その選挙過程を理解すれば色々の時事ニュースを楽しめると思い2、3のネットからの引用記事に付け加えわたしの理解してる限りの解説を試みます。一度ではまとめきれる内容ではないので3回、4回に分けてお送り致します。
このマップに付け加えることを以下に書きます。
アメリカ大統領選は間接投票である。11月3日に行われるGeneral election はpopular votesとも言われるが、各州に図のようにわりあてられた選挙人ーーelectors を選ぶ投票である。選挙人の集まりが12月16日に集まりーーー今回は12/16ということで、毎回その近辺ですーーー大統領を最終決定する。
一般選挙前に大統領候補を擁する政党は各州で選挙人をその州に割り当てられたelectorの数だけ決めて公示しておく、ーーーa slate of electors.
だから今回の場合、例えばNY州は共和党も民主党も29人のelector の名前が選挙前に公示されている。両党に限らず候補者を持つ政党は選挙人候補の名前を(出来ればその州に割り当てられている選挙人の数だけ)公示しておく。
実際にそれが可能なのは両党のほかにはliberatanian partyの党ぐらいか? 選挙人候補者は選挙前に大統領候補として誰を支持するか各政党に誓約、pledges しておく。でも過去にはこれに反した例もある。
Elector の数は各州の持つ下院議員数435人と上院議員数各州2人で計100人、それにワシントン特別区に当てられた3人、、、総計で538人である。
だから選挙に勝つためには少なくとも270人の選挙人を取る必要がある。各党は選挙人候補者を事前にその州の政党幹部会の決定か政党員間の投票で決めて公示する。この方法は各州で異なる。
この様にして選ばれた選挙人が12月にトランプかバイデンに投票して本決まりとなる、と言うことです。
この様に過程が複雑で、広いアメリカで全国的になるので、莫大な資金と極めて多くの選挙活動をする人員、党の十分な組織が必要になります。そのため民主党、共和党以外からは事実上大統領が出ないことになります。
実際に今回の選挙でも僅かにリベリタリアンを唱える政党だけが538人の選挙人候補者を登録してるに過ぎない様です。次いで大きな政治組織団体であるGreen Partyでもせいぜい270人の選挙人候補者を出してる程度ですので、米国🇺🇸でこの大統領選挙の制度が続く限り両党以外から大統領は出ないでしょう。、、、革命でもない限り‼️、、、
興味のある方は次の解説をどうぞ:
US election 2020: A really simple guide
https://www.bbc.com/news/election-us-2020-53785985
(20201005)
前書き
11世紀ペルシャの詩人ハイヤームは短い4行の詩に人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを表出しました。
小生はイランの首都テヘランに3年弱、1985 年から1988年迄、駐在していました。そのせいでしょうか、ルパイヤートは何かの折にページを捲る本となっています。
コロナで世界が動揺している最中、詩集の中から(岩波文庫では143篇)以下2篇をご紹介して皆さんのお目汚しにしたいと思います。
第35篇
若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。
第106篇
ないものにも掌(て)の中の風があり、
あるものには崩壊と不足しかない。
ないかと思えば、すべてのものがあり、
あるかと見れば、すべてのものがない。
2020年はコロナの年として人類史上に記憶されることでしょう。(完)
20200824
As coronavirus infections explode in the U.S., hospitals could be forced to make harrowing choices if pushed to the brink. Planning is already underway.
https://www.nytimes.com/2020/03/21/us/coronavirus-medical-rationing.html?smid=em-share
これ読めるかどうか分かりませんが、今朝の電子版NYタイムスに出ていた文です。
要するにこのままコロナがアメリカで進むと医療ケアの容量を超えて、誰を助けようとするのか、誰を見放せねばいけないかの選別を迫られる事になる。誰がどう云う基準でそれを決めるのかが、問われています。もし読めることができれば最後の方だけでも読むと良いと思います。
厚生省の統計、数字が正確なら、やや希望的にもみえますが、厚労省側で政府に忖度して数字を変えたりすると予測には役立たなくなると思います。
また統計の数を上げてくる各都道府県の現場で検査をする者/患者ではないが、対象者をどんな基準で選ぶかなどの基準をしっかりと統一してないかも問題となりましょう。
それから各所から上げてくるデーターを日時ごとに正確に計算されているかも問題でしょう。日毎で大きく上下するのはこの辺りのずさんさで人為的なこともありと思います。
なお棒グラフで有症者の割合が無症者の数に対して少なくなってきている様にもみえますが、もしかしたら検査対象者の基準を緩めたか、実際に症状が出るものが減ってきたのか知りたいところです。
(20200323)
c
上に示したグラフは俗に云われるvox chart と言われる伝染病の疫学によく使われるものだそうです。簡単なもので発端から、日毎、あるいは週ごとの新しい感染者数を折れ線、あるいは棒線グラフで表したものです。(何か株のチャートでもこの言葉が使われるとの話です)この折れ線カーブの形が緩やかで、頂点の高さが低いほど疫学的には成功したと云えて、医療崩壊は起こらず患者の治療にうまく出来るとされます。感染者のピーク数が医療施設などの許容量より低くく、ピークまでに至る日にちが長く・遅くなり医療体制が患者をこなせると言われます。
私の推察では(というか希望的観測では、、、)この2、3日の土曜日までに新感染者がどんと出なければそろそろピークを打ったと考えて良いのでは思っています。欲を言えば更に次の週の数も見たいところです。
日本での患者数の統計を見るには、やはり厚労省の統計を見るのが一番わかりやすいと思います。特に上の図・ 新型コロナウイルス感染症の国内発生動向ー2020年3月19日18時時点ー」と云う統計の週別の新患者数の増減を見てください。
日毎のものは凸凹が多く、振幅も大きすぎて傾向が良くわかりません。或いは日により2日分をまとめたり、新しい方針で検査の対象者をふやしたり、検査方法を変えたりしたのかもしれません。週別では頂点をついた様にもおもえます。(3月19日までの統計)でもできれば3月26日の統計を見てみたいです。
Vox グラフの説明:発生時から日毎、または週ごとの新しく感染した人数をグラフにしたもの。赤色は防疫的手段をしない場合。黒色は防疫的手段、指導をした場合。コロナの場合は手を洗え、マスクつけろ、自己的隔離、social distance を保て、などの指導。指導するとカーブの頂点が低くなり、また頂点のくるのが遅くなる。この様にして医療システムで扱える患者数にその時点時点では抑えられる。要するに、短期間にドーンと患者が増え病院などで扱えなくなるのを防ぐ。Health care system のキャパシチー以内に患者数を抑える様にする。イタリアなどはこれに失敗して80才以上はICUには行くことが出来ないとされた。我々は皆イタリアでならのたれ死にです。姥捨山の現代イタリア版。
日足で見ると凸凹がありすぎ傾向が良くわからないが、
週足では一応1、2週前に頂点を打った様に見える。今日19日のとうけいでも発生数はどんと大きくはなっていないので、一安心。もう1週間見てみたい。そうすれば一応の予測の精度が出ると思う。
(20200321)
高齢者が健康を保つには毎日歩くなどの運動を続けることが必要とされています。このほかに私は、中医(中国伝統医学)による艾灸(もぐさを固めた棒灸で温める温灸)の効果を実感するようになったので、それをお伝えしようと思います
I. 歩くこと
若いうち私は、自分の健康に注意を払うことはありませんでした。幸い、それなりに健康だったのでしょう。でも後期高齢者といわれる歳になると、毎日身体を動かしていないと身体が衰えることを実感しました。若いうちは運動もせずゴロゴロしていても(実際そうだったのですが)筋肉は衰えることなく保たれていたのが、高齢者になると、発電所のダムで夜中の余剰電力で揚水をしておかないと翌日の発電に使う水が足りなくなって発電できないのと同じ感じで、目に見えて筋肉が落ちるのです。
中国から帰国したとき、何しろ、一人暮らしでは寂しいですから、以前妻の貞子とリタイアしたら盲導犬パピーを飼おうと話していたのを実行しようとしました。前にも犬と暮らしていたのですが、飼い犬に死なれたときの辛さにその後飼うのを控えていました。でも、ゴールデンレトリーバーの3ヶ月の子犬を1歳になるまで育ててあとは盲導犬にしつける協会に渡すなら、別れるにしても耐えられるでしょう。それで、老後はパピーを育てて暮らそうねと言っていたのでした。しかし、その協会に連絡したら「家族一人ではパピーの飼育はお願いできません。家族の愛情が伝わりません」と冷たく断られました。
中型犬の寿命は十数年ありますから、後期高齢者が子犬から犬を飼い始めるのは問題です。それで犬を飼えずに一人暮らしを強いられて嘆いている私を見かねて、別のところに住んでいる長男が「じゃあ、いざというときは犬を引き取るから、子犬から飼い始めていいよ」と言ってくれました。でも智慧の回る息子は、「どこかに旅行するからと言っても預からないからね」とちゃんと釘を差したので、その後犬と暮らし始めた私はどこにも出かけられません。
「孝行息子」のおかげで、2015年のはじめからゾフィと名付けたボーダーコリーと暮らしています。毎日とはいきませんけれどゾフィと5〜6Km は歩くので、高齢者が健康を保つにはまず歩くこと、ということを満たしています。実際、かなりの速度で歩くことのできる高齢者の健康度は有意の差で高いことが知られています。
そのお蔭で、私はこの年にしては一見元気ですけれど、それは見かけだけです。あちこちに具合の悪い所があります。私は77歳になるまで中国の瀋陽薬科大学で足掛け15年働いて、研究室から多くの学生を送り出しました。そのうちの十数人は今も日本で仕事をしています。その中のひとりは中国古来の伝統医学(東洋医学とも、漢方とも呼んでいる分野です)に詳しく、それを私に試してくれています。その効果を、皆さまにお伝えしたいと思ってこのように書き始めています。
II. 艾灸
日本では棒灸と言われています。鍼灸の灸のことです。もぐさ(艾)っていうのがありますね。よもぎの葉の裏に生えている白い部分を乾燥させて固めたもので、この艾を直接皮膚に乗せて火をつけるとお灸です。むかしは老人で背中にお灸のあとのある人が沢山いました。このもぐさを棒状に固めたもの(通常、直径18mm、長さ200mm)を中国語では艾条(アイティヤオ)と呼んでいて、日本では棒灸と呼んでいるみたいです。これに火をつけて手で持って皮膚から離して、いわゆるツボとして知られているところを温めます。もちろん何の跡も残りません。 中国伝統医学ではこのツボは100を超えて知られているそうですが、私が実感できるのは押すと痛いので分かる手の二箇所と脚の三里くらいです。このツボというのは解剖しても神経が集まっているわけでも、血管あるいはリンパ節があるわけでもないそうですが、筋肉が凝ったときに押すと効くことは実感して、その存在を感じます。
1) この数年、夜中に寝ている最中に足の筋肉が攣ることがあり、それは我慢出来ないほどの激痛でした。壁を背にしてともかく立って足の筋肉を伸ばせという人もいますが、ものすごい痛さです。やがて、ともかく痛い脚でバスルームに行って寝ぼけたまま熱いシャワーを脚に20分位浴びせて直していました。家庭医に訴えると、「足が攣りそうなときは芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)を飲め」と言って処方してくれましたが、その効き目は全くありませんでした。中国伝統医学に詳しい卒業生の指導に従ってお腹にあるというツボを艾灸で温めた結果、夜中に足の筋肉が攣る激痛の起こることがなくなりました。もう半年以上筋肉の収斂で悩まされたことはありません。これはお腹にあるツボを艾灸で温めた脚の血行を促したのだそうです。
2) 高齢者になってからは前立腺肥大と診断されていますが、尿が出にくくなり、もう4年位医者から薬を処方してもらっています。それもだんだん強いものになっていて、毎日その薬を飲まないとトイレで苦労する状態でした。最近になって、その処置として下腹部のツボを温めるようになりました。その艾灸を始めて1週間経ったとき尿道の腫れを抑える薬を飲むのをやめましたが、排尿に支障がありませんでした。今は薬を飲んでいません。つまり艾灸をすることで、薬を飲まなくても排尿に苦労しないようになりました。これを始めてまだ4週間で、いまはまだ毎日温めていますが、中国伝統医学の教科書によると、これを続けると前立腺肥大による障害は治るそうです。
3) 緑内障の進行を止める効果があるかもしれません。中国から帰国して視力が落ちたことを感じて、近所の眼医者に行きました。眼圧の高くない緑内障と診断されてもらった薬は気休めでしかなく、その後だんだん悪くなってきて目薬もつけるのをやめてしまいましたが、艾灸をお腹に当て始めてからは眼も同じようにこの艾灸で温めています。眼を温めると気持ちが良いのです。
生命科学を勉強した身からすると、眼圧が高くないのに神経細胞が死ぬのは、何らかの理由で血行が悪くなって神経細胞の生存に必須のNeurotropic factorsが行き渡らずに細胞が死ぬのだろう、温めることで血行が良くなって、網膜の神経細胞へのNeurotropic factorsの供給が良くなり、神経細胞が死ににくくなるに違いない、と考えます。艾灸で温め始める前までは視力がどんどん落ちてきましたが、始めてからはその視力の低下が止まったように思っています。今から半年後に自動車運転免許の更新があるのですが、そこで無事に合格すれば確かな効果となります。2年半前の前回の検査では視力が合格ラインの0.7に落ちていましたので、この次は危ないはずです。
4) この一年くらい手の指を動かすと指の関節が固く強張ってきていることを感じますし、関節を指で揉むと痛むことを感じていました。この指の関節を艾灸で温めると、痛みが取れるのではないかと考えて実行したところ、驚くことに痛みが取れたのです。でも今は2〜3日してまた暖めないといけませんが、続けてやることでこの先が楽しみとなりました。
III. 中医(中国伝統医学)のエッセンス
この艾灸は中国の伝統医学に基づいています。中国の伝統医学の源はすべて『黄帝内経』にあります。「黄帝」は中国の伝説上の皇帝ですが、この本は秦・前漢の時代(紀元前202~後8年)の作とされています。それでもずいぶん長い歴史があります。人間の観察に基づいて作られた医学理論なので、今の生命科学とは相容れない部分も多く、西洋医学の信者は中医(中国伝統医学)をただの迷信と切り捨ててきました。
私は科学者の端くれなので、科学的に実証されたものしか信じない人間です。ですから人の身体には「血」が流れているだけでなく、「気」が流れているのだ、「気」は目に見えないが人の生命力のすべてみたいなもので、身体には「気」の通り道「経絡」があり、その通り道にある「経穴(ツボ)」を刺激することで「気の流れ」を整えると健康でいられると聞くと、そんな通り道があるのだろうか、全然確認されていないじゃないか、だから信じるに足りないと思っていました。
中国の瀋陽で仕事をしているとき身体が疲れたり、凝ったりして、按摩を受けるのがいいだろうと考えて大学の近くの盲人按摩に出かけるようになりました。1〜2時間くらい背中や手足をマッサージしてもらうと気持ちよくなり、身体に「元気」が戻ってきた気になります。やがて、手指で押されて気持ちよくなる場所はいわゆるツボとして知られて記載されているものであることがわかりました。
つまり、私は身体にはツボがあることをだんだん感じてきたのです。そして今は II. に書いたように、そのツボを温めることで具合の悪い箇所が治ることを体験しています。そしてその間にわかったのは、中国伝統医学では、身体のバランスを保つことを最も重視していること、このバランスを保つことで病気を未然に防ぎ、健康でいられる方法を示していることでした。つまり、人は自分の身体のDaily maintenance を続けることで健康を保つことが大事であることを教えています。ちなみに、「未病」という言葉は、いま日本でも流行り始めましたが、この二千年以上前の「黄帝内経」の中で使われているということです。
IV. なぜ勧めるのか
自分が実感しているだけで科学的に実証されていないものを、なぜ信じるのか、どうして人にも勧めるのかについて私の考えを書いておきましょう。
どなたもアスピリンをご存知でしょうし、お世話になったことがあるでしょう。あの鎮痛、解熱剤で、主成分はアセチルサリチル酸で、19世紀の終わりドイツのバイエル社が初めて工業的な化学合成に成功して解熱鎮痛剤として売り出し、その後世界中で用いられてきました。もちろん今でも用いられています。
もとはローマ時代にまでさかのぼりますが、柳の樹皮を噛むと鎮静作用があることがすでに知られていました。アメリカの先住者(アメリカンインディアンと呼ばれていた)も鎮痛のために柳の皮を噛んでいたそうです。その後18世紀になって、イギリスの神父E .ストーンは、ヤナギの樹皮の抽出エキスが、悪寒、発熱、腫脹などに強い効果があることを発見しましたが、主成分はサリチル酸で薬として用いるには作用が強く、バイエル社のホフマンがサリチル酸をアセチル化して薬にするまで待たなくてはなりませんでした。
アスピリンは世界中で家庭常備薬として大人気となりましたが、それでもその薬効がわかったのは、アスピリンという薬ができてから70年以上も経ってからのことです。アスピリンは薬効の原理がわからぬまま、この薬が頭痛に効くからという理由で世界中の人々によって使われてきたのです(なお血小板凝集活性のあるトロンボキサンチンA2の前駆体となるプロスタグランジンをアラキドン酸から作るシクロオキシゲナーゼを阻害するから鎮静作用を惹き起こすことが見つかったのは、私の記憶では1980年頃です)。
私の言いたいことは、もうおわかりでしょう。今はまだ実証されていない「気」、「経絡(気の通り道)」、「経穴(ツボ)」ですが、中国伝統医学を軽んじてきた科学者が本気になって研究を始めれば、何時かは科学的にその存在が示されるのはないかということです。今は科学的な実証がないけれど、現にあるその効果を信じる人、あるいはそれを信じたい人は、自分のリスクで試せばいいじゃないか、それを止める権利は誰にもないと思うので、私の体験を知っていただきたくここに書いてみました。どなたにも元気で暮らしていてほしいのです。
(20190716)